ANOTHER STORY OF THE GATCHAMAN バナー


I WISH I HAD WINGS
/AFTER STORY OF THE GATCHAMAN F


by 鷲尾さゆり



< PROLOGUE >

 そして、火の鳥は翼を広げ、彼らは還って来た。  そして、それから・・・。
 健の望みは、もう一度、空を飛ぶことだった。  おおよそ健は、何事においても諦めるという事をしなかった。 困難に出遇えば、いつも論理的に、常に冷静にそれに立ち向かい (ジョーが知る限りにおいて、 健はいつもそうだった。例え出 会ったばかりの僅か十かそこらの子供の時でさえ)、それらを乗 り越えて来た。 そして、その不撓不屈の精神は今も健を支える、 最も大きな力になっているらしい。  健は健だ。健は変わらない。何があっても。
 健の望みは、もう一度、空を飛ぶことだった。  そのために健は、かつてそうだったように、いつも前向きに (時には信じられないような精神力のみで)生きていたし、また 自分の夢や希望を見失いもしなかった。しかし、健は「絶望」と いう言葉を知らない訳でも、理解出来ない訳でもあるまい。いや、 もしかしたら、幾度もその底で、途方にくれ、項垂れて涙を流し たのかも知れないが、ジョーでさえ(既にこれまでの人生の半分 以上を共に生きてきたのにも関わらず)健が、絶望というものに 屈した姿は見た事が無かった。
< 1 >
 
 だから、ジョーには健の突然の涙が信じられなかった。 「どうしたって言うんだよ、健?」  思わず掴んだその肩が驚くほど緊張したので、ジョーはそっと 指の力を抜いた。 「苦しいのか?どこか痛むのか?」  いや、と健は頭を振った。 「痛くはないさ。ただ・・・悔しいんだ。」  頬をつたう涙を拭おうともせずに、健は目を伏せたまま小さく 答えて、それからゆっくりと睫毛を上げて真直ぐにジョーを見た。 「ジョー、俺はもう空を飛べないかも知れない。」 「なんでだよ?体調は安定しているし、リハビリも上手くいって るんだろ?そりゃジェット戦闘機は無理かも知れねえが、おまえ のセスナにはきっと乗れるようになるって、安部博士も言ってた じゃないか?」  ああ、と健は頷いて、少し微笑むと、しかしもうジョーの顔を 見ずに、窓の外に広がる青い空を眺めながらポツリと言った。 「イーグルワンで飛びたいな、あの空を・・・。なぁ、ジョー、 もし俺が操縦出来なくなったら、おまえがあいつのスティックを 握って、俺を乗せて飛んでくれるか?」  健らしくないその言葉に、ジョーはどきりとしたが、 「そりゃ構わんが、あいつはおまえの大事な恋人だろ?俺にステ ィックを渡しちまってもいいのかよ?それにあれは単座じゃない か。やっぱりおまえが自分で飛ばさないとな。」  動揺を巧みに軽口に代えることが出来たし、健も笑ってくれた。 しかし、だから頑張れよ、健・・・そんな月並みな励ましの言葉 しか言えない自分に、ジョーは腹が立った。
 そもそも全員が生きて還った事自体、奇跡と呼んでも不思議は 無かったが、健が生きている事は、奇跡以外の何物でも無かった。 しかし、ISOも、そして健自身も(例え意識が無くとも、だ) 決して諦めず、その生命を繋ぎ留めたし、やがて徐々に「回復」 という言葉さえも口にされるようになった。  そんなある日、 「おまえも忙しいんだろ?そうしょっちゅう来る事はないぜ。」  PTの指導でごく簡単な運動プログラム(健にとっては決して 「ごく簡単」とは言えなかったが)を黙々とこなしながら、健は そう言った。まだ起き上がる事さえままならなかった頃、そして 少しづつ動く事を取り戻し始めた頃、ジョーが手を貸そうとする と、健は決まって、 (いや、いい。)  と、断った。むろん、ジョーの手を借りなければならぬ事の方 が多かったのだが、それでも健は必ず一度は断った。 (遠慮するなよ。)  そう言って差し出した手を取りながら、健は外方を向いた。 (・・・恥ずかしいんだよ。)  そうか、とジョーはそれからと言うもの、本当に必要な時にし か手を出さなかった。病んで、弱った自分を、見苦しい様を晒す 姿を見せる、その恥ずかしさがジョーにはよく解ったし、それが 男の意地なんだろうとも思った。 (へ、何を言いやがる。ぶっ倒れそうな病人のくせに。)  だが、時にはわざと揶揄って、 (なにをっ!)  と、健を怒らせたりもした。負けん気を剥き出しにして怒る健 を見ると、ジョーは安心した。こうして意地を張っているうちは、 決してこれより悪くはなるまい。 (美味いか?さ、よく噛んで食えよ。) (憶えてろよ!動けるようになったら・・・) (楽しみにしてるぜ、健。)  と、処方食を一匙づつ口に入れてやったりもしたが、ジョーは 健の回復とともにあまり頻繁に姿を見せなくなった。リハビリの プログラムに必要なのは、経験豊かなPTやOTで、ジョーでは なかったから。
 それがどうだ?久しぶりに訪ねて見れば、健は着実にリハビリ の効果を上げていたし、げっそりとしていた頬もいくらか円やか な線を取り戻していたのに、あの涙だ・・・そして、あの弱音は いったいどうしたと言うのだ?・・・腑に落ちない思いでユート ランドシティーへ戻ったジョーは、翌日の夜明けを待たずに健の 主治医からの呼び出しを受けた。 「安部博士?こんな時間にどうしたんです。いや、健に何かあっ たんですね?あいつがどうかしたんですか?・・・ええ、すぐに 行きます。えっ、ヘリを?・・・あ、はい、分かりました。」  病院の緊急搬送用のヘリが既にここへ向かっていると言う事は、 事態は一分一秒を争うほど切迫している、と言う事だ。ジョーは 相変わらずのトレーラーハウス(最上級クラスのものに買い換え たが)暮らしだったが、気に入りのG2号機とともに健の飛行場 にそれを置いていた。こういった緊急事態に備える為だ。ヘリは 周囲の楡の木の眠りを妨げただけで、ジョーをピックアップし、 上空へと斜めに舞い上がりながら、早くも機首を北へと向けた。
(まさか、あいつが・・・!)  不吉な予感に胸が痛い。だが、ジョーはその思いを必死で振り 払い続けた。 (博士はそんな事は言ってやしなかったじゃないか。) ・・・だが、昨日の健はおかしかったぞ? (いくら健だって、気が滅入ることも、落ち込むこともあるさ。) ・・・いいや、あの涙はどうした訳だ? (健はもともと、涙もろい奴なんだよ。) ・・・しかし、もう飛べないとか言ってたじゃないか? 「うるせえやっ!」  ジョーは自分に怒鳴った。驚いたパイロットが、どうしました? と、訊ねた。
 ヘリの到着を待ちかねたように、主治医の安部と他のスタッフ、 それから警備員達がジョーを囲んだ。 「何ですって?健が?・・・まさか!」 「本当なんだ。ジョー、一刻も早く健を探し出してくれ!出入り 口はすぐに封鎖したし、我々や警備員も見張っているから、ここ からは出ていないはずだ。」  説明を聞いても、ジョーは俄に状況が信じられなかった。あの 健が担当医を攻撃し、いなくなった、と言うのだ。  健が?そんな馬鹿な・・・いったい、何故? 「で、ドクター・カインはどうしました?」  ジョーは、案内された中央コントロールルームで、病院とその 付属施設の立体的な見取り図が表示された大型のモニタに素早く 目を通しながら、訊ねた。 「重症だが、幸い、命に別条は無い。」 「そいつは・・・運が良かった・・・。」  この見取り図を記憶しろ!さぁ、早く。広いが単純な構造だ。 わけはない・・・。 「俺、一人で行きます。誰も来ないで下さい。」 「どこにいるのか、もう分かったのか?」  ジョーは口の端で笑うと、 「俺は長年、あいつと一緒に戦って来たんでね。」  と、コントロールルームを後にした。
「健、いるんだろ?俺だ。さぁ、出て来いよ。」  通常なら退路が無いはずの屋上だが、俺達には翼があった。一 番の高みに昇れば下界を把握する事が出来る。一番高い中央棟の 屋上へ出るドアの陰からジョーは健を呼んだ。迂闊に姿を晒す事 は禁物だ。影は前触れも音も無く、稲妻のように攻撃する・・・。 それが俺達の戦法だった。忘れようたって、忘れられる筈も無い。 「けぇーん!どこだぁ?」  こちらの存在を明確にする為に声を大きくして、再度呼んだ時、 「ジョー、こっちだ!」  と、健の声が薄くなって来た闇の中で応えた。ジョーはホッと 胸を撫で下ろした。健の声には殺気が無い。いや、むしろあまり にも無防備な声に聞こえた。 「どこだ?健、どこにいる?」 「ジョー、ここだよ・・・」  声を頼りに大人の背丈の倍はあろうかと思われるフェンスへと 進む。が、人影は無い。 「ははは、ここだ、ここだ。」  ぎょっとして振り仰ぐと、健はそのフェンスの上に(四、五十 センチ程だろうか?フェンスは上部を内側に曲げてあった)まる で居間に立つ気軽さで立っていた。  健と虚空を遮るものは何も無い・・・。 「健っ!」  健の望みは、もう一度、空を飛ぶことだった。 (まさか?)  ジョーの心臓がドキリと鳴った。しかし、健は右手を上げて、 スッと前方を指差すと、 「見ろよ、太陽だ。」  と、屈託のない声で嬉しそうに言った。折から昇って来た朝日 を浴び、その笑顔はまるで輝くように美しかったが、ジョーには それがひどく怖く見えた。
 健がおかしくなったのは、その夜からだった。  だが、それは主治医であり、絶望的だった健の生命を甦らせた 安部博士達によって、ある程度予測されていた事らしい。つまり こういう事だ。彼らの画期的な治療によって、生存可能なレベル にまで健の体細胞は再生したわけだが、既に破壊されてしまって いた細胞は再生のしようが無い。  人体で最も壊れやすい細胞は、生殖細胞と脳神経細胞である。  通常の老化においても、人はまず生殖機能を失い、そして物忘 れが激しくなったり、時としてわけの分からない言動を取ったり する、いわゆる痴呆と呼ばれる状態になるものだ。精神医学者の A・アルツハイマーの研究から、一般にアルツハイマー病と称さ れるこの痴呆は脳実質細胞の疾病であり、若年にも起こり得る。 健の症例はこれに類似していた。 (健の脳細胞の破損部位は修復のしようがない。)  それは、健の担当チームの医学者全員の見解だった。 (しかし今夜まで、健は目立った脳性の症状を現わさなかった。 記憶に多少の混乱はあったが、それはおそらく南部博士が遺され た例のデバイスによって、一部がロックされているからだろう。 それに細胞や神経を活性化させる事で、もしかしたら新しく発達 したニューロンやシナプスによる伝達がうまくいっていたのかも 知れない。だが・・・)  だが、それも希望的観測に過ぎなかったようで、健は突如とし て、痴呆と思しき症状を呈し、こうなるとその他の脳性の症状も 発症するのではないか?・・・。  安部の懸念は、この夜を境に現実のものとなった。  
< 2 > 

「ジョー!」  外で自分を呼ぶ健の声に、ジョーは現実に引き戻された。  そうだ、情緒不安を軽減する為に(あの夜以来、健は手の平を 返したように治療を拒み、病院にいる事さえ嫌って、ひどい状態 に陥ってしまった)転地療法が検討され、二人はこのサン・ドニ へとやって来たのだ。もちろん、ドクター・カインに重傷を負わ せた事に起因する、一種の隔離的な転地でもあった。  少年の頃、幾夏かを過ごしたサン・ドニのこのサマー・ハウス。 南部と一緒だった事もあれば、二人きりだった事もあった。  この島へ来たのは、もう何十年も前だったような気がするが、 実際にはまだ十年と経ってはいない。サン・ドニの陽は、少しも 変わらず白い壁に濃い陰を落として、ただひたすら眩しかった。  そして、白いビーチと紺碧の海。その海と遥か水平線で一つに 溶け合う真っ青な空。吹く風は気紛れに、木々の葉と人々の心を ざわめかせて、時を止める・・・。
「ジョー!早く来てくれ、ジョー!」  また、健が呼んだ。 「ああ、今、行く。何だって言うんだよ、健?昼飯の支度をして るってのに。」  ペーパータオルで手を拭きながら外へ出たジョーは、ブルーグ レイの目を丸くした。広い木製のデッキの端に健が倒れているで はないか。慌てて駆け寄ると、困ったような青い瞳がホッとした ように瞬いた。 「おい、大丈夫か?」  抱き起こすと、健は泣き出しそうな顔でジョーの白いシャツを 握りしめた。 「転んだのか?どこか打ったか?おい、健、何とか言えよ。」  だが、健は何も言わずに、ただしがみつくばかりだ。とにかく 傷の有無を確認しなくては・・・と、立たせようとしたが、健は 立とうとしない。 「け、ん?」 「・・・立てないんだよ。」  健はそう言うと、今度は本当に泣き出した。
「ええ、そうです。自力ではまったく立つ事が出来ません・・・ いえ、さっきまでは歩いていました。ほんの十分かそこら、目を 離した間に・・・これから、すぐに?はい、待っています・・・ ええ、どうも。」  安部に連絡が付いた。すぐにヘリで来てくれるとの事だったが、 二時間やそこらはかかるだろう。ジョーは誰がどんなに望んでも、 健を病院から出すのではなかった、と後悔したが致し方ない。 「健、安部博士が来てくれるからな。もう少しの辛抱だぞ。」 「ドクター・カインは?ジョー、どうして、ドクター・カインは 来てくれないんだろう?」  う、とジョーは返答に詰まった。そんな事を言ったって、ドク ター・カインはおまえが・・・。だが、当の健はそんな事を少し も憶えていない様子で、時々、思い出したように担当医の不在を 安部やジョーに訊ねた。 「ドクター・カインは休暇中だそうだ。」  いつもの誤魔化しを繰り返し、ベッドに寝かせたが、健は不安 なのか、嫌がって大人しく寝てはいない。自由にならない身体に 焦れて、無闇に暴れるのでついにベッドから転げ落ちてしまった。  回復しつつあった、と言っても、健の身体はもはや実際の年齢 や外見通り、という訳ではなく、例えば肺胞もその表面積の四分 の一はまったく機能していない。また、臓器だけでなく、骨や靱 帯、筋肉等も組織自体が脆くなってしまっている。 「暴れるなっ、骨が折れちまうぞ!」  床に落ち、うっ、と息を詰まらせて、苦しそうに顔を歪めた健 に、いたたまれずにジョーは怒鳴った。ちきしょう!どうすれば いいんだ?・・・どうすれば? 「じっとしてろよ。な、健。」  そうなだめながら、ジョーは一緒にベッドに上がって健の身体 を胸に抱いた。こうしていれば、少なくとも落ちて怪我をする心 配は無い。肌の温もりと心臓の鼓動は人を落ち着かせる。最初は もがいていた健も、じきにジョーの厚い胸に片頬を埋めるように して、おとなしくなった。 「ジョー・・・。」  ふいに健が呼んだ。 「なんだ?」 「あんまり無理をするな、俺はおまえが心配で・・・。」  思わず見下ろした健の瞳は、秋の空のように澄んで、遥か彼方 を見るように遠い。ジョーは苦笑して、 「ああ、お互いにな。」  と、答えた。
 ジョーが初めて健に会ったのは、確か九つの時だった。 (はじめまして。)  可愛い笑顔を見せて、行儀よく握手を求めた健のその手を握り 返すまでには、優に一年以上かかった。何故なら、ジョーは健が 嫌いだった。いや、初めて引き会わされたその時から「大好き」 だったのだが(健を嫌う者が果たしてこの世にいるのだろうか? そんな疑問を抱くほど、実際、健は誰にでも好かれ、愛された)、 それを素直に認めるのが嫌だった。故郷にいる友達よりも親しい 友人など欲しくはなかった。 (仲良くしなさい。君達はどうしてそう喧嘩ばかりするのかね?)  擦り傷と青痣を作り、幾度、南部にそう諭されたか分からない。 悲しそうに眉をひそめる博士の顔を見ながら、 (すみません。)  と、健は心底すまなそうな顔で下を向き、ジョーはそれでも、 フン、と外方を向いた。  だが、やがて・・・。
「なぁ、健、憶えているか?俺がおまえが大事にしている写真を 隠しちまった時の事を。」  デッキへと開いた大きなフランス窓から心地よい風が吹き込み、 更紗のカーテンが音を立てて揺れている。強烈な陽射しのサン・ ドニだが、湿度が低いので日陰は驚くほど快適だ。白い日向と、 濃い日陰のコントラストがなんだかモノクローム写真のようで、 ジョーはそんな事を思い出した。 「ほら、あの写真だ。憶えているだろう?」  ナイトテーブルには病室から持って来たその古い写真が飾って ある・・・スーツ姿の健の父、綺麗に髪を結った健の母、そして 母に抱かれた幼い健。 「おまえ、ものすごく怒ったっけなぁ・・・。」  憶えているのか、いないのか?いや、聞いているのか、いない のか?健は機嫌がいい時に吹く口笛を低く吹きながら、ジョーの 胸にもたれていた。
(返せよ!)  きっぱりとそう言って、ジョーを睨んだ青い瞳の激しさは今も 忘れられない。  発端はつまらないジェラシー。  以前、暮らしていた施設のキャンプに招待されて、嬉しそうに 出掛けて行った健。ジョーにはそれが面白くなかった。自分一人、 慣れ親しんだ友達にもう会えない。それも腹立ちの原因だったが、 嫌いなはずの健が自分よりも他の友達と親しくする事に、何故か 無性に腹が立った。 (なんだよ、面白くもない!)  と、健のデスクからその写真を取り上げた。  戻って来た健は、すぐにそれに気付いた。 (ジョー、ここにあった写真を知らない?)  その問いに、ジョーがニヤリと笑うと、健の形相が変わった。 (返せよ!) (嫌だね。)  それからはもう掴み合いの大喧嘩だったが、ジョーは意固地に なって写真を返そうとしない。 (返せったら!)  ジョーは、健がムキになればなるほど、怒れば怒るほど、愉快 だった。ざまあみろ、泣けばいいんだ・・・と。 (ヘン、返して欲しけりゃ、俺の靴にキスしろよ。そうしたら、 返してやるぜ。)  健が、ぐっ、と詰まったのが分かった。互いにプライドが高い のは知っている。だから、嵩にかかって、更に怒鳴った。 (マーマとパーパの写真があるから何だって言うんだい!さぁ、 ひざまずいて俺の靴にキスしろよっ!)  と・・・殴りかかってくると思っていた健は、黙ったまま膝を 折ると、ジョーのスニーカーにそっと唇をつけた。それから身体 を起こし、真直ぐにジョーの目を見ながら、静かに言った。 (ジョー、写真を返してくれよ。)
「俺はあの時、おまえには適わねえや、って思ったぜ。」  健は口笛にも飽きたのか、黙ったまま目をつぶっている。額に 落ちた前髪を掻き上げてやりながら、ジョーは一人言葉を続けた。 「俺が返した写真を、一番大切にしていた写真を、おまえは惜し 気も無く、滅茶苦茶に破いたっけな。それからにっこり笑って、 言ったっけな・・・。」  健のその言葉が忘れられない、あの笑顔が忘れられない。 (これでフェアになっただろう?)  ジョーは泣いた。泣いて、帰って来た南部に一部始終を話した。 頑なに周囲を拒絶して来たジョーが、自ら南部に話しをしたのは、 これが最初だったかも知れない。 (ジョー、事情は分かった。君は健に悪い事をしたんだ。それは 認めるね?) (・・・はい、認めます。)  南部は少し厳しい表情で頷くと、それから優しくジョーの肩を 叩いて、アルバムから同じ写真を剥がしてくれた。 (これは健のお父さんが私にくれたものだ。私にとっても大事な 写真だが、ジョー、これを君にあげよう。だから、健と仲直りす るんだよ。いいね?) (グラッツィエ、博士。この写真を返して、健と仲直りするよ!)  それがこの写真だった。 (ジョー、ありがとう!)  屈託なく差し出された健のその手を握り返して、ジョーは健を 受け入れた。そして、健はジョーの光になった。
< 3 >
 ジョーの昔語りを聞きながら、微睡んでいるのかと思うほど、 すっかりリラックスしていた健の身体に緊張が走った。もちろん、 ジョーの身体にも同様の変化が起ったし、健が何に反応したのか も解った。気配に対し、無意識のまま五感が発するアラートは、 戦いを離れても消す事が出来ない。何をしていようとも、心がど こにあろうとも、きっと俺達は、もう一生、それを消し去る事が 出来ないのだろうな・・・と、ジョーはそれを初めて哀しい、と 感じた。せめて健だけでも、こうした呪縛から解き放たれればい いのに・・・  気配に遅れて、ヘリが立てる派手な騒音が辺りの静けさを掻き 回し、やがて、コンコン・・・と、ドアのノッカーが乾いた音を 立てて、主治医の来訪を告げた。
 健は意外な事に笑顔で安部を迎えたが、ヘリへ運ぼうとすると、 途端に抵抗し出した。 「いやだっ!」  と、頑として言い張る健に、安部がため息をついて、 「分かった、病院へは搬送しないよ。でも、器材はヘリに積んで あるんだ。健、診察するだけならいいだろう?さぁ、おとなしく してくれ。」  なだめすかすようにそう言うと、健はようやく頷いた。 「俺が運びましょう。」  それでもストレッチャーにはおとなしく乗るまい、と、ジョー はひょいと健を抱え上げ、ヘリまで運んだ。ずいぶん痩せたとは 言っても、成人の男をこうまで軽々と運べるのは、やはり自分に 特別な力があるからだろう。だが今、ジョーは特別な自分に感謝 していた。  あの翌日から、健は一切の治療を拒み、病室の片隅にただ俯い てうずくまっていた。自分からは食事も取ろうとしなかったし、 医師も看護人も誰も寄せつけなかった。ただ一人、ジョーだけは 別だったが・・・。安部を始め、健の担当チームは皆、健が好き だった。だから、彼らは健に出来るだけの配慮をした。それは、 健が地球を救った英雄だからでも、特別な患者だからでもなく、 「健」だから、だった。健自身がいつでも皆から愛されるだけの 資質を持っていたから、だ。  急遽、サン・ドニ行きが検討され、ジョーに正式な任務と同等 の条件でオーダーが出され(ジョーにとってはオーダーが有って も無くてもあまり変わらないが)、医療技術開発部が、健の退院 に備えて試作中だった多少簡便に改良されたリアクターや、その 他が輸送され、準備は一週間ほどで整った。そして、同じ搬送用 ヘリでここへやって来て、約二ヶ月・・・。健の身体はようやく あの夜ぐらいにまで回復しつつあったのだが・・・。  外は眩しい光に溢れている。健はまるでここの空みたいな色の 目を細めて、懐かしい物を見るように病院のヘリを、ジョーの腕 の中から見つめていた。  
「さっきはひどい暴れようで・・・仕方が無いからずっと抱いて いたんです。」 「適切な保定だったよ。でも、健が本気になったら、ジョー、君 以外の者ではどうにもならないだろうね。」  ジョーは、まぁね、と肩を竦めて見せた。  あの夜以来、やはり皆、健に怯えている。無理もねえや・・・。 傷ついた鳩だと思っていたら、そいつは大鷲で、いきなり何の罪 も無い医師に重症を負わせたんだもんな。 「そうだ、ドクター・カインはいかがですか?」 「ああ、先日退院したよ。入院中から自分の怪我よりも健の事を 心配していたくらいだ。」 「そいつは良かった。健も喜ぶでしょう。さっきもドクター・カ インは来てくれないのか、と言われて、困りましたよ。」 「ドクター・カインは新進気鋭の優秀な医学者だし、何と言って もハイパーシュートについては彼が一番詳しいからね。ちょうど、 ドクター・カインが見い出した、新しい治療法へ移行した矢先の 事故だったんだよ。まぁ、彼も復帰したら、引き続き健の担当医 として治療に当るべく準備を進めているし、そうなればまた健の 回復に大きく貢献してくれる筈だ。」 「へぇ、それはまたずいぶんと・・・。」  ジョーはその医師の冷たくて、如何にも科学者といった感じの 風貌と、その情熱とのギャップに上手い言葉が出て来なかったが、 健にとってプラスになるのならそれで良かろう。 「で、健はどうして立てなくなったんです?」  と、ジョーは話題を転じた。診察と処置が終るのを待ちかねた ように、健は操縦席へ行きたいと言い出した。やはり空への思い は絶ち難いのだろう。そこへ座らせてやると、何やらパイロット と熱心に話をしている。それでも安部は声を落とした。 「我々が予測したケースについてのムンテラは?」 「ええ、伺いました。脳細胞の破損による痴呆と、もしかしたら 他の症状も発症するかも知れない、とね。これもその他の症状の 一つなんですか?」  うむ、と安部は眉を寄せたが、 「そうかも知れないが、単なる一時的な発作かも知れない。いず れにしても詳しい事は、病院で検査をしてみないと分からない。 とりあえずの応急処置はしたから、夕方には立てるようになると 思うよ。」  と、そこまでしか言えなかった。可哀想な健、そして、可哀想 なジョー。今まであんなに頑張って来たのに。「最悪」のケース を発症してしまうなんて・・・立てなくなったのは、運動中枢が 冒されて起きた症状だろう。今は運動失調だけだが、やがて手足 が完全に動かせなくなり、徐々に麻痺は全身に及ぶだろう。と、 同時に視力障害や感覚異常が進行し、そして呼吸中枢が冒されれ ば、ただでさえ肺の機能が衰えている健の事だ、アッと言う間に 呼吸困難を起こして・・・。  医師は思わずジョーのブルーグレイの鋭い瞳から目を逸らした。 その表情を油断なく見つめていたジョーが、「まさか健は・・・」 と、言いかけたその時、 「ジョー!」  と、健が操縦席から大声でジョーを呼んだ。 「健、どうした?」  振り返ったジョーに、健は口唇を尖らせて見せると、不満気に 言った。 「ジョー、俺、腹が減ったよ。」
 何かあったらすぐに連絡してくれ、リアクターでの治療と投薬 を忘れないようにと、うるさく繰り返して、安部は戻って行った。 白い砂が巻上がり、ヘリが機体前部を下げた独特の姿勢で上昇す るさまを、健とジョーはデッキのベンチから見送った。  それからジョーは、健と自分の空腹を満たすためにキッチンへ 戻った。 「昼飯抜きだったからな。でももうこれは喰えないぜ。」  ジョーは、しこたま伸びたパスタをガベッジ缶に投げ込むと、 大声で健に訊いた。 「さぁ、健、何が喰いたい?」 「ホットドッグ!」  健の即答にジョーは笑った。 「またかよ?おまえ、そんな物ばかり喰いたがるんだなぁ。ガキ みてえだぞ。」  そう言いながらも健の答えはとうに分かっていたので、ジョー の手はすでに冷蔵庫のウインナソーセージの包みに掛かっている。 そいつを適当にマイクロウェーブに入れ、後はホットドッグ用の ブレッドに挟めば出来上がり。簡単なものだ。  健の世話を(もちろん、その真意が健の看守であるという事は 了解済みだ)任されたと言っても、今朝までは特に異常も無く、 案外と楽なものだった。病気であるなしに関わらず、健はおよそ 食べ物には無頓着だったし(それにつき合わされる、ジョー自身 は些か辛かったが)、その他の事も大して手間はかからなかった。 「さあ、出来たぜ。マスタードは?」 「要らない。」 「ビールは?」  自分のために冷えた缶ビールを用意しながら、ジョーはいつも そうするように健に訊いた。健はコーラを欲しがるはずだ。だが、 今日はどうした訳か、 「うん、貰おう。」  と、言い出した。 「つき合いの悪いおまえが珍しいな、健。」  そうか?と、早くもホットドッグを頬張りながら、健はジョー が差し出した冷たい缶を受け取って、小首を傾げた。  
「いつかもこうしてビールを飲んだよな、ジョー?」  デッキに置かれた木のベンチに並んで、そろそろ茜色が差して 来たビーチを眺めながら、健がそう訊ねた。 「ビールなんか何度も一緒に飲んだじゃねえか。」 「でも、ここでこうして海を見ながら飲んだ事があったよな?」 「ああ、それはここで過ごした最後の夏だ。ビールを飲んだのは、 南部博士が来られなくなって、俺達だけだったからだぜ。あはは、 本当に楽しい夏休みだったなぁ!」  ふふ、と、健も笑った。 「うん、楽しい夏休みだった・・・忘れられない。」  昼まで寝て、気が向けば海で泳いで、夜はいつまでも寝ずに、 用も無いのに街へ行って・・・。  ビールを飲んで、煙草をくわえて、裸の美女達が微笑む雑誌を あれこれ眺めて・・・。  十五のガキがやりそうな事を全部やって、過ごした夏だった。  本格的な訓練に入る前で、まだ何も知らず、怖いものなど何も 無かったし、目の前には夢と希望が輝いていた。そして、目的を 知り、仲間が増え、逞しい翼を得た時、夢や希望はさらに輝きを 増した気がした。だが、やがて・・・。  健が病室の片隅で、しきりとこのサン・ドニへ来たがったのは、 楽しかったあの夏に還りたかったからかも知れない。
< 4 >

「ジョー、キャンドル・ロックが見えないな?」  白い砂浜の先に見える岬を眺めていた健が訊いた。 「キャンドル・ロック?ありゃ、岬の反対側だ。ここからは見 えねえよ。」  岬の付根に建つこのサマー・ハウスの前は、穏やかな白い砂浜 が広がっているが、裏手は対照的に荒々しい岩場が続いている。 (岩場で泳いではいけないよ。潮の流れも急で、危険なんだ。)  南部にそう注意されていたが、腕白な少年達がおとなしく言う 事を聞くわけが無い。だから、目を盗んでは飛び込んで遊んだ。 岬の先端にあるキャンドル・ロックと呼ばれる大岩までの競泳を 何度も繰り返した。そう言えば、あの勝負はタイのままだったよ なぁ、とジョーが言うと、健もそれを憶えていたらしく、 「よし、今度こそ決着をつけてやる。」  と、ちょっと顎を持ち上げて、自信たっぷりに言った。 「ふふふ、やるか、健?久しぶりに・・・。」  笑って、ジョーは健の手の平をパシと軽く叩いた。もしそれが 叶うなら、俺の命をやってもいいぜ、と胸の中で呟きながら。
(健には適わない。健は俺の光だ。)  そう思って徐々に打ち解け、やがて親友に、いや、実の兄弟と まで感じるほどに親しくなったジョーだったが、だからと言って 健に盲従するつもりは全く無かった。また健もジョーに対しては、 遠慮も同情も無しのフェアな(多少、兄貴ぶる傾向はあったが) 関係を保ったし、だから互いに譲らず、喧嘩も相変わらずだった。  況して生意気な年頃になれば、男は牡の本能に従い、どちらが 上位者であるのかを決めたがるものだ。どちらが酒に強いとか、 女にもてるとか、喧嘩が強いとか、早く走れるとか、泳ぎが上手 いとか・・・それは何でも良い事で、実際に優劣を決める必要も 無い事ばかりだった。  事実、あちらで勝ればこちらで負ける、と言った具合に二人は ほぼ互角だったが、様々な疑似闘争を通して、男は自信をつけて 行くものであり、男として自己の力量を自覚して行くものらしい。 ほぼ互角、ほぼ同等の力量を持つ健とジョーだったが、ジョーは いつもはっきりと自覚していた。 (俺は健には適わない。)  と・・・。だからと言って、健に対してコンプレックスや不満 を持つ事も無かった。いや、むしろ自信家であり、人並み以上の 能力を持つ自分が、適わない、と認めるその健に惚れてさえいた。 後に増えた仲間達(ジュン、甚平、竜だ)も、皆、健には同様の 感情を抱いていた・・・と、ジョーは思う。
 ピィーと哀しげな小鳥のさえずりに似たアラームが鳴った。 「ん・・・。」  その音に、束の間の眠りを破られたジョーは反射的に左の手首 を見、ああ、ブレスレットじゃなかったか、と幾度となく気付い た現実に瞬いた。もうあの手枷は無い。もうそこには健と自分を 繋ぐものは無いのだ。すっかり暗くなった隣の部屋でリアクター の端末が患者に「来い」と呼んでいる。午前と午後の同じ時刻に、 ジョーはその患者を所定の時間、寝かせておかなければならない。 それが、この二ヶ月の間、繰り返して来た日課であり、ジョーの 任務の一つだった。  昼からの騒動に疲れたのか、二人ともいつの間にか眠っていた らしい。青い闇の中で、ジョーは健のベッドへ呼びかけた。 「起きろよ、健。治療の時間だぞ。」  が、返事が無い。ギョッとして飛び起きると、健はベッドから 消えていた。 「あいつ、歩けるようになったのか?で、どこへ行きやがった?」  あちこちのドアを開けたが、健はいない。ピィーピィピィーと、 今度はリアクターが三度、さえずった。この端末を決まった時刻 に作動させているのは、病院のコントロール・センターで、治療 と同時に健の全身をスキャンしてデータを送信する。搬送出来な かった事だし、特に今日はしっかりとデータを取ってもらいたい ところだが・・・。 「うるせぇなっ!肝心の健がいねえんだよっ、待ってろ!」  そう怒鳴って、ジョーは外へ飛び出した。
 まさか?と、裏手の岩場へと走る。青い月明かりに、白い岩が 浮かんでいるが、海は暗い。ジョーの目でなければ、とても発見 出来なかっただろう。  案の定、健はいつも飛び込んでいた辺りに浮いていた。 「けぇんっ!」  飛び込んで泳ぎ寄り、ペールブルーのシャツを掴もうとすると、 うねりが健を手からひょいと攫う。健は手足を緩やかに伸ばした まま、ピクリとも動かずに、ただ浮いている。ジョーは焦ったが、 一旦、潜って水中からその身体を抱き、岩の上に引き上げる事に 成功した。が、月明りを映した健の顔には色が無い。身体は海水 よりも遥かに冷たく、固く閉ざした睫毛がただ空々しい・・・。 (嫌だ、否だ、いやだっ!健、死なないでくれ!) 「健、しっかりしろ!おいっ!」  命がけの任務だったので、一般的なCPRはしっかり叩き込ま れている。ジョーはその手順に従って気道を確保すると、開かせ た健の唇に自分の唇を押し当てて、強く息を吹き込んだ。 「おい、目を開けろったら!健、死ぬんじゃねぇっ!」  重ねた掌底でリズミカルに五回、胸を圧迫する。かなり強く圧 さなければならないが、痩せたその胸につい力が萎えそうになる。 いや、駄目だ!例え肋が折れても呼吸を取り戻させなければなら ない。ジョーは歯を食いしばった。 (健、おまえが死んだら、俺はどうすればいいんだ?)  冷たい健の唇に、再び押し当てた唇がそう伝えたらしい。 「う・・・。」  小さく呻いて、健の睫毛が震えた。 「健、息をしろっ!さぁ、空気を吸うんだ!」
 室内に運び込んだが、健の身体は失くした体温を取り戻さない。 一刻も早く暖めなければ・・・。ジョーは健を抱いたまま、バス ルームのドアを肩で開け、靴も脱がずにタブの中に入ると、シャ ワーのコックを捻った。  熱いシャワーが健の身体に纏わりついた潮の香りと冷気を流し 去って行く。湯気の中で、やがてその頬に血の色が戻って来たの を見て、ジョーは思わず健を力いっぱい抱きしめた。 「馬鹿野郎っ!心配かけやがって。」  健はジョーの腕の中で身を捩ると、 「すまん。飛び込みは上手く行ったんだが・・・。」  と、小さな声で詫びた。だが、その弁解めいた口調にジョーの 怒りが爆発した。 「馬鹿!こんな時間に、何だっていきなり飛び込みなんかしよう と思ったんだ?いいか、おまえは病人なんだぞ。さっきまで立つ 事も出来なかったんだぞ!分かってるのか、おい、健?」  健の身体から、びしょ濡れの服を苦労して引き剥がしながら、 そう捲し立てたが、きっと健には通じるまい、と些か空しくなる。 健の言動がおかしい事は充分に承知しているし、だから俺は健と ここに居るんだ・・・そう分かってはいても、ジョーはすれ違う 言葉が無性に悔しかった。健がどんどん遠くへ行ってしまうよう で、無性に寂しかった。しかし、 「うるさいっ!いいか?俺は自分の身体が不完全だと認識してい るからこそ、今の俺にあの高さから飛び下りる事が出来るか、と 言う事を確認しておきたかったんだ。」  健は、ジョーの手から引ったくるようにしてバスタオルを取る と、しっかりとした口調で整然と言い返した。 「誤算は、つまり溺れたと言う事であって・・・」 「健、おまえ・・・?」  ジョーがそう問うと、健はハッとしたようにジョーの顔を見、 数回瞬くと唐突に口を噤んだ。  病状が安定している時の健は「まとも」だったが、そうでない 時との境い目が明確でなく、ひどく「幼い頃」もあれば、「少年 の頃」や「最初の戦いの頃」の健も混在していた。健の殆ど全て を知っているジョーでなければ、具合が良いのか、悪いのかさえ 分からなかっただろう。 「それじゃ今のうちに言っておくぞ。健、頼むから危ない真似は しないでくれ。いいな?忘れないでくれよ。」  ゆっくりと言い、それからジョーは、水滴が滴り落ちる自分の 髪をようやく拭った。健は既にバスローブを着て、髪も拭い終え たというのに・・・。 「ああ、分かった。すまなかったな、ジョー。」  健はもう一度、さらに小声で詫びた。  
 月がもうとっくに冲天を回った頃、健はむくりとベッドの上に 起き上がった。左の手首には懐かしい感触がある。いや、実際は まったく違う物で、それは単なるバスローブのサッシュなのだが、 ジョーと自分を繋ぐ物、である事に変わりは無い。 (寝ているうちに、また何処かへ行かないように、な。)  そう笑って、ジョーが自分の手首と健の手首を縛り付けたのだ。 健は改めてその絆を見、それから無言のまま、隣で寝息を立てて いるジョーを斜めに見下ろした。 (おまえも不安だったのか?もうブレスレットは無いんだものな。 こんな物でも確かに代わりにはなるな。)  そう、ブレスレットがあると言うだけで、俺はいつもおまえを 身近に感じる事が出来た。どこへ行ったか分からなくなっても、 必ずおまえはこの絆で、俺を呼んでくれると信じていたし、それ は違う事なく果たされはしたが・・・。 (ジョー、おまえは何故あの時、俺達を置いて一人でクロスカラ コルムへ行ったんだ?)  それが、ずっと健の心に引っ掛かって、離れなかった。 (何故だ?死ぬ時は共にと誓い合った俺達だったのに、どうして おまえは何も言わず、一人で・・・?)  それが、長い間、健を苦しめ続け、やがてジョーが帰って来て からも、それが解決する事はなかった。  見慣れたジョーの横顔が、今はすぐ側にある。  健は闇の中に瞳を凝らして、じっとその横顔を見つめ続けた。 (ジョー、しかし今なら、俺にもおまえの気持ちが解るぞ。)  健は薄く微笑んで、大きく開いた窓から外へと視線を転じると、 もはや月も落ち、ただ漆黒に塗りつぶされた闇を見た。闇はひた すら濃く、健は飲み込まれてしまいそうな恐怖感を覚えた。あの 時、ジョーもこの闇を見たのだろうか? (いや、この闇はまもなく光に払われる。恐れる事は無い。)  そう自分に言い聞かせ、健は真直ぐに闇を睨み続けた。  と、闇の彼方に、眩い光が見えた気がして、健は顔を上げた。  しかし、時間はもうあまり無いだろう。  
< 5 >
 やはり溺れかけたのが堪えたのだろう。翌日から発熱が続いて、 健は殆ど食事もせず、ただうつらうつらとベッドにいる事が多く なってしまった。しかし、意識はクリアーなようで、目覚めれば ラップトップを開いて、熱心に何かを書いている。 「健、苦しくないか?」  何度、ジョーが訊ねても、健は、 「いや、そうでもないさ。」  と、首を横に振るだけだったが、具合が悪いのは明らかだった し、リアクターがスキャンしたデータもひどい数値だったようで、 安部から何度も連絡が入った。 「安部博士が心配しているぞ。やはり、病院へ戻った方がいいぜ。 ドクター・カインも週明けから出て来るそうだ。」  ピクリ、と健の指が止まった。だが、 「ああ、これが終ったらそうしよう。」  健はジョーを見ずにそう答えると、再び覚束ない手つきでキー を叩き続けた。まだ、病院のベッドにいた頃から健は最後の任務 の詳細な報告書を書き(リハビリの一つでもあったし、ISOの オーダーでもあった)記憶が飛んだり脱落している箇所はジョー がそれを補った。  健は律儀な奴だから、たぶん、今もその続きを書いているのだ ろう。そして、それももうすぐ終るのだろう。
 夜半、健はひどく苦しみ出した。呻き声を上げて、引き裂かん ばかりにシーツを握りしめるを健を、ジョーはただ、 「しっかりしろ!」  と、励ましてやるしかなかった。用意してあった薬も、安部が 先日、処方して来た薬もまったく効果が無い。 「カイン!ドクター・カイン!」  震える声で健が呼んだ。 「あなたしか・・・いないのか?」  譫言なのだろうか?ドクター・カインが進めていたという新し い治療法ならば、健を治せると言うのだろうか?ならば、一刻も 早く復帰して、この苦しみから救って欲しい、とジョーは思った。  だが、健のこの憎しみに満ちた瞳はどうした事だ?  しかし、とにかく健を病院へ運ばなくては・・・。 「健、迎えに来てもらおう!」  が、健はジョーの腕を掴んで叫んだ。 「駄目だっ!」 「何が駄目なんだ?俺じゃ、もうどうにもならねえぞ。」 「ジョー、待ってくれ。頼むから、週明けまで待って・・・。」  健の端正な顔が苦しみに歪み、言葉が途切れた。 「おい、健っ!しっかりするんだ!」  健は意識を失っていた。薄闇の中で、ジョーは健の左手がまだ しっかりと自分のシャツを握ったままなのを見、唇を噛んだ。 「そうか、そんなに嫌なら週明けにしようぜ、健。」  長い髪が苦しみの痕そのままに激しく乱れて、その蒼白な顔を 半ば隠している。負けず嫌いで見栄坊の健の事だ。今の顔をはっ きりと見られずに済んだのは、幸いだったろう。ジョーはふいに 自分が涙を流している事に気付いた。泣けない筈のこの俺がー? いや、きっとこれはあいつの涙だ。あいつが流し切れない涙を、 俺が代わりに流しているのさ、と、ジョーは思った。 「どうしようもねえや。」  誰に言うでも無くそう呟いて、ジョーはそっと健の指をシャツ から外してやった。  
 祈るような思いで過ごした数日が往き、週が明けた。  安部からの指示で(安部も無理に、健を連れて来い、とはもう 言わなかった)、健はリアクターの上で過ごす時間が長くなり、 薬もいつもの倍は飲まなくてはならなかったが、それが効を奏し たのか(並外れた健の精神力故か)、健は若干、復調したように さえ見えた。  ヘリの音が近づいて来た。  サン・ドニの陽は今日も眩いばかりだ。 「健、報告書は書き上げたのか?」  こくり、と頷くと、健は黙ったまま、デスクを指差した。  ラップトップの横に白い封筒が見える。 「あとで俺がISO本部に届けておくからな。」  健はもう一度頷いて、それからゆっくりとジョーに微笑むと、 そのままジョーを真直ぐに見つめた。この数日、健は目を逸らし てばかりいた。たった数日見なかっただけなのに、その空色の瞳 がすごく懐かしい。まるで何年も会わずにいたような気さえする。 「ジョー、やはり聞いておきたい。あの時、何故おまえは一人で 行ってしまったんだ?」  何処へ?と問う必要は無かった。ジョーには、いつか健が訊く だろうと言う予感さえあった。それに、じっと見つめる青い瞳は 交わせない。いつだってそうだった。  だからジョーは一瞬、躊躇い、それでも正直に答えた。 「もう俺には、残された時間が無いんだって事を知っちまったか らさ。だから、せめて自分に出来る事をやってから・・・。」  思わず語尾を飲み込んだジョーを、健は真剣な顔でじっと見つ めていた。それからゆっくり頷くと、静かな声で言った。 「やはりそうか。でもな、ジョー、おまえが死んじまったあの時、 俺は・・・。」  え、とジョーはそのブルーグレイの瞳を瞬かせたが、もう健は その先を言おうとはしなかった。と、その時、 「用意は出来ましたか?」  開け放したドアからヘリの乗員がそう声を掛けた。 「はい、今、行きます。」  そう返事をして、さあ、と振り返ったジョーの唇に、健の唇が 触れた。唐突なその接吻けに、ジョーは驚いた。 「健、おまえ・・・?」  応えずに、健は少し眉を寄せると、ジョーの首にしっかりと両 腕を回して、再び唇を重ねた。健の唇が繰り返し何かを言ってい る。歌うように、祈るように・・・切ないその接吻けに、ジョー も思わず健の背を抱いていた。そうして、健の唇は何言かを繰り 返し、ジョーは懸命にそれを読み取ろうとした・・・。 『 I wish I had wings 』  ・・・ようやくそう読み取れた時、健は突然、ジョーを放した。 そして、ジョーの脇をすり抜けて、外へと歩き出した。 「おい、健っ!いったいそれはどういう意味だ?」  しかし、健は厳しい面差しで、もはやそれに答えようとはせず、 少し右足を引きながらも、毅然として歩を進めた。
< 6 >
 健の望みは、もう一度、空を飛ぶことだった。  おおよそ健は、何事においても諦めるという事をしなかった。 困難に出遇えば、いつも論理的に、常に冷静にそれに立ち向かい、 それらを乗り越えて来た。 そして、その不撓不屈の精神は今も 健を支える、最も大きな力になっているらしい。  健は健だ。健は変わらない。何があっても。だから・・・。
 搬送用ヘリが病院南棟の屋上にあるヘリポートにランディング する直前、フライトの間、窓からずっと空を眺めていた髪の長い 無口な病人は迅速に行動した。 「健、何をする気だ?」「おい、危ないぞ!」  慌てる付き添い人とパラメディックが止める間もあらばこそ、 病人は素早く後部ドア開けると、中央棟の屋上へ、そのまま飛び 下りてしまった。中央棟は南棟より高いが、それでも気軽に飛び 下りられる高さではない。 「馬鹿野郎ーっ!」  そして長身の付き添い人までが病人を追って、躊躇いもせずに 虚空へと身を踊らせた。 「何てこった!」「早く安部博士に連絡を!」  だが、いくら目を凝らしても、もう二人の姿はどこにも見えな かった。  
「けん!どこにいる?おーい、健っ!」 (ジョーの声だ。やはり追って来てくれたんだな、ジョー。さぁ、 こっちだ。おまえなら俺を追って来られる筈だ・・・来てくれ。 そして、俺を助けてくれ!)  健は非常階段に身を潜めると、着ていた厚手のパーカーの袖を 裂いて着地の時に傷めた右膝に巻き付けた。殆ど感覚が無い右足 だったのは幸いだった。だが、溺れかけてまで試みた降下シュミ レーションも、あまり意味が無かったな、と健は他人事のように 舌打ちした。出血はかなりひどく、フードを絞めるスピンドルを 抜き、膝の上をきつく縛ったが、血はなかなか止まりそうもない。  ちぇ、だらしがないぜ、G1号!・・・いや、もう俺はただの 死に損ないだったか?と、健は一人、苦笑した。  
「血だ・・・健の奴、怪我をしてるんだな。くそっ!」  血痕が、付いて来い、と言わんばかりに、健の行方をジョーに 教えている。時折り、血溜まりになっているのは、健が行く先を 確認して立ち止まった跡だろうか?・・・いや、踏み出す方向に 迷った様子は無い。恐らく、痛みか失血のために立ち止まらざる を得なかったのだろう。急がなければ・・・。  ジョーは確実に健の跡を追っていた。    
 健はその真新しいドアを、そっと開いた。  あの夜、カインから聞かされたその場所には、カインの研究室 であり、同時に健の柩となる筈の部屋がほぼ完成していた。 「お元気ですか?ドクター・カイン。」  健は片頬に皮肉な笑みを浮かべて、自分が殺そうとした医師に そう挨拶をした。カインは突然に、まったくの突然に現れた健に 驚きを隠せない様子だった。だが、健の様子を見て取ると、余裕 の笑みを浮かべ、気取った仕種で白衣のポケットから小型のピス トルを抜き出した。 「やぁ、おかえり、健。残念ながら私は元気だよ。君ほどのエキ スパートでも仕留め損なう事があるんだね。細胞破壊の後遺症は 実に恐ろしいな。」 「ふふ、物騒な物を持っていますね。まともに動けないこの死に 損ないが怖いんですか?」  健も平然と言い返したが、ぐらり、と上体が傾いでしまった。 「あれから用心深くなってね。おや、怪我をしているのか?ひど い出血だ。大事にしてくれないと困るな、何せ君は・・・」  フン、と健は鼻で笑って、医師の言葉を引き取った。 「・・・貴重な被験体ですからね。」 「その通りだよ、健。君は被験体として、私の研究に協力すると 約束してくれたじゃないか?私なら君を生かし続ける事が出来る。 いや、私にしか出来ない、と言った方がいいかな?」  カインの研究への一途な情熱は健にも理解出来たし、また細胞 破壊の原因を知り尽くしているカインにしか、もう健を治療出来 ない事も現実のようだ。悔しいが、治療を受けられなくなってか らの急激な悪化が、それを証明している。しかし・・・。 「ドクター・カイン、あなたの研究目的は兵器の開発です。安部 博士や他の先生方の目的とは根本的に違います。だから・・・」  健は白衣の科学者を鋭く睨むと、きっぱりと言った。 「人殺しの研究に協力するくらいなら、俺は死を選びます!」  健の瞳が青く燃え上がったのを見ても、カインは怯まなかった。 「何故、怒るんだい?私は研究を成功させたいだけだよ。君の生 きたい、と言う希望とも利害は完璧に一致しているじゃないか? それに君だって、本当は死ぬのが怖いんだろう?」
「俺は死を怖れた事なんかありませんよ。」  にこり、と健は微笑むと、ちょっと遠くを見るように目を細め、 淡々とその質問に答えた。 「あの夜、あなたは平然と、いやむしろ誇らしげに研究の本当の 目的を教えてくれましたね?それを聞くまでは、俺は別にこの柩 の中で被験体になる事が、特に嫌だとも思いませんでした。例え、 もう空を飛ぶ夢は叶わなくとも、俺が生き続けてそれで医学的に 価値のあるデータを提供出来るのなら、それはそれで意味がある、 と思っていましたからね。」 「健、実に論理的な考えだ。」  カインが満足そうに頷くのを、健は無表情に眺めながら、更に 言葉を続けた。 「あの夜、俺はあなたを殺す事に失敗し、ならばこの身体を粉々 にしちまおうと思ったんですよ。被験体が無くなれば、もう研究 は出来やしない。そう思って屋上へ行ったんですが・・・。」  屋上の、あのフェンスの上に立った時、健は忽然として気付い たのだ。ああ、これだけでは解決にならない!・・・と。 「やはり命が惜しくなった、という訳だね。」  キッ、と健はカインを睨みつけて、鋭く怒鳴った。 「命なんか惜しくはない!こんな命、こんな身体、欲しければ、 くれてやるぜ。だが、ジョーは・・・ジョーは駄目だ!」  ・・・くそ、目が回る。もう立っていられない。  と、同時に健は意識が遠退いて行くのを感じた。・・・あの時 と同じように、またこのまま何も分からなくなってしまうのか? だが、もう俺には時間が無い・・・。 「非論理的だな、健。南部博士も生身の人間での限界に気づいて、 ジョーを使う事を、既に提案していたじゃないか?」  やはりあなたはそれを知っているんだな?俺が居なくなれば、 次はジョーだ・・・いや、俺が生きていても、やがてあなたは ジョーで、ジョーのあの身体で研究を・・・。 「ドクター・カイン、ハイパー・シュートの再開発に必要なのは、 本当は俺ではなく、ジョーなのですね?違いますか?」  薄いカラーグラスの中で、カインの目が大きくなった。  ちくしょう、やはりそうだったのか・・・! 「健、君は本当に勘がいいんだな!くく、じゃあ教えてあげよう。 その通りさ。つまり君は南部型のサンプルであり、そして、私の 改良型のためには、ジョーが必要なんだよ。」  そう言い放つと、カインはやおらピストルのトリガーを引いた。
 パーンと軽い銃声が響き、まるで冗談のように、健が倒れた。  ここまでか・・・と、目蓋を閉じても、微かに光が見えた。  だから、まだだ!・・・それでも健は諦めなかった。  きっと、あいつが・・・あいつに知らせなければ・・・。  それが俺に出来る唯一の事だ・・・。  
「痛かったかい?だが、素人の私が、ろくに狙いもせずに撃った 弾だ。どうせカスリ傷だろう?」  カインは、滑らかな床に俯せに倒れた健の傍らに歩み寄ると、 ひざまずいて青ざめたその顔を覗き込んだ。 「健、すぐに手当てをして、君の為に作らせた新しい部屋に収容 してあげるよ。これから長いつきあいになるんだ、せいぜい仲良 くしよう。君を死なせはしないさ。君がいれば、やがてジョーも 手に入る。健、君の身体も、ジョーと同じにしてあげるからね。 そうすれば、改良型の被験体も二体に増えるし、実に合理的だと 思わないかね?」  そう言いながら、カインは鈍色の光芒を放つ銃身で、健の頬を ツゥーと撫でた。と、その右手はアッと言う間に捻り上げられて、 背中に回された。ぎゃっ、とカインの悲鳴が聞こえた。 「健は反対だと言ってたみたいだぜ、ドクター・カイン。」  ジョー!  ・・・その声に健は目を閉じたまま、微かに口元を綻ばせた。
< 7 >  
 キュルルン、と唸りを上げて、ヘリ独特の大きなメインロータ ーが頭上で回転を始める。 「エンジン・スロットル、オープン。回転数九十、百、百二十% ・・・オーケー、離陸したら、すぐに右旋回だ。ジョー、フット・ ペダルを頼むぞ。」  メインローターの一枚一枚のブレードに仰角が増し、スキッド が、ふわり、と屋上を離れた。 「ラジャー、ブレード仰角よし。と、首を振っちまうぜ、健。」 「ラダー・ペダルでテイルローターのブレード角を微調整しろ。 こいつは後部に重い器材を積んでるから、通常値よりもトルクを 上げないと急上昇出来ないんだそうだ。」  ヘリは、コレクティブ・スティック(このグリップ部分にエン ジン・スロットルが組み込まれている)、サイクリック・スティ ック、フット・ペダルを同時に操作して、機体各部のバランスを 上手く取らなくては飛ばす事が出来ない。これらの操作を二人で 行うには一心同体と呼べるほど、息が合っていなくてはならない だろうが、健とジョーにはその阿吽の呼吸があった。 「くそ、難しいなぁ・・・よし、やっと真直ぐになったぜ。おい、 健、このあいだパイロットにそんな事を訊いてたのか?まったく 抜け目のない奴だな、おまえは。」 「ふふ、単なる偶然さ。ジョー、もう一度右旋回したらそのまま 南へ飛ぶ。GPSにサン・ドニをインプットしてくれ。」 「ラジャー、さぁ、帰ろうぜ、健!」 「ああ、帰ろうぜ、ジョー・・・俺達の夏休みへ。」
 今の俺に正しい判断力を求めないでくれ・・・。  健を背後からしっかりと抱いたまま、ジョーはそう思った。  あのまま、健を安部博士や医師達に任せるべきなのは充分承知 しているし、こんな無茶をすれば、健はおそらく島まで保たない だろうと言う事も分かっている。しかし、健の望みは「空を飛ぶ こと」であり、「サン・ドニへ帰ること」なのだ。 (ジョー、もう時間が無い。おまえを巻き添えにしたくなかった が、他に方法が無いんだ。頼む、俺の言う通りにしてくれ。)  抱き起こすと、健は目を開けて、真直ぐにジョーの目を見つめ ながらそう言った。その瞳はとても穏やかで、そしてどこまでも 青く澄んでいた。たぶん、健には分かっているのだろう。自分に 残された時間が、あとどのくらいか・・・と言う事を。分かって いるからこそ、健はジョーにそれを強請ったのだ。  だから請われるままに、こうして病院のヘリをかっぱらった。  今は正しいか、正しくないかはどうでもいい。俺に重要なのは、 健が望むか、望まないかだけだ・・・と、ジョーはそう考えた。  
 グラリ、と機体が揺らいだ。ジョーは素早く右手を伸ばして、 スティックを握っている健の右手に掌を重ねた。そして、ヘリの 姿勢を制御すると、そっと訊ねた。 「健、大丈夫か?」 「ああ、何でもない。」  そう応えはしたが、健の呼吸はいやに早くて、頼りないくらい 浅い。息をするたびに痩せた肩が揺れ、ジョーの頬をウェーブの あるチョコレート色の髪が撫でた。 「なぁ、鴨技師長に頼んで、イーグルワンの操縦席を少し下げて、 車輪の代わりにフロートを付けて貰ったら、ビーチハウスの前の 海からこうして飛べるんじゃないかな?」  健はふいにそんな事を言い出した。だが、その身体から徐々に 力が抜けて行くのが分かる。今にも、がくりと首を折ってしまい そうで、ジョーは不安でたまらなかった。しかし、そんな不安を 無視してジョーは答える。 「水上機にするのか?・・・ああ、健、そいつはいい考えだな。 じいさまの張り切る姿が目に浮かぶぜ。」 「ふふ、きっとすごいのを作ってくれるぞ。」  健は大好きな飛行機の話がしたいのだ。大空を自由に飛ぶ夢を 見続けたいのだ。ジョーにはそれが、痛いほど分かった。だから、 ジョーは話し続けた。 「どうだ、健?久しぶりに自分で飛ぶ空は?」 「うん、やっぱり最高だぜ。ジョー、見ろよ。雲一つ、無い。」
 健の指はまだスティックに掛かっていたが、もうそれを握って はいない。スロットルもペダルも、全てをジョーがコントロール していたが、それでも健はスティックを離そうとしなかったし、 さらに飛ぶことを諦めようとはしなかった。 「あの入江は波も無いし、風向きもいい。な、ジョー、いい考え だろ?どうして今まで気がつかなかったのかなぁ?イーグルワン があれば、どこへだって飛んで行けるぞ。そうしたら・・・。」  健は心持ち顔を上げ、そして驚くほど真剣な口調で訊いた。 「そうしたら、ジョー・・・俺と一緒に飛んでくれるか?」 「ああ、もちろんだ。」 「ずっと・・・一緒、に?」 「健、ずっと、俺はおまえとずっと一緒だ。約束するぜ。」  ジョーは、健が晴れやかに笑った気がした。  輝くように美しいその笑顔を見た気がした。  コントロール・スティックから健の指が静かに落ちた・・・。  
< EPILOGUE >
 健が完成させた報告書とジョーの証言から、カインは告発され、 ジョーはISO本部と当局、双方の質問や事情聴取に応じる為、 多忙な日々を送っていた。
「やぁ、ジョー。忙しそうだね?元気かい?」  そんなある日、久しぶりに安部と一緒になった。健の主治医で あり、カインの上司だった安部も、やはり忙しいらしい。 「ええ、お陰様で。忙しいのは仕方がありませんよ。何せ、俺は 全てを見聞きし、全てを知っている証人ですからね。」  廊下なら良かろう、とタイを弛めながら、ジョーはようやくあ りついた紙コップのコーヒーを手に苦笑した。 (健の奴め、俺にゆっくり泣く暇も与えねえつもりだぜ。)  ・・・だが、だから俺はこうしていられるんだ、とジョーには それが解っている。だからおまえは、俺にこんな役目を・・・。 (さすがだぜ、健。やっぱり俺はおまえには適わねえよ。)  でもな、健、あの時、おまえが言いかけて言わなかった事が、 俺にもやっと解ったぜ・・・健、残された者ってのは本当に辛い んだな。だけど、おまえはこれを乗り越えたんだ。だから、俺も きっと乗り越えて見せるぜ・・・。  空のコップをくしゃりと握り潰して、ジョーは背筋を伸ばした。 歩み寄った窓から見える空は今日も青い。並んで、それを眺めて いた安部が、静かに、だが力強く言った。 「私も健の報告書を読んだよ。彼がハイパー・シュートの再開発 を許せなかった気持ちも、改めて解った。我々、科学者はどうし ても偏った思考や倫理感に陥ってしまいがちだ。そう言った意味 合いからも、ジョー、我々は健の事を忘れてはならないと、私は そう思うよ。」 「博士、それを聞いたらきっと健も喜びますよ。」  固く握手を交わして、二人は別れた。  それからしばらくして、ジョーはようやくサン・ドニへと戻る 時間を作る事が出来た。
 ここで健と暮らしたのは、もう何十年も前だったような気がす るが、実際にはまだ数カ月しか経っていない。サン・ドニの陽は、 少しも変わらず白い壁に濃い陰を落として、今日もただひたすら 眩しかった。  そして、白いビーチと紺碧の海。その海と遥か水平線で一つに 溶け合う真っ青な空。まるで、時が止まったようにこのサマー・ ハウスは少しも変わらない・・・。  
 その其処、此処に、健がいて、楽しそうに笑っている気がした。 デッキのベンチで本を読む健。キッチンで腹が減ったと言う健。  デスクで書き物をする健。ベッドですやすやと寝息を立てる健。 壁にもたれて海を眺めている健。日向をちょっと俯いて歩く健。  風に髪をなびかせて走って来る健。頬杖をつき考え事をする健。 光りの中で誇らしげに胸を張って立っている健。口笛を吹く健。  そして、大好きな飛行機で空を鳥のように自由に飛んでいる健。
 ・・・それら全ての健に、ジョーは微笑んで見せた。 「健、おまえはそこにいるんだろ。ずっと一緒だと約束したんだ、 俺はいつだっておまえと一緒にいるぜ。・・・良かったな、健。 おまえは、永遠の翼を手に入れたんだな。」  
 そうだ、健はここにいる。  きらきら輝くこの風の中に、青く晴れたあの空の上に・・・。  
                       - THE END -
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