報復の果て

by デューイ




◆プロローグ


「ジョーを、返してください」
お願いです、ジョーを、俺に返してください。
何でも、貴方 の望み通りに、言う通りに、します。
だから・・・・

白い、その書類の上をペン先で引っ掻きながら誓うのは従順 。
私のすべてを、貴方のものに・・・、

忠誠の報酬[見返り]は、失った夢?、叶わなかった想い?、戻れない昨日 ?、
それとも、儚い明日・・・・、


◆第一章 ボディガード

「俺は、クビですか」
大理石のシガ ーセットを挟んだガラステーブルの向こうで男がうっそりと言った。
「ええ、本日只今をもって解雇します 」
男の表情 は変わらなかった。潔いのか執着がないのか、一部の隙もないスーツの着こなしが、いっそう男をストイックに見せている。
「何かと柵がありましてね、社[ウチ]の方のシークレットサービスを使うことになりました」
探るように自分を凝視す る男の視線を避けるため、テーブルのシガーは摘まずに、上着の懐から煙草を出して火を点けた。
男は少し訝しげに此方を 伺ったが、直ぐに目伏せて、そうですか・・・と、小さな嘆息を隠して、組んでいた長い指を解いた。
予想はしていた反応 だったが、長年の付き合いからか、ガラにもなく身構えた自分がいささか拍子抜けして感じられ、内心苦笑を覚えた。
男は ISOに籍を置くSPで、南部のボディガードを請け負って8年になる。
思えば、自分にとっても幼い頃からの付き合いだ 。そして、8年の間には様々なことが様変わりしてしまったが、培った信頼は失われていない。
男は腕のいいボディガード だ。おそらく今の彼の右に出る者はホワイトハウスの要人警護班にとていないだろう。
男は8年間、南部を無傷で守り続け た。これは並大抵のことではない。権力、財力、政治力、そして知力、またそれに不随するあらゆるものを手にする南部の敵は 計り知れない。
かつてはISO長官でありナンブ・コンツェルンの継承者としての南部を、そして今は財閥の会長としての 彼を、男はマグナム一丁で守り続けた。
それは、だが、守る側と守られる側の立場の信頼の上に成り立っていたものだとい うことは忘れてはならない。
そして、その信頼に今回、こういう終止符を打った理由は他でもなかった。

「貴方に は今まで、随分とよく働いて頂きました。せめてもの報酬を」
煙草を取り出した同じ懐から出した小切手をテーブルに添え る。
この先、男が食うに困らない、いや、贅沢を楽しみ尽くして過ごせるだけの金額を用意したつもりだ。
「長い間ご 苦労様でした」
短い、ほんの3分とかからなかった用件が言い終えられると、男は視線を、解いた指に残したまま立ちあが った。そして、
「俺のサラリーはISOから出ています。プラスアルファは受け取れません」
そう言い残し、いつもの ように礼儀正しく頭を下げ、静かにドアを出て行った。




◆第二章 養父

目覚めてまず最初にすることは、勿論、シャワールームに直行することだが、ベッドで朝の一 服を楽しんだ相手の、シガーの匂いを消すために、窓を開けることは忘れない。
ドミニカ産のダビドフ・グランクリュ。ソ フトな蜂蜜の後味があり、吸い始めはゆっくりと、そして徐々におとずれるそのまろやかで豊かな味わいが愛飲家たちに親しま れると聞くが、シガーはどれも好きになれない。それに自分のような若輩者に似合うとも思えない。
スーツの上着は羽織ら ずワイシャツとネクタイで、まだ湿ったままの髪もかまわずにキッチンに向かう。
今朝は午前中から終日会議が入っている ので、朝食を取ってさっさと社に向かわなければならない。少々、寝過ごしたのでモーニングティーは我慢して新聞は信号待ち の際に、車の中で目をとおそうと思う。
7時45分。腕時計を気にしながらダイニングの入り口まで行くと、既に中から珈 琲が香り立っていた。
「ちょうどよかった。ミルクは入れるかね? イレーヌ」
テーブルには、淹れ立ての珈琲と新聞、 そしてダビドフのシガーがクリスタルの灰皿の淵に掛けてある。
ケンは寝間着にガウンを羽織ったままという姿の南部に、 露骨に不機嫌な言葉を向けた。
「ベッドの中以外は、その名で呼ぶのはやめて下さい」
南部のサーブを無視してキッチ ンの冷蔵庫のドアを開ける。ナチュラルウォーターのペットボトルを取り出してそのまま口にする。
背後で、デキャンタを 戻し南部が溜息をつくのが聞こえた。
「俺、8時には出ますから、戸締りお願いします」
トースターにパンを突込み、 電子レンジでフリージングのスープを解凍する。
3分かかる間に新聞に目を通す。信号待ちの時間だけでは心もとない。
「家政婦を置いたらどうかね、その様子じゃ、毎朝、ゆっくり新聞も読めないのだろう」
南部の言葉には耳を貸さない 。毎朝寝坊するわけじゃない。夕べは遅くまで貴方に奉仕したからだ。それに、家政婦なら週に2日、掃除と買出しに来てもら っているのでそれで十分だ。洗濯はクリーニングに出すもの以外は、自分で洗濯機ぐらい回せるし、夜は外で済ませるので買い 置きしてもらう食糧は、殆どがフリージングやレトルト食品で賞味期限が切れない限り、補充してもらわなくとも済む。
「 俺は子供じゃないから、一人で大丈夫です」
「君はいつまで経っても子供だよ」
唇を綻ばせたいつものその言葉に、今 日も嫌悪感が走る。
・・・・おまえは子供だよ。美しいイレーヌによく似た。私の愛した女によく似た・・・、
「今晩 から暫く留守にしますから、ここへは来ないで下さい」
言うまでもなくケンがいないこの家に南部が足を運ぶはずはない。 だが、何かしら牽制せずにはいられなかった。ところが、
「別荘へ行くのかね?」
そう言い尋ねた南部は、咎められた のだと感じて眉を顰めたケンに、余裕の態でその唇をいっそう綻ばせてみせた。そして、苦々しくネクタイの結び目を正しに指 を掛けたその様子を憎からず見ていた彼は、更にゆったりとシガーを咥えながら問うた。
「ホントワールにはいつ?」
「3日後に発ちます、レイクランドで商談を一つ片付けてからホントワール支社を視察します」
「カリドンとの契約はどう なった」
「それは、先月片がつきましたよ。今回はショーに呼ばれています」
「彼女のスーツは新調したのかね」
「それが礼儀ですから」
素っ気ないケンの返事にも南部は唇を綻ばせた。
「なかなか世間様がわかってきたようだな」
「貴方の教育のお陰ですよ」
マグカップのスープを一気に飲み干し、トーストを半分口に咥えてケンはテーブルを立っ た。
・・・やれやれ、行儀の悪いことだな。南部の溜息を背中に、ケンは新聞を掴むとさっさとダイニングルームを後にし た。


◆第三章 人質   


湾岸線を四つ目の出口で降りると、そこはもう人里離れた寂れた風景が広がっている。
民 家も殆どない舗装の悪い道を行けども、行き交う人の姿もない。
ユートランドシティから20分と車を飛ばさずとも着くこ の区画は、3年前、派手な観光事業から自然を保護しようと、当時、設立間もないグリーン・アースプロジェクト(企業を対象 に自然保護の為の援助を募る支援団体)に加盟したナンブが買い上げた約3000エーカーの土地だ。その内、私有地となったのは そのほんの一部で、あとは手付かずのままの広大な自然が残された。
無論、これは当時、最高顧問を務めた南部考三郎が熱 心な自然愛護者だった訳ではなく、地球規模のプロジェクトに率先して参加することが、少なからず環境破壊に手を下している 企業としての最優先義務であったし、膨大な寄付金を寄贈しその力を世間に誇示する手段の一つだったに過ぎない。

午 後4時30分。
水平線の向こう側に姿を隠しつつある太陽の残照を受けて、薄い雲が茜色に染まっている。
その光景は 見慣れた者にさえ何度も感銘を覚えさせるが、車が狭い道を目的地に着くまでのほんの数分と経たないうちに漆黒の闇へと変化 する。
淡いオレンジ色の風景に薄墨色のベールが降りる前に、車は海原を見下ろす岸壁の先端に位置する別荘の門扉に止ま った。
フロントガラスから部屋の灯りが幾つか見えた。1階の南向きの窓にも仄かな室内灯の光が漏れているのに安心して 、イグニッションキィを抜く。
車外に出ると、肌に触れたひんやりとした潮風が、既に盛りを過ぎた夏の余韻だけを感じさ せた。


大らかに葉を繁らせた観葉植物を飾った大きな窓からは、遥か彼方まで海が見渡せた。
南向きのこの部 屋は別荘の中でも一番見晴らしのいい位置にあって、以前はサンルームだったものを個室に造り替えたのは、ここに収容する患 者のためだ。

「ジョー・・・」
枕元に寄り添って声を掛けると、ベッドの中で背中を向けていた身体が小さく身じ ろいで、アッシュブロンドに縁取られた血色のない顔がこちらを向いた。
「ジョー」
もう一度呼ぶと水色の瞳が声の主 を見上げた。
「ケ、ン・・・」
ぎこちなく紡がれるその声に頷きながらベッドの端に腰を下ろすと、ゆっくりと指が伸 びてきた。
「来て、くれたのか・・・」
指はそこにあるスーツの袖に添ってプラチナのカフスに触れ、シーツに付いた 手に辿り着いた。
「ああ、午後の会議を早めに切り上げさせたんだ。おまえに会いたくてさ」
上体を傾け、横たわる身 体に覆い被さるようにして、両腕の間に捉えた貌[かお]を見下ろす。
「無茶は・・・、よせ。お偉方に、睨まれるぞ」
「放っておけよ、したいようにするさ」
額に被ったアッシュブロンドを指で払ってやりながら唇を合わせる。
目を閉じ ながらも、キュッと力の入ったそれを無理矢理こじ開け蹂躙すると、
「・・ケン・・・」
接吻けの僅かな隙を求めて、 声が漏れる。
ジョー・・・、
たまらなくなって抱きしめる。体力の落ちた身体は難無く腕に収まったが、弾力を失わな いしなやかな筋肉が、薄い着衣の上からはっきりと感じられる。
その感触に込み上げるものを押さえ切れずに、ネクタイを 引き抜く。
貪るように接吻けた首筋が、だが、抵抗を試みることなく素直に仰け反った。

やっと、ここまで、きた 。

性急に目覚めつつある欲望に翻弄されながらも、改めて湧きあがる思いの方が強くて、瞳の奥を熱くする。
それ を気づかれるまいと、着衣の前を開き唇を胸から下腹部に下ろす。
つっ・・!と、押し殺した喘ぎが、引き締まったウエス トを跳ね上がらせた。その光景に言い知れぬ愉悦感を覚え、ナイトテーブルに腕を伸ばして照明を落とす。
陽は沈み、代わ りに窓辺に降りた月が、観葉植物の緑の葉を妖しく照らし出している。
フローリングの床に、ベッドのシーツの上に、風が 揺さぶる葉影がひんやりと青く漂う波を打ち寄せる。
ザッ・・・と鳴るのは、夏の名残。
打ち寄せた想いを引き摺り、 還してゆく。
ジョー・・・、
健の髪が波間に揺れる、

はなさない。

含んだ言葉は唇に溶け、月が、時 折被る群雲に影になり、晴れて尚実体とならぬ幻想の中。絡み合った二つの肢体は、闇に溶け、光に塗れて、いつ果てるともな い快楽の波に浚われていった。


◆第四章 軍医 


「ご足労をおかけして申し訳ありませんでした、Dr.マックレイ」
毛足の長い絨毯に足元 を掬われるようにして自分の前に立った男に、ケンは軽く会釈をしてから、優雅に右手を差し出した。
広い応接室に豪華な シャンデリア、ギュッと皮の鳴りそうなソファや高価な調度品、それらを見回しながら、彼は居心地が悪そうに、だが穏やかな 笑顔でケンの握手に応えた。
そして、傍らに連れている若い医師を紹介するべく右手を添える。
「こちらが、今回、貴 殿のご依頼に添うべくご紹介させて頂きます、Dr.ス・・・、スヴェル・・」
若い医師の名前は、なかなか覚えにくいら しい。クスッと小さく笑って、ケンは事前に入手していたプロフィールデータに記された彼の名を、「ようこそ・・・」と社交 辞令をつけ、フルネームで正確に発音した。
一瞬、若い医師の眼鏡の奥の瞳が驚きにだろう、丸くなった。
握手の手を 差し出しながら「どうかしましたか?」と尋ねるケンに、彼はハッと背筋を正し、
「あ、いえ、初対面の方にこんなに正確 に私の名前を発音してもらったのは初めてだったもので・・・」
と、頭をかきながら、感動した・・・とでも言うように少 々赤くなった頬を隠すために俯いた。
「呼びやすいように呼んでいただければ結構です。向こうではファーストネームで通 っていますし」
「では、軍医殿・・・で、いいですか?」
彼の身分を確認するように答えた呼び名に、安堵したのか若 い医師はあからさまに唇を綻ばせながらも好感の持てる笑顔を零した。
“向こう”と彼が言ったのは軍病院のことだ。Dr .マックレイはISOの人間だが彼は軍の人間だ。
今回、ケンが必要としたのは優秀な精神科医だった。医師を探すに当た って筆頭に上がったのはISOでも確固たる実績を持つ心理学者のジェームス・マックレイだったが、極力ISOの人間を使い たくない(・・・特に南部の息のかかった者は・・・マックレイは南部とは十年来の付き合いで、彼の愛猫までが南部のお気に 入りだと聞けば当然リストからは排除しなければならなかった)ケンにとってマックレイの伝を頼り、折りよくホントワール軍 病院に配属になったばかりの彼の後輩(・・・といっても面識はなかったそうだが)を紹介してもらえたことは幸運だった。
勿論、引き抜くに当たってそれだけの金と圧力はかけたが、事が済めば軍に返してやるつもりだ。それが相手の希望だった し、だからこそ、ケンはその若い医師を“軍医殿”と呼んだ。
「Mr.ワシオ、いえ、Mr.ナンブになられたんですね。 光栄です。貴方のような方に信頼頂けて。私に出来ることなら、よろこんでご協力させて頂きます」
「そう言って頂けると 心強いです。サラリーはご満足のいく額をご用意したします」
「いや、それは私の働き次第ということで・・・」
彼は 恐縮して言葉を濁したが、二言三言で契約は成立した。
「それじゃ、私はこれで。あとは頼んだぞ、軍医殿」
引き際を 弁えたマックレイが、ケンに習って冷やかし混じりに彼をそう呼んで、ソファを勧められる前に退室を告げる。重々に礼を述べ る健に酷く恐縮しながら、呼ばれた執事と共に部屋を後にした。
少々不安そうな顔でマックレイを見送った軍医に、ソファ に腰を落ち着けるよう促すと、すかさず珈琲が運ばれてきた。
彼が口にしやすいようにケンは先にカップに手を伸ばした。 そして、早速ですが、貴方にお願いする患者の説明を・・・、そう切り出すと、カップに落ちていた彼の瞳が即座に上がった。


ジョーは・・・、

海は嫌いじゃないと、ジョーは言う。
波の音は子守唄みたいに心地いいと、
だ が、時々、そのララバイはジョーの忌まわしい記憶を呼び起こす。
幼い日に、故郷のBCの海で両親をギャラクターに殺さ れたという事実を・・・・、
今、ジョーに必要なのはヒトの心を診る事を専門とする医者だ。
それなのに、南部が付け ているジョーの担当医は外科医だ。
そして、海の見えるこの別荘にジョーを閉じ込めている。
ジョーの心が海に囚われ るように?
ジョーの心を忌まわしい過去に縛り付けるために?
ジョーが元通りの健康を取り戻してここを出て行かない ように?

「で、どういう症状が現れますか?」
軍医はその年齢には似合わぬゆっくりとした口調で尋ねた。
「 周期はないようですが、調子の良くない時はベッドの上で蹲ったきり、何も喋らないし、話しかけてもはっきりと反応を示しま せん」
“その間”は食事も受け付けず点滴で対処するも、酷く衰弱するのだと説明すると、心身症の患者には典型的なケー スだと軍医は言った。
「環境を、変えてみるのもいいのかも知れないと、僕は思うのですが」
ケンが言うと、
「海 ・・・ですか。その手もありますが、クランケにとってプラスの面もあるのなら、返ってそれが良いように働く可能性もありま す」
真摯な眼差しで向かい合い、控えめだが的確な判断を下す落ち着いた声は相手に安心感を与えるに十分な貫禄がある。
両手を膝に戻し、先ずは、クランケと会わせて頂けますか?と言った彼の言葉に従って、ケンはソファを立った。


◆第五章 契約者


昨年、ニューヨークに次ぐ規模で海外進出したホントワール支社の視察のためユートランドを発 ったケンは、事前に1件、片付けたい契約があると南部に報告したとおり、ここレイクランドを訪れていた。
巨大な摩天楼 を抱える大都市を一歩離れれば、そこにはこの国本来の姿がある。
緑豊かな湖水地帯、その名のとおりこの地は、広大な自 然に囲まれたホントワールの中でも随一の避暑地で、この季節、多くの観光客を迎えて賑わう。
雄大な山脈と湖を眺めるホ テルやペンション、キャンピングカーの集うキャンプ場、だが、緑陰深い別荘地付近になるとその数はぐっと減り、足を踏み入 れる人間も限定される。つまり高級リゾート地となる。
そして、ケンが商談に選んだ場所は、その中でも最高の五つ星。彼 にとってこの契約こそが今回ここへ来た本当の目的だった。

インディゴウのアンダークロスの上に、薔薇の地模様のあ る薄いオーガンジーのトップクロスが掛かったセッティングには、ディナーのためのクリスタルの器に乗った美しいスクエアキ ャンドルが添えられていた。
サーブの人間に案内されてケンが個室の席に着いたのは、約束の時間の10分前だった。
オーダーは予め入れておいたので直ぐにアペリティフが運ばれてきた。細い華奢なグラスに美しいカシスベースのそれを一口、 口にした時だった。
すらっとした痩躯にプラチナ・ブロンドの男が、慇懃に案内されて部屋に入って来た。
待ち人来り ・・・・と、ケンは唇のアペリティフを気づかれないようグラスの陰で舐めた。
「スーツ姿は初めて見ますが、なるほど、 女性たちに引く手数多なはずだ。軍服よりも似合いますよ」
再会の言葉に、男の薄いグレーの瞳が眇められた。
「君に 言われたくはない。それが褒め言葉なら、そっくりそのままお返しする」
軍とISO、お互い、その肩書を離れて初めて顔 を合わす相手に、手向けの言葉はその程度だ。男は、ケンに「髪を切ったのか」とだけ付け加えた。
「ええ、さすがにスー ツには不釣合いなので」
口にしながら喉の奥に嫌悪感が込み上げる。この髪は服従の印、飼い犬に成り下がった証だ。同じ ようにスーツに身を包んでいても、目の前の男は自分とは違う。彼は彼の意思で彼のビジネス[世界]を動かしている。自分は 南部の飼い犬だ。唾棄したくなるようなその境遇に、羞恥し顔を背けクロスに視線を落とす。勿論、さり気なく。
僅かに感 じ取った沈黙に、男が先に口を開いた。
「それで、取引というのは?」
男の前にも置かれたアペリティフのグラスを、 形の良い長い指が摘んだ。
ケンは銀のトレイを抱えたサーブに、オードブルのタイミングを言いつけると、指を組んで改め て男と向き合った。

職務に対する有能さと比例する冷淡さ故に、その瞳をアイスグレーと称された男だが、その時は幾 許かの動揺が見て取れた。
「君は、本気でそれを俺に頼むと言うのか?」
だが、その冷淡さが他人が語る表面的なもの でしかないのをケンは知っているつもりだ。
「ええ、本気ですよ」
それでも、墜す自信はあった。
「この申し出を 受けて頂けたら、うちはフェアリ・プロジェクトから撤退します。これが交換条件です」
男の眉が顰められ、トン・・・と 、静かな音を立ててグラスがテーブルに戻った。
フェアリ・プロジェクトとは、3カ国4企業が共同開発する最新鋭ジェッ ト戦闘機の開発計画で、ナンブ・コンツェルンは現在その出資の40%を占めている。
「うちが手を引けば、ライズの独占に なるはずです」
発した先で、アイスグレーがケンを見ていた。
「確かに、悪い取引ではないが、俺にはそういう胡散臭 い連中に知り合いはいないし、もう軍の人間でもない。意向には添えないと思うが」
「でも、ツテはあるんでしょう?」
「ツテなら、そっち[ISO]の方が強力なんじゃないのか」
「今回、それが出来ないからお願いしてるんです。でな きゃ、わざわざ貴方のスケジュールを追ってこんなところまで来やしない」
それは、貴方にもわかっているはずだと、ケン は唇を噛む。

「君は、何のために飛んだんだ」
唐突にアイスグレーが問うた。
えっ・・・・?
「戦場で、 仲間を犠牲にしてまで飛び続けた理由は何だ」
それは・・・・、そんなことは決まっている。
「平和のために、平和を 取り戻すために・・・」
「ならば、君は今、その平和を裏切ろうとしているんだ。わかるか」
深く静かな声に諌められ 、唇は噤まれ答えられない。俯いて組んだ指先を睨む。反撃を、
「俺は・・・」
「君は今、俺にどういうことを頼んだ のか自覚がないようだな」
酷薄な色の瞳が侮蔑をこめてケンを見た。しかし、唇は微かに口角を上げているように見える。
「正直になりたまえ」
えっ?
「お互い、愛国心に酔うほど年を食っていたわけじゃない」
男がグラスを取った にも拘らず、否応無しに沈黙は訪れた。
視線は緩まずに唇だけが笑った。ゾッとした。その表情にも紡がれた言葉にも。
「では・・・・、では、貴方は何のために飛んだのですか!」
アイスグレーは答えない。睫を伏せて残った酒を飲み干 す。
元アメリス国空軍大佐。史上最強の航空隊と言われるニケの創始者の一人であり、初代隊長。戦時中はISOに駐屯し、常 にケンたち特殊部隊の随行を務め、その戦いの片翼を担った男。
その辣腕将校の峻厳さは一部も失われてはいない。
ケ ンはグッと喉に力を入れた。
「答えてください!」
「君を守るためだ」
あっさりと言い据えられた。
「命令で すか? 貴方が飛んだのは、南部の命令のためですか!」
頷く代わりに瞳が眇められた。
「他の言葉が欲しいのか」
悔しさに、顔を背け奥歯を噛み締めると、
「それが俺にとって平和を守る手段だった」
男は皮肉な笑みを湛えるこ とを忘れずに、精一杯であろう譲歩を示した。
そして、もう一度、聞いた。君は何のために飛んだのだ・・・・と。
拳 を握り締めた。薄笑いの唇に屈服しなければならなかった。
「俺は・・・、俺は、あいつを見返してやりたかった」
こ の手で敵を殲滅させ、勝利を翳し、誰がやったのでもない、俺が俺の手で勝ち取ったのだと、貴様の言いなりに剣を揮ったので はないと、自ら勝ち取った勝利の前にあいつを跪かせてやるために・・・、
そして、その願いは成就するはずだった。あい つの腕を振り払い、思う様飛び立てたはずだった。それなのに・・・・!
テーブルに擦りつけた拳が荒い息をする肩に倣っ て震えた。
その様子に満足したかのように、シニカルに唇を綻ばせた男は、だが、真摯な眼差しでケンに対峙した。
「 この依頼は、ジョーのためか」
言った唇はもう笑っていなかった。
フェイントだ。ジョーの名前を出すなんて。
一 瞬、あからさまに崩れてしまった表情に、だが、取り繕う間も与えず男は二の句を繋げた。
「今更だな、君はジョーを見捨 てたんじゃなかったのか」
それは・・・・、事実だ。誰がどうフォローし否定しようが、己が一番の証人だ。
だが、貴 方に何がわかる。あの時、俺がどんな思いで!
俺は、大佐・・・・、
「俺を・・・、助けてください」
呟くほどに しか発せられない声を、ケンは渾身の力を込めて絞り出した。
俺を、自由にしてください、
もう一度飛ばせてください 、
助けてください、

「素直になれるのなら、初めからそういう顔をすればいい。君がナンブを継ぐのなら、今後、 俺に必要なのは君だ」
君がナンブを継ぐのなら・・・・、ビジネスライクな口調に思わず伏せていた面を上げた。
今の 自分には最強の武器。皮肉にも手にした金と権力とはそういうものだ。
「フェアリ・プロジェクトはうちが頂く。契約は成 立したと思ってくれていい」
詳細は追って連絡を入れると男は約束した。
そして、こう言い添えた。
「コマンダー ・南部の命令の対象が君でなかったなら、俺は大手を振ってこう言えただろう、平和のために・・・・と」
それが、俺が飛 んだ理由だと。


◆第六章 外科医


細い華奢なストークを摘んでグラスを傾ける傍らで、耳に 馴染んだ波の音がした。
レイクラ ンドで交わした契約が早々に事を運んでくれるだろうことに満足し、ケンは自ずと緩む口許を隠くせなかった。
『詳細は追 って連絡する・・・』と言ったライズの言葉通り、一報はケンが帰国して三日目に入った。

全ては順調だ。


開け放したテラスからは、肌にひたりと心地好い夜気が忍びこみ、月明りにしんと静まり返っては、また囁くよう に寄せる波のさざめきが、遠く遥かな場所から、セイレーンの誘いのようにうっとりと漂っている。
揺たうような、包み込 むような、いつまでも耳を傾け浸っていたいような、しかし、そのまどろみを、今は破らなければならなかった。
「ドクタ ー、俺はこの件から手を引いて下さいと言ってるんです。ジョーのことは、軍医・・・スヴェルドロフ博士にまかせて」
テ ラス辺に寄り添っていたケンは、ソファでワインを勧めた男の元に戻って対面に腰を落ちつけた。
そして、もう何日も前か ら申し出ていることをもう一度口にした。
「ドク、俺の頼みを聞いてくれないのか」
“ドク”と呼び掛けられた男は、 俯いたままグラスを口につけ、一口流し込むと小さな溜息をついた。
「私は、南部博士の依頼でここにいる。彼の依頼でジ ョーを診ている。そのことについては君が君の勝手で、どうこうできることじゃないんじゃないのか?」
男の声には諭すよ うな、ともすれば小さな子供を慈しむような響きが含まれているようにさえ聞こえる。
それもそのはずで、彼は学生時代か ら、高名な科学者だった南部を恩師と慕い、師に学び師に導かれるままISOに身を置き、師の望むままに、先の戦争でプロジ ェクトされた特殊部隊の育成に携わったメンバーの一人だった。そして、かつてのその部隊のチームリーダーを務めたケンの医 療面をサポートしていたのが彼だった。
そればかりではない。南部は彼が研修医だった頃には、自宅に住まわせ(とある理 由で絶縁状態である親に代わり)経済的な援助をさえしてやっていたので、ケンとは幼い頃からの友達のような、いや、それ以 上の関係が培われていた。
今は、その一線を越えた関係がケンの邪魔をする。
「ケン?」
薄いノンフレームのレン ズの奥から、変わらぬ優しい瞳が覗き込む。ごく身近な彼の心許す範囲の人間にしか向けられない眼差し。誰もが羨むほどの美 貌をもち、誰もが頭[こうべ]を下げねばならぬほどの彼の研究者としての実力故、かつて、いや、現在でさえ羨望と尊敬、それ と表裏一体の妬みと嫉妬の思いに周囲が遠巻きにするあまり、孤立する彼からは冷たい印象を拭いきれない。だが、ケンに対し ては、その瞳が今もこうして慈愛に満ちた光を宿す。
それが弱気を誘うようで、ケンはグラスを置いて、視線を組んだ指に 逸らせた。
「ドク、俺は今、ナンブの後継者です。近い将来、ナンブの全権は俺のものになります。わかりますか。俺は貴 方が好きです。子供の頃から良くしてもらった。何よりあの血を吐くような戦いの最中、俺を支えてくれたのは貴方だ。失いた くないんです。貴方を、俺は、失いたくはない」
「ケン・・・」
切羽詰ったようなケンの言い様に外科医は動揺を覚え るが、ケンの真意を掴みかねて言葉を失う。
「貴方が、この申し出を受けてくれないのなら、俺は貴方を恨みますよ。俺に 、そんな思いを抱かせないでくれ」
言葉が崩れ、語尾が掠れた。
「待って、待ってくれ、ケン。君は、いったい・・・ ・」
思いは擦れ違う。ケンは組んでいた手を解いて長い指を額にあて、触れた髪を乱暴に掻き上げた。
「スヴェルドロ フ博士は優秀な精神科医です。今のジョーの病気を治すのは外科医の貴方じゃないってことぐらい誰の目にも明白でしょう」
「君は、何も、わかってない」
「わかってないのは貴方だ。ドクター・カインが貴方の研究論文をえらく買っていまし たよ」
「えっ?」
「彼の下で研究活動をする気はありませんか?」
今の俺には貴方をもう一度、日の当たる場所に 返してやれるだけの力がある。
甘美な言葉は人間の欲望を呼び起こす。だが、
「しかし、私は・・・」
彼が懸念し ている理由は知れたことだ。
2年前、ISO付属病院で医療ミスを犯した部下の責任を取らされた彼を、免職の危機から救 ったのは南部だ。だが、その代償に彼はこの別荘に囚われの身となったのだ。
「悪いようにはしません。次に医局の権力を 握るのはカインです。ドクター、俺の言うことが聞けますね」
ナンブコンツェルンは南部が実質上の後継者となった時から 、ISOのバックアップを担っている。そして、その発言力は組織の上層部の意見をも左右できるだけの力を持っていた。ケン は自分の言葉一つで、彼の立場などどうにでも出きるのだと言いたいのだ。だが、
「ケン、君は、わかってない。何と言わ れようと・・・・」
「ドク!」
ケンは尚も申し出を承諾しない外科医に詰め寄った。
「なら、はっきり言います」
詰め寄った分、引き下がられ苛立ちを覚える。
「ええ、俺にはさっぱりわかりませんね。それほどの腕と、叡智と、そ して美貌を持ちながら、貴方ほどの人が何故、あんな老人に拘るのか? いつもでも、いつまでも!」
「ケン!」
博士 は、
「あの人は、俺を抱きましたよ。14の時、初めてね」
「・・・・っ!」
彼の指からグラスが落ちた。砕け散 って派手な音を立てた。
「貴方が博士を愛しているのは知っていますよ。師と慕う以上にね。でも、考三郎が愛しているの は俺です。貴方じゃない」
「ケン・・・・」
彼の瞳が、悲しげにケンを見た。
だが、どんなに彼が南部を愛そうが 、自分がいる限り、その想いは成就しない。
「ジョーのことは、スヴェルドロフ博士に一任して下さい。身体面のフォロー も別の医師を付けます。博士にも承諾を取ります」
「それは、ダメだ」
「博士が承知しないと?」
博士がジョーの 心を封じ込めているのは、俺を縛り付けておくためだ。だが、もうその必要もない。俺は博士のモノになったのだから。
「 心配しなくても、ドクター。貴方は、俺が責任を持って元の場所へ帰して差し上げます」
飲み干したグラスをガラスのテー ブルに置き、ケンはその部屋を後にした。



◆第七章 共犯者


ツンと形の良い顎が仰のいた。
それに引き摺られて反った背中の下に、腕を入れて抱き 上げる。
「・・・っ・・」
噛み締めた唇から漏れたそれを、唇で拭う。
「まだ、あげない」
重ねたままで言う 。すると、
意地悪・・・と非難するように絡まった舌を解いて、堪えかねたように息を吸い込んだ。
「もっと乱れて見 せろよ、そうしたらあげる」
胸をさ迷わせた指で、そこを摘む。
途端に身体を跳ね上げた。
「魚みたいだ」
も う一度同じことを繰り返すと、「いやだ」と抵抗した。
「焦れったいか?」
恨みがましい視線が見上げた。今日は、自 分の方に分があるはずだと。
「ケン・・・っ」
「わかってるさ、でも、もうちょい、楽しませてくれ」
唇に笑みを 乗せたまま、ケンは抱き込んだ身体を思うさま蹂躙した。


『PW?』
『探り出せるか?』
『無理だよ、俺 、博士とそんなに親しくないもの』
『何も聞き出せと言ってるんじゃない』
『わかってるよ。冗談だってば』
『頼 む、真面目に聞いて欲しい』
真面目な話なのなら、尚更ダメだと、手にしたグラスに溜息を落とす。
まだ幼さを宿す頬 の輪郭が、ダウンライトにほんのりと上気して見えた。
『まがりなりにもITのプロがさ。PWを横流ししたとあっちゃ、 犯罪だよ。ここをクビになるだけじゃ済まない。完全に干されちゃうよ』
真っ直ぐに伸びた黒髪を掻き上げる仕草は子供っ ぽいが、彼は南部の依頼で軍の統合参謀本部からの勅命を受け、ISOのコンピュータ管理を任されている身だ。そして、そのセキ ュリティを受持つ身としては、至極当然の言い分ではあったが、ここはどうしても聞き入れてもらわねばならなかった。
『 バレる?お前が?』
『俺はスパイのプロじゃないもの』
俯いた彼の唇が、所在なさげにグラスの縁に触れた。
『俺 の頼みでも・・・?』
肩を抱き寄せる。腕に力を込めれば僅かな抵抗があった。
・・・お前ならできる。お前しかいな いんだ。だから、頼む・・・、
耳朶にかかるようにして吐息まじりで囁きかけると、不意に面を上げた。鈴を張ったような 凛と澄んだ瞳が、そして、ゆっくりと細められふうわりと笑った。
『頼まないでよ』
・・・・えっ?
『命じてよ。 ユーリ、やれ、って。ケンがやれって言えば、俺はやる。それでPWをケンがどう使おうと興味は無いよ。俺がケンの役に立てる のならそれでいい』
ねぇ・・・と、まるで強請るように唇を寄せてくる。
『・・・・南部博士のPWを、俺に教えてく れ』
その唇に応えるように、そう命じると、
『わかった』
と、子供が遣いを請け負うように微笑む。正直、拍子抜 けした。
『どうするつもりだ』
『PWは、それぞれのユーザにPW管理担当者からメールで通知されるんだ。うちのメ ールサーバは授受したメールを最低3年間保存しておくことになっているから、メールサーバを覗けば博士にPWを通知したメ ールがある』
『メールサーバのアドミンかルートのPW、お前、知ってるのか?』
オダはセキュリティ担当であって、 メールサーバの管理担当者ではない。
『そんなの、辞書攻撃でもすれば直ぐに探り出せるさ』
PWはOSに限らずPW ファイルに暗号で書かれており、これを直接解析するのは不可能と言っていい。しかし、辞書攻撃といってPWに使われそうな 単語を集めた辞書を用い、passwdプログラムと同じ暗号方式を用いて暗号化し、それらを比較することでPWを解析する方法が ある。
『俺、デキの良い辞書持ってるんだ。軍にいた時には相当の打率を誇ったよ』
彼は軍統合情報部出だ。きな臭い ことを、やったことがあっても不思議ではない。
『何の脈絡も無い文字列をPWにしているってのはまず無いね。人間、忘 れる生き物だからね』
『うちのセキュリティもその程度、ってとこか』
苦い嗤いが込み上げる。
『1週間は、かか らないと思う』
『そうか、助かる』
『その代わり・・・・』
華奢な腕が首に回った。
肩に顔を埋めた彼の腰を 抱き返し、仕方がない・・・・と、笑み返した。


「や・・・だ、もう、・・・あぁ・・・・ぁぁ・・」
白い喉 が反り返った。
許してと戦慄いた唇が、次にはもう意味を成さない単語の切れ端を羅列する。
報酬を受取る身体は、施 される愛撫を貪欲に貪ったが、肝心なところで彼の意識は冷めたままだ。
「俺を、好きか」
「好き・・・、ケンが好き 」
問いかけには、いつも明確な答えが反って来るが、その先を言ってやったことはない。
そして、
ケンは・・・?
ケンも・・・、
彼がその先を問い返すこともない。
それを知っていて、それにどっぷりと甘えて、俺はこいつを意 のままにする。
SEXという手段を使って。

「ケ・・・ン、・・・」
彼の身体が最後の抗いをし、そして、直ぐに 手の中でそれを放棄した。
上下する華奢な肩、赤い鬱血の花を咲かせた薄い胸、小さく開いた唇、絶頂の余波に身を委ねる 彼は、とても綺麗だ。
「ケ・・・ン、俺を、・・・してもいいよ」
・・・・俺を、殺してもいいよ、
それは、忠誠 か?
いや、これは呪縛だ。

俺を殺せば、ケンは俺のことを忘れないよね・・・・・、

罪を犯すのは、
罪を犯しているのは、誰なのだろう・・・・、
操られているのは、
いったいどちらなのだろう・・・・・、


To be continued



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