グラスの中の蜃気楼

by デューイ



 その夜、彼に出会ったのは多分偶然ではなかったような気がする。“予知能力”などと
いうものを信じる訳ではないが、少なくとも私の中で、何か期待めいたものがあったのは
確かだ。
 週末の“ベニス・ビーチ”。私の回りにはいつものように数人の取り巻き連中がいて、
くだらない話題に花を咲かせては、酒にまかせて私をベッドに誘う口説き文句を並べ立て
ていた。
 彼は、カウンターの端の席にいた。私に気づくとコースターからツイとグラスを上げ、
軽く頭を下げた。
 その動作がいかにも手慣れているというか、様になっていて、彼のプレイボーイ振りを
伺わせる。精悍な瞳に浮かべた鮮やかな微笑も然り。だが、そのくせ決してそれ以上は接
近しては来ない。素知らぬ顔をしてグラスに視線を戻す。その横顔がまたイカしていて女
心を捕らえて止まない。
「お知り合いですか?」
 カウンターの中でボウタイのマスターが、カルテルグラスを摘みながら彼に言っている
のが聞こえた。
 立派な口髭をたくわえた恰幅の良いマスターは、滅多に表には出て来ないが噂に聞く知
識人で、ピクルスの漬け方から、ペンタゴンの内部事情まで話題を提供できる人物である。
 マスターの問いに彼がどう返答したのかは解らなかったが、想像することは出来た。
 きっと『友達さ』、その程度のものだ。実際、話したことも余りないのだ。
 高値の花かしらね、憎らしい・・・、
 私は私の取り巻き連中の顔ぶれを改めて眺めた。溜め息が出た、と同時に自分が酷くつ
まらない人間に思えた。自己嫌悪、思い上がりかも知れないが・・・・、
 チラッと彼を伺った先で口髭のマスターと目が合った。マスターはシェーカーを振りな
がら、さも上品にニッコリと笑うと軽く頭を下げた。そしてテーブルの上には、チェリー
ブロッサム、ミモザ、ジャックローズと、まるでマジシャンに操られるように、次々とカ
クテルの花が咲いていった。

 然程混んでいないラウンジの中に、時折、ワアッと盛り上がって取り巻き達の声が響く。
その中に下品な言葉が混じり始めたところで、私は席を立った。そのせいかどうかは知ら
ないが、彼らは急におとなしくなった。興が覚めた様子だ。
「今日は、一人?」
 私は彼の隣にいつもの相手がいないのを見てそう尋ねた。
 カウンターの端には細いテスターのようなガラスの花瓶に、赤いまだ蕾んだままの薔薇
が挿してあった。彼はその蕾を人差し指でとつつくと、「フラれちまってね」と、小さな
溜め息を含んで笑った。
「あら、あら、別の相手でもいるのかしら?」
 レッド・パッションを注文しながら隣のスツールについた私の前に、彼は灰皿を置いて
くれた。結構気が付くのだ。だから禁煙中だったが、私はバッグから煙草を取り出して新
しいパッケージの封を切った。これでやっと達成した一週間が水の泡だ。しかし、だいた
い禁煙中に煙草を持ち歩いていること自体、真剣味が足りなかったのだ。私は昔から自己
管理が苦手だった。
「今日は、パトロンのところさ」
 そう言って、すっと差し出されたライターは“テェムズ”。ブランドの中でも最高級品
だ。見かけはラフな格好をしているが、仕立て方から見てシャツはきっと“カール・スー
ザン”だろう、賭けてもいい。
 私がこのラウンジに来るのには訳があった。雄大なシエラネバダの山々を従える青い海、
“ベニス・ビーチ”の名前も気に入っているが、ここは客を選ぶのだ。と言っても、マン
ハッタンのスカイスクレイパ上空にある高級ラウンジではない。勿論、スーツでなくとも
構わないのだが、要するにお固いのだ。パスポートがないと、たとえ顔見知りでも中には
入れない。まるで国境の検問所並みである。そのおかげでヤクザな類いもいなければ、不
良少年の溜り場にもならない。しかし、くだらない人間はいるようだ。私の取り巻き達の
ような。
「パトロン?」
 火を貰った煙草が薄い紫煙を立ち昇らせた。手元に置かれた“赤い情熱”を注いだピル
スナーを摘んで、私は一口、口にしてからこう尋ねてみた。
「じゃあ、貴方は何者?」
 私はてっきり、この男がパトロンだとばかり思い込んでいたのだ。何を根拠にかと言う
と、彼はこの通りの金蔓だし、彼の相手はずっと若かったからである。それに、何か仕事
をしている風にも見えなかった。いつも我儘の言い放題で、この前は確か“砂漠に昇る
月”を見に行きたいとか言っていた。それを黙って聞いてやっている彼は、私からみれば
立派なパトロンだった。しかし、
「俺は唯のダチだ、あいつの我儘を聞いてやれる程の財力は持ち合わせてない」
「財力ねぇ」
 いったい彼の相手はどんな途方もないお強請りをするのだろう? 私ならこちらのパト
ロンで十分だ。好みの美形だし身体つきだってスマートで逞しい。
「ねぇ、貴方、レーサーだったでしょ」
 彼がそれ以上そのことを話したがらない様子なので、私は話題を変えてみた。私の記憶
に間違いがなければ、彼は2年前の“ピルグリム・7”の優勝者だ。ゴール寸前で2台の
マシンを抜いて奇跡のチェッカーフラッグを受けた、ジョージ・アサクラ。
「ねえ、ジョー」
 私は彼のファーストネームしか知らない。
「俺がマシンに乗っていたのはほんの僅かな間だ。今じゃ、誰も知らない。よくそんな昔
のことを覚えていたな。」
 レーサーの寿命なんて短いものだと彼は言った。記録など次の瞬間には書き換えられる
のだと。生と死の狭間を生き抜くには、人間の能力では限界があるのだと。
「何かの雑誌で見たわ、貴方の写真。私好みだったから、それに、何となく解るの。貴方
にはエキゾートノートの興奮と、オイルの匂いがするもの。昔、取り巻きの中にレーサー
がいたわ、貴方は同じ匂いがするわ」
 煙草の先を灰皿に弾くと、小さな赤い奇麗な火花が散って直ぐに消えた。
 そんな素振りを見せたつもりはなかったのだが、彼は目敏く感じ取ってしまったらしく
「恋人だったのか?」と聞いた。私は否定しなかった。
 私は彼に話して聞かせた。結構、名の知れたレーサーだったが、この前の戦争で志願兵
として戦場に行った、昔、恋人だった男のことを。
「“リィ”って言ったわ。とんだ英雄志願。サーキットと戦場の区別も付かなかったのよ。
我先にって、敵に突っ込んで行っちゃって。ま、生きて帰れたんだからラッキーだったけ
れど」
 それでも私はリィとは別れた。彼は腕を1本失っていて、レースには復帰できなかった。
しかし、それが原因だった訳ではない。戦場から戻った彼からは、オイルの匂いの代わり
に硝煙の匂いがした。そして、エキゾートノートの興奮の代わりに、弾幕と爆音のフラッ
シュバックがついてまわった。俗に言う戦争病だ。
「そうか、辛い思いをしたんだな」
 彼はグラスを空けるとマスターを呼び、私のピルスナーにも2杯目を注文した。
「戦場は人を狂わせる、人を変えちまうんだ」
 彼の目は琥珀の液体を透かして遠くを見ていた。悲しい色だった。
 何か、貴方にも戦争の辛い過去があるの?・・・・、尋ねてみたい衝動に駆られたが、
私は留まった。それを彼が話すとは思えなかったし、もしも、聞いてしまえば二度と彼に
会えない気がした。私には彼のその告白に対処し得るだけの許容量は無いように思えたか
らだ。私は弱い未熟な人間だ。それが、恋人と別れた理由でもあるのだ。
 もしかしたら、私は彼にオイルの匂いを感じたのではなく、失った恋人と同じ硝煙の匂
いを感じたのかもしれない。だからこそ私は過敏に、この男を意識したのではないか。
 結局、私はリィを忘れられないのかも知れない。
 私がここに来るもう一つの訳は、彼に会う為だった・・・・・。
「湿っぽい話はやめましょう。お酒が不味くなるでしょ」
 二杯目のレッド・パッションのライムを摘みながら、私は言った。だが、会話は途切れ
てしまった。いい男となら黙ったままでも悪くはないが、暗い話のままでの沈黙では、い
ささか気不味い。
「ねぇ、あの子、何て名?」
 私は切り出してから後悔した。さっき気を利かせて引っ込めた話題だったはずだ。
「ケンか? あいつに興味があるのか?」
 しかし、彼は気にすることもなく答えてくれた。私の思い過しだったのだろうか?
「興味があるのは貴方によ。でも、あの子って、綺麗ね」
 こんな言い方はおかしいのだろうが、そう表現するのが“ケン”、今名前を知った彼を
言い表すにはぴったりだった。
「目眩のブルー、あの子、貴方の恋人?」
「それはさっき“NO”と言ったろ」
「でも、抱くんでしょ」
 なぜか確信があった。女の堪である。
 彼は、グラスを口に運んだ。琥珀の液体がゆっくりと傾いた。
「そういう夜もある」
 私は尋ねてみた。ちょっとした好奇心だ。「ケンは素敵?」と。
 だが、それについて彼は答えなかった。
 お互いにグラスを傾ける少しの沈黙があった。
「俺は、あいつに答えさせてみたい。あいつを縛るものの正体が何なのか」
 端正なルックスにダウンライトが落とす物憂げな影。
「それで、SEX?」
 彼の目がチラリと私に向いた。そして、直ぐグラスの縁に戻った。
 私はケンと教えられた彼の、少年とも男ともつかぬ姿を思い浮かべた。
 彼は、いつもジョーの隣で優雅にグラスを傾けていた。その洗練された手元の動きや、
柔軟で美しい肢体、長く伸ばされた綺麗なブルネットには、とても並みの女じゃ太刀打ち
出来ない妖しげな魅力があった。
 そして、その魅力をさらに引き立てている彼の瞳の、ディジーブルー。
 見入られると吸い込まれそうになるそれに、彼の笑顔が添えられ極上の微笑となると、
それが男の狡い(彼にしてみれば儀礼的な)作り笑いだと心得ている、遊び慣れた私でも
クラッとくる。だが、そのブルーには、時に、およそこの場にはそぐわないゾッとするよ
うな冷酷(つめた)さが見え隠れする。とても異質で、私の認識している世界では馴染み
のないものだ。少なくとも我々の平和な日常の中にある代物ではない。超自然的、或は霊
的な“恐怖”といった感覚に近いものかも知れない。そして又、そのブルーは時に、瞳孔
の奥で人に慣れない獣のように脅えたりもする。
 そんな時の彼は、妙に色っぽい。それが彼の手口なのかどうかは知らないが・・・、
「俺は、あいつを解放してやりたいんだ」
 ぽつりと彼は言った。
 私は呆気に取られた。“それ”に理由があることに。少なくとも男と女のSEXに理由
付けなどない。
「言い訳ね。女を口説く時にもそう言うのかしら?“君の心が欲しい”なんて」
 私は少し意地悪く笑ってやった。しかし、彼の唇の方がずっと嘲笑的だった。
「女は強かだ、SEXぐらいで心を解き放ちはしないさ」
 確かにそうだ・・・・と思ったが、私は口にはしなかった。ほんの少しだが女としての
プライドがあった。
「失礼」
 彼は尚、嘲笑を浮かべて言った。私は少しムッした。
「で、ケンは貴方の腕の中で解放されるのかしら? 彼、パトロンとも寝るんでしょ」
 むきになった私の言葉は呆れる程、幼稚なものだった。
 彼は又笑った。しかし、それはさっきのように嘲笑的ではなく、自信に満ちたものだっ
た。私は今更ながら恥ずかしくなって下を向いた。そのままでグラスの縁を唇に付けた。
「他人の色恋に口を出すものじゃないわね。惨めになるだけだわ」
「あんた、見かけによらず、可愛いな」
 不意に彼の言葉。
『このプレイボーイめ!』
 私はグラスに半分残った情熱を、一気に呑みほした。




 2人の間に或るものを私は計り知ることは出来ない。それは私が常に私の所属する幸福
で平凡な日常の中に身を置いているせいだ。だが、望んだとて私が彼らの世界に踏み入る
ことは出来ない。世界は挫折や絶望を含む、希望や野心、欲望によって無限に開放されて
いるようで、実は常に閉じているのだ。個々を取り囲む空間と時間は、私の前に私のもの
として存在するが、その事象の地平線を越えることは出来ない・・・・。
 私はそこまで書くとペンを置いた。

 夕暮れのベニス・ビーチ。高層ビルの間から朱色に染まった空が見えた。
 カウンターに彼の姿はない。ガラス張りの壁を満たした夕焼けが、私の姿も真っ赤に染
めていた。
「カンパリソーダを」
 スツールに掛けると、マスターがグラスラックからピルスナーを摘み、夕焼けを掬って
注いだようなカクテルを私の前に置いた。まだ早いせいか、客は私一人だった。
「珍しいですね、お一人とは」
 今日は取り巻き連中を連れて来なかった。
「たまには一人でいたい時もあるわ。マスターこそ、こんな時間に珍しいじゃない」
 私がシガレットケースの蓋を開けるのを見て、マスターはベストの内側からライターを
取り出した。
「1週間程前になりますが、バーテンダーが1人辞めてしまいましてね。新しいのが来る
まで手が足りんのですよ」
 ああそれで、このところよくカウンターで見かける訳だ。
「でも、マスター、ジョーが来る時はいつも必ず出てるわよね。どうして?」
 それはいつも疑問に思っていたことだ。ジョーがいる時は、必ずマスターはカウンター
に出て彼の相手をしている。余程の上客だということだろうが、ラウンジの利益が目当て
なら、ここには見渡せばそんな常連はいくらでもいる。だが、私の見る限り、ジョーは特
別だった。
「ご存じないんですか? 彼はナンブ・モータースのオーナーなんですよ。ベニス・ビー
チはナンブ・グループの系列ですから」
 マスターの言葉に、私は危うくピルスナーを落としそうになった。
“ご存じないんですか?”って、そりゃ知らないわよ!・・・・。私はカンパリソーダを
喉に詰まらせながら、声に出せずに叫んでいた。
 何せお互い自己紹介などしなかったのだから知るはずがない。ナンブ・モータースと言
えば、超大国の経済界を制すると言われるナンブ・コンツェルンの傘下で、2年程前に突
然モーターレース界に現れ、その希に見る恵まれた人材と財力にものをいわせて、忽ちカ
ービジネスの世界に君臨してしまった驚異のカンパニーだ。
「オーナーですって!」
 私は漸く声にして言ったが、マスターの言葉を信用するには、まだ暫く時間がかかった。
 だってそうだろう、いくら金回りの良さそうな身なりをして、テェムズのライターを愛
用していようと、彼はまだどう見ても20代後半だ。いくら巨大コンツェルンの配下であ
れ、あれだけのカンパニーを築くには若年すぎる。
 しかし、レーサー、ジョージ・アサクラの名前が“ピルグリム・7”を最後にレース界
から消えたのが、ちょうど2年前。彼の所属するチームが、経営不振に陥ったオーナーカ
ンパニー共々、ナンブ・モータースに吸収されたのもその時期で、話の辻褄は合う訳だ。
「驚いた、サクセス・ストーリーって本当にあるのね」
「世の中には、運に恵まれた人間ってのがいるものなんですよ」
 私の驚愕にマスターはそう言って静かに笑った。だが、どこかその言葉には皮肉めいた
ものが感じられた。それだけではない何か・・・・、もっと不自然でおよそこの世界には
当てはまらない、それをどう言えばいいのか解らないが・・・・、
 私は唐突にジョーとの距離を実感した。それはナンブ・モータースのオーナーとしての
彼とのギャップではなく、事象の地平線を越えて尚、存在する彼の世界との間にだ。そし
て、きっとマスターはその存在を知っている。或いは、彼も“そちらの世界”の人間なの
かも知れない。不意にあの硝煙の臭いが鼻を掠めて蘇った。
 私は聞き出そうかと迷った。或いは私の想像でしかない世界のことを。
「ねぇ、彼って、本当にレーサーだったジョージ・アサクラ?」
 私はそう尋ねてみた。
「彼は、そう言いませんでしたか?」
「言ったわ」
 私には、それ以上を聞き出す術がなかった。そして、
「人間、好むと好まざるに拘らず、進む道ってものがあるんですよ」
 マスターの巧みな言葉の裏を計り知ることも出来なかった。




 そこに在るのは2つの共鳴し合う身体だ。片方が欠けてももう片方がそれを補う、とい
うことは出来ない・・・・。

 私は暫くベニス・ビーチには通わなかった。彼の身分や得体の知れない世界(・・・最
もこれは私の想像の産物でしかないのだが)に怖気づいた訳ではない。久々にペンが進ん
だせいもあって、少しは真面目に先のことも考えて仕事に取り組もうと思ったからだ。
 私は彼をネタに書いていた。その謎めいた素姓を私なりに明かしてみたくなったのだ。
 だが、私はジョージ・アサクラについて調査することはしなかった。彼の生い立ちや経
歴などを知る必要はない。私はゴシップ記者ではないからだ。ついでに言うと推理小説作
家でもない。私は私の想像の限りでその世界を創り、彼のヒストリーを組み立てることに
暫し夢中になった。

 そんな訳でベニス・ビーチで彼を見るのは1ヵ月振りだった。今日はケンが一緒だ。私
も取り巻き連中を連れている。
 彼は、いつものように私を見つけてくれると、グラスを上げて挨拶を交わしてくれた。
 ケンも此方に気づいて会釈をした。しかし、マスターの姿が見えなかった。どうしたの
だろうと考えていると、カウンターの中に見慣れない顔を発見した。新しいバーテンダー
だろうか? それにしても、マスターがオーナーを持て成さないのは変だ、この間の話の
限りでは・・・・。何か急用でも? 身体の具合でも悪いのだろうか?
 色々と考えながら、私は夜のメガロポリスを一望できる壁際のベンチシートに着いた。
 ここから見る宝石箱をぶちまけたような夜景は、それこそマンハッタンにも勝るとも劣
らない。見慣れた景色であるにも拘らず、見飽きることのない美しさだ。
 イリュージョン・・・・、私は都度の儀式のように、うっとりと眺めた。
 と、その時、陶然たる思考を遮ったのはケンの声だった。
 張りのある少し高めのボイスがラウンジに響いた。客は彼らの他、私達だけだったが、
全員が声の方を振り返った。
 ジョーがカウンターを立とうとするケンの腕を引いて宥めていた。どうやら2人の間に
何か諍いが起こった様子だ。また我儘でも言ってジョーを困らせているのだろうとも思っ
たが、途切れ途切れに聞こえるケンのうわずった声は、事態が深刻なものだと感じさせた。
 それに、ケンのあの目が脅えている。
「それなら、勝手にしろ!」
 今度はジョーの方が声を荒げた。
 取り巻き達はもう無関心だったが、私は無関心を装いながらも、内心おろおろしながら
彼らに気を取られていた。
 なぜ今日に限ってマスターはいないのだろう、彼ならこの場を上手く丸めてくれるだろ
うに。経験未熟なバーテンダーが2人を前に、どうしていいものかと途方に暮れていた。
 口論の末、ケンがカウンターを離れてしまった。ジョーは追わなかった。
 ケンはベンチシートで見守る私の前を、髪を一房払いのけながら通りすぎると、真っ直
ぐにドアに向かった。ラウンジには新しい客が増えていて、彼の美しい姿に目を奪われる
者もいたかも知れない。そんな輩の一群れがドアの前でケンを呼び止め、無神経にも口説
き始めた。
「どけよ、あんた達に付き合ってやる気はない」
 微かにケンの言葉が聞き取れる。私は縋る思いでジョーを見た。
 何とかしないとヤバイわよ! しかし、背中を向けた彼は気がつかないのか、ケンの方
を振り向きもしない。
「何だと! このガキ、つけ上がりやがって!」
 ラウンジ中に暴言が響いた。
 私は思わず立ち上がっていた。ケンは腕を捕まれ、彼を口説いていた連中達と共にラウ
ンジから姿を消した。
「ジョー、どうするの! ケン、連れて行かれちゃったわよ!」
 カウンターに駆け寄った私は、彼の肩を掴んで振り向かせた。
「放っときゃいいさ。いくら頭に血が昇ってたって、素人相手に手加減ぐらいはするだろ
うさ。」
 ジョーは取り合わない。なぜ、こんな時に!
「貴方、二度とケンを抱けなくなるわよ」
 私は彼の言葉の意味をストレートに理解する余裕などなく、半ばパニックに陥りながら
ベンチシートまで戻り、取り巻きの中から腕っぷしの強そうなのを2、3人連れてドアを
飛び出した。

 メインストリートに彼らの姿はなかった。
「パーキングだぜ、きっと下の」
 その声と共に私達はビルの地下駐車場に急いだ。エレベーターを待っている暇はなく非
常階段を駆け降りる。私の脳裏にふと今朝のニューズペーパーのヘッドラインが蘇った。
“マンハッタン、夜のパーキングエリアで惨殺!!”不良同士の喧嘩が殺人に至るのは、
さして珍しくもないが、何がニュースになったかと言うと、マンハッタンの高級コンドミ
ニアムで起きた事件だからだ。警備もセキュリティシステムも完璧な場所で、少年が惨殺
されたのだ。私はニューズペーパーに載った少年の血だらけの死体と、ケンの姿をダブら
せていた。
 ここはマンハッタンじゃない! 言い聞かせるがそれならば尚のこと、コンダクトシス
テムしかないこんな場所の地下エリアなど無法地帯も同然ではないか。
 まったく! 客層の良さが売り物のラウンジだったはずじゃないの! 私は非常階段を
駆け降りながら訴えていた。

 地下エリアに争っている様子はなかった。
 ここじゃなかったのか? 誰ともなしに口にした時だった。反対側の出口の付近で呻き
声がするのが聞こえた。急いで駆けつけると、そこにはさっきケンを連れて出た男達がコ
ンクリートの上に無様に貼り付いていた。1人、2人、3人・・・・、全部で5人。間違
っていなければラウンジから出たのはケンを除いてこれで全員だ。
「ケン!」
 私は彼を呼んだ。だが、彼はもうどこにもいなかった。私はもう一度伸びている男達を
見た。幸い銃やナイフは持っていなかったのだろうが、皆、ケンよりは数段体格の良い男
ばかりだった。それがこうもあっさりと打ちのめされてしまうなど、現場を目の当りにし
ながらも信じられなかった。しかも、僅か数分の間に。

「貴方たちって、何者?」
 ダウンライトの中、私は茫然としたままで、そう尋ねるしかなかった。
 ジョーは何も言わなかった。
 世界は私の知らないところで、確かに存在していた。




 殺戮、その内包する狂気を悦楽と呼ぶ・・・・・。

 銃声が響いたかと思うと、向かい側のビルとビルの隙間から、メインストリートの歩道
に転がるようにして人影が踊り出た。それを追って男が2人、路地から現れた。
 周辺から2つ3つ悲鳴が上がった。私はその場に出くわしてしまった他の通行人達と同
様、巻き添えを食うのを避ける為に、直ぐ側に止まっていた車の影に身を隠した。
 白日の下、追われているのは少年だった。腕を撃たれたらしく、白いTシャツの袖が血
で染まっている。足元は酷くふらついていて今にも倒れそうに危ういが、誰も彼を助けに
出ようとはしない。
 かく言う私も、こういう場面は紙面やモニターで傍観することはあっても、実際に体験
したことなどなかった。足がガクガクと震えた。そして、情けないことだが人間は認知の
常識圏を越えた危機に対して、自分の身の安全を最優先するものだと改めて知らされた。
 銃声が再度響いた。
 少年は車道を渡ろうとして道路に蹲った。往来の車が車体を捩じらせ、悲鳴を上げて歩
道に乗り上げ急停止する。後続車が次々に派手にクラクションを鳴らしながら通りすぎる
中、少年は蹲ったまま身動き出来ずにいる。パニック状態に陥った現場からは既に彼を追
っていた男達の姿は消えていた。それを待っていたのか、少年はよろよろと立ち上がり、
道路を渡って此方側の歩道までたどり着いた。
 私はその時初めて、その少年がケンだと気づいた。

「どうしたの! いったい」
 肩を貸し震える足を励ましながら自分の車まで戻り、ナビシートに彼を放り込んだ私は、
半ば泣きながら道路脇に止めてあったモンテカルロを急発進させた。1秒でも早くこの場
から離れたかった。
「貴女、結構裕福な暮らししてるんだ、ランチアの車なんて、今じゃなかなか手に入らな
いんじゃない?」
 私の荒っぽい運転に顔を顰かめながらも、彼はそう言って笑った。しかし、意識は朦朧
としているらしく視線は宙に浮いている。唇は色を失い言葉も震えていて、喋るのも辛そ
うだ。
「何、呑気なこと言ってるの! 腕、酷い? 直ぐに病院に」
「大丈夫、掠っただけだから、もう血も止まってる。それより少し休憩しよう。車を止め
てくれないか」
 言われて私は制限速度を越えているのに気がついた。おまけに反対車線を突っ走ってい
るではないか。いくらメインストリートを外れたといっても、よく対向車と接触しなかっ
たものだ。パトロールに見つかっていたら完全にアウト、ライセンスは停止だ。
 冗談じゃない・・・・。これでも私は無事故無違反の輝かしいドライビング歴を誇って
いるのだ。ポリスの前では・・・・、
 私は目の前の信号を右折すると、モンテカルロを近くのグリーンベルトに停止させた。
「ケン?」
 呼ぶと、彼は重そうに瞼を開いた。
「腕を見せて」
 血で染まったTシャツを裂いて、傷の具合を見た私は、とりあえず胸を撫で下ろした。
 彼の言った通り掠り傷で、もう殆ど出血は止まっていた。しかし、それにも拘らず顔色
は蒼白だった。
「真っ青よ。気分が悪い?」
 吐き気がするのか胃の辺りを押さえて苦しそうに唾を飲む彼を見て、私はサイドウイン
ドゥを開けた。微かに木の香が風に乗って香った。
 ケンは大きく1つ息を付いた。その額に乱れた髪を手負いの獣に触れるようにして、恐
る恐る払いのけてやる私の指先が、冷たい汗にビクリと震えた。
「大丈夫? 何か飲まされたの?」
「“懺悔の美酒”」
「何ですって!!」
 知ってるわよ、それって! 私は昔読んだスパイ小説を思い出した。
 ソディウム・ペントタール、自白剤である。
「危ないわよ、貴方」
「そう・・・、拘らない方が身のためだよ」
 確かにそのようだ。私は私の愛すべき平凡な日常に満足している。さっきそれをしっか
りと思い知らされたところだ。
「そうね。じゃあ、どこに送りましょう」
「ベニス・ビーチに・・・・、飲み足りないんだ」
「バカ言わないで!! 家はどこ?」
 私は声を大きくして尋ねた。しかし、彼の意識は急速に遠退いたらしく、その所在を確
かめることは出来なかった。私は仕方なく車をベニス・ビーチへと向かわせた。

 夕暮れが近づいていた。
 私の肩に頭を預けたケンの顔に西日が強く差したが、彼は目を覚まさなかった。それど
ころか、さっきから車の振動にもピクリとも反応しない。まるで死んだように眠っている。
 心配になって時折頸動脈に手を伸ばす私の指の感触さえ感知しない。
 病院へ直行した方が良かったのかも知れない・・・・。私は後悔したが、ベニス・ビー
チは、もう目と鼻の先だった。
 私は車をパーキングには入れず、ラウンジのあるビルの前に止めて近くの電話ボックス
からマスターを呼び出した。営業時間外で、ジョーがいないことは解っていたので。
 受話器を置いて1分もしないうちにマスターは表に出て来た。少し息を切らせている。
 車に案内すると彼はナビシートに上半身を潜り込ませ、軽々とケンの身体を掬い上げた。
「大丈夫かしら?」
「なに、心配はいりません。直ぐに気がつきますよ」
 抱き上げられたケンを覗き込んだ私の心配を他所に、マスターは一目で彼の症状を察知
したのか、出て来た時より幾分表情を和らげて言った。
 しかし、その声があまりに落ち着きはらっていたので、私は反対に怖くなった。人間こ
んな時には少しは焦って取り乱して欲しいものだ。
「レイディ、貴女も顔色が悪い、少し休んでいきなさい」
 マスターは私の心配までしてくれた。言われるまでもなく、自分が今どんな情けない顔
をしているかぐらい想像はついたが、私は丁重に辞退を申し出た。
 彼らの世界に足を踏み入れることが出来ないのなら、残念ながら私の役目はここまでだ。
 スリルとサスペンスに満ちた私の現実など存在しない。
 在ればきっと小説など書いてやしないだろう。そうなれば、私は完全に職を失うことに
なる。

 ・・・・その夜、夢を見た。
 私には戦争の記憶はないが、リィのフラッシュバックに影響されたせいだろう。そこは
夥しい数の死体が横たわる戦場だった。
 そして、その屍達を足元にして立っているケン。両手をだらりと下げ、少し俯いて自分
を取り囲む無数の骸をじっと眺めている。恐ろしい程鮮明に脳裏に残るその情景の中で、
しかし、彼の表情だけがなぜか曖昧で、ぼやけていた。私は目覚めてから、欠落したその
部分を修復しようと試みた。泣き顔ではその“絵”は完成しなかった。ゾッとするような
冷たい微笑が思い浮かんだ。そして、それは完璧にその“絵”を仕上げてしまった。




 ナンブ・モータース圧勝!!“ピルグリム・11”・・・。
 そのニュースを聞いたのは、久々に舞い込んだ仕事を仕上げ、デスクで一服吹かしてい
る時だった。
『マシンから見える視界には、栄光か死かへ続く、驀地な道が或るだけだ』
 ウイニングランを終えて、インタビューに答えるヘルメットを取ったレーサーの顔は、
驚く程若かった。
 私はジョーの言葉を思い出した。生と死の狭間を生き抜くには、人間の能力では限りが
ある・・・・。しかし、この若いレーサーは、そんなことは知らないのだ。

 その日、予想通りベニス・ビーチは勝利の祝杯を上げる客達で賑わっていた。
 私の取り巻き達も先に集っていて、ラウンジに入るなり、私にも祝杯の盃が渡された。
 私はチラッとカウンターを見た。そこにいるはずもないジョーを探して。
 今頃は別の場所で祝賀会の真最中だろう。こんな所にいる訳がない・・・・・、解って
いながらもやはり残念に思う。私は、今日会える予感を感じてここに来たのだ。
 『そう上手くはいかないわね』グラスの縁を噛んで、私は一人、呟いた。ケンの様子も
気がかりだったが、今はそれ以上にジョーの存在が、私の心を引き付けて止まないものに
なっていた。
 0時を回って尚、益々盛り上がってきたラウンジに、また新しい客が入った。ビシッと
ブラックフォーマルに身を固め、4、5人の凛々しい若者を従えたその人物に、その場が
一瞬静寂した。そして次の瞬間、歓声を伴い騒然となった。
 ナンブ・モータースのオーナーのお着きだ。そして彼が連れている若者の1人は、今日
のウイナー、アルベルト・カーリーだ。
 突然のゲストにシャンペンが鳴り、ラウンジ中が湧いた。諦めてしまっていたものだか
ら、私は目当てのジョーが現れたのを不思議な思いで見つめていた。
 彼らは皆の歓迎にもみくちゃにされながら、やっとカウンターまでたどり着いた。回り
を取り囲まれ、勝利の酒に酔うウイナー達の前には、いつの間にかマスターの姿もあった。
 遠巻きながら、私も乾杯のグラスを鳴らした。そしてふと、そこにいるであろう、もう
1人の姿を探した。しかし、ケンは同席していなかった。
 ジョーの隣にはアルベルトが座っている。彼は沸きあがる周囲の隙を伺っては、何度も
ジョーとグラスを合わせた。ジョーもたいそう機嫌が良さそうで、時折、彼の肩に手を掛
けては引き寄せ、今日の勝利を祝い合っていた。
 その光景が、だが私の目には酷く理不尽なものに映った。この場にケンがいないことが
不自然で仕方なかった。アルベルトでは似合わないのだ。ジョーの上機嫌もどこか道化じ
みて見える。
・・・・・そうか、ジョーはナンブ・モータースのオーナーなのだ。私は、そこに平凡で
平和な彼の仮の日常を見た気がした。だから、ケンがいないのだ。きっとケンは借り物の
世界には住めない人間なのだ。まだ若すぎるし不器用だ。そして、そんな自分の分を弁え
てもいるのだろう。モータースやチームのメンバーといる時のジョーは、彼らのものなの
だという・・・・・。今日のジョーはアルベルトのものだった。
 私は新しいグラスを唇に運んだ。祝杯は止むことなく続いていた。
 賑わうラウンジに忙しそうに動くマスターが、それでも、いつものように私を見つけ頭
を下げた。少しすまなさそうに笑ったその笑顔は、この間の事件を気にしているからだろ
うか? それとも、此方に気づかないジョーの代わりに、私に気を使ってくれてのことだ
ろうか? 私はカウンターに移るのを断念した。私にとっても今日のジョーは彼らのもの
だった。
 ところが暫くして、何の気紛れか? ジョーの方から私に声を掛けてきた。ベンチシー
トで、とぐろを巻いていた取り巻き達は競って彼を席に付かせようとしたが、意外に人見
知りをする性質(たち)なのか、それともかなり酒が入っているせいか、あろうことか彼
は私を誘ってラウンジを出た。

「ちょっと、飲酒運転じゃないの!」
「捕まりゃしないさ、ポリスとのカーチェイスなら慣れてる」
 イグニッションキーを突っ込んだ彼は、思いもよらない展開に焦っている私をナビシー
トに、パーキングから車を発進させた。
「どこへ行く気!」
「とりあえず、静かな所」
 そう言って彼は車を市街地から出した。5分も走らない内に、忽ち辺りは夜の闇に包ま
れた。そうして街外れの国道を行く間、私達は黙ったままだった。やがてポツンと小さな
道路標識が見えた。その先は海だった。

 冷たい潮風がアルコールで火照った身体に気持ち良かった。
 ザザッと波の音だけが寄せては返す夜の海は、少し不気味でもあったが、それでも1つ
2つと瞬く銀色の星が奇麗だった。
「この間は迷惑をかけたそうだな。礼を言わなきゃならないと思って」
 傍らで煙草に火を点けながら彼が言った。
「気にしないで、それで?ケンは大丈夫なの? 今日は一緒じゃなかったようだけど」
「あいつは騒がしいのが嫌いなのさ」
「そう、たいしたことなかったのね。よかった。」
 足元に寄せる漣をよけながら、私は僅かに灯る常夜灯の灯りを頼りに、砂浜を歩いた。
後ろをジョーの砂を踏む足音が従った。潮風が薄い上着の裾をハタハタと靡かせた。
 私は立ち止まり彼の横に並んだ。僅かな沈黙の後、一際大きく寄せた波に、2人して慌
てて波打ち際を離れた。
 私はその事件についてそれ以上聞くつもりはなかった。だが、謝罪のつもりかジョーは、
差し障りのない程度に話してくれた。
 ケンには少々悪い癖があって、直ぐに何にでも首を突っ込みたがる、彼の探偵まがいの
お遊びには手を妬いているのだと。それが嘘か本当かくらい見当はついたので、次にジョ
ーが口にした言葉の真意を、私は簡単に知ることが出来た。
「あいつに拘わると、ろくなことはないぜ。まったく」
「うふふ、それでガードを張ったつもり?」
 だからこちらも惚けて言ってみせる。彼は紫煙の向こうで苦笑した。だが、
「あんたが興味あるのは、俺だろ」
 ニャッと唇に不敵な微笑。
「随分と自信がおありだこと、でも、私が興味を持っているのは貴方の“正体”によ」
 事実だった。勿論、彼自身の魅力には十分まいっているが、彼を取り巻く得体の知れな
い世界(・・・・それは、かくも想像力を掻き立てる格好の題材として余りあるものだっ
た)の私は虜となったのだ。
「なら、寝てみるか?」
 突然言われて私は言葉を失った。
 ジョーはクスクスと笑っている。からかわれて私は真っ赤になった。
「あんた、小説家なんだってな。ミス.ジェシー・ブラウン」
 私の顔から赤味が引くのを待って更にジョーが言った。
 えっ、何て?・・・、私は耳を疑いながら聞き返した。まさか、私を小説家だと認めて
くれる人間がいるとは! もとい、私のペンネームを知っている人間がいるとは・・・・。
「ケンの奴が調べたんだ。あいつは用心深いんでね」
「用心って・・・・、私が、何か“イケナイお仕事”をしているお姉さんにでも見えた
訳!」 
私は本心憤慨した。
「まさか! カリフォルニアで5本の指に入るっていう、シンクレア家のご令嬢にそんな
失礼なこと!!」
 殊の外、彼は大げさに言った。
 これには更に驚かされた。私がシンクレア家の人間だとどうやって調べたのだろう?
人格高潔、謹厳実直で通った父が企てた政略結婚から逃れる為に、私が家を出たのはも
う7年も前のことだ。おそらく両親は今でさえ、私の行方を知らないはずだ。私はそれ
ほど完璧に消息を絶った自信があった。
「これは脅しね。自分達にこれ以上拘わるなって、」
「何を言ってるんだ。唯のケンのお遊びさ、言ったろ、探偵ゴッコに凝ってるって」
「なら、ケンの脅迫だわ。これ以上ジョーに近づくなって」
「奴は俺には惚れちゃいないさ」
「どうだか?」
 私たちはお互いに言葉遊びをしていた。彼は私の好奇心を探っていたし、私は彼の世界
を探っていた。そして、私にはジョーが何を言いたいのかは解っていた。自分に興味を持
つなということだ。散々、期待させておいて、そんなことを言う為に、わざわざここまで
私を連れ出したのだ。
「家に戻る気はないのか?」
「心配してくれているのなら、大きなお世話だわ。子供じゃあるまいし」
「そう、突っかかるなよ」
「私よりケンの心配をすれば、放っておいたら、そのうちパトロンのところから帰らなく
なるわよ」
 私はプイと彼に背を向けて砂浜を2、3歩海に歩み寄った。「ちぇっ」と背後で小さな
舌打ちが聞こえた。
 フフッ・・・、と、私は心の中で笑った。
「きゃっ!」
 不意に波が足を浚った。ハイヒールが片方脱げて波と一緒に海に浚われていく。
「待って・・・・」
「危ない」
 追いかけようとしてバランスを崩した私を止めて、ジョーは波間から赤いヒールを掬っ
て、足元に置いた。
「どうぞ、シンデレラ姫」
 まったく、ソツがない。
「12時はとっくに、回っているわよ」
 見上げた先で視線が絡まった。
 私はフイとそれを避けた。
 普通なら、こういうシチュエーションでプレイボーイの義務を果たしてくれるのだろう
が、少なからずも感じ取ってしまった人間には、彼は手を出せないのだ。この先、どんな
危険を招くか解らないからだ。私は彼のお荷物になる気はなかった。何も知らないまま闇
から闇に葬られるハードボイルド小説のワキ役もご免だ。
 遠くでクラクションが鳴った。潮風が波に浸かった足元を吹いていく。
「すっかり冷えちゃったわ、帰って飲み直しましょう」
 私は砂浜を車の止めてある道路に向かって歩いた。
 その肩をジョーの腕が抱き寄せた。
 ガードレールの脇を上るコンクリートの階段まで僅か数メートル。
 私はジョーの仮初を支配した。 




 それが彼を見た最後の夜だった。
 その日のベニス・ビーチは、カウンターに珍しく女性を伴った彼を見る以外に、客はな
かった。ボーイもバーテンダーを務めるマスターがいるだけで閑散としていた。
 そのせいか、2人の存在が私の気を殺いで止まなかった。プレイボーイの烙印を押して
おきながら、彼が女性を連れているのを私は初めて見た。いつもの賑わいの中でなら、そ
れこそ彼のこと、女の1人や2人、然程気にもならないのだろうが・・・・、
 彼の隣でその女性は、淡いチェリーピンクのマニキュアが綺麗に施された細い指で、ガ
ラスのストークを摘み、透き通ったミントグリーンのカクテルを味わっていた。
 それを横目に見ながら、1人だった私は少し離れてカウンターに着いた。
 私の前には細いテスターのようなガラスの花瓶に、赤い、まだ蕾のままの薔薇が1本挿
してあった。シェーカーを手に口髭のマスターがいつのもように軽く頭を下げて、私を迎
えてくれる。彼も私に気がつくとコースターからツイとグラスを上げた。私はそれに応え
ながら隣の席の女性とも軽く会釈を交わした。
 柔らかい笑顔と豊かな緑髪、白い肌。彼女はエメラルドの瞳が印象的な美しい女性だっ
た。そして、彼女の指が触れるストークの先には、私とは無縁な世界がたゆたっていた。
 だからこそ、
 お似合いだわね・・・・・。
 私はシガレットケースの蓋を開けた。マスターはライターの代わりに、薄紫の愛らしい
小さな一輪を添えたグラスを差し出し、私のコースターに乗せた。そして手元のグラスに
もう一杯注ぎ、
「フィオーレ、フィオレンツァ。花の都に乾杯」
 テーブルに置いたグラビア誌は来る途中、ニューズスタンドで買ったもの、表紙のフィ
レンツェは花の季節の真っ盛り。
 にっこりと笑ったマスターの胸のポケットにも、薄紫の花が咲いていた。
・・・・・花の都(フィオレンツァ)に乾杯。
 チンッと薄いグラスのかち合う音が小さく響いた。
 私は鼻先を擽る甘い香りを楽しみながら、そっと、花びらの散ったロ−ズピンクのグラ
スを口にした。

 暫くしてラウンジには数組の客が入った。それに伴ってボーイ達も駆り出された。私の
隣も1つ2つ隔てて席が埋まっていった。
 そして、2人の横にも男が1人とまった。
「よう、久し振りじゃのぅ」
 少し訛のある太い声で男は言った。そして、恰幅の良いマスターの倍はあるかと思われ
る身体を窮屈そうにスツールに収めた。
 どうやら“お仲間”らしい。私はストーリーのネタにするべく想像力を膨らませた。
 見たところ、モータースのメンバーではなさそうだが、かなり親しい感じがする。それ
も随分と前から。
「ケンは、どうしたんじゃ?」
 男は此方にいたマスターを手招きで呼びつけて、ビールを注文した。
「まだ、拗ねとるんか。まったく、いつまでも往生際の悪い奴じゃの」
 聞き耳を立てていた訳ではないが(・・・・実は立てていたのだが)彼のその言い様が
可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
 それに気づいたのかジョーが咳払いを1つ。彼も私に気づいて針鼠のように逆立ってい
る髪をかき上げながら、大きな身体を丸めた。
「今日は、ボスのところだ。ピクニックの資金を調達しに」
「明日には皆、揃うわね」
「ああ、」
「で、魚の方はちゃんと釣れたんかいの?」
「心配するな、ケンを餌にマスターが釣り上げた。大物だったぜ」
「それじゃ、ご馳走にありつけるわね」
 形の良い赤い唇に綺麗な指を添えて彼女が笑った。
 彼らの回りで彼らの次元が存在していた。
 何かが始まろうとしている。幾許かの疎外感を感じながらも、しかし、傍観者ですらな
い私にはそれを知る術はない。
 それでも、いつか、いや遠い将来ではない或る日、モニターやニューズペーパーの紙面
で、私はその断片を見るのかも知れない。だが、そこに彼らの影を見つけ出すことは、私
には不可能なのだ。もっとも報道というもの自体、不確かであやふやなものはないのだろ
うが・・・・、なぜなら、どの情報源も此方側の世界に不都合のない程度に、ダイソン殻
なんぞで覆われているからだ。動かす者と動かされる者の境界で、きっちりと世界は分離
されている。しかし、それは彼らにとっても言えることなのかも知れない。私が私の事象
の地平線を越えられないように、彼らも又、自分達のそれを越えることは出来ないのだ。
 私達の幸福で平凡な現実も彼らにとっては、蜃気楼でしかないのだ。それはきっと、不
幸なことに違いない。私は私の世界に取り残されたほんの細やかなジェラシーを込めて、
そう考える。

 翌日、私のもとに薔薇が届いた。
 カードは添えられていなかったが、誰からのものなのかは直ぐに解った。花束と揃いの
リボンで飾ったギフトボックスの蓋を開けると、ほどよく開いた赤い薔薇と同じ色のハイ
ヒール。
 折しも今日は私のバースディである。
 ベニス・ビーチにはあれから何度か通ったが、ジョーの姿を見ることはなかった。会え
る予感もしなかった。
 けれど、薔薇は届いた。
 私は花束から1本手折ると、ボトルで冷えたレッドパッションをグラスに満たして、花
びらを浮かせた。マスターがシェーカーで作ってくれるようにはいかないが、なかなか、
すてたものじゃない。
 “赤い情熱”はジョーと初めてグラスを交わした時に、彼が選んでくれたカクテルだっ
た。甘酸っぱいキリッとした味わいと、舌に残るメロウなほろ苦さが気に入って、私はよ
く注文した。
 ベニス・ビーチ・・・・、
 カウンターの上には蕾のままの赤い薔薇。眼下に広がる銀河都市。話上手の口髭のマス
ターが振るシェーカーの音、琥珀のグラスに浮かんだ夢。
「今日は、1人?」
 私はそっと呟いてみた。たぶん二度と会えないであろう相手に。

 1週間後、私はストーリーを書き終えた。
 最後まで決めかねたタイトルを、白い原稿の上に書き記してペンを置いた。

 夢・・・・、永遠にと望むことしか叶わぬ、私の愛した、
 それはグラスの中の、私のMiragu・・・・、

 ナナブ・モータースのオーナー交代のニュースが流れたのは、それから間もなくのこと
だった。



End


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