3P−1

by あずき

 この所ずっと、あの人はひどく荒んでいる。仕事で重大な失策を犯すことはない
ようだけれど、大体がお酒を飲みすぎるし、ときどきは妙な薬もやっているらしい。
 けれど、あたしは何も言わない。あたしが何か言ったところで、どうにもならない
ことは、分かっている。あたしにできるのは、無意味な励ましや慰めの言葉は決し
てかけないことと、あの人が望むのであれば、その時には抱かれてあげること。
もっとも、あの人があたしを抱きたがることは滅多にないけれど。
 
 その晩、どう見ても、あの人は飲み過ぎていた。そんな状態でうちの店に顔を出
したりすること自体、初めてじゃなかったろうか。たまたま居合わせた顔馴染みの
客(あたしのかつてのバンド仲間)も、ひどく心配していた。それで仕方なく、上の
客用の部屋に泊めることにした。
 店の上の居住空間には、部屋は三つある。通りに面した側の大きめの二つは、
あたしと弟がそれぞれの寝室にしていて、バスルームの横の小さめの部屋は、客
室。もっとも、下の店で相方を拾ってしけこんでくる客のための部屋、ではもちろん
なくて(うちの店は健全な青少年向けだ)、友達が泊まり込むことがある、という程
度の客室で、だからベッドは置いてあるけれど、実際にはほとんど物置。
 その部屋に、件の顔見知りに手伝ってもらって、正体をなくしかけているあの人
を運び上げ、ジャケットと靴とパンツだけを何とか脱がせて、ベッドに放り込んだ。
あの人には、酒の臭いと、あの人自身は吸わない煙草と、あの人が絶対に使いそ
うもない、男物のフレグランスの残香が染み付いていた。ああいう友達にはジュン
も難儀するよな、と、その顔見知りはしたり顔で、ただ笑っていたけれど。

 夜明けにはまだほど遠いころ、暗闇に包まれたベッドの中で、あたしはふとした
気配に目が覚めた。明らかに殺気立った気配。部屋の中だが、至近ではない。戸
口のあたりだろうか。あたしはシーツの中で身構えた。瞬時に身を躱せるように。
 次の瞬間、その気配が動き、あたしは寝返りを打ちざまに、ベッドの反対側の床
に立ち上がろうとした・・・が、床に片足が触れかけた瞬間に肩を掴んで突き飛ば
されて、そのまま床に叩きつけられ、壁に激しく頭と肩をぶつけた。一瞬気が遠く
なる。打ち所が悪かったらしい。しかも、肩は羽目板の凸部に当たったんだろう
か、じわりとした痛みが走る。
  ーーかつての女戦士も、最前線に出なくなると随分と反応が鈍るもんだな。
 ぞっとするような冷笑を含んだ囁きは、あの人のものだった。暗闇に慣れてきた
目に映るのは、確かにあの人の顔だった。けれど、いつものあの人の表情ではな
い。口元と頬は笑みを含んでいるけれど、青い目には熱っぽく湿った残忍な光が
宿っていた。
 胃の奥が冷たくなる。男の目がこういう色を浮かべているときには、絶対にあか
らさまな抵抗をするべきではない。かえって余計な怪我をさせられる。そのことを、
あたしは身をもってよく知っている。でも、あの人の目にそんな色が浮かぶのを見
たのは、初めてだった。
 その時あたしの目は、やはり恐怖の色を湛えていたのだろうか。
  ーーそんな顔して見るなよ、殺しに来たわけじゃない。
    口直しにお前が欲しくなっただけだ。
    そんなふうに床に寝たままのお前とやりたくはないんだ、ベッドに戻れよ。
 そう言うと、あたしの腕を掴んで乱暴にベッドに引きずり上げて、ぞんざいなキス
をしながら、あたしのパジャマのボタンを外し、下着をはぎ取ってゆく。あたしは固く
目をつむる。さっきぶつけた肩が痛い。夕べのあたしは一滴もお酒は飲んでない
から、酒臭いキスも辛い。それに、見知らぬ男の残香。それらと、さっきのあの目
に宿っていた禍々しい色が思い起こさせる記憶が、あたしの身体を強ばらせる。
 あの人の指と唇と舌があたしの上を苛立たしげに這い回る。けれどもあたしの身
体は融けない。
 あたしは目を固く閉じたまま、ずっと横を向いていた。その人の顔を見たくない。
あの目に、まだあの光が宿っていたら、あたしは恐怖で本当に叫び出すだろう。そ
う思ったから。
 その人の指が、あたしの芯に触れる。けれど、あたしの身体は強ばったままだ。
  ーージュン、これじゃ入れない。
    いつもなら、すぐに融けだしてくるのに、今夜はそんなに機嫌が悪いのか?
    でも、お前には乱暴なことはしない。あいつの遺言が俺にそれを許さない。
 あたしはそっと目を開ける。暗がりの中に見える青い目には、さっきの不吉な光
はもうない。少し潤んだ、寂しげな色があるだけだ。あたしはもう一度目を閉じる。
あの人の唇がもう一度、今度は優しくあたしに触れる。あたしの身体はようやく融
け始める。
 やがてあの人があたしの身体をそっと押し開いて、熱く滑らかなものがそこに触
れる。それから中に入ってくる。ゆっくりと、行きつ戻りつしながら、少しずつ、奥へ
と。
  ーージュン、お前の身体は、優しいな。
 そう耳元で囁いて、そのまま喉元へと唇を這わせる。
 ベッドの軋む音が、緩やかに、次第に激しくなってゆく。
  ーーお前の声を聞かせてくれ、お前の、あの声が、聞きたいんだ。
 あたしの唇と咽喉はそれを抑えられない。
 けれど、その人がその時に咽喉の奥で呟くのは、あたしの名じゃない。

 カーテンから漏れる朝日の中でみるあの人の寝顔は、頬がやつれて、隈が浮い
ていた。けれども、どこか無邪気で可愛らしくもあるような表情は、ここで初めて見
たときと変わらない。
 その頬に、あたしはそっと口づける。けれど寝言で返ってくるのは、初めてのとき
から変わることなく、いつも同じ名前。
 それでもあたしはその頬に、そっと口づける。起こさないように、そっと。

 あたしにできることは、それくらいだ。
 あたしがするべきことは、それくらいだ。
 それ以上のことを、あたしはするべきじゃない。
 してあげようとも、思わない。

-END-


Top  Library List