追憶

by Kiwi

Kiwiさんのナギに捧ぐ Art by ナギ
Art by ナギ

1

久し振りに来るISO本部は見上げるほど立派なビルで、威圧感を持って見下ろし
ている。エントランスに一歩踏み入る前に、彼女はゴクリと我知らず唾を飲み込ん
だ。この本部に来るのは8年振りだ。あの頃は未だ駆け出しだったわ・・と、時の流
れを懐かしむような気持ちが湧いて来る。では今はベテランなのか?と訊かれる
と、決してそうでは無い。今年彼女は28に成った。だが、訓練学校の卒業成績が
あまり果果しくなかった彼女は、卒業後は憧れの諜報部には配属されずに、地方
のISOの分署で地味な調査を担当させられていた。今回どういう神の采配か、い
きなり本部への配属を上司から申し渡された。
「何かの間違いじゃないんですか?」
配属書を握って、嬉しさを隠し切れないナギに、上司は自分にも分からんよと、首
を傾げた。
「まあ、これだけは言えるね、ナギ。君が此処に戻って来ることだけは避けて欲し
いものだ」
「それってどういう意味ですか?課長」
小柄なナギは自分の上司の胸辺りまでしか身長が無い。体重は半分以下だろう。
おまけに生まれつきの童顔で、未だ22、3歳にしか見えない。だから睨みつけても
迫力が無い。
「今回の始末書は書いたのか?」
反対に尋ねられて、ナギは口篭った。
「ちゃんと書きました。でもこれは私の失敗じゃあ有りません」
「麻薬の売人と囮捜査官を間違えて尾行して、挙句の果てに捜査官を伸しちまっ
て怪我をさせて・・」
「あーー、分かりました。私のミスです!」
「そのおっちょこちょいを何とかしないと、本部から直ぐに追い返されるぞ」
『だって、囮捜査官が入ってるなんて知らなかったんだもの。それにどう見ても
あっちの方が犯人面だったわ』
「メガネをかけるか、コンタクトを嵌め給え」
ナギの視力はかなり悪い。だが、彼女はメガネを掛けたくなかった。コンタクトは目
に合わない。幾らソフトな物を購入しても嵌め続けていると、目が痛くなって涙が
止まらない。

「コンタクトにしないの?」
昔そうナギに言った少年が居た。未だ自分が訓練を受け始めたばかりの頃、同じ
場所で訓練を受けていた少年と呼ぶよりも、子供と言った方が良いような年の子
で、どうしてこんな所で訓練しているのかしら?と不思議に思った。短い休憩時
間。荒い呼吸を漸く静めた時だった。
言葉にすると同時に子供特有の細い腕を伸して、ナギのメガネをひょいと取り上げ
てその子は笑った。ちょっと印象的な子供。痩せ気味だけど、ちょっとした動きに
綺麗に筋肉が動く。枯葉色の長い前髪が隠しているのは淡い青色だと、彼が髪を
掻き上げた時に分かった。
「返しなさい」
子供にからかわれる趣味は無い。ナギは少し言葉をきつくして言った。その途端
にその子はまるで大人の男がする様に、ナギの耳元に唇を寄せた。
「メガネ掛けない方が、綺麗だぜ」
耳元で囁かれた声が心地良くて、思わず頬が染まった。こんな子供にと思うが、ど
うしようもない。透かさず唇を合わされて、ポカンと目を見開いた。自分に触れてい
た柔らかな唇がスッと離れて、彼はにやりと笑った。
「やったぜーー。俺の勝ちだ。ジェイ、掛け金を寄越せよ」
目の前の子供が笑って親指を立てる。周りを囲んでいる同じ訓練生に、自分が何
か賭けの対象になっていたことを知った。
「ジョー、お前って本当に末恐ろしいガキだよ」
ジェイがジョーの手に紙幣を置いた。
「あんた達どういうつもりよ」
ナギの声が剣呑になる。
「ジョーが、自分が口説いたら、誰でも簡単に落ちるって言うからさ」
「じゃあ、ナギにキス出来たら30ドル遣るって、ジェイが言ったんだ」
ジェイの言葉を他の訓練生が続けた。
「あんた達乙女の心を何だと思ってるのよ!」
「ナギでも乙女だったのか?」
20歳の女を捕まえて、何て事を・・怒りに震えたナギの鉄拳がジェイの腹部に決
まった。その様子を見て笑っているジョーが小憎らしかった。怒っているナギに向
かって彼は、コークの缶を差し出した。
「飲む?賭けに協力してくれたから、奢るよ」
差し出された缶をぶん取って、一気に飲んだのはせめてものプライドだった。

2

「嫌な事を思い出しちゃったわ」
拳を怒りに震わせて、ナギはISOのエントランスに向かった。が、入ろうとした瞬間
に背後でした、聞きなれた音に反射的に身を隠す。独特の乾いたような音。空気
を切り裂くような鋭さが有る。
「銃声何処から?」
訓練の賜物で瞬時に辺りを窺うことには慣れている。その結果、それは自分の身
を隠している側ではないことに気付く。
「こんな所で発砲するなんて、何処の間抜けな警官かしら?通行人に当たったら
どうするつもりなの?」
始末書くらいじゃ済まないんだから・・一瞬何時もの課長の苦り切った顔が横切
る。
「どんな馬鹿か、顔を見てやろう」
被害が及ばないように身を隠しながら、彼女は銃声が未だ続いている方に向かっ
て進んだ。
最初にした銃声で、通行人はあっという間に身を隠したらしい。辺りには呑気に歩
いているものなど居ない。
『当たり前か・・』
ナギは癖になった唇を舐める動作を繰り返した。緊張して時に彼女がする癖だ。
倒れているのは何処にでも有るスーツに身を包んだ男達。
『真っ当じゃあなさそうだけど、何者かしら?』
自分の場所からは同じ様なスーツを身に着けた男達しか見えない。人数は後5
人。向うは撃って来る銃声からして二人のようだ。
『どうしよう、加勢する?でも、どっちに?』
人相が悪いからと言って、敵とは限らないのは経験済みだ。脇に吊るしたホルス
ターから愛用のベレッタを取り出しかけて、手を止める。そんな彼女の逡巡に焦れ
たように、銃声は止んで、スーツの男達が後には転がっていた。
「片が付いちゃった。でも、向うは凄い腕ね」
倒れている男達は、何れも一発で急所を打ち抜かれている。
「一体誰が?」
其処まで考えて、迂闊に近寄って来た自分の失態に気付く。もし、敵だったら、自
分は逃げられるのか?
「片付いたな。警備を呼んで、後始末をさせろよ」
コルトパイソンを右手にした男が現れた。未だ若い。身のこなしや、物言い方、
蹲っている男達を見詰める眼差しが、戦い慣れた戦士のように見せてはいるが、
「逞しい」と言うよりは幾分細い身体付は、大人とは違った未だ危うさを残していそ
うで、彼が多分青年の域に達して間が無いのだと教えている。無造作に額に掛る
長い前髪を掻き上げると、彼は手の中のコルトをぐいっとジーンズの後ろに捻じ込
んだ。険しかった瞳が一瞬気を抜いた時、淡い青色を和ませたのに、ナギはこん
な状況でさえ見蕩れた。
「カッコイイ」
こんな好い男が悪者である筈が無い。一方的な理論で、彼女は結論を出した。
『刑事かしら?あれ?確かもう一人居たはずよね』
「まあまあですね・・でも、一人ぐらい生かしておいて素性を確かめるべきだったん
じゃないんですか?」
背後から掛けられた言葉に、若い男がそちらを向いた。倒れている男達と同じ様
な、何の変哲も無いスーツを身に纏った男が現れる。身長は殆ど同じだが、此方
の方はかなりがっちりとした筋肉が全身を覆っている。
「あれ?この声って」
聞き覚えの有る声に、ナギは姿をもっとよく見ようと、身を乗り出した。
「どうせ、吐きはしねえよ。拷問するわけにもいかねえしよ。博士が許しっこねえん
だから」
不貞腐れたように答える彼に、男は薄く笑った。
「処で、後ろのお嬢さんには気が付かなかったんですか?ジョー」
「未熟ですね」と、男に指摘されて、ジョーは肩を竦めた。
「とっくに気が付いてたよ。こっちをずっと見てたからな」
「殺気も無いし、何処か間が抜けてたから、放って置いたんだ」と、返された言葉
にナギは立腹した。
「失礼ね!貴方」
思わず大声で反論する。
「間抜けとは何よ!」
「『間抜け』なんて言ってないぜ。あんたの気配が間が抜けてるだけだ。ちっとも張
り詰めてない。肩から吊るしているのは飾りか?」
グッと言葉に詰まって、恨めしげに前の男を見返した。
『悔しい。私よりも年下なのに・・生意気!!さっきカッコイイと思ったのは取り消
し!』
「・・ジョー、左頬掠ってますよ」
言われて初めて自分の頬の傷に気付いたように、ジョーは左手の甲で無造作に
流れる血を拭った。
「未熟ですね」
再び指摘されて、彼は拗ねた様に唇を尖らせた。そうすると彫の深い顔が意外に
幼くなって、ナギは彼が多分未だ20になるか成らないくらいだと推測した。
「深くは無いですけど、一応は医務室で手当てをしてもらう方が良いですね。痛み
ますか?」
「いや・・」
これより酷い傷は何度も負ったことが有る。確かに焼けたような痛みは有るが、耐
えられないほどではない。
「ところで、貴方は?」
今までジョーに向けられていた黒い瞳が、自分の方を漸く向いた。鋭い光を放って
いるそれを、ナギは怯まないで見返した。
「島田さん、お久し振りです」
返ってきた言葉は島田の頭の中で空しく浮いた。
「俺は何処かで貴方に会いましたっけ?」
島田の言葉に、ナギはがっくりと肩を落とした。
『憶えてないの?嘘!そりゃあ、私達は恋人同士じゃなかったわよ。でも・・』
「ナギだろ?あんた」
島田から渡されたハンカチで頬を押さえていたジョーが、隣から言った。
「え?何で貴方が知ってるの?」
「だって、あんた訓練学校時代とちっとも変わってないじゃねえか」
『訓練学校にこんなハンサム居たっけ?』
あそこにはガタイがでかくて、ムサイのばかりだったような・・記憶を懸命に彼女は
辿った。そんな彼女の様子が余程面白かったのか、ジョーが愉快そうな光を瞳に
湛えて近付くと、ナギの耳元に唇を寄せて耳打ちした。
「今日は、メガネは掛けないのか?それともコンタクトに変えた?」
その言葉にナギはビクッとした。確かに今日はコンタクトにして来た。もしかしたら、
今此処で知らん顔をしている島田に会えるかもしれないと、思ってメガネは掛けな
かったのだ。
「えー、もしかしてジョー?」
「先刻から島田がそう呼んでるだろう。気が付かなかったのか?」
そう言えば島田さんはそう呼んでいた。
「だってよくある名前だし・・」
言い訳は口の中でモゴモゴと消えた。
『島田さんがパートナーと見なして、親しげに名を呼ぶのはあの子しか居なかった
わ』
あの時だって、そうだった。自分に差し出したのと同じコーラを飲み干すよりも前
に、ジムに入って来た島田に呼ばれて、ジョーは出て行った。その時研ぎ澄まされ
たような島田の視線が、ジョーの姿を見つけて一瞬緩んで、そうして又、元の彼本
来の厳しい色に戻るのを、ナギは羨ましく思った。
『島田さんは、この子をこんなに優しそうな眼で見るんだ』
もっともジョーに掛けられた言葉も、投げた視線も何時も通りの島田だったから、
決してジョーは気が付きはしなかっただろうが・・。

「で、今日は何の用なんだ?」
尋ねるジョーを島田が二の腕を掴んで引っ張った。
「話をはぐらかして、医務室に行くのを免れようったって、そうは行きませんよ。さっ
さと来なさい!」
「チェッ、手当てするほどのもんじゃねえよ」
舌打ちをしたジョーの二の腕を更に強く引く。
「小さな傷だからって甘く見ていると、後で痛い目に合いますよ。何時でも万全な
状態にして置かなければ、プロとは言えませんよ」
「何なら力付くで連れて行っても好いですよ」と続けられて、ジョーは嫌そうに顔を
顰めた。
「冗談じゃねえ・・ガキじゃあるまいし、付き添いは要らねえよ」
島田から手を振り払ってISOに向かって歩き出す彼の後を、島田も追って歩みを
進める。
「見張らなくても好いって。久し振りだろ、ナギと話でもしろよ」
背後の島田を鬱陶しそうに見て、ジョーが言う。
「ナギって、誰でしたっけ?」
無残な島田の言葉が聞こえてきた。
『島田さんの馬鹿!』
島田の記憶に自分が欠片も残っていないと知って、ナギはがっくりと肩を落として
ISOのエントランスを潜った。

3

ISOの喫茶室でナギは漸く人心地付いて、カップを持ち上げると濃い液体を口元に
運んだ。その途端に思わず顔を顰める。濃すぎるそれは、苦いだけで何の旨味も
香りも無い。
「不味いだろ!」
前に立った男の声に彼女は顔を上げた。
「ジョー、又貴方なの?」
「ご挨拶だな・・島田の方が良かったか?でもあいつ、あんたを憶えていないぜ」
落ち込みに更に追い討ちを掛けられて、ナギは再びコーヒーを口に運ぶ。顰めた
顔の言い訳が欲しいように。
「あいつ、女は抱くけど無関心だから・・。固執しないんだよな。だから寝た相手で
も憶えちゃ居ない」
「ちょっと何でそんな事・・」
ジョーが島田と自分の関係を知っているはずが無い。未だあの頃ジョーは確か11
歳位だったろう。島田が誰かにそんな事を話すわけが無いし、ましてそんな子供
に・・。
「お前今も昔もトワレ変えてないだろ。訓練時代もそれ使ってたよな、オーデ・ジバ
ンシー」
ジョーの言葉に自分の付けているトワレを鼻で確かめる。微かな香りのそれは、キ
ツイ香水よりも自分に合っている気がして、昔からずっと愛用している。それにして
もジョーの言葉からすると、彼はそんな子供の頃から香水に詳しかったことにな
る。
『全くこの子ッたら・・』
目の前で悪戯っぽく笑って、コーラの缶を口元に運んでいるジョーを憎らしげにナ
ギは見返した。
「だから?トワレが何か関係有るの?」
「・・・島田の相手は大体大人の女だったんだ。まあ後腐れが無いしね。俺もその
方が気楽だったな・・。だから大体島田が女の所から帰って来た時に、服に染み
付いているのはキツメの香水の匂いなんだ」
「身体は流石にシャワーを浴びてくるだろ?」と続けて、ジョーはコーラを一口飲ん
だ。
「まさか、島田さんの服から私のトワレの匂いがしたとか?」
黙ってコーラを飲んでいるジョーの瞳が、肯定を示す。
「え?だって・・」
そんなはずは無い。トワレは香水に比べてずっと薄い。島田が帰宅するまで、香り
が残っているはずがない。
「一度島田が途中で、携帯で呼ばれたことが無かったか?」
そう言えば・・あれは確か配属が決まって、自分の希望が通らなくて、酷く落ち込
んでいる時だった。肌を合わせた途端に、島田の上着から響いた携帯の呼び出し
音に邪魔されて、其の儘島田は「仕事だ」とだけ呆然としているナギに告げて、出
て行った。思えばそれが島田と会った最後だった。
『デートはたった2回半で終ったのよね』
最後の夜は手前までだから半分だ。地方に配属されたナギに連絡をしてくれるよ
うな島田ではない。もともと自分がアタックして、漸く其処まで漕ぎ着けたのだか
ら・・
「慌てて帰って来た奴の身体からトワレの匂いがしたんだ。もっとも他の奴が気付
くほどじゃなくて、微かだったけどね」
「そんなに微かなのに何故分かったかは、単なる偶然。その時俺が付き合ってた
人も、それ使ってたから」
「ジョー、貴方未だ子供だったわよね」
「俺、昔から老けて見られるんだ。背も高かったし」
だからと言って、11の子供にモーションを掛ける人ってどんな人?頭がクラクラして
きたナギは、話を変えることにした。
「・・怪我どう?」
ガーゼを当てられた左頬を指差すと、彼女は尋ねた。
「んー、どうって事無いぜ。ちょっと引きつるだけ」
尋ねるナギの方が痛そうだ。余り実践を経験したことが無いナギは、銃創など勿
論負った事が無い。
「傷残るの?」
「どうかな?ドクターは何も言ってなかったけど」
「まあ、男だし。どうでも良いだろ」
ジョーは無頓着にそう言うが、ナギ後が残らない方が良いと思う。目の前の端整
な顔には、傷はやはり無い方が好い。

「さて・・そろそろ行くとするか」
出口を見詰めていたジョーが、そう言いながら飲み干したコーラの缶を潰した。そ
れを後ろ向きに投げると、見事に缶はゴミ箱に納まった。
「ねえ?ジョー。ジョーはどうして私を憶えていたの?」
ナギの問いにジョーはニヤリと笑った。
「訓練中にあんなに笑わせてくれた奴の顔なんて、忘れられるかよ。その上、お前
島田が来ると余計に酷くなっただろ、ドジ。島田に惚れてるの、見え見えだった
ぜ」
ナギの淡い期待はジョーの言葉の前に脆くも崩れた。再びがっくりと肩を落とした
ナギを置いて、ジョーは出口に迎えに来ていた、ドキッとするくらいの美少年と出て
行った。

「暇だな・・」
ナギの唇から溜息が洩れる。
ISO本部の諜報部がこんなに暇だとは知らなかった。チラッと横目で上司を窺う
と、これまた暇そうに何やら書類整理をしている。その割には他のエージェントの
姿は無い。
『皆何処に行っているのかしら?』
欠伸を噛み締めていると、顔を上げた上司が手招きをする。
「何ですか?」
「暇そうだな、ナギ」
今度の上司は前上司の半分ほどの体重しか無さそうな、細身の男性。ちょっと灰
色掛かったブロンドが短く刈り込まれて、彼の持つ鋭いイメージを更に強調してい
る。
「仕事無いんです」
「今日来たばかりで、一人で任務は任せられないしな。生憎皆出払ってるんだ。大
人しく電話番でもしてろ。居眠りはするな!」
引っ付きかけていた瞼を知っているのか、上司が非難めいた眼を向けた。
「・・顔洗って来ます」
「眠いよー」と訴える身体をナギは、やっとの思いで椅子から剥がした。
「あーあ、昨日興奮してあんまり眠れなかったからな。本当に眠い」
おまけにコンタクトの所為で、眼が痛くなってきた。ナギは洗面台で顔を洗うと、目
薬を差した。ついでに個室に入る。
「それにしてもジョーは此処でどの部署にいるのかしら?島田さんと一緒ということ
は、南部博士のボディガード?」
それは十分考えられた。ジョーは博士の養子だと確か以前島田が言っていた。
『あんなにカッコ良くなるんだったら、もっとちゃんと面倒を見ておいてやれば良
かったかな?』
ふと浮かんだ考えを、ナギは思い切り頭を振って否定した。
「いや、ジョーはやっぱり生意気よ、年下の癖に!でも・・」
しっかり忘れられてたな、島田さんに・・悔しさを吐き捨てるように、思い切りトイレ
の水を流してナギは個室から出た。

「傷はどうだ?」
ソファに腰を下ろしたジョーに健が、コーヒーのカップを渡しながら尋ねる。
「うん?大丈夫だ」
「お前の大丈夫ほど当てにならない物は無いっ、て言っていたぞ」
「誰が?」
「島田さん、ドクター、それに俺」
「その内の二人には、俺も同じ言葉を返したいね」
コーヒーを一口飲んで顔を顰める。
「インスタントじゃねえか!」
「・・喫茶室の不味いコーヒーの方が良かったか?」
「お前なら博士の秘書に、幾らでも淹れて貰えるだろうが!」
「せっかく人が淹れてやったのに煩い奴だな」
健はウンザリしたような顔をして、手の中のカップを口に運んだ。
「旨いじゃないか」
「チエッ、味音痴め!」
文句を言いながらも、彼はコーヒーを飲み干した。
「ところで、あいつら何処の奴らか分かったのか?」
今朝方、南部の出庁を待ち伏せして襲って来た連中の事だ。
「・・それがね」
健は苦い顔をした。あまり話をしたく無さそうだ。こんな健は珍しい。
「どうかしたのか?」
「彼らは、ISOの諜報部に席を置いている者達だったんだ」
「裏切り者って事か?それとも二重スパイ?」
「分からない。お前がせめて一人でも生け捕りにして置いてくれたら、何か分かっ
たかも知れないのに」
健の口調は非難がましいが、目は笑っている。所詮、そんな事を今更言っても無
駄なのは、彼にも分かっている。
「諜報部か・・ナギが居る所だな・・。まあ、ドジなナギに限って二重スパイの心配
は無いよな。どっちかって言うと、訳も分からずに使われるってタイプだ」
呟いたジョーの言葉に健が「ん?」と尋ねてくるのに、彼は首を振った。
「帰るのか?」
立ち上がったジョーに健が訊く。
「ああ、お前も帰るなら乗せていくぜ」
「俺はもう少し、残ってる。どうせバイクだし。お前、帰る前に博士と島田さんに挨
拶して帰れよ」
「・・博士何か言ってたのか?」
又お小言か?と顔を歪めるのに、健が笑った。
「二人とも心配してたからな。顔を見せて帰れよ」
「・・島田に限ってそれはないぜ。どうせ『継ぎ接ぎだらけの顔が見たかったんです
が、残念ですね』とか、言うに決まってる」
「確かに言いそうだな」
笑いを含んだ健に肯定されて、ジョーは心底嫌そうに南部のオフィスに向かった。

4

 手の中の報告書をカサカサと音を立てて南部はページを繰った。チラリと視線を
正面の人物に移すが、相手は身動き一つしない。南部は重い口を開いた。
「急所を外すことは不可能だったのかね?」
非難めいた南部の声がしても島田の表情は変わらない。
「俺の役目は博士を守ることで有って、必ずしも犯人を捕まえることでは有りませ
んよ」
返す島田の言葉は少しも悪びれているところが無い。南部は思わず溜息を付い
た。島田との付き合いは長い。だから決して島田が、その意見を覆す気が無いこ
とは重々知っている。確かに島田と自分の契約はそうだ。自分の身柄を、健や
ジョーが幼い時には勿論彼らも含まれていたのだが、守ることである。
だが、自分を今朝襲ったのがISO内部の人間となると、話が複雑である。彼らが何
故そのような行動に出たのか、彼は調査をしないわけにはいかない。諜報部から
も問い合わせが来ている。立場的な南部の懸念に、島田は取り合わない。
「入り給え」
二人の間に流れた沈黙を控えめに遮って、ノック音がするのに南部が答えた。こ
れ以上議論をしても埒が明かないのは明らかだったから、南部は仕方なく話を打
ち切った。が、扉を開けて入って来たジョーを見て、又腹の中で怒りがこみ上げて
来た。
「ジョー、丁度好いところ来た。君は今朝の襲撃者を全員射殺することなく、生け捕
りにすることは不可能だったのかね」
言外に君はSPでは無く、忍者隊だろう・・と言う響きがある。
『健の奴、やっぱりお小言じゃねえか・・』
メガネ越しに鋭い視線を投げてくる南部に、ジョーは心の中で舌打ちをすると、答
えを返した。
「無理です。あのままあいつらを生け捕りにしようとして、通行人に被害が出たら
又、始末書だし・・俺だってこれ以上、顔に傷は付けたくないですからね」
「・・彼らはこれと言って怪しい点は無い。二重スパイで有る可能性も極めて低い。
何らかの手段で操られていた可能性も有る。ISOの職員を君達は殺してしまった
のかも知れないのだぞ」
「それが・・?何度も言いますが、俺の仕事は博士の身柄を守ることです。相手が
誰でも博士に対して、危害を加えようとする者は、排除します」
「・・もし、それが罪の無い人間であってもかね?」
「それが健やジョーであっても同じですよ。俺には」
「・・その時には一発で仕留めてくれよ」
「勿論です。反対の時にはあんたに頼みましょう。健は射撃だけはあんたに劣りま
すからね」
「射撃だけは・・ってどういう意味だよ」
「・・分かった。君達と議論しても無駄のようだ。私は彼らの死体解剖に立ち会うこ
とに成っている。島田、帰りは遅くなると思うから、君が帰る際には誰か代わりを
寄越してくれ」
「俺が待ってますが・・」
「君もそろそろ休み給え。丸二日、私に付いていただろう」
「その間貴方も働き詰めだったんですがね・・」と、言う言葉を敢て口にしないで、
島田は頷いた。

「貴方がナギね・・」
暇潰しにISOの社内報を読んでいたナギは、突然声を掛けられて驚いた様に、顔
を上げて。側に自分よりも20センチ以上も背が有りそうな美人が立っていた。小麦
色の顔を縁取っているのは豪華な金色のカールした髪。瞳の色は自分と同じ紫だ
が、その形は完璧なアーモンド形。思い切り自分のコンプレックスを刺激してくれ
る。ミニスカートから覗く太股も脹脛も、女性なら一度は持ってみたい線を描いて
いる。
「え・・っと」
誰だったかしら?記憶を辿るが、こんな人は知らない。尤も此処に今朝来た時に
は殆どの人間は居なくて、上司だけだった。その彼も急な電話で呼び出されて出
て行ったきり帰って来ていない。
「ああ・・私はダニエラ。ここのチーフよ。ボスは?未だ帰って来ない?」
「ええ・・未だ。電話を受けて出て行ったきりです」
「・・そうか」
ダニエラは近くのデスクに腰を下ろすと、形の好い脚を組んだ。バックから取り出し
た煙草に火を点けて、大きく煙を吐き出した。
「・・困ったことになったからね。手も当然足りなく成りそうだし・・仕方が無いな。ナ
ギ、暫く私と組んで頂戴」
「仕事ですか?」
ナギは思わず瞳を輝かせた。こんな誰も居ない部屋で、暇潰しをしているのは嫌
だ。此処でそれなりの働きをしたら、当然ジョーにあんな事を言われることも無い
し、島田とだって・・。ナギはダニエラと同じ色の瞳を輝かせて、拳を握り締めた。
「何時までもジョーに、笑わせては置かないわ!」
「え?何か言った?」
ダニエラに覗き込まれて、ナギは顔を赤らめた。
「いえ。何でも有りません」
「じゃあ、ちょっと一緒に来て頂戴」
先に立って行くダニエラの歩みは速い。背丈が違う分歩幅が違う。当たり前だ。ど
んどん先を行くダニエラの背中で、豪華な金色が踊る。ナギは自分の赤毛を一房
摘んで見た。
「・・良いもん、赤は情熱の色だもん」
島田さん、金髪の方が好きかなあ・・。染めようかしら・・。言葉にしたのと違う思い
が過るのは、やっぱり未練だろうか。
そんなナギの未練は、廊下の端に居た。そしてやはりジョーが横には居て、ちょっ
と危なげなムードの二人がナギの鼓動を速めた。伸ばした島田の指が微かに、掠
めるようにジョーの左頬の傷を覆うガーゼに触れて直ぐに離れる。
離れた自分の位置からは二人の声は聞こえない。ジョーの表情からして、島田が
又何かを言って揶揄ったようだ。そんな島田を自分は知らない。何処か硬質な感
じのする男性だった。自分の知る島田は。訓練中も、ベッドの中でも。
「一成」
何となく声を掛けるのが躊躇われるような二人に、ダニエラはお構い無しに声を掛
けた。その声に此方に背を向けていた島田が振り向いて、ナギは初めて彼の
ファーストネームが「一成」なのだと、知った。
ツカツカとハイヒールの音を響かせて、彼女は二人に近付いて行く。仕方無しにナ
ギもパンプスを鳴らして、尤もその高さは半分ほどしかなかったが、近寄った。
「ダニエラ、何か用ですか?」
「・・・用件は分かっているんじゃないの?」
疑問系で投げかけられた言葉は鋭い視線と共に、決して疑問でなく島田とジョー
に突き刺さった。それを島田は肩を竦めて受け流すと、ダニエラに顔を向けた。当
然ダニエラと並んでいたナギにも顔が向けられて、ナギは彼の鋭い瞳に胸が不謹
慎にもときめいた。が、ダニエラは一向に気にしないらしく、スーツに包まれた形の
良いバストの前で、両腕を組むと島田を睨み返した。
『良く島田さんにこんな風に睨まれて平気だなあ・・』
細められた島田の瞳の光は、何だか肌に痛いようだ。ジョーは・・?と、視線を彷
徨わせると、壁に凭れて面白そうに見物している。何だか自分一人が酷くまともな
人間か、もしくは気の小さい人間か・・と言う気がして来た。
『睨みあえる二人も凄いなら、それを面白そうに見物しているジョーも普通じゃない
わよ!』
「それはもしかして今朝の一件を言っているんですか?」
「他に何が有るって言うの!それとも貴方、他にも何かうちの連中にしたのかし
ら?」
「俺は自分の仕事を全うしたまでですからね。誰に文句を言われる筋合いも有りま
せんね。博士は原因がどうのこうのと言ってましたが、俺には関係有りません。又
今度こういうことが有ったら、又同じ事をするだけです」
「相手が其処に居る坊やでも同じ事が言えるかしら?」
「当然ですよ」
「例え貴方でも、其処に居るナギでも・・俺は同じです」
「・・自分が反対の立場にならないように気を付けるのね!」
「ああ・・大丈夫ですよ。その時はジョーが仕留めてくれますから」
何処まで本気なのか、物騒な事を島田は返して・・決してそれが冗談では無い事
が、口元で笑うジョーの気配から察せられて、ナギは背筋が寒くなった。
『島田さんに殺されるなんて嫌だよーー』
思わず口元に持ってきた握り拳が震えるのを、チラッと見たジョーが噴出して、ナ
ギは彼を睨みつけた。
「その言葉、忘れないで頂戴」
一言そう言うと、ダニエラは来た時と同じ様にハイヒールを鳴らして、立ち去った。
「島田さん、じゃあ失礼します」
「・・ナギ、気を付けろよ。何か変わった事が有ったら、俺に連絡しろ」
「あ?・・分かったわ」
反論したかった言葉は、真剣なジョーの表情に消されてしまった。
『心配してくれているのかな?結構善い奴かも』
「ナギ、早くいらっしゃい!」
「はーい。今行きます」
背の低い分小走りで、ナギはダニエラに追いついた。
「・・全く喰えない男よね。全然悪いと思っていないんだから・・。それにしても、一
成がゲイだとは知らなかったわ」
「えーっ。そんなはず有りません」
「どうしてそう言い切れるの?」
「だって・・」
『だって、ちゃんと相手してくれたもん。二回半だけど・・』
「あの二人絶対に唯の関係じゃあ無いわよ。賭けても善いわ」
「そんな事に賭けられても困るんですけど・・」
「貴方あの二人を知ってるの?」
「ええ、まあ・・」
「一成は南部博士のSPよね。あの子は何?」
「南部博士の養子だって、島田さんが言ってました」
「・・へーそうなの。だから一成と一緒に居ても、誰も何も言わないのね」
「ふ〜ん」と偉く感心したように、ダニエラは頷いた。
「あのう、仕事は・・?」
「一成達に殺られた奴らの身辺をちょっと探ってみたいの。まるで諜報部に裏切り
者が居るような言われ方をして、黙っているわけにはいかないわ。手伝ってくれる
わよね」
「勿論です」
初めてのエージェントらしい仕事だ。ナギは瞳を輝かせた。

5

薄暗い部屋で、サイドボードに置いたブレスレットから響いた音に、ジョーは習慣
的に飛び起きて通信装置をオンにした。傍らで寝ていた人物も同じ様に、起き上
がっている。問い質した気に此方に眼を向けるのを眼で制して、
彼は呼び出しに答えた。
「此方G2号」
「ジョー、解剖結果が出た。ISOまで来られるか?」
健の言葉に即答する。
「直ぐ行く」
「待ってる。島田さんも一緒に来て貰ってくれ」
「・・分かった」
自分が何処に、誰と居るのか、お見通しの様な健の台詞にジョーは苦笑いをした。
「じゃあ、博士のオフィスで」
「ラジャー」
通信を切ってベッドを窺うと、傍らに居た島田の姿が無い。同時に聞こえてきたバ
スルームからの物音で、相手が先にシャワーを浴びているのだと分かった。
「チェッ先を越されたか・・」
仕方無しに眠気を覚ますために、キッチンでコーヒーの用意を始めた。壁に掛けら
れた時計を横目でチェックすると、未だ午前3時だ。眠りに付いたのが、12時を過
ぎていたから、3時間も寝ていないことになる。ジョーは欠伸を噛み殺した。コー
ヒーメーカーが音を立て始めた頃、出て来た島田と交代でバスルームに彼は消え
た。温かな湯は心地良くて、もう一度眠りに誘ってしまう。閉じかける瞳を、無理に
開いて思い切り水温を低くすると、ジョーは眠気を吹き飛ばした。
未だ髪の先から雫を垂らしたまま出て来たジョーに、島田がコーヒーカップを手渡
す。
「俺も一緒にということは、何か見つかったんですかね?」
「それとも何も見つからなくて、又博士の雷が落ちるか、どっちかだな」
「博士の雷を気にするような人ではないでしょう」
「・・俺はお前ほど図太くねえ」
「自分の行動に自信が有るだけですよ」
「物は言い様だよな・・」
溜息混じりに飲み干したコーヒーは苦かった。

真夜中でもISOは煌々と灯りが燈っている。其処彼処で夜通し働いている人間
が、行き来している廊下を二人は足早に通り過ぎて、南部のオフィスに向った。
「早かったな」
出迎えた健が掛けた言葉は、本気なのか、現実には見えては居ない自分と島田
のオフを茶化しているのか、分からなかった。が、それにジョーは「ああ・・」とだけ
答えて、何時ものソファに腰を下ろした。何時もは南部の後ろに控えるように立っ
ている島田が、今日は自分と同じソファに腰掛けたのは、やはり博士の小言の対
象に自分も含まれていることを感知してなのだろう。
健が自分の持っていたレポートを、二人に回して寄越した。何やら医学用語が溢
れたレポートは、どうやらエージェント達の死体解剖のものらしい。決して医学に精
通しているわけではない、三人には大して得られるものは無い。南部が説明を始
めるのを、自分達は待つしかない。三人の視線を受けて、南部はゆっくりと話始め
た。
「手元の資料を見ても何も特筆すべき事は、見当たらないと思うが・・」
南部は此処で言葉を切ると、上着のポケットからチーフを取り出すと、彼らしい几
帳面な仕草でメガネを拭いた。
『こうした学者然とした、妙に勿体つけた説明の仕方は、どうも性に合わない』
学者と付き合うのはこれだから・・と、島田は真剣に南部の方を見ている振りをし
ながら、実は南部の背後に有る窓から暗い夜空を見ていた。立ち並ぶビルのイル
ミネーションが、寝不足の眼に痛い。傍らの健とジョーは意外に真面目に博士の講
義を聞いているようで、チラリと二人を窺った島田は仕方無しに南部の方に視線を
戻した。彼は綺麗に磨き終えたメガネを高い鼻梁に掛け直すと、再び口を開いた。
「実は体内からある種の催眠効果の有る薬物が検出された。その通称Nと呼ばれ
る薬物を摂取した人間は深い眠りに落ちるのだが、その間容易く暗示状態、洗脳
状態に導ける」
「つまり、先日のエージェント達はその状態だったというわけですか?」
「多分ISOが自分達に敵対する物・・とでも、暗示されていたのだろう」
健の問いに南部は頷いて見せた。
「これだけの人数の人間にそんな事をするには、どんな手段で摂取させるにして
も、余程顔見知りの人間でなくては無理ですね」
「どちらにしても内部の人間に、犯人が居るって事だよな」
島田の意見を引き継いで、ジョーが発言する。
「諜報部の主任、何て言ったけ、あの美人」
「ダニエラですか?彼女はもう5年も諜報部のチーフを務めてますが・・。これまで
の任務や、彼女の実績自体には怪しい点は有りませんね」
「お前でも覚えてる女が居るんだ」
「仕事に必要な事は記憶しています。どうでも善いこと意外は・・」
『ナギはどうでも善いことか・・女心の分からねえ奴だな』
「諜報部の方は、俺とジョーで探ってみますから、島田さんは博士の警護をお願い
します」
「・・言われるまでも有りませんよ」
剣呑な光を宿した島田の瞳が二人を見詰める。
「あんた達を信頼しないわけではないですが、迂闊な事はしないで下さいよ。必要
と有れば、俺はあんた達を仕留めるのに躊躇はしませんからね」

6

「此処良いかしら?」
頭上でした声に、ジョーは捲っていたレース雑誌から顔を上げた。
「・・いいぜ」
返事と同時にさり気無く、向かいの椅子を蹴ると声の主の為に座るスペースを空けてや
り、齧っていたサンドイッチを皿に戻した。
昼時のISOの社員食堂は混んではいるが、他に空席が無いわけではない。ジョーは薄青い
瞳を探りた気に、前に腰掛けた女に向けた。
ダニエラは豪華な金髪が額に掛かるのを、
ベビィピンクのマニキュアが施された指先で掻き上げた。目の前のトレーにはジョーと同
じ様にサンドイッチとコーヒーが乗っている。一つ摘んで、口元に運びかけたダニエラは、
自分を見ているジョーの視線に気が付いて、艶やかな笑みを浮かべた。
「私の顔に何か付いてる?」
「何で他にも席は空いているのに、此処に来たのかと思ってね」
「・・だって、ほら」
ダニエラがサンドイッチを摘んでいない方の手で、他所を指す。其の先には島田とナギが
居た。
「ナギがどうしても一成と昼食を取りたいって言うから・・。あぶれた同士でどうかしら?
と思って」
「俺にとっては有難い申し出には違いないけどな」
それだけ言うと、ジョーは視線を雑誌に戻した。齧りかけの昼食を再開し、合間にページ
を捲る。
「・・自信無くしちゃうわね」
両手でミルクティのカップを持ってダニエラがそう言った。何が?という風に視線を向け
ると、ダニエラがナギと同じ色の瞳で此方を見ている。
「私そんなに魅力無い?その雑誌よりも」
ニヤリと笑ってジョーは答えた。
「嫌、十分魅力的だぜ。胸だってナギとは大違いの本物だし、金髪は俺の好みだし、ミニ
スカートから覗く脚だって好い」
ジョーのセリフは十分にダニエラの自尊心を満足させたらしい、紫色の瞳が光を増した。
「今晩空いてる?」
「・・仕事が有るんじゃないのか?」
「物には優先順位って物が有るのよ」
「今の最優先は貴方よ・・」
「何時?」
「8時は?」
「俺車無いんだ。迎えに来てくれる?」
「良いわ。何処?」
ジョーは雑誌の片隅を破ると、アドレスを書いてダニエラに渡すと、彼女が読み終わる前
に雑誌を片手に出て行った。

「何となく胡散臭いんだ」
「ダニエラですか?それで誘いに乗ったわけですか?」
「自分から声を掛けるつもりだったんだが、向うから来てくれたなら丁度好い」
「・・ナギの言うには彼女は随分とあんたを気にしていたそうですから、向うから声を掛
けてきても不思議では有りませんが、何故其処まで彼女に拘ります?」
「・・好みのタイプだから」
「怒りますよ」
睨みつけるが、少しも堪えた風は無い。
「ナギ俺のこと何て彼女に言ったって?」
「博士の養子だと紹介したようですが」
「その辺が原因かなと思って、いきなりの接触は」
「成る程あんたや健なら誰にも警戒されずに、博士に近付けますからね。俺でもそうです
が」
「お前より俺の方が組し易いと踏んだんじゃねえか」
「そう言えば、ナギはダニエラの方から俺と昼食を取るように勧められたと言ってました
が」
昼食を終えた島田が食事の間中ナギのお喋りに付き合わされたと、ボヤいていたのを思い
出して、ジョーは笑いを噛み殺した。
「ナギはこんな仕事には向いてないな。お喋りすぎる」
まあ、それが狙いだったんだが・・とブレスレットを普通の腕時計に変えながら、口元を
緩ませた。
「預かっておいてくれ」
自分に差し出されたブレスレットを、島田は嫌そうに見た。
「持って行かなくて良いんですか?」
「こんなのが見つかったら、尚ヤバイだろ。それに・・」
自分を見返す鋭い瞳にジョーは口を噤んだ。
『もし、俺があいつらに使われたら?変身して、バードスタイルで博士を襲うような真似
はしたくねえ』
「あんた、健には了解を得てるんでしょうね」
「おっ、時間通りだ。じゃあ、行って来る」
窓から外を窺っていたジョーは島田の言葉に耳を貸さずに、ジャケットを手に取った。
「ジョー!」
「健には連絡しといてくれ。怒りゃしねえよ、あいつも何時だって遣ってるんだから、単
独行動」
後に残されて島田は、自分の手の中で鋭く光を弾いているメタルスチールのブレスレット
を握り締めた。未だ微かにジョーの温かみが残っていた。

「ゲイって訳じゃないのね」
隣に身体を倒したジョーの背にダニエラが指を滑らせた。その言葉にジョーは心底面白そ
うに笑い声を上げた。
「ゲイに間違えられたのは、初めてだ」
「・・一成と寝てるでしょ」
「・・それもナギに聞いたのか?」
「ナギ・・?あの子はそんな事考えても居ないでしょ。一成がゲイかもって言ったら、思
い切り否定してたわ・・」
「・・じゃあ何でだ?」
「キスしてくれたら、教えてあげるわ」
輝く紫色の瞳で悪戯っぽく彼女は笑った。ラメが入ったピンクの唇にジョーは自分の唇を
合わせた。其の儘深く口付ける。閉じていたダニエラの瞳が開いて右手が上がるのを、
眼を閉じたままのジョーの左手が掴んだ。片目を開けると、ジョーはニヤリと笑って見せ
た。
「流石に諜報部の主任となると、只でキスはさせて貰えないのかな」
注射器を握ったダニエラの手首を容赦無しに掴んで、ジョーはダニエラの枕の上に広がる
金髪の横に押し付けた。悔しそうに唇を噛み締めたダニエラの膝が隙を狙う様に跳ね上げ
られるのを、自分の膝で抑え込む。
「5年主任を務めているようなあんたが何故、ISOを裏切るような真似をするんだ」
「・・・キスをしてくれたら、教えてあげるわよ」
唇を歪めてもう一度ダニエラは言った。自分を見上げているダニエラの唇が嫌に艶かし
い。次第に其の輝きを増してくる様な紫の瞳が、宝石のように無表情に彼を見詰めた。
「キスしてくれる?」
ダニエラの言葉に抗えないように、ジョーは唇を近付けた。湿った感触が伝わって、自分
の動作が緩慢な事に彼は気が付いた。開けようとする意識とは関係なく、瞼が重くなって
来た。
「眠りなさい。眠くなってきたでしょ」
信じられない様に、首を否定に振ってみたが、意識は彼を裏切ってしまった。
傍らに横たわったジョーの右腕に、ダニエラが手にしていた注射器を当てた。
「眼が覚めたら、世界が変わってるわ。良い夢をね、ジョー」
笑いながらダニエラは、ベッドボードに置いてあったティッシュで、ピンクの口紅を拭った。

7

「ナギ、ダニエラは何処です?」
オフィスの扉を開けて、入って来た島田の質問に、ナギは困ったような表情を浮かべた。
「私も探してるんですけど・・。今日は未だ見て無いんです」
ナギの言葉に、島田の険しさが増す。
「連絡をしてみましたか?」
「携帯も自宅も出ません」
島田の剣幕に、自分が叱られているような気がして、ついナギは小さな身体を更に縮めた。
「・・だから言わんこっちゃ無い」
「ダニエラがどうかしたんですか?」
「何でも有りません。貴方は貴方の仕事して下さい」
そう言って島田は出て行ってしまったが、何となく気になる。ナギは暫く考え込んで、ス
クッと立ち上がった。
「此処で電話番してる場合じゃないわ。島田さんを助けなくちゃ」
島田が何の目的でダニエラを探しているのかは分からないが、あの様子ではきっとダニエ
ラは島田の味方では無さそうだ。
「あたしにだって、きっと出来ることが有るわよ。ちゃんと訓練もしてきたんだもの」
肩から吊るしたホルスターを少し不安そうに確かめて、彼女は部屋を後にした。

「拙いことになりました」
苦々しく口にした島田の思いは、南部も、そして健も同じだった。
「当然の事ですが、ダニエラは姿を消しています。ジョーを誘ったことも俺たちには知れ
てますし、潮時だと思ったんでしょう」
『それに多分、ダニエラは今度の作戦が成功すると確信いるのだろう』
口にはせずに、島田は懐の銃を取り出して、装弾を確かめた。その物々しさに、南部は冷
たいものを背筋に感じる。あの時ジョーと島田が冗談の様に会話していたことが、現実の
物になるとは考えたくなかった。
「島田さん、貴方にこんな事を訊くのは失礼ですが、ジョーを相手にして貴方は勝てます
か?」
それは、本当にジョーを撃てるかと言う意味だ。健の言葉に島田が口元で笑う。
「何度も言わせないで下さい。俺はトリガーを引くのに、何の躊躇いも有りませんよ。そ
れとも、俺がジョーに射撃で敵わないという意味ですか?」
「島田さん、出来るなら・・」
「それは状況次第です」
健の言葉を無下に島田は一喝した。
『あの馬鹿』
健の表情は頑なな島田に反して、硬い。
『本当に島田さんに殺される心算か』
「何にしても、ジョーが今何処にいるかは分かりません。向うが仕掛けてくるのを待つし
か有りませんよ」
「でも・・」
健は口篭る。それは南部が標的になるという事だ。ジョーはスナイパーとしても一流だ。
今こうしている時にもスコープで狙われたら、防げない。
「ちょっと待って」
遮る声を押し切って開けた扉からナギが飛び込んで来た。かなり秘書と揉めていたのか、
二人とも息を切らせている。
「すみません、止めたんですけど」
南部よりも島田の叱責を恐れてか、秘書が言い訳がましい言い方をする。それに、島田が
退がるように、眼で合図する。
「島田さん、何か有ったんでしょう?ダニエラがどうかしたんですか?」
其処まで一気に尋ねて、自分を見ている健に気が付いた。
『あの時ジョーと一緒に出て行った、美少年・・』
「島田さん、ジョーは?どうして此処に居ないんですか?」
ナギの質問に一瞬部屋の空気が張り詰めた。
「・・ナギ、貴方はジョーが撃てますか?」
「えーー、何で?それってどういうことですか!」
「言葉通りです。敵がジョーかダニエラだったとして、貴方は彼らを撃てますか?」
『そ、そんなーー。私の腕前で、ジョーやダニエラに敵うわけ無いじゃない!』
そう思いながらも、「はい」と答えてしまったのは、島田がジョーを撃つ気だからだ。
『島田さんにジョーを撃たせるなんて駄目!』
その為には恐くても、絶対に引かない。
結局、島田は南部の護衛にナギが加わることを許した。
「無謀です」と言う健の抗議にも、南部の渋面にも構わずに彼はナギに、「防弾チョッキ
だけは忘れないように・・」と命じた。
「彼女だってプロですよ。今は一人の人手も必要なんです」

手の中のコルトパイソンは馴染みの有る重さで、自分の鼓動を静めてくれているのに、何
故か何処かすっきりしない物を彼は感じていた。ターゲットの写真を見せられて、仕事の
説明をされる。何処かで見た事の有る温和な科学者の面差しを、不思議な気持ちで彼は見
詰めた。
「俺はこいつを知っているような気がする」
そう言った彼に、パートナーの女は薄く笑った。
「彼は有名な科学者よ。テレビにもしょっちゅう出てるわ」
「そういう事とは違うのだ」と、彼は言おうとした。写真の中のこの紳士が、何時か自分
向かって笑いかけていたことが有った様な・・。しかし、其の思いは、彼女の言葉で掻き
消された。
「でも、彼の正体は一般には知られていないの。ISOの責任者の顔をして、実は彼がギャラ
クターと繋がっているってことはね」
「ギャラクター?」
男がこの言葉に異様に反応することを女は気付いた。彼女は殊更に言葉を強めて言った。
「ギャラクターを倒すのが、私達の仕事よ」
男は手の中のパイソンを握り締めて頷いた。

8

コール音一回で、健は南部に代わって受話器を取った。青い健の瞳が一瞬見開かれて、彼
は「分かりました」とだけ答えて、受話器を置いた。少し青褪めた表情で、「来ました」
と搾り出す。ジョーが声紋チェックと角膜チェックをエントランスで行うと、連絡を入れ
るように指示してあった、セキュリティ部門からの連絡だった。
立ち上がりかけた島田を健が止める。
「俺が行きます」
島田は健の言葉を無視するかのように、何も答えない。黙ったまま扉に手を掛ける。
「島田さん」
再度声を掛けた健に、振り向かずに彼は答えた。
「貴方はナギと一緒に博士を守っていて下さい。これは俺とジョーの約束でしたから」
『貴方にそんな真似をさせたら、俺があいつに叱られます』
もし、自分がジョーを手に掛けたら、健はきっと後悔するだろう。それが例え、南部の命
を守るためには避けられない事だとしても、だから、健にそれをさせるわけにはいかない。
そんな感傷を島田は鼻で笑った。本当は自分が待機していなくてはならないのだ、南部の
側には。だが、自分にはそれが出来なかった。
「俺も口ほどじゃない」
笑いを浮かべながら、彼は手の中の、オートマグナムの重さを確かめた。
「一発で仕留めてあげますから」
マグナムの殺傷力は普通の弾の比では無い。そして、島田の所持する銃は、ジョーの愛用
しているパイソンよりも更に口径も大きい。狙いが良ければ熊さえも一撃で倒すという其
の銃を選んだ事を、島田は初めて後悔した。

真夜中でも人気が無くならないISO本部だが、そのフロアーは無人で、シンと静まり返って
いる。交代制で働く勤務の者なら兎も角、こんな時間に南部が此処に居るという情報の信
憑性はかなり薄いのではないかと、ジョーは思った。自分のパートナーが寄越した情報、
と言うよりも、何故か彼女の存在自体が、酷く彼には疑わしかった。
長く一緒に遣って来たパートナーだという彼女の言葉が真実なら、こういった任務の時なら、
全てを口にしなくても通じ合うものが有る筈だ。が、ダニエラと自分にはそれが無い。確
かに記憶は有るのだ、ダニエラと任務を共にした。しかし、それはヤケに曖昧な記憶だっ
た。自分が銃撃を潜り抜けて、身を隠した障害物の影で、笑い掛けたのは、笑い返したの
は、もっと違う・・。
磨き上げられた通路を歩いて行く自分の靴は、勿論足音などは立てない。最小限に落とし
た照明が、自分の影を細長く壁に映し出した。
ふと、前方に自分とは異なる影が映った。自分とほぼ同じくらいの背丈。だが、体つきは
自分よりも相手の方がかなり逞しい。
「此処からは通すわけには行きません」
低いがジョーの歩みを止めるには十分な強さで、島田は言った。自分の前に立った影の実
態に、ジョーは奇妙な感覚を憶えた。
『俺はこいつを知っている?』
それが自分の敵なのか、味方なのか、分からなかった。だから彼は癖になった少し眇めた
眼で島田を見詰めて、暫く其の儘で居た。
「お前には用が無いから、退いてろ」
自分の前に佇んでいる島田に、焦れたようにジョーは告げた。その口調は何時もの彼と何
も変わらなくて、左脇のホルスターに手を伸ばす島田の右腕を一瞬止めさせる。
「退かないと言ったら?」
返事は無い。有無を言わさずにジョーが下げていたパイソンが向けられて、火を噴いた。
当然予測していた島田は、飛び退いて自分も取り出したオートマグナムのトリガーを引く。
互いに遮蔽物に身を隠して、撃ち合う形になる。
「迷惑な事だ」
島田は飛び散る花瓶や、抉られて落ちた壁に飾られていた絵画を見て、後始末を考えた。
実際の所そんな余裕が有るわけでも無い。ジョーの腕前は自分と比べても遜色は無い。
だが、自分の方が装弾数は多い。是は絶対に有利だった。如何にジョーが銃弾の装填を早
く出来るにしても、其処には何秒かの隙が出来る。自分にはそれで十分だった。相手に向
かってトリガーを引きながら、島田は用心深くジョーの残弾数を数えていた。

「カチッ」という乾いた音が、自分の銃からして、装弾していた全弾を撃ち尽くしたこと
を彼に知らせる。
「チッ」と小さく舌打ちをしてジョーは、スイングアウトした弾倉から、薬莢をはじき出
した。
「弾は無くなりましたね」
嫌に余裕のある声でそう告げられて、相手が自分の弾数を数えていた事を知る。相手がマ
グナムを片手に、遮蔽物から身を露にする。自分が装填すべき余分な弾を持っていない事
を、十分に承知しているかのようだ。それに応える様に、ジョーも島田の正面に立った。
「過ぎた計画と諦めますか?」
ジョーが従うはずは無い。訊くだけ無駄なことは分かっている。その証拠に、島田の銃は
ジョーの急所に狙いをつけた位置から、少しも動かなかった。

一度止んだ銃声が、もう一度した。島田の出て行った後、健の制止を振り切って後を追っ
て来たナギは其の鋭さに、身を振るわせた。
「まさか・・」
前方に立つ人影に、
ナギは息を詰めた。同時に横たわっている男に眼を遣る。マグナムを握っていた島田の右
腕から滴った血が、床に落ちて行く。右の上腕に刺さっているナイフを、彼は無表情に抜
き取った。
「ナイフ投げも得意でしたね。忘れてましたよ」
ジョーの容態を確かめていた、ナギが固い表情で彼を見上げた。
「島田さん、ジョーが・・」
見上げてくる蒼白なナギに、島田は怒鳴りつけた。
「誰が此処に来て良いと言いました。持ち場に戻りなさい。ダニエラが未だ居るんです
よ」
激しさに弾かれたように、ナギが元来た道を戻って行く。それを見送って、島田は自分の
ワイシャツを引き千切った。

突然駆け戻るナギの先で、銃声が響いた。
「島田さんの言う通り、ダニエラが・・」
『美少年大丈夫かしら?』
ベレッタをホルスターから抜き出して、ナギは走った。
銃声が響く中、ナギは懸命に走り続けた。そして其の先に立っている人物を見つけて、油
断無くベレッタを構える。
「ダニエラ」
呼ばれて振り向いたダニエラは、今日も見事なプロポーションを赤いスーツに包んでいる。
汗を滲ませて、息を荒くしたナギを彼女は可笑しそうに見た。
「ナギ。こんな所で何をしているの?怪我をするわよ、過ぎた任務に手を出すと」
ダニエラの穏やかな声はあの日と同じ、自分に声を掛けて来た時と変わらない。でも・・
とナギは唇を噛み締めた。
『貴方が、島田さんにあんな顔をさせたんだわ』
「どうしてこんな事をしたの?貴方はISOを裏切っていたの?」
「私はギャラクターの人間よ。昔からね。ISOで信用を得るために5年以上も掛かったわ。
本当は私の任務は未だ先の筈だった。あんな事が無ければね」
「あんな事?」
「一成は南部博士の身を守るためなら、誰でも容赦はしないと言っていたわね。でも命を
奪われた人間も、誰かにとっては掛け替えの無いものよ」
「・・それって」
「一成に私の恋人は殺されたわ。博士を誘拐するのがその人の任務だった。でも、結果は
分かるでしょ」
クスリとダニエラが笑った。其の瞳には涙が光っているようだった。
「本当は、マントル計画の情報をゲットするのが、私の仕事だった。でも、我慢出来なかっ
たの、だってその人を愛していたんですもの。だから、博士の暗殺を申し出たのよ。序に
一成を始末して仇も討ちたかった。ジョーは適任だったわ。でも、失敗したようね」
「撃ったら?ナギ。その為に来たんでしょ。どうせ自分から言い出した任務に失敗して、
生きてはあそこには帰られないもの」
自分の腕の中でベレッタが、突然酷く重く感じられる。
「・・撃てないよ・・。同じ女だもの」
其の言葉にダニエラは静かな笑いを浮かべた。ゆっくりとした動作で彼女は手の中の銃を
構えた。S&W Air Lite 44。比較的小型で軽量だけど、自分が持っている護身用のベレッ
タとは随分違う。綺麗にマニキュアされた指で、ダニエラが引き金を引く。其れを辛くも
ナギは身を転がして避けた。
「・・真に受けたの?馬鹿ね、だから貴方はこの仕事に向いていないのよ。一成にそう言
われなかった?」
「嘘なの?」
それにダニエラは答えなかった。自分と同じ紫色の瞳で、真っ直ぐに見詰めたまま、トリ
ガーを引く。左腕に焼け付くような痛みが有って、それに背中を押されるように、ナギは
手の中のベレッタを握った。見えるはずも無い速さで、弾丸はダニエラを捉えた。
自分のしたことが信じられないように、ナギは倒れているダニエラに歩み寄った。そうし
てダニエラの話していた事が、真実だと分かった。彼女は微笑んでいた。左手が握り締め
ている写真が一枚。自分と同じ赤毛の女性が写っていた。
涙が頬に零れてきたのを、ナギは片手で拭った。向うから歩いてくる島田と健の姿が見え
る。
「是は傷が痛むから・・」
濡れた瞳の理由を、ナギは自分にそう言い聞かせる。手にした写真を、ダニエラのスーツ
のポケットに、そっと戻した。


The End


Top  Library List