Some Day

                       by Kiwi


1

その晩あたしは一匹の野良犬を拾った。野良犬と言うのは正確じゃない。そいつ
はちゃんと二本足で歩くし、服も着ている。(ちょっと薄汚れちゃいるけれど)人間
の言葉だって喋る。じゃあ何処が野良犬なんだと訊かれれば、そいつの持ってい
る何だか誰かに見捨てられたような、誰も信じられないような、それでいて誰かを
信じていたいような・・・そんな感じがまだなりたての野良犬みたいだった。生まれ
つきの野良じゃない。それまではむしろ育ちの良さそうな。着ている物だって、な
かなかに高価そうな代物だった。
いつものような仕事帰り、あたしはその路地を通りかかった。仕事場の酒場からア
パートまでは歩いて10分程。ほろ酔いの火照った体には初秋の夜風が心地よく
て、あたしはとってもご機嫌だった。だから、そいつの存在に暫くは気が付かなか
った。気が付いたのは全くの偶然。あたしの横を高そうな車(高いかどうかは知ら
ないけれど、あたしが足代わりに使っているぼろ車よりは性能も値段も良さそうだ
った)があたしの真横を走り抜けていって、そのヘッドライトがそいつを照らし出し
たからだった。
「危ないじゃないの!」
と、走り抜けた車に無駄と知りながら怒鳴って、あたしはそいつの傍に行こうかど
うしようかと考えた。
『殺しなら、厄介事に巻き込まれるのは嫌だし・・・』
そのままやり過ごそうかなと思っていると、そいつが蹲った姿勢からずるりと身を
横たえた。
「生きてるの?あんた。いくらユートランドでも一晩こんな所で寝たら、風邪引くわ
よ」
そんな忠告をしたくなったのは、そいつの顔が意外に幼かったから。まだ14?
15?どっちにしたって、まだ学校に行って、親に保護されている年だ。それとも家
出人?そう言えば何となく服も薄汚れてる。
「ちょっと、あんた」
呼びかけながら、取った手は燃えるように熱かった。
『ああもう風邪を引いているか』
なんて、馬鹿なことを一瞬考えてしまい、それどころじゃないと思い直す。このまま
放って置いたら本当に次の朝には死体だわ。
仕方なくあたしはそいつに肩を貸して、歩き出した。あたしは、自分が女にしては
大柄なのと、自分のアパートまであと少しなのに、感謝しながらヨロヨロとそいつを
引っ張って歩いた。
幸いな事にあたしの隣の住人は藪医者だ。昔は大きな病院に勤めていたが、酒
で身を持ち崩し、医療ミス、失職というパターンで、今じゃこんな安アパートで時々
やって来る奇特なだか、胡散臭いだか分からない患者の相手をしている。まあそ
れでも医者には違いない。あたしは藪医者の部屋のドアをノックした。
中から鍵が開く音がして、藪医者、ロイが顔を覗かせた。今日はそんなに飲んじゃ
いないようで、足運びにも危なげが無い。あたしは一安心をした。自分の部屋から
医療ミスの死人が出てはたまらない。
「なんじゃ、マリアか?どうしたんじゃ、こんな夜更けに?」
「ロイ、今日はまだあんまり飲んじゃいないんだね」
「ああ。残念な事に、急患が有ったんじゃ。ナイフで刺された。いや、違うなあれは
投げナイフでうけた傷かな?」
「へえ、まあどっちでもいいよ。どうせろくでもない奴らだろう。それよりあたしの部
屋に来てよ。こっちも急患なんだ」
「もうわしは店仕舞いだぞ。絶対に働かんぞ」
と喚くロイを取って置きのスコッチで宥めて、あたしは部屋に帰った。
そいつは頬を熱の所為で赤く染め、あたしが出て行ったときのまま、ベッドに横た
わっていた。
「どっからこんな子供を拾ってきたんじゃ?お前が子持ちとは知らんかったぞ」
「失礼だね。あたしはまだ25だよ。こんなでかいガキいるわけないだろ。くだらない
事言ってないで、早く診てやってよ。苦しそうじゃないか」
「どれどれ。人使いが荒いの」
文句を言いながら、ロイはそいつの診察を始めた。
脈を取り、熱を測り、心音を聞こうと、聴診器を片手に服を脱がしに掛かった。
あたしも手を貸して汗で張り付いたTシャツを剥がすと、意外に鍛えられた上半身
が露わになった。だがあたしとロイの眼を奪ったのは、そいつの健康的な日焼け
にも隠しきれない傷跡だった。左の脇腹にくっきりと、こんな子供にはまるっきり似
合わないかなり大きな傷跡だ。
「やれやれ、厄介事かなあ・・」
胡散臭い患者の世話をして余分に金を貰っているくせに、今更のようにロイが唸っ
た。
「この坊やは結構な勲章を持っているぞ。マリア妙な物を拾ってきたのう。危ない
坊やかもしれんぞ」
「何かの被害者かもしれないじゃないか。この子のせいで出来た傷じゃないかもし
れないよ」
「まあそれは誰にも分からんがね。まあ用心にこしたことはない。なるべく早く出て
行ってもらうんだな。容態自体は大したこたない。ただの風邪じゃ。薬を与えて、
休めばすぐに良くなる」
そう言ってロイは解熱の注射を打ってくれ、3時間おきに飲ますようにと薬を置い
て、しっかり約束のスコッチを抱きしめながら、帰っていった。


2

眼を覚ますと、そこは見慣れない部屋だった。
「あ、眼が覚めた?」
声と共に覗き込む見知らぬ顔。
「ここは?」
と、問いかけかけて、自分の声が酷く掠れている事にジョーは気がついた。
「ここはあたしのアパート。あんたこの先の路地で倒れていたんだよ。高熱でさ。
覚えてない?」
覚えているよな気がした。誰かが朦朧とした自分に話し掛けて、肩を貸してくれた
のを。
「ああ、どうも有難う。お世話になりました。俺、もう帰りますから」
そう言ってベッドから下りて、ジョーは自分が裸で寝ていた事に気が付いた。途端
に顔どころか全身を朱に染めて、シーツを体に巻きつけたジョーを見て、女は笑い
出した。
「ごめん。あんたの服洗濯しちゃたんだ。だって汚れてたし、汗もかいてたしね。脱
がせたのはあたしと、あんたを診察してくれた藪医者。心配しないでも何も悪戯は
していないよ」
「どっちにしてもまだ帰るのは無理だよ。熱も完全には下がってないしね。スープで
も飲んで、ゆっくり休みな」
マリアはジョーをベッドにもう一度寝かしつけ、スープを温めにキッチンへと向かっ
た。
『帰るって、何処に帰るつもりなんだろう』
と、マリアは思う。どう見てもあの様子では二、三日は何処か外で寝ていた風なの
に。
『帰る。か、何処へ帰るつもりなんだろう』
と、ジョーは思う。俺は何処へ帰るのだろう。もうあそこには帰れない。帰りたくは
ない。六年近く暮らしてきた家だけれど・・・でも、生まれた処にも帰れない。俺は
何処に帰ればいいんだろう?
「ほらスープ。インスタントだけどね。腹ペコよりはいいだろう」
熱いよ。と差し出されたスープとスプーンを受け取って、ジョーはスープを口に運ん
だ。
「美味しい?」
訊かれて頷き返した。南部の家で食べていた家政婦の作ったスープに比べれば、
とても美味しいとはいえない代物だったけれども、それでも暖かいスープは美味し
く感じられた。そう言えば、もう丸二日は何も食べていなかったっけ。今更ながら
に彼は空腹を覚えた。次に手渡されたパンを食べているジョーを暫く見つめていた
マリアは、やがて思い切ったように彼に告げた。
「行くとこないんだったら、ここに居ていいよ。あたしは一人暮らしだし。夜には仕事
に行くけどね。真夜中には帰ってくるから」
「でも・・・」
『女の一人暮らしだから拙いんじゃないのかな?恋人が居るかもしれないし』
「心配しなくても、あんたみたいな子供を襲うほど、男に不自由してないわよ」
「そんなつんもりじゃないけど・・・」
「じゃあ、これで決まりね」
と何だか押し切られて、これももしかしたら、この人なりの優しさなのかな。とジョー
は思った。
「あたしはマリア。あんたの名前は?」
「ジョ、・・ジョージ」
もうあそこには帰らないのだから、博士に貰った名前は捨てなくては。自分はジョ
ージに戻るのだ。博士に助けて貰う前の。博士に育てて貰う前の。
考え込んでしまったジョーからスープ皿とスプーンを取り上げて、マリアはジョーに
男物のTシャツを投げてよこした。
「パジャマ代わりにこれでも着といてよ。あんたにもまだ大きいだろう」
恋人のかな?と疑問符をぶら下げているジョーの顔を睨んで、マリアはその疑問
に答えた。
「そうだよ。前の男の置いていったシャツ。どうだって良いだろう、そんな事。どうせ
あたしは男に捨てられたわよ」
「誰もそんな事訊いてないよ」
ジョーは何だかマリアが可愛く思えた。この人は何時もこうやって誰かに優しくし
て、そして裏切られるのか。育ててくれた博士を裏切って、家を出てきてしまった
俺みたいな奴に。
「マリア」
「何よ。どうせいっつも捨てられてるわよ」
「本当にずっと居てもいい?」
真剣な声に驚いて顔を上げる。
「いいよ」
答えてから後悔した。ずっと居るなんて嘘。あんたは帰らなくちゃいけない。何時
か、きっと。でも・・・
「いいよ」
も一度マリアは答えた。

3

シャワーのコックを捻ると、暖かい湯が体に降り注いだ。ジョーはその優しさに暫く
身を委ねて、目を閉じた。そうして、次には体に痛いほど、温度を下げた冷水を浴
びる。それを何度か繰り返して、彼はかなり長い時間を掛けてシャワーを済ませ
た。熱は完全に下がって、体調もすっかり元通りになっていた。
バスタオルで体から水滴を拭い、そっと鏡の前に彼は佇んだ。左脇腹の傷が彼
の目を留めた。古い傷。もう6年近く前の。両親が殺された時に、自分も危うく命を落
としかけた時の。何故あの時自分も死んでしまわなかったのだろう。その方が自
分にとっては幸せだった。もう自分を愛してくれる人は誰も居ない。両親は死んで
しまった。アランはここには居ない。博士は・・・博士が好きなのは健だ。健は・・・
健が誰を好きなのか、ジョーは考えた事はなかった。博士か、彼がきっと何処かで
生きていると信じている自分の父親か。どうだっていい、健を好きな好きな奴は一
杯居る。

「傷物!」
そいつはジョーをそう呼んだ。自分たちより2学年上のテッドというそいつは、大き
な体とその悪評でJrハイの誰もが知っていた。ジョーはその言葉を無視して、テッ
ドの横を通り抜けた。彼の言っている意味は分かっている。自分の脇腹の傷を指
しているのだ。自分のこの傷跡を知っているものは、そう多くない。なるべく人の眼
に触れないように、所属しているバスケのクラブでシャワーを浴びるときも、それと
なく他人と時間が合わないように心がけてきた。傷を知られて、何かを言われても
構わない。その度に傷ついて涙するほど、もう子供じゃない。唯、その度に自分が
他の子とは違うのだ。と、思い知らされるのが嫌だった。
それにしてもテッドは何故知っているのだろう。彼はバスケのクラブに入っている
わけでもない。
「おい、聞こえてるんだろう」
わざわざ追いついてきて、彼はジョーの肩に手を掛けて、自分のほうを向かせた。
キッと睨み付けたジョーの耳に、テッドは声を潜めて告げた。
「犯せろよ」
一瞬何を言われているのか分からなくて、ジョーは眉を顰めた。
「何?」
「犯せろ。って、言ったのさ。どうせお前あの義理の親父とやってるんだろ。そうで
もなきゃお前みたいな傷物引き取ったりしないよな」
ジョーの頬に赤みが掛かり、そして次にはその頬は青白く変わった。
「・・・・博士はそんな人じゃない」
怒りを押し殺したように、彼は言った。
「そんな人じゃない!?どうだかね。お前も健もその目的のために引き取られたん
だろう。ゲイでもなけりゃ、ずっと独身でいるもんか。お前が嫌なら、健でもいい
な。あいつの綺麗な優等生面を滅茶苦茶にしてやるのもいい」
テッドの言葉が終わらない内に、ジョーはその顔面にパンチを繰り出した。まさか
いきなり殴られるとは思っていなかったのだろう、テッドの鼻から鮮血が噴出した。
ナイフを取り出しながら、掌で彼はその血を拭った。
「大人しくしていれば、痛い目には遭わないのにな」
薄笑いを浮かべてナイフを向ける彼は、自分の絶対の勝利を信じていた。余裕さ
え持って、自分に向けられたナイフをジョーはかわして、テッドの右肘の関節を逆
に取った。骨の折れる音と、テッドの悲鳴とを、彼は覚めた眼で聞いていた。
地面に蹲って、痛みに耐えているテッドを見下ろして、ジョーは言った。
「大人しくしていれば、痛い目に遭わなくて済んだのにな」
騒ぎを聞きつけて集まった、生徒と教師の中に健の姿も見えた。驚いたように目を
見張る健の顔を見た時、ジョーは馬鹿な事した自分に後悔した。

「君は何をしでかしたか、分かっているのかね」
呼び出された学校から帰ると、南部はジョーを自分の書斎に呼んだ。
「喧嘩をして、他人に怪我を負わせるとは、どういうことかね。そんな事をさせる為
に、君と健に訓練をさせているわけではない。一体喧嘩の原因はなんなのかね」
苛々しながら、彼は部屋の中を歩き回った。
「・・・なんでも有りません」
「何もなくて、君は他人の腕をへし折るのかね」
「・・・ちょっと、からかわれただけです」
「からかわれただけ?ジョー、君はそんなことで、自制心を失うのかね?そんなこ
とでは君はいくら訓練を積んだところで、ギャラクターと闘うのは無理だ。何時如何
なるときでも、冷静に状態を見極める判断力がなければ、彼らを倒す事は出来な
い。少しは健を見習いなさい」
「健を見習いなさい」何時も言われる言葉、博士が好きなのは俺じゃない。博士が
必要なのは俺じゃない。なら、あいつの言いなりになっていたら良かったのか?な
んで俺はむきになったんだろう。
「ジョー?」
「・・・分かりました。すみません」
小さく俯きながら答えると、ジョーは南部の書斎を後にした。そしてそのまま、屋敷
を出た。

ジョーはじっと鏡に映る自分の姿を見つめた。
「どうして俺は、博士の願うとおりになれないのだろう。俺にはパーパとマーマの仇
は取れないんだろうか」
「健を見習いなさい」
頭の中に響く南部の声を払うように、彼は拳を鏡に打ちつけた。ガラスが砕ける音
と共に血が彼の右手から流れるのを、ジョーは泣きながら見つめた。
「どうしたの?何の音?」
物音を聞きつけたマリアが、浴室のドアから顔を覗かせた。
「あんたその手!」
まだ血が流れているジョーの右手を取って、マリアが呆れた声を出した。
「あんた頭でもおかしいの?それとも自虐趣味でも有るのかい?」
手近に有ったタオルで応急処置を施される間、ジョーは涙を流し続けた。
「痛むの?」
問い掛けるマリアに首を振る。痛むのは、自分の心だ。ジョーは彼なりに南部の事
が好きだった。南部の求めるものが彼のそれと違っていても、彼は努力したいと思
っていた。だが、結果は何時も博士の諦めたような表情と、口調。その度にジョー
は思い知らされるような気がする。自分は健より劣るのだ。博士の一番は健なの
だと。そして、健に嫉妬する自分を嫌悪した。
「俺は醜い」
マリアの肩口に顔を埋めて、ジョーは泣き続けた。
「・・・・馬鹿だね」
小さく呟いたマリアの唇がジョーの顔に触れ、彼女は口付けた。
その晩、マリアは仕事を休んだ。


4

「まだ見つからないのかね。今日でもう一週間だ」
秘書に怒鳴る南部の顔は焦燥の色が濃い。ジョーが屋敷を出てから、南部は自
分のボディガード達にジョーの捜索を命じていたが、彼らは一週間が過ぎてもジョ
ーを見つけられずにいた。何かその身に有ったのでは?と思うと、満足に眠れな
い日が続いている。それは健も同じようで、自分も探しに行くと言い張るのを、昨
晩もやっとの事で引き止めたのだ。
「博士、もうジョーは帰ってこないつもりなんでしょうか?」
ジョーの居ない部屋で、健は南部に尋ねた。
「帰ってくるよ。ジョーの家族は私たちだけだ」
答えを南部は白々しいと思った。その家族を、子供を自分は傷つけたのだ。一時
の感情に任せて、常に冷静で在らねばならないのは自分のほうだ。後悔の混じっ
た溜息が彼の口から漏れ、部屋の闇に溶けていった。

「じゃあ、あたしは仕事に行って来るからね。大人しく留守番しているんだよ」
マリアは出かける前に何時も同じ事を言う。
「毎晩同じ事を言わなくっても分かってるよ」
「この間みたいに勝手に仕事場に来ちゃ駄目だよ」
言われてジョーは首を竦めた。一度マリアの後を尾けて、酒場に行ったことが有
る。マリアは酒場の歌手だ。ハスキーな声でジャズを唄う。彼女の歌が上手いかど
うか、ジョーには分からない。でもジョーは好きだった。
「マリアの歌が聞きたかったんだよ」
「どうだかね」
とマリアが疑うのは、隅で隠れて聞いていたジョーが他の女たちに見つけられて、
歓迎されたのを知っているからだ。
「何処で見つけたの?可愛い子じゃない」
「お姉さんといい事しよう。マリアより上手いわよ」
困ったような顔のジョーを、彼女たちから引き離して、マリアは言った。
「駄目だよ。この子はそんなんじゃないんだから」
「ジョージ、あんたは早く帰りな」
叱られてジョーは仕方なく出口に向かった。もっと彼女の歌を聴いて居たかったけ
れど。だから、マリアが浮かべた表情を彼は知らなかった。
『もうじき居なくなっちゃう、きっと。ジョージは、あの子を必要とする所に帰らなくっ
ちゃ。それはきっとそんなに先じゃない』
「あーあ、帰しちゃった。惜しいなあ、きっと後三、四年もしたら誰もが振り返って、
欲しがる様ないい男になるわよ、あの子」
誰かの呟きを振り払って、マリアは立ち上がった。
「そんな事より、商売だろ」
酒場で飲んでいる男たちの相手をしに、女たちは歩き出した。
『三年経たなくても、いい男だよ。・・・・まだ子供だけどね・・・』
マリアはマイクを手にした、悲しいラブソングを唄う為に。

マリアが居ない部屋は静かだ。薄いアパートの壁を通して、色々な物音が聞こえ
てくる。隣のロイの所には、久しぶりの患者がやって来たようだ。話し声が聞くとは
なしに、耳に入る。ふと、ジョーは読んでいた雑誌から目を上げた。壁の向こうから
聞こえてくる声に、聞き覚えが有るような気がしたからだ。
「何処で聞いた声だっただろう?」
もっと聞こうとしている内に、隣の部屋のドアが開く音がしたかと思うと、話し声は
窓の外に移った。
「ガキだと思って、油断するからいけねえんだぜ」
年嵩の男の声が非難して言うのに、若い男が苦虫を潰した様に答えた。
「分かってますよ。そう何度もせめないで下さいよ。今度はこんなヘマはしません
よ。あのガキ今度遭ったら息の根を止めてやる」
「残念だが今度は無い。上から、もうガキを人質に南部を誘き出すのは止めだと
よ。
「じゃあ南部とかいう科学者のことは、諦めたんですかい」
「回りくどい事は止めて、直接南部を狙うそうだ。最近南部の周りは警戒が手薄な
ようでな」
「そりゃまた何で?何処に行くのもバッチリ、ボディガードが張り付いてたんでしょ
う?」
「さあな。そんな事は俺たちには関係ない。兎に角南部さえ仕留めれば、俺たちは
あの組織で幹部になれるってことさ」
あいつら・・・・目的は俺じゃなくて、博士だったのか。
男たちの会話を窓から、身を潜めて聞いていたジョーは思わず歯噛みをした。だか
ら、俺をあくまで生け捕りにしようとしていたんだ。

屋敷を出てすぐに近付いてきた男達。無理に優しい言葉を使っても、底に潜んで
いる悪意を何とは無く感じ取って、ジョーはその男達を無視した。途端に悪役の顔
を露わにして、車に連れ込もうとするのを、蹴り倒してジョーは駆け出した。それか
ら暫く、マリアに助けられるまで、彼らは何度かジョーを捕まえに掛かった。何故彼
らが自分にこうまで執着するのかジョーには分からなかった。てっきりキッズポル
ノかなにかの手合いだと、思っていたのだ。ユートランドには行き場所の無い子供
や、誘拐した子供をそういう目的で売る組織が有るのを彼は知っていた。だからナ
イフをその胸板に目掛けて投げることには、何の躊躇いも無かった。止めをさせな
かったのは、熱の所為だった。仲間を傷つけられても、拳銃を撃ってこない事が、
ジョーには不思議だった。懐には拳銃が入っている事を示す膨らみが有るにも拘
らず、奴らは撃ってこなかった。そして誰かが来る気配に慌てて車に飛び乗って、
奴らは逃げ出したのだった。

窓からジョーは音も立てずに、彼らの前に降り立った。眼前に出現したのが、自分
たちが探していた子供だということに彼らは驚き、そして懐の拳銃に手を掛けた。
もう生け捕りにする必要も無い。と、引き金を引こうとするが、懐に飛び込んだジョ
ーが、銃身を素早く握り締めた。ぎょっとする、男の首筋に容赦ない手刀を当てる
と、若い男はグッタリと倒れた。
「博士をどうするつもりだ?」
意外なほど静かな声が、彼の口から漏れた。倒した男の手から奪った拳銃を年嵩
の男に向けて、ジョーは相手の目をじっと見つめた。
「妙な坊主だな。お前、変に戦い方を知っている。油断のならねえガキだ。俺の舎
弟をどうしてくれたんだ。まさか殺ちまったんじゃないだろうな」
「博士をどうするつもりだ」
今度は尋ねているのでは無い。返答しだいでは、いつでも引き金を引く。目の前
の男を殺す事にジョーは何の恐怖心も、罪悪感も無かった。
「さて、どうするかね」
男のふざけた様な口調に、ジョーは奇妙な不安を覚えた。自分の中の何かが気を
つけろと、警告を発している。背後から銃声が響くのと、脇に飛び抜けるのと、僅
かにジョーの方が速かった。銃弾は彼の左肩を捉え、その反動でジョーは路地の
汚れた壁に背中からぶち当たった。焼け付いた痛みが広がる中で、まだ仲間がい
た事を考えなかった自分の迂闊さを呪った。だからやけに落ち着いていたのか・・
と妙に冴えきった意識で考えた。
仲間の援護にすっかり形勢を逆転させた男は、肩口を抑えているジョーの元に歩
み寄った。
「痛いか?坊主」
投げ出したままのジョーの足を、靴先で蹴りながら、彼はジョーを見下ろした。
「・・・」
ジョーは何も答えずに、男を睨み付けた。
「博士をどうするつもりだ?」
「肝の据わったガキだな。あんなお偉い博士のところより、俺の所のほうがお前に
は向いてるぜ。どうだ、俺の子分にならねえか?」
顎に手を掛けて上を向かせながら尋ねる男に、ジョーは薄く笑った。
「・・・・俺は子分より親分になるほうが、好きだ」
答えながら、顎に掛かった指を捻り上げると同時に、足で男の足元を掬った。
倒れる男の脇を抜けて、ジョーは走り出した。背後で男たちが引き金を引く気配が
する。
もう逃げられないか?
「伏せろ!」
声を聞いた途端に、ジョーは前方に身を投げ出して地面に伏せた。その拍子に左
肩を嫌というほどぶつけてしまい、痛みに一瞬息が止まった。44マグナムの銃声
が立て続けに響いて、その後には誰も立っていなかった。
「大丈夫ですか?」
硝煙の昇るマグナムを懐にしまいながら、男が近寄ってきた。
「島田?何故こんなところに居るんだ」
痛みに顔を顰めながら、ジョーはその身を起こした。島田は彼が起きるのに手を貸
しながら、肩を竦めた。
「あんたが一週間も行方が知れないから、博士が俺にあんたを連れ戻すようにと、
命令したんですよ」
「だからって、お前は博士のボディガードだろう。お前を離すなんて博士はどうかし
てる」
島田はまだ30を過ぎたばかりだが、南部のボディガードをもう8年以上勤めてい
る。元はSPだったのを、南部が破格の給料で引き抜き私設のボディガードとして、
雇ったのだ。数居るガードの中でも、その実力で南部が一番信頼しているのが彼
だった。
「他の連中じゃあんたを見つけられないんだから、仕方ないでしょう。文句を言うん
だったら、さっさと帰ってくるんですね」
島田は笑いを漏らしながら、ジョーの傷口を診た。
「弾は貫通してますが、痛むでしょう。かなり出血してますよ」
手早く止血して、彼はジョーを掬い上げた。
「その先に車を停めてますから、病院に向かいましょう」
返事を待たずに彼はジョーを車の助手席に乗せると、車を発進させた。
車の振動が冴えていた意識を、眠りに誘うとする。それをジョーは頭を振って、払
いのけた。途端に左肩が痛んで、小さくうめくのを横目で見た島田は、呆れたよう
に言った。
「病院に着くまで、寝てなさい。意識を手放すのも、痛みから逃れる手段ですよ」
その言葉に首を振って、ジョーは窓から外の景色を見ていた。
「島田、其の筋で停めろ」
不意に言われた言葉の意味が分からなくて、彼は聞き返した。
「何ですって?」
「そこの筋で車を停めろ。俺は行くところがある」
「あんた、一体何を考えてるんです?行く所って、そんな体で行かなきゃならない
所なんですか?」
「いいから、停めろ」
不承不承彼は車を停めた。彼にとって絶対の服従は南部だが、健とジョーも最優
先事項の一つである。ジョーは車から危なげな足取りで出ると、自分も付いて来よ
うとする島田を制した。
「お前はそこにいろ」
「そんなわけにはいきませんよ。あんたまさか俺から逃げるつもりじゃないでしょう
ね」
「逃げたりしないから、安心しろ。それよりお前の上着を貸してくれ」
訳の分からない申し出に怪訝な顔をして、それでも島田は自分の上着を脱いでジ
ョーに手渡した。島田はボディガードとしてはどちらかと言えば小柄なほうだが、そ
れでもその上着はジョーにはかなり大きかった。痛みを堪えながら、無理に両袖を
通すと、ジョーはゆっくりと歩き出して、一軒の酒場に入っていった。そのままにし
ておくわけにもいかぬ島田は、遅れて店へと歩き出した。
マリアはカウンターに腰掛けて、バーボンのグラスを弄んでいた。もう自分の出番
は御終い。これを飲んだら、ジョージの待っている部屋に帰ろう。最後の一口を流
し込むために、グラスを上げた。
「マリア」
ジョーの声にマリアが振り返る。
「ジョージ、あんた又こんなとこに来たの?」
「・・・・マリア、俺もう帰らなくちゃいけない。ごめん、ずっと居られなくて」
「・・い、いいよ。そんなの最初から、あたしには分かってた。あんたは何時か居な
くなるって。あたしはあんたみたいな子供を、本気で相手になんかしてないよ」
強がっているマリアの言葉はすぐに分かる。少し、いつもの声よりも高いから。で
も、それには気づかない振りで、ジョーは笑いかけた。
「そうだね、マリアはもてるから」
少し歪めたマリアの唇に、ジョーは自分の唇を合わせた。深く口付けながら、マリ
アはジョーの体から血の臭いを感じ取った。唇を外そうとするマリアの腰を、自由に
なる右手で抱き寄せて、ジョーは暫くそのままでいた。そうして二人の体は自然と
離れた。
「・・じゃあね。ジョージ、あんたまだ子供だけど、いい線行ってたよ」
「又何時かこの店に来てもいい?」
「ああ、あんたがここに相応しい年になったらね」

一足先に島田は車に戻り、ジョーを待っていた。
「家出先が女の所とは、十年早いんじゃないんですか?」
「盗み見してた奴には言われたくないね」
上着を苦労して脱いで、ジョーは島田に返した。
「あーあ血が付いてるじゃないですか。一張羅なのに」
「お前のは趣味が一定で、その手の上着しか持ってないだけだろ」
漸く助手席に収まって、息をつくとジョーは目を閉じた。
「・・・島田、病院に着いたら起こせよ」
「分かりました」
熱を帯びて疼き出した左肩を上にして、ジョーは眠りに落ちた。
「中々子供も侮れねえもんだな」
呟いて島田は、車を疾走せた。

5

薄暗い病室の中でジョーは目を覚ました。
「島田の奴、起こさなかったな」
身を起こしかけて、自分の右腕に点滴の針が刺さっている事に気が付いた。顔を
巡らせると、傍らの椅子に腰掛けている南部に目が留まった。彼は狭い椅子に腰
掛けた不自由な態勢で眠り込んでいる。眼を閉じている彼の顔が、酷く疲れて見
えた。
「博士」
ジョーの声にも気づかずに南部は眠り続けている。
「気が付きましたか?」
島田の声がして、音も無く彼がベッドに近付いた。
「気分はどうです?」
「肩が痺れて、左手が動かない」
「撃たれたんだから、当たり前でしょうが。まだあんたには実践は早いって事です
よ」
自分の未熟さを指摘されて、ジョーの青白かった頬に赤みが差した。
「病院に着いたら起こせって言っただろう」
「どうせ直ぐに麻酔を打たれて、寝てますよ」
額に掛かったジョーの髪を後ろに梳いて、島田は笑った。
「もう寝なさい。暫く左手は使えませんよ」
「島田。俺は大丈夫だから、博士を連れて帰ってくれ。大分疲れてるみたいだし」
「なんて言っても聞いてもらえませんよ。健だけ帰すのも一苦労だったんですから
ね。あんたが目を覚ます時に、傍にいるんだって聞かないんだから」
だから今目を覚ましたのは、内緒ですよ。とウインクをして島田は病室を出て行っ
た。
静かになった病室で、ジョーは南部の寝顔を見ながら、そう言えば博士の寝顔を
見るのなんか初めてだな。ふとそんな事を思いながら、眠りに就いた。


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