憂鬱な後朝

by あずき

(1)
「おお、ジュン、もう起きてきたんか。コーヒーがまだ残っとるぞ」
 階上の居住空間につながる螺旋階段と店の空間を隔てる扉を開けるなり、竜が
のんびりとした声を掛けてきた。
「なんじゃい、浮かん顔して。やっぱ二日酔いか。どうせ明け方まであいつらと呑ん
どったんじゃろ。オラ達は腹ァ減ったから、朝市に何か食いに行ってくるわ。」
 竜はそう言って、首を寝違えたの階上のベッドで寝直したいのとぐずっているジ
ンペイを引っ立てて、朝日が燦々と照る街の中へ、意気揚々と出ていった。
 ガランとして薄暗い店の中には、空瓶やらクラッカーの屑やらが、散らかったまま
になっている。そんな夕べの馬鹿騒ぎの跡を、けれどもジュンは片づけようという
気にもなれない。それでも、ジンペイを連れ出してくれた竜には、とりあえず感謝し
なくちゃ、と、階上であられもない寝姿を晒している健とジョーのことを考えながら、
残り物のコーヒーをカップに注ぎ、カウンターのストゥールに腰を下ろす。
 コーヒーはまだ十分に温かかった。けれど既に香りはなく、嫌な渋味が出始めて
いた。
 なんだか、つくづくと馬鹿なことをしちゃったわ・・・。
 そんな苦々しい思いが、少しずつ広がっていく。

 昨夜は夏の祭りの前夜祭だった。陽気に浮かれた街の中に5人して繰り出して、
散々はしゃいで、それから店に戻って、さらにビールとワインを開けて・・・。もともと
酒が飲めるわけもないジンペイと、図体の割に酒に弱い竜は、さっさと酔い潰れ
て、そのままソファで大鼾をかき始めた。それでジュンは、健と、なにやら不機嫌そ
うな顔をしているジョーを誘って、階上の自分の部屋で呑み直すことにした。
 その不機嫌そうなジョーを、こちらは奇妙なくらいに陽気に浮れた健がからかっ
ている。そのうち、何がきっかけだったか、酔っぱらった男二人はこともあろうに、
どっちが女の扱いが巧いか、という話題で子どもの喧嘩みたいな言い争いをし始
めたのだった。しかも、「勝負するか? ジュンに判定してもらえばいい」と軽口を
叩いたのは、むかっ腹の立つことに、普段だったらジュンを口説くどころか、彼女を
女だとも思っていないふうな、朴念仁の方だった。

 ええ、ええ! どうせあたしは喧嘩っ早い性格だわよ! 売られてもいない喧嘩
を勝手に買って出て、「いいわよ。何なら、二人いっぺんに面倒見ましょうか」っ
て、あの男どもを挑発したのは、そりゃ確かにあたしだったでしょうよ! だけど、
冗談だったに決まっているじゃない! それを・・・。

 「じゃあ、先手は俺だな」と言うなり、健はジュンを引き寄せて、いきなり唇を重ね
た。瞬きする間もないくらいに素早く、ごく軽く。そのあまりの突然さと強引さに、
ジュンは呆れて目を丸くしたが、悪戯っぽい笑みを浮かべている健に釣り込まれ
て、ジュンも思わず笑ってしまって、「じゃあ、お次はジョーね」と、クスクスと笑いな
がら、もう一人の男に向き直るしかなかった。それでジョーも、「仕方ねえな」と苦
笑いを浮かべながら、いかにもお付き合い、という風情で、そっと唇を触れたの
だった。
 「うふふ、紳士的なキスね。二人とも素敵よ」と笑ったジュンは、さあ、これでお終
い、と思ったのだが、健はにやりとして、「じゃあ今度は、紳士的じゃないキスだ」と
言うと、再び強引に、今度は少し長く、唇を触れ合わせる。と、ジュンは突然、
きゃ、と小さく声を立てて唇を離し、ぷっ、と吹きだしたかと思うと、ケラケラと笑いだ
した。
 「んもー、健ったら、いきなり舌突っ込まないでよ、噛んじゃうじゃない!」という
ジュンの言葉に、思わずジョーも吹き出して、声を立てて笑いながら、「それ見ろ、
へたくそ!」と肘で健を突ついて冷やかす。「だから、紳士的じゃないキスだって
言ったろ」と抗議する健も笑ってはいたが、その顔には些か憮然とした表情も浮か
んでいたので、「んもー、何言ってんのよ、冗談ばっか」と、ジュンは笑いが止まら
ない。
 そのジュンに、「じゃあ、俺が口直しだ、おい健、手本を見せてやるよ」と笑いな
がら、ジョーが徐ろに接吻する。そして、まだ笑いを含んでいるジュンの柔らかな唇
の内側に軽く舌先を触れて、少しずつその唇を開かせながら、ゆっくりとジュンの
舌先を誘い出す。
 けれど、笑いを含んだ吐息とともにその舌先が触れかけた瞬間、「ジュン・・・」
と、ぞくりとするような甘い声で囁きながら、健が後ろからジュンの首筋に唇を這わ
せたのだった。ジュンは思わずひくり、と身体を震わせて、ジョーと唇を触れ合わせ
たまま、咽喉の奥で「あ・・・」と小さく声を立てた。
 その声に煽られたかのように、あるいはその声を封じようとするかのように、そ
れまで戯れるように軽く触れていただけのジョーの唇と舌が、ジュンを激しく貪り始
め、大きな手と太い腕がジュンの身体を引き寄せた。
 その勢いで、ジュンの身体は一瞬健から引き離されたが、健はすぐに、ジュンの
さっきとは反対側の首筋に唇を触れると、それを肩の方へと這わせてゆき、「だめ
だぜ、ジュンはお前のものじゃない・・・」と囁きざまに、顎の先でジュンのワンピー
スのショルダーストラップをずらしながら、ぴったりと重なっていたジュンとジョーの
胸の間に手を割り込ませた。そして・・・

 その後のことを思い返すと、「その時」の身体の感覚までがうっかりと蘇ってき
て、あまつさえ、「嬲る」という文字さながらに、二人の男に思うがさま愛撫されて
喘ぎながら身を捩る、自分自身の身も世もない姿までが目に浮かび、ジュンは顔
から火が出そうになる。
 慌てて啜り上げたコーヒーは、今やすっかり冷めてしまって、まるで泥水のよう
だ。
「ああ、もう! 不味いったら!」
 腹立ち紛れにそう声に出してみて、ジュンはかえって自己嫌悪に苛まれる。
 もうっ! 残り物のコーヒーに八つ当たりして、どうするのよ! 狼狽えてないで、
ちゃんと考えなさい! だいたい、セックスの最中のことそれ自体は、この際どうで
もいいことだわ。問題はむしろ・・・。
 そう思いを巡らしかけた次の瞬間、自分の手が再び冷えきったコーヒーを口に運
ぼうとしているのに気づく。
 ・・・せめて新しいのをちゃんと淹れ直そう。
 そう思って立ち上がり、ケトルを火に掛けた丁度そのとき、階上でドアが開く音が
した。
 やだ、もう目を覚ましたわけ? どっちよ? 両方? まさか、二人仲良く降りてく
る気じゃないでしょうね?!
 思わず身を固くして耳を澄ますと、別のドアが開いて閉まる音がして、シャワーの
水音が響き始めた。
 ほんの少しだけホッとして、それでも狼狽えた気分は収まらない。そのくせ手は
さっさと動いて、やがて香ばしい湯気が立ち上る。けれど、その香りが少しずつ自
分を落ち着けてくれるのが、今はかえって腹立たしい。
 いいわよ、こうなったら、もう一度喧嘩を売ってやる!


(2)
 なんとも馬鹿なことをしちまったもんだ・・・。
 少しずつ熱くなってゆくシャワーに打たれながら、ジョーは苦々しい気分を噛みし
める。
 まったく、悪趣味な悪乗りとしか言いようがねえ。そもそも、一人の女を二人の男
が同時に抱くなんてこと自体、悪趣味以外の何ものでもねえだろうが。そりゃ、煽
られて熱くなった俺も俺だが、そもそも健のやつ、いったい何を考えてやがったん
だ! 相手は、ジュンだったんだぞ・・・!

 ジョーは、自他共に認める女好きだ。その上、一端の女たらしのつもりでもある。
女を捩じ伏せて苛むような抱き方は趣味ではない。また、女が本気で嫌がるよう
なことは絶対にしない。相手の女の欲情を引きだして燃え立たせ、それを味わうこ
とで自分の欲情を昂進させてゆくのが好きなのだ。そう自負している。それを、女
という鏡に映し出された自分の手管に陶酔する、と言ってしまえば、要は単なるナ
ルシストだが、ともあれ、相手の女の反応の一つ一つが他ならぬ自分によって引
きだされるのを確かめながら、一歩ごとに相手を絶頂に追いつめてゆく、その過程
の一つ一つが、ジョー自身を奮い立たせる。だから、やることの一つ一つは相手の
女の反応次第だが、本質的な主導権は、最初から最後の瞬間まで自分が握り続
ける。それがジョーの流儀だ。だから、普段のジョーなら、女を抱いていて自分を
見失うようなことは決してしない。むしろ、自分を見失うことを極端に恐れていると
言ってもいい。それは、健を抱くときにしても、ある程度は似たようなものだ。また、
相手がジュン一人だったなら、やはり似たようなものだっただろう。
 だが、夕べのそれは、まるで勝手が違っていた。そもそもの、ことの始まりからし
て。

 ただの戯れに、ごく軽く触れ合っていたジュンの唇の奥から突然漏れた、吐息の
ような小さな声。
 それは、予測不能な不意打ちだった。その声を立てさせたのは、ジョーではな
かったから。だから、その声をたてた唇を封じ、その声を立てさせたものから遮断
したい、という反射的な衝動も、ジョーには予期不能な不意打ちだった。
 そんな不意打ちに駆られて反射的にジュンを抱き寄せ、その唇を貪りながらも、
それでも頭の中ではまだ、何を馬鹿なことやってるんだ、ジュンを相手にやること
じゃないだろう、という、苛立たしげな声が響いていた。
 その声をかき消したのは、「だめだぜ、ジュンはお前のものじゃない・・・」という健
の囁きと、その健に触れられて自分の腕の中で身を捩る、ジュンの切なげな吐息
だった。
 ああ、確かにジュンは、俺のものじゃねえ! だが、そう言うお前は、本気でジュ
ンを自分のものにしようって気があるのか!? お前に惚れているジュンを、お前
はまともに女扱いしたことすらねえくせに!!
 そんな憤りにも似た感情の中から、それまで一度たりと欲望の対象として捉えた
ことのなかったジュンの、けれども今その瞬間は、自分の腕の中にからめ捕られ
た女以外の何ものでもない、その女の身体に対する抑えがたい欲望が、突然に
沸き上がった。

 それまで何人もの女たちにしてきたのと同じように、ジュンの唇から顎へ、そして
首筋へと唇と舌とを這わせてゆきながら、ジョーは驚きを感じていた。男に触れら
れるときのジュンは、こんなに素直に敏感な反応をするのか、と。けれど、そのジュ
ンの反応の一つ一つは、果たして自分が引きだしたものなのか、健が引きだした
ものなのか、どんどん分からなくなってゆく。
 ジョーは今、ジュンの身体を腕の中に抱いている。けれど今、ジュンに触れてい
るのは自分だけではない。だから、ジュンという鏡が映し出しているのはジョーだ
けではない。そこにあるのはジョーと健の断片が錯綜した像だ。その過剰な鏡像
の中で、ジョーは文字通りに自分を見失い、そのことがさらに、自分でも不可解な
くらいにジョーを苛立たせた。
 そのジョーの耳には、ジュンの熱い吐息と、自分自身の荒い息遣いだけでなく、
もう一つの息の音が入ってくる。健の、けれど自分に抱かれるときの甘い溜息とは
まるで違う、女を抱く男そのものの、荒々しい息遣いが。それが、自分と、自分が
抱いている女の間に割り込んでくる。
 割り込んでくるのは息の音だけではない。大きくはない、けれど形のいいジュン
の胸に唇を這わせてゆくジョーの顎の下には、背後からジュンを抱きすくめている
健の腕が触れていた。けれどジョーは、その腕を振り解くことはしない。それは野
暮だ、という思いが、どこかにあった。その手が、ジュンの脇腹から腰へ、腿の外
側から内側へと、ゆっくりと這ってゆきざま、既に熱く充血し始めたジョーの一部を
僅かにかすめたのを感じながらも。
 そんなふうに、自分と、自分が抱いている女との間に入り込んでくる何ものかを
振り払うように、ジョーはジュンの名を囁く。するとジュンの小さな喘ぎ声の向こうか
ら、まるで木霊のように、健の声が同じ名を囁く。それが、ジョーをさらに苛立た
せ、煽り立て、ジュンに対するさらに容赦なく執拗な愛撫へと駆り立てていった。
 やがて威きり勃った自分自身をジュンの中に導き入れるために、ジュンの腰を引
き寄せようとした、そのジョーの手が一瞬、健の熱く硬くなったものに触れた。けれ
ど、今それが猛々しく張りつめているのは、もちろん自分に愛撫されるためではな
い。自分が今抱いている、その同じ女に差し向けられるためなのだ・・・。
 その時感じたものは、あるいは嫉妬だったのかも知れない。けれど、そうだとした
ら、一体何に対する嫉妬なのか。ただジョーは、自分の中で昂ぶってくるものを抑
えられなかった。抑えられないまま、その昂ぶりにひたすら駆り立てられて、ジュン
の膝の間に据えた腰の動きが次第に激しく、荒々しくなってゆく。
 と、そのジョーの腰に健の手が触れて、その手がジョーの腰ごと、ジュンの身体を
強引に引き寄せた。次の瞬間、ジュンはびくりと全身を震わせ、ほんの微かに苦
痛の色の混じった小さな叫びを上げて、ジョーの胸に顔を埋ずめた。
 もはや、自分を煽り立てているのがジュンなのか健なのか、ジョーには分からな
い。自分と、自分が抱いている女と、その女を自分と一緒に抱いている自分では
ない男の、激しい息遣いと擦れた喘ぎが入り交じる中で、身体の芯から沸き上が
る、既に制御不能となった衝動に身を委ねるばかりだ。
 「ジュン・・・」と、幾度となく繰り返された甘い囁きを再び健が漏らした、その瞬
間、ジュンはそれまでになく切なそうな喘ぎ声を立てると、身体の奥を激しく悸か
せながら、しがみついていたジョーの肩に爪を立てた。その微かな痛みを知覚しな
がら、ジョーは自分の全感覚が、ジュンに喰い搾められている部分の先端に集中
していくのを抑えきれなくなってゆく。やがて、堰が切れる瞬間が訪れて、辛うじて
押し殺した呻きとともに、ジョーは塞き止めていた奔流をジュンの中に解き放った。
そして、ほんの一瞬薄れた意識が戻ってくる中で、激しく息をつくジュンの肩越し
に、健が小さな呻きを立てるのを確かめた・・・。

 キュッ、と音を立ててシャワーの蛇口を閉めると、ジョーは大きな溜息をつく。
 苛んだ、とまでは思いたくねえが、健と二人してひどく嬲っちまった、てのは確か
だよな。少なくとも俺は、途中からまるっきり抑制が利かなくなっちまったし。あん
なのは、女を知りたてのガキの頃以来だぜ。ひでえ話だ。女たらしが聞いて呆れ
るじゃねえか。まったく、ジュンに会わせる顔がねえよ・・・。
 なんとも憂鬱な気分のまま、手元に近いほうのタオルハンガーに掛けられていた
バスタオルに手を伸ばす。タオルハンガーが二つあるのは、普段だったらジュンと
ジンペイが使い分けているのだろうが、今はその両方に、乾いたバスタオルとタオ
ルが一組ずつ掛けられている。手に取ったバスタオルは柔らかく、仄かにラヴェン
ダーの香りがした。それは、ジュンがいつも使っている香水の匂いとも、彼女の肌
の匂いとも違う、どこか冷ややかですらあるような、単純に澄みきった香りだった。
 もともと嫌いな匂いじゃないが、確かに、鎮静効果のある匂いだな・・・。
 そう思いながら、髪と身体にまとわりついた水滴をあらかた拭ってしまうと、その
時になってようやく、ジョーは自分の服をあの部屋の中に放り出したままだったこと
に気づいた。苦笑するしかない。まるで馬鹿みてえだな。俺は素っ裸のまんま、他
人の家の廊下をふらふら横切ってきたってわけだ。まったく、ざまあねえや・・・。
 バスタオルを腰に巻き付けると、ジョーはバスルームを出て、ドアを開け放ったま
まの寝室に戻った。ベッドの上では、健が未だのうのうと眠っている。
 ったく、相変わらず無邪気な顔して、気持ちよさそうに寝てやがるぜ。
 けれども流石に、その隣に戻って、夕べのご乱行の跡も生々しく乱れたシーツの
中で、もう一度眠り直そうという気には到底なれない。かといって、そこでぬけぬ
けと眠っている健を目の前に、ぼんやりとその部屋に居続けるのもいたたまれな
い。
 仕方ねえ、下に降りるか・・・。
 と、その時はじめて、夕べ荒々しく脱ぎ散らかした服が、ジョーの分と健の分と、
それぞれまとめて畳まれて、小さなデスクの上に置かれてあるのに気づいた。もち
ろん、ジュンの服は消え失せている。
 鼻っ柱が強くてがさつな性格をしてる割に、そういうことはしっかり気になるんだ
な・・・。
 そのことを、どこか可笑しくも、可愛らしくも感じながら、ジョーはさっさと服を着て、
部屋を後にした。だが、その足取りは重い。短い廊下を通って、その突き当たり
の、店へと通じる螺旋階段を下る、その一歩ごとに、気分は一層重くなる。けれ
ど、下の店は奇妙に静かな気配で、コーヒーの香りだけが漂ってくる。
 階段を下りきってしまうと、店に続く扉は開いていて、カウンターに座っているジュ
ンの後姿だけが見えた。
 ジュン一人か・・・。いいのか悪いのかよく分からねえが、とにかく、落とし前はつ
けなきゃな・・・。


(3)
 階段を下りてくる足音で、それがジョーであることはすぐに分かった。それでジュ
ンは心なしかホッとして、それでも臨戦態勢は解かず、そちらに背を向けまま、カッ
プに残ったコーヒーの最後の一口を飲み込む。
 そのジュンの背中に、ジョーが「よう・・・」と重苦しげな声をかける。振り向いた
ジュンは、ジョーのあまりにもバツの悪そうな顔につい毒気を抜かれたが、それで
も、ささくれだった気分は変わらない。自然、声もどこか冷ややかなものになる。
「お早う。シャワーを浴びて、いくらかはお酒が抜けた?」
「・・・ああ、いくらかはな」
 そう答えて、ジョーはジュンの隣のストゥールに腰を下ろしたが、ジュンはそれと
殆ど同時に立ち上がった。
「コーヒー、飲むでしょ?」
「ああ、頼むよ・・・」
 カウンターの向こうに回ったジュンは、ケトルに水を注いで火にかける。
 なんだか、取りつく島もないな、と苦り切りながらも、ジョーは沈黙が辛い。
「・・・ジンペイと竜は?」
「朝市で何か食べてくるって」
「そうか・・・」
 ジュンはそのまま黙って、フィルターとサーバーとカップを準備し、豆をミルにかけ
ている。
 暫くの沈黙の後、ジョーが再び口を開いた。
「それで、夕べは・・・、その・・・、悪かったな・・・」
「なにが?」
「あんなことをしちまって・・・。俺は、普段はあんなふうに女を抱くことねえんだ
が・・・」
 沸騰した湯がケトルの蓋をならす。
「あんなふうっ、て? 二人がかりで、ってこと? それとも健と一緒に、ってこ
と?」
「う、それは、その両方だが、そうじゃなくって・・・抑えが効かなくて、ひどく荒っぽ
くやっちまったから・・・まさかとは思うが・・・どこか傷めたりしやしなかったか
と・・・」
 ジュンは荒く引かれた粉末に静かに湯を注ぎながら答えた。
「まぁ、お気遣いありがと。でも、それなら平気よ。ちょっとやそっとじゃ壊れたりしな
いわ。なにせ、実戦向けの格闘技で鍛えた身体ですからね」
 それが皮肉のつもりだったのか、単なるとんちんかんだったのかは、今一つよく
分からない。
「それに、セックスそのものは・・・」
 ジュンはカッと赤くなって、ミルを棚に戻すのを幸いに後ろを向くと、小さな声で、
悦かったわ、と言った。
 それで、とりあえず気掛かりのうちの少なくとも二つはクリアできた、と、ジョーは
少しほっとする。だが、問題はもう一つあるんだよな・・・。
 ジュンは温めたカップに注いだコーヒーをジョーの前に置くと、自分は店のあちこ
ちに散らばった夕べの騒ぎの跡を片づけ始めた。手伝ってもらわなくて結構よ、と
言って。
 ジョーは熱いコーヒーを啜りながら、もう一つの、実のところは最大の気掛かり
を、どう切り出して、どう謝ったものかと思案したが、うまい言葉が見つからない。
それで結局、後ろで片づけものをしているジュンには背を向けたまま、身も蓋もな
い切り出し方で済ませることにした。

「なあジュン、おまえ、健とは初めて、だったろ?」
「ジョーとも初めてだったわよ」
 淡々とした声で答えながら、ジュンは汚れた食器と空き缶や空瓶を分けて、次々
と二つのトレイに載せてゆく。
「俺はどうでもいいだろ! おまえが惚れてるのは俺じゃないんだから!」
「あら、あたしはジョーが大好きよ」
 話がちっとも進まねえじゃねえか、と苛立ったジョーは、思わずジュンの方を振り
向いて叫んだ。
「頼むから、変な突っかかり方はやめてくれよ、素直に謝らせてくれって!」
 ジュンは顔をあげて、手を止めた。
「なにを?」
「つまり、惚れた男に初めて抱かれるのがあれってのは・・・、だから・・・すまねえ
ことを、しちまったな、と・・・」
 ジュンは再び食器類の回収作業に戻ると、相変わらず淡々とした声で応えた。
「ジョー、でもそれは、あなたが謝ることじゃないわよね」
「だが、あの場に俺がいなければ・・・」
「健は、あたしには触れもしなかったでしょうね。それだけのことよ」
 言下にそう答えて、ジュンは淡々と作業を続行する。
「そんなことは・・・」ない、と断言する自信は、ジョーにはない。
 あの朴念仁の、むっつりスケベが!
「でも、せめて俺が途中でさっさと身を引けば・・・」
 ジュンは再び顔をあげて、手を止めた。
「あらあ、途中でって、どこで? どのタイミングだったら、あなたにそれが可能だっ
たって?」
「う・・・」
 返答に詰まったジョーを見つめたまま、ジュンは続けた。
「それを言うなら、あたしが途中で言えばよかったのよ、ジョー、邪魔だから出てっ
て、ってね。そうしなかったのは、あたしだわ。だから、あなたが謝る筋合いのこと
じゃないでしょ。だから、あなたが謝ったりするのは、そうね、それがもし、あたしへ
の思いやりのつもりなんだったら、かえって失礼だわ。僭越よ」
 そう畳みかけられて、ジョーは一言もない。
「・・・すまねえ・・・」
 そう言って、再び黙々と作業を再開したジュンに背を向けるしかなかった。

 ・・・結局ジュンがヘソを曲げてるのは、健のことか。だったら、俺がしゃしゃり出る
ことでもねえが、にしても、あの朴念仁が、本気で拗ねてるこのジャジャ馬娘をまと
もにあしらえるとも思えねえしな・・・。まったく、あの野郎、無責任に人を煽ってお
いたくせに、後のフォローは全部、俺にさせる気かよ、ったく!

 ジョーは、しばらくそのままカウンターに凭れていたが、流石にいたたまれない気
分になって、多少は手伝わせろよ、とジュンに声を掛けた。ジュンは一瞬考え込む
と、店内スペースの残りをジョーに委せ、自分はカウンターの中にこもって、ゴミの
分別やら皿洗いやらを済ませていった。

 ・・・まったく、いい気なもんだわね! 気まずかったら、さっさと出掛けていけば
いいものを! そんなに、あたしに八つ当たりさせたいわけ!? どうせ、今朝が
たのことなんか、全く気づいてないんでしょう! だったらジョー、いっそあなたに喧
嘩を売ってあげようかしら?!

 二人して殆ど押し黙ったまま、一連の作業があらかた片づいた頃、ジュンはカウ
ンターの中から、コーヒーをもう一杯いかが? とジョーに声を掛けた。ああ、もらう
よ、という返事に、ジュンは自分にとってはこれが既に3杯目になるコーヒーを淹れ
ると、カウンターのストゥールに腰を下ろした。
 その隣にジョーが腰を下ろすと、ジュンは短い溜息を一つついてから、相変わら
ず淡々とした、けれどさっきまでの冷ややかさは失せた、穏やかな口調で、ジョー
に話しかけた。

「ねえジョー、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「あなたと健は、ベッドの中では普段、どっちが積極的にリードするの?」
「なっ・・・なんだ、そりゃあ?」
「男同士の場合は、リードするっていう言い方はしないのかしら? それとも単に
ケース・バイ・ケースなの?」
「おい! ちょっと待てよ! 何でそんな・・・俺と健が寝てるなんて・・・」
「知ってるのかって?」
「そうじゃなくて・・・なんで俺たちが寝てるなんて思うんだよ?!」
「知りたい?」
「ああ、聞かせてもらいたいもんだな!」
 ふうん、じゃあ、教えてあげる、というと、ジュンは徐ろにカップを口に運んで、一
口啜ってから、話しだした。
「今朝・・・夜が明けるころ、目が覚めたら、あたしの右側にあなたがいて、左側に
健がいて・・・二人とも無邪気な顔して眠ってるなあって、なんだか可愛らしく思え
ちゃって・・・。それで、あなたたちの頬にキスしたの。起こさないように、そっと、
ね。最初は健に。そしたら・・・」
 また一口コーヒーを啜ってから、ジュンは続けた。
「寝言で、”ジョー・・・”って言ったのよね・・・」
 ジョーは飲み込みかけていたコーヒー激しくにむせた。
「なによ、それ? って思いながら、気を取り直して、あなたの頬にキスしたら、今
度は、”ケン・・・”て帰ってくるじゃないの」
 激しくむせ続けているジョーは、何も言えない。
「思わず固まったわよ」
「おい・・・でも・・・それは・・・」
 咳き込み続けながら、ジョーは必死に言葉を探している。
 ・・・せいぜい狼狽えなさい! そのあと、バスルームに駆け込んで、しばらくへ
たり込んでたのよ、なんてことは、絶対に教えてあげない!
「いいわよ、そんなに慌てなくても」
 ジョーはまだ咳き込んでいる。
「要するに・・・そういうことでしょ・・・?」

 ジョーのむせ返りはようやく収まり始めた。
 ジュンは再び話し始める。
「でも、そう思って考えてみれば、南部博士の別荘にいたころも、あなたたち、
しょっちゅう相手のベッドルームに忍んでいってたんじゃないの」
「なにィ?!」
「あたしとジンペイが、あそこで一緒にあなたたちと暮らすようになった頃には、あ
なたたち、もう15−6歳だったわよね? いくら小さい頃から一緒に暮らしてたか
らって、その歳になって他人のベッドルームにこっそり忍んでいくなんて、7つ8つ
のジンペイが夜中にあたしの部屋に転がり込んでくるのとは、わけが違うでしょう
に」
「おい! なんでそんなことを・・・」
「だから、ジンペイよ。あの子があたしの部屋に泣きつきにくる途中で、あなたた
ち、幾度か鉢合わせしてるでしょ」
「う・・・」
 ・・・そういえば、そんなことがあった。告げ口はルール違反だからな、と言い含
めたのに、それはスタッフや博士に対してってことで、ジュンには喋ったわけだ、あ
のクソガキ・・・。
「侮れないのよ、ちっちゃい子どもって。まあ・・・あの頃は、ジンペイは当然のこと
だけど、あたしも、そういうことだとは思わなかった・・・ていうよりも、あたしは単
に、羨ましかっただけだったわね」
「羨ましかった・・・?」
「ええ・・・。だって、あたしは一方的にジンペイに甘ったれられるだけで、甘えさせ
てくれる相手がいないけど、あなたたちは、お互いに甘えたり、甘えられたり・・・
言ってみればお互いさまの関係で、対等でいられて。そんなふうに、安心して相手
のベッドの中にもぐり込んじゃえるような同性の友達がいつも傍にいるのは、羨ま
しいなあって」
 ふふっ、と笑って、ジュンは言葉を続けた。ジョーに、というよりは、どこか独り言
のように。

「孤児院にいた頃にはね、あたしにもそんな友達がいて・・・、8つの時からだった
かしら。同い年の女の子は他にもいたけど、その子とは特に気が合って、孤児院
を出るまで、ホントにいつも一緒にいたわ。気分が滅入ってどうしようもない時なん
かは、消灯時間が過ぎてから、そっと相手のベッドに潜り込んで、ただくっついて、
一緒に眠って・・・」
 10かそこらの頃は、俺と健もそんなもんだったな、と、ジョーはひどく懐しいような
気分で、自分自身のことを思い出す。
「でもあたしは、このチームに加えられることになって、その子から引き離されて、
本格的な訓練が始まってからは連絡を取ることも全く許されなくなって・・・。それ
なのに、甘ったれのジンペイのお守り役だけは、相変わらずしっかり残って・・・。だ
から、いつも一緒にいるあなた達を見てると、その子のことがすごく懐しくて・・・寂
しかった。だからって言って、まさか夜中に、あなたや健のところに泣きつきに行く
わけはいかないでしょ。ジンペイは、泣きつかれる相手であっても、泣きつく相手
じゃないし」
 ・・・あの頃のジュン・・・。今よりもずっと小柄で細くて、それでも気の強そうな大
きな緑色の目をして、怖じ気づいているジンペイを庇いながら、初対面の俺たちに
「女の子やガキって、馬鹿にしないでよ!」って食ってかかった、鼻っ柱の強い女
の子・・・。
「あたしがその子と一緒にいたのは12の時までだったから、セクシャルな関係
は・・・なかったけど。せいぜい冗談で、軽くキスしたり、胸にちょっと触ったり、てい
う程度。ゲイについては、そりゃ知識としては知ったけど、その頃は・・・実感はな
かったわね・・・」
 ・・・12くらいの頃だったら、俺もそうだったかもしれない。だったら、その頃に引き
離されていたとしたら、俺と健は、どうなっていたんだろうか・・・。
「とにかく、博士の別荘であなたたちと暮していた頃は、まるで単純に、小さい頃か
らの一番の友達とずっと一緒に居続けられるあなた達が、ただただ羨ましいと、
思っていたんだけど・・・」
 あの頃のジュン・・・。小便臭い媚びを売って見せることはあっても、俺たちに甘
えるなんていうしおらしいことはまるでしない、小生意気で可愛げのない・・・。
「でも、あなたと健は、あの頃には、もう、そういう関係だったんじゃないかしら・・・」
 ・・・そうだ、本格的な訓練が始まって、自分の身体を作り上げていく中で、俺と
健は・・・。
「別に、いいけど。問い詰めたいとも思わないから」
「・・・」
「でも、なんだか、すごく納得しちゃったわ、今朝の、あなたたちの寝顔を見てた
ら・・・」
 ジョーはまだ、ぼんやりと回想モードに浸っていた。・・・あの頃の、俺。あの頃
の、俺と健。あの頃の、俺と健とジュン。あの頃の、俺と健とジュンとジンペイ。それ
から間もなく入ってきた竜。それから・・・


(4)
「言っとくけど」
 突然語気を強めたジュンに、ジョーはふと我に返った。
「・・・なんだ?」
「あたしは別に、あなたたちが寝てることを、責めてるわけじゃないわよ」
 確かに、責められても困る。けれど、何の呵責も感じずにいることもできない。
 だって、お前は・・・。
「・・・嫌だとは、思わないのか?」
 躊躇いがちに発せられたジョーの問いに、ジュンはきっぱりと答えた。
「嫌っていうんなら、そのことを誤魔化されてる方が、ずっと嫌だわ。でも、知っ
ちゃったことをなかったことにして誤魔化し続けるのは、もっと嫌!」
 それに・・・、と言葉を選びながら
「あなたたちについて知っちゃったことは、夕べあなたたちとしちゃったことと一続
きのことで、しかも・・・ていうよりも、だからこそ、今朝になって、あなたたちのこと
が分かった瞬間に、夕べのことが、夕べとは全然違った意味になっちゃったから。
少なくとも、あたしにとっては」
 だが、俺にとっては? 夕べしたことそれ自体の意味が、なにか変わるか?
「だって、言い出しっぺは、あたしだったんだもの」
「え?」
 二人いっぺんに面倒見ましょうか・・・って。

「あれは・・・」
 と言いさしてから、ジュンには今更ながらの苦々しい笑いが浮かんでくる。
「喧嘩を、吹っかけてやったつもりだったの。健に」
「喧嘩ァ?」
「そ。こいつ、ホントにあたしを女だと思ってないのね、って、ムッとしたから。だか
ら、やれるもんなら、やってみなさいよ! って。もちろん、冗談だったんだけど、そ
れをホントにやっちゃうんだもの、悔しいったらありゃしない」
「悔しいって・・・」
「売った喧嘩に、あっさり負けちゃったってこと」
「ちょっと待てよ! そういう問題か!? 俺は・・・」
 お前が健に売った喧嘩とやらに巻き込まれて? で、俺は、どうしたって?
 思い返してジョーは、こちらも今更ながらに、頭を抱える。
「・・・頼むから! そういう危ないこと、しねえでくれよ! お前・・・」
 こいつ、自分のことも男のことも、まるで分かってねえ!
「でも夕べは、・・・そりゃ呆気にとられちゃったけど、でも、正直言っちゃえば・・・、
まあ、悪くない気分だったわ」
 あまりにしれっとした調子に、ジョーはつい気勢を殺がれる。
「それに今朝、あなたたちの寝顔を眺めてたら、なんだか可笑しくて」
 本当に、可愛らしく見えちゃって。夕べ、あんなことした人たちがね、って。
「それで、夕べのあなたたちのことも、ムキになって玩具かお菓子の取り合いをし
ている子どもみたいだったなって、思えちゃって・・・」
 くすりと笑って、ジュンは言葉をつづけた。
「そんなふうに欲しがられるのは、嫌じゃなかったなって。それで・・・」
 短い沈黙。
 それから、冷え冷えとした乾いた呟き。
「いい気なもんだわよね、あたしったら」
 ちらりと目をやったジュンの横顔に、ジョーは言葉を封じられた。
 
 だが、やはり釈然としない。けれど、なにが?
 思い巡らして、ジョーは再び、あまりにも当たり前のことに帰着した。
 要するに、ジュンにとっての問題は俺じゃない。結局は健なんだ。
 だったら・・・
「もう一度、聞くが・・・」
「なあに?」
「夕べ、最初から俺があの場にいなかったら、健は本当にお前に手を出さなかっ
たと、思うか?」
「当然でしょ。だって健は、徹底してあたしには無関心なんだから」
「どうして、そう思う?」
「だって夕べは、あなたがむっつりしてるのを健が突っついて、ご機嫌を取ってて、
それで、女あしらいがどうのこうのって話になったんじゃないの」
 そう、だったか・・・? ジョーは、よく覚えていない。
「そこにあたしが、いきなり健に喧嘩売って・・・って、馬鹿みたいだわ、あたし・・・」
 吐き捨てるように言った。
「ただの猫じゃらしじゃない」
「へ・・・?」
 あまりにも唐突な喩えに、ジョーは目が点になる。

「・・・なんだそりゃ?」
「要は、健があなたを構って遊んでたところに、あたしがしゃしゃり出たわけで」
 ジョーには、まだよく飲み込めない。
「つまり、あなたは猫で、健はその猫と遊びたがってる子どもで、あたしは体のい
い猫じゃらしになっちゃった、てこと!」
「おい・・・そりゃあ、ないぜ! そこまで自虐的になるなよ!」
「でも、実際そうでしょう?」
 覚えてないかしら? と尋ねる。
「あの時、健は、”ジュンはお前のものじゃない”って、言ったのよね」
 覚えてないどころじゃない、それで俺は、頭に血が上ったんだ・・・。
「あの時は、ひたすら呆気にとられてたから、まるで意味が分からなかったけど、
要するに、猫に・・・あなたに向かって、”ほーら、取ってみろ”って、猫じゃらしをけ
しかける気分だったってことじゃないの、あれは。違う?」
 絶句。
 猫に、子どもに、猫じゃらし・・・って、それは、
 あんまりな喩えだ! ジュンにとっても、俺にとっても、それは酷すぎる!
 そう思いながらも、ジョーはそれが自分自身の主観とも重なると、認めざるを得な
かった。自分を煽っているのは、ジュンよりもむしろ健ではないか、と、ずっと感じて
いたのだから。そもそも、ジュンに対して妙な後ろめたさを感じていたのも、そのせ
いじゃなかったか。
 だが・・・。
 猫に、子どもに、猫じゃらし・・・って・・・。

「・・・そこまで陰険なことを・・・するか? 健が・・・?」
「陰険ていうのとは、全然違うわよ。単に無頓着っていうだけのことだから。でも、
だからこそ、やりかねないんじゃない?」
 確かに、健なら、やりかねない、かもしれない。あいつは、他人が自分に向けて
いる気持ちってものに、時々残酷なくらい無頓着に、無関心になっちまえるか
ら・・・。
「もちろん、あなたに対してもあたしに対しても、悪意なんて微塵もなかったでしょ
うよ。単にあたしに関心がないっていうだけで」
 ジュンに、というよりは、ジュンが健に対して向けている気持ちに。
 それを、分かったうえで無視するとか踏みにじるとかじゃない。その手の、はっき
りした悪意でもあれば、逆にまだ救いがある。だが、そうじゃない。
「健は・・・、いつもそうだけど、状況にだけ反応するのよね。しかも、怖いくらいに
的確に。だから、夕べのことも・・・、あたしは、状況を作り上げている、ただの要
素っていうだけだったんだ、ってこと」
 確かにあいつは、人であれ物であれ、”それ”がただ、そこにそのようにある、て
いう状況だけを、まるで自明のことのように受け入れて、”それ”ごと、状況の全体
を自分のものにしちまうんだ。”それ”の思惑なんか、まるで関係なく。
「思いやりがないっていうのとは違うんだけど・・・。でも、自分はわりと素直に感情
的なくせに、他人の感情には、時々、ものの見事に鈍いのよね、健って・・・」
 本当に、他人の気持ちには、単に無関心に、無神経に、なり得るんだ、あいつ
は。まるで素直に、無邪気に。
 そんな無邪気な残酷さに、俺自身も翻弄されたことがなかったか?
 今も、翻弄されているんじゃないか?

「どっちにしても・・・」
 こんなこと、ジョーに言うのも悔しいけど・・・、
「つくづくと、馬鹿なことしちゃったもんわ」
 でも、ジョー以外の他の人に言うわけにも、いかないもの・・・。
「結局、健は、あたしには徹底して関心がないんだなって、思い知らされちゃった
だけだもの」
 薮蛇もいいところよね・・・。
「ほんっとに、どうにもならない人だわ、健て。腹が立っちゃう」
 自分に。
 そう独り言のように呟くと、ジュンは大きな溜息をついた。
「でも、それで・・・」
 ジョーが静かな声で尋ねる。
「健のことが嫌になったか?」
「・・・だったら、いいのに・・・。だから、腹が立つんじゃない・・・」
 吐き出したような小声の、語尾が震えていた。
 頼むから、泣き出したりしないでくれ、と、ジョーは祈るしかない。
 俺が慰めの言葉を掛けるわけにもいかねえんだから。
 俺に慰めの言葉なんか、掛けて欲しくねえだろう?

 淀んで膠着した沈黙。
 陽はもう大分高くなったはずなのに、店の中はいつまでたっても薄暗い。
 それでも時折、子ども同士や家族連れの陽気な声が、外の小路を通り過ぎる。
 普段なら、午前中は人通りのまるでない小路なのに。

 突然ガタンと音を立てて、ジュンが立ち上がった。
「あたしも、朝市で何か食べてくる」
 と言うなり、ジョーには目もやらず、カウンター内に歩み入ると、空になったカップ
をシンクに下げる。
「俺もいい加減、腹が減ったんだが・・・」
「じきに竜とジンペイが帰ってくるでしょ」
 座ったままのジョーに背を向けたまま、奥のカップボードの引き出しを探る。
「どうせ何か買ってくるわよ。とにかく、それまで留守番をお願いね!」
 小さな財布をとりだすと、ジョーには目もくれずに、その横を通りすぎる。
「おい、健はどうすんだよ、いい加減、叩き起こした方がいんじゃねえか?」
「やめてよ!」
 叫ぶように答えると、やっとジョーの方を振り向いた。
「ジョーならともかく、健には、今はとても顔を会わせられないわよ!」
 苦笑するしかない。
「ったく、言ってくれるよな・・・」
 要するに、ジュンはジュンで、男としての俺には徹底して関心がないわけだ。
 まあ、こいつは元来がそういう相手じゃないからな、それはそれでいいが。
「にしても、ずっと健を避けてるわけには、いかねえだろ」
「そんなこと、分かってるわよ!」
 馬鹿にするな、とでも言いたげな口調だった。
「任務でだったら、平気よ。スクランブルが掛かったんなら、今すぐでも大丈夫」
 いっそのことそれなら、まるで何事もなかったような顔して済ませられるのに。
「でも、そうでなければ、しばらくは会わずに済ませたいわ。気持ちを整理しない
と、どうにもならないから・・・」
 そう、だな。
「・・・飯、食ってこいよ」

 それにしても・・・。
「さっきの、猫じゃらしってえのは・・・」
「え・・・?」
「ありゃ、いくら何でもあんまりだ。第一、俺の立つ瀬がねえ」
「そうかしら・・・」
 そうだよ、バカタレ! しまいにゃこっちが喧嘩売るぞ!
「だから、せめてマタタビくらいにしとけよ」
「何よ、それ」
 ジュンはきょとんとした顔でジョーを見つめた。
「俺は猫のまんまで構わねえからさ」
 そう言って立ち上がると、ジュンの顎をしゃくり上げて、軽くキスする。
 文字通りの、紳士的なキス。
「猫にはやっぱりマタタビだろ。俺はおまえが大好きだぜ」
 今度はジュンが苦笑する。
「ジョー、それで人を慰めてるつもり?」
「いや、口説いてんの」
「あーあ、嬉しいお気遣いだこと。女扱いしていただけて、光栄至極だわ」
「あれ、本気にしねえな?」
 ジョーはニヤッと笑って、ジュンの耳元に囁いた。
「夕べのおまえは素敵だったぜ。思い出しただけで、また勃っちまいそうだ」
 ジュンはカッと赤くなって、肘でジョーの脇腹を思いきりどついた。
「もうっ! 朝っぱらから、やなこと思い出させないでよ!」
 どつかれた脇腹を押さえながら、ジョーは笑いを抑えられない。
「なァに言ってんだ、ずーっとそのことを話してたんじゃねえか」
「違うわよっ! そのこと・・・じゃあ、ないわよ! んもー!!」
 ジュンは耳まで真っ赤になると、まだ笑い続けているジョーに憤然と背を向けて、
表に通じる扉へと足早に向かっていった。

 が、ふと何か思い出したように、扉の前で足を止め、無言のまま踵を返してカウ
ンターの中に戻ると、カップボードの一番下の抽出しから大きなゴミ袋を2枚引っ張
り出して、何ごとかと訝っているジョーに突きつけた。
「健を叩き起こしたら、シーツとベッドカバーをこいつに放り込んで、裏のゴミ置き場
に持ってかせといてくれる?」
「なんだ? 別に破けちゃいねえだろ? 洗濯すりゃ済むじゃねえか」
「冗談じゃないわよ! 失恋を決定的にしちゃった思い出のシーツやベッドカバー
なんて、もう二度と見たくも触りたくもないもの」
 これが乙女心ってやつか、と、一瞬思わなかったわけでもないが、大真面目な
顔で特大のゴミ袋を握りしめて仁王立ちになっているジュンの姿に、ジョーはつい
噴き出した。
「何が可笑しいのよ?」
 いつもの色気もへったくれもねえジュンに、戻ったじゃねえか。
 そう思うと、また笑いが込み上げてきて、もう止まらない。
「いいから! お前は、外でさっさと飯でも食ってこい!」
「ええ! そうさせてもらうわ」
「健の野郎は、俺が2,3発、殴っといてやるから」
「余計なことは、しないの!」
 そう言って、ジュンは夏の午前中の陽の差す街路へと出ていった。
 その後ろ姿を見送りながら、ジョーはまだ、しばらく笑い続けていた。

 その笑いが途切れ、ジョーはガランとした薄暗い店の中に一人残された。
 とりあえず、俺がジュンにできることや、するべきことは、したはずだ。
 あとは、ジュンと健の問題ってことになるが・・・。
 
 しかし、健の野郎、あいつ、一体、何を考えていやがったんだ?


(5)
 カラン、と入り口の扉のベルが鳴って、扉口から外の光が差し込む。
「ただいまー」
 元気よく飛び込んできたのはジンペイだった。
「ジョー、朝飯まだだろ? お祭りのパネトーネとビスケット、買ってきたぜ。食うよ
な?」
「ああ、もらうよ」
「お姉ちゃんと兄貴の分も、買ってきちゃったんだけどなー」
 カラン、と、もう一度扉のベルが鳴って、竜が入ってきた。
「よお、ジョー。今そこでジュンに会ったぞい。健は二日酔いで、まだヘバッとるん
だと?」
「・・・ああ」
 そういうことに、したわけか。
「お姉ちゃんの部屋だろ? 兄貴には俺様がルームサービスをしてやるよ」
「馬鹿、止せッ!」
 つい語気が荒くなって、ジョーはしまった、と思う。
「な、んだよ、ジョー・・・」
 ジンペイはジョーの剣幕に目を丸くしている。
「いや・・・、あいつ、ひでえ二日酔いだから・・・」
 そう答えながら、ちらりと竜の顔に目をやる。
「ジンペイ、静かに寝かせといてやれや」
 竜の鷹揚な口調は普段と変わらない。
「リーダーっちゅうのは、日ごろ気苦労が絶えんからのお、大変じゃ」
「ふーん、そんなもんかね。ま、いっか」
 ジンペイはあっさりと納得した様子だが、竜は、どうなのだろう?

「さて、オラはそろそろ、家ィ戻るわ」
「えーっ、もう行くのかい? オイラ一休みしたかったのにー」
「昼過ぎにゃヨットレースの連中が来るっちゅうたじゃろ。ジンペイ、お前も来る気
なら、さっさと支度せえ」
「チェッ、慌ただしいなあ。んじゃ5分だけ待ってくれよ、着替えを取ってくるから」
 忙しげに螺旋階段を駆け上がるジンペイに、静かにせえ、健を起こすな、と竜が
声を掛けた。
 ジョーはホッと息をついて、竜に尋ねる。
「ヨットレースって、明日のだろ? 今日からジンペイを連れてくのか?」
「あー、あいつ、前から競技用のヨットに乗っけて欲しがっとッたからのォ。競技前
日の調整中なら、あいつがちっーとくらいウロチョロしても、そーんなに連中の邪魔
にゃならんじゃろ」

「それよっか、ジョーよ」
 竜の口調が変わった。
「お前ら、なーにやっとんじゃ」
 ジョーはどきりとして竜の顔に目をやる。
「何って、なんだよ」
「何かァ知らんし、別に聞こうとも思わんが」
 僅かに咎めるような表情。
「朝っぱらから、ジュンがなーんか変じゃな、と思っとったら、お前も変じゃ」
 階段を勢いよく駆け降りてくる軽やかな足音が螺旋状に近づいてくる。
「どーやら健も妙なことになっとるみたいじゃが、とにかく」
「よー、お待ちどおー。さ、行こーぜ、竜」
 竜は、おう、と陽気にジンペイに答えてから、ジョーに囁いた。
「面倒なことは、ジンペイがおらん間に、ぜェんぶ片ァつけとけよ」
 竜の口調や表情には、口にした言葉以外の何の含みもなかった。揶揄も嘲弄
も、邪推の影も。

「おーい竜! 早くしろってったのは、お前だろー! 早く行こーぜ!」
 ジンペイが入り口の扉を押し開ける。
 カラン、とベルが鳴って、再び扉口から外の光が差し込む。
「ほいほい、まーったく、子どもは面倒じゃのォ。じゃあな、ジョー」
「あ、お姉ちゃんには、さっき会ったときに言ってあるから! じゃな!」
「ああ、行ってこいよ」
 カラン、と、もう一度扉のベルが鳴って、外の光が遮られる。
 ジョーは再び、ガランとした薄暗い店の中に一人残された。

 竜は時々、不思議な配慮の仕方を見せる。その竜の、ジンペイに対する配慮の
仕方もまた独特なものだ。それは、ジンペイと大して歳の違わない弟がいるせい
でもあろうけれど、それだけではないだろう。竜には血の繋がった親兄弟がいて、
けれど彼らに、竜は自分の本当の仕事を明かすことは決してできない。そんなこと
が、ある意味で気楽な孤児である俺たちとは全く違った性質の、独特に慎重な他
者への配慮ぶりを、竜に身に付けさせているのかもしれない。

 竜は、多分、大人なんだろうな。俺や健よりも、歳は確か1つ下なんだけどな。

 ふと、ジンペイくらいの頃の竜はどんな子どもだったんだろう、とジョーは思った。
 あのくらいの頃の俺は、有り体にいえば「マセたガキ」だったんだろうが。
 まーったく、子どもは面倒じゃのォ、か。
 そのマセガキがそのまんま、ただヒネたガキになっただけってことなのかな、俺
は。
 そりゃ、あれが俺に対する当て擦りでも何でもなかったってことは、よく分かって
るけどよ。
 まーったく、子どもは面倒じゃのォ、か。
 チェッ、だいたいジュンのヤツが、子どもの頃にどうこうだの、猫をじゃらす子ども
だの、
 変な話を持ち出しやがるから、ついつい余計なことまで考えちまったじゃねえ
か・・・。

 そう思うと、なんだかむかっ腹が立ってくるが、いない相手に腹を立てても仕方
がない。
 そうなると自然、まだいる相手に矛先を向けるしかない。

「クソッタレ! あの野郎、いつまで寝腐ってる気だ!」
 そう呟いて、ジョーは階上への螺旋階段を昇り始めた。


(6)
「おい、健!」
 ジュンの部屋の扉を押し開けると、健はまだぬけぬけと眠っていた。こいつ、まだ
目が覚めねえのかよ。そう思うとジョーは、腹が立つのを通り越して気が抜ける。
「おーい・・・健・・・」
 健はシーツの中でもぞもぞと寝返りを打ちざまに、体を伸ばしながら、深く大きく
息をついた。こいつはどうしてこうまで寝穢いんだ? そう呆れて眺めていると、ぽ
かりと目が開いた、と思ったら、がばりとはね起きた。まだ人心地がつかない顔
だ。
「ようやくお目覚めか」
 そう声を掛けてやると、健は弾かれたように顔を上げた。寝起きの間抜け面もい
いとこだ。
「ジュンはとっくに出かけたぞ」
 健はもう一度大きく息をつきながら、ああ、そうか、と応えてベッドの端から足を
下ろす。が、小さな溜息をつくと、そのままもう一度、上半身をごろりとベッドの上に
転がして、もう一度大きな溜め息をつくと、いくらか擦れた声で呟いた。
「酔った勢いで、やっちまったな・・・」
「ああ! まったく、ひでえ野郎だよ、てめえは!」
 俺が目が覚めたときに思ったのと全然同じことを、3時間近くも遅れて今更ながら
に繰り返して言ってみせるなよな!
 健は寝転がったまま顔だけジョーの方に向けた。
「喚くなよ、共犯者だろ・・・。今、何時だ?」
「10時半を過ぎたとこだ」
「ジンペイと、竜は・・・?」
「ついさっき、竜ン家へ出かけてった。明日のヨットレースの準備だとさ」
「ジュンが出かけたってのは?」
「朝飯食いに出ただけだから、じきに戻ってくんだろ」
「そうか・・・」
 健はまだ怠そうに転がっている。
「おい、いつまで寝惚けてやがんだ! とにかく、そのシーツとベッドカバーは処分
しろってえお達しだ! だから、さっさと起きやがれ!」
「・・・シーツとベッドカバーが・・・何だって?」
「失恋したから、捨てろとさ!」
「失恋? 誰が誰にだ? 俺に分かるように喋れよ」
 健は相変わらず、かったるそうに寝っ転がっている。
 何から説明すりゃいいんだ、この血の巡りの悪い野郎を相手に・・・。

「とにかく、ちょっと、ややこしいことになってるぞ」
 ジョーはとりあえず、デスクの椅子を引っ張り出して跨がって座ると、椅子の背に
顎を載せる。
「俺たちのこと、ジュンにばれちまったぜ」
「俺たちのこと・・・って?」
「俺たちが寝てるってことがさ」
「え・・・?」
 健はちょっと眉を顰めると、しばらく黙ったまま、ことが露見した経緯を聞いてい

た。それからまた、大きな溜息を一つ。
「・・・それは・・・まずい、かもな」
「まずいかも? 歴然と、思いっきし、まずいだろうが! しかも俺は、そのまずいこ
とに延々と突き合わされてたんだからな! てめえがぐーずか寝てる間、ずーっと
だ!!」
「いちいち喚くなよ・・・。で、ジュンの反応は?」
「反応、だと!?」
 ・・・ありゃ、そういえば・・・。
「意外と、淡々と受け入れてたな、そういや・・・」
「拒絶反応みたいなものは?」
「そういや、なかったな・・・。俺たちが寝てること自体より、そのことを隠されてるほ
うが嫌だって、言ってたくらいだもんな」
「で、あいつ、どういう納得の仕方してるんだ?」
「そうだな・・・。子どもの頃のことを、言ってたな。孤児院にいた頃に仲の良かった
女の子のこととか・・・」
「あいつ自身のことか?」
「それもある。で、南部博士の別荘で一緒に暮し始めた頃の俺たちを見てて、安
心してベッドの中にもぐり込んじまえるような相手がずっと傍にいるのが羨ましかっ
たってさ」
「おい!」
 健はようやく身体を起こす。
「そういうレベルの納得か? あいつ、俺たちが何してるか分かってるんだろう
な?」
「あのなあ! 分からねえわきゃ、ねえだろ! 自分が男知らねえわけでもねえん
だから」
「そりゃそうだが・・・」
「でも、その子どもの頃の延長で考えると、納得できる、って言い方をしてた
な・・・」
「ふ・・・ん。随分と物分かりのいいヤツだな。でも、あいつがそれで本当に納得し
てんなら、取りあえず、それはそれでいいんだろうな・・・」
 そういうもんか? とジョーは拍子抜けするが、話はまだ終わっていない。
「どっちにしても、夕べのことでは、あいつ、大分ヘソ曲げてるぞ」
「俺たちのことと絡んでか?」
「まあな。だが、それについちゃ、俺もお前に聞いときたいことがある」

「なあ健、お前、夕べ一体、何考えてたんだ?」
「何って・・・?」
「二人いっぺんに、っての、言い出しっぺはジュンだったが、あれが冗談だっての
は分かってただろ? それをお前、なんで本当に手ェ出したんだ?」
「俺だって、最初は冗談だったよ」
 どこか投げやりな口調だった。
「でもお前、途中で俺たちを変なふうに煽ったよな?」
「煽った? 俺がお前たちを? 逆じゃないか?」
 底の抜けたような目を向ける健に、ジョーはまた苛立つ。
「何言ってんだよ!俺がジュンにキスしてたとき、お前、後ろからいきなりジュンに
触って、それから俺に向かって、”ジュンはお前のものじゃない”って言っただろう」
 ああ、あれか、と、健は苦笑いを浮かべた。
「あれは、一体どういうつもりだったんだ?」
「あれは・・・、最初は茶々を入れてやろうと思ったんだがな」
「へ・・・?」
「そしたら逆にお前ら、本気になりかけただろ、だから水を差すつもりだったんだ
が、かえって油を注いじまったんだよな」
 しかも、と健は再び苦笑する。
「まずいことに、こっちにまで飛び火しちまった」
「ナニ?」
「まさか、そういうことになるとは思ってもいなかったんだが・・・。ジュンのヤツがあ
んまり可愛い声を立てるから、つい本気で欲しくなっちまったさ」
 あいつも女だったんだってことを、うっかり忘れてたよ。
 そう言いながら苦笑し続けている健に、ジョーは唖然とするしかない。
「本当にただ、それだけの、ことだったのか?」
「ああ。だから、俺がお前らを煽ったってよりは、俺の方が煽られたようなもんだ
が・・・」
 ジョーは呆然とした気分で、頭を抱える。本当に、ただ、それだけの、ことだった
のか?
 だが、そうすると・・・

「まずいな、ジュンは完全に誤解してるぞ」
「そういえば、あいつがヘソを曲げてるって言ってたな」
「あいつは、猫じゃらし、だとさ」
「はあ?」
 ジョーはジュンが言った通りのことを、健に繰り返した。猫と、子どもと、猫じゃら
し。
 今度は、健が頭を抱え込んだ。
「全く、何なんだよ! 俺が、お前を突っついて遊ぶために、ジュンをけしかけたっ
て・・・どうして、そこまでややこしい曲解ができるんだ、あいつは・・・」
「曲解だろうが何だろうが、ジュンはそう思っちまってるんだから!」
 ふと、健が顔を上げて尋ねた。
「ジョー、お前は、どうなんだ?」
 いきなり水を向けられて、ジョーはたじろぐ。
「俺?」
「お前、ずっとジュンと話してたんだろ? で、お前はどう思ったんだよ」
 一瞬、ジョーは言葉に詰まった。
「・・・俺も、ジュンの言ったことは分かるような気がしたんだが・・・」
 健は再び頭を抱え込んだ。
「ったくどいつもこいつも・・・。どうして俺が仕掛けたことになるんだよ!」
 言われてみれば、確かにそうなのだが・・・。

「でも、俺はことの間ずっと、お前に変に煽られてるような気がしてたからな」
 いくらか戸惑いを含んだジョーの口調に、健は顔を上げた。
「なんだよ、それは!」
 ジョーはどう答えたものか躊躇う。
「いや・・・、抱いてたのは確かにジュンなんだが、やってる相手はジュンじゃなく
て、なんだかお前みたいな感じがしてて・・・」
 ひどく決まりが悪そうにそう答えたジョーを、健は鼻で笑った。
「ハッ! そりゃ、随分な話だな。ジュンも気の毒なこった。要は、それが後ろめた
かったってことだろ、お前は。でもそれを、俺に転嫁するなよな!」
 あっさりと図星を指された。だが、ジョーはまだ釈然としない。
「しかし健、お前は・・・平気だったのか?」
「何がだよ!」
「俺と一緒に、あいつを抱くってのが・・・」
「平気も何もないだろ、始めちまったものを。まあ、手はかち合うし、脚はぶつかる
し、あいつの身体は半分お前が持ってってるから、こっちの思うに任せないしで、
やりにくかったのは確かだが、だからってあの状況じゃ、引ったくるわけにも、こっ
ちが引き下がるわけにも行かないだろう、そもそも・・・」
「そういうことじゃなくて! その・・・・、抵抗感なかったか? 俺が抱いてるのが、
お前じゃなくジュンだってことに・・・」
「そりゃ、お前がジュンを抱いてるってのは不思議な図だとは思ったが、それを言
うなら、俺が抱いてたのもジュンだからな、別に・・・」
「いや、ジュンだってことより」
 隔靴掻痒。
「お前じゃない相手ってことに対する抵抗感だが・・・」
「何だよ、それ。嫉妬でもしろってのか? ジュン相手に? 馬鹿馬鹿しい!」
 そう言われてしまうと言葉を返せない。それに気づいた風もなく、健は言葉を継
いだ。
「第一、あいつも女だったんだと思えば、別に不思議はないだろう。抵抗感もへっ
たくれもあるかよ。そりゃ、お前が目の前で女抱くのを見るのは初めてだったが、
お前が女を抱きたがるのなんざ、ガキが甘いもの欲しがるのと同じだろうが」
 絶句。
 甘いもの欲しがるガキって・・・。
 ジョーは脱力感に見舞われた。

 だが、そう言えば、と、ジョーはふと思い出した。
 似たようなことを、ジュンが言ってなかったか?
「お菓子の取り合いをしてる子ども・・・」
 そう呟いたジョーを、健は訝しげに見る。
「なんだって?」
「いや、俺とお前のことに気づくまでは、夕べの俺たちが、ムキになってお菓子の
取り合いをしてる子どもみたいに思えてたって、ジュンは、そうも言ってたから・・・」
 一瞬唖然とした表情を浮かべた健は、プッと噴き出すと、笑い出した。
「そっちの方が、よっぽど実態に近かったんじゃないか? 少なくとも、そっちの方
がよっぽど俺の実感には合ってるよ。しかし、あいつは、全く、言ってくれるよ
な・・・」
 そう言いながら、健はしばらく笑っていた。
 けれどジョーは笑えない。同床異夢、という言葉が頭を横切る。

 結局のところ、ジュンが猫じゃらし気分になっちまったのは、被害妄想みたいなも
のだったってことなんだろう。しかし、俺がその気分にシンクロしちまったのは、何
でだったんだ?
 そう思い巡らして、ジョーは改めて、その発端に辿り着いた。

「なあ健、もう一度聞くが」
 健はまだ笑いを含んだ目でジョーの問いを促した。
「あの時、”ジュンはお前のものじゃない”って言ったのは、どういうつもりだったん
だ?」
「えらく拘るな。さっきも言ったろ、単にお前らに水を差して・・・」
 幾らか笑いを帯びた健の言葉をジョーが遮った。
「俺はあれで、頭に血が上ったんだからな!」
「なんでまた」
 健は呆れ顔でジョーを見つめた。
「”お前のものじゃない”って俺に言うくらいなら、なんでお前がさっさとあいつを自
分のものにしとかなかったんだってことだよ、ったく!」
「どういう意味だ?」
 僅かに眉根が寄っていた。
「俺がさっさとジュンに手を出しておきゃよかったんだって、お前は、そう言いたい
のか?」
 そう言いたいのか、だと?
「ああ、そうさ! そりゃ、お前が鈍いのはよく分かってるけどな、幾らかはあいつ
の気持ちを分かってやったって良さそうなもんじゃねえか。大体お前が、もうちょっ
とまともにあいつを構っておいてやったら、あいつだって詰まらん誤解はしなかった
だろうが!」
 健はうんざりした表情で溜め息をついた。
「ジョー、お前、言ってることの意味が分かってるのか? あいつは、チーム内部の
人間だぞ?」
 諭すような口調に、なにをとぼけたことを、とジョーは鼻白む。
「こいつは恐れ入るな、随分と生真面目に禁欲的なお言葉じゃねえか。それで夕
べは何だって?」
 もちろん皮肉のつもりだった。しかし健の表情からは、既に笑いは消えていた。
「ふん、俺は別に、禁欲的なわけじゃないぞ。そんなことはお前が一番よく知って
るだろ!」
 いきなり真っ向から答えられた上に、突然自分に矛先が向けられて、ジョーは一
瞬戸惑う。
「なあジョー、お前はジュンを、女だと思って見縊ってんのか?」
 詰問するような口調だった。
「見縊って? そりゃどういう意味だよ?」
「それとも、単に憐れんでるのか?」
 けれどジョーには、健が何を言いたいのか分からない。
「なあジョー、お前は、俺たちの・・・俺やお前やジュンの関係や立場を、本当に分
かっているつもりなのか? その上で、俺がジュンに手を出しておけばよかったん
だと、言ってるのか?」
 その問いが、反語であることは分かる。けれども健が何を言いたいのか、ジョー
にはまだ分からなかった。

(to be continued)


Top   Library List