エスプレッソ

by BIRD

「それじゃ、ここに置きますよ」
差し出された伝票にサインをして戻す。それをポケットに押し込んだ配達員は、次の配達先に向かって慌しく去っていく。遠ざかる配達車のエンジン音を聞きながら足元の箱に目を落した。
梱包用のテープにまでメーカーのロゴが大きく入ったエスプレッソ・マシーンだ。久しぶりにエントリーしたレースのメインスポンサーがこのコーヒーメーカーだった。自動車メーカーお抱えのレーサー達と違って、全て自前の俺には全額現金支給が何よりありがたい。
『副賞は最新型のエスプレッソ・マシーンとエスプレッソ1年分です!』高らかにアナウンスされた時は正直いってぞっとしたが、指定の場所まで配送してくれると聞いてほっとした。なにしろ訳あって住所不定の身なんでね。
車好きの溜まり場のようなこの古びた事務所を指定し出向いてみると、ほぼ時間通りに配達車がやってきた。

 『朝から冷たいものばかり出るな』『シグナルの再チェックですって!』『ゲートから遠回りさせられちゃった』レース直前のこの声なき声というのは、空調の行き届いたトレーラーにこもって顔を付き合わせ、数字の塊を囲みながらレース開始ぎりぎりまでああだ、こうだと言い合ってる連中には届かない。情報といっても、各々が感じたごく些細なことをそのまま言い合ってるだけなので、参考になる以前の愚にもつかない言い草に終ることがほとんどだが、世界的な自動車メーカーのような情報収集力もない個人参加の俺は、こんな声からせめて何かを掴み取ろうとして必死で耳を傾ける。メーカー・チューンのマシンの鼻をなんとか明かしてやりたい一心で。
コツコツ地道に集めるしかない情報の拠り所のひとつとして期待するのはコースやピットの周りをうろうろしているレース・クイーンのおねえちゃん達だが、これの当たり外れの大きいことといったら天と地どころの騒ぎじゃない。
せめて脚のきれいなコは天候に強いとか、気の利くコはコースの整備具合を掴んでるとか、俺達のように役割分担がはっきりしてるとありがたいんだが。
とにかく、このコーヒー・メーカーがメイン・スポンサーのレースでは一匹狼側に女神が微笑んだのさ。
 
(スナック・ジュンに置くしかねぇな)大小ふたつの箱を持ち上げ、G−2号機に積み込みながらふと行き先を考えた。(その前に試運転を兼ねて飲ませてやるか…)朝のエスプレッソも悪くないだろう。(起きてるよな)俺は誰もいない事務所の横手に回り、窓越しに室内の時計を見て時間を確認した。

 相変わらず開けっ放しのドアの前に乗りつけて荷降ろしをしていると、
「開いてる。入っててくれ」
セスナの下から声がかかった。
箱を抱えた身に開けっ放しはありがたい。デスクは避けて、何も置かれていないサブデスクに箱を置いた。梱包テープを剥がして箱を開け取り出した中身を確認しながら、エスプレッソ・マシーンを組み立てる。取り扱い説明書の『はじめてお使いになる前に』に従って汲んできた水を目盛りまで注いでスイッチを入れ、湯通しをする。水が加熱されていくにつれ、エスプレッソ・マシーンが音を立てはじめた。
それを聞きながら辺りを見回し、パイロットってのは几帳面な人間なんだなぁと思い知らされる。紙の四方をきっちりと合わせた書類、その書類が作る低い山、これまた端をきっちりと合わせたノート数冊、ペン立て等がデスクの定位置に置かれている。
壁にはユートランドの詳細地図、カレンダー、に並んで、年間予定、月間予定、本日の予定…のスケジュールボードがこれまた等間隔に掲げられている。本日のご予定では整備が始まって10分たったところか。

 どうやら整備が興に乗ってきたらしい。例の口笛だ。こりゃ長引きそうだな…再び湯が沸くのを待つ間、俺は読み飽きた説明書をコーヒーの青い缶の横において、ラジオのスイッチを入れた。年代物のこのラジオは、いまやFMしか入らず周波数もそれに合わせてある。音楽番組が始まった。軽やかな声とともに今週のCDランキングが紹介され、小さなスピーカーから曲が流れていく。が、開け放したドアから入ってくる口笛は変わらない。(頑固なヤツ)
いくらなんでも上位3曲は聞いたことがあるだろう? デーモン5の新曲がランクインしたって、ジュンが大騒ぎしてたじゃねぇか。現在、スナック・ジュンではこれしか流さないんだぜ。
CMが終ったとたん俺はさらにヴォリュームを上げた。…ん?故障か?
 「番組の途中ですが、ここでニュースをお伝えします」
硬質なアナウンサーの声が響いた。
「査察団の報告を受けた国連では、決議による経済制裁が続いているホントワール共和国に対して…」
口笛が途切れた。凍りついた空気を切り裂くように、経済制裁を受けるに至った経緯とホントワール共和国に対する今後の見通しが、詳しく読み上げられる。
決して忘れることのできない苦しさ。胸の底に深く沈む痛み。切り刻まれた心。無数に残る見えない傷。
切らなければ…だが俺は動けなかった。

「以上、ニュースをお伝えしました」
ややあって
「今週の第1位!」
底抜けに明るい声が戻ってきた。スナック・ジュンでいやというほど聞かされている曲が紹介される。息苦しさから逃れたくて俺は手を伸ばし、今度こそヴォリュームを下げようとした。が、曲が始まるより一瞬早く、口笛がよみがえった。淀むことなく、震えることなく、力強さすら感じさせるいつも通りのメロディが刻まれていく。
そうだ、そうだよな。音のない深海で俺の背を押したのはお前だった。断ち切ることができないのなら立ち向かえ…と。
曲も口笛も終り、工具箱が立てる物音が近付いてくる。シューッ…激しい蒸気の音がして沸騰した湯がフィルターの中へ吸い上げられ、エスプレッソの苦い香りがひろがった。


END


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