Fly high forever … − Real Birthday

by ルーイ

<Prologue>

嵐の名残の黒い雲を、風が浚っていた。

ほんとうに、もう飛ぶ気はないのか。
飛んでますよ。俺の運んでいく荷物を心待ちにしてる人が沢山いるんですから。

ドアを潜りながらの、短いやりとりだった。

右脇に何かが触れ、その軽い感触で健の回想は中断された。甚平が、ポケットのハンカチ
を探っていた。甚平のむこうではジュンが、顔を覆ったきり動かない。目を上げると、は
るか前方に南部が、いつもよりも一層険しく眉間に縦皺を刻む。竜は肩をがっくりと落と
して巨体を萎ませ、ジョーまでもが目を赤くして唇を引き結んでいる。
みな、そろいも揃って黒い服をまとい、色を失っていた。

見下ろせば、健自身もまた黒衣に身を包む。
ここはどこだ。俺はなぜここにいるんだ。ここで、何をしているんだ。
窮屈すぎる喪服と、吐息を漏らすことも憚られるほどの静寂と、言いようのない圧迫感に、
思わず口元を手のひらで覆った。
立っているのも苦痛だった。分厚い人垣をかきわけ、健はその黒の坩堝から這い出した。
悪寒が酷かった。最悪の気分だった。
やっと車までたどり着いて、ドアに手を掛けた途端、したたかに吐いた。

ほんとうに、もう、飛ぶ気はないのか。

あれが最後になるなんて。
彼が、はなから軽飛行機など意味していなかったのは分かり切っていたのに、まともに答
えずはぐらかした。

“ほんとうに”

正視せずに、逃げた。
その代償がこれなのか。

元アメリス国統合参謀本部准将、ナリス空軍基地第7航空隊(通称ニケ)初代隊長、アー
サー・ライズ逝去。
健はこのとき、空で得た唯一無二の友を、永久に失った。

死因は、進行性の悪性腫瘍の再発だった。先に大往生していた彼の祖父は、南部の無名時
代からの一大スポンサーだった。亡き恩人の最愛の孫息子を、南部は救えなかった。
ジョーはひとつの任務を終えた。5人の正体とHSの情報を握る人物の監視かつ護衛、そ
のターゲットが、この世から去ったのだった。
ジュンにとっては心のお兄さん、竜にとっては義理の従兄弟、甚平にとっては?
彼らが、どんな思いを涙にしたのか、健には知るよしもない。
健にはどうしても泣けなかった。
氷の戦士と味方にまで謗られた、そんな人間には悼みの涙など無いのだ。
悲しくも、寂しくも、虚しくすらなかった。
ただ、彼を思い出すことを、健の全機関が拒否した。
わずかの間に、その面影までが朧となった。
髪はプラチナブロンドだった、瞳は薄いグレーだった。背格好は?目鼻立ちは?
すべてを忘れ去ってしまいたかった。
彼のすべてを。彼とのすべてを。
健がかつて、G1と呼ばれたトップパイロットだったことを。何もかもを。


<1>

腕の良いパイロット。鷲尾健の名は業界ではそれなりに知られ、仕事には事欠かない。も
ともと飛ぶこと自体が好きなのだから、まさしく天職だった。
入れられるだけ仕事を入れて、飛べる限り飛ぶ。空にいられればそれだけで、健は至福で
いられた。
だから、どんな悪条件でも飛ぶ。雑多な品々を運んでいく。健の小さな飛行機を心待ちに
している人たちへと、便りを、新鮮な食料品を、日常雑貨を、送り届けるために。

ある日、小さな島に医薬品を届けた帰途、健は戦闘機のチームに追い抜かれた。完璧なダ
イヤモンド編隊を組んだそれは、健の頭上遙か上方を、滑るように過ぎって行った。
ニケの新機体。尾翼から女神の意匠は消えたが、彼らは今も、ニケの名を頂き、そう呼ば
れることを望んでいる。
一緒にやろうとレッドに誘われていた。健が余りにも頑なに断り続けたのと、黒幕のライ
ズが退役したのとで、あからさまな勧誘話しはさすがに無くなった。それでもレッドは何
くれとなく健に連絡を取ってくる。健の様子を窺っている。有難いことと、思うようにし
ていた。
健が知るような古参の隊員は、ほかには誰が残っているのだろう。
戦死、異動、そして退役。組織は生きていて、細胞が新陳代謝するように、ヒトが入れ替
わっていくものだ。
健は眼を細め、戦闘機の影を、見えなくなるまで見送った。

月が冴える夜半過ぎ、竜から電話が入った。
−健、バイトせんか。
竜はISOで、航空機関連部門の要職に就いている。
「臨時の支援スタッフか?それとも荷物運び?」
−強いて言えば荷物運びじゃな。
「いつ、なにを」
−ナリスから、戦闘機を。
ナリスとはアメリス国最大規模の空軍基地である。航空機の開発・テストならびパイロッ
ト養成の拠点で、史上最強との呼び声の高いニケは、この基地をホームとしていた。

−南部長官がの。
竜の微苦笑が続いた。空軍が企図していた航空記念施設構想と、南部がまともに激突した
と言うのだ。ニケの旧機体の扱いが直接の引き金だった。戦死した隊員と旧機体を押し出
す派手な演出に対し、南部が、戦争礼賛の虚像と激怒したのだった。
豪奢な会議室から一歩も出ず、彼らだけを戦わせた連中に何が分かると南部は青筋を立て
た。ニケの隊員たちの願いと想いは、眼下にある街の灯りのぬくもりと、生活する人々の
息吹、その延長線上の愛する家族や恋人にあったと、南部は言い切る。断じて名誉などで
はない、ましてや、国家などではない。
すったもんだの挙げ句、最後はニケの現担当将校の鶴の一声だった。

あの機体にとってはISO基地が最も思い出深い土地でしょう、ISOにお預けできれば
ベストでは。

かくてニケの旧機体は、ISO博物館に納められることとなったらしい。

−最後の一機の調整が手間取っての。タイミングがずれてしもうて、向こうもこっちもパ
イロットをアサインできんのんじゃ。あの機体を、そんじょそこらの雑魚パイロットに運
ばせるわけにはいかん。お前、頼まれて呉れんか。
条件反射となった拒否反応が、健に頭痛をもたらした。
−ぐずぐずしとると、あっちのややこしいのから“要らんのんならやらん”と言われかね
ん。南部長官もそら力入っとるんじゃ。頼む、この通り。
手を合わせて、巨体を丸めている竜が浮かんだ。
「ほんとうに俺でいいのなら…」
不承不承だった。迷惑、という臭いをあからさまに漂わせた積もりだった。竜は気が付い
てはいただろう。が、事態が健個人の精神状態を頓着させないところまで来ていた。打ち
合わせ時間と場所が事務的に通達され、電話は切れた。
健は受話器を放り出すと、さっさとベッドに潜り込んだ。
薄いカーテンごしに、月の光が明るすぎた。頭の上にまで毛布を引っ張り上げ、瞳を閉じ
た。

ほんとうに、もう、飛ぶ気は無いのか。

顔すら忘れた、なのに、あの声だけが耳朶にこびりついたまま、過去となることを拒み続
けていた。
もう二度と飛びたくない、と耳を塞ぐ。
“ほんとうに”
本当だ。誰かが墜ちるところなんて、金輪際見たくないんだ。
“ほんとうに”

飛びたくないのか。光よりも速く、空よりも高く、そして風よりも自由に。

放っておいて呉れ。あるはずのない影に向かって、枕を投げつけた。
浅い眠りの、夜が続いた。


<2>

健の仕事は、ISOの輸送機でナリスに行き、そこで機体を預かって乗って帰ってくるだ
けのことだ。それは楽で実入りの良い仕事だった。
ISO基地まではジョーが送ってくれた。
「稼げるバイト、大いに結構。ISOは金持ちだ。遠慮無くぼったくれ」
健の気鬱の原因は分からないなりに、気遣うように笑う。健はそんなジョーに淡く頬笑み
かけると、首を回し、前髪を掻き上げて、その美味しい仕事に向かった。

青い空と黄色い砂。ナリス空軍基地は砂漠に囲まれて、大陸のほぼ中央に位置している。
薄いコーヒーを啜りながら、健はかなり待たされた。
ガラスの間仕切りの向こうがわを、人々が行き交うのが見える。
見覚えのあるブルー・グレーのフライト・スーツ、オリーブ・グリーンの軍服。プラチナ
・ブロンドの痩躯が足早に通り過ぎたときには、反射的に腰が浮いた。
鮮明な映像が戻ってきそうになる。拳を握りしめ、テーブルの疵を数える。
無限に近い、時間だった。

竜の部下が、基地の担当者と健を呼びに現れた。
出発準備が整ったのだ。健は解き放たれたような心持ちで、長い廊下を辿った。
あれです、と指さされた先には、件の機体が、新品さながらに磨き上げられて真昼の光を
浴びていた。
目の当たりにしてしまうと、嫌悪感など湧く道理が無い。
分かれて久しい親友を見つけたかのように、健はそれに吸い寄せられた。淡いブルー・グ
レーをベースとしたインビジブルのボディ、尾翼に有翼の女神。
ともに空を駆った友に、ゆっくりと、指を述べた。
指先の、そのまた先に、識別番号があった。
まず、我が目を疑って瞳を凝らした。心の中で3度読み上げ、さらに、口の中で小さく声
にして、3度読み上げた。
凍てついた指先に、女神が鋭い一瞥を呉れた。怜悧な声が頭に響いた。

汝は、誰ぞ。

「初代隊長機です」

担当者の声に、健は弾かれたように振り返った。

「決戦のときに被弾して不時着したのですが、なんとか回収・修理して、今日まで保存し
てあったのです」
その中年男性は、唇を噛みしめ帽子を取ると、健に向かって居住まいを正した。
「よろしく、お願いします」

機体から視線を引き剥がすと、担当者にむかって小さく頷き、彼の右手を握りしめた。そ
の手が解かれると同時に丹田に力を入れた。
最上位の女神に対峙する。
彼女は、傲然と、健を見下ろした。

吾を御する者は、汝ではありえぬ。
俺はかつてあなたに守られた者。忘れましたか。
世迷い言を。空を怖れ、逃ぐるような者を、吾が守ったなどと。
俺が怖れたのは空ではない。俺は空から逃げたのではない。

意を決すると、腹に力を入れ、コックピットへのステップに足を掛けた。
コックピットに手をかけたときには、背中や脇の下に、汗が滲み始めていた。
アーミングエリアでの最終チェック、計器のシグナルが緑色に変わっていくにつれ、冷た
い汗が全身に広がる。急速に失われていく水分に、喉がひりつく。ゴーグルと酸素マスク
を装備する直前、堅く瞳を閉じ、手の甲で顔をぐいと斜めに拭った。指が震えていた。
辺りを見回すと、パイロットや支援スタッフたちの人垣が目に入った。誰もが強ばった表
情でこちらを凝視していた。咎められているような心地になった。
操縦することだけに、とグラスコックピットに視点を移した。

ステアリングをゆっくりと切り、ランウェイに向かう。臓腑を剔るジェットエンジンの咆
吼、全身を揺さぶり上げる激烈な振動。
体がシートにぴったりと馴染んでいく。操縦桿を握る指へと神経が集中していく。
耳を劈く爆音を伴って離陸滑走。全長20メートルを越す巨体が、似合わぬ軽やかさで地
上を離れる。コース取りのために緩く旋回すると、眼下となった人々は誰一人言葉も無
く、敬礼し、佇立したままだった。罰則ぎりぎりの超低空で彼らの眼前をすり抜けた途
端、その人垣はどっと崩れた。みな、機を追って走り出していた。境界の金網で、立ち止
まる者、よじ登る者。必死に振られるジャケットや帽子の色彩が、視界の隅で、小花が散
るように踊った。
ひとつ息を呑み込んで、彼らの頭上を大きく一度旋回した。
ゆっくりと高度を上げながら、二度目の旋回をした。

いつしか、汗は、引いていた。
遠ざかる人々を振り返り、敬礼を返した。
絵に描いたような、晴天だった。一点の曇りも無い紺碧に、機首を据えた。
健と女神との、片道だけの旅が始まったのだった。


<3>

−どうじゃ、健。
飛び立ってしばらくすると、ISO基地の竜から通信が入った。
「異常なし。さすがナリスだな。整備は完璧だ」
−受け入れ体制は万全じゃい。到着は予定通りっちゅうことでええな?
「テストはいいのか」
−こないだも言うたが、戦闘機として使うんじゃあらあせん、博物館に展示されるんじ
ゃ、シリアスなチェックはいらん。無事こっちに送り届けてくれさえすりゃあ、健の仕事は
コンプリートじゃ。
「…ラジャ」

そうか、“恒久の平和を顕すモニュメント”だった。

意識的に、ゆっくりと呼吸をする。

この女神を駆ったパイロットは、戦いの終結を誰よりも強く望んだ。
愛機が平和の像になるなら、本望に違いない。

自分で自分に言い聞かせる。これでいいのだ、と。
天気は上々、機のコンディションも上々、じきにISO基地に到着する。こんなにボロい
バイトは滅多にあるもんじゃない。たまにはジョーに奢ってやろう。

それなのに、心の奥底から、別の声が聞こえて来た。

本望?ヒトは平穏にはすぐに慣れ、命を賭した者のことなどすぐに忘れるだろう。勝利の
女神は、「昔の戦闘機」になる。くず鉄にもなれずに、置き忘れられたガラクタとなる。そ
してそのパイロットは、小説となり、ハンサムな俳優演ずるところの偶像になり、ただの、
伝説となる。

二人の健が、一つの操縦桿を巡って鬩ぎ合う。引き攣る利き手を、思わず緩めた。機体が、
微妙にブレた。歯がみしたくなるような、稚拙な操縦だった。

汝は、吾を御する者に非ず。吾を御する者は何処(いずく)ぞ。

不自然な振動が健を責め立てる。

あなたを駆っていた戦士は…。

思い出さないように、触れないように、封印した記憶だった。
行き場を失ってせき止められていた想いが、急激に膨張し、出口を求めてうねり始めた。
堤を切り、奔流となって迸る。すべてを打ち砕き、洗い流す。健の中を、音を立てて落ち
て行く。終には、地下深く忘れ去られていた魔を目覚めさせた。

−“伝説”になどなるな。“伝説”は過去に過ぎない。強くあり続ければ、伝説になどな
らない。

あなたは俺に、“伝説のG1”になどなるなと言った。でも、あなたはあんなにあっさり
逝ってしまって、あなたの女神は今、俺に墓場へと誘われている。戦士を失った勝利の女
神は、楽園から逐われて朽ちていくばかりだ。ここで、こうして操縦桿を握っているの
が、俺じゃなくて、もし、あなた自身だったなら…。

ISO基地らしき影が、薄く横たわって見えた。
竜から通信が入った。最高のフライトだったろう、とか、あとは着陸だけじゃな、とか、
安堵感に満ちた声だった。健は最初のうちこそ生返事していたが、やおら操縦桿を倒す
と、首を大きく傾けた。

−何があったんじゃ?!

最初はアクシデント発生と思ったらしかった。健の頭は冴え渡っていて、機のコンディシ
ョンは完璧だった。健はゆっくりと旋回し、通過したばかりの沖合を目指した。

あなたは、俺が伝説になることをあれほどに厭った。
俺も、あなたが伝説になってしまうのには、耐えられないようです。

−健、健!
悲鳴だった。ルートの変更が、健の歴然とした意志であることを察したのだ。
−何じゃ?!早よ戻って来い!
「竜、悪いが」
−わるいぃ?!なにがじゃい!!
「こいつは連れて帰らない」
−はぁああ?!
「俺がもらう。長官や空軍には、トラブって墜ちたと報告してくれ」
−無茶言うな、健。墜落?!冗談じゃぁない。俺の首が飛ぶだけじゃ済まんぞ。鴨さんに
まで迷惑がかかっちまう。お前らしくもない。

健は応答するのを止めた。竜の声は、ISO基地の飛行司令部の混乱にとって替わられ
た。‘回収用のヘリ’を準備するように指示する竜の声が、遠ざかったり近付いたりして
聞こえた。さすが竜、と口元がわずかに綻んだ。

そうさ、俺はこれからこいつを墜とす。海に沈めてやる。
ひとりの極上の女神が命を落とした、あの場所に。

健は、機首を狙う海域に向け、リジェクトする算段だった。あの時は潮流の速さを理由に
サルベージは断念された。今回も、同じ顛末となるだろう。
この機体が、と健は奥歯を噛みしめた。博物館の目玉になって、記念写真のためだけの存
在になるなんて、我慢ならない。

こいつはいつも俺と一緒だった。虚空に立つ俺の傍らに、寄り添って俺を支えてくれた。
俺にとって、こいつはただの戦闘機じゃない、ほんとうの、勝利の女神だった…。

−健、聞け!
竜の声が耳元に戻ってきた。
−ええ仕上がりなんじゃな?その機体。そりゃあそうじゃ。
健は応答しない。汗かきの竜はもう濡鼠も同然に違いない。
−パイロットがいつ帰ってきてもええように、直して、磨いて、調整して、何年も大事に
大事に手入れされとったんじゃ。仲間のパイロットも、支援スタッフも、いつか必ず帰っ
てくると信じとった。帰ってきてほしいと願っとったんじゃ。
唾を飲み込む気配がした。
−おまえに完璧と言わせるだけの仕上げは簡単なこっちゃない。ひとがそれほど大切にし
とるもんを、壊したりしちゃあいかん。絶対にいかん。

「分かってる」
でも。
「済まん」

リジェクトの体勢に入らねばならない。健は通信を切ろうとした。


<4>

−切るな、このバカ野郎。
ジョーの声が耳朶にわんわんと響いた。なぜそこにいる、と思った。
健が気懸かりで詰めていたのだろうか、竜に急の呼び出しを食らったのだろうか。
−お前にはそいつを墜とせねえぜ。
もうあの海域だった。健は最初のタイミングを外した。大きく旋回して、リトライ体勢に
入った。
−その機体を撫でたりさすったりしてた連中と、お前のイーグル・ワンや家の整備してた
俺たちとはおんなじさ。お前は分かったろう?俺が、竜が、ジュンや甚平が、どんなにお
前の帰りを待っていたか。
分かってたよな?とジョーは声のトーンを落とした。いつにない静かさだった。
−そいつを墜とすのは、俺たちの思いを踏みにじるのと同じだ。それでも、墜とすのか。
健、お前の気持ちは分からないでもねえ。そいつがガキの玩具にされちまうなんて、堪ん
ねえよな。でも、お前だけは、そいつを墜としちゃいけねえ。そいつは、戦闘機でも、記
念写真のバックでもない、“思い”なんだ。お前や俺には計れないほどの“思い出”が詰
まってるもんなんだ。

二度目のタイミングも外した。ISO基地に向かっていた機首を、健はまた大きく逆方向
へと巡らせた。
ジョーの苦笑がくつくつと低く響いた。ひどく場違いだった。…なぁ、健よ…。

−そいつのパイロットは、そいつが博物館行きになろうが、スクラップにされようが、気
にしねえ…。俺はそう思うんだがな?

この瞬間、すとん、と肩の力が抜けた。

新機体も行き渡ったことだし、ISO博物館ならいいかもしれないな。長官ならうまく保
存して下さるだろう。

あまりにリアルな想像に、健自身が、気の抜けたような嗤いを浮かべざるを得なかった。
そうか、そうだよな、ジョー…。

「了解。分かった。ちゃんと無事にそこに着陸させる」
しかし、ルートをISO基地には戻さなかった。
「でも、ちょっといいか?ちょっとだけ…」

−ガス欠にならんうちに戻って来い!
竜の声は、ひっくり返っていた。

アクリルガラスごしの空はどこまでも青く、遠く海と境を一にする。水鳥の大きな群れ
が、一斉に身を翻した。
健はその青のさらなる彼方を透かした。あそこに天空の楽園がある。

女神よ、どうか俺に力を貸してください。俺を、無限の高みに還してください。風を呼
び、光に乗る、あなたはかつて一度、俺にその魔法を思い出させてくれました。
それを、どうか、もう一度だけ。
俺が今でも、大鷲の名を頂くに相応しいパイロットであるならば。

それは願いよりも祈りに近かった。
渾身の力で、操縦桿を引いた。

急上昇から、反転して急降下。体がシートに押しつけられる。左右に引っ張られる。浮か
び上がる。超低空の高速度飛行。10メートル下に海面が見える。
そのまま水平に旋回。さらに逆方向に転回。急上昇。
何年ものブランクは長い。健は微妙にタイミングを外し、思うコースを全く取れないでい
た。女神の仕上がりは残酷なほどシビアだった。寸分も、遊びなど無い。
健の記憶には、華麗に舞う女神の姿しかない。しかし現実は、舌打ちの余裕もなかった。
それでも健は、まったく同じ動作をなぞろうとした。無惨だった。大鷲の有様は、文字通
りのなれの果てだった。

糞!

燃料計もまた微妙だった。このままでは、当初の予定どおり墜落の憂き目に遭う。今の俺
がこれ以上足掻いたところで…。
諦めて、ISO基地へのコースに戻ろうとしたときだった。

−もう一度。
背中に、あの乾いた気配が突き立った。
−まだだ。行け。
彼の声が、はっきりと聞こえた。疑問を差し挟む余地など無く、操縦桿を握り直した。

墜落したって構うものか。

健は再び、機首を上げ、急上昇から急旋回した。
激しい振動とGに健の体が振られ、捻られる(カリプソ、エイト・ポイント・ロール、ナ
イフ・エッジ・パス)。超高速で機体を振動させながらの急上昇、反転急降下(バーチャ
ル・クライム アンド ロール)…。

−もう一度。
あの頃の健は、細胞破壊に冒された体を抱え、五感の狂いと体力の低下に苛まれていた。
今の俺のほうが条件は良いはずだ、と健は宙を睨み付けた。

−人間の五感というものは、そんなに脆弱ではない。どこかが必ず必要なことを覚えてい
る。パイロットは、そのために何千何万時間を飛ぶ。記憶する媒体を増やすために、深く
するために。何時如何なる場合でも、思い出せるために。

そうさ、戦争が百年続いても墜ちない男と謂われた俺だ。できないはずがあるものか。

−トリガーは、視覚でもいい、方向感覚、或いは時間の感覚でもいい。最も研ぎ澄まされ
た何かが、パイロットを呼び覚まし、シルフを呼び、機を風に乗せる。

同じことを、同じタイミングで、同じコースで繰り返す。
折しも逢魔が時。青からオレンジへのグラデーションが、健の周りを流れ始めていた。夢
のようだった。夢だったのかもしれない。

刹那、女神が微笑んだような気がした。

どうした?おもうさま、征(ゆ)くがいい。

風が見える。機を包む。
光が来る。燦然と輝く粒子が、大鷲の両翼を押し上げる。

−これだ。

熱に浮かされたように、翔び続けた。波頭の白い飛沫を弾き、成層圏のうす蒼を裂いて、
自在の翼が宙(そら)を遊んだ。
ふと我に返ったときには、燃料はカラ同然で、オレンジのシグナルが明滅していた。今度
こそ、健は機首をISO基地へと立て直した。


<Epilogue>

−ほんとうに、もう飛ぶ気はないのか。
健のパイロットとしてのキャリアを口にしたのは、退役してからは、あれが最初で最
後だった。彼の時間が残り僅かなのは、健も知っていた。
ぎりぎりの問いかけに、健がどう応えるのか、彼はきっと賭けたのだ。
情にほだされてなどやらない、と過剰反応してしまったことは否定できない。
困った人だと微笑を返した。“大人の対応”とやらで、答えたつもりだった。

俺は。どうして。

−達者で暮らせ。強くなれよ。

あの時から、寸分も変わることができずに。

−甘えるな。自分で自分の退路を断つな、と言って居るんだ。

また。

−本当に好きなら諦めるな。

喪ってしまってからでないと、気が付かない。

健は、彼の訃報以来、初めて泣いた。
堪えようとも思わず、泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。

どのくらい経ったのだろう。気が付けば列線に着いていた。コックピットから這い出
して、用心深く大地に降り立つ。日はとっぷりと暮れていた。
「よう、お疲れさん」
眼を凝らすと、ジョーが壁に凭れて腕を組んでいた。
確かに疲弊しきっていた。喉も干上がって、掠れ声は言葉にならなかった。しかし、
すこぶる良い気分だった。健は、ふんわりとジョーに頬笑みかけた。
「いい顔してんじゃねえか。そんなに楽しかったのかよ」
ジョーは体を起こし健に歩み寄って来ると、健の額を指で弾き、ニッと笑った。
「俺、昔みたいに飛べたんだ」
ジョーの指の感触を、手の甲で擦る。
「そうかい」
「本当に飛べたんだぜ。信じないのか?」
「信じるさ。で、なんだ、ついにニケ入りか?」
「いいや。飛べる、俺にはそれだけでいい」
すべては健の裡にある。どこかに探しに行く必要は、もう無いのだ。
憑き物が落ちたってトコだな。ジョーが揶揄するように、しかし安心したように、独
特の、口角を引き上げる笑みを浮かべた。
「竜が、引き上げていい、ってよ」
ジョーは健と並び、肩を引き寄せた。健はジョーの肩に、ころんと頬を預けた。

「ありがとうございます…」

誰に向けての感謝の言葉か、ジョーは、おい、と健を小突いた。
「今ここにいるのは誰なんだ?本当に、俺か?」
「何、分かり切ったこと言ってるんだ?お前しかいないじゃないか」
「なんか、俺、やってらんねえな。死人に焼き餅なんか焼けるかってんだ」
健はきょとんと小首を傾げる。ジョーは足早に行ってしまう。追おうとして、バラン
スを失い、二・三歩、蹌踉めいた。
体中の筋肉が緊張しきって強ばっていた。これほど強烈なGを味わうことは、もう二
度と無いだろう。
朝日が上る頃には消える、その揺らぎを愛惜しんで、健は両の腕で己が体を抱いた。
長い吐息とともに、最後の涙が一滴、つうと頬を伝った。

飛びたかったのは、俺だけじゃない。
還りたかったのは、俺だけじゃない。

最後の任を終えた女神が、健の背中を、静かに見守っていた。

「着替えて来るからさ、車回しといてくれよ。俺もう、腹減って、腹減って…」
まっすぐに上げられた顔、よく透る声。真っ青な瞳に、もう迷いは無かった。

かつて、‘大鷲’の名をとった若いパイロットがいた。
百年戦争が続いても絶対に墜ちない男、と讃えられた。
戦後、彼の行方は杳として知れず、死亡したとの噂もあった。

大鷲は、ここにいる。

今は舞い降りて、翼を休めている。


END − Fly high forever …



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