Desert Rose

by yu-jin




(1)

 オフホワイトのコートが翻る。
 打ち捨てられている鉄材をふわりと飛び越え、一直線に走る彼の残像のように、翻ったコートがなびく。
 追手は五人。
 男達が彼の行く手を阻もうと横から飛び出して来る度、彼は鮮やかにかわして走り続ける。
 その彼の正面に迫る壁に、追手の男達は内心ほくそ笑んだ。
 袋のねずみだ。
 そう男達が思った瞬間、彼の足が壁を蹴り上げ、身体が宙を舞った。
 追手の男の頭上を身軽に飛び越えていく。
 たった今勝利を確信した男は、咄嗟に何が起きたのかを理解する前に、背後から彼に蹴りつけられ、壁に激突して気を失った。
 「くそっ」
 男達の一人が苛立ったように、ホルスターから拳銃を引き抜き発砲する。
 「おい。よせ。当たったらどうする」
 リーダー格の男が男の拳銃を払う。
 「威嚇ぐらいしなきゃあの速さについていけません」
 「威嚇にもなってないだろ。闇雲に撃って当たっちまったらどうするんだ」
 言葉通り、放たれた弾丸は彼の走り抜けた後方に着弾していた。
 男達が言い争っている間にも、彼は助走の勢いのまま壁を斜めに駆け上がると、鉄材を足掛かりにして、身体を宙に舞い上がらせる。オフホワイトのコートが翻る様は、かつて彼が身にまとっていた翼のようだった。弧を描くように蹴り上げられた足が、男を横から蹴り倒し、着地と同時にもう一人の男の首筋に手刀が叩き込まれる。
 振り向きざまに、残る男の位置を確認すると彼はそのまま走り出した。
 息一つ乱れることもなく、広い倉庫の中を走り抜けていく。
 男達にとって、誘い込んだつもりが仇となったかのように、今は使用されぬままに無造作に打ち捨ててある鉄材に邪魔をされ、彼の姿を見失いかける。
 頭上に感じた気配に顔を上げた瞬間、真後ろから蹴り飛ばされていた。
 一人残った男の背後に音もなく回った彼は、男の腕ごとねじり上げ、男が握っている拳銃の先を男の首筋に押し当てる。
 「あ、あ、、」
 男は得体のしれない化け物に遭遇したかのように、怯えを浮かべた瞳で背後の彼を横目で見ていた。
 「帰っておまえのボスに伝えろ。用があるなら直接会いに来いとな」
 男はガクガクと何度も頷く。
 彼が拳銃を奪って手を離すと、男は慌ててかけ出していった。
 「どうせ寄越すなら、もう少しマシなヤツを寄越せ。ジョー」
 タイヤを鳴らして走り去る車の音に、彼は小さく笑ってそう呟いていた。

 「失敗した?。どういうことだ?」
 ジョーは自分のデスクの前に姿勢を正して立っている男をその鋭い視線で見上げた。
 「こちらへ連れてこようとしたようですが、反対にやられたと。五人中四人が倒されたということです」
 「連れて来いとはいったがな。誰も拉致して来いとは言ってないだろ。それにセキュリティが付いてるのはあたりまえだ」
 ジョーは部下の報告にうんざりとした表情を向ける。天下に名だたる国際科学技術庁の主査クラスの博士にセキュリティが付いているのはあたりまえだ。それもかなりの腕の人間が付いているに決まっている。そんなことは事前の調査で判り切っているはずだ。
 「それが…」
 言いよどむように自分の顔色を伺うその男に、ジョーは苛立ちを覚える。
 「それが何だ?」
 「セキュリティではないと」
 「あ?。誰だろうが護衛してるやつをセキュリティって言うんだろうが」
 いったい何を言いたいのだと、ジョーはますます苛立つ。
 「おい!。俺はおまえ達の遊びに付き合ってるほど暇じゃねぇんだ。さっさと判るように報告しろ」
 この立場になってからは、努めて温和な口調で話すように心がけてはいるが、行方の見えない話をだらだらとされているとそれに構っている余裕を失う。
 「は、はい。その博士本人にやられたと言っているんですが」
 部下の顔をジョーは穴が開くほど見つめていた。
 「馬鹿も休み休み言え」
 「はぁ。ですが超人的な身体能力を持っていると」
 「話にならん。いったいどこのド素人に依頼したんだ」
 「いえ。そのようなことは。その博士からの伝言で、『用があるなら直接会いに来い』ということだそうで」
 ジョーはその言葉に頭を抱え込む。
 どいつもこいつも平和ボケしてやがる。
 「報告はそれだけか?」
 「あ。はい」
 「判った。下がってろ」
 男はあたふたと礼をしながら出て行こうと扉に向かう。
 「おい。その博士とやらは今どこにいるんだ?」
 「N市です」
 「N市?。何だってそんなところにいるんだ?。国際科学技術庁の本部からやけに遠いじゃないか」
 「そこの研究所に滞在しています」
 「研究所に寝泊まりしてるのか?」
 「研究所の敷地内にある施設にいるようです。詳細はその報告書に」
 男は扉の前からジョーのデスクの上の書類を指し示す。先日、激昂したジョーがデスクの天板を力任せに叩き割ってしまったのを目の当たりにして以来、彼は極力ジョーに近付こうとしない。
 「判った」
 追い払うように手を振ったジョーに男は扉の前で一礼するとそのまま部屋を飛び出していった。
 その男の背中を見送ると、ジョーは座っている椅子を回転させて背後のガラス越しに見える光景に目を向け、そっと吐息を付いていた。
 たかが国際科学技術庁の博士一人連れて来るのにいったい何日手こずっているんだ。
 ここの調査機関も落ちたものだ。
 おまえだったらどうする?
 地上75階のこのビルからの視界を遮るものはない。すぐそこに、奴が憧れた空がある。
 ジョーはデスクの引き出しを開け、その中に納められているフォトスタンドの中の写真に問いかける。
 くったくのない笑顔を浮かべた顔は、背景の空に溶けてしまいそうなほどに晴れやかだ。
 なぁ。ケン…。
 ジョーは今はもう会うことができない彼にそう呟いていた。
 第3次対G戦争が終結して三年、ケンが逝ってから二年が経とうとしていた。


(2)

 二年前のあの日以来完全に封印されていたはずの亡霊が現れたのは、つい半月前のことだ。
 「オペレーションHSが再開されただとぉ!?」
 ジョーはその報告を聞いた瞬間、叫ぶような声でそう怒鳴ると同時に、デスクの天板に両手を叩きつけて立ち上がった。
 「え、ええ」
 報告の為にデスクの向かい側に立っていた男はジョーの怒りの形相に戦いたように、足を後に引きかけていた。
 「あれを封印するというのが約束だろぉぉ!」
 ジョーの右手が握り締められ、その拳が震える。
 男はその瞬間デスクから数メートル後退っていた。
 「調査部の奴らを招集しろ。それからおまえは判っている限りの内容をまとめろ」
 ジョーは吠えるようにそう怒鳴ると、デスクの上のインタフォンのスイッチを押して更に雄叫びの声を上げた。
 「俺だ。午後のスケジュールは全部キャンセルだ」
 相手が一言も発する余裕もなく叩き切る姿に男は一直線へ出口へ向かっていた。
 「今すぐだぞ。30分後に全員会議室に集めろ」
 その背中に怒声が追ってくる。
 「は、はい」
 飛び上がりそうになりながら返事をする男の後で扉が開く。男はまるで逃げ出すかのようにその隙間から外に出て行った。
 「失礼します。何があったんですか?」
 「言った通りだ。スケジュールを空けろ。判ったら出ていけ」
 とりつくしまもないという態度のジョーに、男と入れ違いに入ってきた秘書室長は小さく肩をすくめる。
 「代表」
 「俺をその名前で呼ぶな!。俺はただの代理だ」
 秘書室長はジョーの言葉に僅かに怪訝な表情を浮かべたが、それ以上は何も問わず、黙って頭を下げると部屋を辞した。
 最近には珍しく激昂している様子に、秘書室長は背中で扉を締めて小さく吐息をついていた。
 『やれやれ。また例の病気か』
 2年前までこの若い上司は時折今のように感情のコントロールを失うことがあった。いつも決まってその時のキーワードは『ケン』という名前の、本来ならば今彼が座っている椅子に座るはずだった男のことだ。2年前にその男が死んだと聞いて以来、その病気は治まっていたように見えていたが、どうやら亡霊が登場したらしい。
 しばらくは仕事にならないだろうさっきの様子に、秘書室長はスケジュール調整の依頼を部下に指示していた。

 「それで?」
 30分後、ジョーは会議室の定位置に座ると、集まったメンバーを見回して不機嫌極まりない声を発した。
 「連絡を受けて出来る限りの情報を集めてみましたが、オペレーションHSが再開されていると断定できるものはありませんでした」
 口を開いたのは、このメンバーの長である男だ。
 「断定できないが、可能性はあるということか?」
 さすがに3年もこんなことをやっていれば言葉の裏ぐらいは読めるようになる。
 「推測と仮説の上ですが、可能性は前よりも高くなっています」
 男の言葉にジョーはイライラとテーブルを指で叩いていた。
 「回りくどい言い方はやめろ。状況だけを説明しろ」
 「は、はい」
 ジョーに直接報告に来た男が、末席で飛び上がりそうになりながら、メインモニタのスイッチを入れた。
 「で、では説明します」
 男の声と共に映しだされた文字に、ジョーは思わず身を乗り出していた。
 「ドクター・ナカニシ?」
 「はい。一年半前から国際科学技術庁のメインメンバーとして登録されています。ただ、その存在は極秘扱いとされていて、表立って何かをしているという形跡はまったくありません。所属はバイオ計画の主査となっていますが、殆ど姿を現すこともないそうです。ですが、今回の件がオペレーションHS再開であるならば、その中心人物だと思われます」
 「どういう意味だ?」
 「一年半前、この博士が国際科学技術庁に登録された直後に一度、それからここ二か月に連続して、いずれも封印されているオペレーションHSのデータにアクセスされた痕跡があります。正規IDによるアクセスであったため、セキュリティにはひっかかっていませんでした」
 「そのIDの持ち主がドクター・ナカニシだというのか?」
 「そうです。あのデータはアクセス権限があっても、複写することはもちろんですが、閲覧することも削除することもできません。いかなる権限を持つものであっても、アクセス不可とすることが、我々と国際科学技術庁との契約ですから」
 「それが破られているということか?」
 「一つの可能性です。確かにそのIDの持ち主は正規の権限でアクセスしていますが、見ることもできないデータに対して何度もアクセスすること自体不自然です」
 「その前に、どうすることもできないデータに何でアクセスできるんだ?」
 2年前にケンが逝った時、データの消去という話もあったが、結局削除はしていない。
 「管理者は必要ですから」
 「コンピュータ屋の理論ってやつか?。で、そのデータに何度もアクセスされるとどういう可能性があるんだ?」
 「何らかの方法を使って複写した、あるいは閲覧不可の状態を解除したという可能性が」
 「意味が判らねぇ。あのデータは読み込むことができない形式に変換されているんじゃないのか?」
 「そうなんですが、逆変換をかければ読めるんじゃないかと」
 「馬鹿野郎。そんないいかげんなセキュリテイかけてたのか?」
 「いえ。やってやれないことは無いというだけで現実的には逆変換は不可能です。ただ、可能性がゼロではないということで」
 テーブルを叩くジョーの指の動きが早くなる。
 「データは国際科学技術庁が、セキュリティは我々が管理することで封印の契約を交わしていながら、そのセキュリティを破られましたというわけだな」
 その管理責任者へ向けられたジョーの視線はまるで刃のような鋭さだ。
 「いえ。まだ破られたと断言できる証拠は何も」
 「データをどうこうするつもりが無くてそう何度もアクセスするかっ!。持ち出されたと仮定する方が自然だろ。で、持ち出されたとしてオペレーションHSが再開されている痕跡があるのか?」
 「表立っては何もありません」
 「憶測の域を出ないってことか」
 不確かな情報とはいえ、ジョーはその不穏な空気をどうしても払拭することができない。何よりもその博士の名前が気になる。
 「その博士。ナカニシって、ファーストネームは?」
 「リュウです。リュウ・ナカニシ」
 「馬鹿なっ」
 ジョーは思わず立ち上がっていた。
 「どういうことだ?」
 「は?」
 報告している男はまだ若い、ジョーが何に驚いたのか判らなかったようだ。
 「識別IDが違います。同姓同名ですね」
 調査部の古参が手元の端末を操作しながらジョーの問いに答える。
 「同姓同名?」
 「ええ。代表が御存知のリュウ・ナカニシは三年前から所属は変わっていません。サンフレンツェの海洋都市開発研究所勤務のままです。それに彼のIDにはオペレーションHSにアクセスできる権限はありません」
 「偶然なのか?」
 ドサリと椅子に身を預けると、ジョーはしばらく考え込むように黙り込んだ。
 「偶然にしろ作為にしろ、その博士の名前がリュウ・ナカニシで、そいつが封印されたデータにアクセスしたということは間違いないんなら、まずそのドクターの素性を洗い出せ。国際科学技術庁で一つの推進計画のそれも主査クラスの科学者の顔も判らないってだけで、充分奇怪しい」
 「判りました」
 ”何を考えてやがるんだヒギンズのヤロー”
 ジョーは現国際科学技術庁長官、ロバート・ヒギンズの掴み所のない昼行灯のような顔を思い出し小さく舌打ちした。
 それが半月前のことだった。


(3)

 「ドクター・ナカニシ?」
 国際科学技術庁バイオ計画の末端に位置する研究所であるここの所員が、本部に属する科学者の顔を知るはずもなく、彼らは、背後に立つ彼のセキュリティに声をかけた。
 「いいえ。違います」
 風変わりな博士と四六時中行動を共にしているセキュリティはこんな状況には慣れている。無表情に否定だけを伝える。
 「え?。では博士は?」
 ティーラウンジの椅子にすっぽりと納まっている姿の姿は、彼らからは見えなかったようだ。
 「俺です」
 そう言って振り返った彼は、なんとも形容できない所員達の顔に遭遇していた。オフホワイトのコートの下は黒のタートル黒のスリムパンツ。おまけに偏光グラス付き。立ち上がった彼の姿を、所員達は上から下まで舐め回すように見つめる。
 こういう視線にはもう慣れた。
 『リュウ・ナカニシ』と呼ばれるようになって一年半。その視線は常について回っている。
 彼は若すぎる自分の外観を自覚していた。実際、世間一般的にイメージする「博士」というものの想像はつく。そのイメージと自分が対局なほどにかけ離れていることにも自覚はあった。せめてそれに近い服装をすれば与える印象も緩和されるのだろうが、彼はそんな配慮も意味があるものとは思っていない。
 「あなたが?」
 そう言って絶句したのは、間違いなく彼よりは一回りは上だと思える所員だった。
 「そうです。突然変異種のウイルスだということで派遣されました。よろしく」
 頭も下げず、手も差し出さず、かけている偏光グラスも外さずにいる自分に、相手がどういう感情を持つかも、彼には充分判っていた。グラスを外しにっこりと微笑みの一つでも浮かべ手を差し伸べれば多少は強い拒絶も緩和されるのだろうが、そんなことをしてみた所で、所詮『理解できないものは排除する』という人間としてはごく在り来りの心理が邪魔をすることも、もうよく判っていた。
 迎合する振りをして、余計な軋轢を生まぬようになどと気にしていては、国際科学技術庁のバイオ計画推進室主査などやってはいけない。
 彼はこうした反応に出会う度に、かつて南部が変人扱いされていたことを思い出していた。
 「いや。失礼。あまりにお若いので驚いてしまって。いや、よろしく。まあ、こんな所に派遣されるぐらいですから、そうかお若いのも当たり前か」
 最年長と思われる狡猾そうな男が、前に進み出ると、無理矢理彼の手を握る。彼らは『国際科学技術庁本部から科学者が派遣される』ということしか知らされていない。まさか主査自ら出向くとは想像さえしていないのだろう。言外にある「若造を寄越しただけか」という皮肉も、所詮は言っている人間の卑しさの現れに過ぎないことに、喋っている本人は気付いていない。
 「所長とのアポにはまだ時間があるようですが?」
 彼は相手の言葉を無視して尊大な態度を崩さぬままに、その所員達を観察していた。
 男性が二人、女性が二人。好奇心に目を輝かせているのは女性の内の一人だけで、後の三人はそれぞれの思惑を秘めた警戒を浮かべている。自分の縄張りが荒らされるのではないか、あわよくば取り入って自分の立場を優位にしよう、そんなことを考えている瞳だ。もちろん、好奇心を隠そうともしないその女性所員にしても、彼と個人的な接触を望んでいることは間違いない。ようするに若くして本部の科学者という天才の部類と思われている彼の精子を欲しているに過ぎない。
 「わざわざお揃いで。所長室へ案内していただけるんですか?」
 自分を取り囲む人間達を一瞥してそう言った彼に、相手は露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
 「セイ。行くぞ」
 これ以上無駄な会話をしていても埒があかない。彼は、セキュリティにそう声をかけて相手を無視するように足を進めた。
 
 「人口40人の過疎化の進んだ小さな島ですが、島民全員が何らかの細菌またはウィルスに感染し、死亡したものと考えられます」
 照明を落した室内のメインモニタに、島民の死亡状況を写した映像がスライドで表示されていく。
 「この写真を撮影した医師が発病しなかったということから、感染経路は経口感染、あるいは接触感染と思われます。感染者は全て肺に溜まった水により窒息死しています。症状はハンタウィルスによる感染症に似ていますが、死亡者の体内からハンタウィルスは見つかっておりません。現在も検索中です」
 さっき厭味を言っていた男が早口で説明を終える。わざわざ若造相手に報告することさえもが屈辱だと言いたげなその表情を彼は無視した。
 「今は何をやってるんですか?」
 「抗体検査をしています」
 照明が瞬き室内が明るくなる。
 「今までのファイルを見せて下さい」
 手元の端末にドキュメントが表示された。
 「ウィルス性肺炎、百日咳、ジフテリア、カンピロバクター、ハンタ。PCRで遺伝子を検索した方が早くないですか?」
 彼はそのレポートにザッと目を通すと呆れたような声で呟く。
 「それはすでにやりました。思いつく限りのDNAのプライマーを合成しましたが、結果がでませんでしたので抗体検査をしているんです」
 年配の方の女性のヒステリックな口調に、彼は冷やかな視線を投げる。
 「それはあなた方のインスピレーションの問題ですね。闇雲に動いても結果はでませんよ」
 彼の言葉に室内が一瞬にして凍りつく。
 『おまえは馬鹿か?』と言っているのと同じだという自覚はある。その言葉で、居合わせた誰もを敵に回していることも判っているが、根拠のないプライドなどあるだけ邪魔だ。
 「使用したプライマーの一覧は?」
 無言のままに画面にリストが表示される。
 まるで資料を投げつけているのと同じような感覚だ。
 「人工ウィルスのプライマーがありませんね」
 「え?」
 記号の羅列に過ぎないリストを一瞬にして読み取ったような速さだ。
 「人工的ウィルスだというのか?」
 「可能性の一つとして有り得ないことではありません」
 「まさか。この状況から想定されるバイオセーフティレベルは3だぞ。そんなものが人工ウィルスだってことは、どこかの研究施設から外部に漏れたってことか?」
 「もしくは…」
 「もしくは?」
 「意図的に蒔かれた」
 再び室内が沈黙に支配される。
 だが、先程のものとは違う冷気は息を吐くことさえも許さぬほどに全員を凍りつかせていた。
 「バイオ・ハザードだっていうのか?」
 「いずれにしてもウィルスの特定が先決です。それによって扱っている研究所も特定されます」
 「待って下さい。これが人工ウィルスだとしたら、人為的に持ち出されたにしても、不慮の事故で漏洩したのだとしても、研究所なり何なりが気付いているんじゃないんですか?」
 「その報告は上がってきていません。隠蔽しているのか気付いていないのかも不明ですが、実際に被害が発生している以上急がなければなりません」
 「ちょっと待てよ。そんなやばいもんの特定を何だってこんな末端の研究所にやらせるんだ。ましてあんたみたいな若造一人寄越して、国際科学技術庁は後は知らん顔か?」
 「判りませんか?」
 「判らないね」
 「万が一二次感染者を出してしまう可能性を考えたら、その人数は少ない方がいいでしょう。それに、サンプルデータは動かさない方がいい」
 冷やかに言い放つ彼の言葉に所員の喉がゴクリと動いた。
 「俺達は生贄ってことか?」
 「そうなりますね」
 彼はあくまでも冷やかだった。


(4)

 『N市へ行くぞ』」
 ジョーがそう言い出したは、報告を聞いてから半日後のことだ。
 「は?」
 いきなり代表室からのインターフォンスピーカーから流れた声に、秘書室長は一瞬何を言われえたのか判らなかった。
 『ヘリを用意しろ』
 ようやく意味が判った彼は、思わず自分の腕時計で時間を確認していた。
 「今からですか?」
 9:00をとっくに回っている。今から向かえば1時間はかからない距離とは言え、帰りは深夜になる。
 『今日のスケジュールは全てこなしただろ。文句あるか』
 まるで子供のような言い方に秘書室長は思わず苦笑を漏らしてしまった。
 「判りました手配いたします」
 彼がこの職に着いた時、誰もが若すぎると思った。それに何より圧倒的に知識も経験も不足している。いったいどうなることかと思ったものの、誰もが南部の遺言に従ってお飾りにしておけばいいと思っていたのも事実だった。
 だが、彼はそれに納得しなかった。
 ”お飾りだろうが何だろうが、飾られている間は俺が代表だ。俺に判るように説明しろ”
 一見無茶苦茶な理論に聞こえるが、彼は独自の吸収力で、不足している知識と経験とを各方面の人間達から吸収していった。知識で追いつかない部分は、彼のバランス感覚が補っている。誰の言葉を信じ、誰の方向に沿うことが最善であるのかを嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さは、3年経った今、彼を無視する人間が誰もいないことで証明していた。
 時々今のように子供のような事を言うことでさえ、苦笑まじりに許せるようになるまで、さほどの時間はかからなかった。
 『おい』
 「はい?」
 『笑うなよ』
 彼がインタフォンの向こうで照れている様まで容易に想像が付く。
 「失礼いたしました」
 秘書室長は丁寧に答えインタフォンを切ると押さえられずに笑い声を漏らしていた。

 彼の部屋に入ると、端末の前に座ったまま、椅子の背もたれに全身を預けるようにして彼は眠り込んでいた。無防備な姿をまず見せない彼には珍しい。よほど疲れているということなのだろう。
 滅多に外に出ることもなく籠もっている普段の彼の生活ぶりを思えば、今日は充分ハードワークだったようだ。
 おまけに拉致騒ぎだ。
 彼の人並み外れた身体能力を考えれば、たかが五人程度を相手にするぐらい造作もないことには違いないが、セイは自分が同行していなかったことを悔やんでいた。おそらく相手は、セイが同行していない状況をチャンスだと思ったのだろう。
 セイはソファの背にかけてあるブランケットを取り、そっと彼の身体の上にかけた。
 その瞬間、彼の身体がビクリと動き、頭を起こす。
 「起こしてしまいましたか」
 起こさぬように気をつけたつもりではあったが、無理だったようだ。
 「いや…。いい」
 顔を上げた彼は、真横に立つセイを振り仰ぎ、身体を背もたれから引き離すと、片手で自分の顔を覆う。
 「今日はお休みなった方が」
 彼はセイの言葉を無視するように、左右に軽く頭を振ると、端末に向う。
 「頼んでおいた資料は?」
 「博士」
 「セイ。聞こえなかったのか?」
 空色の瞳が鋭くセイを睨む。
 「そんな目をして私を見ても無駄です。私はあなたのセキュリティです。あなたの手からあなた自身を守ることも私の仕事です」
 彼が本気になれば、今日の例を見るまでもなくセキュリティなど無用の長物だ。セイでさえ取るに足りない。それは、この二年彼の側にいてセイ自身よく判っていた。
 「判ったよ。少し寝る」
 彼の瞳から力が消える。
 「資料用意しておいてくれ。そろそろ来るだろ」
 彼は床に落ちたブランケットを拾うと、部屋の隅へ向かった。
 「来る?。何方かお見えになるんですか?」
 「俺を拉致しようとした不届きな奴がね」
 彼にしては珍しく声が楽しそうだ。
 「彼がここに?」
 「負けず嫌いな奴だからな。来たら起こしてくれ」
 彼は部屋の隅の床の上に寝ころがると、手にしたブランケットをかぶった。
 セイはその姿を確認してライトを消した。
 「おやすみなさい。ケン」
 彼が唯一自分自身へ戻ることのできる世界に旅立つこの時だけ、セイは彼の本来の名前を呼ぶ。
 「…ああ。…あいつもその名前で俺を呼んでくれるかな?”」
 呟くような声で応えると、彼は睡魔の元へ旅立っていった。

 ジョーがN市郊外に建つその研究所へ着いたのは、予定通り日付の変わる少し前だった。
 予め調査済の資料を元に、敷地の外れにある居住施設へと車を向ける。単身赴任、あるいは長期滞在者向けのその施設はコテージタイプで、一定距離を空けて同じような建物が並んでいる。
 番号を確認してドアチャイムを鳴らす。扉を開けたのは、背の高い男だった。
 「ドクター・ナカニシ?」
 ジョーでさえ視線が上を向くその男は、一目で鍛え上げられたものと判る身体をTシャツに包み、無造作にショルダータイプのホルスターを着けている。
 ジョーは自分で尋ねてしまってから、相手を間違えたことに気付く。
 「失礼。ドクター・ナカニシに取り次ぎを」
 「博士は就寝中です。どういうご用件でしょうか?」
 ドアを開けた瞬間に、無表情なその男の瞳がほんの僅かだが動いたことにジョーは気付いていた。おそらくこの男は自分を知っているのだろうとジョーは自分とは面識のない男を注意深く観察する。
 「会いに来いと言うから来た」
 ぶっきらぼうに答えながら、ジョーはここに自分が来ることもこの男には判っていたのではないかと思う。
 如何にも屈強そうな男の風体に、おそらく自分の部下を叩きのめした相手はこいつなのだろうと考える。
 「判りました。どうぞ」
 男はそれ以上ジョーの名前さえも尋ねずに、部屋の中へと招き入れた。それが全て予定通りだと言われているようでジョーには気に入らない。
 「就寝中じゃなかったのか?」
 厭味の一つも言いたくなる。
 「お見えになったら起こすようにと言われていますので」
 ますます気に入らないその言い方に、『帰る』と踵を返したい衝動にかられる。
 「博士。お見えになりました」
 さして広いわけでもない、むしろこじんまりとした家の中の、廊下の突き当たりの扉をノックすると、中の返事も聞かずに男は扉を開けた。
 「どうぞ」
 身体を開かれ、部屋の中へ足を踏み入れる。
 薄暗い室内の奥で、人影がゆらりと立ち上がるのが見えた。
 背後で扉が閉まると同時に室内の明かりが瞬く。
 ジョーはその光に眉根を顰める。
 そして。
 「久し振りだな」
 その光の中に現れたその姿を凝視していた。


(5)

 「…おまえは。…誰だ」
 ゴクリと音を立てて唾を飲み込む自分の喉の音が異様なほどに大きく聞こえる。
 言葉を押し出すまでにいったいどれほど時間がかかったのかも判らなかった。
 「二年ぶりだというのに、ずいぶんな挨拶だなジョー」
 彼は昔と変わらない空の色をした瞳でジョーを見ていた。
 「これは、どういうことだ」
 二年前に死んだはずの男がジョーの目の前に居た。
 「幽霊じゃないぜ」
 「まさか」
 「残念ながら本人だ」
 ケンは端末の並ぶデスクの一角に座ると、「座れよ」と立ち尽くすジョーを促す。
 「おまえは二年前に…」
 「いろいろと面倒なことがあったんで、死んだことにしてもらったんだよ。実際あの時は仮死状態だったしな」
 ジョーは穴が開くほど目の前のそのケンとまったく同じ容姿をした男を見つめていた。
 ジョーの手はあの時のケンの肌の感触を今も覚えている。指先に触れるあの体温を感じない冷やかさに、”逝くな!”と叫んだあの瞬間の身を引き裂かれるような痛みと、吹き抜ける空虚を感じた喪失感は、今も忘れることはできない。
 「嘘だ…。ケンが生きているわけがない。おまえはいったい誰なんだ?」
 どうしてもジョーには信じることができない。二年前のあの時、『死んだ』と言われたことの方がよほど信じられた。それほど、あの時のケンの容体は思わしくなかった。
 「信じないというのなら、それでも構わないが」
 ケンは髪をかき上げると、インタフォンを押し、”セイ。コーヒーを”と短く命じる。
 その動作の一つ一つから目を離せない。
 「セイってさっきの奴か?」
 そう尋ねたのは、とりあえずこの目の前の男に何かを喋らせたかっただけだ。もし、自分を騙そうというのなら、どこかで必ず尻尾を出す。ジョーにはそれを見極める自信があった。
 「ああ。俺のセキュリティだ。もっとも主な役目は俺の監視だがな」
 『ケン』だという男は、ジョーの思惑など気にしていないように、ごく普通の口調で応える。
 「セキュリティ?。監視?。ドクター・ナカニシっておまえのことか?」
 ジョーは、今更ながらに自分が何をしにここに来たのかを思い出す。完全に気勢を削がれている。
 「ああそうだ。リュウの名前を借りた。誰の名前でもよかったんだが、まさかおまえの名前ってわけにもいかないだろう。現ナンブの代表だからな」
 喋りながらケンは端末に向かって何かを操作している。その後姿がジョーにはかつて見慣れた懐かしいものに見える。
 「…ケン」
 「ん?」
 思わず呼びかけてしまったジョーの声に、ケンは振り返りもせず、何の警戒もない声で答える。それはジョーがよく知っているケンそのものに感じる。
 夢でも幻でもいい。ケンに会いたいと何度も思った自分を思い出す。それが現実となって目の前に現れた途端、それを信じることが出来ない。
 「失礼します」
 扉がノックされ、玄関に現れたさっきの男がトレイにカップを乗せて入ってくる。
 ジョーの座るソファの前と、ケンの座るデスクの横にそれぞれカップを置き、ケンに書類の束を差し出した。
 「ああ。何か動きは?」
 「いえ。今のところは」
 無駄なことは何も言わず、黙って部屋を出ていくその男の姿を見ていると、セキュリティというよりも、主人に仕える執事のようでさえある。だたまったく人間味を感じない。いや、それを感じないのは彼だけにではない。この部屋もそうだ。
 ジョーは部屋をぐるりと見回す。コテージ風の外観とはかけ離れた無機質さを感じる。決してコンクリートでもリノニュウムでもない天井や壁、床が見えているにも関わらず、どこかの司令センターか何かにいるような錯覚を感じる。
 その空気が、すぐそこにいるケンでさえ、『ケン』という作り物のように思わせる。ケンの後姿に感じた懐かしさも、実はホログラフか何かなのではないかとさえ思えてくる。
 「ジョーぉ?」
 呼びかけられてジョーはハッとして顔を上げる。
 「顔色悪いぞ」
 「あ。いや」
 自分を覗き込む青い瞳に自分の姿が映っている。この瞳にどれほど焦がれたか、この瞳をどれほど望んだか。もし、もしコレが作り物ではないというのなら、もし本当に生きていたのだとしたら。
 そっと伸ばしたジョーの手は震えていた。
 ケンの頬に触れる。
 少し冷えただが確実に体温を感じるきめの細かい肌の感触。
 ジョーの指先がケンの唇をなぞる。
 「ジョー?」
 ケンの唇が自分の名前を呼ぶ。その感触が指先に触れる。
 「…ケン…おまえ。本当に…生きて…」
 言葉が出ない。
 一瞬の内にお互いが共有して来た時間のさまざまな場面がジョーの脳裏を過った。
 「鈍くないかおまえ。どっか接触不良か?」
 感慨に絶句するジョーに浴びせられた言葉は、一瞬にしてジョーから感傷を消し去っていた。
 「おまえほど高性能じゃなくてな」
 唖然としてしまいそうな自分を押し隠し、ジョーは目の前に置かれたコーヒーを口に運ぶ。
 「浸りたいなら後で勝手にやってくれ。おまえの用件はこれだろ?」
 『感傷』『感慨』など微塵も感じていない口ぶりで、ケンはプリントアウトされたデータをジョーの目の前に突き出した。
 見た覚えのある数字が並ぶ。
 「これは…」
 一覧の先頭の日付は一年半前。この日付を最近見た覚えがある。
 「国際科学技術庁に保存されているオペレーションHSのデータアクセスIDとアクセス経路だ」
 「アクセス経路?」
 一覧を追っていくと、中継機となったポイントが各アクセス履歴の横に並んでいる。
 「国際科学技術庁の所有するデータベースはセキュリティレベルによって、アクセス元を常に検索している。あのデータのセキュリティはトップレベルだからな。当然その対象になってる。検索されていたアクセス経路は、各国が所有する衛星をランダムに経由していた。まともなアクセス経路じゃない」
 「ちょと待て。あのデータにアクセスしてたのはドクター・ナカニシ。ようするにおまえだろ」
 「俺があのデータに俺自身としてアクセスしたのは一度だけだ」
 「一番最初のやつか?」
 リストを改めて確認するまでもない。先日の報告通り、先頭の日付と二番めの日付とには1年以上間が空いている。
 「ああ。最近頻繁にアクセスしていたのは、俺のIDを使った奴だ」
 「どういうことだ?」
 「さあな。判っているのは、俺のIDが盗用されていたという事実と、それを利用してあのデータを持ち出した奴がいるということだけだ」
 「待てよ。あのデータは複写できないようロックされている。万が一持ち出しても読み込めない。そんなデータを持ち出して何になるんだ」
 ジョーの意識は今目の前にいるケンが何者なのかということ以上に、セキュリティを破られていた可能性に占められていた。
 「確かにな。俺もアクセスして確認している。あのデータには高度な暗号化が施されていて通常では解析できないガードがかかっていた。だが元データの一部を予め持っていたとしたらどうだ?」
 「どういう意味だ?」
 「元データの一部を持っていたとすれば、暗号解読のヒントを持っているのと同じだ。判っている部分の変換内容から逆変換ルールを検索させれば、暗号は解読できる」
 「そんなことを誰がやったっていうんだ。国際科学技術庁か?」
 元データを何らかの方法で入手可能な人間は限られている。その本人がやったにしろ、そうでないにしろ、かつてオペレーションHSに関わった人間と何らかの関係があるはずだ。
 「違うだろ。国際科学技術庁はあのデータがなくてもオペレーションHSの全貌は知っている。俺という生き証人もいるしな。回収されているスパルタンを解析すればあのデータがなくてもあの装置は再構築できる」
 ダンっとテーブルが鳴いた。
 ジョーの右拳が、叩きつけられたテーブルの上で震えている。
 「壊すなよ」
 「んの野郎ぉ。何がデータの共同封印だ。ふざけやがって」
 「あの野郎って、ヒギンズのことか?。別に奴の肩を持つわけじゃないが、共同封印に意味はある。国際科学技術庁にとってあのデータは諸刃の剣だ。あれが明るみに出てどこかの国に使用されれば各国のパワーバランスが崩れる。あのデータを闇で売買なんてことになるのも不味い。かと言って自分達で使いきれるものじゃない。いや、今は使う相手もいないからな。もう一度作ることに意味はない。ようするに完全に封印しておくに限るってことだ」
 「俺達はいいようにそれに乗せられたってことじゃねぇかっ!!」
 「いや。俺以外で唯一あれを使える可能性のある奴を握られてたら、共同封印するしか方法はないだろ」
 「握られてる?。まさかおまえ」
 ジョーはケンの言葉に絶句する。ケンの言う『唯一あれを使える可能性』がジョーのことであれば、それを『握られている』と表現する以上、何らかの関わりをナンブが持っていることになる。
 「お互い表面では平和のためと言ってはいるが、実際のところは牽制しあっているというのが本音だろ」
 「ふざけるなっ!」
 ジョーは思わず怒鳴っていた。
 そのジョーをケンは冷めた目で見つめる。
 「3年で身内意識が芽生えたのか?。それも結構だが、博士に負の財産があったのも事実だ」
 「負の財産?」
 「俺達のことだ。冷静に考えてみろ。第1次から第3次まで博士は常に事前に策を持っていた。第3次の時など、いつでも出撃できる装備まで準備していた。それを考えれば第4次に備えていたと考えるのが普通だ」
 「おまえ…。何を知ってるんだ?」
 ジョーはゾクリとしてケンの顔を見つめた。


(6)

 ケンはジョーの視線から逃れるように、横顔を見せたままだ。
 「言えよ。何を知ってるんだ」
 沈黙を続けるケンに、ジョーは低い声でもう一度同じ言葉を押し出す。
 険しい表情で一点を見つめ続けていたケンは、ふと視線を手元へ落すと、さっきセイが置いていった資料をジョーに差し出した。
 ジョーは手渡された資料を斜め読みしながら、次々と頁を繰っていく。そこには、秘密裏に進行していたと思われる対G戦争用となる基地の建設計画、装備の開発状況が記載されていた。
 「…これは」
 間違いなく第4次対G戦争用と思われるその内容にジョーは呆然と顔を上げる。
 「G4。第4次対G戦争に備えて組織されていた機関のコードネームだ。博士は第3次で使い物にならなくなった俺達の、いや俺の代わりを用意していた」
 「おまえの代わり?」
 渡された書類の中の特殊チームの構成メンバーを示す欄は空欄のままだ。特殊チームの構成メンバーに限らず、その計画に参画していたと思われる個人を特定するものは何もなかった。
 「この資料から誰か個人を特定できる情報は何もないじゃないか」
 「スタッフ情報は発見されていない。意図的に消去されたか隠蔽されている」
 「ってことはこの計画は中止してるってことじゃないのか?。第一この資料にある情報はどれも第3次対G戦争終結前のものだ。博士が亡くなって中止されたと考えた方が普通じゃないのか?」
 「その可能性もある。だが、俺のIDを盗用してまでオペレーションHSのデータを持ち出したのが、そのG4のスタッフ、あるいは俺の代わりになるはずの奴だという可能性もある」
 「可能性可能性可能性ってなぁ」
 ジョーはこの件が持ち上がって以来聞かされ続けているその単語にうんざりしていた。
 「おまえのIDを盗用できたということは、データを管理している国際科学技術庁よりも、セキュリティを管理していたナンブ側に情報提供者がいるとでも言いたいのか?」
 「一慨にそうとも言い切れないだろ。強固なセキュリィにガードされているデータを直接ハッキングするよりもIDのハッキングの方が簡単だからな。それに、もし直接持ち出してそれが露呈すれば、それが可能な人間は限定されるはずだ。セキュリティ関係者だと思わせている方が都合がいいとも考えられる。もっともその逆もあるがな。俺のIDを使ったのは、一番最近にアクセスしたIDを使うのがもっとも安全だというだけだ」
 もっともらしい説にジョーは黙り込む。
 「だったらどっち側の人間だか判らないじゃねぇか。で、そいつらがオペレーションHSのデータ持ち出して何しようってぇんだ?」
 「自分達が存在するための場所を求めている。…のかもしれないな」
 「あ?。どういう意味だ?」
 身を乗り出すようにしてジョーの瞳を覗き込んでいるケンの吸い込まれそうな青い瞳にジョーはドキリとする。
 共に戦い続けて来た時に見続けて来たあの真っ直ぐな瞳が、陰りを帯びて見えた。
 「判らないのならそれでいい。この話はこれでお終いだ」
 「ちょっと待て!。いきなり終わるなっ!」
 「おまえが知りたかったことは教えた。後は好きにしろ」
 「おまえはどうするつもりでこんなものを調べてるんだ?」
 「さあね」
 「さあねじゃねぇだろう。この野郎っ!」
 ジョーは、端末へ向かおうと体勢を変えたケンの腕を掴んでいた。見た目ほどに痩せている訳ではない。強靱な筋肉の弾力を感じる。それは決して作り物などではなく、そして二年前のケンには失われていたものだ。
 あの頃ケンはさまざまな医療機器に取り囲まれ、自力で呼吸することさえもままならぬまでに病み果てていた。それでもなお生きようとしていた結果が今だと言うのならば、歓喜に声を上げ、世界中に感謝を叫びたい衝動に駆られる。
 ”…ケン…”
 「その格好でその口調はどうかと思うぞジョー。スーツが泣く」
 「わ、悪かったな」
 人が感傷に浸りかけると冷水を浴びせるタイミングの良さに呆れながら、ジョーはケンから手を離す。
 「表情を読みやすいのは相変わらずだな。そんなんでナンブの代表なんてよくやってられるな。でも、それがおまえの良さかもしれないな」
 「余計なお世話だ。だいたいおまえが死んだっていうから俺がやってるんだ。生きてるならおまえがやればいいだろ」
 「その話はいずれまたな。セイ。お客さまがお帰りだ」
 インタフォンに向かってケンはさっきの男を呼ぶ。
 「おい。ケン」
 「用は済んだはずだ」
 こうなっては手に負えない。
 「判ったよ。その代わりこれは貰って行くからな。わざわざ出向いてやった駄賃代わりだ。おまえばっかりに任せておけるか」
 ジョーは資料の束を掴むとヒラヒラと振ってみせる。
 「おい。ジョー」
 「じゃあな。またな。叩き出されるなんて性に合わねぇからな」
 まるで昔に戻ってしまったかのような口調でいい捨てると、セイが開けた扉の隙間から出て行った。

 『うまくいきましたか?』
 『聞いてたんだろ』
 『…どうしてG4が再開されているということを彼に伝えなかったんですか?』
 『G4の存在を教えろ。それがヒギンズとの約束だ。約束は守った』
 『…お休みになって下さい。だいぶお疲れのようです』
 『…ああ』

 ヘリポートへと向かう車の中でいきなり聞こえてきた会話にジョーはギョッとして車を止めた。
 あの男と、ケンの声だ。
 いったいどこから聞こえて来るのかと辺りを見回す。
 その音の発信源を突き止めた時、ジョーは思わずそれを凝視していた。
 紙?
 音は助手席に放っておいたレポートの束から聞こえている。
 何?
 ジョーはその音の発信源と思われる紙の束を取り上げ、バラバラと振ってみる。だが隙間からは何も落ちない。いくら何でもただの紙が喋るわけはない。ジョーはバサバサとレポートの束を捲りながら目当てのものを探す。
 案の定その中に一枚だけ、他のものとは僅かに重さが異なるものがあった。もっとも超薄型のそれは探そうと思わなければ気付かない程度のものだ。
 プリントアウトされた紙の裏に貼られたそれは、先程の会話を最期に沈黙している。
 盗聴器?。いや逆か。
 発信源はおそらくあの部屋の中だ。
 ”いったい何がどうなっているんだ?”
聞こえてきた内容にも、目の前にあるこの物体にもジョーはただ疑問符を並べることしかできなかった。


(7)

 「これは…」
 解析ソフトが表示する遺伝子パターンを現す文字を見ていたケンは、そのパターンの特徴に気付いて声を上げた。
 「F-30ウィルスの遺伝子パターンだ。どうしてこれが」
 解析ソフトは合成したプライマーとの適合率を表示し始める。カウンタは当然のように数値を上げて行く。
 99.99%
 結果は間違いなく島に蒔かれたものがF-30ウィルスであることを物語っていた。
 本部から取り寄せた人工ウィルスのプライマーを使った解析を手伝う所員は誰もいない。巻き込まれるのは御免だと明確に意思表明する者が一名、遠巻きにはなから自分は関係がないと言いたげな者二名。そして、どうせ手柄は本部が持って行くんだろうから、やりたければ勝手にやれと投げ出すもの一名。あまりに露骨な対応に作為を感じる。それもあまり利口なやり方ではない。
 自然界にはないこのウィルスの出現と、この所員達の対応に関係があるのだとすれば答えは自ずと導き出される。
 ここの関係者の誰かが蒔いた。
 誰が?。どうやって?。
 ケンは見続けていた画面から目を離し、疲れた目をほぐすように目尻を押さえ、壁にかかっている時計を見上げた。
 かれこれ6時間ぶっ通しで画面を見続けていたことにようやく気付く。目の奥も、頭の芯も疲労を訴えていた。だが、それ以上に頭の中で警告のアラームが鳴り響いている。
 容易に手に入る代物ではない。
 いや、むしろ入手困難だと言った方がいい。このウィルスデータを所有しているのは国際科学技術庁だけだ。それも極秘扱いになっている。
 ケンはメモリースティックにデータを吸い上げ、端末内に残ったデータを全て消去する。
 目の前でどす黒く渦巻く靄がゆっくりと蠢いた気がした。その靄の奥に潜むものが、確実に存在している。
 いずれその鎌首を擡げ牙を剥くであろうそれは、まだ闇の中だ。
 ケンはそのイメージを追い払うように軽く首を振って、端末の前から立ち上がった。
 その瞬間ぐらりと視界が捻じれた。
 平衡感覚を失い身体を支えようとデスクに付いた手が滑る。デスクの上にあった書類が舞う。
 全身の力が抜ける。
 そう思ったのと同時に、崩れる身体を抱きとめられた。
 「…ケン!」
 耳元で低く名前を呼ばれ、閉じそうになる瞼を持ち上げると、霞む視界の中にセイの横顔があった。
 まだだ。
 まだ早い。
 まだ…。
 だが、意識は急速に肉体を手放していった。

 ライトに照らされた寝台の上で、ジッとしていることも出来ぬようにもがく人影があった。
 口に当てられている酸素マスクの中に吐いた血が吹き上がる。
 白衣を着たスタッフが取り押さえようとしてなぎ払われている。
 『押さえてくれ』
 ああ。俺が呼ばれているんだ。
 そう思って寝台に近付く。
 思った通り寝台の上にはケンがいた。
 普通の人間にあいつを押さえ込むことはできない。
 だから俺が呼ばれたのか。
 寝台から落ちそうになっているケンの身体を押さえ、彼の上に覆いかぶさる。
 『ケン…』
 そうだ。あいつがこれほど苦しむ姿なんて俺はこの時初めて見たんだ。
 苦痛にうめくあいつを、俺は怪我をさせぬように気をつけながら必死に押さえ込んで、何度もあいつの耳元で名前を呼んだ。
 『ケン』
 ケンが薄く目を開く。
 ”ジョー?”
 声のない唇が動く。
 声がない…。
 そういえば、ずっとあいつの声を聞いてなかった。
 あの白い檻の中にいる時も、あいつはいつも小さく笑っていた。
 俺はあいつのその微笑みに、不器用に一緒に笑ってやることしかできなかった。
 儚い微笑みを浮かべたケンの輪郭がぼやけていく。
 焦燥感が俺を締めつける。
 ケンっ。逝くなっ!!
 逝くなっ!
 「ケンっ!」
 ジョーは叫んだ自分の声で目が覚めた。
 目を開くと同時に飛び起きていた。
 「ああぁ」
 目に飛び込んで来た見慣れた自分の寝室の壁に、ジョーは片手で顔を覆い、吐息を付く。
 「夢か…」
 そう呟いて、汗に濡れた首筋を拭う。その手の感触に、ジョーは思わず自分のその掌を見つめていた。
 たった今までケンの身体を押さえつけていた感触が残っているような気がした。
 あれはまだ対G戦争中だっただろうか、今夢に見た光景と同じことがあったような気がする。
 あの頃はまだ強靱な筋肉を感じたものが、次第にそれは衰えていった。
 「ふぅぅ」
 ジョーは大きな吐息をついてベッドのヘッドボードに凭れる。
 あのケンの腕は、確かに対G戦争中の時のヤツの身体と変わらなかった。
 生きていたというあいつを、自分は信じているのだろか。
 N市から戻って来て以来もう何度も考えている疑問が沸き上がる。
 信じたいという思いと、信じられないという疑惑が分刻みで交錯する。
 結局、何故ケンが生き延びることができたのかその理由を聞いていなかったと気付いたのはあのコテージを出た後だった。今更戻って聞く訳にもいかないと、取り敢えず車に乗ったものの、すっきりしない思いのままヘリポートへ向かった。
 の挙げ句に、いきなりあの会話だ。
 いったい何を信じろってぇんだ!! 。
 ジョーは自分の右拳をベッドマットに叩き込んだ。
 飛躍しすぎている。
 回復の見込みは無いと言われ、それが故に死んだはずの奴が、いきなり元通りの姿で現れて、本人だと言われて誰が信じられるというのだ。
 何度考えてもあれが本人だと思うには無理がある。だが、身体はともかく、中身は間違いなく本人だと確信している自分がいることも確かだ。
 いいかげんにしやがれっ!
 ジョーはイライラと自分の頭をかきむしる。
 だいたいあれが本人だと言うなら、俺がこういうことを考えるのが一番苦手だと知っているはずだ。にも関わらず、謎々の答えを教えねぇてぇのはどういうことだ!。
 終いには八つ当たりのような理論に辿り着く以外、今のジョーには答えの出しようもなかった。


(8)

 「G-02ウィルス開発スタッフの最近の情報を集めてくれ」
 助手席に座っているケンは、片手で頭を押さえ目を閉じたまま事務的な口調で告げた。
 突然意識消失した時の虚脱感はないものの、ずっしりとした疲労感が残っている。
 「G-02、のですか?」
 「ああ」
 「…まさか。G-02が?」
 「いや」
 口を開くことも煩わしい。
 ただ、それは疲労感からばかりではない。
 あのウィルスは思い出したくもない2年前の時間を記憶の中からひきずり出してくる。その苛立ちと不快感が感情のコントロールを奪う。人間の残酷さ、傲慢さが発する冷気を思い出すと背筋が強張り、吐き気さえ感じる。
 ”この上まだ禁断の実を貪ろうというのか”
 リクライニングさせたシートに身体を沈め、ケンはハンドルを握るセイに背中を向けた。
 それをケンの拒絶と受け取ったのか、それきりセイは沈黙を守った。
 車がコテージに着くと同時にまるで飛び出すように車を降りたケンは、真っ直ぐに家の中へ向うと、そのまま自分の部屋に閉じ籠もってしまった。
 人といることが煩わしい。
 押さえきれない感情が剥き出しになってしまいそうだった。
 ケンは扉を閉めるとそのまま、明かりも点けずにドアを背にずるずると座り込む。
 部屋の中の無機質な冷気が心地よい。
 闇がやさしく身体を包む。
 トンっとドアに頭を凭れ、ケンはようやく息をついた。
 何故終わりにさせてくれない。
 もう、充分だろう。
 何度そう思ったか判らない疑問が沸き上がる。
 ケンはそれを追い払うように強く頭を振って立ち上がった。
 まだだ。
 まだ、ダメだ。
 部屋の明かりを点け、端末のスイッチを入れ、国際科学技術庁のメインデータベースへと接続する。
 急がないと間に合わない。
 それは強い焦燥感となってケンを追い立てていく。
 俺が間に合う内に…。
 ケンはID認証を終えたデータベースからかつてのG-02ウィルス開発スタッフの名簿を引き出した。
 末端の研究員まで含めて12名。
 その中にはここの研究所の関係者はいない。だが、どこかで繋がっているはずだ。
 ケンは、12名各自の経歴と研究所のメンバーとの関係を検索し続ける。
 「こいつだ…」
 ようやくリストアップされた人物の中に、ここの所長の名前が上がる。
 ”やはりな…”
 おそらく現場の非協力的な態度も、彼の指示によるものだろう。
 「セイ」
 ドアが開く音に顔を上げたケンは、湯気の立つカップを持って入ってきた彼に声をかける。
 「ここの所長が最近接触した人間を片っ端から洗ってくれ。それからこのエドワード・スミスというG-02開発スタッフの動向もだ」
 「島に蒔かれたものがG-02に関係があるということですか?」
 セイは、ようやく普通に戻ったケンの様子を察したようだ。
 「F-30ウィルスだった。F-30はG-02の変異元だ。そんなものを蒔いて何がしたいのかは判らないが、いずれにしてもF-30を蒔いたということは、最終目的がG-02だと警告しているんだろう。G-02開発スタッフの誰かが関与しているはずだ」
 「そのことなんですが、G-02開発スタッフの半数が既に死亡しています」
 「なにっ?」
 セイに背中を向けたまま話していたケンは、さすがに驚きを隠せぬまま振り返った。
 「事故死、自殺、病死と死因はまちまちで、一番最初のスタッフの死亡は一年半前に遡りますが、偶然にしては出来過ぎています。そのエドワード・スミス氏も、二か月前に病死しています」
 「病死?。病名は?」
 「そこまではまだ」
 「調べてくれ」
 「判りました。このことは長官には?」
 「好きに報告しろ。俺が何をしているのかをヒギンズに報告するのがおまえの役目なんだろ」
 投げ捨てるように言い放つと、ケンはまたセイに背中を向ける。その背中はまた強い拒絶に覆われている。
 倒れたばかりなのだから休めと言ってみたところで、ケンが聞きはしないこともセイにはよく判っていた。
 セイは黙って持って来たホットミルクのカップをケンのデスクに置くと部屋を出ていった。

 盗聴できたのはあの会話だけだった。
 あれっきり発信源は沈黙している。おそらく盗聴器はすぐに取り外されたのだろう。
 ジョーは混乱する頭で謎々の答えを探していた。
 登場人物が二人しかいないのだから、あの盗聴器を仕掛けた人物はその内のどちらかだ。
 いや、ジョーにはもうその答えは判っていた。
 あれは、『G4は再開されている』この一言をジョーに伝えるために仕掛けられたのだ。
 ケンがあくまでも可能性の一つとして語っていたことを考えれば、あの男はケンが言わぬために、あえてあんな手段を使ったということになる。
 N市から戻ってすぐ、ジョーはナンブが所持しているデータを探したが、G4に関連するものは何も出てこなかった。それがナンブとの関わりを否定しているのか、もっと闇は深いと言っているのかの判断もできない。
 ごちゃごちゃ考えているより聞いた方が早い。
 ジョーがいかにも彼らしい結論を出したのはケンに再会して5日後の午後だった。
 その日だったのは、たまたまスケジュールが空いたというだけだ。ジョーは思い立ったままN市へ向った。
 そう。
 ジョーがそれを目撃したのは、ただの偶然だった。
 コテージよりは研究所にいる時間だろうと思ったことも、乗って来た車をそこへ止めたことも、全てはただの偶然に過ぎない。
 駐車場を探すのが面倒で、建物の裏側に車を止めた瞬間だった。
 ガラスの割れる音がして、目の前の上空を影が過った。
 青い翼。猛禽を連想する嘴。
 それは、かつての自分の姿だった。
 何っ?!
 地上4階のガラスを割って飛び出して来たそれは、ジョーの前方に着地すると、ちらりとジョーの方へ視線を向ける。
 フードに覆われた顔は見えないが、その姿は見紛うはずもないスタイルだ。
 何だってそんなものが。
 そう思った次の瞬間、黒い影が舞い降りた。
 「ケンっ」
 「…ジョー?」
 ジョーの声に気付いたように振り返った影はジョーの姿を認めると、真っ直ぐに走ってくる。
 「あいつを追ってくれ」
 助手席に滑り込むと同時に言われ、ジョーは慌てて止めたばかりのエンジンをかけた。
 フロントウィンド越しに青い影が飛ぶ姿を追いながら、ジョーは奇妙な気分に陥っていた。
 まるでパラレルワールドにでも迷い込んでしまったような気分だ。
 自分を自分が追っている。
 「あいつは何者なんだ?」
 ジョーの問いにケンは答えない。
 研究所の敷地の奥に向って飛んでいた影が一瞬消える。
 急発進するエンジン音に、ジョーはしめたと舌先で唇を舐めた。
 相手も車なら確実に追える自信がある。
 ジョーは更にアクセルを踏み込み、エンジン音がした方向へと急ぐ。だが、研究所の敷地を出ると、その遥か前方を走る車体に思わず舌打ちしていた。
 「くそっ。やけに性能のいい車に乗ってやがる」
 それでも諦めきれずに後を追って行ったが、まったく勝ち目のないカーレースだった。
 「ダメだ。何なんだいったい。G2号機並、いやそれ以上の性能だぞありゃ」
 ハンドルを悔しそうに叩くジョーの横で、ケンはジッと正面を見据えたまま唇を噛んでいた。
 「何なんだ。あいつは?」
 ジョーはそのケンに向って低い声で尋ねる。ジョーには確信があった。
 『あれが再開したG4のメンバー』
 「研究所に戻ってくれ」
 ケンはジョーの問いには答えない。
 「おいっ!。あれがG4なんだろっ!」
 ジョーの語気が荒くなる。
 その言葉にケンはビクリと身体を震わし、そしてようやくジョーの顔を見た。
 「見たのか?」
 「ああ。かつての俺と同じ格好をしてやがった。フードで顔は見えなかったが、まったく同じだ」
 「そうか」
 「いいかげん吐けよ。可能性なんかじゃなくて、奴らなんだろ。あいつが俺の代わりってわけか?。で、あいつはいったい何をしたんだ」
 「車を出してくれ」
 「ケンっ!」
 「いいから車を出せ。出さないのなら降りる」
 助手席の扉を開けようとするケンに、ジョーは溜息をついてエンジンをかけた。
 「判ったよ」
 謎々の答えを貰いに来て、謎を増やしてどうするんだとは思うものの、取り敢えずこの場はケンに従うしかない。
 まったく。強情で、強引で。昔とちっとも変わってねぇ。
 そう思ってからふと気付いて、ジョーは横に座るケンを盗み見ていた。
 こんなケンを見るのは久し振ぶりだ。
 それが妙にうれしい。
 先日の夢で見た光景を思い出す。研究所のベッドの上に居たあの最期の頃、ケンはいつも微笑んでいた。苦しいともつらいとも言わず、治療のためと声を失っていたとはいえ、何一つ主張せず、見舞いに訪れるジョーに、いつも穏やかな表情しか見せなかった。
 それを思えば…。
 多少は強情でも強引でもこの方が安心していられる。
 ジョーは黙り込むケンを乗せて研究所への路を戻っていった。


(9)

 「G-02開発スタッフ12名全員が死亡、あるいは行方不明。それに関係があると思われたここの所長まで死亡とはね」
 ジョーは研究所に戻って初めて警察の取り調べを受ける身になるようなことが起きていたことを知った。
 あの青い影が飛び出して来た部屋で、ここの所長が殺害され、それを追って飛び出して来たケンと追って行ったジョーは、当初その仲間と思われていたらしい。
 結局国際科学技術庁と、ナンブから各々手を回してもらい、ようやく疑いは晴れたものの、無駄に数時間足止めされることになった。
 「そのG-02って何なんだ?」
 話を聞くまでは帰らないと言い張ったジョーをコテージに案内したのは、あの男だった。
 「偶然にしては出来過ぎか。どれも巧妙にカムフラージュされてはいるが、殺害された可能性が高いな」
 「おい。無視するな。G-02って何なんだっ!」
 リビングのテーブルを叩く音に、ようやくケンはジョーを見る。
 「壊すなよ」
 はぐらかすように言うケンにセイは控えめに口を挟んだ。
 「話せないようでしたら私が話しましょうか?」
 ”話せない?”
 ジョーはセイのその言葉にケンを見る。俯いて目の前に置かれたカップを手に取るケンの表情からは何も読み取れない。
 「いや。いい。自分で話す」
 ゆっくりとカップを口に運ぶと、ケンは表情のない顔を上げ、淡々とした口調で話し始めた。
 「当時リアクターの照射では体細胞の活性率は下がる一方で、細胞破壊を食い止めることも難しくなっていた。研究所では、外的要因によって活性率を上げる方法を模索するのと同時に、内的要因によって破壊されて行く細胞を回復させる方法を検討していた」
 ケンの言い方はそれが自分のことではないかのように事務的だった。
 「何だその外的要因だの内的要因だのって」
 「平たく言えば、外的要因はリアクターの改良版、内的要因は遺伝子の組み換えだ。破壊された病変を持つ遺伝子を正常な遺伝子に置き換える。そのために培養していたベクターウィルスが、偶然毒性を持つものに変異した。それがF-30ウィルスだ。それを更に破壊された細胞を使用して培養することで、より毒性の強い亜種へ変異することを発見し、それをG-01ウィルスと命名して開発を始めた。G-02はその改良版だ」
 「何だそれは。改良版だぁ?。ウィルス開発してどうすんだ。おまえの身体を治すためにやってたんじゃないのか?」
 「あそこでは、俺は態のいい、それでいてもっとも興味深い実験材料だっただけだ」
 「…ふ、ふざけるなっ!!」
 何の感情もこもらない声で話すケンの言葉に、ジョーの握り締められた拳がぶるぶると膝の上で震えていた。
 「それじゃ他のやつらも似たようなことをしてたってぇのか!?」
 「それはこの話とは関係ない」
 「いいから答えろっ!!」
 「大した違いはない。彼らはおまえに悟られないように、俺の声も出せないようにしていた」
 ジョーは吐き出す先のない憤りに、身体中の血管が膨れ上がるような気がした。あまりの怒りに呼吸さえも荒くなり、目の前が真っ赤になる。
 「もう終わったことだ」
 「終わったぁ?!。終わればそれでいいなんて訳ないだろう!。だいたいそれで何でおまえは生きてるんだ?。どうして生きていることを隠さなきゃならなかったんだ?。それもそいつらのせいなのかっ!!」
 怒りの向け先が違っていることは判っていても、どうにも止められない。
 そんなことが行われていたなど、今の今まで知らなかった。いや、知らぬままに呑気にケンを見舞っていた自分に腹が立つ。
 ギリギリと噛みしめた歯が音を立てる。
 「落ち着けよ」
 「落ち着いてられるかっ!!。必死で治療していると言っておきながら、実際やってたことはウィルスの開発だっていうのか?。そのための人体実験だったてぇのかっ!。それを知らずに俺は呑気におまえを見舞って、あげくの果てにはその資金を援助していたってわけか!!」
 「ジョー。いいから落ち着け。鬱陶しい」
 「う、鬱陶しいぃだぁ?」
 「二年も前に終わったことだ。俺が話しているのはG-02が何であるかであって、俺が何をされていたかじゃない」
 ケンの言葉にジョーは黙り込む。実際は今ケンが話した以上のことが行われていたのではないかという思いがジョーを責め立てる。そしてそれはケンにとって思い出したくもないことだったのではないかと。
 「悪かった。続けてくれ」
 「G-02ウィルスの開発はそのワクチン開発途中で中止された。中止した表向きの理由は、俺が死んだからだ。各チームの研究を中止させるためには俺を死んだことにするのが一番手っとり早かった」
 「だが、おまえは生きてる。何故だ」
 「遺伝子操作に成功したんだ。簡単に言ってしまえば、細胞を成長させる因子を発見し、それによって破壊された細胞を新たに生成して生まれ変わったんだよ」
 「そんなことが、出来るのか?」
 「結果は今おまえが見ている通りだ」
 「…そうか」
 本当にケンは生きている。
 ジョーにとって、その事実が全てに於いて何にも勝る喜びだった。
 「だが、その一度は中止した禁断のウィルスに手を出したやつがいる」
 ケンは膝の上で両手を強く握り締めた。


(10)

 HSは人類が手にしてはならない武器だったのかもしれない。
 それはまだあの最後の戦争中から言われていたことだ。それをその手に握り続けなければならなかったがために、ケンはまるで神ゼウスの怒りに触れたプロメテウスの如く、己の身の破壊と活性を繰り返し、その命を削り続けた。
 その結果人類が得たものは大きいと当時は言われ、それをもたらした者の実体を知る誰もがケンの回復を祈り、そのための努力を続けたのだと、そう信じていた。
 だが、そんなことはただの幻想でしかなかったばかりか、更に生んではならないものを生み出したというのであれば、それはまさに禁断の実だ。そればかりかその実でさえも貪り喰おうとする欲望は、人間が持つ深い闇なのだろうかとさえ思える。
 「で、その行方不明ってやつらがその禁断の実を喰おうとしてるってぇのか?」
 ジョーは深い吐息と共に尋ねた。
 「行方不明者全員というわけではないだろうがな。ただ、ひょっとすると既に全員殺されているかもしれない。その場合は、ワクチンの開発に成功していることになるがな」
 「そのウィルスをどうしようっていうんだ?。ばら蒔くとでも言うのか?。それがいったい何になるんだ?」
 「実際にばら蒔くかどうかは別にして、脅迫にはなる」
 「何を脅迫するんだ?。全世界でも征服しようってぇのか?」
 「そうかもしれないな…」
 呟くように沈黙したケンをジョーは黙って見つめる。
 もしそんなものを使ったとしたら、今度こそ全人類は破滅への道を進む。
 あの時、手にしてはならないものを手にしたが故にケンが神の怒りに触れたというのならば、今度はその裁きは全人類に架せられる。
 非現実的だということは充分判ってはいたが、ジョーには不思議と納得できるものがあった。
 そうでなければ、あまりにも不公平だ。
 その身を削って戦い続けた者の元へ罰が下され、その恩恵を受けた者がのうのうと暮らしているばかりか、欲望のままに更に禁断の実を貪り喰おうとしている。
 そんなことが許されるはずがない。
 「ジョー」
 「あん?」
 「変なこと考えてるだろ。おまえ」
 真っ直ぐにジョーを見つめるケンの瞳に、ジョーは内心を見透かされた戸惑いを覚える。
 「べ、別に」
 「ならいいがな」
 こいつは何故生きているんだ?。
 澄ました顔で、セイに渡された資料に目を通しているケンを見ながら、ジョーは突然不安に襲われた。
 ゼウスの罰はまだ続いているのか?。
 刑を続けられないほどにケンの身体が弱ったから、元に戻したというのか?
 まさか…。
 また繰り返すというのか。
 だからケンは俺の前に姿を現さなかったのか?。
 かつて自分に架せられた使命に、ケン達を巻き込むことを恐れ身を隠していた自分と同じだとしたら。
 気付いてしまった事に、沸き上がってくる不安が膨らんでいく。
 ジョーは咄嗟にケンの腕を掴んでいた。
 「今度は何だ?」
 いきなり腕を捕まれたケンは、ほんの少しだけ驚き、半分程苛立ち、残りの半分近くを諦めに似た吐息で、ジョーを見る。
 「どこにもいくな」
 「は?」
 「勝手に逝くな」
 「おい。ジョー。勝手に行っちまったのはおまえだろ」
 「あっ。あぁ。そうだったな…」
 そんなことも確かにあった。
 ジョーは掴んでいたケンの腕を離す。
 自分ではどうするこもできない焦燥感、不安、そんなこの二年忘れていた感情に翻弄される。
 素直にケンが生きていたことをよろこんではいられない、いてはいけない危機感を拭うことができない。
 ケンはまだ何かを隠している。
 それはジョーの直感だった。
 G4のこともそうだが、それだけではない。
もっと何か別のことを隠している。
 「で、あの青い翼のやつが、ここの所長を殺したとして、目的は何だ?。そのG-02とやらのワクチンを作らせないためか?」
 ジョーは気付いてしまった不安を振り払うように当面の疑問を口にする。
 「おそらく口封じだろ。ここの所長は思っていた以上に何かを知っていたみたいだな」
 「何かって何だよ!」
 ジョーは苛々と叫んでいた。仮にも自分と同じ格好をする人間が、たかが口封じのため人を殺すことが許せない。それもご丁寧なことに、羽根手裏剣を使って。
 ジョーは遺体に突き刺さっているそれを見た時、ギョッとし、そして煮えたぎる怒りに全身が震えた。
 「あれじゃ、まるで宣戦布告じゃねぇか」
 そう言った瞬間、ケンとセイがハッとしたように顔を見合わせた。
 「何だ?」
 「いや…。そうか。まだ準備は整ってないのか」
 「どういう意味だ?」
 「揉み合う音が聞こえて俺が駆けつけたせいで、細工をする余裕がなくなったんだろ。あいつは窓から飛び下りる瞬間に、あれを投げた。つまり最初からあれで殺すつもりじゃなかったということだ。ようするにおまえを煮えたぎらせるためにやった訳じゃない。第一おまえが今日ここに来ることを知ってる人間は誰もいなかったんだろ」
 「ああ。たまたま今日、あの時間に来ただけだ。急いでなかったから車で勝手に来たしな」
 「なら尚更だ。そうか。まだワクチンは完成していないってことか…。セイ。本部に戻る」
 「ちょっと待てッ!。俺にも何かやらせろ」
 ここまで聞いて黙っていられるわけがない。いや、聞いたこと以上にジョーには、あの青い翼の男が気に入らなかった。
 「何がしたい?」
 立ち上がったケンは諦めように問い返した。
 「あの野郎トッ捕まえなきゃ気が済まねぇ」
 「じゃあ、それはおまえに任せる」
 「任せるって、情報ぐらい寄越せ、何も無しで調べられるか!」
 「頭をつかえよ。あいつは車だったんだ。それもどっかで調達したようなモンじゃなくな。ってことは、車で移動できる範囲にいるってことだろ」
 「なるほどな。で、おまえの連絡先は?」
 ケンは黙ってセイを見る。セイはその視線に頷くと、電話番号だけが書かれた紙片をジョーに差し出した。
 「私に連絡をいただければお取り次ぎします」
 直接番号を教えないことに、いささか気に入らない感もあったが、ジョーは黙って自分の携帯にその番号を入力し繋がることを確認すると、灰皿の中でその紙片を燃やして立ち上がった。
 謎が全て解けたわけではない。
 「じゃあな」
 だが、今は例え問い詰めてみたところで、これ以上ケンが喋らないことも、ジョーには簡単に予測できた。

 三週間、表立っては平穏な時が過ぎる。
 ジョーは自分のスタッフを使い、仕事の合間にあの青い翼を追い、セイは行方不明のスタッフを追った。そしてケンはG-02ワクチンの開発に追われていた。
 『見つけたぜ』
 目標をいち早くクリアしたのは、機動力が勝ったのか意外にもジョーだった。
 「見つけた?」
 セイから受け取った電話口で思わずケンは驚きの声を上げていた。実際、ジョーに何かを期待していたわけではない。取り敢えず収まりがつきそうにもないジョーの様子に、適当に出来そうな調査を依頼したにすぎない。
 「ああ。そっちに行く。そこはどこだ?」
 「本部ビルの中だ。入り口にセイを迎えにやる」
 「判った。30分後に行く」
 だが、ジョーの行方はそれきり判らなくなった。


(11)

 「ジョーを拉致してどうしようというんだっ!」
 「落ち着いて下さい。彼の携帯の最後の発信地点を割り出しています。場所はすぐ特定できます」
 苛々と部屋の中を歩き回っているケンに、セイが堪り兼ねて声をかける。ジョーの行方が判らなくなったと知った途端、ケンは普段の冷静さを欠いていた。
 「落ち着いていられるかっ!。奴らはG-02を持ってるんだぞ。あいつにだって生身の部分はあるんだ。感染させられたらひとたまりもないっ!!」
 ケンの頭の中は最悪のシナリオに占拠されているらしく、普段の彼からは想像もできないほど、整合性も理論も消し飛んでいる。
 「まだG-02を持っていると決まったわけではありません。それに、そんなことのためにわざわざ拉致はしません。彼に感染させたいのなら、拉致しなくてもできます。もっと別の目的を想定してください。でなければ、彼を見つけることができませんよ」
 「うるさいっ!!」
 セイの言葉に一声怒鳴ると、ケンはドサリと椅子に腰を下ろした。
 背後のその音にハッとしたようにセイが振り返る。
 案の定、ケンはデスクに肘を付き、頭を押さえていた。
 「目眩がするんじゃありませんか?」
 「触るなっ」
 セイが手を伸ばした瞬間、その気配に気付いたように払われる。
 「俺のことはどうでもいい。どうせいずれは進行が始まる。それを止めることはできないんだ。放っておいてくれっ」
 「放っておけるはずがないでしょう。止めることはできなくても、遅らせることはできます。彼を救いたいのでしょう。調査は進めておきます。少し休んでください」
 心配するセイの言葉もケンには届かない。
「進行するのが遅れれば、それだけ俺が天才でいられるからな。その方がヒギンズにとっては利用価値があるってわけだ。どうせ俺は国際科学技術庁が作った化け物だからな!!」
 「ケンっ」
 セイはかつて彼がこれほど取り乱すのを見たことがなかった。自分の身体のことを一度も口にしたことのない彼が、自ら『化け物』と称し、興奮に息が上がり、目は殺気だってさえいる。ここまで彼を不安定にさせる原因が『ジョー』だということが、セイには驚きでさえあり、と同時に何故ケンが己の存在を捨ててまで国際科学技術庁に囚われの身でいることに甘んじているのかが判った気がした。
 「…ケン」
 セイは投げ飛ばされるのを覚悟でケンの身体をその両腕に抱き締めた。
 「落ち着いて下さい。あなたが取り乱してどうするんです。彼を助けられるのはあたなしかいないんですよ」
 混乱に反応が遅れたのか、ケンの身体はセイの腕の中で抵抗しようと強張り、そして、その言葉に力が抜けた。
 「…俺だけ…」
 ケンが胸がゆっくりと深呼吸するように動く。セイはそれを腕の中で感じていた。
 「セイ。もう…。大丈夫だ」
 セイはゆっくりと腕の力を抜く。ケンはいつもの表情に戻っていた。
 「ジョーの携帯の発信地点近辺にある研究所をピックアップしてくれ。ジョーの発想で探したとすればその類だろう。ウィルス研究所か、あるいはバイオ系の研究所だ。おそらく国際科学技術庁の施設じゃない。多分ジョーはそこにはいないだろうが、手がかりにはなる。判ったら起こしてくれ。少し寝る」
 「判りました」
 ケンはデスクの上に無造作に置いてある薬のパッケージを破り、カプセルを口に放り込んで飲み下すとそのまま部屋の隅に向う。
 「ナンブの代表であるジョーには利用価値がある。国際科学技術庁が俺を脅迫してまで欲しがるほどのな。だから殺しはしないさ」
 まるで自分自身に言い聞かせるようにそう呟くと、ケンはそのままブランケットを被って背中を向けた。
 いくらケンが足掻いてみたところで、ジョーはこの狂った歯車に巻き込まれる運命から逃れられないらしい。
 ならば戦うしかない。
 共に。

 携帯を切った瞬間だった。
 目の前を横切った男にいきなりスプレーを吹きつけられた。
 咄嗟に交わそうとしたものの、既に霧散したそれを吸ってしまった身体は、瞬時にして力を奪われ、辛うじて、その男に取りすがって崩れる身体を支えることしか出来なかった。
 胸ぐらを掴んだ手が払われる。
 サングラスをかけた男の口元が笑みを浮かべて歪む。
 ”何っ?”
 ガクリと膝を着いたジョーは、遠のく意識の中で見紛うはずもない顔を見た。
 それは、皮肉な笑みを浮かべる自分の顔だった。

 「目が覚めたか?」
 ぼやける視界が像を結ぶよりも早く、ジョーの耳はその声を聞いていた。
 「ん?。何だ?。ケン」
 ジョーの耳は声の主を無意識に識別する。
 視界が定まると同時に、耳が識別した通りそこにはケンの顔があった。
 「何でおまえが?」
 咄嗟に自分がどこにいるのか判らなかった。一瞬自分の寝室にいるのだと錯覚し、見慣れない天井に、ジョーはもう一度ケンの顔を振り仰ぐ。
 「どこだ?。ここは?」
 飛び起きたジョーをケンは穏やかな笑みを浮かべて見ていた。
 「道に倒れてたんだ。持ってた携帯をコールバックしたみたいだな。ここに連絡が来た」
 その言葉にジョーはようやく変な気体を吸わされて気を失ったことを思い出す。と同時にあの顔を思い出した。
 自分と同じ顔をした男。
 ジョーはそのブキミさにゾクリと身を震わせた。
 「どうかしたか?」
 それを察したようにケンの怪訝そうな瞳がジョーを見る。
 「いや…。何でもねぇ」
 何故そう答えてしまったのか、理由は自分でも判らぬまま、咄嗟にジョーはそのことを隠していた。
 「気分は?」
 「少しボッとしてる。いきなり何か訳の判らないものを嗅がされちまったからな」
 「医者はただの催眠スプレーだろうと言っていた。心配はないそうだ」
 「…そうか」
 おかしい…。
 ジョーはケンの言葉に疑問を持つ。
 ”スプレー”で嗅がされたとは言っていない。何故それを知っている?
 「どうかしたのか?」
 じっと自分を見つめる視線に気付いたように、ケンはジョーを振りかえる。
 「ここはどこだ?」
 「ん?。俺の家だ」
 無機質な部屋だった。
 人の匂いをまったく感じない。それはあのコテージ以上だ。
 作り付けのクローゼット、ケンが座っている椅子、それに奥には冷蔵庫とポットが置かれたテーブル。それ以外はベッドしか置いていない部屋は、まるでチェックインしたてのホテルの部屋のように生活臭をまるで感じない。むしろスライド式に見える出入り口の扉が、強固なセキュリティに守られている特殊な施設を連想する。
 「家っていうにはあの扉はやたら厳重じゃねぇか?」
 「ああ。まあな、俺の行動は監視されているからな」
 ジョーが顎で示した扉に視線を向けると、ケンは僅かに苦笑を浮かべて自嘲的にそう言った。
 『監視』という言葉は確かにケン自身が言っていたものと変わらない。だが、ジョーにはどうにも拭えない不協和音に聞こえる。
 「コーヒーでいいか?。判ったことを聞かせてくれ」
 会話に不自然さはない。
 だが、何かが違和感となってジョーに警告を鳴らす。
 それは生きているはずがないケンをいきなり目の当たりにした時以上だった。
 何かが違う。
 明確に違うのは髪の長さだ。
 三週間前に会った時よりも短い。
 「髪切ったのか?」
 「あ?。ああ。邪魔だったからな」
 動作が違う。
 前に会った時はもっと機敏だった。いや、まったくと言ってもいいほど隙が無かった。それがジョーには、昔のケンと寸分違わぬように見えていた。
 おかしい。
 普通の人間と比べれば、それは些細な差なのかもしれない。だが、ジョーにとってそれは絶対的な差に見える。
 「おまえは…誰だ?」
 沸き上がる違和感を押さえきれぬままジョーはその疑問を口にしていた。


(12)

 「何言ってるんだジョー。おかしな奴だな」
 手にしたマグカップを差し出しながら、目の前で青い瞳が笑う。
 吸い込まれそうなほどに澄んだその瞳に映る強張った自分の顔が滑稽に思えるほど、 口調はケンそのものだ。
 だが、ジョーの頭の中で鳴り止まぬ警告が「違う」と告げている。
 日々会っていた昔ならいざ知らず、今のケンはジョーが自分を疑っていることを知っている。面と向って「おまえは誰だ」などと言おうものなら「勝手に言ってろ」もしくは「しつこい」と言われるのが関の山だ。いや、むしろ再会したあのケンは、己の存在をジョーに認めさせたくないようにさえ感じられる。
 だから。
 違う。
 「おまえはあいつじゃない。誰なんだ?!」
 「ジョー…」
 目の前の『ケン』は落胆したように顔を伏せた。
 「…確かにな。俺はやつじゃない」
 喉の奥で小さく笑うと、そう言って冷ややな顔を上げた。
 「だがなジョー。『誰だ』はご挨拶だな。2年ぶりだと見分けも付かなくなっちまうのか?」
 ジョーはゴクリと喉を動かして息を飲み込む。
 いったいこいつは何を言ってるんだ?。
 ジョーは混乱する頭で目の前の『ケン』をただ見つめていることしかできない。彼はジョーが受け取らないマグカップをベッドサイドのテーブルに置くと、元の椅子に腰を下ろした。その『ケン』の動作の一つ一つから目を離すことができない。
 「混乱してますって顔だな。残念だよジョー。おまえには判ってもらえると信じていたんだがな」
 『ケン』の口元に浮かんだ自嘲的ともとれる微笑みからは、演技ではない寂しさを感じる。だが、それでも拭えないこの違和感は、あの自分と同じ顔をした男を見てしまったからかもしれない。
 「…おまえがあの俺と同じ顔をしたヤローの同類だという保証はないからな」
 「やっぱり顔を見たのか。奴はおまえのコピーだ」
 「コピー?。はん。ならおまえはケンのコピーって訳か?」
 「冗談だろ。あっちの方こそ国際科学技術庁が作り出した化け物だ」
 「何っ?!」
 ジョーは思わず身を乗り出していた。
 「おかしいと思わなかったのか?。瀕死だった俺がまったく元通りになって生き返る。有り得ないだろ」
 ジョーはその言葉に押し黙る。言っていることはもっともだ。ジョー自身もそれを疑っていたからこそ、あのケンの存在を俄には信じられなかった。だが、それでもなお今目の前にいる『ケン』に違和感を覚える。あのケンの方がジョーには違和感がない。
 ジョーは『ケン』の姿を上からゆっくりと確認するように視線を動かす。
 「瀕死じゃねぇって点はおまえだって同じだろ」
 「そう見えるか?ジョー」
 「どういう意味だ?」
 外見上はあのケンよりも幾分痩せて見える気がするが、それはあくまでも印象だけであり、明確に病んでいると判るものではない。
 「俺は外には出られない。ここに埋め込まれている制御装置が届く範囲を越えれば、呼吸さえもままならない」
 そう言って『ケン』は自分の左胸を指出す。
 「制御装置?」
 「ああ。心拍数、呼吸数、体温。俺の身体はメディカルコンピュータに制御されて生きている」
 「はん。じゃあ何故死んだことになんてしたんだ?」
 「俺がしたわけじゃない。俺が生きていると都合が悪い奴らが多かったということだ。国際科学技術庁は俺をここに閉じ込めて、俺の能力だけを増強した人形を作り出した。ナンブも俺よりおまえを取った。ようするに俺は幽霊にされちまったわけだ」
 辻褄が合わない。
 『ケン』の言葉には大きな矛盾がある。
 なら何故…。
 「それでも俺を生かしているのは、こんな幽霊にも使い道があるからだ。おまえのコピーは俺の命令にしか従わない。あいつを使うためには俺を生かしておくしかない。そのためだけだ」
 吐き捨てるような言い方でそう告げると、『ケン』はジョーから視線を逸らした。ジョーはその瞬間、『ケン』の瞳に一瞬憎悪を見たような気がした。
 「それじゃあの男に、俺をここへ連れて来るように命令したものもおまえってことか?。で、俺をどうしようっていうんだ?」
 「別に。おまえ自身がここに居てくれればそれでいいだけだ。事はあいつが進める」
 「あいつ?。まさか…」
 ジョーの脳裏に自分と同じ顔をした男のあの不敵な笑みが蘇る。
 自分とまったく同じ顔をした男が自分の代わりにナンブに入り込むということか?。
 「手っとり早くナンブを手に入れるためには一番確実な方法だと思わないか?」
 「ふざけるなっ!」
 振り上げた手が空を切り、サイドボードの上のマグカップをなぎ払う。衝撃で飛んだカップは中身ごと弧を描いて絨毯張りの床の上に転がった。
 「顔形が同じなら普通は騙されるだろ」
 『ケン』は驚いた様子もなく、顔に飛んだコーヒーの飛沫を手の甲で拭い平然と答えた。
 「何が目的なんだ?」
 「ナンブの椅子が欲しくなっただけだ」
 「ふん。そんな言葉が信じられるかっ!。だいたいナンブが俺を取ったぁ?。んな訳ねぇだろ。俺は」
 「知らないのか?」
 「何をだっ!」
 「ナンブは俺よりもおまえを最初から代表と決めていた。建前上おまえを代理と言っていただけだ。そうしなければ、おまえが納得しないと思っていたんだろ。ナンブと国際科学技術庁の間では、頃合いを見計らって俺を抹殺する密約が出来ていた。ようするに初めから決まっていたことだったんだよ」
 ジョーはギリギリ音を立てるほど歯を噛みしめていた。
 さすがに三年もナンブの代表などを勤めていれば、世の中には表があれば裏があることも、出来レースがあることも、充分判っている。それを醜いと拒絶するほどに純粋ではいられない。『初めからそう決まっていた』という『ケン』の言葉にも、それ自体に対する腹立たしさよりも、むしろ自分のスタッフを侮辱された腹立たしさを覚える。
 「ナンブの勢力を使って何をしよってぇんだ」
 押し殺したように低い声で呟いたジョーの言葉は『ケン』の言葉を全て無視したものになっていた。
 「どうしても信じないということか?」
 『ケン』は自分の言葉を無視したジョーの問いが、自分への拒絶と受け取ったようだった。
 「ああ。信じねぇよ。例えおまえが本当にケンだったとしても、今のおまえには従えねぇ」
 ジョーは、そう口にしてから、今目の前にいる男を”ケン”だとは認められない自分に驚いていた。あのケンを信じるために揺れた自分が嘘のようだ。
 「やっと会えたのにな。残念だよジョー」
 「俺を殺すか?」
 「そうだな。もう二度とおまえを失わないためには、それもいいかもな」
 あまりにもケンに酷似したその男の微笑んだ顔は、ゾッとするほどに美しかった。 

 「博士。起きれますか?」
 壁を背中を押しつけるようにしてブランケットにくるまって眠っていたケンは、真上から降って来たその声で目を覚ました。
 「ん?。何か判ったのか?」
 ケンは自分の傍らに立っているセイを見上げると、肘をついて上体を起こした。そのまま立てた膝に肘を乗せ髪をかき上げると、眠り前よりは多少さっぱりとした顔をあげた。
 「ええ」
 セイはその様子に目眩は治まっているようだと判断しながら、言葉を続ける。
 「ウィルス研究をしているとおぼしき研究所はありませんでしが、一つだけ気になる場所がありました」
 「どこだ?」
 ケンの瞳が一瞬にして青みを増す。
 「遺伝子工学の研究所です。主にクローン研究を行っている研究所ですが、指定された範囲にあります」
 「クローン…」
 呟くようにその言葉を口にするとケンは何かを考えるようにセイから視線を外し、わずかに首を傾げた。
 「ええ。ナンブの系列会社の研究所だったんですが、その系列会社が2年半前にナンブから独立。最近は経営不振でその研究所は閉鎖されています」
 「いかにも、だな」
 低く笑いながらケンは立ち上がり、自分のデスクへ向った。
 「ええ。おそらく彼をおびき寄せるためのダミーでしょうが。それと先程ナンブの秘書室から連絡がありました」
 「秘書室?。言ったのか?。ジョーが行方不明だと」
 セイを振り返ったケンの視線は咎めるような鋭さがあった。ジョーとナンブの関係は至って良好であることをケンはよく知っている。その関係に波風を立てたいとは思っていないことを、セイも承知していた。
 「いえ。あちらは御存知でした。何でも彼そっくりの人間が現れたと」
 「そっくり…。何故ジョーじゃないと判ったんだ?」
 「そこまでは聞いていませんが、秘書室長がご本人ではないと見破ったそうです。そのために怪我をされたようですが、命には別状はないとのことでした」
 「そうか…。それで?。何だって?ナンブは」
 「代表ご自身がその秘書室長に書き置きを残していたそうです。自分に何かあったらここへ連絡するようにと。それから、ユートランドの別荘に関する資料を集めておくようにと」
 「ユートランドの別荘。まさかそんなところに…」
 さすがに驚いたように呟いたケンのデスクの上に、セイはスープカップとサンドイッチを乗せた皿を置いた。
 「召し上がって下さい。今日は何も食べてらっしゃらない」
 スープカップの湯気がケンの鼻先を掠めると、少し興味を持ったように中を覗き込む。セイはその様子に内心ホッとしていた。この二年、ケン自身が明確に口したことはなかったが、ポタージュ系のスープを好んでいることは、その食べ方で判っていた。特にクリームマッシュルームスープは、「お代わりは?」と問えば必ず「ああ」と答えているほどに好んでいることも知っている。そして、それさえも無視している時は、体調のよくない時だということも判っていた。
 セイはケンがスープスプーンを手にするのを見ると安心して話しを進めた。
 「ざっと調べておきました。ユートランドの南部博士が所有していた別荘は、今も国際科学技術庁のマントル計画の支部として利用されていますが、当時に比べてその規模は縮小されています。にも関わらず当時以上の電力が消費されています」
 「何かある。あるいはあったということか」
 「ええ」
 「閉鎖されている研究所の名前と所有会社の名前を教えてくれ」
 ケンはサンドイッチを口にくわえるとそのまま端末に向った。
 「研究所へ行かれるんですか?」
 「行っても無駄だ。そこにはどうせ何もない。何かあるとすればむしろユートランドの別荘の方だ。本格的な拠点をどこかに移していなければの話だが」
 そこまで喋るとケンは自分の思考の中に入り込んでしまったように黙り込んだ。
 「何かあれば呼んで下さい」
 「ジョーの携帯を監視しろ。一時的にでも電源を入れるかもしれない。それからナンブに連絡して、ジョーの緊急発信用のシグナルを教えて貰ってくれ。いくらあいつが自信家でも、ナンブの代表が誘拐に備えていないわけがないからな」
 「判りました」
 もうケンからはさっきの不安定さを微塵も感じない。全ての感情をねじ伏せたように、手早く食事を済ませると、黙々とキーを操作し続けている。
 今はまだ目眩や頭痛、虚脱感といった程度の不調で済んでいるが、ケンの身体に眠る時限装置が本気で作動し始めれば、それは確実に彼の命を侵し始める。それを引き換えにケンが今の身体を手に入れたことを知る人間は限られていた。
 そして、その時限装置がいつ作動し始めるのかは誰にも判らない。
 明日なのか、数年後なのか、あるいは今すぐなのか。



to be continued.....


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