昔ガキだった頃

by Kiwi


開けた窓から風が入り込んで来る。其の冷たさにジョーは身を竦めた。此処は寒い。自分
が生まれ育った島に比べたら、酷く寒い処だった。それでも其の地に住む人間達は「此処
は温暖な処だから」と、自分の国とは違う言葉でジョーに笑いかける。そうしてジョーは
又自覚する、自分がこんなにも遠くに来てしまった事を。
怪我の痛みがある間は未だ良かった。其の痛みに耐えることだけを考えれば良かった。両
親が居なくなってしまった痛みより、それはもっと直接的に自分を苛んだから。けれどや
がて彼は知った、怪我の痛みは、何時かは癒える。しかし心の傷は何時までも残ることを。
長い間の治療とリハビリが終る頃、ジョーは笑えない子供になった。元通りに歩けるよう
に、走れるようになった時でも、彼の表情は暗いままだった。
リハビリは思いの外短い期間で終了した。自分の身体に流れる一族の血が、生きる術を教
えてくれたから。
「流された血は血で償う」
呪文の様にそれを繰り返して、ジョーは又走れるようになった。

部屋の中で電話が鳴っている。ジョーは視線を窓からそちらに向けて・・暫く其の儘動か
ずに居たが、何時まで経っても止まない電話音に、仕方無さそうに受話器を取った。自分
の面倒を見てくれている家政婦のマーサの声が受話器から聞こえてきた。
「ジョー、博士からお電話よ」
聞こえてくる言葉に嫌そうに身体を一度震わせて、ジョーは受話器を戻したい衝動をやっ
との事で押さえ付けた。
「・・ジョー?具合はどうかね?」
聞こえてくる南部の声は優しい自愛に満ちている。この人物が居なければ、今自分はこう
して此処に居ない。分かってはいても、ジョーの指は震えた。
「大丈夫・・」
「今日は病院には行かなくて良いよ。島田を向かわせるから、ISOに来ないかね?」
南部の申し出はジョーにとっては、魅力だった。
「良いの?」
今日は病院で検診をする日だ。退院をしても定期的に病院に通うことを未だ彼は余儀なく
されていた。病院は嫌いだ。四方を囲む白い壁は見飽きた。消毒薬のキツイ匂いは苦手だ。
薬も嫌だし、血を取られる為に刺される注射針も嫌いだった。
「病院には私から連絡しておいた。君に会わせたい人が居るんだ。30分で島田が付くと
思う。用意をして置いてくれ」
「はい」
誰に会うにしろ、今日は病院に行く必要は無い。それだけでもジョーは嬉しかった。

島田は其の職業柄か、それとも意外に几帳面な性格なのか、30分キッカリに屋敷の前に
車を横付けした。玄関から出て来たジョーを見ると、特有の黒い瞳で見詰めたまま、車の
扉を開けた。開けられた扉から乗り込んだジョーが、シートベルトを締めながら窺うと、
島田が見送りのマーサと何事かを話しているのが見えた。自分の視線に気付くと、マーサ
は手を振ってくれた。それにお座成りのように手を振り返す。やがて戻って来た島田がエ
ンジンを掛けると、車は走り出した。
本来こんな仕事は南部のボディガードを勤める島田の仕事ではない。数居る南部の秘書に
頼めばそれで済む事だ。が、敢て南部が自分から離してまで、島田を迎えに来させたのは、
ジョーが他の人間に対しては不憫なほどに気を張り詰めてしまうからだった。長期間治療
に当たった担当の医師や看護婦にさえも、ジョーは決して心を開くことはなかった。夜中
に見回りに来た看護婦が、身体に触れた途端に跳ね起きた彼に、怯えた眼で見返されたの
は、決して少ないことでは無かった。そんなジョーが傍らに居ても気に留めない相手は、
マーサと南部、そして意外な事にこの強面のボディガードだった。
「マーサが飯を全然食わないって、心配してましたよ」
「腹減らないんだ。・・きっとずっと家の中に居るからだよ」
「そんな事を言って、もっと痩せぽっちになったら、銃も撃てませんよ」
「教えてくれるのか?」
彼には珍しく頬を高揚させて訊いてくるのに、島田は笑みを浮かべた。
「明日はオフですから、ちゃんと今晩からマーサ食事を全部食べられたら、教えてあげま
すよ」
「約束だからな」
確認をする様に向けてくる真剣な眼差しに、島田は「はいはい」と頷いた。

出迎えた南部の秘書が流行の口紅で彩られた口元に笑みを浮かべて、二人を案内したのは
南部のオフィスではなく、クリーム色をベースにした柔らかな色合いの部屋だった。テー
ブルを挟んでソファと肘掛が付いた大きな椅子が二つ。其処には南部と見知らぬ男が座っ
て居る。男を見た瞬間、秘書に会った時からのジョーの緊張が増したのが、島田に感じら
れた。耐えるように握った拳が少し震えている。
「ジョーさんと島田さんがお着きになりました」
それだけ告げると秘書は部屋を出て行った。
南部が示すソファに島田が先に腰掛けて、肩越しにジョーを促すと、漸く彼は島田の隣に
腰を下ろした。
「ジョー、この方はこのルームで主任を務めている方だ。此処は心に傷を負ってしまった
人の話を聞いて、それを癒す手助けをしてくれる所だよ。君も此処で色々な話をしたり、
聞いたりしたら、必ず具合が良くなるよ」
「それって、精神科って事?俺が何処かおかしいって事?」
島田の止め様とする手を振り切って、ジョーは立ち上がった。
「ジョー、それは違うよ。私達は君が元通りに笑える様に、眠れるようにしたいだけなん
だ」
主任と呼ばれる男の言葉をジョーは聞いていなかった。握り締めた拳を震わせると、彼は
叫んだ。
「俺は何処も変じゃない!」
涙を溜めた薄青い瞳で、周りの大人を見回すと、彼は部屋を飛び出した。
「・・済まないが、島田」
苦り切って事の成り行きを見ていた島田は、南部に言われて腰を上げた。
「はいはい・・分かってますよ。首根っこに縄を付けて、引っ張って来ますよ」
「・・どうしても嫌がるようなら、今日は屋敷に連れて帰ってくれても良い。又私が帰っ
てから説得しよう」
「分かりました」


2

走り続けて立ち止まった時には、自分がどちらから来たのか、すっかり分からなくなって
いたが、今のジョーにはどうでも良かった。
「俺は何処も変じゃない!」
自分はそう言った。でも、それは本当の事なのか?
島田に言われなくても分かってる、何かを食べたいとは思わない、例えそれが昔の大好き
なメニューでも。医師に言われなくても分かっている、自分が実は少しも眠れては居ない
事は。自分ではそんな事無いって、思っていても、もしかして何処かおかしくなっている
のだろうか?
「ほら、あの子・・」
「あー、あの子ね。何だか得体の知れない子よね。何処であんな怪我をしたのかしら?」
「よく訪ねてくる男の人も父親じゃ無いみたいよ」
子供は残酷だと言うが、大人も口さがない。自分を治療してくれている看護婦達がお茶の
時間にそう話しているのを、ジョーは意外に無感情に聞いたものだった。変だから、何も
感じなかったのかな・・?
「どうせ、昔には戻れないんだ」
吐き捨てた言葉が自分の胸に痛かった。

何かが倒れる大きな音がして、ジョーは「はっ」と顔を上げた。瞬間的に身を縮ませる。
隠れるようにして座っていた茂みから顔を覗かせると大型のバイクが倒れている。側に赤
い革のバイクスーツを着た人物が倒れている。ジョーは驚いて駆け寄った。
「大丈夫?」
覗き込んで声を掛けるが、倒れている相手は身動きしない。
誰かを呼ばなくてはと思っていると、向うから島田が歩いて来た。
「島田――」
ジョーの声に島田が走って来る。
「どうしました?」
「ぶつかったみたいなんだ」
ジョーの言葉にバイクに視線を移すと、成る程ぶつかったのかパーキングスペースの囲い
のポールが折れている。
「又器用な処にぶつかったもんですね」
「感心してないで、助けろよ」
島田に言うよりも先にジョーは、倒れている人物に手を掛けた。
「頭を打ってるかもしれませんから、迂闊に動かさない方が善いですよ」
島田の方を振り返って、触れかけた手を彼は止めた。
「あ、痛――。もう、あんな処で猫が昼寝してるから・・」
手を伸ばすのを躊躇った先から声が、それも随分若い女の声がして、赤いバイクスーツが
起き上がった。
「大丈夫ですか?」
島田の掛けた言葉に大きく頷いて、彼女は被っていたフルフェイスのヘルメットを外した。
肩までの赤味掛かった茶色の髪が其処から現れて、白くて小さな顔を縁取った。地面から
立ち上がって、スーツに付いた泥を叩いている姿は、そう大柄ではない。このバイクを乗
りこなすには小柄の部類だろう。
「大丈夫・・どうもあり、ア――私のDUCATIが・・」
言うなり駆け寄って、愛車に縋り付くと、彼女は倒れたバイクを起こそうとした。それに
ジョーが手を貸そうとするのを見て、島田が仕方なしに手を貸す。
「うぅ・・未だローンを払い始めたばかりなのに・・」
無残に下になっていた方のミラースタンドが折れて、ミラーも割れていた。
「命が有っただけ幸いでしょう」
「そりゃ、そうだけど・・。又修理代が。もう、あの猫」
「それってこの猫?」
足元に擦り付いてきた仔猫を抱き上げて、ジョーは頬擦りをした。
「・・温かい」
「あー、もう腹が立つからそんな猫何処かへ遣っちゃて」
そう言われてもジョーは暫く仔猫を抱いたままだったが、10メートルほど先で、親猫が
「ニャー」と泣いたのに、口元を微かに笑いとも泣き顔とも取れる様に歪めると、仔猫を
下ろした。忽ち親猫に駆け寄って行く仔猫を、彼はじっと見ていた。
「ジョー」
「行くぞ、島田。博士に言われて探しに来たんだろ」
「・・博士は嫌なら今日は無理に・・と言っていましたが」
「・・今日はだろ。永遠に避けられるわけじゃない」
其の言葉は8歳の子供の言葉にしては、余りにも絶望に満ちた言葉に島田には聞こえた。
歩き出したジョーの肩に、躊躇ったように上がった島田の手が掛けられて、ジョーはほん
の微かに口元を緩めた。
「・・もう大丈夫だ。逃げないよ」
「有難うね――バイク起こしてくれて」
振り返った肩越しにライダースーツの女が手を振っているのが見えた。

クリーム色の壁が四方を囲んでいる部屋は、観葉植物や座り心地の良い椅子、テーブルの
横にはオーディオセットまで有って、凡そ診察室という感じではない。それでも居心地が
良く感じないのは、未だ仕方の無いことだとジョーは自分に言い聞かせた。逃げ出すほど
に嫌だったこの場所に、結局来ることにしたのは、此の儘では居られないと彼なりに思っ
たからだ。自分が強くなる為には、それが必要だと彼は結論を出した。
「未だかな」
口に出して、又彼は部屋を見回すという作業を繰り返した。待たされている10分の間に、
何度も同じことを繰り返した所為で、本棚に置かれている本のタイトルまで覚えてしまっ
た。
「御免なさい、待たせて―」
廊下をばたばたと走る音がして、扉がいきなり開かれた。白衣を流行のミニのワンピース
に引っ掛けた女性が入って来た。
「御免ね、医務室に行ってたものだから」
聞き覚えのある声に顔を上げると、さっきのライダースーツの女性が立っている。細身の
身体には先程のライダースーツよりも、花柄のワンピースの方が似合っている気がした。
「医務室って・・?」と、訊きかけてジョーは目を瞠った。女性の鼻の頭にかなり大きな
絆創膏が貼ってある。確かさっきはそんな怪我をしていなかった筈なのに。
「南部博士が待ってらっしゃるから急いでって言われて、走ったらミュールが引っ掛かっ
て」
「こけちゃったの・・」
照れたように笑った彼女の顔は、Drと言うよりは学生のようだった。
「貴方がジョーだったのね。さっきはどうも有難う」
コクリとだけ頷いたジョーに構わずに、彼女は話し続ける。
「私はマミ・ローランド。マミって呼んでね」
「・・どうしたら良いの?服は脱ぐ?それとも診察室は別の場所?」
ジョーの言葉に一瞬眼を見開いて、まみは次ににっこりと笑った。
「それよりも昼食に行かない?丁度お昼だし。此処の社食美味しいのよ」
「お腹空いてない・・」
口の中で唱えた反論は聞こえなかったのか、聞く気が無いのか、無視されてジョーは腕を
引っ張られて部屋を後にした。

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3

「今日の定食は何かな?」
メニューが書かれているボードを、ジョーはざっと眺めただけだったが、マミは随分と真
剣に見ている。
「A定食・・ううん、やっぱりB定食にしようかな・・。あーでも、パスタも捨てがたい。
バランスを考えると、やっぱり定食」
よく、こんな物に其処まで悩めるものだ。ジョーは溜息を付いた。
「未だ?」
「うーん、やっぱりA定食にしよう。ジョーは決めた?」
「ジュースだけで良いけど・・」
「駄目!成長期の子供が何言ってるの。ちゃんと食べないと、痩せぽっちの男の子はモテ
ないわよ」
「どうだって良いよ・・」と、言い掛けたジョーは島田との約束を思い出した。
「ちゃんと食事をしたら・・」と、島田は言っていた。此処で食事をきちんと取ったかど
うか、島田に分かるはずもないのだが、ジョーは律儀に
「じゃあ、同じ物を」と答えた。
マミが先に立って注文口に行って、A定食を二つ注文すると、真っ白な割烹着を着た女の
人が出て来て、笑いかけた。カウンターはジョーの目の位置よりも高いところに有って、
ジョーが其の女性の顔を見るには随分と目線を上げなくてはならない。
「あら?マミ、今日は男同伴なの?」
「そうよ、可愛いでしょ、ジョーっていうの。これからデートなのよ」
「そうなの?羨ましいわね。お味噌汁要る?」
デートと言う言葉をどう取ったのか、特徴の有るワインカラーのフレームのメガネ越しに、
彼女の瞳が柔らかな色を帯びた。
「ジョーにはおまけをしてあげるわ。これ試作品なの、プリン。食べて感想を聞かせてね」
そう言って、彼女はA定食のトレーにプリンを乗せた。
「えー、ズルイ。私には・・」
「マミ・・太るわよ」
「ぐっ・・」
言われて、マミは諦めたように、IDカードを彼女に渡した。レジに通すと、コンピューター
が自動的に計算をしてくれて、給料から差し引かれるシステムだと、マミが説明してくれ
る。
「太るのを気にするような、スタイルじゃないのに」
手近なテーブルに腰を下ろして、ジョーがマミに言った。マミは未だ恨めしそうにプリン
を見ている。
「俺、良いよ」とプリンを差し出したジョーに、頭を振る。
「ううん。先月2キロ太っちゃたの。戻さなくちゃ」
「女の人って、何時もそう言うんだ」
「そりゃあ、綺麗になりたいもの」
「俺のマーマも何時もそう言ってた。パーパが幾ら綺麗だよ・・って言っても、太ったと
か言ってさ」
自分の言った言葉に、詰まったようにジョーはフォークを置いた。
「御免、マミ。俺やっぱり食べたくない」
「あ、無理には良いわ。食べられないなら、せめてプリンだけでも食べて、感想を聞かせ
てあげて。彼女とっても研究熱心だから」
コクリと頷いて、スプーンで一掬いプリンを口に入れた。続いてもう一口。
「美味しい?」
羨ましそうにマミが尋ねる。
「マーマのプリンと同じ味がする」
薄青い瞳から涙が零れ出したが、堪えるようにジョーはプリンを全部食べ終えた。
「何で?」
訊いてくるジョーに、マミは首を振った。
「私には分からないわ。直接訊いて御覧なさい」
マミに言われて、カウンターまで行ったジョーだったが、中の様子に少しだけ声を掛ける
のを躊躇った。昼の休憩時間になったのか、職員が次から次へと遣って来て、厨房は先程
の女性を含めて、皆忙しそうに動いている。
仕方無しにカウンターの端に凭れて、人の波が空くのを彼は待った。

「ジョー、どうしたの?」
カウンターから先程の人の声がした。ジョーがカウンターを窺うと、ひと段落付いたのか、
カウンターの前に人影は無かった。
どうしようか・・。と一瞬考えて、ジョーは顔を伏せたまま、割烹着の女性の前に立った。
「・・プリン、美味しかったよ。マーマのプリンと同じ味がした。どうして・どうしてあ
の味を知ってるの?」
使用人が多いジョーの家で、母親がキッチンに立つのは、そう多い機会ではなかった。だ
から、その時には何時も、自分もキッチンでエプロン姿の母を見ていた。泡立てた卵黄に
バニラエッセンス。甘い香りは幸せの香りだった。
答えを求めるように目線を上げると、眼鏡越しにグレイグリーンの瞳が微笑んでいた。
「貴方のマーマはイタリアの人ね」
「・・うん、俺もパーパも・・。本土じゃなかったけど」
「私の母もイタリアから来たの。昔よく作ってくれたわ、このドルチェ。
そう、美味しかった?」
「もう、食べられないと思ってた」
「自分で作れるわよ。教えてあげる」
「俺が作るの?」
「そう、食べさせてあげたい人、居るでしょ」
言われて浮かんだのは、博士の顔。マーサの顔・・。島田は嫌いだろう、甘い物は。健は?
今度来たら作ってやろうか・・。
「うん、教えて」
頷いたジョーに、彼女は「いいわよ」とウインクして見せた。


4

扉を開けると甘い匂いが漂ってきた。甘いものが苦手な島田は、一瞬顔を顰める。島田が
開けた扉から入って来た南部も「おや?」というような顔をした。
「今日はデザート付きなのかな?」
マーサが何か、ジョーの喜びそうなデザートでも見つけたのだろうか?
「お帰りなさい、博士」
出迎えに来たマーサの顔が何時もよりも綻んでいる。何か良い事があったのかと尋ねた南
部に、マーサが顔一杯の笑顔を見せた。
「キッチンに来て頂けます」
嬉しそうなマーサの顔に導かれて、南部ばかりでなく島田までもがキッチンに顔を出した。
「マーサ、もう冷えたよ。食べられる?」
入って来たのがマーサだけだと思ったのか、ジョーは冷蔵庫から出した小さな容器の中身
を突付きながら尋ねた。
「ほう、美味しそうだね。君が作ったのかね?」
南部の声に驚いたように、ジョーは顔を上げた。彼の問いにコクリと頷く。
「・・今日ISOの社員食堂の人に習ったんだ」
「ジョーのお母さんが作って呉れてたそうですわ、このお菓子」
「今日習っただけで、こんなに上手く作れるなんて、大したものだ。早速頂こうか」
「博士、デザートは夕食の後ですよ」
マーサに釘を刺されて、南部は肩を竦めた。
「順番はどうでも良いと思うのだが・・・」
「そういうわけにはいきませんわ。夕食も、もう出来ていますから、直ぐに食べられます
よ」
「じゃあ、直ぐに支度をしてくれ給え」
几帳面にラップで器を覆って、冷蔵庫に戻すジョーの手元を見ながら南部はそう言った。

背後から食い入るような視線で、何時もジョーは自分の射撃を見る。その眼光はとても子
供の物とは思えない。視線の先に有るのはターゲットでは無く、自分の両親を暗殺した者
の姿なのだろう。
最初に教えた時も、小さな手に収まりきらないような銃を、誰に教えられたのか、両手で
固定して立つ姿は、驚くほど堂に入っていた。彼の身の回りでは、それは何の不思議も無
いことだったのだろうか。反動で手を痺れさせながらも、ジョーは全弾を撃ち尽くした。
「お前って、意外に良い奴なんだ」
レンジに響き渡る銃声を防ぐ為に付けていたヘッドフォンを島田が外すと、ジョーが呟い
た。
「又急にどうしたんですか?」
「全部食べただろ、ザバイオーネ。甘いの苦手なのにさ」
指摘に少し気まずい様に、彼は業とらしくヘッドフォンを付け直した。
「偶々、喰いたかっただけですよ」
銃を片手にターゲットの正面に立つ島田に、ジョーは聞こえないのを承知で呟いた。
「嘘つきめ・・」

其の夜、又夢を見た。殺される両親の夢ではなくて、未だ生きていた頃の夢。白いエプロ
ンを付けた母親の側で、笑っている父と自分が居た。楽しいはずの夢なのに、目覚めた時
には何時もの悪夢よりも、もっと切なくて枕が濡れていた。
何故だろう・・。思い出さえも自分を慰めてはくれない。膝を抱えて、ジョーは涙を流し
た。
今日は、又マミの処に行く日。彼女に全てを話したら、自分は救われるのだろうか?溜息
を付くと、彼はベッドから降りた。どちらにしても、もうこれ以上眠れそうにはない。ベ
ランダに続く扉を、彼は開けて外に出た。
明け方の冷たい風が、伸ばした髪を嬲る。切る事を拒否した前髪は、表情を隠す為だと、
彼自身も気付いていなかった。空が少しずつ白んでくる。
今日も良いお天気になりそうだった。


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5

マミの部屋は、よく見れば余り整然としていない。机の片端には開かれた難しそうな医学
書。書類がもう片端に積まれて、実際に使えそうなスペースは大きな机の極一部だ。ソファ
の前のコーヒーテーブルには、ファッション雑誌の今週号。何気なくページを捲ると、作
られたような容貌のモデルが、流行のファッションに身を包んで、張り付いた様な笑いを
浮かべている。ジョーは雑誌を放り投げて、隣のバイク雑誌を手に取った。それには興味
が有ったようで、暫く読み耽った。
「遅い・・」
約束の時間は30分も過ぎている。マミは他の人をカウンセル中だと、受付が言っていた。
確かカウンセルルームは廊下の突き当たりのはず・・。ジョーはそっと扉を開けて、廊下
に出た。目当ての部屋は直ぐに見つかったけれども、まさか入るわけにもいかない。壁に
凭れ掛かって、待ってみたが、勿論患者の秘密を完璧に守るために防音されている扉から
は、何も洩れ聞こえてこない。仕方なく元の部屋に帰ろうか、と思った時に、扉が中から
開かれて、逞しい男が出て来た。島田よりも一回りはデカそうな男は、チラリとジョーを
一瞥すると靴音を響かせて歩いて行った。続いてマミが出来るだろうと思っていたのに、
彼女は何時まで経っても出て来ない。ジョーは小さくノックをすると、思い切って扉を開
けた。
部屋の中は惨憺たる状態だった。美しい花が生けられていた花瓶は無残に砕け散って、薄
紅の薔薇は踏み躙られている。患者がリラックス出きる様にと備えられているリクライニ
ング式の椅子が、倒されていて、其の側には是又ひっくり返されたテーブルが有った。
「マミ、大丈夫?」
椅子に腰掛けたまま何やら書き込んでいるマミに、ジョーは声を掛けた。
「ジョー、どうしたの?」
「マミの部屋で待ってたけど、何時まで経っても来ないから」
言われてマミは腕時計を見た。確かに約束の時間から一時間弱過ぎている。
「御免なさい。待たせちゃって」
「良いけど。これ、あいつが遣ったの?」
マミは肩を竦めると、手にしていたペンを置いた。よく見ると、其の細い手が少し震えて
いる。恐かったのだろうか?
『自分の目の前で、あんな大きな男がこんな事をしたら、多分普通の女の人なら恐がるよ
な・・』
「マミ、何かされたの?怖かった?」
自分を見上げる真剣なジョーの瞳に、笑顔を返そうとして、マミは失敗した。
「・・恐くは無かったわ。本当よ、ジョー」
そう、恐怖心は無かった。カウンセリング中の兵士が「お前に何が分かる!」と激して、
自分の見ている前で、椅子を倒しても、テーブルをひっくり返しても、それが自分に向け
られるとはマミは考えていなかった。一向に捗らない治療や、カウンセリングに怒りやジ
レンマを感じる患者は多い。「無能」と罵られる事もある。
「前はテーブルの上の灰皿を投げつけられたわ。女の人にだけど」
「酷いな・・」
「あの人達の気持ちも分かるの。私は云わばあの人達の秘密を打ち明けられているような
ものですもの。自分の気持ちの中に押し隠しておきたいような、弱さや辛さを聞かれて、
治して呉れないんですもの」
そう言いながら涙が出るのは、悔し涙だ。自分が未だ、未熟だから、彼らの痛みを癒して
遣れないという。勿論それは、傲慢と呼ばれるものかもしれない。だが、マミは自分の未
熟さが、堪らなく嫌だった。
ふと自分の頬に柔らかな物が触れて、それがジョーの髪の毛だと、瞳を開けて気が付いた。
首に巻き付いている子供特有の細い腕が、躊躇うように自分を抱き寄せる。
「大丈夫、きっと良い事も有るから・・」
細い身体に擦り付けられた自分の頬が、心地良かった。
「俺が何か有って泣いてたら、マーマが何時もこうやって抱き締めてくれた。『大丈夫よ、
ジョー。今は悲しくても、きっと良い日も来るから』って」
「これじゃあ逆ね。私の方が面倒を見て貰っていたら、話にならないわ」
「パーパは女の人は大事にしなけりゃ駄目だって言ってた。もう少しこうしていて良いよ」
自分の両親が何時もしてくれた様に、ジョーはマミの額に唇を寄せた。
「貴方に神のご加護が有ります様に・・」
そう言っていたマーマは、今は神の御許に居るのだろうか?この世に神が居るのなら、何
故自分も連れて行っては呉れなかったのだろう。
「ジョーのご両親は、貴方をとても愛していてくれたのね」
目の前に居る子供が両親の愛を一身に受けて育ってきたのは、前から分かっていたことだっ
たが、改めてマミはそう言った。
「そうなのかな?よく分からない。俺はそれが普通だと思って育ったから。誰もがそうやっ
て育てられると、思っていたから」
失くして初めて、人は其の大事さが分かるのだろう、きっと。
「マミは俺に何も訊かないの?」
マミの仕事は自分のカウンセリングをすることの筈だ。でも、今日で三回目になる診察の
間、マミは敢て、自分の話を聞こうとはしなかった。
「・・私が話を聞いて、ジョーは気持ちが楽に成るのかしら?」
怪訝な顔をしたジョーに、マミは言葉を選んで続けた。
「私は確かに是が仕事なの。辛い人を少しでも助けたくて、この仕事を選んだわ。でも、
時々さっきみたいに分からなくなるの。自分は何もあの人達の為にして上げられないんじゃ
ないかしら?只、自分が役に立っていると思い込んで居るだけなんじゃないかしら?」
「・・此処座って良い?」
ジョーは倒れていたリクライニングの椅子を起こして、マミに尋ねた。
「良いわよ、勿論。気が付かなくて御免なさい」
「じゃあ、俺を治してよ」
深く椅子に腰掛けてジョーは、瞳を閉じた。


6

暫くの間瞳を閉じたまま、ジョーは黙っていた。やがて瞳を開くと、深呼吸を一つした。
どうやって切り出せば良いのか、分からない。自分がこのままで、良い筈が無いのは分かっ
ていたが、どうすれば良いのか、ジョーには検討が付かなかった。思い詰めた様に黙った
まま、ジョーは自分のシャツに手を掛けた。長袖のボタンダウンのボタンを外すと、する
りと彼は其れを自分の細い身体から抜き取った。続いてズボンに手を掛けると、マミが止
めるのも聞かずに、彼はズボンを脱いだ。露になった細身の身体に付いた生々しい傷跡に、
マミは眼を背けそうに成ったが、それは許されないことだと、自分に言い聞かせた。ジョー
は其れほどまでにして、この状態から脱したいのだ。彼にとって辛く未だ、血飛沫て居る
であろう傷跡を晒してまで・・。
「そんに酷い?でもかなりマシに成った方、これでもね。最初、気が付いた時には包帯だ
らけでね・・」
少し頬を青褪めさせたマミに、ジョーは笑って見せた。
「歩けるまでかなり掛かったよ。元の様に走れるまでには、もっと掛かった」
緩々と手を伸ばして、マミの頬に触れる。
「博士が、もう少し時間が経てば、傷は段々と薄くなるって言ってた。多分脚の傷は、俺
が何回目かの誕生日を迎える時には、殆ど目立たなくなるよって」
「パーパとマーマが殺されたのに、俺だけが生き残っちゃった。あの女が投げた爆弾で飛
ばされて、砂浜に叩きつけられて、其の儘、パーパとマーと一緒に死ねると思ったのに−。
俺が悪い子だから、神様は俺を望まなかったの?」
ジョーの温かな指先が、頬を滑って行く。その指を捉えて、マミは自分の口元に当てた。
一度口付けをしてから、ゆっくりと其の手をマミは放した。
「ジョーは、神様を信じているの?」
「・・分からない。クリスチャンじゃ、無いよ。でも、マーマは毎週教会に行ってた。俺
も時々行った事が有る。綺麗な天使の絵が飾ってあって、俺は其の絵が好きだったよ」
「ジョーは良い子よ。神様がジョーを連れて行かなかったのは、きっと貴方のご両親がそ
う望んだからだと思うわ」
「パーパとマーマは俺に何をして欲しいんだろう」
自分に問い掛ければ、やはり復讐しか答えは無い。
「普通に・・ジョー、普通に生き続けて欲しいだけだと思うわ」
「普通?俺、もう十分普通じゃないよ」
両親は目の前で殺された。生き残った自分には、その罪の刻印の様に、醜い傷跡が有る。
左の脇腹に深く付いた傷跡は、多分消えることは無いだろう。おまけに毎晩悪夢に魘され
て、カウンセラーのお世話になって?これで普通と言える?ジョーは空しい笑い声を上げ
た。
マミが両腕を回して、そんな自分を抱き締めてくれる。マミからはマーマとは違う香水の、
だが、何故か同じ様な香りがした。これはきっと女の人の匂い。
今度はマミがジョーの額にキスをした。
「大丈夫よ、ジョー。今は辛くても、きっと良い日も来るから」
さっき投げた言葉をマミは繰り返して何度も、ジョーに返した。ムキになって振り解くに
は、ジョーは幼すぎて、そして温かみを欲していた。薄青い瞳から涙が零れるのを、ジョー
は拭わなかった。

「一つだけ気に成っている事が有るんだ」
元通りに服を着て、ジョーは椅子に腰掛けた。瞳を開くのが恐い様に、先程よりも更に長
い時間、彼はそうしていた。
「・・俺、何だかとても大切な事を忘れているような気がするんだ。マミ、過去の忘れた
記憶って、取り戻せる?」
「・・催眠治療で、思い出せることも有ると思うけど。どうして?」
「何だかそれが、パーパとマーマが殺されたのに、関係が有るような気がして・・。確か
にあの女が何かを言ったはずだと思うんだけど、思い出せないんだ。とても大切な事のよ
うなのに・・」
「遣ってみる?」
マミの言葉にジョーは躊躇って、そして頷いた。
「ずっと気に成ってるんだ。俺のパーパとマーマは、何か悪い事をしたから、殺されたの
かな・・って」
それなら、自分が密かに思っている復讐さえ、自分には許されないことになる。
「じゃあ、眼を閉じてじっとしていてね。私の声だけに耳を傾けて・・」
ゆっくりと落とした声で続けるマミの言う通りに、ジョーは身も心も委ねた。静かに彼は
眠りに付いた。

「眼を覚まして良いわよ」
瞳を開けると、其処にはさっきと同じくマミの顔。跳ね起きてジョーは、彼女に尋ねた。
「俺?何か言っていた?」
「ジョーはその人の言葉を何も覚えて無かったわよ。もしかしたら、聞く前に意識を失っ
たのじゃないの?」
自分は確かに聞いたような気がした。痛みから逃れるために、身体が強制的に手放そうと
する意識に、必死で抗って何かを聞いたような・・。でも、聞いていないなら、其の方が
良いのだ、きっと。
ジョーは自分の気持ちが、何だかすっきりしたのを感じた。
「そろそろ、お迎えが来る頃ね」
そう言いながらマミが扉を開けると、向うから島田が歩いて来た。
「遅かったですね」
「何でも無い。帰るぞ」
受付の前を通った時に、ブルネットの受付が島田を見て微笑んだ。
「あっ、カウンセリング、やっと終ったんですね。島田さん、お待ちどうさまでした」
何気なく掛けられた彼女の言葉に、島田が鋭い一瞥をする。タイミング良く現れたのは、
どうやら待合室でかなりの時間を過ごしていたお蔭らしい。
「女はお喋りで困ります」
「その恐い顔を止めないと、お前、絶対に女出来ないと思うな」
「ガキは余計なことを心配しなくて宜しい」
車に乗り込むと、島田が尋ねた。
「今日は、少しは喰えそうですか?」
「・・うん、多分ね」


7

扉から顔を覗かせたジョーに、マミは微笑んだ。
「どうしたの?入ってらっしゃいよ」
それに素直に従って彼は入って来たが、マミのデスクの前に立ったままで居る。
「何?どうかした?」
「マミ、俺、もう此処には来ない」
驚いて見上げたマミに、ジョーは笑って見せた。
「大丈夫、飯も食うし、ちゃんと眠るよ。これからは俺が自分で自分の面倒を見なくちゃ
いけないんだ。昨夜、パーパとマーマの夢を見たよ。二人が俺を見て、笑ってた。俺が生
きてるって、微笑んで、抱き締めてくれたよ。だから・・」
「大丈夫、俺はちゃんと生きてけるよ」
「そう・・」
マミはジョーを見ると微笑んだ。
「そう・・。」
もう一度言うマミに、ジョーは手にしたクーラーボックスから、小さなカップを取り出し
た。淡い黄色のドルチェが涼しげに、甘い香りを放っている。
「マミにお礼だよ、ザバイオーネ。食べてみてね」
「じゃあね」と手を振って、ジョーは出て行ってしまった。マミはスプーンでドルチェを
掬うと、口に含んだ。甘い香りに、少し垂らされた甘口のワインの香り・・。
「美味しいわ、ジョー」
呟いて、マミは窓の外を眺めた。島田の車に駆け寄って行くジョーの姿が見える。其の姿
を眼で追いながら、マミは自分が知ってしまった秘密を思った。何時か彼は知るのだろう
か、其の秘密を・・。そして、その時彼の側には誰か、自分よりももっと彼の事を救える
者が居るのだろうか?

「これ、何です?」
食事が終ったテーブルに置かれた、小さなカップを島田が突付いた。
「ドルチェだ。イタリアンの締めくくりはドルチェだろ」
珍しく食事を作ってくれたかと思ったら、デザート付きか・・。俺は甘いものは苦手なん
だが・・と、島田が顔を顰める。
口に含んだ一匙は、堪らなく甘い。
「もっとワインを入れるべきじゃないんですか!」
「馬鹿言え、ドルチェだぞ・・」
言いながら口に含んだジョーも、側のコーヒーに手を伸ばす。
『俺もどうやら甘いドルチェを楽しめるほど、ガキじゃなくなったらしい』
コーヒーの苦さに一息ついて、島田が問い掛けた。
「何で又、デザート付きなんですか?」
「ちょっと或る人を思い出して・・」
もう一掬い口に運んで、ジョーは答えた。
6年も昔に知っていた人を、今日街で見掛けた。母親になったマミは幸せそうに、微笑ん
でいた。あの頃の自分よりも幼い子供を連れたマミは、昔と変わっていなかった。自分は
きっと変わったのだろう。マミはじっと見詰めている自分に気が付かなかった。それで良
いと、ジョーは思った。
あれはずっと昔の話・・。もう、自分は歩み始めた、戻れない道を。そして、自分は大人
に成っていく。これからもずっと。



The End

for mayumi san




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