Speed

by Kiwi


「立花が来ていたのを知ってますか?」
島田の質問にジョーは、少し目を眇めて彼を見返した。
「それが?」と尋ねる様に顎を杓って続きを促す。相変わらず偉そうな態度だと思うが、
それが余りに堂に入っていて腹も立たない。
「昨晩は泊まったようでしたが・・」
続けた言葉に「ふーん」と、ジョーは気の無いような返事を返す。
「立花は健のGプロジェクトでの主治医だし、健が不調で別荘に帰っていれば、診察に来
ても可笑しくはないだろう」
「・・そうですね」
「健の部屋から出てきた処に、鉢合わせでもしたか?」
「何故そう思うんです?」
「お前と立花じゃ水と油だろ。奴が泊まりに来たからって、嬉しがって報告するお前じゃ
ない」
実は密かに立花と島田の年甲斐の無い皮肉舌戦を、子供の頃から健と手に汗を握って観戦
していたジョーなのだが、此処では敢てそれに触れるような馬鹿な真似はしない。
ジョーの手にしたフライパンの中で綺麗に焼きあがったオムレツが、彼の手首の動きで少
し宙に漂って、皿の中に着地した。マーサが留守の別荘は、結構気楽だ。食べたい時に用
意をして食事を取る。寝て居たければ、若い健やジョーは体調でも悪く無ければそんな風
にして一日を過ごすことは無いのだが、何時まででも寝ていられる。
「巧いもんですね」と、料理などは全然する気も無ければ、出来もしない島田がコメント
する。
「マーサの仕込みが良いのさ」
次に香気を放っているコーヒーをカップに注いで、島田の前に置く。
「・・それで俺の顔を見て嫌な顔をしたんだ、立花」
「会ったんですか?」
「さっきダイニングに来たのに、俺の顔を見るなり出て行ったからな。何時もは朝飯を喰
わないのに、何しに来たんだろうと思っていたんだ」
「今朝は腹が減っているらしいですよ」
「ほう・・」
底にグレイを滲ませた水色の瞳で、ジョーが面白そうに笑った。
「腹が減ってるわけだ・・。お前と同じに」
「ええ・・俺と同じに」
形良く焼き上がったオムレツにナイフを入れると、半熟の中身が流れ出す。それを器用に
島田はフォークで掬って口に運ぶ。狐色に焼けた厚切りのトーストにバターを塗ると、ジョ
ーは島田に手渡した。
「面白い」
一言そう言うと彼は手馴れた手付きで、冷蔵庫から新たに出した卵をボールに割り入れる
と泡立てだした。
「・・メシ未だ喰ってなかったんですか?」
「いや・・健と立花の分だ」
怪訝そうに見返す島田にジョーは笑い返した。
「メシ作って置いてやろう。腹が減ってるだろう、二人とも。それに健はどっちにしても
シリアルしか作れないしな」
「あんたは健に甘いですから・・」
島田の意見をジョーは一笑に付す。
「甘いのは俺じゃなくて、マーサ。もっともあんだけ指を切られちゃ、止めないわけには
いかないけどな」
言い返しながらも新しいオムレツを作ると、皿に盛り付ける。
「何が面白いんですか?」
先程聞き止めてから気になっていた事を口に出してみる。
「お前と鉢合わせした時の立花の顔を想像しただけだ。出来るなら俺も見てみたいが、其
処まで悪趣味じゃないからな。此処はさっさと退散するか」
マーサが何時も洗濯をして、アイロンも忘れないランチョンマットに、湯気を立てている
皿、ナイフ、フォークをセッティングすると、ジョーは島田の手を引っぱってキッチンを
後にした。

「お前今日は仕事か?」
前庭に止めてあった島田の車まで来て、ジョーは立ち止まった。
「いえ、今日はオフですが。あんたこそ、訓練はどうしました?」
健が体調不全で帰って来ているのは聞いたが、ジョーについては何も聞いていない。健が
突然帰って来た翌日、当然の様にジョーも帰宅した。その夜マンションの空調が故障した
島田が屋敷に遣って来たのは、全くの偶然だった。が、そんな状況を、しかもマーサが不
在と言う好条件を台無しにするような酔狂さは島田には無かった。だから顔を合わせた立
花を揶揄った島田も、実は人のことは言えない立場だった。
「体調が悪いなら、そう言えば良いんだ」
質問の答えとは違うことを返されて、それが健の事を言っているのだと分かるまでに一拍
有った。
「あいつ俺が居ないのを見計らって、訓練所を抜け出したんだぜ」
吐き出すように言うと、唇を尖らせる。
「で?あんたは何処へ行ってたんです?」
「・・ドライブしようぜ。あいつらが飯を食い終わるまで」
都合の悪い質問には答えずに、車のドアに凭れ掛かったまま彼は言った。
「車のキイを持ってきていませんが」
異を唱える島田の前に、島田のキイを摘んで見せた。
「・・相変わらず手癖が悪いですね」
「褒め言葉として、受け取っておくよ」
さっさとキイを開けて、助手席に乗り込むと彼はキイを島田に放った。
「仕方が無い付き合いますか」
元々オフに何も予定は無い。久し振りに会ったジョーと車を走らせるのも善いだろう。エ
ンジンを掛けると、島田はバックミラー越しに屋敷を見た。健の部屋の窓に背の高い影が
見えた。此方を窺っているであろう立花の姿に、島田は薄い笑いを浮かべた。

「出掛けたか・・」
島田一人だけでも性質が悪いのに、まさかジョーまで訓練所を抜け出して帰ってきている
とは思わなかった。ダイニングでジョーのグレイがかった水色の瞳に見据えられて、彼は
思わず目を反らした。ジョーと島田の事は知っているのに、何処か後ろめたい気がするの
は何故だろう?それは健が望んでいるのが、自分ではないという罪の意識からだろうか。
ジョーと島田の切っ掛けは何だったのだろう。島田に無理やり抱かれるジョーとも思えな
いし、二人の間に流れる気はそうしたものでは無い。あの無骨な島田が憎まれ口を叩きな
がらも、実に良くジョーの面倒を見てやっているのを、立花は知っている。其処には確か
に、健に対するものとは異なる島田が居る。
『恋敵が現れたらどうするだろう』
未だ眠りから覚めない健の長い髪を、額から払ってやる。ジョーとはかけ離れた何処か少
女を連想させる優しげな顔を、立花は見詰めた。
「まあ・・あんな見るからに物騒な相手に手を出すなんて物好きは、あの筋肉馬鹿位の物
だろう。どうせなら見ていて美しい方が好いに決まっている。きっとあの人だってそうだ」
呟いて立花は左手の腕時計に眼を留めた。もう既に朝食を取る時間は過ぎ去っている。
「つくづくマーサが留守で良かったな」
健とジョーの母親代わりの彼女は好きだが、苦手だ。健の部屋から朝帰りをして処に出く
わしたのが、島田でなくて彼女だったら今頃屋敷から叩き出されている処だ。
さて健を起こそうか・・と思っていると、長い睫が震えて大きな青い瞳が此方を向いた。
「眼が覚めたかい」
「ドク・・ずっと此処に居たんですか?」
非難めいた健の言葉に、立花は頭を振った。
「残念ながら、さっき戻ってきたところだよ。朝食を作りに行ったら、島田とジョーに会っ
てね」
「島田さんが?どうしたんだろう?昨日博士は此処に帰って来ないはずだったのに」
「オンボロマンションの空調が壊れたそうだ・・」
答えながら立花は「あれ?」と言う様な顔をした。
「健。ジョーが此処に居るのは驚かないのか?」
「・・俺が訓練所から屋敷に帰った、って聞いたら、ジョーは絶対帰って来るに決まって
いるもの」
気怠るそうに身を起こして、健はパジャマ代わりに身に着けていたTシャツを剥ぎ取った。
シャワールームに消える健の白い身体の其処此処に散る、赤い花びらは自分が昨夜付けた
物だ。背後から彼は健を抱き止めて、その一つに柔らかな唇を押し当てた。其の儘舌先を
這わせると、健の身体が一瞬緩んで、次には胸元に滑らせていた腕を捻られた。効果的に
関節を押さえた健が艶やかに笑い返した。
「ドク・・俺は腹が減っているんです。シャワーを浴びて食事にしましょう。ジョーが用
意していると思うから」
立花が頷くのを確認して健は手を緩めた。二コリと微笑む口元が、反論を許さない様に言
葉を続ける。
「トースト焼いて置いてください。5分で下りて行きますから。焦がさないで下さいね」
押さえ込まれた関節が少し痺れている。自分とて武術の心得が有る。そんな自分が、未だ
身体が出来上がっていない、何処かか細い感の有る健やジョーに引けをとるとは、立花は
思っていなかった。
「物騒なのは、どちらも一緒というわけだ」
なら、尚の事見目が好いほうが、好いに決まっている。立花は健の要求通りダイニングに
下りて行った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「未だ訓練所から帰って来た理由を聞いていませんけど」
車が屋敷の敷地を出ると、島田が横目でジョーを窺いながら尋ねた。それにジョーは舌打
ちを返す。
「チェッ、どうでも良いだろう。そんなの・・」
「そうは行きませんよ。序に言うと、健が屋敷に帰って来た時に、あんたが何処に居たの
かも聞いていませんが」
「・・行ってたのは、この間の休みに知り合った女の所。訓練を抜けてきたのは体調不良。
これで良いか?」
「健は兎も角、あんたは十分健康に見えますが」
「ちゃんとDrセームの診察を受けて、診断書を書いてもらったぜ」
「Drセームにですか?」
それが疑わしいのだ・・とばかりに島田は、ジョーの方を見る。セームはGプロジェクト
における、ジョーの主治医だ。島田の脳裏に浮かぶセームは、立花同様の優男で、到底馬
が合いそうにはない。尤も自分が二人と馬があわないのと同じ様に、向うも此方を良くは
思っていないのは十分察知しているのだが。
片手でハンドルを握りながら、上着のポケットを探ろうとすると、上からジョーの手が懐
に差し入れられて、島田が愛煙しているボックスをその手が取り出した。島田の口に咥え
させると、次に取り出したライターで火を点けてやる。
「どれ位一日に吸う?」
「・・一箱くらいですかね」
「ふーん」
再び横から長い指が伸びてきて、先程咥えさせた煙草を取り上げる。それをジョーは自分
の口元に持って行くと、一度だけ吸い込んでから紫煙を吐き出すと、島田に返した。
「キツイなお前の煙草は・・」
未だ手の中で弄んでいたボックスの銘柄を確かめるように、目の前に持って行く。
「おや?」という様に、島田の視線が細められた。ジョーは煙草を吸っただろうか?
「キツクない煙草を何処かで吸いましたか?」
島田の質問にジョーは答えない。大きく開け放した窓に片手を乗せて、外を眺めている。
窓から吹き込んでくる風が、柔らかな彼の髪で彼の表情を半ば隠しているが、口元に浮か
んだ笑みは秘密めいている。そう言えばセームの吸っていた煙草が、セーラムだったこと
を思い出した。
「あんたまさかセームと・・」
「寝たんじゃ・・」と言いかけた言葉を、島田は噛み殺した。まるで浮気を咎める情人の
ような態度をつい取り掛けていた自分に、嫌気が刺した。
「・・寝たら、お前はどうする?」
真っ直ぐに此方に訊いてくるグレイ掛かった青に、一瞬言葉に窮して、そして島田は答え
た。
「それはあんたの自由ですよ」
静かに答えた島田の言葉にジョーは何も返さなかった。その代わりにボックスから新しい
煙草を取り出すと、咥えて火を点けた。未だ吸いなれないキツイ煙草の煙に、噎せたよう
に咳き込むと少しだけ涙が瞳に滲んだ。

「どうしてこんなに早く帰って来たんだい?診断書はちゃんと3日間の休養を要すると書
いておいたのに・・」
尋ねるDrセームに、ジョーは一度だけ鋭い視線を向けると、黙ったままセームの部屋に入
り込んだ。Gプロジェクトの担当者であるセームは、立花や他のDrと共に訓練所に寝泊り
することを余儀なくされている。
「もっとゆっくりして来る心算だったんだろう?健には会えたのかい?」
セームの言葉にハッとしたように顔を上げて、ジョーは自分が最初の目的である健に会う
ことなく帰って来たことに気が付いた。何故だか分からないが、妙に島田の言葉が腹立た
しくて、其の儘島田に送らせて訓練所に帰って来てしまった。
『端から分かってたけどさ。島田の答えは』
「何か有ったのかい?健には会えなかったみたいだから、喧嘩ということも無さそうだし
なあ・・島田と喧嘩した?」
「知るかよ、あんな奴」
吐き出された言葉にセームは笑い出した。
「なーんだ、犬も喰わない痴話喧嘩かい?」
「あいつとはそんなんじゃねえよ。唯SEXするだけだ」
「じゃあ、俺なら?」
少年と呼ぶには丸みを損なっている顎を掴んで、自分の方を向かせた。セームは、何処か
危険な光を宿してジョーを覗き込む。それは健を見詰めた前夜の立花同じで、主治医の瞳
では無い。
「キス一つで、三日間の診断書。何をしたら、抱かせてくれる?」
「セーム、あんた島田をノセるか?」
「無理なこと言うなよ、あんな筋肉ゴリラ。少しくらい武道が出来ても、歯が立たないだ
ろう」
「じゃあ駄目だ。俺は自分より強い奴にしか、興味は無い」
「それじゃあ、全く望みなしか」
「怪我をしたければ、力ずくで来ても良いぜ」
少し唇を歪めて笑ったジョーの言葉を本気にしなかったのか、唇を焼けた首筋に押し当て
ると、セームは強く刻印を付けた。薄青い瞳を前髪で隠して、口元が笑った。抵抗が無い
のを了解と取った様に、セームはジーンズからはみ出しているTシャツの裾から差し入れ
た手を胸にまで、這わせようとした。が、一瞬の内にその手を捻られて、同時に喉の急所
を親指一本で押さえ込まれた。
「だから言ってるだろう。怪我をしたければって・・」
口元が笑っていても、両手は確実に急所を押さえていて、特に力を入れている風にも見え
ない右の親指は、少しでも動けば呼吸を止めるのは容易いことの様に思える。
「素手で人が殺せるように訓練してるんだぜ、俺達は。」
怖いだろう・・という様に、笑いを深くして、ジョーは手を緩めた。唖然としているセー
ムに、「悪かったな」と言う。
セームも立花同様、空手の経験が有る。段位は立花の方が上だが、セームも黒帯を所持し
ている。その自分が簡単に押さえ込まれるのが、信じられなかった。
「自分の部屋に帰るのは嫌なんだ。泊めてくれ」
押さえ付けられた喉元が痛い。セームは喉を摩りながら、頷いた。
「ベッドは使わないから、Drが寝てくれたら良いぜ。言っとくけど、今度したら、喉を潰
すからな。そんな事をしないでくれよ。俺、あんたの声好きなんだから」
Tシャツを脱ぎ捨てて、コーチに寝転がるジョーに、セームは苦笑しながらブランケット
を投げてやった。


「何だ、お前までもう帰って来たのか?皆揃って早いお帰りだな」
ロッカーから洗濯済みの白衣を取り出して袖を通していると、聞き慣れた声が掛けられた。
それに振り向きもしないで立花は、鍵など必要な物は何も入れられていないロッカーの扉
を乱暴に閉めた。強い光を放った瞳で見返して、「ふん」と言う様に鼻を鳴らす。
『こいつもどうやら嫌味が言いたいらしい』
「健が訓練所に帰って来たら、俺も帰って来るのは当たり前だろう」
至極当たり前のことを返しながら腹立たしいのは、さっき会った島田にも同じ事を言われ
た所為だ。もっとも島田の問いはもう少し棘が有ったが・・。
結局島田と出て行ったジョーはあの日其の儘訓練所に戻ってしまい、それを聞いた健のご
機嫌は頗る悪くて、彼自身も今朝には戻って来てしまった。体調が悪くても、つい強情を
張って無理をするタイプだから、もう少し完全に体調を戻して遣りたかったのだが・・。
「セーム、お前本当にジョーに手を出しているのか?」
ストレートに尋ねてくる立花に「これだから外科系は・・」と渋い顔をして、セームは大
袈裟に額に手を当てて溜息を付いた。
「内科系のような繊細な神経はないのか?直ぐに白黒はっきり。切って御仕舞い?」
「何処が繊細な神経なんだか・・」と端整な顔を歪めて、立花は続ける。
「断っておくが、外科医の手先やオペに関わる繊細さは内科には無いぞ」
「どう表現しようと同じだろう。お前とジョーの関係なんか俺は関心無いが、よくまああ
んな目つきの悪い、しかもオッカナイ番犬が居る奴に手を出す気になったもんだな」
「・・実際のところ未だ手は出して無いんだがな・・。誰から聞いた?そんな話」
「番犬から」と答えて、「何だ未だなのか?」と逆に訊く。
「確かにキスはしたんだ、診断書の交換条件で」
「ああ・・それで帰って来たんだな。しかし交換条件がキス?お前元からその気だったの
か?」
「よせよ、ゲイって訳じゃない」
お前もそうだろう?と眼で探るようなセームは、きっと自分が健を診察という名目で追っ
て行った訳を知っているのだろう。が、其処が分からないと、立花は首を傾げた。ゲイな
らば兎も角と、言えるかどうかは知らないが、どうして又、誰もが認める美少年の健でな
く可愛げの欠片も無いジョーを抱きたい等と思えるのだ。
「いや、最初は本当に冗談の心算だったんだ。どうしても診断書を書いて欲しいというか
らさ、じゃあキスしてくれたらって、言ったんだ」
「まさか本当にしてくれるとは思わなかったんだが、ちょっとあのオッカナイ番犬がどう
して抱きたいと思うのかと興味が湧いて・・」
「・・それで?」
「巧かった」
ストレートに答えられて、今度は立花が溜息を付いた。
「だから、何処が繊細なのかな?」
「オッカナイ番犬の事は置いておいて、手を出したいのは山々だが・・。俺じゃあ太刀打
ち出来ないな。相当場数を踏んでるよ、あいつ等は」
あいつ等は・・と健とジョーを纏められて、先日までの立花なら否定したかも知れない。
が、昨日の健を見た後では頷かないではいられなかった。大人の狡さと強さを利用して手
に入れたはずの相手が、子供特有の無邪気さを逆手に取る強かさを、自分の押さえ込まれ
た関節は知っている。何だか痺れが甦ったような気がして、立花は我知らずと右の肘を掴
んだ。
「お前はどうなんだ?」
「・・俺が?」
「どうして健にご執心なのかな・・と思ってね。昔から知っている、敬愛する博士のお気
に入りじゃなかったか、健は」
僅かに顔が強張るのをセームは気が付いただろうか?自分に眼を掛けてくれた恩師を、自
分が裏切っているのを後ろめたく思うのは、島田の様にジョーとの関係を鼻で笑いながら、
実は何処か真摯な想いが込められている間柄では無いからだろうか?ロッカールームの壁
に張付けられている鏡の中の自分が此方を向いている。その姿は罪人の様な暗い目をして
いた。
「健の事が気に入ったからだ。それ以外の何でもない」
「それよりも」と、言葉を続ける。罪人の瞳を、今度は皮肉な何時もの色に戻して、立花
はセームの背筋を寒くさせる言葉を告げた。
「番犬が偉くお前のことを気にしていたぞ。相手はお前が情人を寝取ったと思っているら
しい。素行には十分に気を付けるんだな」
「・・まさかいきなりマグナムを突き付けるなんてしないよな。証拠も無いのに・・」
知らずと顔から血の気が失せる。
「筋肉ゴリラの考えることなんか、俺が想像出来るものか。嫉妬なんて可愛い感情が有っ
たのかと、驚いたくらいだ」
『意外に人間味が有ったものだ』
屋敷での一件の後直ぐに戻って来た立花に、何時もの皮肉だけではなく、セームに対して
の嫌味を言うほどに・・。極僅かに歪められていた島田の顔を思い出して、立花はクスリ
と口元を緩ませた。

鉄面皮には自信が有る。自分の感情を出さない事には子供の頃から定評が有った。それが
少しずつ崩されてしまったのは、幾ら怖い顔をして脅してみても全然堪えない、雇い主が
育てていた二人の子供の所為だ。ジョーは多分生い立ちの所為も有るだろうが、物騒な自
分の雰囲気や顔付きが寧ろ親しみの有る物なのか、初めからそんな物を気にもしていなかっ
たし、健にしても決して人好きのする筈も無い島田に何故か懐いていた。最初煩わしかっ
た子供の相手が、何故か何時の間にか苦痛でなくなった頃、島田は住み着いていた南部の
屋敷を出て、マンション暮らしを始めた。
「何で出て行くんだよ」
僅かばかりの荷物を手にした島田に、ジョーは其の日訊いてきた。真っ直ぐに向けられた
水色の瞳が、怖いくらいに澄んでいて、島田は自分の心を見透かされるのを恐れるように、
殊更さらりと口にした。
「今まで面倒だから厄介になっていただけですよ、此処には。便利な場所に善い物件が有っ
たし、ISOにも遥かに近いですし・・」
「それに此処では女も連れ込めませんからね」
其の頃もう何人かの女性と付き合ったことの有ったジョーは、酷く納得した様に、頷いて
見せた。
「此処には確かに連れては来れないよな・・。だけど・・」
言いたいことが何なのか、すんなり出てこない幼子のように形の良い指の爪を噛んでいる。
「俺が居なくなると、寂しいですか?」
伏せた顔を覗きこんで訊いてみると、案の定「そんなわけねえだろう!」と、強い瞳に見
返された。
「・・もう二度と帰って来るな!」
「俺は博士のガードなんだから、そりゃあ無理ってもんですよ」
子供染みた反応は、昔と変わらない。背丈が伸びただけの未だ子供だ。健よりも余程分か
りやすいジョーの性格は、自分でさえ簡単に読み取れる。怒った様に扉を派手な音を立て
て閉めてジョーが出て行った後、島田は苦い笑いを浮かべた。
「・・居心地が悪くなってきたんですよ、この家が。あんた達もデカクなった。どんどん
変わって行く。変わらなくちゃいけない。あんた達も、俺もね」
そう思って屋敷を出た。何かに追い立てられるように、何かを恐れるように・・。けれど
変化は自分の思い通りには進まなかった。手の中で眠る彼の温もりを心地良いと思って、
漸く自分が何を恐れていたのかが分かった。自分はこうなるのが怖かったのだ。ビジネス
ではなく、守りたい相手が、失いたくないと思う相手が出来ることが・・。
辿り着いた結果に後悔しているわけでないが、時折ふと自分は過ちを犯しているのでは無
いかと思うことが有る。それはジョーと過ごす時間が増えれば増えるだけ、強まってくる。
身の内に有る渇えを癒すように彼の身体を貪れば貪るほど、独占欲は加速を増す。そんな
自分が彼には無様に思えた。
「それはあんたの自由です」
鉄面皮はそう答える。
自分よりも誰かをジョーが望むのなら、潮時だろう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

赤く塗られた爪が胸元を滑って行く。
「坊やかと思っていたのに・・」
そう言っている言葉を半ばで遮って口付けると、裸の胸で押さえ付けられて張り詰めた女
の胸が形を変えた。胸を先程這っていた赤い爪が、耐え切れないように、今度は背中に這
わされて微かな爪痕を付けた。
「ジョー・・」
其の先を続けようとしていた女の赤い唇から洩れるのは、もう言葉ではなくて、唯の喘ぎ
のような溜息だけだった。仰け反る白い首筋を見詰めながら、ジョーは何処か自分の心が
冷めているのを感じていた。
「貴方は素敵よ・・」と何人もの女は言う。自分の長い前髪を細い指先で払いながら、媚
びたような笑いを浮かべながら、そして、愛撫に身を捩りながら・・。「抱いて・・」と
或る者は言う。偶に「抱かせてくれ」と言う者も居る。自分は己の欲望に何時も忠実だ。
「抱いて・・」と言う女が気に入れば、其の儘其の欲望に答える。唯それだけだ。「抱か
せてくれ」と言われて、応じたことは無い。でも、それに応じたら何かは変わるのだろう
か?
身体の熱さと反対に、心は冷たさを増す。耐えられないようにジョーは女の身に自分を深
く刻み込んだ。

「・・何が欲しいの?」
この女とベッドで会うのは二回目だ。前の時にも同じことを訊いた。自分の事をストリー
トボーイとでも思っているのだろうか?確かに着古したジーンズにGジャン、Tシャツ姿
では無理も無い。
「・・ペットに何か買ってくれるって訳?」
面白がってジョーは聞き返した。それなら何か高価な物でも強請ってやろうか・・・。大
して欲しい物が有る訳でもないが、マダムの気に入るように振舞ってみたら、気が晴れる
かもしれない。
「それも良いけど・・。何だか飢えてるみたいに見えたから。此処がね・・」
女は綺麗に手入れされた指先で、ジョーの胸に触れた。その言葉にジョーは頭を振った。
自分は何時も欲望に忠実に生きて来た。欲しい物は欲しいと言い。嫌な物は嫌と言って、
育って来た。両親が生きていた時は勿論、南部に引き取られてからも、健の様に自分の欲
望を抑えるような事は、彼には出来なかった。だから分からない、自分が何故こんなに苛
付いているのか。何に自分が飢えているのか。
『少なくとも欲求不満な筈は無いけどね』
心の中でシニカルな笑いを彼は浮かべた。
「・・今日は泊まって行く?今晩は此処には誰も来ないわよ」
それも気晴らしになるだろう・・。ジョーは頷く代わりに、女の唇を塞いだ。

「ジョー起きて!」
暗い部屋の中で女の切羽詰ったような声が彼を起こす前に、ジョーの目は開いていた。二
度女に呼ばせるよりも前に、彼は跳ね起きて瞬時に床に裸足の足を付けると、もうジーン
ズに足を通していた。ベッドの上に投げて有ったTシャツを掴みながら、彼はベッドで震
えている女を横目で見た。
「どうしよう、あいつが来たわ・・。今日は来ない筈だったのに。早く逃げてジョー。こ
んな所を見たら、あいつきっと貴方を殺すわ」
毛足の長いカーペットは、近付いて来る靴音を完璧に消しているが、誰かがこの部屋に近
付いて来ることだけは気配で分かる。
『・・とんでもない火遊びだったわけだ・・』
ジョーは苦い想いを噛み締めた。相手はマフィアか何かだろうか、唯のパトロンとは異質
の張り詰めた空気が、確かに近付いて来ていた。
扉が驚くほど静かに開けられて、背の高い男が入って来る。男を見た途端に女はベッドの
中でシーツを掴んで息を詰めた。鳶色の瞳だけが其処から逸らすことを拒否したように、
瞬きもしないで彼を見詰めている。
「何度言ったら分かるんだ、アニタ。此処に男は連れ込むな。この間もそう言い聞かせた
だろう」
静かな男の口調はまるで悪戯をした子供を叱る親のようだが、ジョーは本当に怖いのは、
怒った時にも其の激しさを抑えるように振舞う人間だと知っていた。
「未だ子供じゃないか・・。え?アニタ。この間の男とは随分年が違うぞ。あいつと違っ
てこの坊やは未だ幾らも生きちゃ居ないぜ」
「止めて。そうよ、未だ本の子供なんだから、殺さないで!」
アニタの命乞いを聞いて、男は口元を歪めた。
「お前この間の男にはそんな事言いもしなかったじゃねえか。この子供がそんなに悦かっ
たのか?」
自分を見詰める男の瞳が更に細められて、右手が素早く動くのを見るまでもなく、ジョー
はGジャンで頭を庇うと其の儘窓を破って身を躍らせた。その動きより一瞬遅く男が、彼
の軌跡を追って引き金を引いた。割られた窓から身を乗り出した男の手の中で、何度か銃
声がする。アニタはその度に身を縮ませた。
「手応えは有ったが、逃げられたな・・。死体が見えない」
「・・皆に探させる心算?」
男の部下に見つかったら、きっとジョーは殺されてしまう。「泊まって行け」なんて、言
うんじゃなかった。
「・・この家の外には何人か見張りが居る。あいつが見つかったら、あいつの運が無かっ
た。もし逃げられたら、運が良かったってことだ」
「あんなガキを連れ込むな。今度遣ったら、お前を唯じゃ置かない」
「・・分かってるわよ、もうしないわ・・」
アニタは赤い爪で長い髪を掻き上げると、そう言った。

心臓がいい加減に走るのを止めろと、喚き立てている。何時もなら何でも無い全力疾走が、
こんなに堪えるのは右肩の後ろに開いた風穴の所為だ。もう限界だと訴える身体を叱咤し
て、ジョーは背後から追って来る気配が無くなるまで走り続けた。やっと立ち止まって荒
い呼吸を整えようと勤めるが、一向に呼吸は楽に成ってくれそうにも無い。凭れた何処か
の建物の壁に沿うようにして、彼は蹲った。殆ど感覚の無い右肩を見て、自分の呼吸が収
まらない原因が分かる。傷口から流れ出した血がTシャツを真っ赤に濡らしていて、自分
が走っている間にかなり出血していたことに今気が付いた。
『止血しなきゃな』
頭では考えて、応急処置のトレーニングが甦るが、手頃な布も見当たらなければ、頭が麻
痺したように行動に出る気もしない。重くなって来た頭を持ち上げて、ジョーは辺りを見
回した。
「此処はどの辺だ?」
何処と無く見慣れた風景が、彼を安堵させる。そして、自分が凭れている壁に眼を留めて、
ジョーは思わず笑いを浮かべた。
「こんな所に来るなんて・・」
自分の無意識の行動が、至極可笑しかった。
「ジョー?」
駆け寄って来る靴音は聞き慣れた物。自分の脈を確かめる様に、首筋に触れる指先の温か
さは感じ慣れた物だ。
「・・島田」
顔を上げて開いた心算の瞳には、島田の姿は見えなかった。


「ドク、ジョーは?」
オペ室の前で身動ぎもしないで待っていた健が、扉から出て来た立花に尋ねる。未だ立花
が身に纏っている術衣に染み付いているような血の香りが、健を堪らなく不安にさせた。
大きな澄み切った空の様な瞳には、涙までが滲んでいる。それと対照的に少し離れた椅子
に腰掛けた島田は、一言も発することなく僅かに眼を此方に向けただけだった。
「大丈夫だよ。暫くは病院で大人しくしていて貰うけどね」
立花の言葉にホーッと、健は溜めていた息を吐いた。
「ドク有難う御座います。ジョーが居なくなったら、俺どうしようかと思った」
「大袈裟だな健。あの頑丈なジョーがそう簡単にどうにかなるわけ無いだろう」
「でも、島田さんが運んできた時には、凄く出血していたし・・」
携帯電話で連絡してきた島田の指示通りにISOの付属病院に待機していた立花とセームの
前に、島田が抱き抱えて来たジョーは確かに血塗れで、立花は自分の背後で健が息を呑む
のを感じた。ストレッチャーに乗せようとするのを、眼で制して島田は其の儘ERに入る
と、ベッドにジョーを降ろして黙って健の腕を引くと部屋を出て行った。
チラリと島田を窺えば、目の前の灰皿は空だった。
『つまり、それだけ気が気では無かったという事か・・』
「ジョーに会っても良いですか?」
「未だ麻酔が効いていて眼を覚ましてないよ」
「ちょっとだけ・・。直ぐに帰りますから」
「セームが付いてると思うけど、それでも良かったら」
「はい」
健は島田の方を向くと声を掛けた。
「島田さんも行くでしょ?」
「いえ・・俺は」
「どうして?」
「着替えてから出直して来ますよ」
島田の言葉に健は、改めて島田の染みの付いたスーツを見た。
「あっ、そうですね。すみません、気が付かなくて」
「どちらにしても、俺は麻酔の切れたジョーに会って、小言の一つも言わなければ成りま
せんから」
「だから丁度良いんです。健は立花医師の気が変わらない内に、早く行ってください」
え?まさか、気は変わりませんよね・・という様に立花を見て、それから健は走って病室
に向かった。

「着替えならISOに置いてあるだろう」
立花医師と呼ばれて、心底嫌そうに顔を歪めていた立花は、健が居なくなるなり、そう言っ
た。
「俺が今部屋に行っても何の利点も無い」
「全く筋肉ゴリラだな・・お前は」
「年下にお前呼ばわりされる筋合いは無い」
「じゃあジョーは?あいつは何時も呼び捨て、お前呼ばわり・・。おまけに偉そうに命令
形だよな」
「あいつは誰に対してもそうだ」
そう言えば、自分も「立花」でセームも「セーム」だ。ジョーが丁寧語で喋るのは唯一南
部とアンダーソン長官くらいか・・。
「だが、お前文句を言ってないじゃないか」
「・・昔からで言い飽きただけだ。何度言っても直さんしな」
「特別だって認めたらどうだ?」
「・・・」
無言で強面の番犬が睨みつけるが、立花もそんな事には怯まない。
「特別だから抱くんだろ?そんな怖い顔して、いい年をして純情してる場合か?」
「ジョーが他の奴が良いと言うなら、俺に異存は無い」
「あー、他の奴って誰?セームは未だジョーに手を出してないって言ってたぞ。あいつ嘘
だけは付かないから、いい加減だけど」
「・・それにさ、ジョーにとってもお前が特別だから行ったんだろう、お前のマンション
に。殆ど意識無しみたいな状態でさ」
「・・・お前には関係ない」
「勿論関係ないさ。俺はジョーよりも健の方が可愛いからね。でもセームはどうかな?番
犬が手を引くと成ったら、本格的に手を出すかもしれないな」
何処か楽しそうな立花の言葉に、島田の瞳が僅かに細められた。
「部屋は203号だぜ」
それだけ言うと、立花は再びオペ室に消えた。
『シャワーを浴びて、血の匂いを消したら、健と朝飯でも喰いに行こう』
ジョーの麻酔が切れるまで、未だ大分有る。それまで健は付き合ってくれるだろう。
着替えて出て来た立花は、自宅に戻って着替えて来たにしては随分と早く帰って来た島田
の姿を病室の前で見掛けて、口元に笑みを浮かべた。
「番犬・・意外に可愛いかもな」



The End




Top  Library List