LOVELY1<黒髪の美女>

by アリー

ジョーはマーケットの陳列棚から缶ビールをカートに放り込んだ。
「ビールは2ダースあればいいよな、お前は何を飲む?」
「ワイルド・ターキー。」
健はジョーの後ろからポケットに手をつっこみ商品を眺めてブラブラと歩きながら言
った。彼はトウモロコシとライ麦から生まれるこの酒を好んでよく口にしていた。
「お前はコレばっかりだな。いっそ大鷲じゃなくターキーと名乗れよ。」
「口にふくむと鼻にぬけていく甘さが好きなんだ。」
パイロットの技量とアルコールに対する耐性は比例関係にあると健は冗談まじりに
よく言っているが、確かに健はアルコールに強く、アルコール度が50度以上のワイ
ルドターキーをストレートで飲み、上機嫌で飛行談義をするのが楽しみという男で
あった。
 ジョーは無造作に七面鳥の絵のついたボトルをつかむとカートに入れた。
「さあて、南部博士は何を飲むんだろうか?」
「博士はこれさ。」
健は棚から紅茶のパックを手に取り、ジョーに向かって投げた。
「値段的に考えて不公平ってもんじゃないか?」
ジョーはパッケージに貼ってある値札を見て言った。
「釣り合うように買うか?」
健はふざけて紅茶のパックを更に4、5個手に取り、投げようとかまえる。ジョーは
口を曲げて肩をすくめた。
「それから水のボトルをたくさん買おうぜ、博士は紅茶の味にはうるさいからな。」
二人は山盛りに商品を積み上げたカートを押してレジに向かった。ジョーがジーンズ
のポケットから財布を出して支払を済ませる。
その時、財布から一枚のグラビアの切り抜きが床に落ちた。健が素早く手を伸ばして
拾うと、イタズラっ子のような顔をした。
「ほぉー、ジョーの想い人は、映画女優のジョアンナ・フォスターか?」
ジョーは健の手から切り抜きをひったくった。
「返せよ。」
ジョーはまずいものを見られたというようにあわてて切り抜きを財布の中にもどした。
健は日頃プレーボーイを気取っているジョーが普通の若者のように切り抜きなんぞを
後生大事に持っていたのがおかしくてたまらない。
 ジョーは仏頂面でカートの荷物を袋詰めをし始めた。
「お前も手伝えよ。おい健、重いものを下に入れるんだぞ。」
にやにや笑って立っている健に向かって言った。
「ま、確かに綺麗な娘だけどな。守ってあげたくなるようなタイプだな。」
「清純そうで、天使みたいなイメージでさ・・・ま、ちょっといいなと思っただけさ。
甚平がわざわざ切り抜きをくれたんで財布に入れといただけの話だよ。」
気恥ずかしさを隠すためにぶっきらぼうにそう言うとさっさと荷物を抱え、大股で
マーケットの駐車場へと歩きだした。ジョーとすれば健のような坊やに女のことで
とやかく言われる程イヤなことはない。
「さあ、向こうについたら遊ぶぞー。サーフィン、プレジャーボート、お楽しみは
盛り沢山だ。はじめに何をしようか?ボートの予約を入れておくか?」
「まず、俺達は釣りをすることになってんだぜ、南部博士と。」
健はいきなりジョーの夢を破るようなことを言う。今日の健はなぜかキツイ。ジョーは
ボディーブローを一発くらったような顔をした。
「いいか、健。健全な若者がだよ、何が悲しくてバカンス先で男同士釣りをせにゃ
ならんのか。」
「わかった。その言葉をそのまま博士に報告しておいてやる。」
健がリーダーの口調でいうと、ジョーはげんなりとした。
「まぁ、休暇は二週間もあるんだ。ギャラクターさえ動き出さなければ、いやって程
遊べるんだぜ。」
健は少々気の毒に思ったのだろう。励ますような口調で言った。
「そうだな、カッツェの奴が大人しくしてくれれば、俺達はこれからパラダイスだ。
とにかく急ごうぜ、このぶんなら昼までには別荘につける。」
ジョーは愛車のジャガーのエンジンをスタートさせた。


中年の男がトレーラーのドアを必死になって叩いている。照り返しのきつい浜辺の
上で男の髪は汗で額に貼り付き、ポロシャツの胸元もじっとりと濡れ始めていた。
「ジョアンナ!いいかげんに出て来るんだ。」
しかし、トレーラーのドアは内側からしっかりと鍵をかけてあり、中からは何の応答も
ない。
中年男はあきらめてゆっくりと後ろを振り返った。美しい白い砂浜に据え付けた
レールの上には撮影用のカメラがスタンバイし、カメラマンが白けた顔をしてその隣
に立っていた。音声の男は機材を前にヘッドホンを首に巻いていて所在なさげに煙草を
吸っている。他の撮影スタッフたちもそれぞれ立ち話をしたり、日陰に腰を下ろして休
んだりしている。
中年男はため息をつくと近くの木陰のパラソルの下で椅子に腰をかけ、美しい爪を
メイク係に手入れさせているアニー・ロッセリーニのほうに向かって歩き出した。
男が砂に足を取られながらよろよろと近付いて来るとアニーは爪から眼をあげ、
不機嫌そうに男を見据えた。
「すみませんねアニーさん。あともう少し待って下さい。」
助監督であるその男はタオルで汗をふきふき言った。
「しばらくですって?もう明け方からずっと待機してるのよ。」
アニーは黒い大きなサングラスを頭の上にあげて助監督であるトニーをじろりと見た。
サングラスの下の涼し気なグリーンの瞳には怒りを含んでいる。
「トニー、どうせジョアンナが駄々をこねているだけなんでしょ。だったら別のシーン
を先にとればいいじゃない。あたしだけじゃなく、撮影クルー全員が困っているのよ。
あなただってそうでしょ。」
「そういうわけにいかないんですよ。ジョアンナもすぐに撮影にはいりますから。」
トニーは必死になって弁明している。
アニーはその姿をみているうちにすっかりばかばかしくなってきた。ジョアンナ・
フォスターはティーンエイジャーに絶大な人気を誇っている若手女優で、ここ2、3年
は飛ぶ鳥も落とす勢いである。今回は始めての主演映画ということで、脚本は何度も
練り直され、名のある監督が選ばれ、大物俳優が脇を固めてという、いわば、満を辞し
た構えであった。ところが、いざ蓋を開けてみると、この十代のわがまま娘に全員が
振り回されっぱなしである。
アニーはトニーにあたっても仕方がないとは知りながらも怒りが治まらなかった。
我慢にも限度というものがあるはずだ。
アニーはすくっと立ち上がり、脇にあったハンドバックを手に取ってつばの大きな
帽子をかぶった。
「どうぜ撮影になったとしても、彼女、台詞がはいっているかわからないわね。
なにしろ昨日はNGを30回やって満足いくシーンひとつ撮れなかったんだから。」
そうはき捨てるように言うと、スカートの裾をひるがえして浜辺とは反対方向に向かっ
て歩き始めた。
「アニーさん!どちらへいらっしゃるんですか?」
「散歩よ!撮影がはじまったら電話して頂戴!」
アニーはトニーに見えるように車のキーを人さし指でくるくると回しながら歩いて
行く。
 撮影スタッフの一人が近付いて来てトニーに話し掛けた。
「ロッセリーニ女史は、どうしたんだい?」
「とうとう切れたぜ。どうか役を降りるなんて言い出さないよう神に祈ってくれ。」
トニーは悲鳴をあげるようにいった。それから、彼は顔の汗をタオルで拭い、手持ち
無沙汰にしているスタッフに向かって大声で指示をだした。
「ようし、各自休憩をとってくれ。だが、いつでも撮影再開できるように遠くへは行か
ないでくれよ!え?いつまで休憩かだって?知るか?ジョアンナに聞いてくれ!」


健は閉め切りになっていた別荘のカーテンを開け、窓を大きく開けた。室内の淀んだ
空気が追い出され外から新鮮な空気が流れ込む。窓際に手を掛け、身を乗り出すと
潮風を大きく吸い込んだ。
「やっぱり、ここはいいなぁ。」
遠くから聞こえる潮騒に耳を済ませて言った。
「ほらよ。」
ジョーが健に冷えたビールを手渡した。
「デッキに出て飲もうぜ。」
二人は白く塗られたデッキに出て手すりに寄り掛かりバドワイザーを開けた。夏の
日ざしに彼方に見える海が白く光っている。
海風が二人の髪をもてあそぶ。今日から二週間は夏の休暇だ。もちろん緊急の任務
が入れば別だが、のんびりと南部博士の別荘で休日を楽しむつもりだった。
二人がビール片手にくつろいでいると、別荘の前の普段はほとんど車も通らない
道を一台のベントレーが疾走して来た。その車は見る間に別荘の前の小道に乗り入れ
ると急停車した。
いったいどのような人物が運転しているのかと二人が興味津々で見ていると、サッと
車のドアが開いた。まず目にはいったのはエレガントなスカートからのぞくほっそり
とした足だった。ほうっと二人の若者が声をあげると、その人物が颯爽と車から降り
た。
その女性は四十代半ば、カールした豊かな黒髪を持ち、豊満な胸とほっそりとした
ウエストを持つすこぶる付きの美人だった。健とジョーは顔を見合わせた。そして互い
に指をさしあって同時に"お前か?"と問いかけた。
その女性はヘップバーンのようにつばの大きな帽子を被り、別荘前の芝生の上を優雅
に近付いて来る。そして腰に手を当ててバルコニーの上の健とジョーを見上げて言っ
た。
「アニーが来たと伝えて頂戴。」
「?」
健とジョーは目を点にしている。女性は繰り返した。
「アニーが来たとコウに伝えて頂戴。そこのお兄さん達!」
「お間違いじゃありませんか?コウなんて人はここにいませんよ。」
ジョーは年上のひとに敬意を払って、彼にしては丁寧に返事をした。
「コウ・・コウザブロウ、ナンブに取次いで欲しいの。」
健とジョーは狐につままれたような顔をした。二人とも頭の中で、この正体不明の
美女を南部博士と結びつけようとしばらく努力をし、そして断念した。
 健はアニーに圧倒されながらも遠慮がちに口を開いた。
「すみませんが博士は今ここにはいません。もし、よろしかったらお名前と連絡先を
教えていただけますか?そうすれば、博士がこの別荘に来た時に連絡をしますから。」
「あら、言い遅れましたわ。私はアニー・ロッセリーニよ、連絡先はここから5キロ
離れたビーチのロケ現場。」
頭をぐいっと上げて自信たっぷりの仕種で答えた。
 健はこの別荘に来る途中、ビーチで何かの撮影が行われていたのを思い出した。
「アニー・ロッセリーニ。もしかしたらあの、女優の?」
健が驚く様をアニーはちょっぴり満足そうに見つめていた。
「そうだ!この先のビーチでジョアンナ・フォスター主演の映画を撮ってンだろ!」
ジョーがうれしそうに叫んだ。アニー満面の笑みが急速にしかめっつらに変化した。
「よかったら、ジョアンナのサインを・・・」
「お断り!」
アニーはツンと横を向いた。ジョーは彼女のはっきりした感情表現にうへっという顔
をしたが、アニーはおかまいなしだ。入口への階段を登り二人に近づいてくる。
「とにかくこの暑さだもの、コウがいようと、いまいといいわ。取りあえず、中で
冷たい飲み物でも飲ませていただけない?」
ジョーは肩をすくめたが、仕方なく女優を別荘の中へと招き入れた。

「二人ともコウの秘書っていう雰囲気じゃあないわよね。」
アニーはリビングのソファに腰をかけ足を組むと言った。さすが女優だけあって間近で
見ると独特の雰囲気と迫力を持っている。
「ああ、つまりその、博士のボディーガード兼部下というか・・。」
アニーの雰囲気になんとなく気圧されてジョーは居心地の悪さを感じていた。
「おい、健、飲み物はまだか?」
一人で相手をするには荷が重いと感じたジョーは、キッチンで飲み物を用意している
健にむかって声を張り上げた。
しかし、キッチンの方から何の返事も聞こえない。なんだよ、見捨てるつもりかよと
ジョーは汗をかいた。もちろん、表面上は女性を前にしたラテン男を気取ったままで
あるが。
「博士とは、どういう知合いなんだい?」
「そうね、あなたがたが生まれる前からの付き合いよ。ここ五、六年は会っていなかっ
たけど。」
「へ、へぇ。」
ジョーはTシャツの胸元を引っ張り、手で扇いだ。
「それにしても暑いな。健の奴、何をモタモタしてるんだ、ちょっと奥に見に行って
くる。」
ジョーは立ち上がってキッチンへと退散した。
健に文句のひとつでも言ってやろうと覗くと、そこはもぬけの殻であった。ジョーは
辺りを見回し、キッチンの脇にある裏口を開けて外に出てみた。すると、健が貯水
タンクの脇にかがみ込んでいる。健はすぐにジョーの気配に気がついたらしく、振り
返りもせずに言った。
「水がでないんだ。どうも水を汲み上げるモーターがいかれているらしい。」
「なんだって?」
「潮風は金属に良くないからな。だめだ、部品を交換しなきゃ直らない。」
健は膝をはたいて立ち上がった。
「なーんてこった。いきなり故障か。ついてねえな。」
ジョーが腕組みをして言う。
「暗くなる前に修理をするか、それともこのままトンボ返りをして夏の休暇をユート
ランドの我が家ですごすか、どっちかだな。」
健は肩をすくめた。
「ちょっと、ちょっと、いったいどうしたの?」
突如、裏口からアニーが顔を突き出して言った。健はモーターをいじって汚れた手を
ボロ布でぬぐって言った。
「とにかくまず、近くの街へ行って、修理の為の部品を買い込んで・・・」
「その前に博士に連絡しないと、あの潔癖性の博士がこっちに到着してから手も顔も
洗えないと知ったら、機嫌が最悪になることまちがいなしだぜ。」
「ねえ、コウがもうすぐ来るのね。そうなら、そうと早くいってよ!」
 三人がそれぞれ一斉に大声で話し出した時、背後から、深いバリトンの声がした。
「諸君!何を騒いでいるのかね」


「久しぶりね、コウ!」
「アニー!」
アニーは喜びの声を上げて、南部と抱擁を交わした。頬がうれしさのあまりピンク色に
染まっている。
「元気そうだね。アニー、仕事は忙しいのかい?」
「ええ、まぁ。この近くでロケがあったから、コウがどうしているかしらと思って来て
みたのよ。」
「君はそんなところも昔からちっとも変わってないね。」
 南部は気がおけない友との思いがけない再会に珍しく顔一杯に笑みを浮かべていた。
「ところで、何かあったのかね?」
南部は健に訊ねた。
「水を汲み上げるモーターが故障してしまってます。修理しなければ水道は使えま
せんね」
健をあわててしかつめらしく答えた。
「これから、ジョーと近くの街に部品を買いにいってきます。博士はどうぞ、アニー
さんと休んでいてください。」
不機嫌な南部と一緒にいること程、気詰まりなものはない。それならば、いっそ
のこと古くからの友達であるアニーに全て引き受けてもらおうと健は考えたのだ。
「そうだわ。」
その時、アニーは目を輝かせて、いいことを思い付いたというように手を胸の前で打ち
合わせた。
「モーターの修理が終わるまでロケ現場に遊びに来てはいかが?それで、修理が済ん
だら連絡をしてもらえばいいじゃない!」
アニーは、はずんだ声でそう言い、南部の腕をとった。
「そうかね。それでは健とジョー、すまないがよろしく頼む。」
南部はアニーの積極さに少々戸惑いながらも同意した。南部の返事に、アニーは大喜び
し、ハンドバックの中に手を入れて車のキーを探しはじめた。


別荘からロケ地までの道のりは美しい海沿いの道をゆく、短いが快適なドライブ
だった。南部とアニーはお互いの間にほんの少しぎくしゃくとしたものを感じていた。
それは、二人の上に流れた歳月のせいかもしれなかったし、アニーの南部を見つめる瞳
のせいかもしれなかった。二人はまるで二十歳の青年と少女のように戸惑いながらも、
ぽつりぽつりと近況を語り合った。
しばらくすると海岸へと別れて下ってゆく枝道が見えて来た。アニーはなんとなく
ほっとして明るい声で話し掛けた。
「ここで映画のロケをしているの。来年の夏には公開予定なのよ。撮影現場なんて、
たいして面白いものじゃないけど、暇つぶしにはなると思うわ。」
アニーはハンドルをまわして、ログハウス風の小屋の脇から海岸へと降りて行く道に
車を乗り入れると、何台もの車や撮影用機材、クレーンなどが見えて来た。
アニーは浜辺の手前のちょっとした広場に車を止め、車から降りてあたりを見回し
た。しかし、どこにも人影は見当たらない。物音といえば、寄せては返す波の音ばかり
で、あたりは異様に静まりかえっていた。
私に内緒で撮影場所を変えたのかしら・・・アニーは一瞬そんなことを考えたが、
機材や車を置いて場所を移動するわけがない。
その時、機材の陰に誰かがうずくまっていることに気がついた。アニーは、胸を
なで下ろし、人影に近づくと声をかけた。
「ねぇ、どうしたの?撮影はどうなっているの?」
よく見るとそれは助監督のトニーだった。トニーはゆっくりと顔をあげ、よろよろ
と立ち上がった。そして、ぞっとするようなうめき声をあげ、足を引きずりながら
アニーに近付いて来る。
「何、なによ。トニー?いったいどうしたの?誰かーっ!」
アニーは悲鳴をあげて後ずさりする。トニーは無表情で瞳の焦点はあっておらず、
どうみても正気を失っているようだった。
「来ないでっ、あっちへ行って!」
アニーは恐ろしさの余り顔面が蒼白になっている。どこかでこれとそっくりの場面を
見た事がある・・・。迫り繰るトニーを見ながらそんな思いに捕われた。夢・・・?
違う、思い出した。そうだ、ふた月前に友人である監督の撮影現場を陣中見舞いで
訪れた時と同じだ。その友人はホラー映画で名を馳せた監督で、その時もゾンビ映画を
撮っていたのだ。あの時は特殊メイクをした俳優たちとふざけあって笑ったものだっ
たが、まさか、実際に自分がゾンビに襲われるとは!
アニーの悲鳴を聞き付け南部が駆けて来た。南部はアニーを背中に庇い、トニーに
立ち向かった。
「アニー、大丈夫か?」
「ゾンビよ、トニーがゾンビになっちゃったのよ。」
アニーは半ばパニックに陥っていた。南部が落ち着かせるように腕をつかんで何度も
大丈夫、落ち着いてとくり返した。
南部はゆっくりとトニーを観察した。たしかに尋常な状態ではない。アニーのよう
に、悪霊に取り付かれゾンビになったとは思わなかったが、薬物か、ウイルスか、
何らかの原因で正気を失っているのだろうと考えた。
気がつくと機材の陰から、車の脇からと次々と人々が現れてきた。皆、うめき声を
あげ、足を引きずりながら近付いて来る。二人はじわじわと囲まれつつあった。
南部はアニーの手を取ると、砂地を蹴って駆け出し車に乗り込もうとした。すると、
どこからか助けを呼ぶ少女の声が聞こえる。
「助けて〜〜っ、私も連れて行って!」
見回すと、少し離れた所に駐車してあるトレーラーハウスの窓が開き、少女が身を乗り
出して必死に手を振っている。
「ジョアンナだわ。」
アニーは華奢な少女の姿を見てとった。
「アニー、車を頼む。」
南部はそう言うと、少女のいるトレーラーの方へと走り出した。
「君!早く出て来なさい。車で逃げるんだ!」
南部が大きなジェスチャーと共に叫ぶと少女は意を決してトレーラーから走り出した。
その間にアニーは車のキーを回しエンジンをかける。ブォォォォン・・・手ごたえと
共にエンジンは咆哮を始めた。
少女は恐怖のあまり足がもつれて何度か転んだが、死に物狂いで南部の方に走って
くる。悲鳴をあげながら少女はとうとう南部の腕の中に飛び込んだ。
「もう大丈夫だ。」
南部は少女の手をつかむと車へと向かって走り出した。全力疾走を続ける少女は
もはや息も絶え絶えである。
車ではアニーがドアを全開に開けて待っていた。二人が車内に飛び込むと同時に
アクセルを踏む。
タイヤがかん高い悲鳴のような音を発っし、ガクガクと車が動く。しかし、車は
大きく振動をするが動きだす気配はなかった。
「砂にタイヤを取られているんだわ。」
アニーが焦った表情で叫んだ。振り返るとゾンビの一団は間近に迫って来ている。
南部は車外に出ると上着を取り、後部タイヤの下に噛ませた。アニーがアクセルを思い
きり踏み込むが、それでもタイヤは砂を跳ね上げるばかりであった。
「ジョアンナ!席を変わって、あなたがハンドルを握るのよ。合図をしたらアクセル
を踏んで!」
アニーは必死の表情でジョアンナに言った。
「できないわ・・・私。免許とってないし、やったことないもの・・・。」
ジョアンナはまだ息を弾ませながら、かぶりを振った。
アニーは唇をきっとむすぶと、尻込みするジョアンナを座席から引きずり出し、
それから乱暴に運転席に押し込んだ。あっけにとられているジョアンナに向かって
アニーは言った。
「いい?ジョアンナ。誰でも最初は"やったことがない"のよ。ゾンビにつかまるか、
逃げるかどっちなの?」
ジョアンナはべそをかきながら頷いた。
「わかったわ。」
南部とアニーは車の後部にまわると車体に肩をつけた。ゾンビと化したロケ隊の人々
は今ではもう、手を伸ばせば届きそうなところまで来ている。
「今だっ、アクセルを!」
南部の合図でアニーと南部は渾身の力を込めて車を押した。二人の力で揺れたはずみに
タイヤが南部の上着をうまく噛みベントレー自慢のエンジンがうなりを上げた。南部と
アニーを置き去りにしたまま車は急発進し、道のうえに乗り上げ、そのまま直進して
柵に向かって突っ込んでいった。南部とアニーは慌てて車を追いかける。
「ジョアンナ!ブレーキ、ブレーキ!」
南部は大声で怒鳴り、アニーは両手で目を覆った。ものすごい音を立てて車は柵に
ぶつかりようやく停まった。南部とアニーがおそるおそる眼を開けると、舞い立つ砂埃
の中でアニーの愛車はなんとか無事に止まっていた。
南部は大急ぎで車の方へ行きかけると背後で悲鳴が上がった。振り向くとアニーが
先頭の男、"トニー"に腕を掴まれている。
「コウ、助けてっ。」
「アニー!」
南部は勢いをつけるとトニーに体当たりをした。トニーは砂地に倒れ込んだ。南部は
すばやくアニーを抱き起こすと車へと乗り込ませた。
南部は運転席のドアを閉め、ハンドルを握りアクセルを踏み付けた。車は弾かれたよう
に飛び出す。
「ひどいわ。こんな目に会うのは始めてよ・・・。洋服も泥まみれだわ。」
ほっとしたとたん、ジョアンナは口を尖らせて文句を言い始めた。アニーは、こんな
場面でも能天気に洋服の心配をしているジョアンナに呆れながらも、バックからハン
カチを取りだし泥だらけの顔を拭いてやった。
「二人とも怪我は無かったかね。」
南部はフルスピードで走る車を操りつつ尋ねた。
「コウ、ありがとう。さっきはまるで白馬に乗った王子様みたいだった。」
アニーは南部の肩にそっと手を置いて言った。
 南部はバックミラーでアニーに向かって微笑みながら言った。
「王子様というには、少々トウがたっているがね。お世辞を言う余裕があるなら、君は
大丈夫なようだな。それにしても、一体あそこで何が起こったというのだろうか。」
南部は眼の前で起こった恐ろしい出来事に衝撃を受けながらも、天才といわれた頭脳は
早くも事態の分析を始めたようだった。
 アニーは誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「お世辞なんかじゃないわ。」


to be continued 


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