LAST HOLIDAY

by デューイ



“ベニス・ビーチ”。
 俺たちがここを定例のコンタクト場所に選んだのは他でもなかった。
 新しくナンブの配下となったグループから、俺たちの仲間に加わった、ランディ・ガイ
スマンは、小口径の拳銃から核ミサイルの誘導装置まで操れるという兵だが、ピクルスの
漬け方やサラミの花をディッシュに咲かせるナイフ捌きもさることながら、話上手でおま
けにシェイカーも振れる腕を持っていたので、ちゃっかりとここを仮住まいとしてしまっ
ていたのが理由だ。
 俺たちは彼をマスターと呼んだ。事実、彼はこのラウンジの経営者だった。といっても
雇われマスターだが。ベニス・ビーチはグランレッツのど真ん中にある、ナンブ・ブルー
プが傘下とする飲食産業部門を担うユニオン・フーズのベスト・マーケットである。

 週末で賑わうラウンジで、俺はいつまで待っても現れないケンに苛つきながらグラスを
傾けていた。
 カウンターの端には、まだ蕾のままの赤い薔薇が、細いテスターのようなガラスの花瓶
に挿してあった。俺はそいつをツンとつついて頬杖を付いた
 灰皿には既に吸い殻の山。俺はまた新しいのを1本咥えて火を点けた。
『遅せーなー』
 ふと、ベンチシートに陣取ったグループの中の女と目があった。
 俺はコースターからツイとグラスを上げて、軽く社交辞令を送った。女も笑ってグラス
を掲げた。白い細身のワンピースが華奢な身体によく似合っていた。
「何を見てるんだ?」
 突然、頭上からケンの声。俺は慌てて視線を逸らした。
「別に、それより遅かったじゃないか」
 これ見よがしに俺は吸い殻の山が聳える灰皿に、火を点けたばかりの煙草を押しつけた。
「どの女を見てたんだ?」
 しかし、目敏く見抜いてケンが言った。仕方なく俺は白状した。
「あの、細身の白いワンピース」
「ショートカットのか?」
「そうだ」
 ケンは暫し黙り込んだ。こういう時は次に来る嫌味を覚悟しなければならない。
「いつものタイプと違うじゃないか。おまえ、もっと豊満なのが好みなんじゃなかったの
か? それに彼女、軽薄そうな仲間と一緒だけど、なかなかインテリそうだぜ」
「何だと! それじゃ俺の好みはボディだけの脳みそからっぽだってのかよ」
 しっかり、嫌味だった。
 ランディが口髭を震わせて笑いを堪えている。
 『女に見惚れていると碌なことはないですな』とは彼の言葉。実はこの間、車道に転
がり出た子供を助けようとしてガードレールに突っ込み足の指を折った。皆は見舞いに来
たその子の母親が大層なグラマー美人だったもので、そっちに気を取られて目測を誤った
のだろうと噂した。
 甚だしい誤解だ。だいたい子供と一緒に道路に転がっている俺に、歩道で悲鳴をあげて
いるだけの母親のツラを見る余裕が、どこにあるって言うんだ!
 俺は憤慨新たに拳を震わせた。
 しかし、ケンは素知らぬ顔で隣のスツールに掛け優雅に足を組んだ。
「マスター、ハイボール」
 ケンの注文にランディがバーボンのボトルをラックから引き抜く。磨き込まれた細身の
タンブラーが、ダウンライトにキラキラと光った。
 ケンはチラッと腕時計に目をやると、うざったいと言う風に右手で肩にかかったブルネ
ットを払った。
 約束の時間はとっくに過ぎている。少しは悪かったと思ったのか、ケンは吸い殻の山を
見て遠慮がちにボソリと口籠った。
「吸いすぎだ」
 放っとけ!!・・・・。
 俺はボックスから新しい煙草を抜いた。それを横からケンの指が摘み取った。
「吸いすぎだと言ったろ」
 責めるように青い瞳。
 誰のせいだ!!・・・・。しかし、俺は口にはしなかった。そして、テーブルの上にあ
ったセイラムのボックスとライターを一掴みにして上着の懐にしまった。
 ランディがまたクスクス笑いで俺を見た。俺は無視してグラスを煽った。
「それで、交渉は上手くいったのか?」
「まあまあってとこだな。」
 コルクのコースターを弄びながらケンが言った。
「ボスは慎重ですからね。余程しっかりとした当てがないと・・・・」
 ケンの手からコースターを摘み取り、ランディがステアしたハイボールのグラスをその
上に置いた。
「直ぐにおびき出してやる」
「無茶はやめろ」
 グラスに口を付けて目を輝かせたケンに、俺は言った。
「いくら自由に任されているからって、度を越すとボスの顔を潰すことになるんだぞ」
 と、ここはしっかり忠告しておかなければいけない。ついでに俺の存在も再確認識させ
ておく。一応、俺はチームのリーダーだ。
「勝手な行動は許さないからな」
「フン、ボスと直接話をつけてるのは俺だぜ」
「ベッドの上の約束ってのは、公的効力はないんだぜ」
 今度は俺が嫌味を言う番だ。
「なっ・・・・、いつ俺が、ボスと!!」
 ケンは真っ赤になって抗議した。俺は鼻先で笑ってやったが、事実、想像出来ない図で
はなかった。ケンは嫌がるだろうが・・・・・。
「おまえの役目はパトロンから資金を調達すること、チームを動かすのは俺だ」
 ケンは言葉を失ったまま反撃の機会を逃してしまったのか、唇をグラスに付けたまま黙
ってしまった。俺は満足だった。
 灰皿を替え、ランディがグラスに2杯目を注いでくれた。俺はケンの肩を抱き寄せた。
 誰の移り香か、微かにプール・ムッシュが香った。
「遅刻の原因はこれか?」
「フフッ・・・・」
 耳元で囁く俺の唇に擽ったそうに首を竦めて、ケンは笑った。


 次の週末、ケンがボスのところに入り浸っていたので、俺は1人、ベニス・ビーチで時
間を持て余していた。
 今度の仕事はケンが下準備を受け持っていたので、さし当たって俺がすることはまだ何
もなかった。情報が集まるまでは俺もランディも動けない。ケンはボスのオフィスで今頃
は端末と睨めっこだろうが、俺が手伝いに行く訳にもいかない。なにしろ俺はデスクワー
クとかいうものが昔から苦手だ。ついでに言えばコンピューターというものとも相性が良
くない。“アリス”なんて機械に名前を付けているケンの奴の気が知れない。
 しかし、こうして酒を飲んで時間を潰しているだけというのも、いささか気がひける思
いがしないでもない。いや、決してサボっている訳ではないのだが・・・・。と、グラス
を相手に尻窄みな言い訳を呟きながらも、ランディを相手に“フェザントの調理方法とワ
インの選択”や“雉撃ちの心得とマナー”についてなど、あれこれと講じ合っているうち
にボトルが空いてしまった。

「ハイ!、ご機嫌ね。」
 振り向くと“ジェシー”が立っていた。名前を知っているのは、この前一度カウンター
に誘ったからだ。と言っても声を掛けたのはケンの方だった。『彼女、おまえのことが気
になるようだぜ』と、何の気紛れかお節介か、はたまた嫌味か知らないが、取り巻き達と
一緒にいた彼女を俺の隣に連れて来たケンは、お愛想笑いも鮮やかに髪を一房背中に払っ
て、席を外してくれたのだ。
 俺はケンの親切が不気味だった。ケンがこの手の気を利かせてくれたことは未だ曾てな
かったことだ。横から割り込んで来て、無茶苦茶にされたことは何度かあったが・・・・。
「今日は、一人?」
「ああ、フラれちまってね」
 俺はアリス相手に宜しくやっている?、ケンの姿を思い浮かべた。
 ジェシーは“ふふっ”と笑って隣に座り、細い指をテーブルの上で組むと、ランディを
見上げるようにしてレッド・パッションを注文した。
 今日の彼女は初めて見た時と良く似た細身の白いワンピースを着ている。あの日以来何
度か会って赤や黒を身に付けているのを見たが、彼女には清楚な白が一番似合うと俺は思
った。遊び慣れているように見えるが結構固そうだと感じるのは、そのせいかも知れない。
勝手な思い込みだが・・・・。
「今日はパトロンのところさ」
 バッグから煙草を取り出した彼女にライターを差し出しながら俺は言った。
 ランディがシェイカーから注いだ“赤い情熱”を、コースターに乗せた。彼女は軽く頭
を下げると指から灰皿に煙草を移し、グラスのストークを摘みながら訝しげに俺を見た。
「じゃあ、貴方は何者?」
 俺は彼女の勘違いを咄嗟に理解した。そして、とんでもないと否定した。
「俺は唯のダチだ、あいつの我儘を聞いてやれる程の財力は持ち合わせてない」
 思わず口に出た言葉だが、事実その通りだ。
 確かに俺はケンに特別な感情を持っている(ケンの方はその気はなさそうだが)
 しかし、言った通り俺にあいつのお強請りを聞いてやれる力はない。何せ今回ケンが欲
しがっているのは、500万ドルのヘロインだ。
 俺たちの今度の仕事は、ナンブ・グループに敵対するアメリカの大手貿易商社をぶっ潰す
ことだった。相手は関連企業百数社を総括するという巨大コンツェルンだが、俺たちの本当
の目的は奴等と裏で繋がっているマフィアを殲滅させることにある。
 その最初の手段としてニューヨークに本社ビルを構える傘下のカンパニー、ファルコン
のオーナーを麻薬取引法で追い詰め同社を倒産させようという訳だ。それがピラミッドの
底辺で欠けた積石となって、奴等は共々総崩れとなるのだ。
「財力ねぇ、コンコルドでも欲しがってるわけ?」
「似たようなものを強請ってるよ」
 彼女はなかなか感がいいのかも知れない。
 それから暫く2人して他愛もない話に興じた。彼女が誘ったのでランディも加えて、さ
っきのフェザントとワインの話にも、ボルドーだのグラーヴだのと花が咲いた。雉撃ちに
も彼女は興味を示したが、俺の話す狐狩りの話にはえらく熱心に耳を傾けていた。特にラ
イフルの扱い方には関心があるらしく、クレー射撃は1度だけだが経験済みだと言う。  
ふつう狐狩りと言えば毛皮のコートだの襟巻きだのと女なら考えそうなものだが、彼女
は少し変わっていた。そんなところがなんとなく俺は気に入って、久し振りに夢中になっ
て会話を楽しんだ。そんな中でランディが提供してくれたのは、AR−7エクスプローラ
ー・カービン。アーマライト社で開発された“水に浮くライフル銃”の異名をとるサバイ
バルガンの話だった。その銃の性能と欠陥について討議する俺たちに、好奇心に満ちた瞳を
した彼女の関心は注がれ続けた。
 午前2時、2本目のボトルが空いた。漸くワインとライフルのネタも尽きかけた頃、俺
は彼女を送ってラウンジを出た。

明け方近く、コンパートメントのドアを叩く者があった。
 二日酔いの頭痛のする頭を抱えながら、チェーンロックを外すと、眠そうな顔をしたケ
ンが立っていた。
「どうしたんだ、こんなに早く」
 言われてケンは大きな欠伸を一つ。つかつかと俺の寝室に入ると、靴だけ脱いで上着も
着たままでベッドにひっくり返った。
「ずっとアリスの相手をしていたのか?」
 俺は脇に座ると腕を取ってケンを引っ張り起こし上着を脱がせた。それを床に放って自
分もその横で仰向けになる。
「アリスじゃない」
 眠そうな声でケンが言った。微かにプール・ムッシュが芳香した。
「おまえ、他の奴と宜しくやっておきながら、眠くなれば俺のベッドに直行かよ」
 枕を抱いたケンの肩に手を掛けて覗き込むと、ケンは目を閉じたままで、ククッと小さ
く喉を鳴らして笑った。俺はその微かに震えた白い首筋に唇を落とした。
「よせよ・・・」
 擽ったそうに首を竦めたケンは、俺の頭を押し退けて反対側に寝返りを打った。そして、
後ろから寄り添い抱きしめた俺の手を、もどかしい動作で振り払った。
「二日酔いが酷くなるぜ」
「かまうもんか・・・・」
 俺はケンの背中から胸へと手を伸ばしてシャツの中に這い入れた。冷たい外気に触れた
せいかひんやりとした、だが、吸い付くような滑らかな肌の感触が俺を恍惚とさせる。
「いやだ・・・、やめろったら!」
 一瞬、ピクリと俺の愛撫に感じながらも、ケンは乱暴に腕を掴んで跳ね除けた。
「痛ぅ・・・・」
 弾みで掠ったケンの手が俺の頬に爪を立てる。
 ・・・・この野郎!
 拒絶されて俺はカッとなった。頭がガンガンと鳴った。今まで押さえていたものが一気
に胸を溢れ出る。
・・・・ジェラシーだ。思わずケンの肩を鷲掴みにして向き直らせる。
 青い瞳が驚いて見開かれ俺を見た。
「相手は誰だ」
 俺は問い質していた。掴まれた肩が痛むのかケンが顔を顰かめる。
「シド・・・、ユーリ・シド・シュヴァルツ」
 平然とケンは口にした。
 俺の頭痛は限界に達した。
「反則だ!!」
 俺は思わず叫んだ。ユーリ・シド・シュヴァルツ、ファルコンのオーナーである。
「そんな勝手は許さねぇ! 俺に何の報告もなしに行動しやがって。反則だぜ、ケン!」
 自分の声がガンガンと頭に響いて、鼓膜に振動を与えた。
 俺はケンのスタンドプレイが許せなかった。『任務はチームが一つになって遂行するも
のだ。固い信頼関係があってこそのチームプレイだ』俺の腕はそうケンに訴えていたが、
しかし、それは建て前だった。俺は俺を無視して行動したケンに腹を立てているのだ。
 裏切られた思いがした。俺は嫉妬と惨憺たる思いでケンを責めた。押えつける両腕の下
でケンの肩が激しく揺れ、苦痛を訴えるように髪がシーツに乱れた。身体を強張らせ固く
目を閉じたケンは、だが抵抗一つしない。そして俺の感情が静まるのを待って静かに言っ
た。
「反則はお互い様だろ。おまえ、この仕事にジュン達を加えることを承諾したそうじゃな
いか、俺に何の相談もなく」
 俺はハッとなってケンから腕を引いた。はだけた襟元から露になった白い胸に薄紫の花
弁が散っていた。顔を背けた俺に気づいてケンが胸元のボタンを留めた。
 俺はベッドに座り直し、背中を向けたままで言った。
「言わなかったのは悪かった。だが、言えばおまえが反対するのは解っていたから」
「あたりまえだ! ジュンもリュウも、もう俺たちとは関係ない」
 上半身を起こしケンは声を荒げた。
「そういう訳にはいかないさ。それに2人は協力すると言っている」
 静かに、だが、しっかりとした口調で俺は言った。
「ボスの、博士の命令か」
 ケンは声を震わせた。俺は答えなかった。
 ドサリと再びケンがベッドに伏した。スプリングが僅かに弾んで俺の身体に伝わった。
「いつも、何も、俺の思い通りにはいかないんだ」
 両の掌で顔を覆うと、ケンは込み上げる嗚咽を堪えて身を震えさせた。

 早朝のメガロポリスは不気味なほど静まり返っていた。怱怱たる昼間と終わらない夜の
狭間で、眠らない街が一時の休息を取る。
 午前6時、ブルーグレイの空に薄い透明な月を見ながら、俺はケンをナビシートに車を
走らせていた。赤いシグナルが点滅する交差点を突っ切り、空っぽのニューズスタンドを
横目に見ながら、俺はイグニッションキーを入れてから一言も喋らないケンに気不味さを
覚え、ハンドルから片手を外して、ダッシュボードの煙草を摘んだ。
 ケンはチラッとそれを見てサイドウィンドウを開けた。窓越しに頬杖を付いたケンのま
だ乾き切らない髪からソープのラベンダーが香った。

 ・・・・・あれから俺はケンを抱いた。
 まるで、与えられた使命ででもあるかのように手にかけた。
 泣き顔を隠す為に覆った手を剥がし、無理やり身体を重ねる俺に、ケンは空しい抵抗を
続けた。その深い絶望にも似た思いを湛えた瞳を覗き込みながらも、俺は熱くなった己を
押さえることが出来なかった。
 それは、愛おしいが故の行為なのか、嫉妬なのか、焦躁なのか、それとも哀れみなのか
俺には解らなかった。
 ケンはきつく唇を閉ざし俺の行為に耐えていた。その様を見て悦楽に酔った俺を、もう
一人の俺が冷ややかに見ていた。
 そして、やがて陶酔にあやされ極まったケンの声が耳を打った時、俺はこの上無い満足
感に浸りながらも、どっと押し寄せる自己嫌悪に苛まれていた。

「ジョウ・・・・」
 憔悴しきったケンの身体を傍らに、苦い思いでベッドを出た俺をケンが呼んだ。消え入
りそうに小さい声だったが、この背中を引き止めるには十分だった。俺は何か恐ろしいも
のでも見るようにして息を殺して振り返った。そして、そこにあった縋るような瞳に戸惑
った俺に、ケンはシーツから白い腕を伸ばした。近づくと身体を起こし、両手を俺の背中
に回して抱きしめた。
「ジョー、おまえだけだ・・・・」
 胸で震えるように呟いたケンの言葉に、その時、俺は少し救われた。

「明日は会えないな」
 腕時計の文字盤の上を這う秒針を飽きもせずに見ていたケンが、ぽつりと言った。
 車はハイウェイの入口で渋滞につかまっていた。
「ああ、暫くはアルベルトのお守りで忙しいんだ」
 やっと口を開いたケンに、俺は安堵の溜め息を隠して微笑って答えた。
「また祝賀会で飲みすぎるぜ。この前は酷かった」
「安心しろ、次も優勝するとは限らない」
「なにをご謙遜。今度のマシンには相当、金を注ぎ込んだんだろ?」
 ケンは数週間後に控えた“ピルグリム・11”の事を言っていた。
 ピルグリム・11は、国際フォーミュラー・1の栄誉をかけた世界的注目を浴びるレー
スだ。2年前、ピルグリム・7での優勝を最後にレーサーを引退した俺は、次の年からナ
ンブ・モータースのオーナーとしてこのレースに参加している。
「勝敗なんてものは、その時の運だ。どんなにマシンに金を使ったところで、レーサーの
ミス一つで全てが水の泡ってこともある」
「アルベルトの調整は完璧なんだろ」
「完璧なんてものはない」
「どうした?、今回、いやに慎重じゃないか。おまえらしくもない」
「俺はいつも慎重だ。だが、まあ、とりあえず祝賀会の準備は万端だ」
 入口を漸く流れ出した波に俺は車を乗せた。
「なんだ、やっぱり勝つつもりなんじゃないか」
 呆れた顔でケンが笑った。
「おまえも1度くらい顔を出せよ。知ってる奴もいるだろ」
「ああ、でも騒がしいのは苦手だ。それに、俺、アルベルトとは合わないんだ」
「なぜ?」
「さあ、たぶん理由なんてない」
 ケンは激しく肩で髪を躍らせながらサイドウィンドウを閉めた。時速120キロ、ハイ
ウエィを疾走(はし)り出した気分は爽快だった。
 俺はピルグリムのサーキットを思い浮かべた。ゴールを突っ切ったアルベルトのマシン
にチェッカーフラッグが翻った。

「じゃ、明後日の夜、ベニス・ビーチに行くよ」
 そう言って車を降りたケンの後ろ姿を、ハンドルの上に腕を組んで、俺はフロントガラ
ス越しに見送った。
 Tシャツとジーンズの軽装に、手首のテェムズだけが高価な気品を添えている。そのア
ンバランスが不思議とケンにはよく似合った。いつか誰だったか?『ケンの前ではどんな
高価な宝石も輝きを失う』とか、ほざいた奴がいた。そんな使い古された台詞でケンが落
とせるものかと、その時俺は思ったが、まさにその言葉通りだと今更ながらに感心する。
『あいつにかかれば、テェムズもTシャツとジーンズの引き立て役か・・・・』
 ケンは一度だけ俺を振り返ると通りを渡り、立ち並ぶ高層ビルの一角に姿を消した。
 俺は気に入らなかった。しかし、始めてしまった事を今更引っ込める訳にはいかなかっ
た。反って怪しまれ警戒されてしまう。
 ケンがユーリ・シド・シュヴァルツの懐に潜り込んでいるのなら、計画はそのままで続
行させねばなるまい。だが単独行動はさせられない。俺はケンにガードを受け持つと言い
聞かせた。ケンは渋々ながらも承知した。
 計画はごく簡単なものだった、ケンの身の危険を差し引けば。シドはアンダーワールド
との麻薬の取引に手を染めていたが、最近、敵対する組織同士で物の奪い合いが相次ぎ、
多大な損害を被っていた。ケンの役目はシドに敵側の組織の情報を流すことだ。上手い具
合に奴らの次の取引の日時と場所が割れていた。ICPOのスレッガー警部から、浮気の
現場写真をネタに俺が聞き出した情報だ。我ながらせこい真似をしていると思うが手段を
選んでいては事は進まない。我々は裏からその取引に介入する。
 ケンから話を聞いたシドは必ず物を横取りに現れるだろう。そこを一気に押さえようと
いう訳だ。勿論、敵側の“500万ドルの取引”の相手をするのはボスだ。
 組織を行き来するラットになりすましたケンは、派手に情報を売り過ぎて敵側の組織に
狙われていると偽り、上手くシドの配下に収まった。
『・・・ったく、どうやってせまったんだ』
 だいたい見当はついたが、敢えて俺は想像を控えた。そして、
「あいつ、最近、見境がねぇからな」
 ポロッと出た言葉に慌てて口を押さえる。
 いや...、これは決してそういう意味ではない。ではどういう意味か? 任務遂行には
手段を選ばないという意味だ。俺がスレッガー警部を揺すったように・・・・・。
 俺は脳裏に浮かんで出たケンに苦しい言い訳をした。

 薄い月がいつの間にか消えていた。
 俺はケンが消えた通りの向こうを見上げた。
 ファルコン・エンタープライズ。グランレッツに一際高く聳え立つ高層ビルのペントハ
ウスが、今日の“逢引の現場”だ。 


「マスター、ミルク。アイスを浮かして」
「どうしました、これはまた結構な二日酔いですな」
 カウンターで頭を抱えた俺に、ランディが熱いハンドタオルを出してよこした。
「昨日、チームの連中と・・・・」
 俺は言葉も切れ切れにテーブルに果てた。
「不真面目ですな。まだレースは終わっちゃいないんですよ。少しは仕事熱心な坊やを見
習って自重して下さい」
 タンブラーにミルクを注ぎアイスを放り込んだランディが言う。ラウンジはまだ営業時
間前で客はいない。モップを持ったボーイが一人、テーブルに灰皿を蒔いているだけだ。
「ふぇ、ボーヤだぁ。何に熱心なんだか?」
 俺は気にいらなかった。
 明後日と言っておきながらケンは現れなかった。その次は明日、その次は3日後と約束
しておきながら平気ですっぽかした。その度に正体がばれたのではないかと、俺は肝を冷
やさなければならなかった。
 ガードと言っても四六時中見張っている訳にはいかない。ケンから特別な要請がない限
り、大抵は扉の前でお払い箱だ。それでも俺はしつこく言って発信機だけは持たせるよう
にした。まるで鈴の付いた猫の首輪だとケンは渋ったが、金のプレートに仕組んだ超小型
の高性能機だ。それを金鎖に吊して首にぶら下げてやった。勿論、プレートも金鎖も俺の
自前だ。ところがこれも“TPO”に応じてケンは切ってしまう。盗聴機も兼ねているせ
いだ。これではガードの役目は果たせない。
「俺が熱心に仕事しちゃ悪いのか」
 不意に頭上からケンの声。珍しく約束通りの時間。しかし・・・、
 どうしていつもこう悪いタイミングで現れるんだ!
 俺はタオルを額に言葉に詰まった。
「ジョーは心配症なんですよ。でも、なかなか素直に言えない気持ちを察してあげてくだ
さい」
 ランディが救済の手を差し伸べてくれた。どんな時でも頼りになる奴だ。ところが、
「女相手になら“愛してる”なんて言葉もスラスラ吐くくせに」
 ちょっと待て!。いつ何処でそんな場面を目撃したんだ!・・・・。俺はミルクを手に
真っ赤になった。それを見てピクピクと肩を震わせながら「それは、そうですな」と、ラ
ンディまでもが寝返ったように頷く。前言撤回、まったく、頼りにならない奴だ。
「で・・・? ケン。上手く運んでるのか? ちっとも連絡を入れないで」
 ミルクの入ったグラスをコースターに戻しながら俺は尋ねた。甚だ様にならない図だ。
「シドとの話は全部飛ばしているだろ」
 ケンは俺の横で頬杖を付いて、クリスタルの小皿にのったナッツを摘んだ。
「全部じゃないだろ」
 俺は意地悪く言ってやった。
「仕方ないだろ」
 ケンはプイと横を向いた。
「俺だってTPOぐらい弁えているつもりだ。だが、それに乗じて俺に秘密でシドから何
を聞き出してる?」
「ベッドでそんな余裕があるかよ」
 ミモザのグラスを唇に運びながら、ケンは言った。
 ランディが『ほう?』を片方、眉を吊り上る。
「そりゃ、また。シドはそんなに上手なのか?」
「ああ、おまえなんかとは比べものにならないさ」
 ・・・・何だと!!
 乗せられているのは十分解っていた。ケンはそうして俺の質問を躱わそうとしているの
だ。解ってはいたが・・・・、
「言ってくれるじゃないか。いつもは俺に抱かれて、あられもなくヨガッてるくせに」
 流し目でニヤリと笑って俺は反撃に出た。
「バ、バカ! ジョー・・・・」
 ランディの前で・・・・。と、ケンが真っ赤になった。俺を責める唇がワナワナと震え
て、なかなかいい眺めだ。
「坊やを苛めると少年法違反で捕まりますぞ」
 グラスを磨いていたランディが『コホン』と、咳払いと共に言った。
「同意の上なら違法行為じゃないさ、そうだろ」
 無論、ケンに少年法が適用されはしないのだが、そう言って赤くなった顔を覗き込むと、
ケンは露骨にソッポを向いた。俺はその頭をクシャクシャと撫でて抱き寄せた。
 ふくれっ面の頬に唇を近づけると、ケンの目がランディを気にして『やめろよ!』と訴
える。俺は構わずに接吻ける。頬に、そして唇に。
 拒みながらも応えて来るケンの反応を受け止めながら、俺の手はシャツの中に這い入っ
た。さすがに驚いてケンが抵抗する。だが、その手を制して俺はケンを睨みつけた。
 ランディの姿は、とっくにカウンターから消えていた。
 ケンは俺の態度が一変したのに気づいて身を強張らせた。捕まれた手首に力を込め引き
剥がしにかかる。
「離せよ」
「いやだ」
「ジョー!!」
「少しは! 少しは俺を信用したらどうだ」
 尚も強く俺はケンの身体を束縛し自由を奪った。
 対峙した瞳が一瞬、驚愕に震えた。
 だが、ゆっくりと睫を伏せた次の瞬間、完璧な微笑を湛えて俺を見た。
「信用してるさ、ジョー。俺がおまえを信用しないで、いったい誰を信用するんだ」
 鮮やかな防御だった。俺は溜め息と共にゆっくりと首を振った。
 降参だ。情けないが手も足も出ない。
 俺はケンから腕を解くと、テーブルにあったウイスキーのスクェアボトルから、氷の解
けてしまったグラスにストレートを注いだ。
 畜生・・・、ケンの心を掴み切れない自分が恨めしかった。ケンの心を奪えない自分が
悔しかった。ケンの心を・・・・、
「愛しているよ」
 不意に唇をよせて囁く美声。
 どっぷりと深海の底まで沈んだ俺の気持ちもおかまいなしに、ケンの残酷な微笑が手向
けられる。
 ・・・・・勝手にほざいてろ!
 舌を焼く熱い琥珀の液体を一気に喉に流し込んで、俺は一人でグラスを煽った。


 翌朝、三日越しの二日酔いに苛まれて、俺はベッドを出ることが出来なかった。それで
も午後からのモータースの会議には出るつもりだったので、いつまでも枕に突っ伏してい
る訳にはいかなかった。ブランッケトからもぞもぞと腕を伸ばし、ベッドサイドで点けっ
ぱなしだったナイトランプを消すと、手首にあった時計がツツツッと小さくアラームを鳴
らした。時刻は午前10時。会議には12時にここを出れば十分間に合うが、ブランチを
取る気にはとてもなれない。しかし・・・・、俺はもう一度枕にドカッと顔を埋めてから
一気にベッドから跳ね起きた。ローブを羽織りサニタリーボードの鏡に映った土色の情け
ない顔を鼻で笑ってやってから、バスルームのドアを開けた。

「夜遊びが過ぎたのかね?」
 会議の最中、何度も欠伸をしていた俺を見ていたのか、久し振りにモータースに現れた
コウサブロウ・ナンブが言った。
「すみません・・・・、あ、いや、夜遊びは誤解です」
 慌てて俺は言葉を訂正した。レースが近いと言え定例のこんな会議に彼が出席するのは
初めてのことだった。よりにもよってこんな日に・・・・と、俺は今日の不運を呪ったが
彼に目的があったことは夕食に誘われたことで直ぐに解った。ケンに散々お強請りをされ
ている彼にしてみれば、仕事の進み具合が気になるのは当然のことだ。しかし、こうして
わざわざ俺の方を訪ねて来るのは、リーダーとしての立場を尊重してくれてのことだろ、
さすがに人の扱い方は手慣れたものだ。
「取引の日は予定通りだね、準備は整っているよ。安心したまえ」
 一通りの報告を受けた後、彼は言った。『安心したまえ』と。その帝王然とした響きが
今日はやけに耳障りに聞こえて不愉快だった。

 食の進まぬ夕食を終え、ボディガード付きの彼のリムジンを見送った後、俺の足はベニ
ス・ビーチに向かっていた。車は置いて来たがここから然程遠い距離ではなかったので、
「送ろうか」と言う彼の申し出を俺は丁重に断わった。
 メインストリートを南に逸れて暫く歩くと、オイル灯を真似た洒落た街路灯が立ち並ぶ。
アスファルトから石畳に変わった道には歩道と車道の境はなく、俄か雨でも降ったのか茶
色や灰色の敷石の上に溜まった水に、金色の光の輪が其処此処に跳ねている。その前方約
20メートル、見慣れた電話ボックスを過ぎると目的のビルが見える。

「今夜は一人かい?」
 カウンターにとまったジェシーに、今日は俺がそう言って尋ねる。
 いつものようにレッド・パッションを味わいながら、肩越しに俺を見つけて彼女は笑う。
耳元で光る小粒の真珠が可愛らしい。
「貴方を待ってたの、会える予感がして」
 イヤリングと同じ色のパールピンクのルージュを乗せた小さめの唇が、微笑を含んで答
える。
「予感?」
 スツールに掛けながら聞き返す俺に、しかし、彼女は悪戯がばれた子供のように首を竦
めた。そして「待ちぶせよ」と白状した。ランディがカウンターに出ていたので必ず俺が
来ると踏んだのだと言う。どうやら俺は張られているらしい。
「私、貴方のことが色々と知りたいの」
「何の為に。素行調査かい?」
「興味があるって言ったでしょ。想像力をね、掻き立てられるのよ。」
「どんな?」
「ハードボイルドな」
 彼女の好奇心な瞳はなかなか魅力的だ。
「俺は殺し屋でも、スパイでもないぜ」
 煽ってみれば更に輝きを増す。
「そうよ、もっと危険な匂いがするわ。聞いたわよ、ナンブ・モータースのオーナーです
って? でも、その実態は・・・・」
「実態は?」
「黒いマントを羽織って満月の夜に現れる大怪盗!」
 思わず俺は吹き出した。それは素敵だ。俺の手に掛かれば盗めない物はないって訳だ。
大金庫に眠る金塊も、古城の財宝も、最後の晩餐の銀の杯も。しかし、満月の夜に現れる
ってのは狼男じゃなかったか?
「鋭い推理だな」
「狼男ってことろが?」
「喰っちまうぞ!!」
「キャー!!」
 襲い掛かった俺の腕にしがみついてジェシーは声を上げて笑った。
 不愉快な気分が幾らか晴れて、俺の積もり積もったフラストレーションを何処かに追い
やってくれる。
「ねえ、取引しましょう。貴方の正体を黙っている代わりに1つ盗んで欲しい物がある
の」
「何?」
 俺が顔を近づけると、イヤリングと揃いの小さな真珠を1つだけあしらったネックレス
を付けた胸元に手をあてて、彼女が言う。
「乙女の心」
「それじゃ、今夜忍び込む場所を教えてくれ」
 それが本気であれ冗談であれ、今の俺には十分に楽しい取引だった。少なくとも後に控
えた500万ドルの取引よりは遥かに・・・・、
「駄目よ!! 大怪盗なら、それくらい自分で調べなさい」
 彼女の好奇心な瞳が輝いていた。大怪盗の腕前を試そうと言うのか。面白い、受けて立
とうじゃないか。
「尾行はだめよ。それじゃ探偵だわ」
「そんなことはしない。狼の臭覚で探り当てる」
「じゃあ、扉にガーリックを吊しておくわ」
 彼女は少し興奮気味に声を高らげて楽しそうに喋ったが、いつの間にか俺は狼男ばかり
かドラキュラにまでされてしまっていた。
「ちぇー、期待させやがって」
 巫山戯て口にした言葉に彼女の悪戯っぽい唇が笑った。俺の細やかな落胆を見抜いて。
その不思議と心和む宴に、俺は今暫くケンのこともナンブのことも忘れることにした。


 その日、ケンはいつまで経ってもペントハウスから出て来なかった。発信機も切られた
ままだった。俺は様子を見に行くべきかと随分迷ったが結局夜明け近くまで、車の中でま
んじりともしない時間を過ごした。煙草のボックスは2つ、とっくに空になっていた。
 フロントガラスの向こうに残っていた赤い星もやがて姿を消した。そして薄っすらと東
の空が白みかけた頃、俺はついに決心してドアロックに手を掛けた。
 折しも、ジュン達のことでごねたケンと激しくやりあった翌日のことだった。

 それなら勝手にしろ!!・・・・。ケンを挑発してしまった自分の言葉が、後悔となっ
て蘇る。
 昨夜、例のごとくベニス・ビーチで今後の筋書きを話し合う傍ら、俺は相変わらずジュ
ン達の協力を拒んでいるケンを、どうにかして説得しようと骨を折った。
 しかし、ケンは手強くどう宥めすかしても首を縦には振らなかった。この仕事から手を
引いた者を巻き込みたくないというのがケンの言い分だった。『おまえは仲間より、ボス
の命令の方が大事なのか』見損なったとばかりに俺を詰り、『ジュン達の協力などなくて
も、俺は立派に任務を遂行してみせるさ。何なら、おまえも外したって構わない』とまで
言い切った。頭に来た俺は『それなら勝手にしろ!』こっちも好きにするさ。と強引に突
っ撥ねた。
 生憎こんな時の仲裁役のランディは情報を取りに出ていて、止める者がいないのをいい
ことに俺とケンは言いたい放題やり合った。
 グラスがテーブルから転げ落ちて、酒と一緒に床に弾け飛んだ。踵を返し、席を離れる
ケンを俺は追わなかった。

『畜生、あてつけかよ』思いながらも、身体は不安に駆られた。
 昨日はあれきり俺のところへは戻って来なかったが、ケンがここに来たことは解ってい
た。このところシドの元へ頻繁に組織の連中が出入りしているらしいのだ。ケンはその内
容を知りたがっていた。
 身勝手な行動がどれ程チームの連帯を乱すか、それは昔よく、おまえが口にしたことじ
ゃないか・・・・。小さく舌打ちしてドアを開けると、早朝のひんやりとした空気が頬に
触れた。見上げるファルコン・エンタープライズビルの一際空に突き出たスパイアの先が、
昇り始めた朝日を受けて輝いている。と、その時、コントロールパネルで小さく赤い点滅
が起こった。ツーとか細い着信音と共に、ボソボソと人の声が聞こえてきた。
 ・・・・帰るのか?
 ・・・・ああ、今日は約束があるから。
 ・・・・つれない奴だな、
 やっと、ケンが発信機のスイッチを入れたのだ。
 胸からほっと安堵の溜め息が漏れ出た。だが、同時に無性に腹が立ってきた。あたりま
えだ、こんな仕打ちを受けて頭にこない奴などいるものか。俺は俺に同情した。


 1週間が過ぎた・・・・。
「どうしました。今日は2人とも黙ったままで」
 事情を知らないランディが、いつものようにグラスを磨きながら、怪訝そうに俺たちを
見た。
「何でもないさ。話すことがないって時もある」
 俺が言うと隣でコースターを弄んでいたケンが「ブランデー」と、素っ気ない調子で酒
を注文する。
 ランディが背後のラックからマーテルのボトルを取ってグラスに注ぐ、俺の時にはスト
レートで渡すが、ケンにはクラッカーを付けたシングルの水割りだ。
「そのマルメロのジャムは旨いですよ」
 彼はクラッカーに乗せた綺麗な色をしたジャムを自慢した。どうやらお手製らしい。 
サクッと軽い音を立てて、ケンがそれを口にする。
「いけるよ」
 と、これも素っ気ない。もう少し言い様があるだろう、女相手じゃ反感食うぞ、と思い
ながらもケチを付けないところを見ると、本当に旨いのだろう。横から1枚摘んでみる。
トロリと甘ったるい酸味とほろ苦さが口の中にジワッと広がった。
「ジョーの口には合いませんかな?」
 甘いものが苦手な俺がケンにつられてつい手を伸ばしてしまったのを見て、ランディが
可笑しそうに笑いながら言う。
「いや・・・・、旨いよ」
 俄かにグラスを掴んで薄くなりかけたバーボンを流し込む。俺は女の前では絶対にジャ
ムは口にしないと誓った。ランディがまたクスクスと髭を震わせた。
「ところで、ミス・シラトリ達は、いつこっちへ来るんです?」
 2杯目を注いでくれていたランディが尋ねた。チラリと俺は視線だけでケンを伺い、今
月中にはリュウ共々揃う手筈になっている旨を答えた。
 このところ、ケンはもうジュン達のことで俺に文句を言わなくなった。諦めたのだろう
か? 少々訝しい気もしたが、大方ボスに捩伏せられたのだろう。ケンもボスには逆らえ
ない。
「私は初めてお目にかかりますが、噂ではミス・シラトリは大層な美人だそうですな」 
少し雰囲気を察したのか、話の矛先を変えてランディが言う。
 ランディはジュン達とは面識がない。軍を退役し私設のシークレットサービスで身を窶
していた彼が、ナンブの部下となったのがちょうど半年前、ISOの俺たちのチームが解
散し、ケン、ジュン、リュウ、俺を含む4人が、それぞれに新しい選択を迫られたのは2
年前だ。
「ああ、確かに美人だが・・・・」
 しかし、途中まで言って俺は言葉を濁した。『あの気の強さは扱いかねる』と、ケンが
いなければ口にしていただろうが・・・・。これは大人の話だ。まだまだ素直?な、ケン
が聞けば、ジュンにまで手を出したのかと、きっと誤解されるに違いない。
「好みのタイプじゃありませんかな?」
 と、言う訳でもないが、そういうことにしておこう。俺はチームを組む相手とは恋愛関
係を成立させないことにしている。例外もあるが・・・・・。
「きっかり2年振りだな。懐かしいだろう、ジョー」
 嫌味ったらしくケンが言った。

 2年前・・・・・、それまでの任務の報酬と口止め料を兼ねた巨額な金と引き換えに、
ISOが俺たちを解雇した後、ジュンとリュウはここを離れ、それぞれが見知らぬ土地で
新しい市民権と生活を得た。しかし、ケンと俺にその役は回って来なかった。ボスの直属
の部下として、ナンブグループのシークレット・エリアに俺たちのポストが用意されてい
た。勿論、強制ではなかったが、それに近い感はあった。第一、ボスの頼みをケンが拒め
る訳がなかった。その付き合いでここに残った俺だが、俺にはナンブ・モータースの魅力
は大きかった。それにこういう仕事が俺には性に合っている。今の境遇には満足している
のだが、ケンにとってはどうなのかは解らない。察するに、嫌ってはいるだろうが離れら
れないといったところだろうか。しかし、それを本人は気づいていない。ケンはこの仕事
に、いや、“戦い”というものに、ぞっこん惚れ込んでいる自分を嫌悪する余り、全てを
ナンブのせいにして、ボスを厭悪し憎むことで、自分自身に投げ掛けられる非難の声を、
ごまかしているのかも知れない。今回、ジュン達の応援を要請したのはボスだが、2人の
本格的な復帰を望む声はエリア内で多い。優秀な人材はどんなことをしても手に入れたい
というのが現状なのだ。もしかすると、これを機にランディを含めた俺たちのチームが復
活するかも知れない。ケンは反対するだろうが・・・・・。
「では、再会を祝して、彼女の為にカクテルを新作しましょう」
 ランディが申し出た。
「それなら“エメラルドの湖”だ」
 俺はジュンの大きな緑色の瞳を思い浮かべて言った。
「俗っぽい」
 と、ケンがふて腐れた。

 次の1週間、俺は武器と必需品の調達に忙殺された。なにしろ、今まで殆どコンピュー
ター相手の情報収集だけで、活動という活動をしていなかったシークレット・エリアでは、
武器らしい武器も揃ってはいなかった。発足してからの準備期間が長かった割には備品も
人材も十分とはいえない。それでも資金だけはたんまりとある。バズーカ砲、マシンガン、
装甲車までより取りみどりだ。
「楽しそうだな」
 またケンの嫌味だ。俺は知らん振りを決め込んだ。分厚いカタログをパラパラと捲りな
がら灰皿の煙草に手を伸ばす。ふと目に付いたAR−7エクスプローラー・カービン、こ
の間ジェシーと飲んでいた時に話題に上った銃だが、あの時指摘した欠陥が修復されてい
る。俺は自分の鑑識が正しかったことに満足して、そのページにブックマークを挟んだ。
 細い銀色のクリップが、急に差し込んだ窓からの強い西日にキラリと光を反射する。カ
ーテンを引きにデスクを離れると、足元を白いふわふわとした綿毛の仔猫がじゃれついて
来た。それを踏まぬようにテラスまで寄ると、広い庭の並木の向こうに、まだ白日冷めや
らぬ太陽が白々と顔を覗かせていた。
 シークレット・エリアの本拠地は、グランレッツにあるモータース本社の地下にあるが、
俺たちが日頃仕事場に使っているのは、郊外にあるボスのオフィスを兼ねた別宅だ。ケン
のアリスはここに設置された端末で、本来の仕事をこなす傍ら、セキュリティー、ライフ
システム、ガーデン管理から、坊やのお守りまでやってのける働き者だ。おかげで本部に
出向かなくとも何不自由なく仕事をこなせるという訳だ。最も、戦闘開始となればそうも
いかないが・・・・。
「冷房、少し強めるか?」
 ソファで寝そべっていたケンが、読んでいたグラビア誌をテーブルに投げて立ち上がっ
た。半袖のTシャツからすらりと伸びた撓やかな腕が、首筋に幾筋か絡みついている長い
髪を払い上げる。「ああ」と気のない返事をしながらも、僅かに覗いたしっとり汗の浮い
た白い項に、淫らで艶かしい感覚を覚える。そんな俺の頭を冷やすように、送風口から吹
き降りる冷たい空気が足元から部屋を満たし始めた。その中を仔猫がぴょんぴょん跳ねて、
ソファに戻ったケンの懐に潜り込む。真っ白な綿毛の頭を撫でてやりながら、ケンは又グ
ラビア誌を開いている。
 ・・・・ったく、仕事をしろよ。
 何が気に入らないのか、今日は朝からアリスとも口を利いていないようだ。『シドの所
へ行くしか能がないのかよ』とは、口が裂けても言えないが、夕べはそのシドとの逢引も
すっぽかして行方をくらました。何処へ出かけたのか聞きはしなかったが、日付が変わる
前に電話を入れると家にいたので、どうやら悪い遊びを覚えた訳ではなさそうだ。
「なあ、ケン。これが終わったらナンブを出るか?」
 閉じたカタログの上に肘を付き、短くなった煙草を灰皿に押しつけて俺は言った。
 突然の問い掛けにグラビアから上げた瞳が大きく見開らかれた。だが俺にとっては唐突
に口に出た言葉ではなかった。
「なにを、何を言い出すかと思えば・・・・」
 ケンは少し笑って首を横に振った。そして、俺の視線を振り払うように顔を背けた。
「金ならあるんだ、仕事なんかしなくたって、なあ、ケン・・・」
 少しの沈黙があった。
 ケンの形よく伸びた指が、またブラビアを捲り始める。だが、視線はその上にはない。
「じゃあ、何をするんだ・・・・。それに、博士を置いてはいけない」
 言い訳のような、それが答えだった。解りきったことをわざわざ聞き出しておきながら、
俺は暗澹たる思いに胸を重くしなければならなかった。


 翌日、俺はケンをシドの所まで送った。そして時間通りにペントハウスから出て来たと
ころを又車に乗せ家まで送る。
 幾度この過程を繰り返しただろうか? とうとうシビレを切らして俺はケンに言った。
「そろそろ餌を蒔きにかかったらどうだ。もうファルコンの内情は十分掴んだだろ」
「ああ、取引の日も迫って来てるし、頃合いかな」
 言いながらもケンは、まだ物足りなさそうに爪を噛んだ。
「いったい、何を探ってる。もういい加減に隠し事はやめろよ」
 サイドウィンドウから吹き込む風に髪を煽られていたケンが、ハンドルを握りながら溜
め息交じりに言う俺を見る。
「奴ら、ガルシアのシマを荒らしにかかってるんだ。少しでも情報が取れれば、俺たちの
方も楽になる」
 先日、ジェイソン・プライス・カンパニーのオフィスが襲撃を受けた。ガルシアの傘下
だ。それがシドの仕業だったということか?
 別に隠していた訳じゃない、とケンは言った。
 ・・・・フン、どうせ意地を張ってただけなんだろうよ。と俺には解ったが、せっかく
素直になったケンに、また臍を曲げられては困るので、ここはグッと堪えて我慢する。
 ケンにしてみればジュン達と行動を共にする前に、出来るだけ事を進めておきたかった
のだろう。計画が長引けば長引く程、回避せねばならない危険は多くなるのだ。
「だが、感づかれちゃもともこもないぜ」
「解ってるさ」
 ケンはウインドゥを閉めシートからズッと背中を摺り下ろすと、腕を腰の下に伸ばし1
段だけリクライニングレバーを引いた。風が止んだ室内でケンは少し疲れたで様子で目を
閉じた。前方でシグナルが赤に変わりかけている、俺はアクセルを踏み込み突っ切った。
見る間に後続車との距離がひらいて行く。
「引け時だな」
 眠ったかと思っていたケンがぽつりと言った。次のシグナルで捕まった。
「焦ることはない、俺たちは上手くやるさ。いつもそうだったじゃないか」
「次もそうだとは限らない、そう言ったのは誰だった?」
 青い瞳が少し笑ったように俺を見た。優しい眼差しだ。俺はこんな時のケンが好きだ。
「だが、俺はアルベルトが敗れるとは信じちゃいないんだ」
「勝手だな」
 腕を組んだまま目を閉じるケンの頬にキスを一つ。交差点を渡る人並みが疎らなのを見
て、今度は唇に・・・・。後ろからクラクションが鳴る。シグナルは青に変わっていた。
慌ててハンドルを握る俺の気配に、瞳を閉じたままのケンが唇を震わせて笑った。

 アッパーエリアを抜け、郊外に出ると微かだが波の音が聞こえる。海が近いのだ。少し
だけサイドウィンドウを開け、風を入れる。潮の香りはまだしない。ラジオを止め、波の
音だけを招き入れる。ザザー、ザザーと寄せては返す単調なリズムが心地好い。
「眠ったのか?。」
 問いかけるが答えはない。
 ザザー、ザザー、寄せては返すララバイ、
 海が子守唄を歌っている。

                           5

 雲行きが怪しかった空に、とうとうポツリポツリと来始めた時、上着のポケットの中の
携帯電話が、やけに大きくバイブレイションを起こした。
 ランディの報告を受けて直ぐ、俺はハイウェイを車線変更し、車をベニス・ビーチに急
がせていた。ケンが意識不明で運び込まれたと言うからだ。昨日から発信機が切れたまま
だったので気にはなっていたが、いつものことだと高を括っていたのが間違いだった。
『だから、言わんこっちゃない!』
 俺はアクセルをギリギリまで踏み込みながら毒づいた。
 200キロは軽く出ているにも拘らず、ハイウェイを降りるまでの時間は酷く永かった。
1つ2つ、ドライブインを過ぎた。やっとシティへ出る標識が後ろへ流れた。

「マスターが知らせたのか? まったく、お節介だな」
 ベニス・ビーチのバックエリアにあるランディのセカンドハウス。エレベーターを待つ
のももどかしく20階までの非常階段を駆け上って来た俺に、ケンが言った。
「何を仰る、真っ青な顔をして意識もないまま運ばれて来たのは何方でしたかな」
「もう、直ったよ」
 ソファに伏していた身体を半分起こして、肘掛けに置いたクッションに背中を預けたケ
ンは口を尖がらせたが、ランディが言うようにブルネットの乱れた額にはまだ冷汗が浮い
ていて、顔色は青ざめていた。おまけに腕にはたいそうしっかりと包帯が巻かれていた。
「・・・・大丈夫なのか?」
「心配する程のことじゃない・・・・、ああ、これは掠り傷」
 ケンは何ともないというように包帯の巻かれた腕を持ち上げて見せたが、痛みが襲った
のだろう屋庭に顔を顰かめた。
「45口径ですよ、その傷痕は。それに、酷い薬酔い。レイディが見つけてくれなければ
今頃はポリスコールされて、面倒なことになっていたかも知れませんぞ。おおかた道路に
でもぶっ倒れていたでしょうから」
 クローゼットから薄いブランケットを持って来て、ケンの肩に掛けてやったランディが
溜め息を付く。『本当に、悪さの過ぎる坊やだ』とでも言うように。
「ジェシーが?」
「大丈夫さ、唯の不良少年のリンチ事件だと思うさ」
 俺が聞き返すのを遮るようにしてケンが言う。
「バカ野郎! マグナムぶっ放してんだぞ!」
 思わず出てしまった怒鳴り声に、ケンはソファの上で膝を抱えて小さくなった。
「で? 何があった?」
 思い切り睨みを利かせて傍らに膝を付き、俺はケンを覗き込んだ。この後に及んでまた
押し黙る気なら1発ぶん殴る覚悟で。
「シドの奴、土壇場になって俺を疑い出したんだ。発信機も見つかっちまって、しっかり
痛めつけられたよ。挙句の果てに自白剤を打って喋らせようとしたから、敵側のスパイだ
って白状してやったんだ」
「それで、奴ら食いついて来そうか?」
「ああ、例の取引の場所と時間をしっかり喋ってやったよ。計画通りさ、あいつ等横取り
しに、必ず出て来る」
 ケンはそつなく計画を進めていた。ただガルシアとの件が掴み切れなかったのが残念そ
うだったが、俺はひとまず無事にコマが進んだことを神に感謝した。
「・・・・と、それではジョー。後は任せましたよ。私は仕事がありますので」
 カーペットの上に座り込み、汚れたコットンを始末し包帯やら傷薬やらを救急箱にきれ
いに整頓しながら詰め込んでいたランディが、徐に腰を上げた。
「ああ、解った。すまなかったな」
 上着を手にしたのを見て軽く右手を上げて了解する。新しく雇った不慣れなバーテンダ
ーが気になるのか、ランディは最近、頻繁にカウンターに顔を出していた。
「ケン、今日はここに泊まっていきなさい。ジョーも一緒に、私は家に帰るから」
 そう言ってドアの所で足を止め、暗くなりかけた部屋に照明を付けてからランディは出
て行った。
 実は彼には妻子があって帰る立派な家もあるのだ。それを羨ましいとは思わないが、尊
敬には値する。俺にはとても出来ない真似だ。ふと、大きな溜め息が出た。と同時に一気
に襲った脱力感にソファの横にどっかり腰を下ろしていた。
「大丈夫か、ジョー」
 俄かに心配気なケンの瞳。
 ・・・・おまえに心配されてちゃ世話ねぇよ。
 マットの端に頭を預けるとケンの手が髪に触れてくる。ブラインドを上げた長方形の窓
の向こうが、真っ白な煙雨に覆われているのを見ながら、これではラウンジへの客足は鈍
るだろう・・・・、などと考えていると頭上で小さなケンの吐息が漏れた。
「どうした?」
「何でも」
「辛いんなら、横になっていろ」
 ブランケットを被り直したケンは頷くと、クッションをずらして枕にし、ソファに横た
わった。凭れ掛かった俺の横に間直に顔が近づいて、そっと唇に触れる。
 甘いキスの感触に、俺はうっとりと目を閉じる。
 窓の外、二重になったガラスを叩く雨音が聞こえてきそうな程、いっそう激しく降り出
した雨が、室内と外界とを遮断し、まるでここにだけに世界を存在させているような、恐
ろしくも甘美な錯覚を与える。
「なぁ、ジョー。レイディって、ノヴェリストだぜ。知ってたか?」
「いや、本当に?。調べたのか?」
「少しね、あんまりおまえに興味を示すものだから」
「ひょっとして、妬いていてくれたのか?」
「冗談、調査だ」
 少し気怠るい声。ブランケットを肩まで引き上げて、ケンは俺から顔を離した。そして、
クッションに埋もれるようにして伏せ、用意していた言葉を告げる。
「これ以上、彼女を接近させると巻き添えを食わせる」
「ああ、解った。でも、最初に誘ったのはおまえだぜ」
 立ち上げり、ソファの背に手を掛けて身を屈ませ、まだ顔色の戻らない額に乱れた髪を
整えてやると、瞑っていた目を薄っすら開けて青い瞳が覗く。
「頭からっぽのグラマラスより、おまえに似合うと思ったんだ」
 100%真顔でケンが答える。
 一瞬言葉に詰まった俺の頭の血が、カッと網膜の裏で逆流した。 
「あーそうかよ。随分とお節介だったんだな。おまえって、見かけによらず!!」
 さっきのキスに少なからず浸った自分が愚かだった。いつもこの調子でしてやられる。
ムードも何もあったものじゃない。こんな奴にどうして俺は惚れちまってるんだろう?
目眩がする・・・・、頭痛がする。二日酔いでもないはずの身体を、ソファの背で支え
て辛うじて俺は身体の均衡を保っていた。

 3日後の朝、“ピルグリム・11、ナンブ・モータース圧勝!!”のニュースがリビン
グテーブルの上に広げたニューズペーパーの第一面を華々しく飾るのを、モーニングコー
ヒーを啜りながら眺めた俺は満足だった。
 ・・・・思い残すことはねぇな、
 何気なく呟くと胸の奥がジンと熱くなった。飲み干したカップをソーサーに戻すと、訳
の解らぬ溜め息が出た。
 昨日、と言っても今日になるのだが、12時を回ったシンデレラと俺は別れて来た。
 “別れた”などと言っては語弊があるかも知れないが、この先もう会わないとなると、
やはりあれは別れの場面になるのだろう。
 夜の海は真っ黒でロマンティックなどという雰囲気には程遠かったが、それでも所々に
立った常夜灯の灯りの中に現れる波打ち際に、2人の影が寄り添っていた。
 ジェシーはいつもと変わらなかった、俺もいつもと変わらぬ風を装った。しかし、別れ
を敏感に感じ取ってしまう人間というのはいるものなのだ。子供が周囲の動向に過敏に反
応するのと同じ感受性を、今も持ち合わせているのだ。
 感受性は想像力の源だと言う、彼女はノヴェリストだ、少し夢を見すぎる。だから、俺
もまた彼女の夢の一部だったに過ぎない。彼女は俺に魅かれていたのだろうか? 俺は彼
女に魅かれていた。彼女の少し寂しがりやなところに。ロマンチストなのは彼女だったろ
うか? それとも俺の方?・・・・、

 ニューズペーパーの下で電話が鳴った。受話器を取ると忙しそうなオフィスの喧噪が伝
わってくる。クラーク達に混じってアルベルトの声も聞こえる。どうやらピットクルーだ
ったエンジニアの不手際を叱咤している様子だ。彼にとってはこの優勝タイムも不服らし
かった。多少傲慢だが有望なレーサーだ。モータースにとっては頼もしい人材である。
『午後からの会議、予定通り出席出来ます? 夜に回しましょうか?』
 電話の声は秘書を務めてくれているミセス・テュレル。昨日の祝賀会で飲み過ぎた俺の
身体を心配しての言葉だ。きっと電話は寝室のベッドサイドに繋がったと思っているに違
いない。実に有能な秘書である。
「予定通りで結構だ、今から出るよ」
 俺の言葉に電話口の彼女の驚いた表情が目に浮かぶ。『解りました』とだけ慌てて返事
をした声に苦笑する。
「さあてと!」
 気合いを入れてリビングを出る。部屋に戻ってクローゼットを開き、新調したばかりの
スーツに腕を通す。コロンの蓋を取って手首に振り、カフスボタンをはめる。馴染んだ柑
橘系の芳香が漂う中、ネクタイを絞めて鏡に映る道化た姿を鼻で笑ってやってから、デス
クの上のキィを握って俺は部屋を後にした。モータースの最後の仕事が残っていた。

                           6

 視界を遮るものもなく真っ青に晴れ渡った空が、遥か水平線の彼方で海と溶け合ってい
た。波もなく穏やかな海原に時折縺れるように戯れるカモメたちの、境目のない真っ青な
空間に映る白いコントラストが美しい。
 市街地から僅か30分だと言うのにここはまるで別世界だ。浜で遊ぶ子供らの声すらも
この辺りではもう聞こえない。波の音だけが静かに耳に打ち寄せて来るばかりだ。
 グランレッツ郊外から続く海岸地帯約2000エーカーは、もともとは都会から数分と
いう恰好の立地条件を備えたリゾート地として賑わうはずだった場所を、ナンブ・コンツ
ェルンが市の開発局から巨額の金を積んで買い上げたものだ。その影ではかなりな非合法
な手段が取られたようだが、私有地として有した500エーカー程を除き、後は道路を付
け、車を走らせること自体憚れるような手付かずの自然が残されたことは、世界的な自然
保護を活動の目的とするブルーノア・プロジェクトのメンバーとしての力を、世間に知ら
しめた一大事件として今も有名だ。
 行き交う人も車もない道路を一直線に進むと、ガードレールの脇に、この先が私有地で
あることを示す小さな標識が目の端を過ぎる。尚も同じ調子で伸びる道路を行くと、前方
にまるでザックリと削り取られたように切り立った岩壁が聳え立つ。
 手前で車を止め、巨大な影の中にある小さなガレージのオートロックを開ける。中には
既に1台、先客のNX−I2000が磨き抜かれたブラックボディで睨みを利かせていた。
 NX−I2000は、我がモータースが先頃発表したニューモデルのトライアルタイプだが、
フル装備、遊び心満載のそれをケンが気に入ったと言って使っているのだ。
 滅多に自分で運転することもないのに、マニアックなところだけは一人前だと思いなが
ら、俺はナビシートに乗せて来たバスケットを手に車を降りた。ガレージを出て膝までも
ない、か細い灌木の僅かに生えた岩場を削った階段を登ると、海原に突き出るようにして
ある岩盤の上に赤い屋根の家が見える。ここは夏の間だけを過ごす数多くあるボスの別荘
の1つだ。

 思いの外簡素な門扉を開けると、直ぐそこにサマーフラワーの鉢植えを飾った玄関があ
る。ピンクや黄色の花びらが漣の音を聞きながら、ゆらりゆらりと潮風に揺れているのは
何とも長閑な感じだが、門柱や扉の飾りに隠れてセキュリティシステムの目が光っている
のは言うまでもない。
 俺は素知らぬ素振りで玄関に近づきノブに手を掛けた。カチャリとロックの外れる音が
してドアが開いた。どうやらこの家は俺の顔を見忘れてはいなかったようだ。後ろ手にそ
れを閉めるとまた同じ音がしてドアがロックされた。
「ケン」
 居るはずのケンを呼ぶ。だが玄関を過ぎ、居間を通り抜けた所でも、書斎の前でも返事
はない。寝室を覗いても、テラスを見ても姿はない。俺は一番奥の客間のドアを開けた。
途端に提げていたバスケットの止め具が外れ、びっくり箱が開いたように中から勢いよく
飛び出した猫が、ゆったりとしたスペースに設えられたリビングのセンターテーブルの下
を走り抜け、開け放たれた奥のドアの向こうに姿を消した。
「あれ? おまえ、どこから来たんだ?」
 ドアの内側からケンの声がする。
「アリスのところからさ、彼女は俺のお共をして来たんだ」
 ちゃっかり膝の上に登って喉を鳴らしている立派な毛並みの猫が、なぜ自分に懐いてい
るのか解らずに戸惑っているケンに声を掛ける。ケンは瞳を上げて俺を見つけると「来た
のか」と、珍しく嬉しそうに笑って迎えてくれた。こういうケンの顔を見るのは久し振り
だ。近寄って軽く唇を合わせる。
「これ、あの仔猫なのか」
 膝の上から2人のキスを見ていた猫がニャーと鳴いた。ケンには彼女がついこの間まで
懐でじゃれていたあの綿毛だったとは信じられないようだ。
「動物ってのは直ぐに成長しちまうのさ。人間のように、いつまでも子供じゃいられない
んだ。なっ、マーロ」
 頭を撫でようとすると、彼女はスルリと擦り抜けてケンの膝から飛び降りた。どうやら
無理やりバスケットに詰め込まれたのを怒っているようだ。俺を一瞥すると逃げるように
部屋を出て行ってしまった。
「名前があったのか」
「えっ?」
 突拍子もないケンの質問。
「あたりまえだろ。機械に名前があるくらいだ、猫にあって何がおかしい? それより、
おまえ、車で来たのか?」
「ああ、バイクの調子悪くてな」
「よく事故らなかったな。」
「大きなお世話だ! どーせ、俺はA級ライセンスじゃないよ」
「A級ライセンスはレース用だ。君のはそれ以前の問題」
 俺の皮肉が通じたのかケンは赤くなった。グランレッツのボスのところへ行く途中、交
差点で接触事故を起こしたのはつい最近のことだ。最もシグナルを無視して突っ込んで来
たのは相手側だったが、避けられなかったのはドライビングテクニックの未熟さ故だ。幸
いケンに怪我はなかったが、無断で駆り出された俺の愛車は見るも無残な姿と成り果てた。
「おまえって根に持つタイプだったんだな。知らなかったよ」
「おまえ程じゃないがな」
 鼻で笑って言ってやると、ケンの顔が矢庭にふくれっ面になる。それを横目に窓辺に寄
って俺は大きく伸びをした。どこまでも青い海原が見渡す限りに広がっていた。
 ・・・・今頃は、ランディがボスの車に500万ドルを積み込んでいるだろう。
 策略、陰謀、流血。その代償に俺たちが得るものは・・・・。誰かの平和か、幸せか、
それとも、誰かの栄光か・・・・。
「なあ、ジョー。海に行こう。待ってたんだ」
 いきなり背中から首っ玉にかじりついてケンが言う。
 今日のこの立ち直りの早さは何なんだ? 人がたまに真剣になってるって時に。
「ここはもう海だろうが!」
「泳ぎたいんだ。早く」
 言うが早いか髪を結んでTシャツを脱ぎ捨て、俺の頭にもキャップを乗せて、もうスニ
ーカーの紐を結びにかかっている。
「ちょっと待て、スイムウエアーなんて持って来てないぞ」
「ウエアーなんていらないさ」
 ちょっと待て、だから!! いくらプライベートビーチだからって素っ裸で泳げるほど
俺は神経ズ太くないんだ。身体には自信があるが・・・、
「マーロも連れて行くか?」
「バカ、猫は水が大の苦手なんだ」
「なら、どうして連れてきたんだ」
「魚を食わしてやろうと思ってよ」
「誰が釣るんだ?」
「・・・・・、」
 言葉を詰まらせた俺を肩で笑って、ケンはスニーカーの足音も軽やかに、躊躇した俺を
急かすように階下に消えて行った。

 さっき登った岩盤の階段をケンが走り下りて行く、太股の上で短く切ったジーンズから
撓やかに伸びた下肢を軽快に弾ませながら。その後ろをのろのろと俺が付いて降りる。岩
壁の影が来た時より縮んでいる、太陽が昇り詰めたのだろう。砂浜に降り立って早く来い
と手を振っているケンの姿が眩しい。手を翳ざしながら歩く俺を待ち切れないのか、スニ
ーカーも脱がずに波を追いかけて行く。
「ジョー」
 既に波に浮かびながら俺を呼ぶ。
 誰もいない海。キラキラと光る海原、照りつける太陽に惜しげもなく曝されたケンの白
い裸身。俺には十分な幸福だ。きっと誰にも手に入れられないものを俺は持っているのだ。
「ジョー」
 ケンが呼ぶ。
 やっと波打ち際まで来た俺の腕を引っ張り波間へと誘う。
「やめろ、服が濡れちまう」
「脱いでしまえよ」
 だから!! 俺は!!
 言いかけた俺の身体に絡みついたケンが不意に打ち寄せた大波にバランスを崩した瞬間、
2人して海に引き摺り込まれた。せっかくセットした髪と下ろしたてのカール・スーザン
のシャツが台無しだ。靴もダメにしちまった。
「ケン、てめぇ!!」
 声を上げて笑ったケンの腕を掴んで海から引き摺り出す。ぴちぴちと釣り上げられた魚
のように跳ねながら砂浜に上がったケンの身体は、胸にも四肢にも砂金のような砂が塗れ
ていた。束ねられていた髪はとうに解けて、肩や背中に落ちている。ゴロリと仰向けに太
陽と向き合って両手を翳した下で青い瞳が俺を見ていた。
「俺、ジュンに会った」
「いつ?」
 濡れてしまったシャツを身体から剥がし、砂の上に投げると靴を脱いで、俺もそこに腰
を下ろした。
「先週、おまえが電話くれた日。こっちに出て来てたんだ」
「ふーん、で?」
「おおかたボスの差し金だろうけど、叱られたよ」
「ジュンにか」
「ああ、いつまでグズグズしてるんだ!って」
 上半身を起こし、ケンは砂のついた肩や胸を払った。そして膝の上で腕を組むとその上
に顎を乗せた。
「自分達は自分達の意思でプロジェクトに参加するんだ。誰の命令でも強制でもない。俺
と同じだって」
「そうか、同じか」
 何か一つ重い物がふっ切れたようなケンの表情。子供を叱ったりあやしたりするのは女
の方が上手いって訳か・・・・。そう思いながらも俺は少々ジュンを妬ましく思う。彼女
を差し向けたであろうボスにも。
「俺は俺を認めてやらなきゃならないんだ。おまえやジュン達がそれをやってのけたよう
に」
「そんなに難しいことじゃない」
 背中に残った砂を払ってやりながら俺は言う。手に触れた乾きかけた髪の柔らかい感触
が心地好い、しかし、俺の指はそこで一瞬不安に強張った。
 ISOのチームで生き残ってこられたのは、優秀なソルジャーだったからじゃない。同
じレベルの技術や能力を持った者は沢山いたが、自分達のチームじゃ生き残れなかった。
 それは戦いに惚れ込んでいないからだ。戦場での緊張感、トリガーを引く時のゾクゾク
するような興奮、画策を巡らす醍醐味、生と死の駆け引きと勝利の瞬間の陶酔感。それら
に酔える者こそ戦場を生き伸びることが出来る。だが、俺たちにはそれを怪物だと嫌悪す
る気持ちがどこかにある。共存させることが出来てこそ本当のソルジャーだと言い聞かせ
ながらも、眠れない夜を過ごしたこともあった。しかし、人間というのは結構柔軟でズ太
く出来ているらしい。俺は怪物に飲み込まれることなく現にこうして生きている。ジュン
やリュウも同じだ。
 ・・・・だが、果たしてケンにそれが出来るだろうか?
 怪物は誰よりもケンに愛されている。だからこそ、ケンは俺たち以上にこの世界を嫌い、
恐れている。そして、逃げ出せずに足掻いている。
「ジョウ?」
 心配げに呼んだのはケンの方だった。俺の不安を感じ取ったのか、青い瞳が覗き込む。
「どうした?」
「いや、何でもない、泳ぐか」
 立ち上がった俺についてケンも続いた。スニーカーを脱いだ素足が砂を蹴る。俺を抜い
て先に波を受けた身体が光に塗れた。捕まえて波間に遊ぶカモメたちのように戯れる。
 濡れてケンの髪が首筋に絡みつく、唇をよせると逃げて沖へ泳ぎ出す。それを追ってど
こまでも行く。太陽が眩しい、波を掻く腕が水平線に届きそうだ。
「ケン」
 やっとのことで捕まえた身体が俺の身体に合わさって来る。さっきの仕返しとばかりに
水中に沈めてやる。もがきながら力を緩めた隙に海面に飛び出し、荒い息をつきながら額
やら頬やらに貼り付いた髪を掻き上げるケンの顔は笑っていた。
「どうした?、また随分とご機嫌だな。こんな日に」
 こんなにケンが笑うのは本当に久し振りなので、俺の方が戸惑どっちまう。
「だって、今日は休日だ」
「休日?」
「そう、最後のね。だからおまえもここに来たんだろう? ランディは上手くやるさ、俺
たちは上手くやって来た。そうだったな」
 ケンが笑っている。そうだ、この笑顔だ。不敵で自信に満ちて悠然と、いつも俺たちを
安心させた。
「ああ、きっとボルサリーノがよく似合ってるだろうよ」
 ウィンクで応えると、ゆっくりと唇が引き締められた。
「浜まで競争だ! ジョー!」
 ケンの背が陽の光に光って波間に踊った。長い髪を従わせ、まるでネプチューンのよう
に悠々と海を渡っていく。俺はいつまでもその雄姿を見ていられることを願って、ケンの
後を追った。

                           7

「変わらねぇな、ジュン」
 久し振りに会った女に言う俺の台詞はいつも決まっていた。
「あら、お世辞なんて初めて聞くわね」
「お世辞なんかじゃねぇよ」
 言ってから改めて気づいた。本当にジュンは変わっていなかった。艶やかな長い髪、深
い緑色の美しい瞳、少女のような白い肌に少し不似合いな赤い唇。2年前別れた時と寸分
違わぬ姿のまま俺の前に現れた。
「腐れ縁ね、また宜しく頼むわね、ジョー」
 隣に座った俺にジュンはそう言って笑った。その言葉だけが少し大人びて聞こえたくら
いだ。
「別れようとも離れられない男女の仲ですかな?」
「マスター、ケンがいないからって!!」
 誤解を招くようなことを言ってもらっては困る・・・と、俺は抗議した。
「いいえ、離れたくとも離れられない運命の相手よ、皆ね。マスター、貴方も」
「これは光栄ですな」
 夕暮れの迫るベニス・ビーチのカウンター、ジュンの前にオリーブを沈めたミントグリ
ーンのカクテルを置いたランディが、“エメラルドの湖”とネーミングした新作のレシピ
を公表する。
 俺は一瞬俗っぽいと言ったケンの顔を思い出して恥じ入ったが、「奇麗!」と同じ色の
大きな瞳を輝かせるジュンの表情はあどけない。
「お気に召していただけましたかな? では、お味の方は?」
 家の庭で摘んで仕込んだというランディのペパーミント酒が、ベースのジンと見事な混
成を成したグラスをそっと近づけたジュンの唇がうっとりと味わい、「美味しい」と驚嘆
の声を漏らす。
「そう言って貰えると、私の苦労も報われますな」
 ワイフに内緒で摘んでしまったペパーミントは、娘のゼリーのおやつが出来ないと叱ら
れながら漬けた貴重なもの。おかげで暫く庭への出入りを禁止されたと言う。
「まあ、ウフフ。でも、お嬢さんは何かお礼をしなくちゃいけないわね」
「それには及びません。アイスクリームをたんとご馳走しましたから。でも、今度はお腹
をこわすとワイフに叱られました」
「あら、あら・・・・、困ったお父さんだこと」
 赤くなって見せたランディに、ジュンの顔が思わず綻ぶ。
 俺への再会の言葉より先に初対面の挨拶を交わした2人は、すっかりもう打ち解け合っ
ている様子で会話を弾ませていた。横でポツンと取り残されて俺は頬末を付いた。それに
気づいてか、
「ジョー、バーボンで宜しいかな?」
 細いテスターのようなガラスの花瓶には、まだ蕾のままの赤い薔薇。テーブルに添えな
がらランディが尋ねる。「ああ」と答えながら、上着のポケットから取り出したボックス
から1本抜いて火を点ける。ライターの小さな炎の先が白い巻紙を焦がすと、微かなメン
ソールの香りが立ち、指の間から、ゆらゆらと陽炎のように立ち昇る紫煙の向こうに、ふ
と海が見えた。
 どこまでもケンを追って泳いだ海、最後の休日・・・・。
 聞かないつもりだった。だが、機会はもう二度とはやって来ないだろう。俺も二度と聞
き出そうという気にはならないだろう。そう思うと俺は聞かずにいられなかった。
「ケンに会ったのか?」
 何気ない風を装ってグラスを手にした俺に、ほんの気づかない程度に小首を傾げると、
ジュンは「フフッ・・・」と笑って目を伏せた。まるで俺の質問を予想していたかのよう
に。
 俺は少しムッとした。見抜かれて焦っている自分に気づいて。
「会ったわ、何故?」
 ジュンはわざと惚けている様子だ。こちらは見ずにグラスを口に運んでいるが、傍らで
感じる俺の反応を楽しんでいるに違いない。畜生、女ってのはどうしてこうも敏感なんだ。
恐れ入るぜ。
「いやに素直になっちまってよ。どうやって説得したんだろうってな」
 ジュンはグラスを持ったままでチラリと俺を見た。俺は視線を合わせないために、灰皿
に煙草を押し付けた
「別に、私は何も言わなかったわ。言おうとしたけど・・・・、反対にケンに言われたわ。
ここに戻るんだったら、この2年間は忘れて来いってね。相変わらず厳しいわ、変わって
ない」
 ツンと肩を持ち上げ溜め息を含んだような語尾でジュンが苦笑する。俺は半ば呆れたよ
うに今聞いたケンがジュンに言ったというその言葉を繰り返した。
・・・・忘れて来い。 生意気なことを! いったいどんな顔をして、その台詞をジュ
ンに吐いたんだ。だが、不思議と容易に、俺はその時のケンを想像することが出来た。
 ・・・・氷のソルジャー復活か。
 鮮やかに俺の目の前にその雄姿は蘇った。猛火を上げる戦場を駆け抜ける疾風、弾幕を
潜り、追い詰めた獲物に死の一撃を与えるために奴の身体が宙を舞う、その跳躍の先に俺
たちはまぎれもない勝利を見るのだろう。
 そう感じながらも、俺は少し残念に思う。この腕の中で迷っていた儚い愛しいものへの
喪失感。『ナンブを出るか?』あの時の言葉は本気だった。ロマンチストなのは、やはり
俺のようだ。
「ねぇ、ケンを愛してる?」
 突然のジュンの問い。酒を喉に詰まらせ一頻り咳き込む俺を見て、彼女はクスクスと笑
って肩を震わせた。
「何なんだ! いきなり」
「女の直感よ。でも、ケンの方はどうなの?」
「知るかよ」
 グラスを持ったまま、そそと横を向いた俺の肩に女の直感が重い。その肩に手を掛けて
ジュンが耳元で囁く。
「ケンはこうも言ったわよ。ここに戻るんだったら、ジョーには気をつけろってね」
「な、何?」
「最近女性の好みが変わったようだからって。そうなの?」
 怪訝そうに肩越しから尋ねられる。
・・・・俺の好みがどんなのか知ってるのかよ。言っておくが、脳みそ・・・・のグラ
マラスじゃねぇぞ!
「このところ、知的な女性に魅かれる傾向にありますな」
 すかさず答えたランディは、ジュンにウィンクを送る。
「あら、気をつけなきゃ」
 楽しそうに笑うジュンの横顔をビルの谷間に沈む太陽が、朱色のチークをさすように赤
く染めている。
 夕暮れは一時、夜は直ぐに訪れるだろう。だが、ここの夜は眠らない。幾億とさんざめ
く摩天楼の銀河を眼下に従え、夢と野望、挫折と葛藤、尽きせぬ思いと哀愁に酔った様々
な宴が始まろうとしていた。
“CLOSE”の札を外したボーイがボウタイを締め直し、今まで持っていたモップを銀
のトレイに持ち替えると、ランディが“RESERVE”と書いたカードを鍔に乗せたボ
ルサリーノを、リュウの為にテーブルに置いた。
「取っておいたのか」
「初陣の勝利の記念に」
 流れ弾を掠ったボルサリーノには硝煙の匂いがする。うずうずと俺は熱くなる血を感じ
て身を火照らせた。
 ・・・・どうしようもねぇな。
 俺たちの新しい仕事が始まる。これが成功すれば長年暗躍を続けた巨大な地下組織が1
つ殲滅し、報酬としてナンブ・コンツェルンは更に又、強大な力を得るだろう。
 新たな栄華と新たな名声、そして、新たな君臨と新たな支配。それによってもたらされ
るであろう、より繁栄をきたした世界。
 それは、この銀河都市に象徴される隆盛か、あるいは、不変の平穏、ささやかな家庭に
宿る幸福・・・・。
 だが、その報酬は俺たちのものじゃない。他の誰かの平和であり、他の誰かの幸せであ
り、他の誰かの栄光なのだ。俺たちはボスの掌で回る小さなコマであることを知っている。
血を吐いて泥の中を這いずり回る・・・、それでも・・・・、
「ジョー、新しいチームの名前、決まったの?」
「いや、まだ」
「ずっとお世話になるんだから、イカすのにしてちょうだいね」
 ウィンクをして見せたジュンに驚く俺。
「ジュン! おまえ」
「リュウもそのつもりで来るのよ、もうサインはしたわ」
 俺たちの世界が動き始めていた。
 ボスの命令が俺たちを動かす。誰かの平和と誰かの幸せ、そして、誰かの栄光を得るた
めに。
 それでも、俺の手の中にあるものがある。俺はそいつを守るために泥の中を這いずり回
る。それは誰のためでもなく、俺の平和のために、おれの幸せのために、そして、俺が生
きるために、俺の血は陶酔する・・・・・。


「ケン、首尾は?」
「上々だ、あと2分」
「早過ぎるじゃないか!!」
 敵陣でその青い瞳は妖しい程に輝く。
「ファイアー!!」
 火柱を吹き上げ崩壊するビル・・・・ったく、自分が生身だってこと忘れてやがるぜ。
毒づきながら走る爆風の中、正面からは機銃を構えたジェットヘリ。
 逃げられない・・・・! 思った瞬間、背後で閃光が炸裂した。ケンの放った光子弾に
上空でバランスを崩す機体、すかさず燃料タンクにマシンガンのシャワーをお見舞いする。
「Nice timing!!」
 爆音と共に砕け散るヘリ。黒煙が崩れたコンクリートの間に生える鉄骨の向こうに濛々
と立ち昇るのを見てケンの唇が不敵に笑う。
 額に浮かんだ汗を拭う俺の手の上に青い空が見えた。
「ジョウ」
「ああ?」
「今夜は眠れそうにないな」
 髪を掻き上げ興奮したケンの顔は薄っすらと紅潮している。俺はそれを美しいと感じる。
「いいネーミングを思いついた」
 不意にケンの顔が近づいた。
「え?」
「チームのさ」
 ほう・・・?
「“Dealer”、勝ちを持っていく」
 俺はここぞとばかりに「俗っぽい」と笑ってやる。
「ちぇ」と唇を尖らせながらも、いつまでも笑っている俺を、呆れたような顔をしてケン
は黙って見ている。そして、やがて、つられるようにして青い瞳が微笑み返す。

 俺は確かに実感する、今、この手の中に掴んだものの大きさを。それは、もしかすると
唯一瞬、一発の弾丸に刹那にして失われる運命にあるのかも知れない。
 しかし、その未来を知る必要はない。
 俺は既に何を望むこともない。既に俺を苦しめる何ものもない。

 光溢れる蒼茫の海、
 俺の手は水平線に届き、その遥かな彼方を見ることはない・・・・・。




 追記、

  白いページを埋めていくのは彼らの夢ではない、
  書き綴られるのは彼らの伝説ではない、
  求めるものが手中にあるなら夢見る必要はないから、
  失うことがなければ思い出はないから、
  永遠を知る者は、彼ら。
  永遠を望む者は、我々。

     私の愛した、私の、グラスの中の蜃気楼。
                   ジェシー・ブラウン。




END


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