ANOTHER WORLD OF THE GATCHAMAN バナー

LA DOLCE VITA

by 鷲尾さゆり
 

「さぁ、俺達の任務はここまでだぜ、ジョー。」 
 と、健は言った。海峡を挟んで、右と左に見える古い街並みを 
見下ろす白壁の塀の上に器用に腰掛け、市場で買って来た葡萄を 
口に運びながら、ちょっと冷たい口調でそう言う。 
「俺は反対だな。」 
 そう応えたジョーに、健は一房の葡萄を手渡しながら、 
「食えよ。すごく甘いぞ。」 
 と、笑った。どうでもいいこった、とジョーが舌打ちする。 
「もっと調べた方がいい。虎穴に入らずんば虎児を得ずって言う 
じゃねえか?」 
 まあな、と街並みの向うに青く輝くアルマラ海を眺めながら、 
打った相槌の素っ気無さに、ジョーはカッとなった。 
「なんでぇ!おまえらしくねえな、健。臆病風にでも吹かれたの 
かよ?」 
「なんだと?」 
 空色の瞳が一瞬だけジョーを見据え、それからまた遥かな青い 
海へと戻る。そうか、そんなに言うのなら調査を続けよう。但 
し、虎穴に入るのは俺だ。いいな、ジョー?と、健は有無を言わ 
さずそう決めてしまった。そして、その夜、明日の朝食までには 
帰る、と言い残して別れて、それきりふっつりと行方が分からな 
くなってしまった。それから既に三日が経過していた・・・。 


 二人は西洋と東洋を繋ぐ古いこの街で、ある麻薬シンジケート 
の流通ルートを探っていた。いつの時代でも可憐な花から生まれ 
る白い粉は黒い金になり、黒い奴らの懐を手っ取り早く、そして 
たっぷりと潤す。とり憑かれた人々が、犯罪に手を染めたり、生 
命さえ捧げ尽くしても、それは花の知った事ではない。そしてそ 
れを商う者達にとっても、それは関心外の事だった。 
「ちくしょう!」 
 ジョーはこの街に潜入してから、二人で歩いた心当たりを隈無 
く探したが、どこにも健は居ない。何度、ブレスレットの交信ス 
イッチを叩いた事か。だが、応える声は依然として無かった。海 
に挟まれた街なのに、不思議と乾いた風が吹く。喉の乾きをひた 
すら濃いここのコーヒーで鎮めようと、一件のカフェに座ると、 
「シニョール!」 
 と、声を掛けて来た者があった。見れば、健が姿を消す前に、 
もうこれで調査も終わりか、と言った晩に、やはり声を掛けて来 
た若者だった。黒い、人懐っこいがどこか狡い瞳をした彼は、お 
そらく二つ三つ、年下だろう。彼のような若者はこういった街に 
は必ず居る。観光なのかい?いい所へ案内するよ。そんな事を愛 
想良く喋る手合いで、これもおそらくその筋の息がかかった下っ 
端、といった若者の一人だろう。 
(来たな!) 
 ジョーはこいつが現れるのを待っていた。あの夜、いい女が居 
るよ、と声を掛けて来たこの若者に、ジョーは「うるせえ」と言 
い、健は生真面目に「女は要らない」と答えた。  
「そうか、あんたらはカップルなんだね?じゃ、楽しい店へ行か 
ないか?」 
「違うよ。」と、健が笑い、「殴るぞ!」と、ジョーが怒った。 
 よせよせ、とジョーを制止して、それから健は意外な事を言い 
出した。 
「なぁ、まとまった量のヤクが手に入る所を知らないか?」 
 もちろん知ってるさ、と自慢げに頷いた彼に、じゃ、案内して 
くれよ、と健は持ちかけたが、 
「いきなりって訳にはいかないなぁ。」 
 と、案の定な拒絶をされてしまった。何せヤバイんでね、でも 
話をつけておいてやってもいいぜ、と勿体ぶる若者に数枚の紙幣 
を渡して、健は言った。 
「いや、いい、ただの好奇心さ。明日にはここを立つんだ。」 
 惜しそうに後をついて来る若者を無視して歩き出した健に並び 
ながら、ジョーは言った。 
「いったい、何のつもりだ?」 
「うん?いや、手掛かりになるかと思ってね。」 
「甘いぜ、健。ヤクの売人や組織を舐めると痛い目に会うぞ。」 
 フン、と健は鼻で笑い、 
「虎穴に入らずんば、じゃなかったのか?ジョー?」 
 と、憎まれ口を叩いた。そして、 
「ここで別れようぜ。」と、細い路地に入って行った。おい、と 
その背に声を掛けたが、おまえはどこかの金融機関で大きな金が 
動くかを見張っててくれ、と、そして振り返って、悪戯っぽい微 
笑みを浮かべながら言った。 
「明日の朝食までには帰るぜ。ま、タンビニア最後の夜だ。おま 
えも楽しめよ、ジョー。俺も楽しむから・・・。」 
 きっと、健はあれからこいつの所に戻ったに違いない。ジョー 
はそう睨んでいた。こいつが手掛かりの筈だ、と・・・。 
  
 狙いは当たった。 
「で、あのミスターを何処へ連れて行ったって?正直に言わねえ 
と、今度はその細っこい顎を砕くぞ!」 
「酷い人だな、シニヨールは!ミスターがあんたから逃げたがる 
のは当然だ。」 
 痣になった口元を押さえて、若者が怒鳴った。なるほど、そう 
いう筋書きか、とジョーは健の作り話がだいたい飲み込めた。こ 
の街でのジョーの役どころは、シンジケートから派遣された末端 
組織や売人の監視役といったもので、それに相応しい粋なスーツ 
を着て街に出た。そしてそれは確実に調査のプラスになった。 
「似合うな、ジョー。」と、健が笑ったっけ。 
「おまえもどうにかならねえかな?」と、ジョーは白いコットン 
シャツにジーンズという相変わらずの風体の健に首を捻った。い 
いさ、どうせスーツなんか似合わないんだから、俺は。屈託のな 
い健だったが、実年齢以上の押し出しで、男っぽい容貌のジョー 
と並ぶと、どう見ても実年齢以下にしか見えなかったし、あから 
さまに、あんたの情人か?と訊ねられる事も二度や三度ではな 
かった。犯されるぞ、と、からかうと、 
「じゃ、せめてこうしておこう。」
 と、健は巫山戯けてブルーの バンダナを、ヒップポケットから
半分くらい覗かせたっけ。 
「何だい、そりゃ?」 
「貴君とのノーマルなセックスを希望・・・さ。」 

 何とか今夜、連れて行ってくれよ、と健は若者に持ちかけたら 
しい。俺はあのマフィアから逃げ出したいんだ。みやげは持って 
るぜ、と意味ありげに笑う健をペッピーノの店に案内しただけ 
だ、と、そいつはあっさりゲロった。 
「あれから三日だ。ミスターはシニョールの事なんか憶えちゃい 
ないよ。」 
「どうあっても顎を砕いて欲しいらしいな?たった三日で俺を忘 
れるとは、どういう事だ?」 
 嫌な予感もどうやら当たりのようだった。健は囮用に渡されて 
来たヤクを持ってペッピーノの所へ乗り込み、大きな取り引きを 
持ちかけたに違いない。囮用のヤクは滅多に流通しない極上の品 
だから、当然、相手は食指を動かす。だが、それだけの品を買う 
には大金が要る。どこかの金融機関で大きな金が動けば、つまり 
そこが奴らの金洗い場って事だ。犯罪として、公式発表された数 
字だけでもヤクは年間に五十兆もの利益を黒い奴らに落としてい 
る。ジョーは各国の金融機関の動きを追い続けたが、動きは無 
かった。と、言う事は...健は失敗したと考えざるを得ない。 
「へへ、憶えてるもんか。ペッピーノはそりゃあヤクの扱いも、 
男の扱いも巧いんだから。今頃、ミスターはあいつらの・・・」 
 鈍い音がし、喋っていた若者が派手にひっくり返った。 
「・・・顎の骨はなかなかくっつかねえぜ。」 
 ジョーは微かに血が滲んだ右の拳をゆっくりと撫でると、ペッ 
ピーノの店へと急いだ。馬鹿野郎!何がブルーのバンダナだ! 
  
 タンビニア最後の、になるはずだった晩、健はかなり巧くやっ 
ていた。指先に付けた雪よりも白い細かな結晶に舌を当てて、初 
老の男が感心したように言った。 
「これはいいオピウムだね。で、こいつがどの位、あるって?」 
「シニョール、それはまだ言えません。でも、倉庫の中はミルク 
缶でいっぱいだし、国境フリーパスのデリバリーサービスもある 
んですよ。」 
「へぇ、それはなかなか耳寄りな話だねぇ。」 
 マフィアには見えないな、と言うのがペッピーノと会った健の 
印象だった。文学者か音楽家の方が相応しい風貌と、豊かで優し 
い、そしてきれいな発音で穏やかに話すペッピーノに、油断した 
のかも知れない。架空の取り引きが順調に進むうちに、どこかで 
緊張の糸が弛んでしまったのかも知れない。 
「ま、コーヒーでも飲みながらゆっくり話を詰めようじゃない 
か?ここは喉が乾く街だからねぇ。」 
 と、穏やかな笑顔で言いながら、ペッピーノが勧めた小さな硝 
子のカップに、溢れるほど注がれた素晴らしい香りの、濃厚な 
コーヒーに入っていた何かに気がつかなかった。 
(しまった!) 
 毎回の事だが、そう思った時にはすでに遅い。普段の健だった 
ら、こうした物にはまず口を付けないし、また飲む振りをする事 
で相手を欺いた事だろう。 
(くそ、油断した。) 
 と、身体の変調を自覚した瞬間、唇を噛んで後悔したがもう手 
遅れだった。意識ははっきりとしていたが、麻痺したように身体 
の自由が利かなくなり、くくっ、と笑ったペッピーノの口元が見 
えたのを最後に目蓋も下りた。しかし、聴覚は活きていた。 
「ねえ、坊や、君がオピウム無しではいられないようになったら、 
当然、その在り処は教えてくれるよね?」 
 ちぇ、こいつの方が上手だったか、と悔しかった。しかし、い 
くら俺をヤク漬けにしたって、無いものは無いんだぜ。お生憎様 
だな、シニョール・・・健は心の中でそう呟いて自嘲気味に笑っ 
た。何をされるのかは大方予想がつく。だが、果たしてオピウム 
の見せる白い夢に俺はいつまで抗えるだろうか?せめてジョーに 
連絡をつけるまでは、正気を保っていなくては・・・。 
 呼びつけられた男達が自分の身体を運んで行き、沈み込むよう 
なベッドに寝かされたのが分かった。エキゾチックな香りは何か 
の花だろうか?香料だろうか? 

「坊やはきれいな肌をしているね。」 
 柔らかい指が白いシャツを脱がせて行き、柔らかい声がそんな 
事を言った。注射をするのにシャツを脱がす必要があるんだろう 
か?それにこの物言いは?と、健が訝しむ間も無く、その柔らか 
い指と声の持ち主がいつもは存在を忘れている胸の突起を丹念に 
愛撫した。 
「ん...」 
 と、声を出してから、健は声が出せる事に気付いた。だが、 
待ってくれ、と言おうとして、喋れはしない事にも気付かされ 
た。運動中枢、言語中枢の麻痺。感覚はある。いや、いつもより 
も鋭敏なくらいだ。恐らく目蓋さえ上がれば、視覚も問題なく機 
能しているだろう。 
「君は可愛いね。ノーマルな、とは行かないかも知れないが、 
なぁに悦くしてあげるよ。」 
(くそ、ブルーのバンダナはただの冗談だぜ、シニョール。) 
 と、健は眉を寄せた。だが、忌々しい退化器官がもたらす感覚 
に息が弾む。自由にならない身体が硬くなり、濡れて行くのが、 
すごく不思議だった。柔らかい指がジーンズへと移動し、 
「ああ、楽にして。大丈夫だからね。」 
 そう言いながら、ジッパーを下ろしたのはそいつの指だったよ 
うだが、ジーンズを抜いたのは誰か他の手だったようだ。確かに 
数人の気配を感じる。って、事はペッピーノがしているこの馬鹿 
げた悪戯をそいつらが見物してるって訳か? 
 少し乱暴に、誰かが両手をヘッドボードに括った。それから、 
服を脱ぐような衣擦れの音とともに、カチャンと小さな音をさせ 
て、誰かが何かを準備している。 
(何をしてやがる?)  
 と、健は再び訝しんだが、答えはすぐに分かった。男達は見物 
していた訳ではなかった。ごつい手が身体を開き、そして、健は 
悲鳴を上げた。 
「うぁ・・・っ!」 
 声だけが自由にならない身体に代わって抵抗してくれたが、引 
き裂かれるような痛みは少しも軽くはならない。 
「おや、痛かったかい?可哀想に・・・でも、すぐに悦くなるか 
らね。」 
 柔らかい声が湿った笑いを含んで降って来た。身体の中に入っ 
て来たのは、恐らくもっと若い男で、こいつがしている馬鹿げた 
事を今度はペッピーノが笑いながら見物しているらしい。屈辱と 
か羞恥心以前に、健は苦痛と戦わなければならなかった。 
「0号を試した事はあるかい?こいつはね、最初に味わった方法 
でしか効かないんだよ。」 
「うう・・・。」 
「ね、悦くなって来ただろう?悦い夢をご覧よ、坊や。」 
 巫山戯るな!とカッとなったが、オピウムの見せる夢は白くて 
甘い。苦痛は言いようのない快感へと姿を変えつつあった。 
(駄目だ!) 
 健は心の中で叫んだ。 
(駄目だ!飲み込まれたら、終り・・・だぞ。) 
 しかし、抗い切れずに全身が小刻みに震えた。 
「あ・・・ああーっ!」 
 喉から叫び声が迸り出た。コーヒーに混入されていた薬物が切 
れたのか、唐突に動きを取り戻した両手の指が、手首を括ってい 
る例のブルーのバンダナを握りしめ、長くなっていた躯幹と背が 
引き絞られたように円く縮む。健はそれでも唇を噛みしめて耐え 
ようとしたが、耐え切れなかった。そして肌にまといつくような 
豪奢なシルクの上で、一瞬の死を迎えた後のぼんやりと薄く開い 
た空色の瞳を、満足そうなペッピーノの瞳が見降ろしていた。 
  
 「ちくしょうっ!」 
 掠れた声で何度、そう罵った事だろう?そして、繰り返し、 
「やめろっ!」 
 と、怒鳴ったが、全ては徒労に終わった。いや、反撃は数度、 
功を奏し、誰かの肋は膝で確実に蹴り折ってやったし、誰かの鼻 
も潰れたはずだ。だがそれでも、 
「いいね。坊やはプライドが高くて、強いんだね。」 
 と、ペッピーノは嬉しそうに笑い声を立てるだけだった。部下 
の事など何とも思ってないという訳か?その冷酷な目とは裏腹 
に、優しい声が繰り返し訊く。 
「ねえ、オピウムはどこに在るんだい?」  
 そのたびに、何を言ってやがる、とばかりに健はペッピーノを 
睨みつけ、 
「汚いぞ!ヤクを横取りする気か?俺は取り引きに来たんだ。 
さっさとこの悪巫山戯をやめろっ!」 
 そう啖呵を切ったが、相手は意に介さず、  
「怖い目だな、坊や。まるで鷹か鷲みたいだねぇ。」 
 と、そのたびに笑われた。そして力づくでまた0号を味あわさ 
れ、健は徐々に身体の変調を自覚させられた。身体の中に塗り込 
められた0号と呼ばれる高純度オピウムのアルカロイドが、腸管 
から吸収され、急速に身体中を支配して行く。因によく下の口に 
酒を飲ませると酔いが早いと言うが、粘膜から吸収された物質は 
門脈血に乗って肝臓を経由した後、心臓へ送られ体内を循環す 
る。だから吸収は極めて速やかで、効果も大きい。 
「ちくしょ・・・」 
 幾度目かの罵声の語尾が掠れ、健の抵抗は唐突に止んだ。くら 
りと眩む目眩に抗し切れなくなり、酩酊したように意識がぼんや 
りと翳む。白い夢が身体を、心を支配し、健は誰かの腕に抱か 
れ、背を反らせて声を上げた。 
「ね、悦いんだろう?ミルク缶はどこにあるんだい?素直に 
喋ったら、もっとあげるよ。」 
 ペッピーノの声が優しく、根気よく訊ねる。ミルク缶?いった 
い、何の事だろう?ああ、俺が持ちかけたインチキ取り引きの事 
か?でも、きっとジョーが来る。それまで騙し通すんだ。 
「・・・知るもんか!」 
 だから健も、掠れた声で頑固にそう答え続けた。上出来だ。例 
え本当の事を言ったところで、殺されるだけだというのは火を見 
るよりも明らかだったし、それを試みる意味も価値もまったく無 
い。オピウムは無いのではなく、在り処を教えないのだ、と思わ 
せておく外ない。ジョーが来るまでは・・・。 
「まだ自分の置かれた状況が理解出来ていないようだね。残念だ 
な、坊や。」 
 幾度目かのやりとりの後、ペッピーノは初めて苛立たしさを声 
に滲ませてそう言うと、男達に何事か命じ、残忍そうな笑顔を健 
に向けた。 
「可愛い顔をして、なんて強情なんだろうね?でも、今度はきっ 
と話す気になるよ。」 
 それから、チャオ、と投げキッスを残してペッピーノは出て 
行った。後は任せると言ったところだろうし、男達も充分に心得 
ているようだった。 
「やりにくいな。後ろから思いっきり抱きてえのによ」「もう大 
丈夫だろう、手を解け」「じきに泣いて縋り付くようになるさ」 
 そんな声がして、両手の戒めが外された。左手を動かすと真鍮 
のヘッドボードのポールにブレスレットが当たったのか、カチャ 
リと小さな音が鳴った。そうだ、今ならジョーにスクランブル出 
来る、と健はぼんやりとした意識の片隅で考えた。ジョーを呼ば 
なくては・・・来てくれ、ジョー・・・。しかし、実際に左手が
した事は・・・自分を抱いている見知らぬ男の首にしがみつく事
だけだった。 
「へっ、いい顔をするじゃねえか?」 
「さ、こっちへ来な。もっともっと楽しませてやるぜ。」 
 そうしたくないと言う意思とそうしたいと言う身体があった。
 そして、ジョーに知らせたら、もうこの白い夢は見られないぞ、
と、どこかでもう一人の自分が囁いていた・・・。 
  
 朝なのかどうか?だが、健は明るさを知覚して目を開けた。 
「目が醒めたか?」 
 ハッとしたが、起き上がる気になれなかった。汗が乾いた身体 
と、乱れた髪が気味悪かったが、それを掻き上げた知らない指に 
尚更ゾッとし、端正だがあまり表情の無いそいつの顔を、せめて 
もの抵抗に睨む。 
「確かに睨むと怖い目だな。さ、起きて、バスを使え。」 
「もう朝なのか?」 
 無表情な口元が少しだけ綻んだ。 
「何も憶えていないのか?ま、その方がいいか。」 
 そう言いながら、職業的な動作で健の脈を取る。 
「あんたはメディコなのか?」 
 そうだ、こいつは何度か俺に注射をしたんじゃなかったか? 
(もうよせ、オーバードーズで死ぬぞ。) 
 そんな事を言っていたような気もするが・・・でもよく憶えて 
はいない。あれは夕べじゃないのか?俺はここで何をしているん 
だろう? 
「なあ、あれから何日、経った?俺は・・・」 
「よし、正常だ。さ、バスを使いなさい。何も食べていないし、 
目眩がするかも知れないから、シャワーでは駄目だ。バスタブに 
ゆっくり浸かって、身体を洗いなさい。」 
 汗を流してさっぱりしたいと思ったが、身体を動かすのが妙に 
億劫だし、特に下肢が鉛のように重い。こんな事は初めてだっ 
た。健が戸惑ったように空色の瞳を瞬かせていると、壁を隔てて 
数人の男が怒鳴り合うような声が聞こえた。何だ?と思う間も無 
くドアが乱暴に開かれ、ダークブロンドの痩せた男が飛び込んで 
来た。洒落たスーツがよく似合う目つきの鋭い、若い男だった。 
「健っ!無事か?」 
 そいつがそう訊ねた。こいつは・・・誰だ? 
 健にはそいつが誰か分からなかった。 

 ブルーグレイのジョーの瞳に困惑が浮かぶ。来い、と手を掴む 
と健は激しく抵抗した。嫌だ、否だ、いやだ、と、どこか子供っ 
ぽい口調で繰り返しながら、頭を振る健にジョーは怒鳴った。 
「健!しっかりしろ、俺が分からねえのか?」 
 シニョールの事なんか憶えているもんか...そう嘲笑った若 
者の言葉が追い掛けて来るようで、ジョーはやり切れなかった。 
そんな事があるもんか!これは健の芝居に違いねぇ、と無理矢理 
抱き寄せると、チョコレート色の乱れた髪から男のそれの匂いが 
した。健は奴らに何をされたのか・・・?知りたくもない事実が 
鼻を突く・・・。 
「健、おまえ・・・」 
「嫌だ、放せっ!」  
「ま、何人もに姦られたからね。きれいに洗ってから会わせよう 
と思ったのに。あんた、短気だねぇ。」 
 そう言って笑ったのは、ペッピーノの声だった。この野郎! 
と、振り返ったジョーに数丁分の銃口が突き付けられる。 
「痴話喧嘩は後にして、ミルク缶の在り処を教えてくれないか 
ね、シニョール?素直に話してくれれば、坊やは返してやる。」 
 ミルク缶?何だ、そりゃ・・・。健がでっち上げたデマだろう 
か?まっすぐにペッピーノを睨みつけたまま、ジョーは口元に健 
を引き寄せて、 
「健、ミルク缶だとよ。な、どうする?」 
 と、訊ねた。元より様子がおかしい健にまともな返答は期待し 
ていなかったが、意外にも健はフンと鼻で笑うと、しっかりとし 
た口調できっぱりと言い放った。 
「国連の難民援助物資を横取り出来るものならやってみろ!」 
 ジョーは微笑み、ペッピーノは舌打ちした。 
「ちきしょう!とんでもねえ所に隠したもんだ。だが、こんな坊 
や達にそんな事が出来る訳はない。おまえら一体、何者だ?」 
 訝し気に見つめるペッピーノにジョーはニヤリと不敵な笑みを 
見せた。 
「へへへ、当ててみな!なあ、健?」 
 健は正気だ。きっと打つ手があるから、あんなにきっぱりと 
言ったに違いない。ならば、ジョーに怖いものは無かった。が、 
健は大きく目を見張って、えっ?と、ジョーの言葉に驚くばかり 
だった。おい、どうしたってんだよ?健・・・!? 

「それが本当かどうか、連絡が着くまではここにいてもらうよ。 
ま、店の中では自由にしてもらって結構だが、逃げようとは思わ 
ん事だ。撃ち殺されたくなかったら、ね。」 
 ジョーが咄嗟に出した名前にペッピーノは少なからず驚いたよ 
うだったが、そう言い残して出て行った。まあ一応の危機は脱し 
たか、とジョーが安堵の溜息をついていると、おい、と部屋に 
残った医師が呼んだ。 
「なんだ?」 
「記憶が多少混乱しているが、心配は要らないよ。さあ、ヤクが 
切れる前に、坊やを洗ってやれ。このまま抱くのは嫌だろう?」 
 ジョーはカッとなって怒鳴った。 
「おい、抱くってなぁ、そ・・・」 
「じゃ他の奴に抱かせるぞ。ヤクが切れてみれば、君にも分かる 
がね。0号を使ったんだぞ、分かってるのか?」 
 有無を言わさぬ口調でそう言われると、どうしていいか分から 
ない。さあ、と再び促されて、ジョーは健を典雅な脚付きの白い 
バスタブに沈めた。甘い香りの細かい泡に包まれると、健は 
少し恥ずかしそうに微笑んで見せ、声を落として、 
「すまん、しくじった。」 
 と、言った。 
「健、おまえ、やっぱり正気なんだよな?」 
「ああ、今はおまえが分かるぜ、ジョー。でも・・・」 
 健は両手で髪を洗おうとしているようだが、指に力が入らない 
のか、何だかその仕種が擬古ちない。ジョーがシャツの袖を捲っ 
て、ちょっと乱暴にゴシゴシ髪を掻き回してやると、健は逆らい 
もせずに目を閉じて言葉を続けた。 
「ほんの少し前まで分からなかったし、たぶんまた分からなくな 
る・・・と、思う。」  
「どうして?」 
 チョコレート色の髪はこうして濡れた時だけ、素直に真直ぐに 
なる。それは子供の頃から変わらなかった。その濡れた髪の影で、 
健はふふ、と小さく笑い、 
「やられたぜ。0号とやらをたっぷり頂いちまったよ。」 
 と、言って睫毛を伏せたまま、まるで人事のようにこの三日間 
の出来事を淡々とジョーに話した。つまりそれは・・・。 
「じゃ、おまえはその0号の依存症に?」 
「たぶんそうだ。」 
「健、だから俺があの時・・・」 
「ああ、油断さ。おまえの忠告を聞かずに、奴らを舐めてかかっ 
た俺が馬鹿だったのさ!」 
 ジョーが思わず詰った言葉を遮って、健は畳み掛けるようにそ 
う言うと、ククク、と笑い出した。なあ、俺が何をされたか、何 
をしたか、ヤクが切れればおまえにも分かるぜ。ちくしょうっ! 
そう怒鳴って、バシャリ、と跳ね上げた白い泡がジョーのシャツ 
を濡らした。その泡をじっと凝視したまま、健は怖いほど真剣な 
顔で言葉を続けた。 
「ジョー、ペッピーノが聞き出そうとしているミルク缶だが、あ 
れは俺がデッチ上げたガセだ。」 
「やっぱり、か。で、健、どうすればいい?こんな処、とっとと 
おさらばした方がいいんじゃねぇのか?」 
 うん、だがもう少し・・・と、健は曖昧に笑った。虎穴にいる 
んだぜ、分かってるのか?と、ジョーが念を押すと、 
「望み通りになったな、ジョー。」 
 と、いつも通りの憎まれ口で応酬した。しかし、その澄ました 
笑顔とは裏腹に空色の瞳が一瞬、翳り・・・だが、健はそれでも 
ぐいと顎を上げて、真直ぐにジョーを見つめた。 
「ジョー、俺がどんなにみっともない真似をしても・・・」 
 ああ、と、ジョーはそれを最後まで言わせずに頷いて、健の鼻 
の頭に飛んだ甘い香りの泡を薬指で拭ってやった。 
  
 バスルームを出ると、テーブルの上に食事の乗ったトレイが用 
意されていた。あまり表情のない医師が、 
「食べられるか?」 
 と、健に訊いた。たった三日なのに痩せちまったぜ、と言うよ 
うなジョーの批難がましい目に、 
「食い物はあまり与えていなかったからな。」 
 と、弁解し、さあ、と健にスプーンを渡した。 
「おい、食い物を与えなかったって、それじゃ健は何も食わずに 
いたってのかよ?」 
「いや、ブドウ糖は打ってた。酒も飲ませたと思う。」 
「蛋白質なら、けっこう腹に入れたぜ。」 
 スープのボールを掻き回しながら、健が巫山戯た口調で言い、 
ふん、と唇を歪めた。そしてまた、黙ってスープを掻き回してい 
たが、急にスプーンを放り出すと、うっ、と呻いて口を覆った。 
何かを吐き出そうとし、だがそう出来ない苦しさに息を切らし 
て、がたがたと震え出した健にジョーは目を丸くするばかりだっ 
たが、医師は冷静にそれを観察していた。 
「ヤクが切れたな。少しでも食事が出来れば良かったんだが。」 
「そんな落ち着いてる場合かよ?メディコだろ、あんた?早く何 
とかしろよっ!」 
 倒れそうになる健をベッドに運びながら、ジョーが苛立たしげ 
に怒鳴った。健はひどく苦しそうで、冷たい汗を盛んに流して、 
ジョーのプレスが利いたシャツを引き裂かんばかりにきつく握り 
しめる。その震える指にジョーは思わず指を重ねていた。 
「禁断症状を緩和する最も有効な方法は、0号を最初に与えたの 
と同じやり方で挿れて、イかしてやる事だが、どうする?」 
「馬鹿な事を言うなっ!」 
 ジョーは激怒した。しかし、健はその提案に賛成したようで、 
ごくり、と喉を鳴らすと、ジョーのシャツのボタンを震える指で 
外そうとしながら、譫言のように、 
「頼む・・・ヤクを・・・、なあ、頼む、抱いてくれ・・・」 
 と、繰り返した。 
「健っ、駄目だ!よせっ!」 
「頼む、苦しいんだ!なぁ、ヤクを・・・」 
「よせっ!」 
 指をボタンから引き離すと、我が儘が通らぬ駄々っ子のように 
ジョーを睨みながら、なんで抱いてくれないんだ?と、泣き出し 
て、ジョーの厚い胸を叩いた。その手首を掴んで、無理矢理、滑 
らかなシルクのシーツに押さえ込むと、医師が後ろから、 
「そのまま押さえていてくれ。とりあえず鎮静剤を打つ。」 
 と、声をかけてきた。上腕に細い注射針が刺さっても、健は少 
しの間、身を捩って、嫌だ、抱いてくれ、何でもするから、ヤク 
を、と懇願し続けた。そして、薬が効いたのだろう。言いながら 
すぅっと目を閉じてしまった。長い睫毛がうっすらと濡れて、 
宿った涙の露が、色硝子を嵌め込んだシェードランプの灯を虹色 
に反射していた。 
  
 どうにもならない苛立ちに、ジョーは音を立てて舌打ちし、自 
分の掌を殴った。健は今したように、ここの男達にも泣いて懇願 
したのだろうか?「何でもする、抱いてくれ」と。そして、きっ 
と健は何でもしたのだろうし、男達もそうしたのだろうさ。ヤク
を与え、このしなやかな身体を思う存分抱いたんだ。それから、
喋らせるためにわざとヤクを切り、死ぬほどの苦しみを与えたん 
だ。繰り返し、何遍も・・・。 
「くそっ!」 
 低くそう呟きながら、ジョーは健のまだ湿った、だがもう気侭 
な方へと跳ねようとしている柔らかいその髪を撫で、そっと軽く 
開いた円いその唇を指でなぞった。 
「なぁ、先生、健のヤクを抜くにはどうしたらいい?」 
 うん?と、医師が振り返った。 
「禁断症状は怖いぞ。特に坊やにはオーバードーズ寸前って量の 
0号を使ったからな。だが、方法が無い訳ではない。ま、医師の 
指導に従って中毒から離脱させないと、危険は危険だがね。」 
「あんたはヤクに詳しいんだろ?手伝ってくれないか?」 
 ジョーの真剣なブルーグレイの瞳をじっと見つめながら、静か 
な声が訊いた。 
「交換条件付きなら、手伝わんでもない。」 
「どんな?」 
 神経質そうな細い指が、思いがけない程の力でジョーの顎を掴 
んだ。鼻先が触れそうに近づいても、医師の表情はあまり読み取 
れず、何を考えているのか、さっぱり分からなかった。が、 
「君が欲しい。それが交換条件だ。」 
 そう囁いて、そっと触れたその唇の意外な熱さには驚いた。思 
わず身体を硬くしたが、ジョーはじっとそこに留まっていた。 
「どうする?」 
 笑いを含んだ乾いた声が訊ねた。ジョーは医師を押し退ける 
と、青白く燃える目でそいつの目を睨んだまま、黙ってシャツを 
脱ぎ捨てた。 
「ベッドには健がいるぞ。床でやるか?」 
 皮肉な口調で言ってやったが、なに、坊やはどうせ意識が無 
い。こんなに広いベッドだから平気だ、と言い返され、その言葉 
通りに両肩をゆっくりとシルクの上に押しつけられた。   
「きれいな鎖骨だな・・・この古傷がいいアクセントだ。」 
 熱い唇がくっきりとしたジョーの鎖骨を軽く食み、冷たい指が 
発達した腹筋をなぞって、バックルを外す。ゾクッと全身が粟 
立ったが、それでもジョーはじっと動かずにいた。 
「どうした?男に抱かれた事がないのか?」 
 君は勝手そうだものな、と言いながら、ジッパーの中へと指を 
滑り込ませる。くそっ、だが我慢するんだ、とジョーは自分に言 
い聞かせ続けた。何としても健を救わなければならない。 
  
 睨んだままの青白い瞳に気付いたのか、医師が訊いた。 
「目を閉じる気は無いのか?」 
「無いぜ。」 
 ジョーは即答し、それから吐き捨てるように怒鳴った。 
「弄くり回してねえで、姦るんならさっさと姦れよ!」 
「そんな怖い目で睨まれていたら・・・」 
 勃つものも勃たんよ、と医師は笑って、ジョーの身体を放し 
た。怒りに目が眩んで気付かなかったが、え?と瞬いてよく見れ 
ば、そいつは自分のシャツのボタンさえ外していない。上半身を 
起こして、更に瞬きを繰り返すジョーの顔はひどく幼く見えた。 
それを目にすると、表情を忘れたその顔に、優しい、だがどこか 
寂し気な笑顔が広がった。 
「君は俺の恋人にそっくりなんだ。傲慢で、風のように自由気侭 
で、まるで狼みたいに美しい。」 
 俺はそんなんじゃねぇぜ、とジョーはそっぽを向いた。細い指 
が乱れたダークブロンドを慎重に整え、つい、と離れた。その気 
が失せたのか、それとも揶揄われただけなのか? 
「おい、抱けよ!交換条件なんだろ?健を診ないつもりか?」 
「交換条件はもういい。坊やは診てやるから、心配するな。それ 
よりもペッピーノ達が怖くないのか?」 
 へん、と鼻で笑ったまま、ジョーは何も言わなかった。こんな 
所からは、逃げる気になればいつでも出て行けるんだぜ、俺達 
は、と、ばかりに。そうさ、健さえまともになれば・・・と、 
ジョーはベッドに腰掛けたまま、上半身を巡らせて眠っている健 
を見た。 
 傲慢なのはこいつさ。こいつは孤高の鷲だ。鷲はその翼で自由 
に風を攫んで大空を飛翔する。もし、俺が風ならば、やはり俺は 
こいつの翼と共に大空を往きたい。どこまでも・・・。 
「坊やを見る時には、優しい目をするんだな。」 
 感傷が顔に出たらしい。そう指摘され、ジョーは照れて思わず 
親指で自分の鼻の頭を弾いた。と、その時、ドアをノックする者 
があった。 
「何だ?」  
「連絡が着いたそうだ。ドンの部屋へ来てくれ。」 
 さあ、咄嗟に言ったでまかせが吉と出るか、凶と出るかだぜ、 
とジョーは背筋を伸ばした。あいつが相当なドンだと言う事は 
知っていたが、マフィアの事情には疎い。或いは対立関係にある 
場合だって考えられる。果たして?と、半信半疑だったが、ペッ 
ピーノは上機嫌で、軽く片手を振って見せた。 
「あんたが言った通りに、『バンビーノ』で、すぐに通じたよ。 
ああ、ドンに電話が繋がってるんだ。あんたが本物かどうかを、 
確認したいそうでねぇ。」 
 頷いて、豪華な指輪が光るペッピーノの指から受話器を受け取 
ると、豊かな低音が懐かしい言葉を喋った。 
(コメ・ヴァ?よぉ、元気かい、バンビーノ?) 
「コスィコスィ、ああ、まぁまぁ、ってとこだな。」 
 ペッピーノに悟られないように、言葉は出来るだけ少ない方が 
いい。ジョーはいつもの自分の無愛想さにちょっと感謝した。 
(ケ・コーサ・ファ?で、何をやってるんだい?) 
 ジョーは答えなかった。と、何かを察したのか静かに笑って、 
(チャオ、バンビーノ!声を聞けて嬉しかったぜ。) 
 それだけ言うと、さっさと電話を切ってしまった。 
「ドン・ビトーが後ろ楯とあれば、こっちとしても文句は無い。 
疑って悪かったな。手打ちといこう、シニョール。」 
 ペッピーノが愛想良く右手を差し出した。 
「あんたがバンビーノでなかったら、それをこっちに掛けて来る 
事になっていたのさ。」 
 なるほど、マフィアってのは抜け目が無えや、と、その左手に 
握られたセルを横目で見ながら、 
「そうかい?そいつは良かった。」 
 と、無愛想に答えたジョーは、何処にいるのかさえ知らないビ 
トーに、グラッツィエ、と呟いてひとり微笑んだ。ありがとよ。 
助かったぜ、親分・・・。 
「だが、取り引きを持ちかけたのは、あんたを裏切ろうとしたあ 
の坊やだ。だから最後まで喋らせてもらうよ。石を咥えさせるの 
は、その後にしても遅くはないだろう?」 
 石を?咥えさせるって?・・・ジョーは眉を寄せたまま、黙り 
こんだ。それがどういう意味なのかは分からなかったが、迂闊に 
何も言わない方がいいという事は分かる。その表情をペッピーノ 
は違う意味に解釈したらしい。 
「まぁ、あんたの情人だ。坊やはシニョールの好きにしてくれ。 
こっちとしては、どこの何号倉庫にあるのかさえ聞き出せれば、 
それで文句はないからねぇ。」 
「よし、分かった。」 
 と、ジョーは鷹揚に頷いて見せ、盗んだ上質のオピウムを救援 
物資の粉ミルク缶に紛れ込ませたなんて話は、健のでっちあげた 
大嘘で、そんな物は無いんだという事実は噫にも出さずに。 
  
「家に帰って薬を取って来る。目が醒めたら、またあれを繰り返 
すぞ。覚悟はいいか?」 
「ああ、いいぜ。薬って、メサドンかい?」 
「メサドンは合成アルカロイドで、単なる中毒の置き替え物質に 
過ぎない。はっきり言って、麻薬中毒を治す薬品なんてのは無い 
んだ。要はどこまで耐えられるかだけさ。本人と、それから周り 
の人間が・・・。」 
「大丈夫さ。ああ見えて、健は俺なんかよりもずっと強い。だが 
何故?ヤクを欲しがるのは分かるが、あいつは自分からあんな事 
を言う奴じゃねえぜ。」 
「オピウムから精製したモルヒネが麻酔薬なのは知っているな? 
つまりアルカロイドは主に神経系に強く作用する薬理効果がある 
んだ。男でも女でもセックスの快感とトリップを込みで身体に覚 
えさせるのが、ま、俺達のテクニックだし、特に0号はそのため 
に作られたヤクだからな。注射しても吸引しても、他の方法では 
まったく効かないのさ。」 
「だから、あんなに抱いてくれって言うのか・・・。」 
「そうだ。だから、どんなに淫らな言動を取っても、それは坊や 
じゃなく、身体の中にある0号がそうさせてるだけだ。」 
 思わず顔をしかめたジョーに、肩をすくめて見せながら、 
「コカインもマリファナも、いやニコチンやカフェインだって、 
程度の差はあってもみな同じ植物塩基だ。有毒で、中毒しやす 
く、オーバードーズでは呼吸中枢を冒して死に至らせる。だが、 
方法はある。0号の治療には合成アルカロイドの代わりに、セッ 
クスを使う事が可能なんだ。助けたければ、何としてでも我慢さ 
せて、ある程度、離脱が進んだら、十倍希釈の0号を与える。」 
「与えるって、またヤクを?」 
「毒には毒を、と言うだろう?ま、とにかくしばらくは禁断症状 
に苦しむぞ。しっかり見張ってくれよ。」 
 そして、欲しがったら抱いてやれ、そっちは許可する。いや、 
せめてそっちだけでも満足させて、苦しさを忘れさせてやれ、と 
笑って、医師はドアを開けた。それから、そこで振り返り、淡々 
とした口調で言った。 
「俺の恋人はヤクに連れて行かれたが、君なら坊やの手を離しは 
しないだろう。俺もそうすべきだったよ・・・。」 
 おい!と、声をかけたが、もうドアは閉ざされていた。 
  
 大きくて柔らかなベッドの、健の足元の辺りに無造作に転がっ
て、ジョーは少し微睡んでいたようだ。覚束ない夢の中で、健の
柔らかい唇が唇に触れた。ハッとして目を開けると、空色の大き
な瞳がすぐ目の前にあった。額に落ちた前髪を人差し指でかき上
げてやりながら、ジョーが訊いた。 
「健、目が醒めたのか?気分はどうだ?」 
「なぁ、欲しいんだ。抱いてくれよ。」 
「どこか苦しいところはないか?」
「・・・今日はあんただけなのか?」
 すれ違うその応答に、ジョーは苦笑し、それから秋の空みたい 
に澄んだ目で、真直ぐに見つめている健の頬をそっと両手で挟み 
込んで、そっと囁いた。 
「ああ、俺だけだ。おまえはもう他の誰にも触らせねえぜ。」 

 暖かい色のシェードランプの灯りが二人を包む。まとわりつく 
ように豪華なシルクには、水面に小石を投げた時に浮かぶ波紋に 
も似た同心円が緩やかに広がり、吐息は熱く、甘い・・・。 
 うっ、とチョコレート色の髪の陰で健が眉を寄せた。 
 ジョーのダークブロンドを掴む指に力がこもる。 
 ああ、という声とともにゆっくり弛緩したそのしなやかな身体 
を、ジョーは優しく抱きしめた。 
 幾度となく健は苦しみ、それから逃れるために求め、繰り返し 
ジョーはそれに応えて、夜が明けた。 

 ジョーはまだ眠っていたい様子の健にバスを使わせると、用意 
させた食事を食べさせようと試みた。 
「腹っぺらしのおまえが食わないってのは、おかしいな、健。」 
 メディコも何か食った方がいい、と言ってたぞ、と言い聞かせ 
てみたが、健は気のない顔で口を開こうとしない。さて?と見る 
と、トレイの上にこの辺りの名物なのか、どこででも見かける 
ちょっと小振りだが、甘くて水気の多い黄緑色の葡萄があった。 
それは、あの時、健がジョーに差し出したあの葡萄だった。 
「お気に入りの葡萄があったぞ。食えよ、甘いぞ。」 
 と、宥めすかすように言っても、健は口を開こうとしない。 
 健はコーヒーに薬物を盛られた、と言っていたっけ。もしかし 
たら、それを口にした事を悔やんで拒食しているのかも知れな 
い。夕べはスープを飲み込もうとして、激しい拒否反応を起こし 
たし・・・そうか、ならこうしたら、と、ジョーは数粒の葡萄を 
口に含み、ゆっくりと咀嚼して見せた。二、三度瞬いて、空色の 
瞳がそれをじっと見ている。もう一粒もぎ取ると、今度はそれを 
健の柔らかい唇に、舌で押し込んでみた。その瑞々しい甘さに、 
健は少し驚いたような表情を見せ、それからそれを飲み下した。 

「物を食うようになったのか?」 
 戻って来た医師の言葉に、ジョーは頷き、 
「ああ。まだ手間がかかるがね、こうやると食うんだ。」 
 親鳥に餌を貰う雛のように、ジョーの唇から受け取った物なら 
健は何でも食べた。それでいい。坊やは若い。胃が動き出せば、 
すぐに食欲が戻るだろう、と、医師は満足そうにその様子を眺め、
そして、 
「ドルチェ・ヴィータ・・・だな。」 
 と、笑った。 
「何を言いやがる。」 
 と、ジョーは怒って見せたが、確かにそれは甘い生活だった。 
求められれば抱き、身体を洗って髪を梳き、そして口移しに食事 
を与える。定期的に健はひどく震え、濃度100%の0号を欲し
て狂躁状態に陥ったが、そんな時にはしっかりと胸に抱きしめて、
鎮静剤が効き、眠りに落ちるまでそうしていた。 
 三日後、ジョーの献身は報われた。 
「ジョー!」 
 ある夜、健はしっかりとした声でジョーを起こした。 
「健、おまえ・・・。」 
「すまなかったな、ジョー。もう大丈夫だ、ありがとう。」 
 少しはにかんでそう言った健の空色の瞳には、いつもの強い光 
が戻っていた。ジョーの顔に明るい笑みが浮かぶ。 
「ペッピーノはまだミルク缶の在り処を探っているか?」 
「ああ。おまえからそいつを聞き出すのが、俺の役目だぜ。」 
 にやり、と歪めた口元を、ジョーのダークブロンドに付けて、 
健は何事かを耳打ちした。 
  
 部屋に駆けつけたペッピーノはひどくご機嫌だった。 
「坊やが喋ったそうだね?」 
 ああ、とジョーはペッピーノの上機嫌とは裏腹にひどく沈んだ 
顔で頷くと、ベッドに俯せた健の腕を手荒く引っ張って、起き上 
がらせた。不貞腐れた顔で「痛い」と訴える健を「うるせぇ!」 
と恫喝し、さあもう一遍言ってみろ、と、チョコレート色の髪を 
掴んだ。唇を噛んで、ジョーを睨みつけていた健だったが、やが 
て屈したように項垂れて、 
「・・・Gの、2号だ。」 
 と、絞り出すように言った。 
「G・・・ジャーマニーか!そこの2号倉庫だな?ちきしょう、 
あの噂は本当だったんだ!おい、ボンのマルチェロに連絡しろ。 
でかいヤマだぞ、急げ!」 
 てきぱきと指示を下すと、ペッピーノはジョーの肩を抱いた。 
「グラッツィエ、シニョール。坊やの事は御悔やみ申し上げる。 
オメルタを破ったとは言え、あんたの大事な坊やを・・・。」 
「いや、俺もマフィアだ。落とし前は自分でつけるぜ。」 
 さすがはドン・ビトーの身内だな、と大袈裟に感心して、ペッ 
ピーノは出掛けて行った。くすっ、とジョーと医師が笑い、健は 
ブレスレットの交信スイッチを叩いた。 
「こちらG1号、シンジケートに動きがありました。至急、ボン 
の国連軍基地に連絡して下さい。難民救援物資用倉庫の・・・」 


「さぁ、今度こそ俺達の任務はここまでだぜ、ジョー。」 
 と、健は言った。古い街並みと紺碧のアルマラ海を見下ろす白 
壁の塀の上に器用に腰掛けて、黄緑色の葡萄を口に運びながら、 
ちょっと優しい口調でそう言う。 
「なぁ、健、おまえ、どうしてミルク缶にオピウムが隠されてい 
るなんて思いついたんだ?」 
 ん?と、葡萄を食べる手を止めて、健は惚けた顔で答えた。 
「いや、俺の思いつきじゃないんだ。そういう噂があるってのを 
何かで読んだのを思い出してね。だけど、ペッピーノが端から乗 
り気になったから、ははぁ、本当にそういう噂があるんだな、と 
思ったのさ。」 
「国連の、と言ったのは?」 
「フリーパスで国境を越えて運ばれる物と言ったら、救援物資く 
らいだし、大抵は国連軍の倉庫にあるから、うまく誘き寄せたら 
奴らを一網打尽に出来るかな、と思ってね。」 
「健、おまえ・・・!」 
 呆れたぜ。あんなにやられながら、何て強かな奴なんだ、と言 
わんばかりのジョーに、だから、ジョーももっと本を読まないと 
な、と尤もらしく説教しながら、健は葡萄を差し出した。 
「食えよ、ジョー。すごく甘いぞ。」 
 要らねえよ、とそっぽを向こうとしたジョーの顎を健が素早く 
掴んだ。何だよ?と、丸くなったブルーグレイの瞳を空色の瞳が 
覗き込む。ゆっくり、優しく微笑むと、健は唇でもぎ取った一粒 
の葡萄を、そっとジョーの唇に渡して甘い声で囁いた。 
「グラッツィエ、イル・ベッロ。ミ・アモーレ、ジョー。」 

- Fin - 
Art by ゆうと・らん


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