飛翔

by Kiwi


俺の先に立って歩いていた健が歩みを止めたのは、レストランや酒場が並んだ場所に僅か
に空いたスペースだった。新しいビルでも建つのか新地を囲むように張り巡らされている
金網を背に、健は立ち止まった。続いて俺が背中をそれに凭せ掛けた。想いの他体重が掛
かったのか、小さく揺らいだ金網が軋んだ音を立てて、それが今の自由が利かない俺の身
体を思わせた。

俺が独りで飲んでいた酒場にどうやって嗅ぎ付けたのか遣って来た健は、何も言わずに俺
の隣で同じ様にグラスを傾けた。そのあまりに何時もの奴らしくない雰囲気に、俺は何故
か不安になりながらも、その晩は沈黙が有り難かった。実際健は一言も断らずに俺の隣に

腰掛けたから、物思いに耽っていた俺は健がオーダーをするまで、隣に座ったのが健だと
気付かなかった。隣でした健の声に顔を上げた俺は、多分一瞬迷惑そうな、鬱陶しそうな
顔をしたんだろう。言葉を紡ぎ出そうとして小さく開けた健の唇が動きを止め、静かにグ
ラスを上げた。
其の儘どれ位俺達はその店に居たのだろうか?その店は明け方まで開いているし、顔馴染
みのバーテンは俺達が「帰る」と言い出すまで、無理に追い出すことはしないから、多分
俺達はかなりの時間をそこで過ごしていたのだろう。空けたグラスの数はそう大した物で
はない。自分の身体の変調からか、食べ物だけでなくアルコールまでもが胃の不快を増長
するようで、飲酒に関しては近頃もっぱら品行方正な俺だった。
俺の額に掛かった長い髪を何かが払って、その冷たさにそれが触れ慣れた健の指先だと知っ
た。覗き込む健の深い青の瞳に促されて、俺は尻のポケットから財布を出して支払った。
ついでに健の分も払ってやる。
「未だ給料前だろ」
何時ものような俺の口調に、気遣わしげに眉を顰めていた健は、それでも笑い返して頷い
た。
「奢られてやるよ」
これもまた何時もの横柄な口調の健に俺の口元にも笑いが浮かんだ。俺達の常に無い雰囲
気に内心ハラハラしていたのか、バーテンがほっとした様に笑顔で俺達を見送ってくれた。
どうせ喧嘩でもおっぱじめると思っていたんだろう。俺達にだって店の中で喧嘩をしない
位の分別は有るんだぜ。遣るとしたら何処か広い所へ行くさ・・

そうして、俺達は喧嘩をするには十分な広さが有る場所まで遣って来た。並んで凭れてい
た金網から、俺は身体を剥がした。健の正面に積み重ねられているドラム缶の一つに腰を
下ろして、俺は健を正面から見た。
「何か話が有るんだろ。早く用件を済ませてくれよ。俺は帰って眠りたいんだ」
健はいきなり喧嘩をするつもりは無さそうだ。挑戦的な俺の言葉に口を開く訳でもなく、
次第に明けて行くビルの町並みを金網に凭れたまま見詰めている。昇り始めた朝日が健の
ココア色の髪先を光らせて、俺は眩しさに目を細めた。こんな時でさえ、健の凛とした美
しさは俺の鼓動を少しだけ速めてしまう。お前は何時だって綺麗だよな・・決して弱さを
感じさせないお前のそんな美しさが、俺の昔からの憧れだったって知っていたか?強請る
ように俺の唇を奪うお前に「仕方ねえな・・」と応じながら、自分を包み込むお前の腕を
絶対に失いたくないと思っていた事を、お前は知っていたか?すっかり筋肉が落ちてきて
しまった今の俺は、お前と共に眠ることは出来ない。見たらきっとお前は確信してしまう、
今は未だ疑っているだけの俺不調を。そしてお前は決して許しはしないだろう、お前の側
で戦うことを・・
「一体どうしたんだ?ジョー」
気遣わしげに訊いてくるお前の言葉に、俺はゆっくりと頭を振った。
『お前には言わねえよ、健。力付くでもな・・』 
俺の肩を掴んだ健の手を払い除けて、俺は奴の頬を殴った。倒れこんだ姿勢から緩やかな
動作で立ち上がって、健は恐ろしいほどの静かさでズボンの埃を払った。
「どうやら力付くでないと言わないらしいな」
健の言葉に俺はニヤリとした。
『そうさ、掛かって来いよ。俺が何時もの通りだと、お前に思わせて遣るよ。未だお前に
引けは取らない事を。未だ十分戦える事を・・お前に確信させてやるよ』
一発目の拳をブロックした隙に健の二発目がヒットして、俺は自分がさっきまで座ってい
たドラム缶を派手に倒した。手の甲で口元を拭いながら見上げた空に、鳥が翼を広げて飛
んで行った。白いその翼は誰かを連想させて、俺はつい口元を笑いに歪めた。
「未だ、負ける訳にはいかねえよな。お前と飛ぶのはこの俺だぜ・・」
呟いた俺の言葉が聞こえたかのように、遅れてもう一羽が飛び立って行った。俺はその行
方を見る間も無く、健に向かって飛び掛った。


THE END



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