WOLF

by Kiwi


1

見上げる空は澄んだ青さで広がって、水平線で少し色濃い海と交わっていた。砂浜に泳ぎ
着いて、ジョーは頭を振って水滴を払った。彼の枯葉色の髪先に留まっている水滴が、強
い太陽の光を弾いてキラリと光った。日焼けした身体には雫が流れている。この島に照り
つける日差しは年中強い。毎日外で遊び回っている子供たちの肌の色は、本土の人間に比
べたら同じ人種には思えない。そして、大概の貧しい家庭の者は外での労働を余儀なくさ
れている所為か、大人になっても日に焼けた肌を持ち続けている。結婚するまで本土のし
かも北の方に住んでいたジョーの母親の、白い肌と薄い色の瞳、そして少し赤みが掛かっ
た金髪は、この島では異質な存在だ。そうした母親の容姿をジョーは受け継いでいた。少
しきつめの瞳も意志の固そうな口元も、どちらかと言えば母親似だ。ジョーの父親は濃い
茶色の髪と茶色の瞳を持つ、何処か柔和な感じをさせる微笑を何時も浮かべている様な人
物である。父親が怒った顔をジョーは見たことが無かった。

「つまらない・・」
泳ぎ疲れた身体を、ジョーは砂浜に投げ出した。冷えた身体に熱くなった砂が心地良い。
昨日からジョーの両親は外出している。屋敷に居るメイド達が身の回りの世話をしてくれ
るから、何も不自由は無い。しかし周りが大人だらけの家に一人で居るのは、退屈だった。
「アランと遊びに行こうかな」
その考えは楽しそうだったが、この時間アランが働いているのを知っているジョーは、頭
を振ってその考えを否定して、親指の爪を噛んだ。両親の居ないアランは引き取られた叔
父の果樹園で働かされている。あまり裕福ではないアランの叔父は、彼を引き取る事に乗
り気ではなかったらしく、アランはそこで十分な暮らしをさせてもらっているとは、お世
辞にも言えなかった。
「仕方ないよ。叔父さんだって大変なんだから・・」
殴られて唇を切ったアランが、そう言って叔父を庇うのを、ジョーは納得出来なかった。
「俺が文句を言ってやる」と、怒ったジョーにアランは寂しげに笑った。
「ジョージはお坊ちゃんだから・・」
その言葉が全ての拒絶の様で、ジョーは何も言えなかった。自分の家が裕福なのは、勿論
彼も知っていた。大きな屋敷にたくさんのメイド、両親に付き従っている数多くの男達。
そのどれもが物語っている。自分の両親の仕事が何なのか、ジョーはまるで想像が出来な
かったが、自分の事を大切に扱う島の大人達の態度から、此処では特別な存在なのだと知
れた。だからこそ、アランの叔父にジョーは言いたかった。「アランを殴るのは止めてく
れ!」と。彼はきっとジョーの言う事を聞いてくれるはずだ、という自信も有った。けれ
どアランは何時も首を振った。
「それじゃあ、もう友達じゃない」
アランの固い横顔が、それでは対等な関係ではないのだと言っていた。
「早く大きくなって強くなりたいな」
二人が見つけた小屋を改造して作った隠れ家で、吊るしたサンドバックを叩きながら、ア
ランは何時もそう言った。
「大きくなったら、この島を出て行こう」
ジョーの言った言葉に、アランは頷いた。
「一緒に行こう。何時までも友達だからな」
そう言ってアランは、熱心にサンドバックを叩いた。


2

未だ夕闇は襲ってこない。歩き慣れた道をジョーは一人で歩いていた。傾きかけた夕陽が
植えられたオリーブの木々に照り付けて、長い影を作っていた。アランと別れた帰り道、
ジョーは少し足早に歩いた。今日は自分の両親が帰って来る。二日の予定で出掛けた本土
への旅行は、結局五日に延びてしまっていた。
「明日帰るから、お土産を楽しみにしていろよ」
電話でそうパーパは言っていた。お土産って何だろう?そう思うと自然と急ぎ足になる。
殆ど駆ける様にして、ジョーは家に戻った。
「アメリア、パーパとマーマは帰って来た?」
ジョーが生まれる前どころか、父親が未だ大人になる前からこの屋敷で働いているメイド
の姿を見るなり、ジョーは尋ねた。
「未だですよ。お帰りになるにしても、今晩遅くですよ」
「なーんだ・・」
「それならこんなに早くに帰ってくるんじゃなかった」と、言いたげなジョーの頭を、彼
女は大きな手で撫でた。
「良い子だからシャワーを浴びて、先に食事にしなさい」
「・・う、先に食事をしちゃ駄目?」
「腹ペコなんだ」と大きな水色の瞳で、ジョーは訴えた。
「頭の先から爪先まで、埃だらけですよ。ほら此処も・・」
言いながら大きなエプロンで、頬に付いた泥をアメリアは拭いてくれる。身体からはジョー
の好きなトマトソースの香りがした。
「じゃあシャワーを浴びて来る。直ぐだから、もう準備しておいて」
腹ペコの仔犬が駆けて行くのを、アメリアは微笑んで見送った。
「それにしても・・」
と、ジョーの姿が見えなくなった後に、アメリアは呟いた。
「旦那様と奥様の帰りがこんなに伸びたのは、どうしてなのかしら?」
ジョーの両親のカテリーナとジュゼッペは、カテリーナの父親に会いに出掛けている。
元々カテリーナの父親が纏めるファミリーの、一つのグループでしかなかったジュゼッペ
のファミリーが、その中で台等を顕したのは、ジュゼッペの父親が、ファミリーの中での
いざこざから暗殺された時からだ。その後継者として、未だ若いジュゼッペは暗殺を試み
た敵を一蹴し、父の亡き後ファミリーを纏めて来た。その才覚を認めたボスが自分の娘で
あるカテリーナを、彼に嫁がせたのである。温和なジュゼッペの風貌からは、凡そ窺い知
れないが、彼は仲間内ではその決断と実行の早さを認められている。柔和な容貌が必要と
有らば、何時でも尖った刃のように変わってしまうことを実際に知っているのは、もしか
すると周りを何時も固めているファミリーの人間だけかもしれない。一見はカテリーナの
方が激しい気性に見えるが、自分の大切な物を守るために牙を剥いたジュゼッペは、何よ
りも恐ろしい。アメリアは、彼が「ウルフ」と呼ばれる所以を知っている、数少ない人間
の一人だった。だから尚の事今回の旅行が、こんなに延びたのが不思議だった。カテリー
ナの父親のサミュエルは、ジュゼッペに絶対の信頼を置いている。その彼からの相談事を
持ちかけられたのが、今回の旅行の目的だった。何故こんなに手間取ったのか?アメリア
は言い知れぬ不安を感じた。
「何にも無ければ良いのだけど・・」
その不安が何なのか、何故こうも不安を感じるのか、彼女には分からなかった。

結局両親が帰ってきたのは、ジョーが寝るように定められている時間をかなり越してから
だった。「帰ってくるまで待つ」と言い切るジョーを宥めすかして、アメリアは彼をベッ
ドに入れた。
「パーパとマーマが帰って来たら、絶対に起こしてよ」
「はいはい・・」
自然と引っ付いてしまいそうな瞼を必死に開けているジョーを、やっとの思いで彼女は寝
かしつけた。
そしてその深夜、ジョーは自分の頬に触れる温かみで目を覚ました。誰に教えられたわけ
でもないがジョーは天性の物として、人の気配に敏感な処が有った。無邪気に眠っていた
はずのジョーが、自分の手が触れるか触れないかの内に、パチリと印象的な瞳を開いた時
に、ジュゼッペは自然と口元を綻ばせた。
「どうした?寝ていなかったのかい?」
「パーパ、お帰りなさい」
一瞬キッと睨んだような瞳が、年相応の幼さに変わって、ジョーは父親の首に縋り付いた。
「起こしてしまったかな。もう遅いから其の儘寝ていなさい。お土産は明日のお楽しみだ
よ」
何時もと同じ柔和な父親の瞳が、少し翳っているのが何故かとても不安だった。だから、
ジョーは両腕に力を込めて、もっと縋り付いた。
「何だ、赤ちゃんみたいだな」
笑いながらもジュゼッペはジョーを抱き上げた。自分の肩口に当てられたジョーの頭を軽
く撫でる。
「マーマは?」
「今はシャワーを浴びてるよ。どうしたんだ、ジョー?」
自分のシャツを通してくる雫に気付いて、ジュゼッペはジョーの頭を持ち上げさせた。未
だ丸みが有る頬を伝う涙に、驚いた様に彼は目を瞠った。
「怖い夢でも見たのかい?」
尋ねる父親に彼は首を振った。怖い夢を見た憶えは無い。只、とても不安だった。それは
昨日までは感じなかったものだった。何故父親の顔を見た途端に、こんな不安を感じるの
か、彼にも分からなかった。
「まあ・・ズルイわ、ジュゼッペったら!」
背後でした声が自分の母親のものだと気付いて、ジョーは自分を抱いている父親の肩越し
に顔を覗かせた。
「マーマ」
「私にはジョーはもう寝ているから、先にシャワーを浴びるように言ったくせに。一人で
顔を見に来るなんて」
ジョーとそっくりな水色の瞳を光らせたカテリーナが、半分笑いながら立っていた。
「しまった、見つかったか・・・。ジョーの寝顔を見たら直ぐに戻るつもりだったんだが
・・」
「あら?ジョーどうしたの?」
ジョーの瞳に未だ滲んでいる涙を指先で掬って、カテリーナが尋ねた。
「何でもないよ」
グイッと手の甲で涙を拭うと、ジョーは母親の方に手を伸ばした。その手を取って遣りな
がら、カテリーナは頬にキスをしてやった。
「・・もう遅いわよ、早く寝なさい。でないと、お土産は無しよ」
頬に触れた温かみに少し安心したように、ジョーは目を閉じた。瞬く間に眠り込んだジョー
を見下ろして、二人は顔を見合わせた。
「油断は出来ないわよ、ジュゼッペ」
「・・分かっているよ。アントニオは何を仕出かすか分からない奴だ」
「ジョーの身に危険が及ばなければ良いけれど・・」
「そんな事はさせないさ、絶対に」
茶色の瞳が帯び始めた光に、カテリーナは微笑んだ。
「しっ、ジョーが目を覚ますわ。部屋に戻りましょう」
眠っているジョーの額にキスをして、彼らは部屋を出た。


3

「どうして、遊びに行っちゃいけないの?」
もう何度目かの質問に、手持ち無沙汰にナイフを使って木を削っていた男が、溜息を付い
た。
「ジョージ坊ちゃん、いい加減にして貰えませんか?」
「だって・・退屈なんだもん」
形の良い唇を少し歪めて、ジョーは重ねた両手の甲にこれだけは父親譲りの顎を乗せてう
んざりとした様に、又言った。先程から何度も同じ事を繰り返している。お守り役のセル
ジオは、その度にジョーに辛抱強く答えてやっていた。
「ちょっとお客様が来るんですよ。旦那様も奥様もその準備で忙しいし、俺達もそうジョー
ジ坊ちゃんに掛かってられないんで、頼みますから大人しくしておいて下さいよ」
「一人で遊びに行けるよ。何時だってそうしていたもの」
「いえ・・ちょっとその客人が・・」
問題なのだ、と言い掛けて、セルジオが口篭った。言葉を切った気まずさを誤魔化す為に、
彼は手にしたナイフを離れた木の幹に投げた。狙い違わず木の幹に深々と刺さったナイフ
を、ジョーは尊敬の眼差しで見た。
「セルジオ。俺にも教えて」
「坊ちゃんにですか?」
少し考えて、彼は頷いた。身を守る術を身に着けて置くほうが良いかも知れない。
「良いでしょう」
新しい玩具を与えられた子供の好奇心で、ジョーは練習に励んだ。
「狙った処にまず当てることを考えなさい。最初はきちんと身体を固定して、向きを的と
同じにして・・そう、そうです」
しかしジョーの手から放たれたナイフはとても目的の木には届かずに、
その手前で地面に落ちた。
「あっ」
悔しそうに唇を噛み締めて落ちたナイフを拾いに行く。そして彼は、又木に向かい合った。
もう一度教えられたように狙ってナイフを投げる。今度は先程よりも少し木の近くに落ち
た。何度もそれを繰り返す内に、何とか木に届くようになった。
「ほう、坊ちゃんは中々筋が良いや」
決してお世辞ではなくセルジオはそう言った。
「でも刺さらないよ」
自分の成果にジョーは不満そうだ。
「まあ未だ力が足りないですからね。その内巧くなりますよ」
「ふ〜ん」と、それでも不満そうに口を尖らせる。
「処でさ、セルジオ」
「何ですか?」
「誰が来るの?お客様」
「坊ちゃん、忘れてなかったんですか?」
「誰?」
重ねて尋ねてくる綺麗な瞳から、セルジオは漸く目を反らした。その先に駆けて来る若者
が見えた。息を切らした彼がセルジオとジョーの前に遣って来た。
「セ・・セルジオの兄貴。ボスが呼んでます」
「ロナウド!」
厳しい口調で咎められて、ロナウドは息を呑んだ。不思議そうに見詰めるジョーに、セル
ジオが透かさず言った。
「旦那様がお呼びだそうなんで、行きますからね。坊ちゃんは絶対に外出しちゃいけませ
んぜ」
釘を刺されて、ジョーは仕方なく頷いた。
「ロナウド、お前は坊ちゃんの側から離れるなよ。それから坊ちゃんにつまらねえ事を言
うと承知しないぜ」
鋭い眼光に見据えられて、ロナウドは何度も頷いた。
「ねえ・・ロナウド」
「何ですか?ジョージ坊ちゃん」
セルジオに比べてロナウドは未だ若い。多分19か20位だろう。その分組し易い事を、ジョ
ーは本能的に知っていた。
「お客様って、誰?」
「おいらに訊かないで下さいよ。おいらセルジオ兄貴に叱られます」
「・・そんなに大切なお客さまなの?」
「・・何せ本土のサミュエルさまの所から来られますからね」
「お祖父さんの所から?」
「しまった!」と口を噤んだが、ジョーは「ふーん」と唇を尖らせて何かを考えている。
「坊ちゃん、おいらが話したって兄貴には」
「言わないよ、ロナウド。俺は口が堅いんだ。だから誰が来るのか、はっきり言って」
「言えませんよ、坊ちゃん」
「ロナウド、これは命令だ。誰が来る」
ジョーが知る由も無い、父親と同じ光を放つ瞳に見据えられて、ロナウドは怯えた様に口
を開いた。
「アントニオ様が・・」
「アントニオ伯父さん?」
ジョーは伯父であるアントニオに、一度しか会ったことが無かった。2年前祖父サミュエ
ルの60歳の誕生日を祝う大きなパーティが開かれた時、両親に連れられて初めて祖父の
屋敷に行った。自分の家よりも更に大きな屋敷で会った祖父は威圧的で、ジョーはあまり
好きにはなれそうに無かった。が、サミュエルの方はジョーが気に入ったようで、彼を側
に置いて色々と話し掛けていた。その時に刺すような視線を感じて両親の影に身を隠すと、
伯父だと紹介された男が立っていた。そう言えばその時も何となく不安を感じた。
それはホールを埋め尽くしている人々が、身に纏っている雰囲気の所為かもしれなかった。
何処かピンと張り詰めた空気が、単なるバースディパーティにしては漂って居た。
「アントニオ伯父さんか・・」
ジョーは手にしたナイフを再び木に向かって投げた。今度はセルジオが見せた見本の様に、
深々と幹に刺さった。


4

「ジョージだったな・・」
豪華な食事が並べられたテーブルの主賓席に腰掛けたアントニオが、ジョーを見るなり手
招きをした。ジョーは一瞬瞳を両親の方に向けかけたが、其の儘伯父の方に歩いて行った。
カテリーナが何か言いたげに腰を浮かしかけるのを、ジュゼッペが腕を掴んで止める。
「こんにちは、アントニオ伯父さん。お久し振りです」
威圧的に見下ろすアントニオに、怯んだ様子も無くジョーは挨拶をした。そんなジョーに
アントニオは口元に少し笑いを浮かべたが、きつい光を放つ眼差しは少しも笑っていなかっ
た。
「幾つになったかな?」
「7歳です。もう直ぐ8歳になります」
「そうか、7歳にしては良い目をしているな。ジュゼッペは良い後継者を持ったな、羨ま
しいよ。私の息子はどうしようも無い奴でね・・ジョージ、今度私の屋敷にも遊びに来て
くれ」
「はい。伯父さん」
漸く伯父から解放されたジョーは、自分の席に戻るなり溜めていた息を吐いた。自分を見
つめる伯父の目に何か含みが有るようで、本当は怖かった。けれど、それを見せるのは何
故だか自分に許せなかった。自然と震えそうになる両手に力を込めて、ジョーは少し離れ
た席に座る両親を見た。二人が自分を見て、安堵したように笑い返すのにホッとする。唯、
その晩の食事は殆ど味がしなかった。

食後、ダイニングから居心地良く設えられたリビングに移動して、アントニオはブランディ
のグラスを手の中でゆっくりと温めて、一口含んだ。傍らに立っている自分の部下が差し
出すシガレットケースから、一本煙草を取り出して火を点けさせた。ジュゼッペが吸う物
よりもきつい香りが、部屋の中に立ち込める。
「考え直したかね?」
紫煙を吐き出すのと共に、毒を含んだ様な声で彼は尋ねた。決してジュゼッペが考えを変
えるはずが無いことを、既に知っているような口調だ。
「アントニオ義兄さん、あの組織は危険だ。ファミリーにとって、あの組織と手を組むこ
とは最悪の事態を招きかねない」
「最悪の事態?可笑しな事を言うな、ジュゼッペ。何が変わると言うのだ?ファミリーは
元々血の結束で出来ている。家族でなくても一度ファミリーに加わったものは、身内だ。
裏切りは許されない。脱けることもだ。何も変わらない。その上あの組織の持つ科学力、
戦闘力・・それがこのファミリーに加わるんだ。本土だけではない、全世界にまでもその
支配を伸ばせる。齎される富は想像を絶するぞ。何を躊躇うんだ?まさか、お前はジョー
ジを後継者にという、親父の決定に背くつもりじゃないだろうな。あいつは良い子供じゃ
ないか。羨ましいよ、本当に良い息子を持って・・」
アントニオの言葉に含まれている毒が更に強く成ったような気がして、ジュゼッペの頬か
ら色が消えた。黙って聞いていたカテリーナがキッとアントニオを睨み付けた。
「アントニオ、ジョーに何かしたら、許さないわよ!」
「私が可愛い甥に何をするって言うんだ、カテリーナ。しかもジョージは親父がファミリー
の次の後継者に選んだ子供だぜ」
「その言葉に嘘は無いわね」
「勿論だ。だが、世の中何かと物騒だ。何が有るか分からん。そうでなくても、ファミリー
の決定に反対したら、裏切り者と思って何か仕出かす人間がいるかも知れない。十分気を
付ける事だ。・・親父の決定に従うって事でいいなあ、ジュゼッペ」
ジュゼッペはきつく拳を握り締めて、やがて頷いた。
「そうでなけりゃあ。お互い家族も有れば手下も居る。利口にならないとな。明日は早い。
もう休ませて貰おう」
靴音を響かせてアントニオは、自分に用意された部屋へ戻った。

翌朝アントニオは本土へ帰って行った。それをアメリアから聞いたジョーは、嬉しそうに
瞳を輝かせた。
「じゃあ、今日は遊びに行っても良い?」
「そうねえ・・」
アメリアは少し考えてから、返事をした。
「セルジオが良いと言ったらね」

セルジオに頼み込んだけれど、彼は一人で遊びに行くのを許してくれなかった。自分の後
を少し遅れて付いて来るロナウドを振り返って、ジョーは舌を鳴らした。
「ロナウド、もう付いて来るなよ」
「そんなわけには行きませんよ、坊ちゃん」
余程セルジオに言い含められているのか、ロナウドは言う事を聞かない。
「アントニオ伯父さんは本土に帰ったんだから、もう良いじゃないか」
「駄目ですったら!」
ジョーはウンザリした。お守り付きで遊びに行くなんて、冗談じゃないよ!
突然彼は駆け出した。自分の身体が小さいのを利用して、空き地の金網が僅かに綻んでい
る穴に、身を潜らせた。
「坊ちゃん!」
自分を呼ぶロナウドの声に足も止めずに、ジョーは駆け出した。その後を、顔を青褪めさ
せたロナウドが追う。
「良いか、ロナウド。アントニオさんは帰ったが、未だ何人か手下が残っている可能性も
有る。絶対に坊ちゃんから目を離すなよ」
セルジオから厳しく言われていたのに・・。ロナウドは走りながら、携帯電話を取り出し
た。

上手くロナウドを撒いたジョーは、立ち止まって呼吸を整えた。背後を見るが、ロナウド
の気配は無い。
「これで良し!っと」
ジョーは汗で張り付いた前髪を額から引き剥がした。その時、背後から強い腕が首に回さ
れ、口を大きな掌が塞いだ。声を出そうともがくが、後ろから羽交い絞めてくる腕の力は
一向に弱まらない。
「助けて・・」
ジョーは声に成らない助けを求め続けた。一体誰が?この島で自分に危害を加えるものは
誰も居ないはずなのに。
「坊ちゃんー!」
やっとの事で追いついたロナウドの姿が見えた。ジョーは力一杯彼に向かって手を差し伸
べた。が、自分を拘束していた男とは別の手が、拳銃を取り出して、何の躊躇いも無く引
き金を引いた。ロナウドの身体が弾け飛んで、赤い血が穿たれた穴から溢れ出た。
『こんなにも人間からは血が出るのだ』と、何処か麻痺したような頭で、ジョーは感じた。
その一瞬の硬直から我に戻って、ジョーは暴れだした。
「放して」
少し緩んだ男の腕から逃れてロナウドに駆け寄ろうとするのを、更に男が拘束する。男に
掴まれた腕が痛い。強い力で押さえ付けられた口は、空気を求めて大きく開けられる。其
の儘ジョーは、必死の抵抗で男の手に噛み付いた。
「こいつ」
腹が立った様に男が噛まれた手を摩って、ジョーの頬を平手で叩いた。手加減を知らない
男の平手に、ジョーは気を失って男の手の中に倒れた。


5

虫の息のロナウドが、殆ど見えていないだろう目を自分に向けて、しきりと侘びを言って
いる。それにセルジオは固い口調で尋ねた。
「ロナウド、相手を見たか?」
「ア・・アン・・」
それだけ言うのがやっとで、彼の瞳は何も映さなくなった。
「ボスに連絡しろ!それから警察に一応連絡して、ロナウドの面倒を見て遣れ」
「分かりました」
命じられた若い男がジュゼッペに連絡を入れる為に、電話を取り出した。
「兄貴は?」
別の者が訊いてくるのに、セルジオは苦り切った顔を向けた。
「誰か見た奴が居るかも知れん。周りを調べてみろ!俺は一旦屋敷に戻る」
足早に立ち去って、車に辿り着いた。
「アントニオ。坊ちゃんに滅多な事をしたら、只じゃ置かないからな」
歯噛みをして、彼は高価な車のルーフに拳を叩き付けた。
「セルジオさん」
躊躇いがちな声が背後から掛けられて、彼は振り向いた。
「アランか・・・。どうした?顔が青いぞ」
「ジョージが・・気を失ったジョージを、男の人達が車に乗せて・・」
「見たのか!」
セルジオの剣幕にジョーを助けなかった自分を責められると思ったのか、アランはブルブ
ルと震えだした。大粒の涙が彼の瞳から零れ出す。
「アラン、俺は坊ちゃんを助けなかった事を責めちゃ居ない。お前のような子供にそんな
ことは無理だ。見た事を良く思い出して、全て俺に言ってみろ。早くしないと坊ちゃんの
身に危険が及ぶかも知れねえ」
「お・・俺あの人達が誰かは知らない。でも、車は港の方に走って行ったよ」
「そうか・・。アラン、お前も早く帰りな」
「セルジオさん、ジョーを助けてよ」
「分かってる」
心配そうに何度も振り返るアランに、セルジオは頷いてやった。

目覚めた時は殴られた頬が酷く痛かった。唇が切れて血が流れていたようだったが、後ろ
手に両手を拘束されているので、不快さを拭うことも出来なかった。僅かに身動ぎをした
のに、気付いた見張りが靴先でジョーの身体を転がした。相手の顔を見て、ジョーはそれ
が自分を張り倒した男だと気付いた。
「目が覚めたか?ジョージ」
『こいつは俺を知っている?でも、俺は会った事が無い。一体誰なんだ?』
「お前とは初対面だったな。俺はお前の従兄だよ。俺の親父はアントニオだ」
「従兄?」
「何で俺が此処に居るかって顔だな。親父も一緒だぜ、尤も此処はBCじゃねえけどな」
「BCじゃない?じゃあ何処なの?パーパとマーマは?」
「慌てなくてもその内会わせてやるよ。親父がお前の両親に話が有るらしいからな」
「・・此処は何処なの?」
「此処はBCから、船で一時間ほど走った処に有る小さな島だ。この島は親父の持ち物で
ね。俺の家の別荘意外には何も無い。だから、何を仕出かしてもバレないってわけさ。例
えお前をこっそり始末してもな」
ジョーの従兄だと名乗った男が、先程から彼の目の前でちらつかせていたナイフを愉快そ
うにジョーの頬の丸みに沿って走らせた。チリっとするような痛みが走って、生暖かいも
のが頬を伝った。
「痛いだろう、怖いか?」
愉快そうに言う男に、ジョーは心底不快感を抱いた。「怖くない」と言えば嘘になる。男
の何処か常軌を逸したような瞳は、多分相手がその気になれば、何の躊躇いも罪悪感も抱
かずに、ジョーのか細い喉下を掻き切るだろう。
だが、こんな相手に屈服して弱みを見せるのは彼のプライドが許さなかった。
「何故こんな事をするの?伯父さんはお家に遊びに来いって言ってた。こんな事をしなく
ても、遊びに来るよ。ロナウドに怪我までさせて・・」
言い掛けてジョーは気が付いた。ロナウドはどうしただろう。誰かが家に連絡をしてくれ
ただろうか?それとも病院に?
「ロナウドは?ロナウドはどうしたの?」
「止めを刺す前にお前を浚って来たからな・・まあもう生きては居ないだろうさ」
「嘘!」
「嘘なものか、かなり出血していたから、止めも必要無いだろうと思って其の儘にして来
たんだからな」
「嘘だ。あんたは嘘をついてる」
叫んだ瞳から涙が零れた。そんなに簡単に人間が、今まで自分の側で笑っていた良く知っ
ている人が、そんなに簡単に死んでしまうなんて事が有る物か!
「嘘だと思うなら思っていてもいいさ。だけどな、お前ももしかしたら、もう直死ぬかも
知れないんだぜ、怖いだろ」
目の前にもう一度ナイフをちらつかせる。怯えたジョーの顔を見ようと、俯いた彼の顔を
覗き込むと、キッと睨み返された。
「どうしてロナウドを殺したの!俺が必要なら俺だけを連れて来ればよかったじゃないか!」
「お前何にも知らないんだな。お前や俺の親父はな・・」
「余計な事は言わなくて良い、アルゴ」
背後でした声に、目の前の男がビクッとして振り返った。
「ジョージに余計なことは言うな!」
「だってさ、親父・・」
「私の言うことが聞けないのか!」
恫喝されたアルゴは、舌打ちをしてナイフを仕舞った。
「お前は向うに行っていろ!」
父親に命じられた彼は、ジョーを睨みつけて出て行った。
「すまないな、ジョージ」
「アントニオ伯父さん、何故俺をこんな所に連れて来たの?」
「ちょっとお前のパーパと話をしたいんだが、お前のパーパも強情でな。中々「ウン」と
言ってくれないんでな」
「だから、ロナウドを殺したの?俺を連れて来る為に?もしパーパが『ウン』
と言わなかったら、俺も殺すの?ううん、パーパやマーマも殺すの?」
「私だって手荒なことはしたくないんだよ。ジョージも可愛い甥っ子だしな。カテリーナ
は実の妹だぜ。だけど、大人の世界は難しいのさ」
何が難しいのか、分からなかった。分かりたくもなければ、そんな大人にも成りたくない。
だから、ジョーはアントニオを睨み続けた。
「・・ジョージ、お前は本当に良い目をしてるぜ。色はカテリーナ似だが、そんな時の表
情はジュゼッペに似ているな。おお・・物騒だ。お前は将来アルゴの敵にしかならないな」
一体アントニオは何を言っているのだろう?この間もお祖父さんの後継者がどうのこうの
と言っていたが、自分がどうしてそんな事を言われるのか、ジョーには分からなかった。
「まあ、お前のパーパから連絡が入るまで、此処に居て貰おうか。おい!」
横に居るアルゴより少し年が上の男に顎を杓った。
「顔を手当てしてやれ。手も解いてやって良いだろう。子供だから何も出来やしない。ジョ
ージ腹が空いただろう。晩御飯を持って来させてやろう」
「ゆっくりしていくと良い」
姿を消す前にアントニオはそう言って笑った。


6

「ジュゼッペ、アントニオは何て言って来たの?」
乱暴に扉を開けて入って来たカテリーナは、靴音を響かせるとジュゼッペの隣に立った。
淡い青色の瞳が怒りの為か何時もよりも色濃く見えて、その頬は赤く上気している。そう
した様が彫の深いカテリーナの顔を更に際立たせる。こんな時でなかったら、ジュゼッペ
は美しい自分の妻を抱き寄せるところだ。
「私と話がしたいから、一人で別荘の有る島まで来いと、言って来た」
「それでジョーは?」
「話が終ったら無事に帰すと書いて有る」
「分かるもんですか!あいつは何時だって貴方やジョーを羨んでいるのよ。特に父がジョー
を次の後継者に選んでからは・・」
「全く君の父上にも困ったものだよ。すんなりとアントニオやアルゴを後継者に選んでく
れれば良いのに。何で又、選りにも選ってジョーなのかな?」
「父の見る目に間違いは無いわ。でも、父も間違いは犯すの。それがあの組織と手を組む
ことだわ・・。けれど父が一度決定したことには従わなくては成らない。と、言うより、
もう遅いわね。多分あの組織はファミリーから手を引く気はないでしょう」
「だから滞在を伸ばしてまで説得していたのに。私達が帰るなり決定を下してしまうなん
て」
ジュゼッペは目頭を指で揉んだ。こんな繰言を言っても仕方が無いのは分かっている。こ
の先彼らが選択できるのは、自分の身内に危険が及ぶのを覚悟で、サミュエルの決定に逆
らい、その傘下から逃れるか?決定に従いながらも、ギャラクターという名で呼ばれるか
の組織の魔手がファミリー全体の安全を脅かさないように守るか?自分は後者のつもりで
諾を唱えたのに・・。アントニオは自分を余程信用していないのか?それとも端から裏切
り者扱いで、消すつもりだったのか?
「兎に角行くしかないだろう」
思い切ったように顔を上げるジュゼッペに、カテリーナは渋い顔をした。
「アントニオは正々堂々と交渉に出たり、勝負したりするタイプじゃないわよ」
「自分の実の兄だろう」
「だから余計に分かるのよ。卑怯だし、長いものには巻かれろで、弱い者には強気だし・・」
「まだまだ有るわよ・・」と、何時までも言い連ねそうなカテリーナを、ジュゼッペは制
した。
「どちらにしても行くしかないよ。ジョーはあいつらの手の中なんだから」
「まさか、本当に一人で行くつもり?」
「仕方が無いね・・」
まるで人事のように言う彼に、カテリーナは腹を立てた。
「じゃあ私も行くわ」
「何を言いだすかと思ったら・・」
知らずと笑いを含んだ声に成る。こんな状況で非常識だが、いかにもカテリーナらしい言
い分なので、自然と笑いが出た。
「だって、私はジョーの母親で、あの馬鹿な兄貴の妹ですもの」
「如何にも正当性があるような言い分だけど、それは駄目」
「じゃ、せめてセルジオを連れて行ってよ。彼なら頼りに成るわ」
「そうしたいのは山々だけど、それも駄目。ジョーに何か有ったらどうするつもりなんだ
い?いいから任せておいてくれ」
「・・分かったわ」
仕方なくカテリーナは同意した。唯、出て行くジュゼッペの背中に抱きついた。
「ジュゼッペ、気を付けて。ジョーの好きな物を用意させて置くから、早く帰って来てね。
それと・・」
「何?」
カテリーナの言葉に彼は微笑んだ。
「・・アントニオみたいな奴は、殺ってしまっても、私全然構わないからね」
又しても彼女らしい物言いに、ジュゼッペは大きく頷いた。

「お帰りにならなかったんですね・・」
周りを対するものに囲まれて、アントニオの前に連れて来られたジュゼッペは、未だ決し
て温和な彼の何時もの調子を消しては居なかった。
「ちょっと野暮用が有ってな、分かるだろう、ジュゼッペ」
揶揄を含んだような彼の物言いとは反対に、口元は笑っていない。
「貴方がジョーと引き換えに何を要求したいのか、分かりませんね。後継者の件なら、直
接お義父さんに言うべきでしょう」
「言ったさ何度も。だが、何時も親父の答えは同じだ。アントニオ、おまえでは駄目だ。
アルゴは以ての外だ。ジュゼッペか、いや、ジョージが良いって言うんだ。何がそんなに
あの坊主が良いのか、俺には分からん」
「私にも分かりませんよ。自分の息子ながらね」
誰もが恐れるサミュエルを「最初はもっと怖いかと思ったけれど、そうでも無かったよ」
と、ジョーは帰りの飛行機の中で言っていた。滞在していた数日間にジョーは度々彼の部
屋へと出掛けて行った。そこで二人がどんな風にして過ごしたのか、自分達は知らない。
だが、帰宅して数日後に後継者の件を聞かされたのだ。何処が気に入ったのか、訊きたい
のは自分とカテリーナの方である。
「それでどうしろと仰しゃるんですか?」
「親父には死んで貰う。もう年だ世代交代をしても良い頃だろ?」
「その代わりに貴方がなる訳ですか?他の方々が納得しますか?」
サミュエルの組織は幾つかの小さなファミリーが集まって出来ている。一応ドンはサミュ
エルだが、彼の決定に至るまでには、各ファミリーのボスの了解も必要だ。
「誰だって命が欲しい、そうだろうジュゼッペ」
つまりは自分にはそれだけの力が有るのだと言う事か。ジュゼッペの目が細められた。そ
れだけで先程までの柔和な感じが、一変して剣呑な色を帯びる。それは見知っているアン
トニオの背筋を、絶対に優位だと確信しているこの場でさえ、冷たくさせた。
「貴方はもうあの組織と手を組んでいると言うわけですか。ファミリーの決定がどうであ
れ、力付くでもあの組織の配下に成りたいわけですね」
「あの組織は俺をドンにしてくれると約束してくれた。力も富みも与えてくれると約束し
てくれた。ジュゼッペ、考え直さないか?こう見えても俺はお前を買っているんだぜ。こ
の国だけなんて事じゃなく、もっと美味しい国が世界には沢山有る。一緒にそれを手に入
れようとは思わないか」
「お前だって、カテリーナもジョージも可愛いだろう」と諭すように言うアントニオに、
ジュゼッペは首を振った。
「お断りしますよ。私はBC島が平和でさえ有れば良いんです。それが私の務めだと思っ
ています」
「交渉決裂か?ジュゼッペ、ジョージがどうなっても良いのか?」
アントニオが指を鳴らして合図すると、扉が開いてジョーがアルゴに引き摺られて姿を現
した。
「パーパ!」
自分の息子の姿を目に止めた時、一瞬だけジュゼッペの表情が険しくなったが、彼はそれ
を瞬時に戻した。
「息子の頭を目の前で吹っ飛ばされたくないだろう、ジュゼッペ」
アルゴの握る銃がジョーの頭に痛いほど押し付けられた。殺されるかもしれない、という
思いが冷や汗と共に胸を潰しそうなくらいの恐怖を齎す。
「構いませんよ」
ジュゼッペから洩れた言葉に驚いたのは、ジョーよりも寧ろアントニオの方だった。
「・・何と言った?」
「構いませんよ、どうぞ。貴方のことだ、どうせ私が従うと言っても、私やカテリーナを
生かしては置かないでしょう?無論ジョーも同じだ。貴方のような人には不安で仕方が有
りませんからね、私達のような人間は」
「俺はお前を信頼しているんだ。お前は裏切るような奴じゃないだろう」
それは信じられない。確かにアントニオは、これから先ファミリーを纏めていくためにジュ
ゼッペの力が欲しいだろう。その為に自分を腹心にしたいだろう。だが、彼は常に心に不
安材料を抱え込むタイプだ。もし自分が不安に成れば、直ぐにでも部下や腹心を即座に切
り捨てるタイプだ。自分の保身の為だけに。そして多分彼にとって一番必要な人間であり、
一番厄介なのは自分達なのだろう。
ジョーには話の内容が全て分かるわけではなかった。何か自分が知り得ない事を巡って、
父親と伯父は争っているのだ。唯父親の瞳は真っ直ぐにジョーに向けられていて、それが
とても彼を安心させた。
「何も怖がらなくても、必ず助けるから」と、その瞳は言っていた。言葉が終るとジュゼッ
ペは、ジョーに笑いかけて、次に両目を閉じた。それはほんの一瞬だったが、ジョーは父
親がしたように両目を固く閉じた。その時ジュゼッペが投げた小さな丸い物が、ジョーを
拘束していたアルゴの顔にヒットした。中から飛び出した赤い液体に目を刺激されて、ア
ルゴは堪らずにジョーの拘束を放棄した。小さなカプセルのような球体に入れられていた
タバスコが、顔に当たった瞬間に開いた口から流れ出したのだ。その間にジョーが手の中
から身を下方に滑らせた。其の儘磨き上げられた床を滑って、ソファの影に身を躍らせる。
男達が硬直したのはほんの僅かな時間だったが、ジュゼッペはタバスコが眼に入って苦し
むアルゴの手から拳銃を奪い取った。其の儘引き金を引きながら、彼はジョーと同じソファ
の影に身を隠した。立て続けに起こる銃声は自分の父親の物だけではない。アントニオの
部下の放つ弾丸はソファに穴を開けていく。形勢は此方に不利だ。ジョーは何も出来ない
自分が歯痒かった。
「ジョー怖いか?」
こんな時でも父親の声は気負いも無ければ、恐怖も無かった。唯瞳の色だけが、何時もの
柔和な彼の父ではなかった。
「ううん」
恐怖は感じなかった。何故かは分からない。
「良い子だ。眼をしっかり開けていろ、ジョー。戦場で眼を閉じたら、それで御仕舞いだ。
どんなに怖くても、酷い場面でも必ず目は開けていなさい」
父親の言葉にジョーはしっかり頷いた。父親がリボルヴァーのシリンダーを開けて残弾数
をチェックする。残りは2発。敵は未だ逃げ出したアントニオ以外に5人居る。僅かに唇
を彼が噛み締めた時、表の方から新手の銃声がした。
「セルジオが来たな」
ジュゼッペが安堵したように、ジョーに笑った。その笑顔は正面に立つアルゴに向けられ
た時には、非情なまでの酷薄さに変わって彼は引き金を引いた。

「ボス無事ですか!」
部屋に飛び込んできたセルジオも又、躊躇いもなく先日までの顔見知りに引き金を引く。
その左の肩口が赤く染まっている。孤軍奮闘した証のようだ。
「すみません、もう少し早く来るつもりだったんですが。怪我は無いですか?」
「こっちは無事だよ」
応えながらジュゼッペは自分のシャツの袖を引き千切って、セルジオに止血をしてやった。
「掠り傷ですから・・」
自分を不安そうに見上げているジョーに笑って見せる。
「セルジオ痛い?」
こうして訊いてくるのは年相応だ。彼は答えずに、ジョーの頭を撫でてやった。
「直ぐに直って、ナイフを教えられますよ」
「ドンは?」
「身辺を警護するように、連絡しときました。今の所異変は無いようですよ」
「ところでアントニオを見なかったか?」
「・・玄関を入った先で死んでましたよ。誰に殺れたのかは、分かりませんが。俺が来た
時にはもう死んでましたから」
「・・何も問題は解決してないか」
溜息混じりにジュゼッペが洩らした。多分殺したのはあの組織の人間だろう。これで手を
引いてくれるのなら良いが。サミュエルが無事だったのだから良しとすべきなのだろうが、
何故か不安が拭い切れなかった。
「ジョー、大丈夫かい?」
傍らの存在に気が付いた様に、彼は声を掛けた。頷いてジョーは立ち上がろうとするが、
足に力が入らなかった。
「気が抜けたんでしょう。俺が運びましょう」
セルジオにジュゼッペは首を振った。
「怪我人は引っ込んでなさい。私が運ぶよ、私の息子だ」
軽々と自分を抱き上げた父親の肩に、ジョーは頭を凭せ掛けた。腕をきつく握り締めると、
額に父親の温かな唇が触れられた。
「もう、心配しなくても良いから。少しお休みジョー」
ジョーは素直にその言葉に従った。


7

その夜からジョーは高熱を出して、三日間寝込んでしまった。ストレスから来る精神的な
ものだと、往診に遣って来た医師は告げた。
やっとベッドから出ることを許された彼は、セルジオが庭で例の如くナイフを投げている
のを見つけて歩み寄った。
「セルジオ」
声を掛けるとセルジオが振り返った。未だ左腕は吊っている。
「おや、坊ちゃん、熱は下がりましたか?」
「うん」
「もうすっかり良いんだ」と続けながら、彼はセルジオの横に腰を下ろした。
「セルジオ、この島を守るのがパーパの仕事なの?」
「ボスはね、遣ろうと思えば幾らでも力を着けられるんですよ。ファミリーの誰も逆らえ
ないくらいね。でもボスは欲が無いってのか、なんてえのか、この島を守るだけで良いそ
うなんですよ。この島で生まれて育ったから、この島が好きだからってね。だからですか
ね、俺達もそれで満足なんですよ。ボスに何処までも俺達は付いて行くつもりなんです。
例えボスの決定がどんなに理解出来ないようなものでも、俺達のボスはあの人だけですか
らねえ」
「坊ちゃんは、サミュエル様が後継者に選んだんですよ、俺達全員、他の処の奴らも含め
たファミリーのね。遣れそうですかい?」
「分かんないよ、そんなの。唯さ・・」
「何です?」
「取り敢えず、ナイフ投げと銃の使い方を教えてよ。それと喧嘩の仕方とね」
座ったままジョーはセルジオを見上げると、にっこりと笑った。
『ウルフの子は、子供でもウルフですか』
母親譲りのジョーの瞳が、父親と同じ光を宿していることに、セルジオは笑った。



The End




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