BLUE WITCH

by ルーイ

風光明媚と言えば聞こえはいいが、要するにただの僻地だ。渡る風が爽やかなのは、擦れ
違うガソリン車も無いからで、水が清いのは、もう何時間も家一軒と見えないからだ。踊り
に行くには、いや、ちょっと呑みに行くのでも、一体、何時間車を暴走(とば)せばいいのだ
ろう。
新しい別荘とやらに到着する前に、ケンはすっかり飽きていた。

「いいところだろう?ケン」
ナンブ・コンツェルンの総帥たるコウザブロー・ナンブは、もう何回この言葉を口にした
だろうか。最初の2回ほどはケンも生返事をしたが、もう耳が拒否宣言をしている。長い
チョコレートの髪を跳ね上げて、何度目か分からない溜め息をついた。
「身も心も洗われて、洗われきって、洗い晒しになっちゃいそうだよ、父さま」
可愛く小首を傾げて唇を尖らす、ある種の媚を含んだ仕草が、不思議に美しい。ナンブは
満足そうに、その養い子を品定めした。
「遊びに来たのではないのだ。我慢しなさい」
「なに?乗っ取りたいカイシャのお偉いさんと仲良くするの?」
「今、乗っ取るには手強すぎる相手なのだよ。まずは文字通り仲良くするのだ。今行く別
荘は、そのために探したのだからね」
「そうなんだ。シゴトなら仕方無い。我慢するよ」
でもちょっとだけだよ、とケンは嗤った。
「で、どんな相手?」
「お前が適任者かどうかはまだクエスチョンなのだよ。女性好きであることは確かなのだ
がね」
「ならジュンのミッションじゃない。彼女も来るの?」
ジュンとは、コウザブロー・ナンブ子飼いのエージェントの一人だ。紅一点である。彼女
なら遊び相手になるかな、とケンは思いを巡らせた。しかし。
「それは少し様子を見てからだね」
「そうだよね、本当のただの女好き。そんなオジサン、僕は会ったことないもの」
「お前の好きにやりなさい。期待している」
ケンから逃れられた獲物は居ない。彼らはことごとく骨抜きにされ、ケンのために全てを
擲つ。きっと今度もそうなるだろう。そして、ナンブ・コンツェルンはまた大きくなる。
ナンブは笑った。
「あれかい?父さま」
木々の間に尖った屋根が見えた。車の窓を開け、暴れる前髪を抑えながらケンが歓声を
上げた。
「いや、あれは、そのお隣さんの別荘だ」
「なあんだ」

そのとき、横手の森から、巨きな黒馬が一頭飛び出して来た。倒木を軽く越えながら、斜
めに草原を突っ切って来る。
「おや」
ナンブは微笑むと、運転手に車を停めるよう指示し、降車した。
最後の障害である木柵を越えると、騎手も馬を下り、白い歯を見せた。
ケンは車から降りるか、寝たふりを決めこもうか迷っていたが、その青年を見てドアを開
けることにした。とっておきの笑顔付きで。
「今日あたりお着きだと祖父から聞いていました。車が見えたので、恐らく、と」
文句無し、極上のサラブレッド。ケンは彼の爪先から喉元を、笑みを浮かべたままゆっく
り眺め上げた。
「それは嬉しいお出迎えだ。そうそう、これは私の息子のケン。初めてだったね」
「ええ」
初めまして、と彼は当たり前のように右手を差し出した。
「アーサー・ライズです」
ケンはちょっとはにかんだ微笑を見せ、その手を優しく握り返した。
「こんな退屈なところ、とごねられて参っていたのだよ。いや、きみが居てくれて良かっ
た。年齢も近いし、よろしくお願いする」
ケンは無言のまま、行儀良く、大人しげに彼を見詰めた。

ええ、本当に。あなたが居てくれてよかった。
退屈しのぎには、もってこいだよね。

しかし、ケンの機嫌が多少直ったのは、ほんのわずかの時間だった。
その夜のこと…。

「なんで僕じゃダメなのさ」
「さっき連絡したら、ライズ氏は体調不良で明日の夕食会にも来れないらしい」
「僕だって、オジサンやじいさんばかりじゃなくて、たまには…」
「これは遊びではなくてミッションなのだよ、ケン。彼のことはRに任せなさい」
ケンは聞き入れず、膨れた。Rとはナンブの親友で懐刀だ。コンツェルンの陰の業務一切
を仕切っている。今回のような厄介な相手の場合には、表に出張って来ることも、ままあ
った。
「Rじゃ、彼がかわいそうだ」
独り言のように、しかし養父に聞こえるようにケンは言った。
「あいつ変態なんだもん。どこででも寝るし、変なもの使うし。彼みたいな純粋培養、すぐ
潰れちゃうよ。知らないよ」
「Rは相手によって考えるオトコだ。お前にはそんなことをするのかね?」
「…うるさいな!」
ケンは食後のお茶はそこそこに、席を蹴った。ナンブの哄笑が追いかけて来た。

翌朝、早起きは苦手なのに、気合い一発、ベッドから跳ね起きた。
乗馬などする手合いは朝に強いだろう、養父はああ言っているが、ケンは退屈で死ねてし
まう。あたら10代の若い命を、こんなド田舎で散らせる気は無かった。
遠くて近い森の木々の上に、あの三角屋根が光って見える。夏とはいえ山岳地帯だ、長袖
のジャケットを着ていてもじっとしていると寒い。
仕方ない、散歩でもするか、とケンは歩き始めた。
運動は得意だが、労働はキライだ。あても無いのに歩くのなんて、大嫌いだ。
朝食に起こされるまで寝坊を決めこんでおけばよかった、と後悔し始めたとき、蹄の音が
響いてきた。

「おはようございます」
我ながら、現金なほどの、爽やかな笑顔だった。
彼は、早起きだね、と薄く微笑を浮かべてケンの鼻先に愛馬を停めた。
「君、乗馬は?」
実は大得意だ。
「体が弱くて運動は、あまり。乗馬は憧れるけどしたことないんだ」
最初から最後まで大嘘だ。しかし、線が細いので真実(ほんとう)らしく聞こえる。ケンは、
おそるおそるといった体で、馬の首に触れてみせた。
「うわあ…、あったかいんだね、馬って」
「乗ってみるか?」
「落っこちない?大丈夫?」
「平気だ、さ」
青年の手に縋って、健は軽やかに馬の背に跨った。軽くたてがみに掴まる。背中に体温が
伝わってくる。耳元には息遣いが伝わってくる。ケンの脚が、青年の脚に触れる。
先ずは並足。ケンは明るく笑い声を立て、騎手を振り返った。騎手は、ちゃんと前を見る
ようにと目配せし、手綱を弾いた。早足。
「う、わ、お、落ちるよ、落ちる、恐いよ」
ケンは悲鳴を上げて青年の二の腕にとりついた。我ながら臭いとは思った。でも、ここで
攻略できてしまえば、あのいけ好かないRを出し抜くことができる、退屈しのぎにもなる、
一石二鳥だ。
「大丈夫か?」
馬を停めて、青年はケンの顔を覗き込んだ。
「うん。ちょっと驚いただけ」
胸を押さえながら、ケンはその顔を仰ぎ見た。
「ちょっと心臓が…すぐ落ち着くから、ちょっと待って」
青年に凭れかかる。くすりと笑って顎を上げる。
「ごめんなさい、せっかくの遠乗りだったのに」
手を延べて首に、首から頬に、頬に懸かった乱れ髪に。首に腕を投げかけて…。
後から思えばあと5センチほどだった。それなのに。

「アーサー!」
すぐそこに車道があったのが、そもそも失敗だった。四駆から見知らぬ男が顔を出して手
を振っていた。
「ミスタが呼んでる。すぐ戻れ」
「分かった」
畜生、もっと見通しの効かないところでやりゃよかった、後悔先に立たず。
「ミスタ・ナンブのところに送ってくれ。調子に乗りすぎて気分を悪くさせてしまった」
ケンはナイトの腕から、その男の腕に渡されてしまった。乗馬のテはもう使えないな、ケ
ンは青年を見上げながら唇を噛んだ。
「申し訳無かった、その男は祖父の部下でジョー・アサクラという。信頼の置ける人間だ、
心配無い」
「僕こそほんとうにごめんね」
ケンが手を延ばしているのに、青年は男にむかって、頼んだぞ、とだけ言うと馬首を巡ら
せてしまった。後ろ姿は朝霧に吸い込まれて、瞬く間に見えなくなってしまった。

途端に男の笑い声がケンの耳を射抜いた。
「ずいぶんと古典的な遣り口でおいでなすったな、べっぴんさん」
「あんた何者?いいとこで邪魔してくれちゃってさ。彼のイロ?」
この男には猫を被る必要は無さそうだ。ケンはいっそさばさばと腕を組んだ。
「ライズ家の当主の部下で、そうさな、あいつにとっては幼なじみ兼SP兼目付役ってと
こだな。念押ししておくが、イロなんかじゃねえ。そんなことしたらそこいらへんに生き
埋めか、運河に浮くか…」
「おや、穏やかじゃない」
「はは、あんたも気を付けな。ライズ家は何でもありの老舗の大御所だ」
「ご忠告ありがとう、教訓にさせてもらうよ。じゃ、お手数だけど、送ってって」

ジョーはアッシュ・ブロンドに水色の瞳の、ラテンの匂いを身に纏った綺麗な男だった。
助手席で、その中高な横顔を眺めながら、ケンはつんと空を見た。
ちょっとタイプは違うけど、これはこれで、いいか。

**

ディスプレイからの光だけがケンの貌を夜陰に浮かび上がらせる。
−な〜んだ、そういうこと。
フン、と吐息したとき、窓ガラスが小さく鳴った。規則正しく3回。風ではない。

「また、来てくれたんだ」
観音開きの窓を片方だけ軽く押すと、外から手が掛かって大きく開け放たれ、冷たい風と
一緒に人影が滑り込んできた。
「よ…」
それが一言も発する前に、その唇をケンの唇が塞いだ。腕を首に巻き付ける。森の香りと、
少し高めの体温と、遠慮がちに抱き留めるだけで、決して強くは抱き締めては来ない力強
い腕(かいな)と。

あの日、ジョーに送らせて帰宅して、それから、ケンはジョーと寝た。
田舎もまんざらじゃない、とジョーはケンに認識を改めさせた。彼は、若く美しく、巧妙だ
った。そして何より、優しかった。だからその日も、迷わず衣服を脱ぎ捨てた。
スタートは退屈しのぎ、それなら何の問題も起こらない。けれど、とケンは喘ぎの下で思
う。他に何の刺激も無い毎日、この男がただの退屈しのぎでなくなるのは時間の問題だろ
う。ナンブは、ケンが誰か一人に夢中になることなど、決して許さない。ケンは、達しな
がら自嘲(わら)った。

「何が可笑しい」
ジョーは煙草に火を点けながら、枕元のスタンドの灯りを上げた。
「ジョーが来る前に、ちょっと調べモノしてたんだ。ライズ一族のこと」
「アーサーのことだな」
「近来希に見るややこしさだったよ。おさらいするから間違ってたら直してね」
ジョーは怪訝そうにケンを一瞥した。ケンは悪戯そうにその顔を見上げて、含み笑いした。
「あなたとアーサーはただの幼馴染みだけじゃなくて、異母兄弟だね。あなたは現当主で
あるライズ老の長男、即ち嫡男が外に拵えた庶子だ。アーサーは、ライズ老の長男の末っ
子だ。一家を乗せた自家用飛行機の墜落事故で、両親兄姉が全滅して嫡流唯一の生き残
り、ライズ家の跡取りってことだよね」
「そんなこた、ちょっとした事情通なら誰でも知ってるぜ」
ジョーが嘯く。ケンはその眉間の皺を人差し指で突っついた。
「アーサーは一族の誰にも似ていない。嫡流である父親の血を引いてないから」
「お前、三流のゴシップ雑誌の…」
「どうして彼を庇うの?探せば彼にそっくりな母親の愛人が見つかるよ。それが証拠にあ
の合理的なライズ老がDNA鑑定をしていないみたいだ。おじいさん、容姿に恵まれない
ライズ一族に、さらに、ここんとこ頭脳(あたま)のほうまで恵まれないライズ一族に、
彼で梃子入れしたいんだ。適当な孫娘を宛えば血も繋がるし」
「さすがナンブだ。いいデータベース持ってるな」
ジョーは煙を吹きながら、苦笑した。
「苦労知らずのお坊ちゃんにしては遣り手すぎると思って。そりゃそうだ、落ち度があれ
ば何だかんだと理由を付けて、嫡流じゃない、って捨てられちゃう。僕の父さまも大概だ
けど、おじいさんも可成りの悪党だね」
ジョーは、面白く無さそうに半身を起こし、煙草を揉み消した。ねえ、とケンはその腰に
腕を回した。
「彼が失脚したら、あなたが一族の覇権を握れる立場になるんじゃない?」
「俺はあんなもん欲しくない」
「あのおじいさんに顎でこき使われて、何の権利も無いはずの弟にいいようにやられてて、
それでも?」
「ああ」
金や権力を欲しない人間なんか見たことが無い。ケンはうっすらと怒気を含んだジョーの
声にヒヤリとした。
「ライズ攻略の駒にしたくて俺をとりこむつもりなら、無駄だ。俺はあんなもん欲しくな
い。あれだけの企業を動かせる器でもない。お前の“父さま”に好き勝手に操られる積も
りも無い。俺を切り札にアーサーに手を出すのは止めろ」
いいな、と言い置くと、ジョーはベッドから降りた。
「どうして?どうして何も欲しくないの?」
「欲しいもんはもう手に入れてるからさ」
ジーンズに脚を入れ、Tシャツを被り、ジャケットを羽織る。ケンを見ない。
「勘付かれたら、殺されるってことなんでしょ?大丈夫、父さまはそんなヘタはしない。
あなたの安全は保証する」
くどい、ジョーの背中には何の感情の動きも無かった。
「命が惜しくて言ってるんじゃない。お前、今までのオトコはそう言いさえすれば思い通
りになったのか?」

カーテンが翻り、一瞬後、ケンはたったひとりで取り残されていた。
「待ってよ、ねえ!」
窓に取り縋ったときには、気配も無かった。
「なんだよ!怒らなくたっていいじゃない」
返事は無く、ケンは窓を閉め鍵まで掛けながら、すっかりむくれてしまった。
何、あの態度、失礼な。
街に戻れば、綺麗なセックスフレンドなどいくらでもいる。
いくらでもいるはずなのに、ほんの少し、泣きたいような気がした。

**

眠れぬ夜に、絵に描いたような不機嫌で朝食の席に着いた。Rが居た。いつ到着したのか、
気が付きもしなかった。それほど思い煩いしていたと?それでさらに不愉快が増した。ナ
ンブにとってはケンの寝起きの悪いのはいつものこと、ケンに変わらぬ微笑みを向けた。
「今日の昼はビジネス・ランチになるよ、ケン。普段着で構わないが、家を空けないよう
にしなさい」
「はい、父さま。お隣のおじいさん、具合悪いって聞いてたけど、治ったの?」
「アーサー君が来る。ミスタは彼にすべて任せたと言っていた」
「ふうん」
昨夜のことは初心貫徹せよとの神の思し召しだったんだな。それでもケンは気の無さそう
な返事をした。
「ぼうず、邪魔をするなよ」
Rが濃く蓄えた髭の下で唇を歪ませた。
「俺はもう1年以上彼とは接触を保ってるんだ」
「へえ。じゃあ関係済みってこと?」
「ビジネス世界における好敵手としての信頼関係、をな」
「しんらいかんけいね〜。繋がってるのはホントにハートだけなの〜?」
謳うように引っ張ると、ナンブが釘を刺すようにケンを一睨みした。

昼食会。Rやナンブは根回しを終えていたのだろう。会談らしい会談は、ほんのわずかだ
った。企業としてのナンブとライズはこれで密接な協力関係を築いたことになる。いくつ
かのマーケットは独占ないしは寡占状態を呈するはずだ。バッシングをどうかわすのか。
カネとヒトの話しが、ケンのまぶたを重くさせた。
我に返ったのは、アーサーが暇を乞うて立ち上がったときだった。
「もう帰っちゃうの?」
「祖父に報告があるので」
この男の微笑は感情のすべてを隠蔽するためのものだ。ケンは軽く流した。
「だって迎えも来ていないじゃない」
「歩いても大したこと無い」
「じゃあ、送ってく」
男の表情にちらと苛立ちが浮かんだ。ケンはやはり素知らぬ体を装った。
あなたは僕を嫌いだね。よく分かるよ、僕もあなたを嫌いだもの。大嫌いだもの。

「こっちが近道なんだよ」
ことさら無邪気に、ケンは草原を指さした。名もしらぬとりどりの草花が揺れていた。ケ
ンは雑草でもかわいいと踏みしだいた。ナンブは雑草などこの世には存在しない、すべて
の植物にはちゃんと名前があるのだと、ひとつひとつを指さしてお題目のような長い学名
を唱えた。
どんな草木にも名前がある。では、ニンゲンには?

林に入ってすぐ、アーサーは立ち止まって周囲を見回し、踵を返した。
「ケン、おかしい。このまま行くと迷う」
「迷ってなんかいないよ。ちゃんと下見したもん」
つかつかと背中に歩み寄る。腕を掴んだ。脚を払う。不意を衝かれて、男はあっさりと転

倒した。すかさず馬乗りになり、唇を塞いだ。
鳥の啼き声すら無い静寂の中で、ケンはゆっくりと顔を上げ、男を見下ろして頬笑んだ。
「…何を服(の)ませた?」
男もまた、頬笑んだ。
「イイもの。命には別状無いから心配しないで。ちょっと動きが鈍くなるだけ」
「心臓の悪い子のすることでは無いな」
「あなたと仲良くなりたくて嘘をついたんだ。ごめんね。でも、僕の健康状態くらいライ
ズのデータベースは持ってるんじゃないの?」
くつくつと男は笑った。唇を歪めるだけの笑い。ああ、これがあなたの笑顔なんだね。
「それとも、僕、ノーマークだった?」
「きれいなだけの男に興味は湧かない」
「そお?」
耳朶を軽く噛みながら、シャツの釦を外していく。
「僕もキレるだけの男には興味無いんだ。だから、ずっと、あなたなんか退屈しのぎにな
ればいいと思ってたの。でも、気が変わったんだ」
とケンは男のシャツの裾をズボンから引き出して大きく広げた。ジョーの肌を思い出した。
焼けていた。太陽の香りがした。全然、違った。
ズボンの釦を外し、ジッパーを下げ…。ケンの手の動きに、男が低く呻いて瞳を閉じた。
顎がわずかに上がり、草が小さく鳴っただけだった。
「ね?動けないでしょう?でも、感じるでしょう?大丈夫、ちゃんと悦くしてあげる。き
れいなだけの子もスゴイ、って忘れられなくしてあげる」
どう?とケンは次第に質量を増す感触を楽しみながら囁いた。
「ほら、ここは正直だよ。ふふ。…今日の会見は一応いい雰囲気だったね。でも気を付け
てね。僕の父さまの狡猾(ずる)さって言ったらとんでもないんだから」
胸を弄ると、体が緊張して強張った。青い瞳が、楽しくて仕方が無いと輝きを増す。チョ
コレート色の長い髪が流れ落ち、雪より白い肌にうっすらと紅が刺す。
「うまくやらないと、身一つで放り出されちゃうんでしょ?あなた」
男の体に別の緊張が走った。
「言っちゃいけなかった?ごめ〜ん。でもこれまでナンブは必ず勝ってきたもの。これか
らもずっと勝ち続けるよ。誰が相手でもね」
ケンはゆっくりと唇を舐め、湿らせた。男の頬にてのひらをあて、髪に指を突っ込んだ。
「だから、あなたも負けるんだ。そしたら、消されちゃうの?一文無しになるの?」
男が身じろいだ。かさり、と草が鳴った。
「あなたみたいな人には耐えられないよねえ?あなたから企業を取ったら何が残るって思
う?財力と権力と、根源(もと)から失ったら、あなたは…」

ただのきれいなだけのオトコだねえ。あなたの、だいっきらいな、ねえ。

ケンの癇症な笑い声が響いた。
「僕とおんなじじゃない。これってある種の近親憎悪ってヤツじゃないの?」

草の匂いが鼻を衝いた。今度はケンのほうが、何が起こったか理解できなかった。
天と地がひっくり返っていた。逆光でただ黒いだけの人影の向こうに木々が見え、木漏れ
日がケンの瞳を射ていた。
「驚いたひとだね。動けたんだ」
「適量を間違えたのではないか?」
語尾は震えていた。それは明確な怒りを表していた。しまったな、とは思った。
「その減らず口、二度と利けなくしてやろう」
産まれてこのかた、何度耳にしたか分からない。なぜかろくに抗えないまま、ケンは虚ろ
だった。父さまにも、余計なことをするなって、よく言われるんだ。あ、今日も言われた
っけ。
裸にされた背が尻がちくちくする。ああ、これも失敗だった、痛いし、汚れるし、外でス
るたんびにもう止めようと思うのに。
「いきなりは、やだ。優しくしてよ」
脚が抱え上げられる。
「仕掛けてきたのは君だ。俺じゃない」
「だからって…いやだ…嫌だったら!…こういうのが愉しいわけ?!」
「君は愉しかったのか?」
「僕は僕が愉しいことしかしないさ。…嫌だってば」
「では、こちらもそのつもりでせいぜい努力するとしよう」
「嫌!い…、…ひぃっ」

悦楽よりも痛みを。愛の印ではなく烙印を。
時間も、空間も、何も無い。透明な、全き無の世界を。

男の背にしがみついて揺すぶられた。痛い、止めてと、呪文のように繰り返した。
いやだ…いやだ………。何が?何を?

どれくらい経ったのだろう。体が痛い。起き上がるのに、随分と苦労せねばならなかった。
白いシャツの背中が見えた。襤褸のように、へばりついていた。
「何だ…やっぱり無理してたんだ」
それは草の汁と泥とに塗れ、すっかり惨めな状態を呈していた。髪の汚れを払おうと指を
述べた。

「俺に触るな」
行け、と息だけで吐き捨てられた。

「あなたなんか大嫌いだ」
ケンはよろめきながら、来た道を辿った。

草原に佇立する人影があった。
「余計なことをするなと言ったはずだ」
Rだった。それと。
「うちの御曹司は?」
ジョーが腕を組んで突っ立っていた。
「僕が来た道を行けばブッ倒れてるよ。多分歩けないと思う」
眉間に縦皺を刻んだいつもの面持ちで、ジョーは浅く頷いた。
「うちのぼうやのフライングだ。手間取らせて悪かったな」
Rの声はよく透った。ジョーは軽く片手を挙げてそれに応えた。
ケンなどどこも居ないかのように、ジョーはケンのわきをすり抜けた。それでもケンはそ
の後ろ姿を見送った。何か言ってくれないかと、せめて振り返ってくれないかと思って。

「まったく。まあ大勢に影響はあるまい。で、いい退屈しのぎにはなったのか?」
「ううん」
手の甲で顔を拭った。大嫌いなRなのに、並んで歩いてくれるのが嬉しかった。
「なんだか、最悪」
「こんなことになるからと、ナンブはお前に釘を刺していたんだぞ」
「あなた、本当に彼とは寝てないの?」
「疑り深いやつだな。あれは超VIPなビジネス・パートナーだ、ただのな」
「今はな、の間違いでしょ、それ」
「まったく。懲りんやつだな。ここでダメ押しレイプされたくなかったら、話題を選べ」
やっぱり大嫌いだ、と思った。だから、黙った。

用事は済んだ、明日は街に戻る、と夕食の席でナンブはケンにやはり微笑みかけた。ああ、
良かった、と正直安堵した。街に戻ればあのざわめきの中、この別荘暮らしのことなどす
ぐ忘れるだろう。
あのラテン男のことも、刺激が流しさってくれるだろう。こんなとこだから、あんな男が
こうも心に引っかかるのだ。あの程度の相手なら、街ならいくらでも…。

頭から毛布を被り、窓に背を向けて。寝不足は美容の大敵だ。今日こそぐっすり眠るんだ。
と、ガラスが鳴った。規則正しく3回。

あとは条件反射だった。
カーテンが翻り、しなやかな身ごなしが滑り込んでくるのと。
ベッドから跳ね起きて、首ッ玉に齧り付くのと。

「もう二度と会えないって思ってた」
何がこんな台詞を吐かせるのだろう。言ってから、むず痒さに笑った。
「案外、根暗なやつなんだな、お前」
ジョーはあっけらかんと、ケンを抱きとめた。
「だって…。あのさ、彼…」
「ああ見えてけっこう苦労もしてるんだ。明日朝起きてきたときには何も無かったような
顔してるさ」
苦労かぁ、とケンにしていつになく心が痛んだ。悲しき同類。
「お前のほうが堪えてるみたいじゃねえか。惚れたか?」
「まあね。ちょっと気になる…ひとではあるね」
ジョーは、ふんわりとケンの頬を手挟んだ。
「だから、やつには手を出すなって言ったんだ」
「ああ、あの意味シンな?何、もしかしてただの焼き餅だったの?」
「半分は」
じゃあ残りの半分は、と混ぜ返すのは野暮みたいだから止めた。
「僕、明日は街に戻るんだ」
「そうか。こっちもじいさんが大分いいみたいだから、ぼちぼちだな」

山の夏が逝く。

「どうやったら連絡取れるの?教えてよ」
「俺と付き合うのは覚悟が要るぞ」
「その言い方カッコいいね。そっくりそのまんまお返しするけど」

街はまだ、熱帯夜が続いている。

END



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