旅立ち

by アリー

 健はテーブルの上のコーヒーと分厚いファイルを前にして椅子に腰を掛けたまま舟を
漕いでいた。椅子から落ちそうになるほど体を揺らしながら、何とか姿勢を保ち直すと
いうことを、かれこれ十分以上続けている。
 そこへ、草の上を歩く、常人には聞き取れないようなかすかな足音が近付いてきた。
腕組みしていた健の右肩がピクリと動いて、青い瞳をうすく開いた。全身に緊張感が
走り、足音に神経を集中したが、すぐに安心したように息をついて再び眼を閉じた。
 十数秒後、かすかなノックの音がした。
 健は立ち上がると、首の後ろを手で掻きながらドアを開けた。外に立っていたのは
思った通りジョーだった。
「夜中にすまないな。」
 健はいつものように中に入れよというジェスチャーをして部屋に招き入れた。
ジョーは自分の部屋のように慣れ親しんだその部屋に足を踏み入れ、指定席のように
なっている窓際の椅子に腰をかけた。健はすっかり冷めたコーヒーを持ってキッチンへ
と片付けに行った。
 テーブルの上にはファイルが開きっぱなしで置いてあり、健の筆跡による書き込みがし
てあった。ジョーがなにげなく手にとってパラパラとめくっていると、健が両手に
ビールとグラスを持ち部屋に戻って来た。
「勉強は、もういいのか?健。」
健は、ビールを開けグラスに注いだ。
「勉強じゃないのさ。それは、前に博士から頼まれたテストパイロットの仕事の資料
だよ。ちょっと暇ができたから眼を通しておこうと思って。」
二人は向かい合って座り、冷えたビールがなみなみと注がれたグラスを打ち合わせた。
「このテスト機の原形となった機も良かったけどなぁ、さらに翼の形状と空気の取り
入れ口の位置に改良を加えてあるから、どんな風に飛ばせるのかなぁと思ってさ。」
「それで、飲んじまっていいのかよ?」
健は口の周りについた泡を手で拭って言った。
「フフッ、いいんだよ。博士も忙しそうだからいつ飛ばせるようになるかもわからない
し、楽しみはまた明日にとっておくさ。」
健の瞳は彼の一番の喜びである"飛ぶこと"に想像をめぐらせいきいきと輝いていた。
「ところで、どうした?ジョー、夜中に突然お前が来るなんて。」
壁に掛かっている時計は11時になろうとしていた。
 ジョーは椅子から腰を浮かせて、ジーンズの後のポケットから薄い文庫本を取り出し
た。
「ちょっと片付けてたら、前にお前から借りた本が出てきたから・・・。」
健は『かもめのジョナサン』という題名のシンプルなデザインの本を手に取った。
「あれーっ、これ、お前のところにあったんだ。いやぁ、随分捜したのに、ないはず
だよなぁ。どれくらい前に貸したんだっけ?半年?一年前?」
ジョーはちょっと居心地悪そうに口を開いた。
「二年前。」
健はいたずらそうに眼を光らせて聞いた。
「感想は?ジョー、なかなか面白い本だったろ?」
「・・・ああ、主人公のジョナサンがお前みたいだと思って。」
「で、全部読んだのか?」
「まだ、半分。」
健は、"やっぱり"というような顔をして、笑い出した。
「その本はお前にやるよ。実はなくしたのかと思って、新しく買ったんだよ。」
ジョーはそうかとうなずいて健から本を受け取った。
「読めよ。いい本だぜ。」
ジョーはニヤッと笑ったが、なんとも答えず再び本を尻のポケットにしまった。
 その時、ジョーの携帯が鳴った。
「もしもし、ニックか。ああ?そうだ。」
ジョーは健を気づかうようにチラッと見た。健は空になったジョーのグラスにビールを
注いでいる。ジョーはなにげない振りを装って立ち上がり窓際に行くと、小声で話し始
めた。
「エントリーを取り消してくれ。俺はレースに出ない。・・・ああ、無論正気だとも!
いいんだ。誰か若い奴にシートを渡してくれ。この間の新人さんなんざ、丁度いいじゃ
ないか。いい経験になるって。」
古い付き合いのレーシングチームの監督は、強い口調でジョーのレースへのエントリー
取り消しの理由を問いつめたが、ジョーは、いいから、いいからと繰り返して強引に
電話を切った。
 振り向くと健はジョーを見上げている。
「ジョー、お前は何を考えているんだ?」
問いつめるでもなく、糾弾するでもない、静かな静かな声だった。
ジョーは胸の中でその質問を繰り返した。答えは厳然と存在している。しかし、その
質問に答える事は何があってもできない。
 ジョーはプロの役者のように笑顔を作った。
「別に、いつもの通りさ。お前の知っている通り、女たらしで命令不服従常習者。
何よりも束縛を嫌う男だよ。」
 他の奴相手ならごまかすこともできただろうが、長年生死を共にしてきた健をごまか
すことはできなかった。健はジョーの 言葉の端々から切ない程の痛々しさを感じ取っ
ていた。健はひくい声でたずねた。
「俺達は背中合わせに逆方向を向いて立っているようだ。俺が未来を見ているとしたら、
お前は未来を断ち切っている。いったい、急にどうしたというんだ。」
幾度も繰り返された問い。その度に拒絶された答え。このことが、ジョーを追い詰める
だけだということを健は知っていた。
 俺達はもう意気盛んなだけなガキじゃなくなってしまったと悲しみと共に考えた。
殴り合って、笑いあって認めあっていた頃とは違う二人がそこにはいた。戦いは若い
二人を複雑な内面を持つ大人の男に成長させていた。
 突然、ジョーは健の両肩を乱暴につかんだ。はずみでグラスが床に落ち、砕け散る。
吐息がかかる程の距離でふたりは見つめ合い、ゆっくりとジョーの唇が降りてくる。
健は目を閉じた。

 微かに触れ合う接吻けの終わりに、健は
「ふふっ」
 と、忍び笑いを漏らして言った。
「寂しいと、俺にキスすんだな、おまえ・・・」
え??と、ジョーはすべてを見透かされたような気がして一瞬、たじろいだが、
健はゆっくりとジョーの首に両腕を回すと、
「で、俺も寂しくなるとおまえとキスしたくなるんだよな。」
と、囁いて、それから真夏の色をたたえたスカイブルーの瞳をまっすぐにジョーに
向けて、鮮やかに笑って見せた。
「馬鹿なカモメだな、俺達は・・・」


 日付けが変わった頃、ジョーは健の家を後にして、真っ暗な道を歩いていた。
健の家の明かりが広い飛行場の中に、ぽつんと灯っている。灯に背をむけて夜空を
見上げると満天の星が広がっていた。
 ジョーはポケットに入れたままになっていた薄い文庫本を取りだした。
こいつと一緒に行こう。お前が愛した物語を、お前だと思って・・・


END


Special thanks to Sayuri san!
斜体部は鷲尾さゆりさんに加筆していただきました。感激!
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