Run!

by Kiwi


 自分でも訳の分からないほど、噛み締めていた唇から鉄の味がした。噛み切ってしまっ
た唇を、俺は自分の舌で舐め取った。未だユートランドの街は宵の口。行き交う人々は、
少し前までの俺の姿。少しばかりの酒を飲んで、女を口説いて、・・後はベッドで眠るだ
け。何も変わりはしないのだ。
 俺は先程から入れ替わり声を掛けてくる女達に、繰り返し同じ言葉を返していた。
「・・今日はそんな気分じゃねえんだ」
「あら、珍しい事も有るのね。ジョーが女の誘いを断るなんて」
「・・又、今度な」
「いいわ、今度絶対よ」
 何人目のか女に同じ様に答えて、俺は唇の端で笑った。
『生憎今度なんて無いらしいぜ』
 浮んでくる口元の笑いは、自嘲めいている。
「・・らしくねえよな」
 先刻聞いた話が思いの外、堪えているらしい。Tシャツの上に引っ掛けた革ジャンのポ
ケットから、煙草取り出す指が少し震えている。一瞬其れを自分の不調の所為かと疑って、
思わず見渡した周囲の風景がぶれていない事に、胸を撫で下ろした。取り敢えずあの医者
の言う通り、俺には未だほんの僅かだけ時間が有るらしい。
「一週間か十日・・」
 吐き出した紫煙が苦く消えて行った。火を点けて一度吸っただけの煙草を踏み躙った時、
今日何度目かの発信音を左手のブレスレットが立てる。
「ジョー、何処に居るのかね?応答したまえ」
 日の暮れる前に病院から抜け出してから、何度か同じ呼び出しが博士から来ている。俺
は其れを当然無視した。博士の言いたい事は分かっている。だから、聞かない。応えない。
 未だ健から連絡が無いということは、あいつは未だ知らない、俺の事を。博士が自分独
りの胸に収めていてくれる事を、俺は今感謝していた。あいつ等には知られたくない・・
あいつには絶対に知られたくない。あいつはきっと自分を責めるから。きっと俺を止めよ
うとするから・・。止められたくない!邪魔されたくない!俺の遣る事は、もうとっくに
決まっている。
「一週間か十日」
 俺はもう一度その日数を噛み締めた。
「御誂え向きの長さじゃねえか」
 直ぐに走れなくなるほどの、直ぐに戦えなくなるほどの短さじゃない。博士や健達に縛
り付けられるほどの長さじゃない。けれど、迷う暇は無い。自分の片は自分で付けるさ。
此の儘俺が無駄に死ぬと思うなよ。ベルクカッツエが何時に無く自信満々で洩らした言葉
を、俺はもう一度反芻した。
「クロスカラコロム・・。お前には俺の道連れになってもらうぜ」
 口元に浮んだ笑いは、もう自嘲じゃなかった。

 それでも、夜が更け切る前に部屋に帰る気には成れなかった。あまり馴染みではない酒
場で時間を潰して・・だが、結局俺が脚を向けたのは自分のトレーラーハウスじゃなく健
の家だった。出てくる前につい常よりも綺麗に片付けてしまった自分の部屋に帰るのは、
やっぱり嫌だった。最後の夜を過ごす相手が女でなくてお前でも、俺には似合いと言うも
のだろう。
 健の好きなワインを一本。つまみは無いが、まあ良いか。どうせ食欲も余り無い。だけ
ど気掛かりが一つだけ、博士から連絡は入って無いだろうな・・。
 俺は注意深く健の家の扉をノックした。
 俺の顔を見た健は、不思議と驚いた顔をしなかった。是は要注意かな・・。見詰めてい
る健に持参したワインを見せると、俺は「お前を飲みたかったから」と、この部屋を訪ね
る時の決まり文句を言った。
 部屋の灯りに少しだけ色を濃くした健の瞳が和らいで、グラスをキッチンから運んで来
た。
「つまみは無いぞ」
 是も又何時もの健のセリフだ。「金が無いんだ」と何時もの様に続ける。
「俺も持って来たのは是だけだぜ。生憎俺も金が無い」
「エアーチケットを買っちまったからな・・」とは言えないが。健は「お互い様か・・・」
 と、何時もの様に綺麗に笑った。
『ああ・・何時もお前は本当に綺麗に笑うよな・・』
 そうして健はどんな時でも前に歩いて行けるよな。俺が側に居なくても、お前ならきっ
と大丈夫だ。何時だってお前はリーダーなんだから。
「どうした?」
 相変わらず俺よりも冷たい指先が、確かめるように頬に触れて、俺はあいつに笑い返し
た。
「いや・・あっ、健。お前一人でこんなに飲んだな」
「ボーとしているから悪いんだよ。又女の事でも考えていたな」
「・・まあな」
 俺は意味有り気に笑った。当たり。飛び切りの美人だけど我儘で、手に負えないくらい
恐くて、強くて・・大好きな奴の事を考えてたよ。俺は自分のワイングラスを干した。健
に残りを飲み干される前に、自分のグラスに残りを注ぎ込む。
「しみったれた奴だな・・」
 ボヤク健に、俺は笑った。
「俺が持って来たワインだぞ」
「最後の一杯なんだ。飲ませろよ」
「嫌だね」
 子供染みた奪い合い。健が「仕方ない」と溜息を付いた。諦めたのかと思ったら、俺の
グラスからワインをきっちり半分、健は自分のグラスに注ぎ直した。
「是で公平だろう」
 ニヤリと笑う健が可笑しくて、俺は噴出した。笑いの発作は中々収まってくれない。
『お前らしいよ、健。ガキの頃とちっとも変わってないんだからな』
「飲まないのなら、俺が両方飲むぞ」
「飲まねえとは言ってないぞ」
 伸びてくる手を制して、俺はグラスを空にした。
 是だけ飲んだだけで、健の白い頬に赤味が刺している。指を伸ばして其処に触れれば、
健には珍しく熱かった。躊躇うように俺は指先を滑らせて、健の髪に触れた。女にする様
に、髪を梳かしながら俺はゆっくりと顔を近付けた。唇が合わさる瞬間、健が眼を閉じた。

 唇を首筋に押し当てて、奴の表情を見る。眉を寄せて、緩やかに開かれた口元が小さく
溜息を洩らした。女ではない、弱弱しくなんかない。けれど俺に抱かれる時の健は綺麗だ。
 愛撫に感じながら、それでも身を捩る様にして其れに耐えている健の引き締まった身体
が、少しずつ染まっていく様に、俺は何時も見惚れた。熱を帯びた健の身体が薄く紅に染
まった頃、俺は自分の物を押し当てる。何時もの様に健の身体は、躊躇いも無く俺を受け
入れてくれる。指先に絡むココア色の髪を弄びながら、甘く柔らかな唇を貪りながら、俺
は更に健の中に自分の熱を注ぎ込んだ。
 此処まで来てしまったことに後悔は無い。もし、過去が変わっていたら、きっとお前に
会えなかったから。瞳を閉じた健の額に、俺は想いを込めてキスをした。薄目を開けたお
前が回した両腕の温かみを感じながら、俺は眠りに付いた。

 空港まではモーターウェイを走れば、二時間も掛からない。こんな時でも車のエンジン
音は、俺の一番好きな音だ。博士の別荘からの通いなれた道も、是が最後。一瞬浮んだ健
の顔を振り切るように、俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。


THE END



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