I CAN LIVE WITHOUT YOU

by さゆり

    遠く、教会の新年を祝う鐘の音が響く。それに耳を傾けながら二人はそれぞれの身辺に
      ついて、ぽつりぽつりと話し出した。もちろん共通項は殆どない。特に健にとってジョー
      の五年間は全く知らない事や全く知らない人達の話ばかりだ。だがそれで良かった。
       五年、空白の五年、それぞれがどうしていたのかを、金色のシャンパンの泡がフルート
      グラスをゆっくりと上っていくように、ゆっくりと断片的に語り合う。要は話の内容では
      なく、こうしてあいつの声を聞き、それに相槌を打ち、笑えれば良かった。何故なら、二
      人は互いにもうこうして身近に声を聞き、もう共に笑う事は二度とあるまいと、永遠の別
      れを告げて生きてきたのだから。

      「それで・・・。」
      「うん?」
       突然、会話が途切れた。気がつくと教会の鐘の音もとっくに絶え、ただシンとした夜の
      静寂が耳に痛いばかりだった。木々の葉を鳴らす風さえない。寛いで話せるようにと、そ
      の前に座り込んだ古い石組みの暖炉から、時折、火が爆ぜる音が小さく聞こえる以外は、
      何だかやけに互いの息づかいと自分の鼓動が耳につく。
      「穏やかな良い新年になったな。」
       優しい笑みを浮かべて健がそう呟いた。
      「ああ。そうだ、星を見るか?ここからは星がよく見えるぜ。」
       そう言い出したジョーは、だが立ち上がろうとしなかった。
      「いいな、きっと綺麗だろうな。」 
       と、答えた健も、しかしそうする為に立ち上がろうとも外へ出ようともしなかった。
       ジョーに星を見る習慣があったのか?そもそも俺達は一緒に星を眺めた事があったのだ
      ろうか?と、ふと考える。何でもいいからこのまま何かを話していたかった。何かを考え
      ていたかった。たぶんジョーもそう思い、だからそんな事を言い出したのだろう。だが、
      もう話す事はない。いや、互いに共通の時間を生きたあの頃の話はいくらでもある。だが
      それは話したくない。そして、たぶんこれからについても話す事はまだまだあるはずであ
      る。だがそれも今は話したくない。だからもう話す事はなかった。しかし、黙ってしまう
      とすぐ隣にいるあいつの体温に抗し切れなくなる気がした。芳しい、優しい炎が燃える目
      の前の暖炉よりも、傍らのあいつの温もりが欲しいのは何故なのか?
       頬が熱いのはシャンパンのせいか、暖炉の前にいるせいか?
      「それで・・・。」 
       健が抱えた自分の片膝を見つめたまま、さっきと同じ言葉を繰り返す。ジョーは返事を
      しなかった。その代わりに、やはり片手に持ったままだったグラスをそっと床に置くと、
      黙ってじっと健の横顔を見つめた。健は目を上げない。夜の色をした長い睫毛が昼の空の
      色をした瞳を半ば隠し、頬に影を落としている。と、パチッと微かな音と共に薪が爆ぜ、
      小さく上がった炎に健が目を上げた。明るい火を映した瞳はどこまでも青いここの空の
      色。そしてジョーにとってそれはやはり今でも帰るべきところだった。
       黙ったまま、そっと唇を寄せると、うつむいたままの健の唇が硬く引き締まった。俺は
      本当にこの唇にくちづけた事があるのだろうか?と、ジョーは一瞬躊躇い、しかしそれで
      も決して忘れる事のなかったその柔らかい唇に触れる。震えているのは自分の唇なのか、
      あいつの唇なのか?二人はうつむいたまま、目を閉じて、ただ静かに唇を触れ合わせた。
       そしてそこから伝わる相手の温もりと思い出にしばし身を委ね、ただ唇を重ね続ける。
       だが、ジョーが肩を抱こうと手を伸ばした瞬間、健の唇が離れた。
      「ちょっと待てよ、ジョー・・・」
       ふいに身体を引いてそう言った健の腕をジョーは反射的に掴んでいた。その腕を引き寄
      せて、 
      「待てねえよ。思い出させたのはおまえだぜ、健。」
       と、答える。ちょっと怒ったように眉を寄せ、健は目を上げて真っ直ぐにジョーのブ
      ルーグレイの瞳を見つめた。さっき掴んだ時とは違い、健の腕には無言の抵抗が込められ
      ている。 
      「それは思い出だ。ジョー、俺達はもうあの頃の俺達じゃない。」
      「いや・・・。」
       暖炉の火影にいつもより赤く見えるチョコレート色の髪を指で梳き、今度は熱っぽく柔
      らかい唇を貪る。腕を放しても健はもう身を引かなかった。だが、くちづけに応える事も
      ない。しかし、ジョーは構わずに自分の指が、手が、唇が、舌が記憶していた通りに熱っ
      ぽく愛し続けた。
      「健、おまえはおまえで、俺は俺だ。何も変わっちゃいねえさ。」
      「しかし・・・。」 
      「それに俺は変わらんと、さっき自分でそう言ったじゃないか?」
      「確かにそう言ったさ。だがおまえは違う。ジョー、おまえと俺はもう住む世界が違う。
      俺はおまえにもう二度と辛い思いをして欲しくない。俺はおまえがここで無事に・・・」
       健の言葉を遮るように、ジョーの手が口を塞いだ。
      「もう黙ってくれ。」
       以前と少しも変わらぬ繊細な長い指が、唇の円やかな輪郭をたどっていく。
      「健、俺にとっておまえを抱けない以上の辛い事なんかねえよ。」
       そう囁く声を聞きながら、健は唇に置かれたジョーの指にそっとくちづけ、
      「そう思うなら抱けばいいさ。」 
       そう少し虚ろな声で言う。そしてジョーの手を払い除けると、両腕をその首に回してき
      つく抱きしめた。顔を埋め、頬ずりしたダークブロンドは確かにジョーのものだ。だが、
      一回り逞しくなった身体は自分が知っているジョーのものではない。かつて空を飛び、戦
      うためにあった肉体は、地に生きて守るためのものになったのだ、と、それが無性に嬉し
      く、そして哀しかった。世界を異にした事実を腕に実感し、健はやはり戸惑いを隠せな
      かった。指が陽に晒されて少し褪せたダークブロンドをまさぐる。いつかしたように額を
      つけて目を閉じると、再び熱いくちづけが来た。それに応えて息苦しくなるほど顎を動か
      し、舌を絡める。くちづけは変わらないのに、背を抱いたあいつの腕はやはり以前よりも
      逞しい。再び生じた戸惑いに眉をひそめた時、ジョーが言った。
      「健、やっぱりおまえは少しも変わっちゃいねえ。」
       そうさ、俺は変わりようがないんだ。だが、変わりもしたぜ・・・と、健は思ったが、
      何も言わなかった。ただ、
      「つまらん事まで思い出しやがって・・・。」
       と、だけ言い、ちょっと乱暴にジョーの白いコットンシャツのボタンを外して剥ぎ取る
      ように腕を抜いた。ダビデ像のようなその美しい上半身に視線を走らせ、健は少しだけ微
      笑んだ。反対にジョーの指は優しく淡いブルーのシャツのボタンを外して行く。こうした
      作業をする時のこいつの下を向いた鳶色の睫毛を見るのが好きだったな、と健は思い出し
      ていた。あまり見る機会がなかったのは、何故かいつもせっかちだったからだ。あの頃は
      とにかく、いつ喚き出すか分からない手枷が気になって仕方がなかったんだ。
       ジョーの唇が首筋に触れると、我知らず身体が硬くなる。そしてシャツが肩から落ちた
      時、健は一瞬だが固く目蓋を閉じた。自分の目を閉じても仕方がないのに、そうと分かっ
      ていても閉じずにはいられなかった。 
       ジョーは気づく。そしてジョーは知っているだろう。
       そうしたらジョーは訊くに違いない。 
       ダンガリーシャツに遮断されていた素肌に暖炉の火が意外なほど熱い。そしてジョーの
      唇も。熱いくちづけがゆっくりと鎖骨の少し下まで降り、そして予測通りにそこで凍りつ
      き、唐突に顔を上げたジョーの目はやはり驚きの色を湛えていた。
      「これは?」 
       確かめるように、今、唇が触れた部分をその目で見、ジョーはもう一度訊ねた。
      「健、これはどうしたんだ?」 
      「何でもない・・・。」 
       そう答えて、健はジョーの身体を再び抱きしめた。

       あの日、健はあるテログループの標的となった要人をセーフゾーンまで護衛し、テロ活
      動を回避する任務を帯びて北の都市へ赴いていた。他のメンバーが普通の生活に戻って
      も、健は変わらずスペシャル・タスク・オペレーションに参加し続け、滅多にその必要は
      なかったが依然、白い影であり続けた。選択は自由だったし、南部の要請ーむしろ反対さ
      れたーでもなかったが、健は躊躇する事なく変わらぬ生き方を選んでいた。そして、潜入
      した所で思わぬ人物に再会した。 
      「久しぶりだな、兄さん。」 
       洒落たスーツを粋に着こなし、細巻きの煙草をくわえたまま、ビトーはそう言って健に
      微笑んだ。
      「ドン・ビトー!あんただったのか?狙われてるって人物は。」
      「ああ。物騒でいけねえぜ、最近は。お陰で島にもおちおち帰れやしねえ。」
       かつて、ギャラクターから離れ、マフィアとして生きる道を選んだ男、ドン・ビトー。
      彼はギャラクターに、そしてISOに、また各国の情報部に通じる唯一のラインとしての
      立場と情報網を利用しー無論、ISOや各国情報部に恩恵をもたらす事もあるのだから、
      お互い様といったところか?−わずか数年の内にBC島や旧大陸のみならず、新大陸をも
      含めた世界的なドンにのし上がったらしい。なるほどこいつは大きな標的に違いない。
      「そんな事よりここから出ないと。間もなく、奴らがやって来るぞ。」
       追いつめられている筈の男は相変わらず落ち着き払い、優雅とさえ思える物腰で寛いで
      いる。慌てる事はねえよと、ビトーが笑った。健はその笑い方にぴんと来た。
      「そうか。全てガセだったって訳だな?」
      「さすがだな、兄さん・・・俺はあんたに会いたかったのさ。だが、生憎と兄さんちの住
      所も電話番号も知らないんでね、ちょいとひっかけさせて貰ったって訳さ。やっぱり来て
      くれたなあ、兄さん。」
      「何故、俺に?」 
       健には理由が分からなかった。が、ビトーの口元から笑いが消え、突き刺すような声が
      言った。
      「バンビーノの事だよ、兄さん。」 
       バンビーノ?ああ、こいつはジョーについて何か知っているのかも知れない。
       ビトーの支配する世界にまで俺達の調査は及んでいなかったのではないか?ならばもし
      かしたら・・・。
      「あんた、ジョーについて何か知っているのか?」
      「ああ、知っている。あの時、兄さんが瀕死のバンビーノをヒマラヤの山ん中に、ほっぽ
      り出して来ちまったって事もな。兄弟同然のバンビーノをよ!」
       どきっ、と心臓が鳴った。ビトーの冷たい視線をじっと見つめ返す健の表情は変わらな
      い。だが、瞳に浮かんだ苦渋の色は隠しようがなかった。ついっと先に視線を外したのは
      ビトーの方だった。
      「兄さんの立場は分かるし、どんな任務だったかも知っている。だがな、俺はマフィア
      だ。このままじゃ大恩あるドン・ジュゼッペに申し訳けが立たねえ。だから兄さん、すま
      ねえが落とし前は着けさせてもらうぜ。俺達の流儀でな。」
       その言葉が終わるや否や、それまで大人しく壁際に控えていた数人のスーツ姿の男達が
      健に殺到した。だが、彼らの指は一本も健に触れる事は出来ず、ふわりと宙に浮いたその
      身体は音も無く床に戻った。
      「捕まえなくても、逃げやしないぜ。」
       ビトーが言うマフィアの流儀は知っている。流された血はそれを流させた者の血でしか
      償えない。ジョーに血を流させたのはやはり俺なのだ。ならば、と健は覚悟を決め、落ち
      着いた声でそう言った。ビトーがふんと笑う。
      「翼が無くても身が軽いんだな、兄さんは。」
       言葉が終わらぬうちに何かが頬をかすめたが、健は瞬き一つせずにそこに立っていた。
      生暖かいものがツウーっと頬を流れる。動こうとする男達をビトーが手で制した。
      「ダガーを投げるのが上手いんだな、親分は。だが何故、外した?俺は逃げんと言ったは
      ずだぜ。」
      「相変わらずの度胸じゃねえか。兄さんこそ何故避けなかった?狙いは心臓じゃねえって
      分かったのかい?だがこれで兄さんに逃げる気がないって事が確かめられたぜ。」
       ビトーは自分の襟元から上等な絹のタイを引き抜きながら、重厚な木のドアを開けて隣
      の部屋へ入り、そこから健を呼んだ。立派な天蓋付きのベッドが置かれた寝室と思しき部
      屋に、健はちょっと面喰らった。撃ち殺されるか、刺し殺されるかするにはおおよそ不似
      合いな部屋ではないか?ここへ、とビトーが差し招く通りにベッドの傍らに立つ。豪奢な
      絹の寝具を見、果たして絹は洗濯出来るのかな?と、そんな事が気になる。そして、死ぬ
      時には案外つまらない事を考えるものなんだな、と健は少し微笑んで言った。
      「立派なベッドが血で汚れるぞ。」
      「なに、気にする事はねえさ。さ、上着を脱いで両手を出しなよ、兄さん。」
       素直にそうした両手首を柔らくて細いタイで丁寧に縛り合わせたビトーは健をベッドに
      転がし、その端を天蓋を支える見事な彫刻を施した柱に括りつけた。研ぎ澄まされたダ
      ガーがシャツのボタンを一つづつ飛ばして行く。露になった胸に冷たい唇を押し当てられ
      ても、健はじっと動かなかった。しかし、何人もの男達が入って来たのは気に食わない。
      思わず皮肉が口を吐いて出た。
      「フン!輪姦してから殺すのが、あんたらの流儀かい?だが、縛らなくても俺は逃げやし
      ないぜ。」
      「そうだな、兄さんは逃げやしねえさ。」
       ビトーが笑った。そうさ、兄さんは100の銃口を前にしても、怯む事なく笑える男だ
      ものな。
      「さあ、そいつを刺せよ。あんたがキスしたところへな!それで終わりだ。」
      「いや、ちょっと違うな、兄さん。」
       左の胸の鎖骨の下辺りに鋭い痛みを感じて、健はうっと息を飲んだ。
       冷たい刃が素晴らしい速度で皮膚と肉を十文字に切り裂く。思わず眉を寄せ、全身が硬
      直したが耐え切れぬ苦痛ではない。他の者はどうか知らないが、少なくとも健はビトーを
      睨んでいられた。一人の男が清潔な布ですぐに傷口を強く圧迫したので、たぶん出血は十
      分程度で止まるだろう。何故だ?と問う健の眼差しにビトーが片頬を歪めた。
      「さすがに我慢強いな、兄さん。しかし今度はもうちっと痛いぜ。だがなバンビーノは
      もっと痛かったはずだ、辛かったはずだ!」
       何故ジョーの事を知っているんだ?と、訊こうとした口に無理矢理丸めた布切れを突っ
      込まれた。
      「俺は悲鳴が嫌いでね。それに舌を噛んじまったらバンビーノが哀しむからな。」
       哀しむって、じゃあジョーは生きているのか?頼む、それだけ教えてくれ!それを聞か
      ないうちは死ぬ訳にはいかない!と、振り解こうともがいた身体を別の男が、がっちりと
      押さえつけた。ビトーが何か変わった形のスプーンのような物を持っている。胸から布が
      取り除かれ、 
      「なるべく動かないでくれよな、兄さん。」
       と、言うビトーの低い声が聞こえた。それから何も分からなくなった。確かに布がな
      かったら、もしかしたら舌を噛み切っていたかも知れない。いや、そう出来たらどんなに
      ましか、と健は思っただろう。

       胸が痛んだ。傷が痛いのか、心が痛いのかよく分からないが、と、同時にその痛みを軽
      減する優しい感触を知覚し、健は目蓋を上げた。だが自分の横にいるのはあいつだった。
      「痛かっただろう?だがよく我慢したな、兄さん。」
       もう周囲に男達の姿はなかった。ビト−の冷たい唇がそっとくちづける。ぞっとして払
      い除けようとしたが、両手はまだ柱に括られたままだった。すぐ目の前にあるビトーの顔
      をキッと睨んで、
      「ジョーはどこにいる?」
       と、問う。最前とは打って変わった優しい声でビトーが言った。
      「あんたの目はやっぱり綺麗だな。」
      「そんな事はどうでもいい!俺に触るな!」
       激しく身を捩る健をしっかりと抱いて、ビトーが笑った。
      「もう少し冷やした方がいいぜ、兄さん。」
       燃えるような傷に当てられた氷のうは心地よかったが、そんな物の為にこうしているの
      はまっぴらだった。それよりもジョーの事が知りたい。
      「ジョーは無事なのか?」
       それには答えず、ビトーの指がベルトを外して腰に回った。
      「じっとしてるのも退屈だろう?この氷が溶けるまで可愛がってやるぜ。」
      「誰が貴様なんかに姦られるもんか!・・・放せっ!」
       両手は拘束されたままだが、脚は自由だ。三十秒あればこいつの息の根は止められる。
      しかし、そうしたらジョーへの接点が、と逡巡する健の心を見透かしたようにビトーが
      言った。
      「バンビーノの居所が知りたけりゃ大人しくするんだな、兄さん。」
       その目をじっと睨んだまま、健はもう一度訊いた。
      「ジョーは無事なんだな?」
      「ああ、元気だ。」
       こいつは嘘はつかない。だから健はもう抵抗しなかった。
       氷のうを押さえていた指が背を抱くと、その冷たさに思わず身体が跳ねる。口の端で笑
      いながらビトーが上着を脱ぎ、着衣を弛めた。じっと天蓋から垂れた優雅なレースを見上
      げ、健は自分ともうひとりが立てる衣擦れの音を聞くとはなしに聞いている。つい今し
      方、冷酷な仕打ちをした男とは思えぬほどビトーの愛撫は優しく、そして執拗だった。
      「あ・・・。」 
       ただ過ぎ去ればいいと思っているのに、口をついて微かな声が漏れ、息が弾んでしま
      う。何て事だ、と羞恥心に頬が熱くなった。そんな顔を見られるのが嫌で可能な限り横を
      向き、引き上げられた腕に隠そうとしたが顎を掴んで正面を向かされた。真直ぐに見下ろ
      す男をせめて睨んでいたかったが目蓋が下りてしまう。
       悔しくて、だが身体が熱くて、それに抗おうと眉を寄せ必死に耐えた。
      「もうそろそろいいだろう?なあ、兄さん・・・。」
       そう言ってビトーが胸の氷のうを退けると、その下にあった溶け出した水が身体を伝っ
      て流れ落ちた。あっと声を上げた健の首筋に今度は温かいビトーの唇が触れると、意思に
      反して背と顎がしなやかに反って行った。そして健の指は縛られたまま、彫刻のある柱を
      きつく握りしめていた。

       荒い呼吸に胸が大きく上下するたび、そこに穿たれた十字が痛む。だが、健が顔をしか
      めているのは痛みのせいばかりではなかった。乱れた髪が汗で額にへばりついているのも
      嫌だし、それを退けるための手が自由にならないのも嫌だ。一番、嫌なのはそうなった原
      因であり、その過程をじっと見下ろしていたビトーの濃褐色の瞳だった。
       そいつが指に煙草を挟んだまま、頬を撫でて笑った。
      「いい顔はバンビーノにしか見せられないって訳かい、兄さん?」
      「もう触るなっ!さあ、こいつを解いて、ジョーの居所を教えてもらおうか?」
       チッチッと舌を鳴らし、紫煙を燻らせた指を横に振ってビトーがまた笑う。
      「解いちまったら俺の命が危なくなる。兄さんは怖いからな。一遍、姦ったくらいで大人
      しくなるとは思ってねえよ。だけど、あんたがイク時の顔は堪らねえな、兄さん。」
       屈辱感にうつむいて唇を噛んだが、悔しくて涙が滲んだ。ビトーの指がそっと濡れた睫
      毛を拭う。
      「煙草が目に染みる・・・手を離せよ。」
      「そうかい?」 
       と、きれいに磨かれた爪が光る指で、チョコレート色の髪を掻き上げながらそう言った
      ビトーの口調は、とても穏やかだった。あのな兄さん、その傷がもう少し固まるまでは動
      いちゃいけねえんだよ。だがそう言ったところで、兄さんは大人しくしてやいないだろ
      う?まったくタフで気の強い男だぜ、こんなに可愛い面をしていやがるのに、とビトーは
      じっと健を見ていた。その沈黙に焦れた健がまた訊ねる。
      「ジョーはどこにいる?」
       ビトーは突然、真剣な声で、 
      「バンビーノはずっと兄さんの名を呼んでたぜ。」
       と、言った。髪が音を立てるほどの激しさで顔を上げた健の青い瞳が苛立ちに大きく
      なった。 
      「だから、何故?どこで?ジョーはどこでどうしてるんだ?」
      「俺の事は思い出さんようだが、兄さんの事は忘れられんらしい。だが今も憶えているか
      どうかは分からねえ。兄さんを呼んでたのは、まだバンビーノが病院にいた時の話しだか
      らな。」 
      「記憶がないのか?卑怯だぞ、俺は取り引きに応じた。次はあんたの番だぜ!」
       手首の拘束も忘れ、無理矢理身体を起こそうとする健の肩を抑えて、ビトーが宥めた。
      「暴れるなよ、兄さん。バンビーノは元気だから安心しな。あんたは・・・。」
       言いながら、胸の傷にそっと唇を当てて言葉を続けた。
       それは敬虔なクリスチャンがロザリオにくちづけ、祈る様に似ていた。
      「あんたはオメルタを守れる男だ。・・・だから、バンビーノを頼むぜ、兄さん。」


       暖炉の薪が尽きたのか、我に返るとさっきよりも薄暗かった。その方がいい、と健は
      思った。微かな燠火でさえ熱く感じるほど汗をかいていたし、自分の上にいるジョーの身
      体もまだ十分に熱い。それにこういう時に顔を見られるのは好まない。顔にかかる髪を掻
      き上げると、身体を起こしたジョーが黙ったまま唇を重ねてきた。いつも愛し合った後
      に、こうして触れるジョーの優しいくちづけがたまらなく好きだった。いや、もしかした
      ら行為そのものじゃなくて、このキスが欲しくておまえとベッドを共にしてきたのかも知
      れない。
       誰を抱いても、誰に抱かれても、これ以上のものが得られた事はない。しかし・・・。
      「これで気が済んだか?」
       と、健は冷たい声で訊ね、返事を待たずに起き上がるとコットンパンツに足を突っ込
      み、シャツを羽織った。そして、
      「こいつはうまいシャンパンだったな。」 
       そんな事を言いながら、ボトルやグラスをキッチンに運ぶ。そこから振り返ると、ジー
      ンズだけを穿いたジョーが暖炉の面倒を見ていた。慣れた手つきでトンクを扱うジョーに
      我知らず笑みがこぼれる。以前のジョーならきっと俺を問い詰めた事だろう。しかし今、
      ジョーは何も言わない。ここにはジョーの日常があり、生活がある。そして俺には俺のそ
      れがあるのだ、と健は自分に言い聞かせていた。

      五年前、ジョーは強か酔ってひどく乱暴に健を抱いた。ジョーらしくない振る舞いと、
      肋がすっかり浮くほど痩せた身体に驚き、どうしたんだ?と、健はそればかりを繰り返し
      た。訊いたところで答える術もない瀬戸際に独りで立っていたジョーは、それでも払暁の
      薄明かりの中、健に優しくくちづけた。そして何かを振り切るようにきっぱりと言った
      ジョーの言葉を、健はずっと忘れる事が出来なかった。
      (俺はおまえなしでも生きて行ける。) 
       まったくその通りだ。俺もそう思うぜ、と、健はひとり頷いた。心が引き裂かれそうに
      辛くても、人は置かれた境遇にやがて順応出来るのだと、今までにも繰り返し、そして、
      否応なく学習させられて来たじゃないか。おまえの無事を確認出来た以上、望むものは何
      も無い。だから俺もおまえなしで生きて行くさ。昨日までの5年間を思えば何でもない。
      そして、ジョーは元気でした、と博士に報告し、ジョーはもう大丈夫だ、とビトーに連絡
      をすればそれで終わりだ。すっかり逞しくなった身体同様、ジョーは守るものを得て本当
      に強くなった。俺が居ても居なくても、もうジョーの人生に影響はないのだ。

      「ジョー、シャワーを使わせてくれよ。眠くなっちまった。」
       おかしな声が出ないようにと注意しながら、そう言った言葉はかなり上出来だった。眉
      を寄せて考え事をしているような表情のまま、そんな健を振り仰いだジョーも、
      「ああ、こっちだ。おまえのベッドを作らなくちゃ・・・。」
       と、静かな口調で答えてくれた。陽の匂いが染み込んだ大きなバスタオルを差し出し、
      最初は湯の温度が高いから気をつけてくれと、まるで来客をもてなす態度で案内する
      ジョーは、だがまだ眉を寄せている。壁に寄り掛かって親指の爪を噛んだまま、バスルー
      ムから出て行こうとしないジョーを、健は無視する事にした。目を閉じて勢いよく降り注
      ぐ熱いシャワーを頭から浴び、
      「本当に少し熱いな。でもいい気持ちだぜ。」
       と、まだそこにいるはずのジョーに声をかけたが返事がない。ベッドの用意をしに行っ
      たか、と、一人になれた事に少しホッとした肩を突然、掴まれた。驚いて瞬きを繰り返す
      青い瞳を真直ぐ見つめたまま、ジョーは黙って健を抱きしめた。シャワーの下でならもし
      涙を流がしても分かりはすまい。 
      「相変わらずだな、ジョー。」 
       溜め息をつくように笑いながら、健もジョーの身体に腕を回し、濡れた頬を寄せて耳の
      中に囁く。
      「いいさ、おまえの気が済むまで抱けよ。」
       今夜限りだものな、と。だがそれも決して口には出さなかった。

    ふと目を開けると、部屋の中はまだ暗かったが微かに朝の色が漂っていた。二人とも、
      いつの間にか眠りに落ちたらしい。濡れていた髪がもうすっかり乾いていた。ひやりとす
      るタイルの冷たさを感じなくなり、自分を支える逞しい身体にただ身を任せた。それから
      乾いたタオルで何もかもを拭い去ろうとし、だが、乾き切らぬうちに髪はまた汗で濡れ、
      ぴんと几帳面に掛けられたシーツには数え切れぬ皺が刻まれた。耐え切れずにうつ伏せれ
      ば、その背を抱き、握りしめた指には指を重ね、ただ互いに求め合って夜が過ぎて行くの
      を惜しんだ。 
       傍らで鳶色の睫毛を閉ざしているジョーを見ると決心が鈍る。
       しかし、それを振り切るように健はシーツをはね除けた。
      「どこへ行く?」 
       案の定な言葉と共にジョーの指が手首を掴んだ。
      「シャワーを浴びて支度をする。早い飛行機で帰らなくちゃならないんだ。」
       ブルーグレイの目がじっと健を見つめ、それから急に、
      「健、ビトーを憶えているか?」 
       と、訊ねた。ぴくりと健の指が動いた。 

   「旧弊なようだがこういった傷や弾傷にはこいつが一番だ。」
       よく冷やされた亜鉛化軟膏を伸ばしたガーゼを当てて、ビトーが言った。険しい目で睨
      みながら、それでも健はじっとしていた。手を解け、と再び言ったが、今夜一晩はそのま
      まだ、とビトーは応じない。軽くて暖かい絹の上掛けで胸の下までをきっちりと包むと、
      ビトーは話し出した。
      「兄さん、バンビーノは島にいるぜ。」 
      「BC島に?とっくに調査済みのはずだが、いや、あんたの事だ。隠そうと思えば隠せる
      んだな?」
       くすっと笑って、ビトーは煙草に火を点けた。
      「病院にいた頃はひどい怪我だったぜ。何度も見舞いに行ったが、俺の事は分からんらし
      い。だが、ろくに意識も戻らないのに、兄さんの名をしきりに呼んでいた。何度も何度
      も、健、健、てな。」
       胸が詰まって何も言葉が出て来ない。
       ややあってようやく訊く事が出来た。
      「それで?怪我は、ジョーの頭の古傷はどうなった?」
      「怪我はすっかり治ったさ。しかし、そんな古傷があったって話は聞いてねえぜ。バン
      ビーノが見つかってからすぐに評判の名医を何人も差し向けたし、ずいぶんと検査もさせ
      たがね。」
       え?と健の目が丸くなった。もしかしたら・・・?
       思わず肘で上半身を起こし、せっかちに尋ねる。
      「あいつの上半身には6年前にBC島で受けた7発の弾傷があったはずだ。それは?」
       いいや、とビトーは首を横に振った。報告書にあった例と一致する。それでは・・・?
       ふふっと健は笑い出していた。執行猶予は延長された。いや、特赦だ。無罪放免だ。
      「バンビーノはドン・ジュゼッペが所有していた農場で、元気に暮らしてるぜ。俺は結婚
      祝いに馬を贈った。バンビーノが小さい頃に乗っていたような白い馬だ。」
       結婚した?あいつが、と健は笑顔のまま驚いて見せた。
      「女の子が生まれた祝いには薔薇の生け垣を作らせた。で、次に男の子が生まれた時には
      黒い犬を贈った。ま、表立ってはそのくらいしかしてやれねえからな。」
      「子供がいるのか?ああ、そいつはいいや。あいつは子供が好きで、犬だの馬だの、動物
      や草木が大好きで・・・。」
       そこまで言ってうつむいた健の顔をそっと自分の肩に乗せたビトーが、柔らかいチョコ
      レート色の髪を優しく撫でた。意地も張りも今はもうどうでもいい、と健は咽び泣いた。
      「バンビーノは記憶を取り戻したがってるし、俺もそうしてやりたい。だがそれが出来る
      のは兄さん、あんただけだろう。で、島へは行ってくれるかい、兄さん?」
      「あんたは、思い出させる事がジョーにとって幸せだと思うのか?」
       極上のスーツの肩に顔を埋めたまま、そう訊ねた健の声は掠れていた。
      「兄さん、そいつはバンビーノ自身が決めるこったぜ。」
       豊かな低い声できっぱりとそう答えたビトーの指が、ついっと健の顎を持ち上げる。
      「こいつは俺からの伝言だ。」 
       しかし、黙って受けたビトーの冷たいキスを果たしてジョーに伝えられるのか?
       俺は・・・。

   「ビトーって、あの時のマフィアの親分か?」
       ひっ掴んだシャツを着ようとしたがうまくいかない。健はそれでようやくジョーが手首
      を握ったままなのに気づいた。ジョーが頷いたのはビトーについての答えに対してか、そ
      れともあいつと俺の間にあった事を知っている、という事なのか?
      「手を放せよ。」 
       振り解こうとした手を逆に引いて、ジョーは健の胸に残るまだ新しい十字型の傷跡を
      じっと凝視した。もはやそれがはっきりと視覚出来るくらい、部屋は明るくなっている。
      震え出しそうになって、思わず顔を背けたのは健の方だった。
      「健、これはどうしたんだ?」 
      「何でもない、と言ったろう?」 
       同じ事を問われ、同じ事を答えた。しかしもう顔を背けてはいられない。こいつの本当
      の意味は知らないが、たぶん裏切り者に押される烙印か何かなんだろうぜ。だが、シャツ
      を片手に毅然と立つ健の前にジョーは静かに跪き、そしてその傷跡にそっとくちづけた。
       この傷が刻まれた時、ちょうどビトーがそうしたように。
      「おまえは沈黙の掟なんか知らなくてもいいし、そんなものに縛られる必要もないのに。
      こんなものを、あのくだらんマフィアどもが・・・。健、すまねえ・・・俺の為に。」
       ジョーはそう言って涙を流した。
      「ジョー、俺は死ぬ時は共にという俺達の誓いを破って、おまえを見捨てて行ったんだ。
      だから、これは・・・。」
      「いや、おまえは勘違いをしている。健、あの時、おまえを裏切ったのは俺の方だぜ。」
       立ち上がり、真直ぐに健の青い瞳を見て、ジョーは続けた。
      「だから自分を責めないでくれ。いや、今までずっとそうして来たんだろ?健、おまえは
      そう言う奴だ。だからこんな目に会っても黙ってそれに耐えたんだろ?」
       今のジョーに嘘はつけない。だから健は頷くしかなかった。
      「だがな、こいつは、この傷跡はおまえが思っているようなものじゃねえ。マフィアの掟
      は、『血は血を求め、名誉は血を求める』、これしかないんだ。」
      「どう言う意味だ?」
       裏切り者に生き残る術はねえのさ。あの時、ビトーがカルロを撃ち殺したようにな、
      と、だがジョーはそれを告げなかった。だから、健もそれ以上、訊こうとはしなかった。
       もう過ぎた事だ、どうでもいい。ジョーは違うと言ったが、自分自身がずっと背負って
      来たものに対する贖罪の証しだと、俺自身が思えればそれでいい。
       そして、ジョーが「マフィア」とは言っても、一度も「俺達」と言わなかった事に健は
      安堵していた。お生憎様だな、親分。だが、これはジョー自身が決めた事だぜ。

    身支度を済ませた健は、上着と小さな旅行鞄を持って家の前に立っていた。どこまでも
      真っ青な空が輝き、見渡す限りのオリーブとオレンジの葉が目に染みるほど美しい。
      ジョーが鞍も着けずに白馬に跨がって、緩くキャンターをさせている。その足元を毛の長
      い黒犬が一緒に走っていた。 
      「もっと離れろよ、ボー!蹴られちまうぞ。」
       笑いながら、ジョーが黒犬にそんな事を言っているのが聞こえた。
      「馬は大丈夫だったか?」
       そう声をかけると、ジョーが馬上で大きく頷いた。
      「ああ、何ともねえさ。コカインは元気な馬でね、ちょっと走らせないと暴れ出すんだ。
      今、車を出すからそこで待っててくれよ。飛行機の時間には間に合わせるさ。」
      「ジョー!」
       と、健が呼んだ。うん?と振り返ったジョーに伝えたい事があった。
      「丘の下に俺が乗って来た車がある。後でそいつを取りに行ってくれ。」
       分かったよ、と手を上げたジョーを元気な白馬がもう少し向うへと連れて行く。黒犬だ
      けが健の側に戻って来ると、ふさふさした尾を振った。
      「2ってペイントしてある車だから、すぐに分かるさ。」
       濃褐色の目をした黒犬にそう言い、頭を撫でながら、
      「ジョーを頼むぜ、親分。」 
       と、健は微笑んだ。黒犬の三角形の耳がピンと立ち、母屋の裏手をじっと見つめる。風
      もないのにオリーブの葉がざわざわと緑と灰白色に波立ち、健のチョコレート色の長い髪
      が翻った。古びた敷石が敷き詰められた前庭に円く砂塵が舞うと、馬の鋭い嘶きが響く方
      へと黒犬も慌てて駈けて行ってしまった。 
       やはりこの平和な日常にはどう見ても似わないぜ、俺の日常は。
      「ごめんよ、驚かしちゃったな。」
       肩をすくめて、タラップ・バーに片足をかけた健は、
      「そうだ、親分からの伝言を忘れちまった。」
       と、独り言ちた。 
       その音にジョーが駆け付けて振仰いだ時には、もう小型の軍用ジェットヘリは遥か上空
      へと舞い上がって居り、朝日に煌めくローターの反射だけがいやにはっきりと見えるだけ
      だった。 
      「きれいな所ですね。いつかこんな農場に住んでみたいや。」
       新年早々、つまらないピックアップで呼び出されたにも関わらず、若い空軍士官は上機
      嫌だった。
      「いい所だろう?昔、いちばんの親友だった奴が住んでいるんだ。」
       そう答えながら、空と同じ色をした瞳はもう見えなくなってしまったジョーをいつまで
      も、いつまでも見続けていた。
     
   THE END



   Re: I CAN LIVE WITHOUT   さゆり。 - 2002/10/09(Wed) 17:45 No.276 

     この後はどうなるのか!? 
     ・・・作者、まったく考えてませ〜んσ(^_^;@無責任炸裂チュウ(爆) 
     白馬コカインに乗るジョーは持って行かれた(苦笑)海外サイトでも 
     大人気でした。。。 (´▽`) お楽しみ頂ければ幸甚です。