ある夏の日に

by アリー



 「健?聞きたいことがあるんだけど。」
僕は教科書とノートを抱えて、学校へ行くために玄関を出ようとしたところで呼び止めら
れた。振り返ると、最近この屋敷に働きに来ているメリッサが立っていた。
「納戸においてあったロープの束を知らない?園芸用品をしまうのに使うのだけど、どう
してもみつからないの。」
メリッサは腰に手を当て困った顔をしている。メリッサは家事全般を仕切っていたスペン
サー夫人の姪で、腰を痛めてしまったスペンサー夫人の替わりにやって来ているのだ。
「知らないよ。僕は使ってないもの。」
「そう、悪かったわね、引き留めて。そうだ、ジョーに会ったら聞いといてくれない?」
そういってから、メリッサはポケットからチョコバーを出すと、僕に放った。
「おやつに食べて!さぁ、健。走って行くのよ。」
そういって僕を扉の外へ押し出した。その勢いのまま、僕は両側を花壇に囲まれた、なだ
らかな下り道を駆け降りた。朝の気持ちの良い空気が僕の頬をくすぐる。
 僕が屋敷から外へと通じる門に向かって走っていると、犬のカーロが飛び付いてきた。
 カーロはシェパードという種類の犬で、とても賢い。花壇を通り抜け芝生の庭を越えて
外の柵までカーロと競争だ。カーロは僕の足にじゃれようとするので、転びそうになる。
 やっと門まで辿り着くと、僕は息を切らし柵に捕まって扉を開ける。
「やあ、坊や。学校の予鈴がなるまであと7分だよ。」
門の脇にある、ちいさな詰め所に待機しているベイカーが声をかけてきた。ベイカーはい
つもきちんと黒っぽいスーツを着ている博士のボディーガードだ。
 僕はカーロに門のところでさよならを言った。カーロは門の外には出られない。なぜな
ら、カーロのお仕事は屋敷の中にはいってくる泥棒とかあやしい人たちをやっつける亊だ
から。カーロは人懐っこい眼をし、おりこうにお座りをして僕を見送っていた。
 僕はカーロとベイカーに行ってきますの投げキッスをして、再び学校に向かって走り出
した。

 僕が必死で土手の小道を走っていたとき、どこからか僕の名前を呼ぶ声がした。立ち止
まって辺りを見回すと笑いながらジョーが僕の名を呼んでいる。
「おーい健。ここだよ。上を見てみろよ。」
 樹齢百年に近いオークの木の上にジョーがいた。地面と平行に伸びる太い二本の枝の間
を渡してロープがグルグルと巻き付けられていて、ジョーがそのハンモックのような秘密
基地で笑いこけていた。
 僕は教科書とノートを木の根元に置くと、木の幹に取り付いた。木は太くて手が回りき
らず、苦労しながらジョーのいるところまで登り詰めた。
「ようこそ、俺の秘密基地へ!」
ジョーは得意そうに胸を張った。
「へぇー。すごいや。でも、このロープは、納屋に在ったやつじゃない?」
「ああ、丁度いいのがあってさ。一巻全部使っちまったよ。」
「今朝、メリッサが探していたんだよ。どうする?」
僕は困ってしまった。
「どうするも、こうするも・・・もうロープはないさ。秘密基地になっちまったもん。」
「メリッサ、困るだろうな。」
どうしようというように、ジョーの顔を見た。
「大人なんだから、メリッサも自分で何とかするよ。なにしろ、秘密基地なんだから、
ロープの亊も秘密にしてくれよ。おまえだから、この基地に入れてやったんだぞ。」
ジョーはまじめくさった顔で言った。
「わかった。」
僕はうなずいた。
「ところで、健。おまえ学校に遅刻しちまうぞ。」
ジョーが言うと、僕はとびあがった。秘密基地に夢中になって、学校の亊をすっかり忘れ
ていたのだ。
 あわてて木からすべり降りて、教科書を拾い、まだ木の上にいるジョーを見上げた。
「ジョーも早く来なよ!」
ジョーは平然としている。
「俺は今日はサボることに決めた!学校は明日行くよ。」
ジョーの奴と心の中で文句を言いながらも、僕はうれしかった。
ジョーがこの屋敷に半年前に来てから、こんな風に笑っているのを見たのは初めてだった
からだ。
 遅刻、遅刻とつぶやきながら、僕は全速力で学校にむかって駆けていった。



 将来の夢   ジョージ・アサクラ
僕は大きくなったら世界中を旅する人になりたい。
そういったら友達の健が笑った。
おまえ、大きくなったらなにか仕事をしなきゃいけないんだぞと言った。
でも、僕が一カ所にずうっといるなんて、まっぴらゴメンだよと言ったら、健がいいこと
を教えてくれた。
それは、サーカスに入って世界中を旅すればいいんだよということだった。僕はナイフを
投げるのが得意です。ナイフ投げは博士のボデーガードが教えてくれたのです。
この前、先生に見せてあげたら、そんなことしてはだめだと僕を怒りましたが、僕はたく
さん練習をして、ナイフ投げの名人になってサーカスで世界中を旅することにきめました
健もあとから“いいなぁ、僕も一緒にサーカスに入りたい”と言いだしましたが、最初に
僕の亊を笑ったので、サーカスには入れてやらないことにしました。
でも、本当は世界の旅をするなら健と一緒ならいいなあと思っています。あいつが一緒な
ら楽しいからです。だから、謝ってきたら許してやろうと思います。

 最近、僕たち二人は、学校が終わった後で必ず秘密基地に寄って時を過していた。
 僕たちに変わった亊はないかといつも気をつけていて、とってもカンが鋭かったスペン
サー夫人に比べて、僕たちの姉といっても通るほど若くて人の良いメリッサをごまかすの
は何の苦労もなかった。
門限ぎりぎりに屋敷にたどり着き、あるときはバスケットクラブの練習だといい、また、
別のときは補習を受けてきたといっても、メリッサはなんの疑いもなく、へぇー、大変だっ
たねといって、僕たちに食事の仕度を手伝うように命じるだけだった。
 ある時、ジョーと木の上で寝転んであれこれと喋っていると、土手の道をメリッサが歩
いてきた。街へ買い物へでも行くのだろう。
「メリッ・・・」
僕が叫ぼうとしたところで、ジョーが僕の口を手で押さえた。
「しぃっ、やめろよ。」
「あ、そうか、秘密だっけ。」
僕も自分の手で、口を押さえ息をひそめた。初夏を迎えて茂った木の葉は、こうしてじっ
としていれば、僕たちの居場所を完璧に隠してくれる。
 その時、街の方から一人の若い男が歩いてきた。この辺では見かけない男だった。髪の
毛は長髪でTシャツにジーンズ姿、胸には革製のネックレスが下がっていた。
「なんだかキザな奴。」
ジョーは男を見て、僕にささやいた。
 そのキザな男とメリッサは土手の上ですれ違った後、若い男はメリッサの方を振り返り、
その姿を見てから再び歩きだした。メリッサも4、5歩あゆんだ後、若い男のことを振り
かえって、遠ざかってゆく姿を見つめていた。
 木の上のジョーと僕は、その一部始終を口を押さえたまま見ていた。
「メリッサったら変だよね、あんな風に知らない人を見つめててさ。僕が前におしゃべり
しながら歩いてたら、あんたそんなに横ばっかり向いていると、看板にぶつかっちゃうわ
よなんて注意していたくせに。」
 僕は先日、街への買い物に連れて行ってもらった時のことを思い出して言った。
「おまえ、ピントがぼけてんな。違うよ。あれは恋の始まりだよ。」
「えーっ、そうなの?」
ジョーは仰向けにひっくり返ってのびをし、それから僕をいたずらっぽい眼で見て言った。
「賭けてもいいぜ。もし二人が恋人になったら、日曜日の夜のデザートを俺にくれよ。」
「いいよ、じゃあ、もし二人が何でもなかったらデザートは、僕のものだよ。」
「じゃあ、賭けは成立だな。へへ、チョコケーキの時がいいなぁ。」
ジョーはニッと笑った。

 学校帰り木の上を覗いたら今日はジョーの姿がなかった。僕はへんだと思って、家まで
走ってゆくと門の柵のところにジョーがいて、ナイフ投げの練習をしていた。
 今日の詰め所の当番は、スカーだからだ。スカーの本名は他にあるんだけれど、顔に大
きな傷跡があるからスカーというあだ名になったと博士が言っていた。皆、彼をそう呼ぶ
し、本人もそう呼ばれるのが、一番のお気に入りらしい。
 スカーは四角四面のベイカーと違って、どこかくずれたところがあるから、(そういっ
たら博士は笑っていた)きっと、それでジョーと気が合うんだろう。
 僕がカーロの頭をなでていたら、やっとジョーが僕に気が付いた。
「健、遅かったな。おまえもナイフ投げやらないか?」
「いいよ、僕はジョーみたいにうまく投げられない。」
「じゃあ、サーカスに入ったとき何をやるんだよ?特技がないなら、ピエロにしかなれな
いぜ。」
「ライオン使いとかがいいなぁ、ナイフ投げより。」
僕はカーロの首をぎゅっと抱きしめた。
「カーロを使って練習をしちゃ駄目だぞ、健。カーロはこう見えてもお仕事中なんだから
な。」
スカーが言う。
 僕はがっかりした。どうして、僕の考えていることは、すぐ皆に伝わっちゃうんだろうか?
「それにしても、ジョーが最近元気になって良かったよなぁ。」
スカーが詰め所の壁に貼ってある的からナイフを抜いて、ジョーに渡した。
「覚えてるか?お前が警報器のアラームを鳴らしまくっていたことを。」
スカーはニヤッと笑いながらジョーに言った。
 僕とジョーは柵の上に取り付けてある警報器を見上げた。それは、広い屋敷の敷地を囲
む柵の上に20メートルおきに取り付けてあって、柵を誰かが乗り越えると屋敷内にアラ
ームが鳴り響く仕組みになっていた。
 ジョーが半年前にこの屋敷に来てからしばらくは、何度も外に出ていこうとして柵を乗
り越えては、警報を鳴らしていた。
「俺達は、あんまりジョーが警報を鳴らすんで、侵入者の為じゃなくて、ジョーの脱走防
止用みたいだなってよく笑ったもんだよ。」
 ジョーはフンて顔をして的に向かってナイフを投げた。でも、口元がちょっぴり照れ臭
そうにゆがんでいた。
「ジョー、そろそろいこうよ。」
僕が言うと、ジョーは、はっと気が付いた。
「もう、そんな時間か?」
僕たちはスカーにさよならをいうと、土手へと続く道を駆け出した。
 スカーは訳がわからないと言うように笑うと、詰め所のなかへ入っていった。



 メリッサは近ごろ午後の今ぐらいに街に買い物に行く。そうすると、あの若い男も同じ
時間にやって来るようになった。二人は相変わらず秘密基地の前あたりですれ違う。
 この前、二人は土手の上で立ち止まって話をしていた。ジョーは早速、日曜のデザート
をよこせといったけど、僕はまだだって言った。
 立ち話ぐらい誰だってするさ。あのお堅いスペンサー夫人でさえする。もしかして、天
気がいいですねとかそんな話をしていたのかもしれない。そんな亊で、大好きなチョコ
ケーキを渡すことはできない。
 僕たちはスカーと別れた後、全速力で走ってきて木に辿り着くと一目散に登った。木に
登ってからも、息がはぁはぁとなってしまって、お互いそれをしずめるのに一苦労だった。
 しばらくすると、メリッサが屋敷の方から買い物篭を下げて歩いてきた。あの男も反対
側の林の道を抜けてやって来た。
 僕たちは胸をどきどきさせてふたりを見下ろしていた。道の真ん中で二人は立ち止まっ
て土手に並んで腰をかけた。二人ともこちらに背を向けている。
 二人はしばらく何事かを話し合ってから立ち上がって、このまま別れるのかなと思った
ら、男が突然メリッサの頬を両手で支えて、キスをした。
 僕らはびっくりした。眼を大きく見開いたままメリッサと若者のキスを、ただぼう然と
見ていた。
 二人がそれぞれの方向へ去った後もまだ胸がどきどきしていた。ジョーを見るとジョー
もびっくりしてこうふんしているようだった。僕たちはしばらく口も聞けずに見つめあっ
ていた。
 そしたら、ジョーはふいに僕の頬を両手ではさみ、さっきあの男がメリッサにしたよう
に僕の唇にキスをした。
 僕の心臓は跳びはねた。そして、ジョーは突然僕を離して言った。
「キスってこんな風にすればいいんだ・・・案外、なんてこともないモンじゃないか。」
ジョーはなんでもない風を装うとして失敗していた。そう言ったジョーの声もひどくうわ
ずっていたから。

 次の日曜日の夕御飯のデザートはチョコレートケーキではなく、生クリームとアイスが
天に向かってうねりながら伸びているパフェだった。こんなパフェは今まで見たことない。
 ジョーは僕に向かって囁いた。
「こいつは、メリッサの気持ちがパフェになったんだよ。ずっと、恋しているとありがた
いよな。」
ジョーは、すぐ大人ぶった口をきく。この前、メリッサがキスをしているのを見たときは、
僕に負けないぐらいドキドキしてたくせに。
パフェは大好きだから残念だったけど、賭けに負けたんだからしょうがない。僕はパフェ
をそっとジョーの方に押しやった。
 それを南部博士が目ざとく見つけた。
「どうしたんだね、健。お腹の具合でも悪いのかい?」
南部博士が心配そうな顔をして僕を見ている。ジョーがテーブルの下で、僕の足をそっと
蹴った。わかっている。賭けのことも、メリッサのキスの亊も、秘密基地の亊もみんな内
緒だ。
 僕はなるべく元気なさそうな声をだして言った。
「昼間からなんだかお腹が痛くて、食べられないんです。」
ジョーも隣で大まじめにうなずいている。博士は席から立ち上がって僕の側にきた。そし
て膝をついて僕の顔をのぞき込み、額に手を当てた。僕はうそがばれないかと、どきどき
して下を向いてしまった。
「お腹のどの辺が痛いのかい?真ん中かい?それとも左の方かい?」
「ま、真ん中です。」
「鋭い痛みかい?それとも鈍い痛みかい?どういう風に痛いのか説明してごらん?」
「えーと、ぎゅーと痛い感じです。」
博士がやさしくしてくれる程、僕はどうしていいかわからなくなっていった。
「ただの腹痛らしいから、ベッドで大人しく寝ていれば直るよ。薬もあげよう。」
博士は僕をひょいっと抱き上げると、寝室へと運んでくれた。心の中で、博士にウソをつ
いてごめんなさいと謝った。
 抱き上げられた時最後に見たのは、口の回りをクリームだらけにして二個目のパフェに
取り付いているジョーの姿だった。
 結局、真夜中にジョーも本当の腹痛を起こして苦い薬を飲まされ僕の隣のベッドで並ん
で寝ることになった。



 真夏になり、耳元でセミがミンミンとうるさく鳴くようになっても、僕たちはあいかわ
らず秘密基地にせっせと通っていた。
 納屋でビニールのシートを見つけ、秘密基地の屋根にしたので少しぐらいの雨ならへい
ちゃらになった。
 木のうろの中には同じく納屋から借りてきた懐中電灯や予備のロープ、缶詰や缶切り等、
秘密基地にふさわしい備品がそろっていった。全部、メリッサに内緒で借り出したものだ
けど。
 でも、メリッサには悪いと思って、僕たちはなるべくメリッサの手伝いをするようにし
た。つまり、皿を洗ってあげたり、花壇の手入れをしてあげたのだ。メリッサはとても喜
んでいた。僕たちも人助けをした気分を味わえ、おまけに秘密基地の備品もいろいろそろっ
てうれしかった。
 木はますます葉を茂らせ、ここにいる僕たちを見つけられるものはいないだろうと思っ
ていた。あの男が来るまでは・・・。

 そいつは、あるうんざりするほど暑い日に街のほうから歩いてきた。白いジャケットに
派手なネクタイをしめ濃い色のサングラスをしてと、とにかく初めて眼にする出で立ちだっ
たので、僕たち二人はその姿にすごく興味をもって見つめていた。
「なぁ、健、あの人はきっとサーカスの団長さんだよ。それであちこち回ってサーカスに
入りそうな子供をさらっているんだよ。」
ジョーが言った。
 ジョーの夢は世界中を旅をしてまわることだ。うまく説明は出来ないけど、ジョーを見
ていると、ある日誰にも何も言わずにどこかへいってしまいそうで不安になるときがある。
だから、ジョーがどこかへ行くのなら、僕も遅れずについてゆくんだ。僕はそんなにサー
カスにはいりたい訳ではなかったけど、ジョーが行くなら僕も行こうと思う。
 その人はジョーが言った通り、どこか普通の人と違う感じがした。きちんと手入れされ
ている口ひげさえ、あやしい雰囲気をかもしだしていた。
 その人はぶらぶらと土手を歩いていたが、途中で道を逸れ、この木に向かってやって来
た。そして、僕たちの木を見上げると、大声で呼び掛けてきた。
「坊主達、いい隠れ家じゃないか?」
 突然声をかけられて、僕たちはびっくりした。誰にも気が付かれなかったこの秘密基地
を見つける男がいたなんて!
 男は僕の顔をじいっと見つめた。普通じゃなく、それこそ穴があく程見つめ続けた。僕
は怖くなると同時に、その男にどこか惹き付けられた。
「おじさん、どこの人なの?」
ジョーはその男をにらみ付けて聞いた。ジョーはすぐには人を信じない。博士が言うには、
昔とてもつらい亊があったからだそうだ。猫が不法侵入者をみつけたときのように、警戒
しているのが伝わってくる。ところが、その男はちっともひるまないどころか、顔にニヤ
ニヤ笑いを浮かべている。
「おじさんていうのは、止めてくれないか、そうだな、俺のことは“ファントム”って呼
んでくれ。」
「ファントム・・・幽霊なんて、変な名前。」
「俺のTACネーム・・といっても、わからないか。そうだな、ニックネームだと思ってく
れ。」
そして、ファントムは、彼をずっと睨みつけたままのジョーに向かって言った。
「どこの人と聞かれても困るな。俺に家はないし、いつもあちこち飛び回っている。本当
に幽霊みたいなもんだからなぁ。」
ジョーの瞳がきらりと光った。僕は思わずファントムに向かって叫んだ。
「ファントムは、サーカスの団長さんなんでしょう。それで、隙をみて僕たちをさらうつ
もりなんだ!」
男は一瞬息を飲んだ後、身体を二つ折りにして笑い始めた。僕たちは顔を見合わせた。
 男はさんざん笑った後、やっと返事をした。
「サーカスね。そうだな。やっていることは似てなくはないな。猛獣のような危険な奴等
を相手にして、飛び回っているからな。そこに登っていいかい?」
 ジョーの顔を見ると、ちょっと迷っている感じがした。ファントムは今まで会ったどん
な人とも違う感じの人だったから、仲間にすべきか、拒否するべきか判断がつかなかった
のだろう。
 ジョーはポケットからナイフを取りだすと、ファントムの足下に投げた。
「向こうからこれを投げて、この木の瘤のところに当てることができたら、この秘密基地
に招待してやる。」
ジョーの態度は大人に対するものとしては、とても生意気だったにも拘わらず、ファント
ムはそのことをおもしろがっているようだった。
 彼はくるりと背をむけると木から遠ざかるように歩きだした。そして、ジョーが指定し
たより二倍は遠くの位置で、立ち止まった。そして肩の辺りにナイフを構えて無造作に投
げた。すると、ほとんど構えてなかったにもかかわらずナイフは眼にも止まらぬ早さで飛
び、木の瘤の真ん中にぐっさりと刺さった。あまりのも深く木の瘤に突き刺さったので、
僕が引っ張って抜こうとしてもびくともしなかった。ジョーは、驚きとほんの少しの尊敬
の気持ちを込めて口笛を吹いた。



 ふと、道の方をみたジョーは、何かを発見したらしく叫んだ。
「木に登って!健もファントムも。メリッサが来ちゃったよ。」
 ファントムは意味がわからず、ただ立っていたが、僕はファントムに秘密基地に登るよ
うにとせかした。狭い秘密基地は大人一人と子供二人でぎゅうぎゅう詰めになった。
 僕とファントムが隠れ終わるのと同時に、メリッサは僕らの木の前の土手にやって来た。
今日はあの若い男と待ちあわせをしているらしく、土手に腰を下ろして待っている。
 すぐにあの若い男がやってきた。今日は珍しく、ナップザックとリボンのついた大きな
箱を抱えていた。
 そして、恋人同士は土手の脇に腰を下ろして仲良く話しを始めた。
 遠すぎて聞こえないけど、きっと、夜中にジョーと二人でこっそり見た恋愛映画みたい
な亊を話しているんだろうと思う。ジョーも僕にめくばせをしてニヤッと笑った。ファン
トムはようやく事情が飲み込めたようで、しょうがない奴らだというように笑って僕たち
の頭をぽんと叩いた。

「メリッサ、遅れてごめんよ。」
「会いたかったわ、ジェフ。」
「君が以前、居間にすてきな掛け時計があればって言ってたろ。昨日、街でいいのを見か
けたから買ってきちゃったよ。」
「あら、素敵だわ。開けていい?」
 ジェフはその時、なぜか包みを開けようとするメリッサの手を制止した。
「ああ、俺は今日はこれから急いで行くところがあるから、ここで開けちゃうと包み直す
のが大変だろ。それよりも、居間に飾ってから感想を聞かせてよ。」
「ええ、そうね。そうするわ。ジェフ、今日はもう行ってしまうの?」
「ああ、ごめんよ。じゃあ、またね。それから、この時計の時間を合わせる時、必ず十二
時に時計を合わせてから現在時刻に合わせてね。外国製だから、独特なんだよ。」
メリッサはうれしそうに頷いた。
「そんな高価なプレゼント、無理しないでよ、あなた。」
「それじゃあ、メリッサ。忘れないで、十二時だよ。最初にセットする時に十二時に合わ
せて、わかった?」
そして、若い男はメリッサの亊を抱きしめると唇を重ねた。
 恋人達の長いキスが終わると、メリッサは包みを抱え、恋人のことを何度も振り返りな
がら屋敷の方へと去っていった。
 若い男は、メリッサの姿が見えなくなるまで手を振り続けたが、やがて、手を下ろすと
ナップザックを抱えて秘密基地の木の方へと近づいてきた。僕たちは驚いて息をひそめ
た。
 その男は木の陰に隠れるようにしてナップザックから通信機を取りだすと、スイッチを
いれた。そして、誰かに向かって報告をし始めた。

 なんだろう?このメリッサの恋人はいったい何をしているんだろう?僕の頭の中は混乱
していた。
「こちらジョーカー。いま爆弾を例の娘に渡したところです。ええ、大丈夫です。あと十
分もすれば、南部はふっとんでますよ。」
男は通信しながら、腕時計を見ている。
 僕はジョーを見た。ジョーも蒼ざめて僕を見つめ返す。
“爆弾でふっとばす”だって?僕の頭の中に男の声がぐるぐる回っている。
 博士は、博士や僕たちが普通の家庭とは違うという亊をよく説明してくれたし、屋敷内
にはボディーガードがいつもうろついていたけど、眼の前で、こんなに恐ろしい亊が起こ
ろうとは思ってもみなかった。心臓がどきんどきんと音をたてている。夢なら早くさめて
と僕は願った。
 その時、ファントムが僕らの隣から飛びおりた。そして、若い男の襟首をつかみ、頬を
殴り付けた。男は地面にひっくり返り、ファントムはその上に馬乗りになって、男の首を
肘で締め上げた。
「あの娘に渡した爆弾の止め方を言え!さもないと、この首をへし折ってやる。」
ファントムは眼をぎらぎらさせ、さっきの怪しいニヤニヤ笑いをしていたのとはぜんぜん
違う人のようだった。僕もジョーもその迫力にしびれたようになって、ただ木の上でファ
ントムが男を殴るのを見つめ続けていた。
 顔が真っ赤になるほど締め上げられた男は、とうとう喋りだした。
「どうせ、間に合わない。あの時計は、十二時に針を合わせて時計の歯車が回りだしたら
爆発するようになっている。南部もこれで終わりだ。」
若い男は憎々しげに言った。ファントムは男をもう一発殴って黙らせると、木の上にいる
僕たちにむかって怒鳴った。
「こいつを縛り上げて見張っていろ。」
そして、全速力で屋敷の方向に向かって走り出した。ジョーは、ファントムに言われた通
り、木のうろの中にあるロープを掴んで取りだした。
 僕は木から飛び降りると土手の脇に止めていた自転車にまたがってファントムの後を追
いかけた。
「けぇーーん!」
ジョーの叫び声を背で聞きながら、僕はペダルを必死に踏みつづけた。

「おかえり、メリッサ。おや?誰からのプレゼントかい?」
リボンを掛けてある大きな箱を見ながら“門番”のスカーが鉄製の門を開けた。
「ないしょよ」
メリッサは幸せ一杯の笑顔で微笑む。そこへ、シェパードが庭の奥から走ってきて、メ
リッサに向かって吠えかかった。
「あら、やあねぇ、あたしよ。カーロ。どうしたのかしら?」
カーロはメリッサの回りをまわっては、吠える。スカーは首をひねった。
「飛び掛かったり、攻撃をしているわけじゃないから、メリッサだってことはわかってい
るらしいが、おい、おい!」
スカーがどんなになだめても、カーロはメリッサの回りをぐるぐるまわっては唸っている。
「スカー、悪いけどカーロを押さえておいてくれない?このままじゃ、私、家に入れない
から。」
スカーは仕方なく興奮しているカーロの首輪を押さえ、引き綱をつけてメリッサから引き
離した。
メリッサはため息をつくと、箱を抱えて花壇にかこまれた玄関への小道を歩き始めた。



 ファントムが走ってゆく後を、僕は自転車で全速力で追いかけた。
「ついてくるなっ。戻れっ」
ファントムは僕に怒鳴った。
「門のところにはスカーがいて、知らない人は中に入れないよ。僕が説明しないと、ス
カーに逮捕されちゃうよ。あいつ、すごく強いんだから。」
「ナイフ投げのスカーか、心配ありがとうよ、坊や。」
驚いたことに、ファントムはスカーの亊を知っていたみたいだった。
 僕たちは門にようやく辿り着いた。スカーが門を開けながら言った。
「大尉。お久し振りです。どうなさったんですか?」
ファントムは立ち止まらずに門を手で突いて勢いよく開け放つと、敷地内へ駆け込んだ。
「後で話す、スカー。南部は部屋にいるのか?」
「博士は、二階のお部屋にいらっしゃいます。」
スカーはファントムの後ろ姿を見送りながら大声で教えた。
 僕もファントムに続いて門の内に入り自転車を玄関前で乗り捨てると屋敷に駆け込んだ。

 長い廊下を通って僕が居間に通じるドアを開けたとき、その異様な雰囲気に思わず一歩
たじろいだ。
 南部博士が壁掛け時計を持ち、ファントムがその時計の振り子を必死で押さえ、メリッ
サは床の上にひっくり返っていた。
 メリッサはあっけにとられ、博士は驚き、ファントムは必死の表情で振り子を押さえて
いる。
 もし、こんな状況じゃなかったら、TVのコメディー・ショウのようにこっけいな場面
だった。
 ファントムが真剣な表情で博士に言った。
「南部・・そのまま落ち着いて聞いてくれ。この時計には時限爆弾が仕掛けられているん
だ。」
博士は、ファントムのただならぬ様子に、既に大体の事情はわかったらしい。博士の顔に
は緊張がはしり、額には汗が流れ始めている。
「この振り子が最初のひと揺れをしたら、たぶん爆発する。」
メリッサが驚きのあまり息を飲むのが聞こえた。皆の間に張り詰めた空気がただよう。
 博士はメリッサに眼を移し、落ち着いて話しだした。
「メリッサ、すぐ外に出てスカーに事情を説明し、それから、誰もここに入れないように
伝えてくれ。それから、健。」
「ハイッ」
 居間の入口に立ち尽くしていた僕は急に呼びかけられ、びっくりして縮み上がった。
「納屋に行って、工具箱を持ってきてくれ。」
「あたしが行ってきます。健は外へ・・・」
事情が飲み込めたメリッサは必死になって言った。
 じっと黙っていたファントムは床の上に尻餅をついたままのメリッサをものすごい剣幕
で怒鳴った。
「南部の言った通りにしろ!今は一刻を争っているんだ。いいから君は早く行けっ!」
腰が抜けていたメリッサはその声で立ち上がって、一目散に外へと出ていった。
 僕は少し怖かったけど、博士とファントムが男として認めてくれたと思うと誇らしい気
がした。僕も急いで、納屋へと向かった。

 僕が息をぜいぜいいわせて居間に戻った時、博士とファントムは何かを穏やかに話し合っ
ていた。僕は工具箱をテーブルの上に置き、蓋を開けていつでも工具がとりだせるように
した。
「よし、坊主、よくやった。おまえも、もうスカーのところへ行っていろ。」
 ファントムはサングラスをはずし、やさしい榛色の瞳で僕を見つめて言った。
「やだよ!だって、何かまだ手伝いが必要な亊があるかもしれないじゃない。」
僕は叫んだ。博士やファントムと別れて、自分だけ安全なところへ行きたくなかった。
「健、私たちは大丈夫だ。君がここにいる必要はない。言うことを聞きなさい。」
博士は毅然と言い放った。こういう時の博士に逆らってはダメだということはよくわかっ
ていた。
 ふたりとも、言葉の調子は優しく、口元は微笑んでいたけれど、瞳だけは笑っていな
かった。二人とも、自分たちの身を顧みず、僕の心配をしているのだと思うと逆らうこと
は出来なかった。
 僕はゆっくりとドアの方に向かって歩いた。涙があとからあとから溢れてきた。僕は泣
きながら屋敷を後にした。

 庭と外を隔てる門のところには、スカーとメリッサ、そしてジョーがいた。詰め所の床
には、ロープでぐるぐる巻にされたあの若い男がころがっていた。
 泣いている僕を見て、ジョーは黙って肩に手を回し抱きしめてくれた。
「爆弾処理班に連絡したのだが、こっちに着くまで一時間はかかるそうだ。博士とファン
トムはどうしている?健。」
「ファントムが工具で爆弾を止めるみたい。」
スカーは僕の返事を聞いて、唇を噛みしめて黙り込んだ。
 陽射しはじりじりと僕たちを照らした。誰も口をきくものはいなかった。スカーは、あ
ごのところから落ちそうになっていた汗の滴を右手でぬぐった。犬のカーロでさえ、ただ
ならぬ雰囲気を感じているとみて、今は屋敷の方を見つめ、暑さに舌をだしてせわしなく
呼吸をしていた。



「南部。おまえが振り子のほうも持ってくれ。よし、そうだ。」
ファントムこと鷲尾健太郎は工具を取り、時計の裏側のネジを緩め、裏ぶたをはずした。
そこには起爆装置と爆弾が仕掛けてあった。鷲尾は用心深く起爆装置のカバーを外してゆく。
「ひとつ聞きたいのだが、鷲尾。お前は起爆装置の解除は得意なのか?」
南部は聞いた。鷲尾は顔も上げずに言う。
「得意というほどではないが、まぁ、あんな素人みたいな若造が仕掛けた爆弾なら大丈夫
だろう。」
「誰が仕掛けただって?」
「あのメリッサとかいう女の子の恋人だろう。気の毒にも、騙されていたんだろうがね。」
「そうか・・・・」
南部の言葉に鷲尾は彼の顔を見上げた。
「メリッサが可哀想だと考えているんだろうな、このお人よしが。お前が殺されかけてい
るんだぞ、人に同情している場合じゃなかろう。さあ、これで継続器を絶縁できたと。」
鷲尾はニッパーをパチンと鳴らして、導線をカットした。
「おおっと、まだだぞ、南部。手を放すなよ。最後にもうひとステップ。お決まりのやつ
が残っている。」
「と、言うと?」
「いよいよ、起爆装置の解除だ。赤と青の線の二者択一だな。間違った線を切れば、即、
爆発だ。」
さすがの鷲尾も考え込んだ。

 スカーの内ポケットの携帯が鳴ったとき、そこにいた全員がビクッとした。僕とジョー
はつばを飲み込んだ。スカーは携帯に受け答えをしながら、詰め所に転がっている男を
引っ張ってきた。
「解除のために切る線は赤と青どっちだ?」
スカーが尋ねる。全員が若い男を見つめた。若い男は今ではビクビクしている。
 その時、ジョーが男に近寄り、ナイフを男の首に突き付けた。
ジョーは唇を血がにじむ程強く噛みしめていた。その瞳は恐ろしいほどの怒りで燃え上
がっている。もし、博士になにかあったら、ジョーはためらいもなくこの男ののど笛を掻
き切るだろう。
 怒りで震えるナイフの刃が男の喉元に触れた。男はかすれ声で言った。
「あ・・・お。青を切れ。」
スカーは、携帯に向かって叫んだ。
「青といっています。」
でも、もし、この男がウソをついていたら?そしたら、博士もファントムも死んでしまう。
 この男を信じて青の線を切るの?それとも・・・僕たちは、あいかわらず堂々めぐりの
罠にはまったままだ。皆、固唾を飲んでスカーを見守っている。
 スカーは、携帯に耳を当てたまま、え、という顔をした。それから、メリッサの顔を見た。
「大尉があんたに聞いてくれって。この男はウソをついているか、本当のことをいってい
るか。」
メリッサは大きく眼を見開いたが間髪いれずに答えた。
「赤を切って下さい。ジェフは嘘をついているわ。」
男の顔は、蒼ざめた。

 鷲尾は携帯を静かにテーブルに置いた。
「あのかわい子ちゃんは、赤だといっている。俺は赤を切る。いいな。」
「はじめからお前を信じてるさ。」
南部は鷲尾の顔を見て静かに微笑んだ。二人の額に汗の玉が浮いている。南部と鷲尾は眼
を合わせうなずきあった。
 鷲尾はニッパーで赤の線を挟み、カットした。
 爆発はおこらなかった。二人は大きくため息をつくと、時計をゆっくりと床の上に置い
た。

 南部が屋敷から出てくる姿を見つけると、健もジョーも駆け出し、南部に飛び付いた。
南部はふたりを両手でしっかり抱きしめた。
 門の外には爆破処理班がようやく駆け付け、軍服に身を包んだ兵士達がスカーの指示を
受けて屋敷に走っていった。犯人の男は後ろ手に手錠をかけられ兵士達に引き立てられた。
 護送車の乗せられる時、男は振り返ってメリッサを見つめた。
「どうしてわかったんだい?」
メリッサは男の眼の前に立つと、冷静に言った。
「あなたがまばたきをしながら話したからよ。愛しているって言うとき、いつもまばたき
をしていたから。」
そう言うと、平手で思いきり男の頬を叩いた。

 その日の夜。僕とジョーは枕を持って、久しぶりに博士のベッドに攻め込んだ。どうし
ても、どうしても博士と一緒に眠りたかったから。博士は驚いていたけれど、笑って二人
分の場所を開けてくれた。僕たちは犬ころのように一緒に眠るのだ。
 僕は眠りに突く寸前、博士に聞いた。
「ねぇ、博士、ファントムは博士のお友達なの?また来るの?」
あの事件の後、屋敷から出てきたのは博士ひとりで、ファントムはそのまま姿をくらまし
たのだ。
 僕はそのまま眠りに落ちてしまって博士の答えを聞くことができなかった。

 しばらくして、南部は健の頭をなでながら言った。
「健、鷲尾からの伝言だよ。“愛する息子よ、会えてうれしかった。”」


END