Breathe Episode 1 < AGAIN >

by もも

Episode 1-1


黒い煙が、細長く高く青空に立ち上がった。

健は、それをガラス越しに醒めた眼差しで眺めて終わった。
ジュンや甚平は少しく目を赤くして、やっと終わったね、と言う。
何が終わったのだろう、何も終わってなどいない。
健は、ただ、曖昧に微笑む。
微笑みは、心の壁、
拒絶の隠れ蓑。

**

その日、ジョーが帰ってきたのは夜半すぎだった。
健の私物の整理をしに、滑走路脇のあの家に行っていた。殆ど空っぽの家にも、書籍や
手紙の類がまだ少し残っている。健は、持ってきて欲しい、と何冊かの小説の名を挙げ、
他のものは全て捨ててくれ、と言葉少なだった。
病院に戻ると健は言う。監獄ではなく、居心地の良い、最適な治療を施術する病院に。
一刻も早く、と。
健がそうしたい、と言うのなら、ジョーには何も無い。病院に行く前に家を整理したい
と言い出したのにも、言われるが儘に付き合ってやった。
健に何故とは問えなかった。ジョーが問えば健は答える。健に言葉にされたなら、些細な
希望の入る余地など何処にも有るまいから。

「遅かったな」
健がベッドで半身を起こした。
「ぽろぽろ懐かしいもんが出てきてよ、ついつい座り込んじまったんだ」
ジョーは手擦れのした何冊かのハードカヴァーをナイトテーブルに置いた。
「これが、ご注文の品」
「サンキュ」
健は一番上のフォーサイスに手を置いて目を細めた。
「それと、こいつ。…お節介かと思ったが、これは俺には捨てられない。一応渡しておく
ぜ」
B4サイズの色あせた茶封筒が健の膝に載せられた。健の白い顔に、心なしかの驚愕の表
情が浮かぶ。
「ジョー、こんなものどこで」
健が袋を逆様にする。手紙と四角い封筒が、シーツの上に散らばり、最後に雑誌が、鈍い
音を立てて斜めに落ちてきた。
「開けて見たんじゃねえぜ。雑誌を纏めようと思ってバサバサやってたら、中身がバラけ
てよ。偶然見ちまったんだ。手紙は読んでねえし、小さいほうの封筒は開けてねえ」
「そうまで言わなくても、お前ならいいよ、別に」
健はその雑誌を手にとって表に返し、目の高さまで掲げた。
「よく撮れてるじゃねえか。お前要らないんなら、俺に呉れよ」
「馬鹿野郎」
唇が綻びる。膝に置き直す。ウィンタースポーツ写真誌のオールカラー臨時増刊号といっ
たところか。絶壁を滑降するスキーヤーがグラビアを飾っているのだが、それが、
「お前だろ?」
健だった。ジョーがにんまりとする。
「スキー雑誌なんて読むヤツ居ないだろう?顔が出なきゃいいと思って。すぐ分かったの
か?」
健がジョーを見上げる。
「当たり前だろ」
ジョーは健の額に軽くキスして返した。
「この、お前の前を滑ってんのは、プロだろう?」
スキーヤーは二人。背よりも遙か高く舞い上がる雪煙。銀色に輝いて光を弾き、風に嬲ら
れる髪。滑降スピードは相当のものである筈だ。しかし、二人の口元は笑っている。健と
同じレベルでこの斜度を滑れる人間はそうそう居ない。
「ふふん、この見出しはヤラセだな」
“凄い兄弟に遭った”
とグラビアのてっぺんに踊っていた。

「ヤラセでも無いんだな。これが」
唇を引き結ぶ。四角い封筒の口を開け、指先を差し込んだ。大判のスナップが何枚か引き
抜かれてくる。健は、カード占いでもするように、それらをシーツに丁寧に並べて置いた。
「おい、これ…」
ジョーが瞠目する。
「本には顔載せない約束したんだが、カメラマンが写真だけは撮らせてほしいって五月蝿
くて。現像出来たのを送って来たんだ」
ゴーグルを外した、二人の顔のアップ。ジョーはその一枚を手にとって嘆息した。二人と
も笑っていた。歯列の整った白い歯が綺麗に並んでのぞいている。
「オダか?驚いた。見違えた」
「それはまだ十代だからな。でも変わってないじゃないか、あいつ」
健はオダと会っていた、ほんの少しだけ。
「こんな顔しないぜ。あいつは」
「そう、なのか」
「この写真じゃ、どう見てもかわいい、としか言いようがねえなあ。今のヤツのほうが美
形じゃねえか」
「お前、この頃、あいつとけっこう仕事してたよな」
「まあなあ。ヘンな助平爺の相手が多かったからなあ。そら、オダが出てくるときは楽し
みだったぜ。でも」
こんな顔して笑っているのは見たことがない、とジョー重ねて言って健にスナップを戻し
た。
「俺の前のヤツは無敵のスパコンだった。綺麗な子だとは思ってたが、それ以上でも以下
でもなかったぜ。それにしても、なんで“兄弟”なんだ」
「さあ。不思議なことに…」
健はくすりと笑う。
「どこに行っても、ご兄弟、って言われてさ。目鼻立ちも髪や瞳の色も全然違うのに。で
も」
それもいいか、と思って、そういうことにしておいたんだ、
と健は言葉を切った。
リアクタの低い唸り声だけの静寂。

ふっと、健が雑誌から顔を上げた。
「ジョー。あれから会ったのか?」
健は少し口籠もってから、オダに、と続けた。
「事後報告会のとき会ったぜ。元気そうだったがな」
「…まだISOに居るのか?」
「辞めるって揉めたってのは聞いたぜ」
健の顔つきが、G1号に変わった。
こうなると、健が何を考えているのかジョーには分からない。
が、暫時後、何かを払い退けるように首を横に振ると、病床の健に戻った。
「会いたいな。連れてこれないかな」
「そりゃ。お安いご用だろうさ」
「なるべく早く」
「今から?」
冗談のつもりだったのに、健にしっかり頷かれてしまった。何のつもりか、懐かしい写真
を見て里心でも付いたか、とジョーは部屋の電話の受話器を持ち上げた。携帯電話のスイ
ッチを入れ、番号の確認をする。
健はジョーの手元を見つめている。

−只今、お掛けになった電話番号は…
「あれ?」
間違えたか。リトライ。
−只今、お掛けになった電話番号は…
まさか住める状態ではないだろう、とは思ったが、自宅に掛けてみる。
−只今、お掛けになった電話番号は…

携帯、変えたのか。
気分が沈んで行くのが分かる。自意識過剰だ、と打ち消した。
メールをレスするかとも考えたが、返事を待つのが性に合わない。
「明日にでも行ってくる。ISOで張ってりゃ、すぐ捕まるだろう」

健は何も答えない。凝っと宙の一転を見つめている。
「大丈夫だ、健。もう寝ろ、疲れっちまう」
耳元で囁く。肩を抱いて優しく揺する。

夜が更けて行く。


Episode 1-2


やっとうつらうつらしたのは夜半過ぎ、アラートが鳴り響いたのは鳥の啼く頃。
ベッドに座りブレスレットに応答したのはただの条件反射。南部の声に、すぐ行きま
す、とだけやっと答えて、額を抑え、長い息を付いた。
不意にジョーの腕が後ろから回され、引き倒されて、健はジョーの胸に仰向けに転がっ
た。
「だめだ。呼び出しだ」
「休みじゃなかったのかよ」
ジョーはまだ微睡みの中にいる。
「休みじゃ、なくなったみたいだな」
苦笑。このところ任務が擦れ違い続きで、やっと休暇が重なったと思ったのに。
「仕方ない。行ってくる」
ジョーは何も応えず、健の髪に指を深く突っ込んで撫でた。体を起こす。長い、接吻け。

健が立ち上がるとジョーはそのまま寝入ってしまった。疲れているのだろう。
優しく手招きしている暖かそうな寝床。健はやっとの思いで立ち上がって、シャワールー
ムに飛び込んだ。

**

とりあえず、統合情報本部に飛んでくれ。

南部は少し険しい表情だった。話しはリサに、と。
説明が無いまま、取り敢えず現地に行け、という任務にも大分慣れた。余所の人間とチー
ムを組んで働く、いわば傭兵である。5人で動くことなど先ず無い。オフだと思い込んで
いたので愛機は整備中。同じ型でもいつも通りというわけにはいくまい。何事もなければ
…、と複座の後部座席は空のまま飛び立った。
それにしても、ジョーとはろくに話しもできなかった。昨夜久々に会ったのに慌ただしく
縺れ合っただけ。寝不足頭は割れ鐘のようで、健の機嫌はすっかり斜めだった。

でも、まあ
どうせ仕事をするなら楽しくやったほうがいい。リサのチームとのミッションというのは
ポイントだった。アレックスが出てくるだろう。コンピュータ軍団のナンバー2のくせに
特殊部隊出身の大男、アレックスは実戦になっても強い。何より豪放で磊落な彼の性分
が、健にとっては有り難かった。あの手のハイテクのプロには、何かステージが根本的に
違うヤツが多すぎる。

溜息を付いて、眼下に視線を落とす。春の終わり、夏の初めの、若草色から深緑へのグラ
デーションが山々を彩っていた。眼精疲労には良さそうだ。
やがて、青垣に埋もれるように、基地が見えてきた。

**

航空装備品を外して息を付き、基地内のブレイクコーナーで冷水を呷った。あたりを見回
せば見知った顔もいる。
「久しぶり」
「やあ」
古い馴染みのパイロットが寄ってきた。何度も一緒に飛んでいる。
「あんたが来るって小耳に挟んだんでね、お迎えに上がったのさ」
「それはVIPな待遇をどうも」
健は多少大袈裟に一礼した。
「詳しい話しはまだ聞いていないんだが、今度はあんたと飛べるのか?」
「まあ。それはさておき」
男は振り返って、ざわつく人混みの中に向かって大きく手招きした。
「おい。何引っ込んでるんだ?来いよ。ほら、こんな優男だぜ。全然恐くないだろう」
「なんだい?」
「いや、本当のトップ・パイロットを紹介してやるって…今まで一緒に居たのに。何やっ
てるんだ?」
「ごめん…つい…」
オリーブグリーンのスラックス、タンの襟付きシャツが、男の背後に隠れるように立っ
た。
「少尉、お前が会わせてくれって俺に言ったんだぞ。ほら」
腕を捕まれて、ぽいっと健の前に放り出されてきた。
「G1、見ての通りの新兵だ。配属はデスクワークの部隊だが、本当はパイロットになり
たかったそうだ」
「初めまして。突然、申し訳ありません」
その青年将校は、小さく微笑した。
黒い髪、黒い瞳、まだ骨格のできていない華奢な体躯。健には見覚えのある顔だった。
「オダです」
「よろしく。俺は、G1って呼ばれてる」
右手を差し出すと、少しはにかんでから、軽く握り返してきた。ほっそりした手、長い指。
と、小さいがけたたましいアラート音が響いた。
「あ」
オダは胸のポケットから小型送受信機をつまみ上げ一瞥して、溜息を付いた。
「済みません。呼び出し掛かってしまいました。行きます」
健を見上げる。
「忙しそうだね」
こんな子供にどんな仕事があるんだ、と内心では思いつつ。
「お会いできて嬉しかったです」
オダは健にもう一度微笑みかけ、ごめん、せっかく会わせてくれたのに、と男に向かっ
た。男は早く行けとでも言わんばかりに、掌をひらつかせる。
「失礼します」
「じゃ。また」
健は人混みに呑まれる後ろ姿を、楽しく見送った。
どう見ても、剥ぎ取ってくれって、書いてあるよな…

健は男に向き直った。
「軍はまだ手荒なことしてんのか?」
「手荒?」
「今の坊や、両手首と襟元に包帯のぞいてたぜ。一寸若いが、あれは大卒の幹部候補生だ
ろう。訓練メニューが厳しすぎるんじゃないのか」
ああ、と男の表情が一瞬曇るのを、健は見逃さなかった。
男は何も答えず、急に話題を変えた。
「G1、お前、昼めしは?」
「これから呼び出し先に行ってみないことには、なんとも…」
「そうか、気が向いたら声かけてくれ。俺はもう暫くここいらで油売ってる」
「OK」
何となくはぐらかされたような気はした。

**

30分後、健の機嫌はやはり斜め、どころではなかった。
「アレックスじゃないって?こんな面倒なミッションが?」
「待って、G1。よく聞いて頂戴」
リサ・シーン中佐の部屋。
「こんな敵のまっただ中を抜けて、敵に包囲されてる緩衝エリアに降りて、機密を持ち帰
る。しかも機密はブッ壊れたメインフレームに入ってて、そうそう簡単に読めるもんじゃ
ない、って、いくら何でも」
非現実的すぎる、
と健はリサに詰め寄った。
「アレックスより適任な兵隊がいるの」
「そうか。アレックスより頭も筋肉も頑丈なやつなんて、いたっけ?」
「筋肉は負けるけど、頭は凄いわよ。総合すると、アレックスより今回の任務にはフィッ
トする」
健にはここでチラっと嫌な予感が走った。
「もしかして、鳴り物入りで入隊した天才青年ってやつか?」
「当たり。さっすが」
健には、もう言葉が継げない。リサ、俺に子守をしろっていうのか、その、末成り瓢箪の
ようなガキを、そんなミッションに連れて行って、俺に死ねというのか…
健は齧り付いていたデスクから体を起こし、目を瞑った。
「G1、あなたの心中はよく分かっているつもりよ。でも、諸訓練はトップクラス。電算機
に関しては、彼が今時点でも総合力でトップなの。それに…」
リサは唇を湿らせた。
「これは私個人のお願いなんだけど。…ええと…、彼は、あたしが三顧の礼をとってやっ
と引っ張ったエースの卵なの。今、辞められたら元も子もないし。ノイローゼにでもなら
れた日にゃ、ご両親に申し訳が立たないのよ」
天才青年は5月病らしい…健は黙ってリサを見つめた。

軽いノックの音とともに、ドアが開いた。反射的に振り返った。表情が不機嫌丸出しだっ
たのだろう。顔を出したアレックスがことさらに歯を出して笑い掛けてきた。続いて、今
し方会ったばかりのオダが入ってきた。部屋の雰囲気が妙に若やぐ。リサの声が遠ざか
る。
「その、鳴り物入りって…」
健は腕を組んで、リサのデスクに腰を掛けた。顎でオダを示す。
「そう。こいつのこと」
アレックス。
「あんた達の分野と違って、俺たちのやってることは何がどう凄いのか分かり辛い。で
も、一緒に行けば分かる。俺より手っ取り早くて良かったってな」
オダは黙ってドアを背にして立っている。かなり手厳しく値踏みされているのが、分かっ
ているのかいないのか。

ふうん、
リサが何かまだ言っている。
まあ、いいか、と健は自分を宥めにかかった。妙なおっさん相手の仕事ばかりが続いてい
たところだし、リサやアレックスに恩を売っておくのはそれだけで意味がある、何より…
健は、オダのつま先から顔にかけて、改めて睨め上げた。幽かに含み笑い。
そうそうお目にかかれない上玉であることは、間違いない。

「分かったよ。リサ。行くよ」
「ありがとう…」
あの女丈夫がデスクに突っ伏して脱力していた。


Episode 1-3


健の危惧を余所に、ミッション前半は何らアクシデントも無く、寧ろ呆気無いほど上首尾
だった。あっさり敵地を抜け、目的の緩衝エリアに着陸、友軍が奪取していた敵コンピュ
ータから機密をピックアップし、帰途に就いた。

−少尉
−はい。
−本当にちゃんとバックアップできたんだろうな
起動するかどうか分からない、と聞いていた本体はあっさり蘇り、
一週間は要すると言われたデータ選別に至ってはあっという間だったのだ。

**

破壊された敵基地から搬入されたその大型コンピュータは半壊状態だった。それ以上の搬
送が不可能になり、プロの派遣が要求されたのだった。
健は、疵や罅、ずれて捲れた本体をほうっと見上げた。これ、動くのかよ。
オダは黙って、フロントパネルに両手を掛けた。力一杯揺すぶると軋みながらパネル前面
が浮き上がってくる。それから立ち上がって少し体を引くと、そのパネルの横面目掛け
て、蹴りを呉れた。パネルは2つに割れて落ちた。
ぱっくり開いた穴に顔を突っ込む。ハンドライトで照らす。何かごそごそやっている。這
い出てきたと思うと、後部に回った。本体にディスプレイと外部媒体を繋ぐ。電源ケーブ
ルをコンセントに差し込む。起動スイッチをオンにした。赤とオレンジのシグナルが明滅
し唸る。オダは健を振り返った。
「マシンチェックするので、起動に時間が掛かります。食事してらして下さい」
「いや。まだ腹減ってないんだ。居ると邪魔?」
健はこの子供の仕事ぶりを見届けてやろうと思っていた。今後、役に立つ人材なら多少な
りとも丁重に遇さねばならない。前評判倒れなら、一寸捻って、あんなひととはもう一緒
には仕事をしたくない、と言わせれば良い。
本体の液晶パネルがエラーコードを表示しはじめた。IOが激しい。黄色いシグナルがや
たらに騒ぐ。オダはだらりと両手を下げたまま、立て続けに表示されるエラーコードを眺
めているだけ。エラーコードマニュアルを持ってくる訳でない。メモをとる訳でない。た
まにエラー応答、或いはごく短い入力。
約3時間後、ディスプレイにはログイン画面が表示された。
ディスプレイが床に置いてあるので、オダは胡座をかいて座り込んだ。あっさりログイン。
「やばいトラックをいくつかアクセス不能にすれば、普通に動きます」
こいつ、あれだけのエラーコード頭に入ってるって言うのかよ。
「一度落としてからの作業になるから、時間かかります、あの」
健を振り返る。
「俺のことは気にするなよ。見てると結構面白いんだ」
健は少し離れて腕を組んだ。オダは電源ダウンを確認すると、またフロントに顔を突っ込
んだ。フロント部分に右手を入れて何かスイッチ類を触っているらしい。電源を入れる。
本体の液晶パネルにハード調整用の情報が表示された。
30分後、今度は正常に、マシン起動。
さあ。これからが本番だろう。データの選定がメインなんだ…。
オダは今度は健には何も言わず、床のディスプレイに向かった。軽いキーストローク。表
示画面が一瞬で切り替わる。次から次にセッションが張られ、切られる。早い。健も一通
りのコンピュータ技能は抑えているが、とにかく早くて何をしているのか分からない。
ものの1時間半やそこらの後、外部媒体装置へのバックアップが開始された。
そして約2時間後、
「済みません。終わりました。お待たせしました」
オダは数個のカートリッジを健に掲げて見せた。

**

−大丈夫です。コンピュータって結構頑丈なんです。動いたの、見たでしょう?
…そうじゃなくて。起動後のデータ選択の心配をしてるんだ、俺は
が、当のプロが大丈夫だと言っているのだから、健がこれ以上どうこういう立場ではな
い。それにしても、揶揄われているような気にはなった。
こいつが使えるのか使えないのかの判断はもう少し先だな…。

今回のミッションに参加したのは最小行動単位である2機。
健を出迎えたあの男が隊長機で、健は僚機だった。
オダは基地の外での任務は初めてらしい。フライトスーツ姿もファッション誌のモデルそ
のもので、くすんだ色合いの現場からは浮きまくっていた。
遠足気分だよな、全く…。健の顰め面に、隊長機の男はただ笑う。
機密データの選定が異様に早く終了したので、時間は余った。休暇も取り戻せるかもしれ
ない。少しくらい付き合ってやるか。健は、機の整備に見入っているオダに、天使のよう
な笑顔で、必要以上に愛想良く声を掛けた。
…コックピット、触ってみたいんじゃないか?

隊長機が超低空に入った。僚機である健も続く。敵地が近い。あたりは逢魔が時を過ぎ、
闇が拡がって来始めていた。敵地に侵入する。
−G1、今回のミッションの仕上げだ。突っ切るぜ。
往路は事無く切り抜けられたルートだが、複路はどうか。
−少尉、下手すると戦闘も有り得る。ぼーっとしてるなよ。
−はい。
健に言わせれば、オダには感情の起伏が殆ど無い。良く捉えれば、状況をあるがまま享受
することができる。悪く捉えれば、…全然分かっていない。

−行くぞ。
−OK
多少無茶でも、健はこういったミッションは好きだった。愛機で飛べたなら、かつ、妙な
素人が一緒でなかったら。

夕闇を劈いた。一瞬の後。
−G1、お出でなすったぜ。
レーダーが敵機の飛来を告げていた。
まずは、長射程空対空ミサイルだな、とレーダーに視点を移した刹那だった。眉間に、き
ん、と金属音が走り、どっと吐き気が込み上げた。ここ何ヶ月か、たまに訪れる不意の、
しかも酷い偏頭痛だった。
−どうした、G1!!
咄嗟に急上昇する。
まずい…!
と思ったが、支障無く飛んでいた。
−チャフがぎりぎりだったな。
隊長機。チャフ?欺瞞紙を撒布したのは健ではなかった。ではオダか。

頭痛の波がまた襲って来た。敵機が近づいてくる。こうなると後ろを取られたら負けだ。
背中を冷たい汗が流れる。
航空勢力としてはこちらが圧倒的に劣勢。ここを何とか辛抱して、相手の後方に回り込
んで中距離ミサイルを発射するか、もしくは接近戦に持ち込まねばならない。実に、僅か
数分間の勝負。
操縦の感触が微妙に異なる。頭痛の波の間隔が狭まる。唇を噛み締める。
旋回しながら、フェイント機動を取る。敵はまだ撃ってこない。案外大したことないのか
もしれない。これなら接近戦で勝てる。

前方に敵機。貰った。が、こちらの方が早い。追い抜いては拙い。操縦桿を引き、敵機を
眼下に見据えたまま上昇を開始する。速度が下がったところで、軽くロールして機首を水
平方向に戻す。降下しながら敵機の進行方向に旋回する。敵は前方にいる。速度差を小さ
く保って、攻撃時間を長く取る。撃墜。加速。
また、言い様の無い悪寒が襲って来た。…強い衝撃。
−G1!
隊長機が絶叫する。インジケーターが火災発生を告げていた。
−まだ、飛べるか?!
−何とか。
速度は低下しているが、多少は飛行できそうだ。とにかく、少しでも戦闘区域から離れな
ければならない。隊長機が見える。健の機を護衛しているのだ。
−帰投は無理だが、味方地上空にまで…
しかし、機体が妙に振動し、インジケーターが悲鳴を上げた。
−限界だ。脱出する。

健は着地して、パラシュートを外すと、すぐ、オダの許に走った。
きっと、気絶しているだろう。敵地である。うかうかしていると来襲される。背負っても
引きずっても直ちにここを離れなければならない。
「少尉!大丈夫か」
オダは両手で米神を押さえながらゆっくり立ち上がった。装備を外してやる。
轟音が来る。オダの腕を引いて樹下に飛び込む。機銃が掃射される。爪先を銃弾が掠め
ていった。再び轟音が近づいてくる。木々の濃いほうへ走る。機銃の嵐が踵を横切って行
く。とにかく走る。弾の雨。泥濘に足をとられようが、木々の枝に腕をとられようが、下草
や木っ端を踏みしだいて、走り抜けた。

エンジン音が遠離った。深く息を付く。ぽつぽつと、大粒の雨が落ちてきた。
「弱り目に祟り目」
健は天空を仰いで溜息を付いた。振り返るとオダは辺りを見回している。健の全力疾走に
ついて来れただけでも上等なのに、案外タフだったようだ。
「ここ、登山道みたいです。看板があった。…あ、あそこです。…ほら」
走って来た道を、少し方角を変えて戻っていく。今度は健がついて行く。
黒ずんだ木製の、小さな道標が傾いでいた。二人でしゃがんで覗き込む。
「山小屋があるのか。避難小屋かな」
夜間に無闇と移動するのは危険だ。行ってみるか、と健は腰を上げた。
「よくこんなもの見つけたな」
「ついさっきまで、月明かりがありましたから」
…だから、そうじゃなくて…
「調子狂うから、丁寧語は止めてくれないか。俺だって大概は若造なんだ」
「は…。…うん、分かった」
「よし」

雪がまだ残っている。山道は滑って歩き辛いことこの上無かった。一度汗になったのが冷
えて来る。頭痛は引いたが、このままでは風邪を引く。
小屋がライトに照らし出された。震えが来て、最後は駆け足で飛び込んだ。

ライトで屋内を照らす。暖炉らしき物がある。薪のストックは豊富だ。
火を熾す。健が炉を掻いている横に、オダが薪を積んでいく靴音だけが響いた。

炎が上がり部屋が薄明るくなる。熱気が顔を撫でていく。
これでどうにか凍死は免れられるだろう。
オダの横顔が炎に紅い。濡れた髪が額と頬に貼り付いて火を啜っている。
何の非も難も無い顔。敢えて言うなら、冷たい顔。こういうのを整った顔というのだろ
う、と感心した。喋らなきゃいいんだよな、こいつ。…と、
「少尉、やられたのか」
肘先から滴っている水滴が赤かった。見れば、右肩がざっくり割れている。
「え?わ…」
気付いて居なかったらしい。健はライフ・キットから救急用具を選んで並べた。
「大丈夫。自分でやれる」
「利き手だぜ。第一この場所じゃ自分じゃ良く見えないだろう。肩出せよ」
オダが困り切ったように目を伏せる。爆撃を喰らったときでさえしらっとしていた癖に。
何故。ここで、また不機嫌が鎌首を擡げてきた。このガキ…
「もしかして、俺が何かするとでも思っているのか」
「…そんなこと無い」
「じゃあ。何だよ」
健は腕を組んで、オダを睨んだ。声は低く沈む。顎はほんの少し上がる。
みんながちやほや過保護にするから、自意識過剰になってるんじゃないか。付き合いきれ
るか。俺は知らない。健はすっと立ち上がった。
オダの手が動いた。スーツの襟を開け、ジャンパーのファスナーを降ろす。スカーフを解
いて引き抜き、シャツのボタンを外す。
あの包帯は取れたんだな、とふと思った。
右袖を掴んで引っ張る。血が滴る。首から右肩がじりっと晒け出された。肩から背中にか
けて裂傷が走っていた。しかし、それよりも…。健は表情に出さないようにオダの横に
座った。機械的に怪我の応急処置を行う。患部を保護し、濡れた衣服を引っ張って、肩と、
そして首筋を丁寧に被う。
「ありがとう」
「いや。悪かっ…」
「止めろよ」
謝ったりしないでよ、とオダは呟くように言った。
「G1が悪いんじゃないんだから。…できればすぐに、忘れてくれる?」
「分かった」

雨音と薪の爆ぜる音だけの、気詰まりな静寂。こんなのは苦手だ。
でも黙っているしかない。どうしたらいい…。
先に不機嫌になるのも、黙りこくってしまうのも、大抵は健のほうだ。
宥める側になる頻度が低すぎて、ノウハウが情けないほど少ないのだった。

なあ、ジョー。お前なら、こんな時はどうするんだ…


Episode 1-4


思い空気の中、呼吸数まで落として、炎が踊るのだけを黙って見つめていたような気がす
る。健は、腕に頬を載せて長く吐息した。
耳を澄ませば、雨音と火の粉の弾ける音だけ…。いや、それだけではなかった。
鍛えられた耳と、生き残ってきた者のみが持つ一種動物的な勘と。
健は、まず地図を広げて現在地と味方地の位置関係を確認した。次に、ライフキットを手
早く片付け装備した。尋常でない雰囲気に、オダが振り向く。まだ全く気付いていない。
「追っ手だ」
低く言う。
「今なら、犬も追尾できない。行くぞ」
外は土砂降りだった。気を付けろよ、と声を掛ける。
ドア1枚閉じてしまえば、文字通り墨を流したような闇。小屋を出たとたんにオダが足を
滑らせた。腕を掴んで持ち上げ、転倒を止める。ここで足まで負傷してしまったら、洒落
にならない。
「焦らなくていい。ゆっくりで大丈夫だ。」
「G1。これ今回の任務。あなたが持ってたほうが安全だ」
黒いカートリッジサック。
「そいつは少尉とセットじゃなきゃ意味ないだろう」
「それは違う。これさえあれば、あとはチームがなんとでもする」
大切なのはデータ。ヒトはパーツ。
「そんなに大事なもんなら、どんなことがあっても死守するんだな。そうしたら自動的に
生きて帰れる」
行くぞ、と健は踵を返した。
オダが慌ててサックを懐に突っ込む気配がした。
「俺の歩いたあとをなぞって来い。じき目も慣れる」
そんなことを言われても、目の前にある筈の背中も見えないだろう。健は後ろでに、オダ
の手を引いた。離れるなよ。

足早に歩く。上も下も判らぬ夜陰。やがて、雨音に混じって銃声が幾つも重なって響いて
来た。手袋越しに、オダの緊張が伝わった。あの小屋の方角だ。火を落とさずに出てきた
から、簡単に見つかったに違いない。もうしばらくはあの周辺を彷徨いてくれるだろう。
少しは急いだほうがいいだろうが。

時折立ち止まって、小さくライトを付け、地図と磁石で位置と方角を確認する。吐く息だ
けが白い。
「敵もコンピュータを奪取されたってことは分かってるんだ。そのデータが外に出るのを
少しでも遅らせようとしているんだろう。虱潰しだ」
「うん。時間が稼げれば、体制を変更することが多少は可能だから…。でも、どうせそう
そう奇抜なことは思いつけやしない」
「そうだろうな」
「これが解析できれば、かなりのレベルまでシミュレーションが可能だと思う」
「少尉がそれをするんだろう?」
「まだ俺だけじゃできない。戦闘のために、実際にどうヒトやモノが動いて行くのか、よ
く分からないことが多すぎる」
再び歩きだした。
「なんで軍になんか入ったんだ」
第一印象よりはタフなようだが、やはりどう見ても荒事向きとは思えない。大学にそのま
ま残っているか、高級官僚にでもなれば、そう非道い目にも合わずに済んだろう。
「中佐が、人同士の殺し合いになる前に戦争を喰い止めよう、って大学に何度も来てくれ
たんだ」
「反対されたろう?ご両親とか大学とか」
「うん。まあ」
言い淀む。リサめ、こいつと駆け落ちしたな。
「俺がこんなことを言うのはおかしいんだが。まだ遅くない。少尉は大学に戻ったほうが
いい、と思う」
「何故?俺、向いていない?」
「いや。その判断は俺にはまだ出来かねる。まあ、聞けよ。軍ってとこは、その、一般世
間をまっとうに渡って行けないような連中も、のさばっているところだ。少尉のような豪
華なキャリア組は、何かと嫉妬や憎悪の対象になる…」
健はここで言葉を切った。軍なんて所詮人殺しのための機関じゃないか、と喉まで出か
かって、そこまでは口に出来なかったのだった。
子供は余りに素直で残酷だ。得物を持たせて一寸煽れば、命の危険も顧みず、何の迷い
も無く真っ直ぐ突っ込んでいく。他ならぬ自分がそうだったように。
「憎悪の対象?あの、…怪我のこと?」
ぽつッと言った。それだけではなかったのだが。どうしても拘ってしまうのだろうか。オダ
の思考は健の思いには至っていなかった。
「ごめん。よくないって思ってても、割り切りが難しい…」
「少尉が謝ってどうすんだ」
割り切りなど、できないだろう。多分、一生。

「暴力って強い者が弱い者を蹂躙することで、その最大のものが戦争、かな」
雨音と訥々としたオダの声と。
「弱者は強者の顔色を伺いながら、ただじっと黙って耐えて、その暴力が過ぎ去っていく
のを待つしかない…窮鼠猫を噛むなんてあり得ない、そんなことしたら、余計に酷い暴力
に晒されることになるだけ」
お前がそうだったのか?とは、まさか、尋けもせず。
「生まれて初めて、殺されるかと思った。同じ人間になんでこんなことができるんだろ
う、って。気が付いたら病院で、MPに色々訊かれて調べられて…」
「もういい。嫌なことは忘れちまえ」
「そうだよね。中佐に俺たちは忘れることも任務だって言われた」
こいつ、これから最高機密にずっとタッチしていくわけだ…
と健はオダを振り返った。綺麗事では済まされない世界だ。華々しさも、勇猛さもない。
最善の答えを出すために、疑い、探る。そして、何があっても機密漏洩しないよう、タッ
チし終わった機密は即忘却する。が、万が一のときのために、自殺用の毒物を携行させ
られているという噂がある。映画じゃあるまいし、と笑い飛ばせるだろうか。
「どうしたの?」
「いや」
こののどかで平和な物腰が、このまま軍に居たらどう変わっていくのだろうか。
今ははっきり見えているそれが、蜃気楼だとやがては気付くのだろうか。
気付く前に死んでしまうのだろうか。

「ぼつぼつ味方地に入ったな。逃げ切れそうだ」
感傷的になっている場合では無い、と健はことさらに遠くを透かして見た。

**

夜明けとともに無線をオープンにした。いきなりダミ声が飛び込んできた。
−るか?!G1、救援に向かっている。聞こえるか?G1。
思わず、ボリュームを絞る。
「ヘリだぜ。少尉、もう近くまで来てるみたいだ」
小走りで森を抜け、見通しの効く草原に立った。
「こちらG1、近くまで来てるんだろう?こっちが確認できるか?」
−いや。まだ目視できない。二人とも無事か?
「少尉が軽傷。過保護のママとパパがすっとんで来るぜ」
−そりゃ。拙いな。お前殴られないように早く逃げろよ、G1。
オダが宙に向かってまっすぐ指を伸ばした。
「こっちからは見えたぜ」
−おおう。こっちもだ。
ヘリに向かって手を振って走った。

五月雨が煙る中、ヘリは基地に帰り着いた。降り立った途端、
「おい、ケ…G1、撃墜されたって?!」
心配そうな茶化しているような、懐かしい声。
「ジ…G2、なんでここに?」
抱きつきたい衝動をやっと堪えた。ジョーの指先だけが軽く健の髪先に触れる。そのジョ
ーの視線が、宙の一点で止まるのが分かった。振り返ると、オダがアレックスに捕まって
いた。
「おい、健。あれか?その、鳴り物入りってのは」
ジョーにも見覚えがあったらしい。健は微笑して頷いた。
「どうだ、使えそうか?」
「まだ分からない。判断はまだ先だ」
「いや、そう先でもないぜ。その報告会とやらを明日の午後やるってんで、俺は長官を送
ってきたんだ」
「あすう?」
「無断でお前の愛機を借りたぜ。帰りは適当にのってってくれ。俺は長官と別のを使うこ
とになってる」
「ああ、それはかまわないが…」
アレックスが近づいてきた。
「G1、世話になった。でも、仕事が早くてよかったろ?」
「本当に大丈夫なのかって言いたいね。これから1日で会議資料を作るって?」
「それが、大丈夫なんだな。まあ見てろよ」
オダは南部とリサと何か話し込んでいる。時折、頷いているのが見える。
「戦闘機でブン回されて撃墜されて、怪我して、真っ暗闇を雨の中走り回って…。ちょっ
とは休ませてやったらどうなんだ?」
「お前ら早くデータ欲しいだろう?鳴り物入りは鳴り物入り並の仕事しなきゃならない。
そういうことさ」
「はあ。なるほどね。天然パワー炸裂、か」
「てんねん?」
アレックスと、ジョーと、同時だった。そう、天然、あれだけ俺を揶揄ってくれたやつは
そういない。しかも悪気は全然無いときた。
「うまいこと言うねえ。天然かあ」
アレックスが嬉しそうに目を輝かせる。オダがリサたちから離れて走ってきた。
「G1、どうもありがとう。これからすぐに纏めるね」
「こき使われてるな。…そうそう。こいつG2」
ジョーを親指で指す。オダはぱあっと微笑んだ。
「オダ少尉です。お噂は聞いています」
どんな噂か。
ジョーの差し出した右手を、軽く握り返す。腕を上げるとき、肩が痛むのだろう、僅かに
表情が強ばった。
「よろしくな。俺もあんたの噂はよーく聞いているぜ。ところで少尉」
ジョーはこの上なく優しげに、オダに笑いかけた。
「姉さんか妹さんはいないのかい?」
健とアレックスが、口だけ開いて固まった。
「は?いいえ、俺は一人っ子です」
この、きょとんとした表情に、開いているだけだった口が爆笑になった。
リサが呼んでいる。
「済みません。行きます」
オダはまた走って行ってしまった。
「お袋さんも美人だろうけどなあ。ちょっと拙いよな、やっぱりなあ…」
ジョーの、冗談とも言い切れない独り言が終わらない。
「畜生…惜っしいぜ…」
「お前、一体何しに来たんだよ」
「へ?俺は、これから新開発の銃器のテストして、明日は例の会議出席だ」
「仕事か」
「当たり前じゃねえか」
アレックスが、こちらも笑いを堪えながら、とぎれとぎれに言った。
「部屋の準備がしてある。G1は今日はそっちで休んで呉れよ。食事どきには声を掛ける
から」
「有り難い」
とりあえずシャワーだ、それから朝飯だ、いやもう寝ちまおうか…

「おやすみ」
ジョーに手を振り、先に立つアレックスを追った。


Episode 1-5


朝食の誘いだったであろう電話は、あまりの眠さに取ることすらできなかった。リサが掛
けてきた昼食の電話は取るには取れたが、取れただけで、
いい。寝が足りない。もうちょっと休ませてもらう。
…という状態だった。
ただ、どろどろ頭に過ぎるものがあって、口をついて出た。
「少尉は?」
−どの?
「どの、って」
−うちには“少尉”は何人もいるのよ。
声が笑っていた。何を絡んでるんだ、と健は思った。乗ってやるか。
「天然の」
−天然の少尉は今にも佳境を越えそうよ。今日中に準備OKですって。話す?
天然の少尉、電話、XX番、というリサの声が、ことさらに電話口に響いた。
−オダです。
オダ、に力が入っていたのは気のせいではない。
「大変そうだな」
−そうだよ。アレックスが喜んで触れ回っちゃって。なんで俺が“天然”なの。
オダには、データ解析よりも健の“天然”発言が物議を醸しているらしい。
「怪我の手当くらいちゃんとしたんだろうな?」
−うん。医者に大したことないって言われた。
「明日の会議が終わったら休めるんだろう?」
−会議っていうか、会議の後始末が終わったら休んでもいいって。
「大変だな」
−だから、俺のどこが“天然”なわけ?
会話が捻れている。健は喉の奥で笑いを噛み殺した。
「そういうところ」
−え?
「じゃ。俺、また寝るから。あんまりカリカリやるんじゃないぜ」
−あ、はい。おやすみ。
この後まさしく、おやすみ3秒だった。

夕食の電話は、他ならぬ南部直々だった。叩き起こされたタイミングが悪かったのか、頭
痛が酷くて目も開かなかった。
−いいから。休んでいなさい。今回はミッションが予想外に早く終わったし、明日の会議
後、明後日から今週いっぱいは休暇にしたまえ。
破れ鐘に残ったのは、あれこれ話したなかでこの休暇のところだけ。
ここで更に寝入ったのだが、空腹が堪え切れなくってしまった。
丸1日以上、ろくに何も口にしていない。無理も無かった。基地のデリにでも行ってみる
か、と健はベッドを這い出した。

基地は広い。何度も来ているから勝手は分かるが、歩いての移動はなかなか億劫だ。
時計を見れば、よい子はおやすみの時間である。
傘を差すほどではない霧雨が、空気をしっとり重くしている。何となく肌寒い、頼りない
晩春の陽気だった。
気儘にふらふら歩いていると、リサのオフィスに灯りが点いているのが目に入った。お食
事会から漏れて、残業している気の毒なヤツがいるのだろう。もっとも、リサも階級が結
構なところだから、実際には部下は大勢いる。殆どが、内部で機械に齧り付いているば
かりの面々で、健のような実戦部隊と行動を共にするような者は、その中の数人に限ら
れた。
オダもお食事会に行ったのだろうな、とふっと思った。今回のミッションのいわば主賓だ。
行っていないわけがない、と思った。
知った顔は残って居ないかと、それでもオフィスのビルを目指した。
ひとりの食事が、何となく侘びしいような気がしたのだった。

セキュリティカードが無いので入れない。オフィス内をガラス壁から窺った。
オダが肘を付いてディスプレイに向かっている。ガラスを軽く叩く。気が付かない。少し
強く叩く。驚いたように、こちらを振り返った。にっこり笑って席を立ち、歩いてくる。
ドアを開けて健を招き入れた。
「どうしたの?みんなと出掛けてるって思ってた」
「眠くて起きられなくてさ、置いてけぼりを喰らった。少尉こそ」
「仕事が中途半端だったから、パス」
「まだ遅くまで掛かるのか?」
「ついさっき終わった。食事会でも軽く前振りが出てるんじゃないかな」
「めしは?」
「まだ」
「どっか喰いにいかないか?」
うん、と頷く。妙に幼い。機械を前にしてるときが、特別なのか、本物なのか。
「基地で済ませる?車出す?」
「どっか行こうぜ」

**

ハンドルはオダが握った。道路が貸し切り状態なのもあるが、けっこう飛ばす。何とな
く、意外な気がした。途中は昼間の会話の続きだった。
「休暇、家に顔だすのか」
「軍に入るとき拗れちゃって、勘当同然。敷居が高いんだ」
「親父さんと?」
「父は軍隊嫌いだし。母とも。子供の頃体弱かったのが、今でも心配みたいで」
「親父さんは軍関係者じゃないのか」
「うちの係累では俺が軍人第一号。父はサラリーマン、母は主婦」
「家、どこ」
オダはシティ郊外の有名高級住宅地をさらっと口にした。サラリーマンでもトップクラス
だ。経済的にも恵まれ、両親そろって大切にされて、何の挫折も苦労も無かったんだろう
な、と思った。
「早く仲直りしろよ」
「…うん」
切れが悪い。
「親とは思うほど長く一緒に居られるもんじゃない。早いトコ謝っちまえ」
「俺、悪いことしてるわけじゃないもの」
「そんなところで意地張るなよ」
健の調子が少し、違う。健自身よりオダのほうが先に気付いた。
「G1の家族は?」
「両親は亡くなった。俺は少尉と同じ一人っ子」
「ふうん」
オダは口籠もったまま、視線を一瞬だけ健に向けた。霧なのか雨なのか、愈々見通しが効
かなくなってきた。車の速度が徐々にスローダウンする。

**

オダに案内された森の中のイタリア料理店は、気の置けない店の雰囲気も、それにしては
真面目な味も、いたく健の気に入った。ピザにビール、ワイン、パスタ、リゾット、ドルチェ、
エスプレッソ…
すっかり幸福になって店を出た。霧が深かった。体が濡れる。
オダが木々に囲まれる駐車場を走っていく。そのシルエットが霞んでいく。
睡眠不足の筈なのになぜああも元気なのか、と健は苦笑しながら少し遅れて歩いて行っ た。
不意に人影が過ぎった、霧の中を、木々の影を、ひとつ、ふたつ、…みっつ。

オダはポケットから鍵を出しながら、運転席のドア前に立っていた。健は、その背に駆け
寄った。
「少尉」
「え?店の前で待っててくれたらよかったのに」
「そうはいかないだろう」
健の背後に複数の跫音。健の肩越しに何を見たのか、オダが蒼褪める。
「なんだ、連れがいたのかい」
酒臭い息が、健の後頭部に吐きかけられた。健より頭半分、上背がある。
「デートかい?いいねえ、楽しかったかい?」
右うしろ。
「おれたちとも、楽しくしねえか?したいだろう?…なあ、少尉」
左うしろ。
「こないだの連中より、おれたちのほうがずーっとじょうずだぜ、…来な」
下卑た嗤いとともに、健ごしに、太い腕がオダに伸びた。健がその毛深い腕を捕った。相
手の体重が乗る。そのまま骨折の感触があるまで捻り上げた。呻いて崩れる。鳩尾を膝で
蹴り上げると、簡単に転がった。失神したらしい。
「失せろ」
残り二人の男は、一瞬毒気を抜かれたようだったが、健の線の細さを見てとって、ニヤリ
と体勢を立て直した。
「少尉の兄さんかい?こりゃまたすっげえシャンだなあ」
「ふたりいてくれるなんて、丁度いいじゃないか。それぞれ、お世話してさしあげましょ
うかあねえ…」
だらしのない軍服と、たるんだ筋肉とが健に異様な不快感を齎した。
「お前ら、俺の顔を知らないってことは、仕事ができないってことだぜ」

実際、あっという間だった。

健が振り返ると、オダは運転席のドアを背にしたまま、完全に固まっていた。
足下に、三人が三人とも、白目を剥いて転がっていた。手足が妙なほうに向いているのは
ご愛敬。所属がどこかは知れないが、肉体労働系なら再起不能だ。
「おい、少尉。しっかりしろよ。終わったから」
反応が無い。肩を掴んで揺すったら、やっと黒い瞳が健に焦点を合わせた。
「ちょっと運転してみたくなった。キーをくれないか」
健はオダの手を開いて、車の鍵をもぎ取った。

助手席が息を殺している。顔色が酷く悪い。時々苦しそうに目を瞑る。
健は道路脇に車を寄せた。
「気分悪いのか?」
「ううん。平気」
…じゃないだろう、とは一目瞭然だった。
オダは理屈で納得できない対象を受け入れられないらしい。機械は大変ではない。こんな
タイプにとっては人のほうが余程に大変なのだろう。
けれど、べそを掻いているかと思ったら、目は赤いが堪えている。
そういえば、ミッションでも泣きは入れなかったし、気絶もしなかった。
…ド素人のくせに。
健はふっと微笑んで、オダの色を失った頬を指の背で撫でた。背中に腕を回して抱き寄せ
る。オダは最初だけ体を強ばらせたが、健の胸に大人しく顔を埋め、長く息を吐いた。霧
に閉ざされた、亜空間の静寂。

「軍には、どうしようもないやつが沢山いるって、話したことあったよな」
僅かに頷くのが、感触として伝わってきた。
「いいか。何があっても、表情や態度に顕してはいけない」
健は静かに、だが確乎と続けた。
「また、全てを理解しようと思ってはいけない。生存と任務に必要なことだけ分かってい
ればいい。後は放っておくんだ。それから、射撃やマーシャルアーツはちゃんと抑えてお
け。喧嘩が分かれば、囲まれても平気だ。最悪でも逃げおおせられる」
とはいうものの、こう華奢じゃ喧嘩は無理だな、と思いはした。
「ハートと頭と体と、どれかだけが強いなんてのは紛い物だ。バランスが良いほど、有能
なんだ。仕事も楽しいし、出世できる」
分かるな?と問う。うん、と小さいがはっきり返ってきた。
「落ち着いたか?」
オダは健の腕に手を当てて、ゆっくり体を起こした。
「…ごめん。どうもありがとう」

静かに車をスタートさせた。
「せっかく旨いもん食ったのに、台無しだよな。呑みなおすか?」
「…そうだね」
ジョーに声を掛けなきゃな、と思った。食事会は終わっただろうか。
こういうときの雰囲気作りは、苦手だ。下手すると留めを指し兼ねない。
ジョーならきっと、良い明日の為に、良い今日を終わらせてくれるだろうから。


Episode 1-6


報告会会議の席には、リサの所属する統合情報部、更に実戦部隊の主立った面々が勢
揃いしていたような記憶がある。軍関係者と傭兵との混成部隊、思えば、不自然な状態で
はあった。健やジョーは南部配下ということで、ISOの人間と理解される向きもあったが実
際にはそうとも言い切れないし、他にも、軍所属では決して無い、雇われ兵隊も相当数入
っていた。小競り合い的な戦闘が方々で頻発していたせいか、軍だけでは賄い切れていな
かったのだろう。
この頃、健達が急速に軍寄りの仕事をするようになったのは、南部とリサのチャネルの強
さが一因だった。リサは元々大学で教鞭を執っており、南部に嘱望されて、ISOのネット
ワーク整備の相談役や、健やジョーにそのレクチャーを行ったりしていた。そのリサが軍
に招聘され、コンピュータ戦線現場の事実上トップになった関係で、南部と軍との親密度
がアップしたのである。
リサ側の事情から言えば、女性でかつ年齢的にも不足しているため、旧弊的な軍内部よ
り、南部とタイアップしたほうが確実に有能な実戦部隊と連携できる、というメリットがあっ
た。さらにこの時期は、最高機密クラスに内部のゴタゴタ、即ち収賄果ては諜報容疑など
が相当数含まれ、内輪が信用ならない状態だったらしい。下手に内部だけで片付けよう
とすると、“知りすぎた”リサの部下の身が危うくなる。リサは実戦部隊を外部の南部に
要請することで、その危機を少しでも軽減しようとしていたのだ。
南部からしてみれば、リサのチームが持つ技術力と機動力が魅力だった。ISOの情報シ
ステム室は、確かに優秀な人材は多いのだが、有事の際に発揮されるブロック力、情報
の収集力・読解力・解析力はリサ達の右に出る者は居ない。健やジョー達と行動を共に
して、情報収集・処理できるプロを、当時のISOは擁していなかったのだ。
ISOと軍、否、南部とリサの間には、共通の敵、需要と供給の絶妙なバランス、というほ
ぼ理想的な協力関係が取れる背景があったのだった。

報告会は本当に単なる報告会だった。作戦立案は、実際に戦闘に参加する部隊のメイン
が喧々囂々するもので、こんなに船頭が多いと船が山に登ってしまう。
リサは、旧弊的な軍の歴々に、自身の遣り方で従来より高レベルの成果を上げることが
できる、というデモンストレーションを行いたかったのだ。その点から言えば、このイベン
トは大成功だった。リサの配下でも最年少のオダが、リサの思った以上のスパコンぶりを
発揮したのだった。前半では、手元資料すら持たず、リサの背後にアレックスと並んで大
人しく控えていた。後半、「実際に処理を行った担当の者から詳細の説明をさせますので
…」の決まり文句でリサに引っ張り出され、火力を始めとする敵の戦力を、詳細な数値デ
ータを参照させながら、淡々とシミュレーションし解説した。
時折その天然さで失笑を買いつつも、ではあったが…。

**

あいつ、使えるな
ジョーが健に目配せした。健は確乎りと頷いた。
「いや。聞きしに勝る、とはこのことだね」
南部が溜息しながら眼鏡を拭いた。こんな風に誰かを褒めるのは珍しい、健もジョーも南
部の顔を注視する格好になった。
「統合情報部の幕僚候補とは、聞いてはいたが。いや、利口な子だ」
「ばくりょう?」
健はジョーと顔を見合わせた。幹部候補だとは思っていたが、レベルが違った。
「彼はおそらく凄い勢いで出世するだろうね」
「じゃあ。俺たちなんぞとはそう縁は無いんですね」
ジョーが感心したように言う。
「じきに分厚い壁の向こう側に行っちまうわけだ」
健は黙って、相槌も打たないでいた。
「彼自身は現場仕事を好んでいるようじゃないか。暫くは一緒にやって貰えるのではない
かね」
リサにはそうリクエストしておくとしよう、と南部は微笑した。

**

「幕僚とはねえ」
基地のカフェでの小休止。ジョーがコーヒーを一口含んで苦笑した。
「凄えな。俺たち、幕僚と雑魚寝したんだぜ」
「幕僚、候補」
健は憮然と言葉を切った。
昨夜はあの後、食事会後のジョーも誘って、健の部屋で呑み直しになったのだった。健は
早々に就眠してしまったのだが、ジョーとオダは明け方近くまで盛り上がっていたらしい。
朝、まだ微睡みのとき、横に温もりを感じたのが無性に嬉しくて、てっきりジョーだとばか
り思って擦り寄って行ったら、オダだったのである。キスする直前に気が付いて、心臓が
停まる思いで焦りに焦ったのだった。当のオダは死んだように眠り虚仮ていて、不幸中の
幸いだった。肝心のジョーといえば、ソファで高鼾だった。
「あいつ、酒強いぜ。いろいろ面白かったぜ」
そういえば、呑み始め、健とオダがベッドに腰掛け、ジョーはソファに転がっていたので
はなかったか。と健は記憶を辿った。迂闊だったな…。
「姉妹は居ないって言ってなかったか」
冷や汗が引く頃、前触れもなくオダが跳ね起きた。やおら時計を見て、やっばー、と独り
言すると、健に、じゃ、と軽く笑いかけ、出て行ってしまった。
「戦闘シミュレーションの話ししてたんだよ。今回のは俺も参画したいしな」
今朝の健の周章狼狽ぶりを、ジョーは知らない。
「お前があれに出ていくんなら、俺は別件だな」
セットで動ける試しが、殆ど無いのが現実ではあった。
「やりかけてるから、最後まで見届けたいってか?」
「お前が行くなら構わない」
ジョーならやるべき事をやってくるだろうから、と健は冷めた紅茶を啜った。
「俺は明日から三連休だ。正直言って、暫く仕事のことは考えたくない」
「ああそうか」
ジョーは天井を仰いで言った。いいよなあ、明日から三連休かあ、俺なら…。
健はそんなジョーの様子から察した、1日として休暇が重なっていないことを。

ジョーは腕時計を一瞥し、南部に呼ばれているからと、行ってしまった。
俺は、と健もぐずぐずと立ち上がった。とりあえず帰営しないとな。ジョーが愛機を運ん
で来てくれているらしいから、ちょっと様子を見てこよう。

愛機は絶好調だった。健が嬉々として機体を撫でていると、呼び止める声が突き刺さって
きた。
「G1」
振り返ると、オダ。息が上がっている。また走っていたらしい。つくづく元気だ。
「まさか、まだ帰らないよね?まだG2達残ってるし…」
「今回は別行動だ。俺の任務は完遂したから。そろそろ帰る」
「ええ?もう帰っちゃうの?」
これが凄い勢いで出世して…、俺達のような一兵卒のことなんぞ忘れ去って…、
「遊びに来てるんじゃないんだから」
「それは」
分かってるけど、とオダは口籠もった。
「報告会は盛況だったな」
「あんなのでよかったのかな。上っ面だけさらっと撫でただけじゃないか」
「突っ込んだ話しは、別の面子でやるんだろう?」
「そうなんだろうけど。二度手間だよね。無駄じゃない?好きじゃないな」
「未来の幕僚が何言ってるんだか」
健は一笑に付した。
「幕僚?なにそれ、誰がそんなこと言ってるの」
「うちの偉いさん」
「G1とG2と並んでた男の人?中佐と親しいんだよね、あの人」
南部をまだ認識できていない。これも天然パワーの賜か。
「軍が大学を丸め込むのにあれこれ美辞麗句を連ねたんじゃないの?知らないよ。…そん
なことより、忙しいの?」
「俺がここにいたって変じゃないか。そうだろう?軍の人間でもないし、ミッションも終
わってるのに」
「そうかもしれないけど」
と、オダは言い淀んだ。挙げ句に、
「G1、昨日さ、ご馳走にあぶれたでしょう?今夜のに便乗すれば?」
食べ物で釣るつもりらしい。健相手の戦略としては理に適っている。
「今夜って、何かまたあるのか?」
「今日、俺の誕生日なの。リサやアレックスがなんかご馳走してくれるって。初仕事もど
うにか終われたから、って。今回の任務はG1のお陰で何とかなったようなもんだもの。
だから…」
どんな幕僚になってくれるのか…。健の口元にふんわりとした微笑が浮かんだ。
「こいつの置き場所があるんだったら、残れるよ」
健は愛機を示して言った。オダは頷くが早いか、最寄りの内線電話にすっ飛んで行ってい
た。
「大丈夫だって。大切にお預かりしますって」
そんなに大声で叫ばなくても。
「天然だよなあ」
「だから何が」
悪口は、聞こえるものだ。
「少尉が」
「早くどうにかしないと、定着しちゃいそうだよ、それ」
「もう手遅れじゃないのか」
本気でむくれてしまった。
「そんなに、イヤだったか?俺もそこまでみんなに喜んでもらえるとは思っていなかった
んだが」
「俺は喜んでない」
「ふうん」
健は両手の親指をズボンのポケットに引っかけた。
「じゃあ、少尉は何て呼ばれたい?少尉?苗字?」
オダはきょとんと健を見た。そういう問いかけを予想していなかったのだろう。
「オフには何て呼ばれてる?…ファーストネームは?」
「え?」
「俺はケン、健だ」
健は言いながら、オダの胸のネームプレートを一瞥した。
「J…」
「ユリウス」
ラテンの響きではない。もっと北の国の言葉の響きだった。
「ユリウスか。…リ。ユーリ?」
オダが小さく頷くのが見えた。
「OK。ユーリ、こいつに乗せてやるよ。こないだは往復とも暗いウチに飛んだからな」
「ええ?いいの?本当に、本当にいいの?」
「飛ぶのは蒼天の中が一番さ。しかも今度は正真正銘の俺の機だ。誕生日プレゼントって
ことで、どうだ?」
「凄く嬉しい。ありがとう」
さて、明るいうちに離陸できるかな、と今度は健が内線電話に向かった。
ところで、いくつになったんだ?
じゅうく。

**

どんなにか偉くなって、分厚い壁の彼方に隠れてしまっても、強烈な空の青の印象はそう
そう薄れるものではないだろう。

ユーリ。空は、いいだろう…?
うん…


END



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