Breathe Episode 4 < FIGHT >
*MAGAGINEの< SILENCE > Episode 3-9から3-20までを収録

by もも

Episode 4-1


「健、報告は明日でもいいだろう。俺が適当に言い繕っておくからよ」
帰還後、車をISOに向かわせながら、ジョーが言った。
「いや。リーダーは俺だ。特に今日は、報告すべき事柄が…」
ハイパー・シュート失敗、南部はどう捉えているだろうか。
「その生真面目なのもいい加減にしないと、白髪になるか、禿げるか、だぜ」
とジョーは半分冗談めかした。
「よせよ」
「…それはジョークとして、お前、具合どうなんだ。やっぱり宿舎に…」
「大丈夫だ」
健が言い張れば、ジョーは無理にとは言わない。健の思うようにさせてくれる。
ジョーに微笑みかけ、ISO庁舎の威容をフロントガラスごしに見上げた。

車をパーキングし、庁舎のホールに入った途端に、懐かしい顔と鉢合わせした。
「リサ」
統合情報部セキュリティ部隊の実質の長。リサ・シーン中佐。オダの上官。
「あら、久しぶり。長官のところ?」
「ああ」
「それなら残念ね。臨時会議とやらで各国の多士済々に引っ張っていかれたわ」
お茶でもしない?と彼女はウィンクした。相変わらずのアグレッシブさ。少な
からず救われた気がして頷いた。
「あんたが穴蔵から出てくるなんて、何があったんだ?」
ジョー。
「もう決定済みだから、喋っちゃってもいいわね。ま、一応内緒よ。統合情報部がこっち
に移転することになったの。その詰め」
ISOが科学と情報の中心になる、と南部が常日頃言っていたのを思い出した。
「それから、引き継ぎ。オダを本部にレンタルするの」
「本部って、統合情報部の本部かよ?」
「そう、それ。ライズ少将直下の部隊。まあご栄転なんだわ。半年で返してって言ってる
んだけど、本当に戻してくれるのかしらね」
リサは肩を竦めて、うふふと笑った。

ISOの1Fにあるコーヒーショップに座を占めた。
「ライズ少将って、大佐んとこのダレかか?」
「下のお兄さん。ISO嫌いで有名な」
なるほど、と健は思った。そこに居れば、ISO絡みの任務は金輪際無い。
「いつだよ?」
「10月からだから、あと1ヶ月ちょっとね」
「そうか、天然との付き合いも、そんなもんになったか」
ジョーがふっと寂しげに呟いた。一緒の任務は、健よりもジョーのほうが多い。
「うちは大打撃よ。でも、仕方無いわ」
「仕方無え?どういうことだ」
「長官とこの仕事が、軍ではさっぱり捉えられないのよ。不思議なくらいブラックホール
なの。あの子ひとりに。いくら何でも危険すぎるわ」
「おい、リサ、俺たちは…」
健。ジョーも苦笑した。
「知ってるわ。長官の直属よね。でも、要らないお喋りをするタイプじゃないし、何なら
告げ口してもらっても。返って好都合よ」
3人で笑った。しかし、リサは少し遠い目をした。
「私は長官がまだ博士と呼ばれていた頃からのお付き合いで、そのご縁もあって今までや
らせて頂いたんだけど。…変わったわ」
コーヒーが運ばれてきた。
「あんな人じゃなかった。もっとこう、人間的に暖かさが零れるような人だった。あんな
役職に就けられて、戦争も終わらなくて責任ばかり感じてるからかしらね。私の下の人間
を引っ張って行ってるのに、何も話してくれない。不安になってきてしまって。誤解しな
いで。私は長官を好きだし、尊敬してるわよ」
リサは多分、南部とは執拗に連絡を取ったに違いない。一番の秘蔵っ子を出しているのだ、
当然だろう。しかし、南部はリサの納得の行くような答えをしない。彼女は一流の科学者で
もある。引き下がらなかったのだ。
オダをどう回収したものか思案していたところに、ライズから報告があがった。ライズ兄
弟の不仲は有名だから、入れ知恵だけで、リサが実際に動いたのだとは思う。旧勢力の
第一人者の一人であるその兄のところに話しは振られた。
オダなら先方も諸手を挙げて大歓迎だろう。話しは早い。

間に合うのか、と不安が過ぎった。他の任務もある、統合情報部の移動もある。
その中で、いくらスパコンでも…。
「リサのところの引っ越しはいつ?」
健は、軽い調子を保って問うた。
「うちが先陣を切るの。来月よ。ご近所になったらよろしくね。…あら…」
時間が無さ過ぎる、と健の胃が軋んだ。
一方、急にリサが席を立った。ISOのカフェはフロアとの境にはグリーンの鉢が置いて
あるだけだ。廊下と丸見えになる。
「アーサー、会議終わったの?こっちいらっしゃいよ」
手を振りながら、健とジョーの背後のほうに行ってしまった。
「なんだ、長官はまだ苛められてるの。徹夜かもぉ?本当に損な人ね」
今日中に南部に報告するのは不可能だな、と思った。
「あなたも可哀相にね。草臥れたでしょ。甘いものでもご馳走するわ」
健はジョーと顔を見合わせた。誰をナンパしてるんだ? …さあ…。
「仕事?あたしが誘ってるのに、どういうこと?ブッ千切りなさい。とにかくあなたは働
きすぎよ。部下も帰してやんなさいよ、ほら…」
フロアまで走り出て行ってしまった。
リサに引きずられて現れた人物を見て、ぎょっとした。
「やあ。大佐、あんたにもファースト・ネームあったんだなあ」
ジョー。ライズは黙ってリサと並んだ。あの、一分の隙も無い軍服姿だった。
「嬉しいわ。私の教え子の中でもハンサム度ベスト3と一緒なんて」
天然の上官は能天気。こんなリサが、健もジョーも好きだった。まだローティ
ーンのころ、コンピュータのいろはをレクチャーしてもらってから、ずっと。
「あ、うちの天然スパコンが居ない。惜しい」
「大佐もリサの教え子ってか?」
「そうよ。専攻しなかったけど。結局、ジェットの設計の方に行ったのよね、あなた。あ
たしを裏切って」
「そういう言い方はやめてくれ」
「だって、すっごく期待してたのよ、私は」
「ハンサムだから?」
こいつ、冗談も言えるのか、とジョーが健を横目で見た。
「その通りよ」
脱力した笑い。
「そうね。成績は、天然スパコンが文句無しダントツ。それから、健とアーサーが互角。
ジョー、あなたは、コンピュータ、ホントに嫌いだったわね」
「今でも嫌いさ。あの頃はあんたも若くて綺麗だったからなあ。あんたに会えるのが嬉し
くて皆勤したようなもんさ」
「あら、そんなこと言ってくれちゃったら、怒れないじゃないの。でも、お生憎さま、私
は今でも綺麗よ」
「そんな分かり切ったこと、いまさら。そうそう、泊まり、どこ?」
また、脱力した笑い。

と、急にリサが真面目な顔になった。
「アーサー、会議、どうだったの」
「袋だたき」
ライズは呟くように答えた。表情は無いが、心なし顔色が悪かった。
「シティは焼ける、民間人には被害が出る、戦争は終わらない、戦闘時間は延びるばかり
…。ごもっともというところだ」
「ゴモットモ?何もしない爺どもにぼろかすに言われて?」
「リサ、危険な発言は慎んだほうがいい。終わらせるのが俺たちの仕事だ。職務怠慢と言
われても否定できない」
「あなた、ずいぶんと物分かりがよくなったわね。老けるはずだわ」
「ぼろかすに言われるために、昇進したようなものだ。自業自得だな」
ライズの前に、紅茶が運ばれてきた。意外に細い指先が、ミルクポットを摘みあげた。ミ
ルクがふわふわと、うす朱を白く滲ませた。
「ISOで一人前に物を言わせてもらおうと思ったら、大佐くらいではまだ不足だ。報告、
陳情、謝罪。いちいち、偉いやつを連れてこいと言われ兼ねない」
「でも、あなたのところだって犠牲が出ているのに…」
この言葉に、健はどきりと凍った。
「そうだな…」
色の無い瞳が揺れた。一瞬だった。
「いや、リサ、少し違うな。俺の部下は、俺の与えた任務で命を落とした。俺が手に掛け
たも同然だ」
「何言ってるの、あなただって辛いのに」
「同じ任務を与えられて、生還した隊員のほうがもっと辛い。戦友の死の責めをどうして
も感じてしまうからだ。俺は、泣きも騒ぎもせず、ただ彼らを迎えて受け入れ、せいぜい
が憎まれてやることしかできない」
「馬鹿みたい。止めなさい、そんな疲れること」
リサは言葉とは裏腹に、優しくふんわり微笑すると、ライズの腕を取り、頬に掌を当てた。
あの強面が、たじたじと引いた。
「階級も追い抜いたことだし、いい加減に子供扱いを止めてくれないか」
「悔しかったらトシを追い抜いてごらんなさいな」
ライズがくすりと口元を綻ばせた。日頃は出し惜しみされている、普通の微笑。
「そうそう。ご飯いきましょ、ご飯。かわいい教え子たちにご馳走するわよ」
リサが手を叩いた。
「じゃあ、天然にも声掛けてやれよ。俺らとの付き合いももうちっとなんだし」
ジョーのごく何気無い提案に、リサが一瞬表情を堅くした。
「…そうしてやれたらいいんだけど、なんやかやで仕事が超立て込んじゃって、今日は徹
夜とか言ってたわ」
「相変わらず酷え使われからしてるな、あいつ」
「まあ、そうね。でも、あと1ヶ月ちょっとだから」
ジョーはやはり寂しいのだ。口が悪いだけ。こんなに優しい男はいない。
そういえば、メールもこのところ入っていないな、と健は思った。あいつ、そんなにてん
ぱってるのか。
「また誘えばいいわよ。私、移動時間が中途半端だったから昼抜きなの。とにかく、ご飯
行きましょ。アーサー、あなたのマイバッハ回して来てよ」
「リサが部下ごと返してしまったじゃないか」
「そっか。乗り心地ピカいちなのに、拙ったわ。じゃ、ジョー、車出して」
「俺は補欠かよ」
「成績順よ」

不意に、リサの携帯電話が鳴った。
「ハイ、あ、アレックス?…了解」
ごめん、とリサは席を立った。10分後に表玄関でいい?
伝票を握って走って行ってしまった。アレックスはリサの部隊のナンバー2だ。
何かあったのだろう。
ジョーが健の顔をちらっと見た。健は大窓の外を眺めているライズを一瞥した。
ここで避けてどうする。顎を引き、ジョーに目配せした。
「運転手は車を回しておくぜ」
肩を軽く叩いて、席を立った。

もう誰もいないかのように、ライズが席を立った。弾かれるように後を追った。
「大佐」
回転ドアを抜けると、乾いた風が巻いていた。横風に嬲られ、プラチナ・ブロンドが頬と
額に流れ落ちてきた。鬱陶しそうに、頭を一度だけ振った。
さっきの決意ほどは、言葉が出てきてくれなかった。謝るのか。説明するのか。
「君は、あの生化学兵器と心中するつもりか」
健のことは一顧だにせず、ライズのほうから切り出した。
「俺にはあれしか無いんです」
頭の中がうわん、と鳴った。
「今日も、俺がもっと早く、ちゃんとあれを使えてさえいれば、副…」
「我々は任務を遂行しているに過ぎない。さっきも言ったが、部下の生死は指揮官の手の
内のものだ。彼に任務を与えたのは俺だ。君は一兵卒に過ぎん。現象の裏側を考えるな。
戦闘機が墜ちた、それだけにしておけ」
「こんなやつが遺って、と思ってるんじゃないんですか?!」
声が震えた。情け無かった。
「たわごともいい加減にしろ。やつが命と引き替えにした人間のことを、" こんなやつ "と
思えるか」
横面をはり倒されたような、気持ちがした。
「我々が援護する限り、君には生き延びて戦い抜いてもらう。…ただ」
珍しく言い澱んだ。健は言葉を失ったまま、表情の無い横顔を見詰めた。
「個人的には、君には、ああいうものを使い続けてほしくはない。焦らず、常に退路を確
保し、味方を巧く使うこと…」
長官もそうおっしゃっているのではないか、と言った。確かにそうだった。
でも。
「…大佐」
「俺はもう、鳳が墜ちるところなど二度と見たくない。それだけだ」

パッシングしながら入ってくる車の影が見えた。ジョーだ。
ライズが、階段を下りていく。
でも。
でも、俺には…。


Episode 4-2


男って馬鹿よ。どうしてそう死に急ぎするのよ。最新鋭の兵器だの、戦闘機だのって、そ
れで戦争が早く終わるって思ってるの。一振りの刀、先込めの火縄銃で戦っていた時代
のほうが、戦は早く終わって、人死にだって少なかったんじゃないの。私は、みんなには
戦争が終わるまでどこかに隠れていてほしいくらいなのよ。生きて欲しいの。生き抜いて、
戦争の終わった後の時代を迎えて、好きな仕事について、いいことも、わるいことも、い
っぱいやって。恋もして、失恋もして。チャンスがあったらお嫁さんをみつけて。お父さ
んになって。とにかく、素敵なおじいさんになってほしいの。俺の若い頃は面白かったぞ、
なんて言ってる、つやつやのおじいさんになってほしいのよ。

深酔いしたリサが、男3人を目の前に並べ、首に腕を回して束にして、抱き寄せて言った。
少しだけ、泣きベソだった。

軍に入ってやっと理解できたわ。軍は必要悪なんじゃない、不必要悪よ。

**

ジョーの腕に頭を乗せて、瞳を閉じたり、闇を透かしたりしていた。
リサの声が、行きつ戻りつしては健の胸を一刺し、二刺しした。
「眠れないのか?」
眠っていると思っていたが、ジョーの声は冴えていた。
「…ああ、目も頭もヘンに冴えて…。お前もか?」
「まあな」
ジョーがゆっくりと長い息をつく気配がした。
「健、やっぱ、お前はハイパー・シュートを2度と使っちゃいけねえな」
「え?」
体を起こした。何を言い出す?
「あれはもともと俺のもんだ。今までは、よく言うだろ、適材適所じゃなかったんだ」
「馬鹿を言うな。あれは俺の」
「違う。あれは、俺みたいな機械人形の持ち物なのさ。お前だから、具合も悪くなる。イザ
ってときに、足腰立たなくもなる」
「お前、俺は…!」
「ほんとに気が短えなあ。落ち着いて聞けよ」
ジョーは掴みかかりそうになった健を、子供をなだめるような微笑みで制した。
「お前は、年を重ねて、恋愛なんかもして、まかり間違えりゃ親父になって、ってやって
いくべき人間なんだ。俺は、そうじゃねえ」
静かな低い声だった。
「俺は、こんな体になってまでなんで生き長らえているんだ、ってそればかりで身動きが
取れねえ。言ってみれば、戦争の中ででもなきゃ、何の意味もない存在なんだ。あの剣は
俺に返して貰う」
「ひとりで勝手に決めるなよ」
健はベッドに起きあがり、ジョーの顔を睨み付け、腕を掴んだ。
「南部長官だって、そうしたいはずだぜ。さいしょは俺が使うもんとして開発されたんだ
からな」
「お前が多少、俺と体のつくりが違うからって、使いこなせる保障は無い」
「飛び道具だの、ナイフだの、そうゆうもんは、俺のほうがセンスあるぜ」
「リーダーは俺だ、どうしてメンバーに…」
「大佐がいいこと言ってたじゃねえか。指揮官は、ただ迎えて受け入れるってよ。俺たち
にとってはお前がそうなんだよ。お前が、俺たちを、迎えて、受け入れてくれなきゃなら
ねえ。それが、先頭切ってとんでってどうする」
「俺たちの指揮官は長官だ…」
「リーダーのお前にとってはそうさ。でも俺たちのじゃねえ。長官は俺たちと一緒に飛ん
だりしねえ。きな臭い空気を一緒に吸ったりしねえ。俺たちの指揮官はお前なんだ。そう
だろう?だから、お前が調子悪かったり、ましてやもしものことがあったりしたら、チー
ムとしておしまいなんだ」
「俺は大丈夫だ。メンバーを危険な状態に追いやることはできない」
「頑固だな。よし」
ジョーが体を捻った。健は腕を取られ、脚を取られて、ベッドにうつ伏せに転がされた。
「ヤったほうが強い。強いほうが、あの剣を手に入れる。どうだ?」
「冗談は…」
「本気だぜ。分かりやすくていいだろう?」
ジョーの片方の膝頭が健の腿を割った。いくらG1号ガッチャマンでも、ジョーが本気で
サイバーの力を出せば、敵う術は無い。
後ろ手にねじ上げられた腕の関節が悲鳴を上げた。肩がシーツに押し付けられた。
「止めろ」
「意地張ってないで、脚、開きな」
「放…」
ジョーの残る膝が、さらに健の両膝の間に割り込んだ。
引き裂かれるような痛みと、うかされたような熱と。
「健。俺はお前を戦争になんて渡さねえ。平和だ、正義だ、そんなもなどうでもいい。お
前が生きてさえいればいい。お前が大切なんだ」

食い縛る歯列が次第に緩み、甘い吐息が漏れる。
白い背中が、魚が跳ねるように反り返った。ジョーがその上半身を受け止める。
振り返るとうす青の瞳があった。
唇を求めて、探して、ぴったりと寄り添った。
津波、そして、凪。

**

俺の勝ちだな。
とジョーは健の髪にキスしながら言った。
ジョーがここまで自己主張することは、無いことだった。自分が生身の人間ではないとい
う負い目からか、いつも黙って一歩引いている感があった。朝が来たのだろうか、ジョー
が起き上がって部屋を出て行く気配があった。ISOに行ってしまう、と後を追おうとし
て、悪寒と頭痛に襲われ、果たせず、ベッドに突っ伏した。非力だった。

電話が鳴った。やっとの思いで受話器を取った。
−健?
オダの声だった。頭痛を追いやって受話器を耳に当てなおした。
「ユーリ?どうした…リサから異動のこと…」
−いろいろあって。連絡できなくてごめん。今日、会えない?
これからとにかくISOに行って、と健は思った。
「午後なら。午前中はISOに居る」
−そう。俺もISOに居るから、そっちの用が終わったら携帯鳴らして。
「分かった」
−じゃ。

切り札は、まだ俺の手のうちだ。ジョー。


Episode 4-3


「健、ハイパー・シュートは君にはもう使わせられない」
南部は、少しだけ眉を顰めた、いつもの厳しい表情で言った。
「君の健康上の事由もある。が、作戦上の問題もある。君が戦闘中に人事不省に陥るよう
なことがあれば、軍もまた、容易ならぬ事態に陥ることになる」
南部の心も痛んでいた。健たちを護る為に、南部はニケを招聘した。指揮官の苦さを、南
部もまた噛み締めている。健の我が儘に付き合っていられる事態ではない。よく、分かっ
ていた。
「あれを、ジョーに渡すおつもりなんですね」
「そうだ」
「もう完成しているんですか」
「最新データに基く最終工程に入る。ジョーも納得済みだ。健、理解できるな」
「はい」
健は、ただ頷いた。理解はできます、しかし、肯定はできません。

**

ISOのパーキングに繋がるドア口に、オダが立っているのが見えた。
「ユーリ」
濃い疲労を滲ませながら、オダはそれでも微笑んだ。健に車のキーを渡した。
「徹夜が続いちゃって。世界が二重に見えるんだ。運転、いい?」
「了解」

助手席のドアを締めた途端に、オダがごく事務的な口調で言った。
「第一のデータを外に出せなくする、っていうのは組み込み完了。同じリクエストが長官
からもあったから、何の問題も無く速攻でできた。第二のルシファーだけ抹消する、って
いう件。毎週末の深夜、メインのデータ更新が走るんだけど、これが異常終了すると、そ
の後のリカバリ処理の一連の動作の中で、データが破壊されるようにした」
時間の不足は杞憂に終わった。こいつ、本当にどんな頭をしているんだ。
「人為的ミスに見える、ってやつだな。停電で、非常用電源も正常にオンされない、なん
てとこでどうだ」
健にとっては造作も無いこと。
「それで問題無い。土曜日の午前2時から4時までの間にそのトラブルがあればOK。機
械のほうの無停電電源装置は外しておいたから…。…うん、完璧」
「他にも問題が?」
「俺は明日から統合情報部の本部に呼ばれてるんだけど、まだ中佐配下の人間だから、ト
ラブルがあれば当然支援を求められる。本部の上は長官と折り合いが良くないみたいだか
ら、すぐに対応に出されることはないけど…」
「お前が呼び出される。そうしたら回復作業をせざるを得ない」
「そう。俺が交通事故や飛行機事故に遭うとか…」
「馬鹿言うな。データ回復に使うメインのバックアップはどこにある」
「正確な保管場所は、俺にも秘密にされてる。主任研究員室のどっかだと思う」
「それがなきゃ、お前も手の出しようが無いんだろう?そっちも俺がなんとかする。心配
するな」
「いつ。決行するの?」
開発工程は最終段階と、南部は言っていた。きっとこの土曜日に作成し加工されるデータ
が最新のデータとなるのだろう。
「今週末だな」
「何かあったら拙いよね。…携帯取れるところにいたらいい?」
「こんな話し、携帯電話じゃできないだろう?大丈夫だ。心配するな。それより、主任研究
員の部屋の構造を覚えてるか?俺の記憶と摺り合わせしたい」
「そうだね。…ええっと…」

**

そして、その週末。白い影が、ISOの研究棟に現れ、飛翔した。
突然の完全な闇。ガラスの割れる音。警報ベル。ひとびとの悲鳴、怒号。

ハイパー・シュート改良版、ルシファーのバックアップ・テープは、大桟橋から海に投げ
捨てた。
ハーバーライトに乱反射してぼやけていた健の影が、次第に高くなる陽の光に石畳へと刻
み込まれる。ブレスレットのアラートが明滅した。
「はい。こちらG1号、大鷲の健…」
−大至急、私の執務室に来てくれ給え。

ISO長官の執務室には、南部のほかにジョーが居た。ばれたな、と思った。
ジョーは入室した健を認めるなり、つかつかと歩み寄って来て、いきなり健の頬に平手を
呉れた。
「健、お前ってやつは…」
「いきなり、何だ。それに、何を言ってるんだ」
「このくそ馬鹿野郎が。この期に及んでシラを…」
ジョーが健の襟首を掴んだ。南部の声が重なった。
「ジョー、落ち着きなさい。もう済んだことだ。健、ハイパー・シュートの改良版の開発
は、これで半年は遅れる。満足かね」
「はい」
「今、健が使ってるのを、そのまんま俺が使えないんですか」
「不可能だ。あれは健にシンクロさせている。君ではあの破壊力は出せない」
ジョーは怒っていた。根底から、怒っていた。
健はその怒りの波動を、全身で浴びながら淡々と切り出した。
「半年遅れるなら、開発を凍結する、というご判断にはならないのですか」
「健」
「改良版の開発を凍結して下さい。そしてその分を、現行版の維持と改善に充てて下さい。
俺の体が少しでも持ちこたえられるようにして下さい」
「お前、まだ言ってんのかよ。あれは俺みたいな…」
怒りの余り、声が掠れて震えていた。健はそんなジョーをじっと見詰めた。
「ジョー、お前は俺の幼なじみで一番の親友だ。最高の相棒で、喧嘩友達だ」
そして、いつも傍にいてくれる、それが当たり前の、最も大切な存在なんだ…。
「俺はそう思ってる。お前は違うのか?」
ジョーの怒りが萎えた。南部が長い息をついた。
「ジョー。君はもう帰りなさい。追って指示する。待機していてくれ給え」
「勝手にしろ。俺はお前のことなんか、もう知らねえ」
ジョーの少し乱れた跫音が、去っていった。
南部は、それが聞こえなくなるまで、指を絡め、伏し目がちにしていた。靴音の残響が途
切れたとき、低く、口を切った。
「健、君ひとりでやったことではないね」
やはり。と健は南部の正面に身を乗り出した。南部の目は、欺けない。
「はい。長官の思っていらっしゃる通りです。俺が彼を取り込みました」
「なるほど」
表情からは、何も読めない。
「追っ手を差し向けるんですか」
南部は裏切りを許さない。このまま不問に処されるわけがない。
「いや。ISOや軍そのものの最高機密ではない。敵に情報をリークしたわけでもない。
これは我々内輪のプロジェクトでのアクシデントに過ぎない。第一、彼はISOにも、軍
にも、必要欠くべからぬ人材だ。…健」
南部の表情に、隠しようのない疲れが浮き上がっていた。老いたな、と思った。
「君はそんなにまでして、このプロジェクトを停めたかったのだね」
その通りだった。何が何でも、食い止めたかった。それで犠牲の羊が求められるなら、そ
れは、健ひとりで贖うつもりだった。
南部は少し微笑んだ。
追っ手を向けると言えばどうなったか、察しているようだった。
「今後は君の言うように、現行版に研究対象をフォーカスする。健、それから君は、本件
に関してこれ以上他者を介入させないこと。分かっているね」

俺の逆転だ。ジョー…。


ジョー、もう戦うな。おまえは生命を投げ出して、この地球を救ってくれたじゃないか?
だから、今度は俺の番だぜ。今度こそはこの生命に換えても俺はおまえを・・・。
(『TABOO!』/鷲尾さゆり)


Episode 4-4


ユーリ?
どうだったの?健の思うとおりになったの?
ああ。お前のお陰だ。
ええと、残り、どうする?あと何か手伝えることある?
お前がこっちに来ることは無いのか?
本部の移転準備があるからけっこうそっち。この次はね…。

何時に何処。暗号化のレクチャーをすればいいんだね。俺の専門じゃん。絞らないと、す
っごく長くなっちゃうよ(笑)。どんなことをしたいの?

長官はお前を処分する気はないと言ったが、監視を付けるくらいのことはするだろう。お
前の手を汚させたのは俺だ。せめて、お前が追いつめられるようなことは、俺が絶対にさ
せないから。未来永劫、させないから。

**

痛みに襲われていないときは、五感のすべてに薄い膜が張っているようになっていた。焼
けた薬缶に触れたとき、紙で指を切ったとき、痛みが即座に伝わって来ない。またぼうっ
として、と誰かが救急箱を抱えて飛んでくる。曖昧に微笑んで頭を掻く。しっかりしてよ、
考えごと?緑色の瞳を細めて、彼女はやはり微笑で答えた。まだ、気付いていないよな、
お前たちは。頼む。どうか、そのままで。

リアクタに身を沈めて、浅い眠りの中で夢を見る。蒼い炎、墜ちる女神、ジョーの叫び。
−俺はお前のことなんか、もう知らねえ。
機械人形と自嘲するジョーを、ハイパー・シュートを手放さないことで、結局、手酷く傷
つけてしまった。ジョーは、諸刃の剣を握ることで初めて自身の存在意味を見出す。止め
てくれ。俺にとって、お前は…。塩気の多い涙が滲んだ。健とジョーとの思いは、決定的
に噛み合わない。あの日以来、チームでの活動では表に出さぬものの、ジョーは健の部屋
を訪れなくなっていた。もうひとりの自分が、寂しくて死にそうな自分をあやしている。
これでいいんだ、健。お前の望み通りになったんだろう?

ハイパー・シュート頼みの戦いは続いていた。もう二度と倒れない。
大鷲は、今や一個のベルセルクと化していた。

**

ISOまでの道のりを、黄色い並木に沿って歩いた。太陽の力は衰え、空にはうろこ雲が
散っていた。またひとつ季節は進んだ。
ISOのロータリーに黒光りする公用車が横付けられ、南部がSPに取り囲まれて降車し
ている。これから会議なのだ。このところ、要人の狙撃事件が相次いでいる。ISO出入
りの各国の元首の緊張は、否が応にも高まっていた。
「健」
突然、肩を叩かれて驚いて振り返った。リサだった。
「何度も呼んだのに、何よ、難しい顔して。考えごと?」
「うん。まあ」
我ながら、歯切れが悪い。
「リサも会議?」
「私みたいな裏方にはお呼びはかからないわ。新オフィスが、そのビルなの」
振り返りながら指を指す。
「あなたがすぐ前を通ったから声かけたのよ。無視されたもんだから、悔しくて追っかけ
てきたってわけ」
軍のIT関連の部署が、あのビルに集約されるのだ。健は庁舎の目と鼻の先の、そのコン
クリートの塊を見上げた。これでまた、シティは護るに難くなる。次々と公用車が横付け
される中に、シルバーメタリックの高級車が滑り込んできた。ライズだ。部下が開けたド
アから、完璧な軍服姿が立ち上がる。警備員に軽く敬礼をして階段を上がっていく。あれ
が、まだ20代だと言われても誰もピンと来ないだろう。各国の代表と比べても全く引け
を取らない。産まれ落ちた瞬間から、帝王となることを約束されている男。
「どうしたの?一流の映画スターでもいる?」
リサが健を揶揄って突いた。
「極上のスターがね」
健は、ぼそっと呟いて再び歩き始めた。
「あなたでも、そんな顔をして誰かを見ることがあるのねえ」
リサも健と並んで歩き始めた。
「俺だって、金も権力も地位も欲しいさ」
家族も、家も、気のおけない友達も、欲しいさ。健康な体も。翔ぶ自由も。
「カネとチカラとチイ、だけあればいいの?」
「それだけあれば十分じゃないか」
リサが、急に真面目な貌つきになった。
「健。あなたあのふざけた祝勝パーティーに来てたわね。彼の一族も見たわね」
「ああ。それが?」
「だーめね。こういうところの洞察力は、ジョーがダントツだわ」
リサは肩を小さく竦め、呆れたようにくすっと笑った。
「大金持ちの冷え切った夫婦、鬼瓦とおかめの間に、突然、ビスクドールが産まれたら、
どうなるかしらね」
ふふん、とリサは鼻を鳴らした。
「あなたには、ジョーや他の仲間たち。長官だっているじゃないの。高級車には、おふざ
けでたまに乗るのがいいのよ。そうそう、長官は会議なのに、このままISOに行くの?」
「いや。何となく足が向いただけだから」
「基地に戻るなら送っていくわ。丁度さぼりたい気分だし」

「リサは大佐と親しいのか?」
軍用ジープに乗り込み、シートベルトを付ける。健はリサをしげしげと眺めた。
「親しいってわけじゃないわ。向こうからはうち解けてくれないもの。私は女で、彼の学
生時代も知ってる。だから、彼を恐くない、それだけ」
それより、とリサは健を横目で見た。
「あなた、うちの天然ぼうずとどこまで行ってるの?何故そうなったの?」
一瞬、ぐっと詰まった。表情には出さないように、深呼吸した。
「あら、私にこう尋かれるのは予測の内なんじゃなかったの?」
「大佐からどう聞いてる?」
「彼、いえ、彼の部下が見たまま、でしょ。何の感想も無かったわよ」
「じゃあ。話しは早い。どこまで、という問いに関しては、そこまで。何故、という問い
に関しては、答えられない」
「蕩しこんで利用?それとも遊び?両方ってのもあるのかしら」
このストレートさが、リサだ。目が冗談を言っていない。反射的に口から出た。
「そんなこと、決して。いくらリサでも…」
「私はあなたを信じたいわ。長官直属の特殊部隊なんかじゃなければね」
「長官直属の特殊部隊でも、信じてくれ」
「南部さんがあなた達を大切なのと同じくらい、私は私の部下が大切。今はちょっとリー
スしてるけど、あの子もそう。私の敵にならないでちょうだい、健」
リサは、軍の人間の中でも、最も厄介な相手のひとりだ。技術力も、人脈も、そして闘争
心も。
「リサ、俺は俺のできる限りのことをする。やつを、危険な目には合わせない」
「本当ね。嘘ついたら、ただじゃおかないわよ」
「俺がリサに嘘ついたことなんかあるか?」
「無いわね」
リサはそう言って、いつものように屈託無く微笑んだ。
俺はあんたの敵になんか、なりたくないさ。リサ。

あんなに良く晴れた遠い青空が、基地に着く頃には鼠色に変わり、大粒の雨まで落ちてき
た。
「どこがいいの?宿舎?」
ジョーが来なくなった部屋。と頭に浮かんだ。
「いや。飛行司令室へ」
そのオダと待ち合わせだった。まだだいぶあるが、飛行機を見ていればいい。

リサと手を振って分かれたとたん、微笑みが凍てついた。次第に速度を増す雨脚の中、屋
上への階段を一気に駆け上がった。
女神たちが整然と列線についていた。スクランブルと共に、一気に翔け上がり、自在に舞
うのだ。その時、俺は何をしている?貌が無惨に歪む。健は、どす黒い空を仰いで雨を受
けた。秋の雨の冷たさも、叩き付ける痛みも、もはや殆ど感じなくなっている、額に、頬
に、掌に。
涙だけ、まだ尽きていないのが可笑しかった。涙の滴が伝うところだけ、きっと暖かいの
だ。生涯飛ぶことの叶わぬ大鷲の、最果ての星々よりも遠い青空への、この渇望は何だ、
未練は何だ。嗤えよ。嗤ってくれよ。健の唇から低い嗚咽が零れた。くつくつと、体が震
え、やがてそれは哄笑へと昂まって行った。

どれくらい、時間が経ったのだろうか。いつしかしとしとと、雨は本降りになっていた。
頭上に、さっと傘が差しのべられた。
「早めに来たのに。驚いたよ。いつからいたの?行こう、風邪引いちゃうよ」
オダだった。また少し背が伸びたな、と思った。もう、健と殆ど変わらない。
「ユーリ…」
迷子の子供をやっと見つけた母親のように、腕も胴も一緒くたに抱き締める。
頬に顔を埋めると、淡い麝香の香り。そこに在ることを確かめる。
「…健?」

迷子は…。


Episode 4-5


ふっと薄目を開けた。朦朧とした視界の中で、ひとの立ち動く気配がした。
ジョー?
声にならない。喉が痛かった。
せっかく来たのに、俺が熟睡していて起きなかったんだ、もう出掛けるのか。
多少の眩暈を感じながら、寝返りを打った。
人影は、健が目覚めたことなど知らぬげに、ドアに手を掛けたが、思い直したように引き
返してきて、健の顔を覗き込んだ。
どこに行ってた?ヤマのように居る女のところか?いいさ。そういう気分のときだってあ
る。でも、もうどこにも…。

「どうしたの?」
違う。一気に覚醒した。
「大丈夫?俺が分かる?」
途端に、現実の記憶が戻ってきた。飛行司令室の屋上で、オダと待ち合わせをしていたの
だ。雨が酷かった、ニケを見てると堪らなくなった、俺は…。
「デスクの上のCD−ROMが、健がいるって言っていたモノ。元気になったら覗いてみて。
あれっきりしかないから、無くさないでね」
部屋まで担ぎ込まれたのだ。酔っているとでも思っただろうか。それならいい。
「今日は帰る。ゆっくり寝んで」
ふっと微笑んで腰を上げたのを慌てて制した。喉が痛い。声が割れる。
「帰るなよ」
悪寒を堪えながら、半身を起こした。腰に腕を回して引き寄せた。
「ここに、居ろよ」
オダは当惑したように、かといって逆らいもせず、ベッドにぺたんと腰掛けた。
「暗号化のレクチャー、ちゃんとしろよ。約束しただろ?」
背中からしっかりと抱き締め、髪にやっと囁きかける。
「この次にしようよ。熱出ちゃうよ」
「いい」
「いくら健でも、無理だって。けっこう面倒臭いんだから…」
「いい」
「…もう…」
いったい、どうしたの?とオダは健の手に指を絡めて苦笑した。
「分かった。退屈して寝ちゃっても知らないからね。どういうシチュエーションを想定し
てるの?健が電子商取引の暗号化に興味があるとも思えないし」
「イーグルをインターネット通販するわけにはいかないからな。極秘事項を、第三者に知
られず、仲間に残したい、だな」
「仲間に残すか。そういう文書が発見されたら、今なら、長官からISO情シスに問い合
わせが行くだろうね」
「今のISOの情シスで解けるようなんじゃダメだ」
「じゃあ。さらに中佐のとこ。そこから、アレックス、俺が戻っていれば俺」
「リサに問い合わせが行かなければどうなる?」
「中佐を経由しないと、時間かかるだろうね。或いは解けないかも。中佐は、この分野の
第一人者だし、長官と中佐の連携は強いから、ここしばらくの間でぷっつりってことは考
え難いと思う」
健には、ハイパー・シュート改良版の開発が本当に凍結されるとは思えなかった。現に、
スタッフは南部の頭越しに開発を急いでいた。オダが完全にISOから離れた以上、強引
なことはできないだろうが、矢張り、それでも。さっきのCD−ROMにはデータ設計の
詳細が入っているのだろう。先ず、そいつを頭に叩き込む。あとは研究所のネットワーク
に侵入して、プロジェクトのサーバを操作できれば、開発状況をトレースすることができ
る。事と次第によっては、情報を南部に残すことが必要になるかもしれない。そのとき自
分がどんな状態か。もしかしたら、もう、この世に居ないかもしれない。自分がどうなっ
ても、誰にも気付かれないで情報を遺せるとしたら。
「ユーリ。あと、操作に必要なコマンドとか、オプション。全部、ブレイクダウンしてほ
しい」
「健」
オダは健の腕をほどいて、ベッドに座り直し、健の顔を正面から見詰めた。
「健は、大丈夫?絶対に大丈夫?」
「俺より自分の心配しろ」
「俺なんかどうでも」
酷く投げ槍な表情を見せた。こんな顔をするように、と心が疼いた。
「健さえ安全なら…。それとも、いまさら、なの?」
確かに、いまさら、だった。あのテープを捨てたときに、賽は投げられたのだ。
「考えすぎだ。お前が丁度いるから、勉強しておこうと思ってるだけさ」
秋だよな、と健は呟いた。じき、冬が来る。雪が降る。
「冬までには、俺もモノになるかな?先生」
「健なら…」
口籠もる。
前髪を弄ぶ。指の背で頬を撫でる。黒い瞳が泣きそうに揺れて、睫に隠れた。
「心配するな」
抱き締めた。何か抱えているという感覚しか伝わって来なかった。
あの、柔らかくて温かだった感触の記憶を、腕に、胸に鏤めて、手繰り寄せる。
苦しくないように、痛くないように、静かに、優しく、愛おしげに。
済まない。俺は嘘つきだ。でももう少し、俺に騙されていてくれ。もう少しで、お前をお
前の世界に帰すから。両親や同僚や友達のところに、帰すから…。

むかし、同じようにして、抱き締められたことがある。

俺は戻ってきた。
お前のところに戻ってきた。
もう、どこにも行かない。ずっとそばにいる。
そんな顔するなよ。ずっとずっとそばにいるから。
心配するな。

あれは、嘘じゃないよな。嘘じゃないよな…。


Episode 4-6


健は南部とホールで立ち話をしていた。ランチをどうしようとか、珍しくのどかな話題だ
ったように記憶している。
前方をライズが、いつもの通り、声を掛ける隙も与えず大股に通り過ぎて行った。南部に
気付き、目礼する。腕時計を一瞥する。部下と短い会話を取り交わす。回転ドアを通り抜
ける。水が流れるような動きに、嫌な空気が混じった。南部の怪訝そうな表情を置きざり
に、エントランスへと猛然と突っ込んだ。理屈では無い。ただの勘。そこに、銃声がひと
つ、長く尾を曳いた。オリーブグリーンの背中がぐらりと揺らいで、仰のいた。2発目。
「大佐!」
咄嗟にその躰を受け止めて、ホールの中へ引きずり込んだ。3発目。
肩から血が噴き出し、健の指を、上着を、赤く染めながら床に滴り落ちた。
ライズの部下がその周りを、顔を強ばらせて取り囲んだ。
「急所は外れている。大事無い」
ぎり、と歯を食いしばって、ライズは自力で半身を起こした。血がぱたぱたと零れて歪な
円を描いた。
「弾はまだ体内だ。動いてはいけない」
南部が大判のハンカチを当てた。救急車はまだか、と腰が上がる。
「俺か長官から追って指示がある。戻って通常通り任務にあたれ」
ライズは、部下のひとりに低く下知した。彼は気懸かりそうに何か言いかけたが、重ねて、
行け、と言われ、頷いて立ち上がった。
部下を見送ってから、ライズは苦しげに息を吐いて脱力した。出血でしとどに濡れた軍服
が、じわり、と鳴り、健の腕に半身の重みが加わった。
「傷は、…浅くもありませんが、しっかりしてください」
この妙に生真面目な言いぐさに、ライズは少し目を細めた。
「君が引きずり込んでくれたお陰で、留めを刺されないで済んだ。それと」
人差し指と中指の先で挟んだ羽手裏剣を見せた。
「撃たれる寸前にこいつが。まっすぐ歩いて行っていたら、お陀仏だった」
任務のとき以外、どこにいるのかまったく所在が掴めないジョー。健は羽手裏剣を受け取
って、ズボンの尻のポケットに突っ込んだ。お前ってやつは…。サイレンの音。救急隊が
駆け込んできた。私が行く、と南部が叫んでいた。
**

有名人の災難。プレスにテレビカメラに各界からの有象無象に、とISO病院の表玄関は
時ならぬ混乱でとんでもない騒ぎとなった。南部が青筋を立て、腰に手をあてて仁王立ち
になり、一喝するまでそれは続いた。
「ここは病院だぞ。何を非常識に囂々やっている。帰り給え!」

南部はこのアクシデントに強く責任を感じていた。庁周辺の警備は。内部の防護は。手抜
かりはどこにあったのか。苛々が痛いほど伝わってくる。それは、いわば南部生来の性分
だった。健は南部を宥めるように切り出した。
「長官は、もうお戻りになってください。俺が残ってますから」
「うむ。そうしてくれると有り難い」
南部は息を付いた。汗が滲んでいる。ハンカチを探して指がポケットを渡り歩いたが、ラ
イズの止血に使ったので無い。そうか、と思い出したように呟いて、手の甲を額に当てた。
「もう麻酔も切れるだろう。彼のことだ、無鉄砲はせんだろうが、よく見張っておいて呉
れ給え」
かといって、いつまでも大人しくしているとも思えない。それは南部も同じだろう。まあ、
とりあえずは。健は微笑して請け負った。

高層階の個室。夜の基地が海と重なってきらきら光って見えた。既に南部からニケのスタ
ッフに連絡が入ったはずだ。命に別状はない。後遺症も残らない。じきに元通り復帰でき
るから、安心しろ、と。
「長官は帰庁されたのか」
まだ眠っていると思っていた。健は、枕部でライズの顔を覗き込んだ。
「はい。気分はどうです?」
ごそ、と起きあがろうとしている。おい、早速無鉄砲か、といささか焦った。
「ちょ、ちょっと大佐。いくらなんでもまだだめです」
「君にそんなことを言われる筋合いは無い。こんなところで暇にしているとロクなことを
考えん。帰る」
確かに俺に言われてもな、と健も苦笑を禁じ得ない。気持ちも分かる。しかし。
「せめて、一晩くらいゆっくり寝ていきませんか」
そうすれば、麻酔も完全に切れて痛みがもっと激しくなる。大人しくする気にもなるかも
しれない。が、どうもまったく頓着されていない。
俺も相当の我が儘だが…。健は、ふうっと息を付くと、傷の真上に狙いを定めて、軽く手
刀を入れた。普通なら泣きが入るはずだ。ライズは、ぐっと息を止めて、一回だけきつく
目蓋を閉じた。それだけで、上掛けを剥ぐと病衣のまま床に立った。こいつ、本当にただ
の空軍将校か。
「ヨメいびりみたいなことをしていないで、車を出してくれ」
助けが必要な程度には痛むのだろう。一応人間だったか、と少し安心した。
「あなたも相当無茶ですね」
「だから、君に言われる筋合いは無いと言っている」
どんな我が儘も無理強いも通す、か。不思議に、笑みが漏れた。
「服は警察が持っていきましたよ。宿舎に寄りますから、着替えはそこで」
珍しく健をまともに見た、その表情が幽かな驚愕の色を湛えていた。こんな顔をされると
気分がいい。
その時、遠くに風切り音を聞いたような気がした。次の瞬間、ライズと同時に窓ガラスに
貼り付いていた。基地が、炎上していた。火柱が次々に立ち上がる。
健のブレスレットが鳴った。
−健。
ジョーだった。
「何が起こったんだ」
−海からイキナリだ。基地の航空防衛システムが反応しなかったらしい。詳細は不明。
「レーダーも何も、か」
−そうだ。とにかく迎撃に入った。巨大メカじゃねえから、お前がいなくても大丈夫だ。
また連絡する。
「大佐は無事だぜ」
−なんだ?
「羽手裏剣」
ジョーがふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。
−バレちまってたか。ま、いい。狙撃の件といい、今回の攻撃といい、大佐潰しが狙いだ。
俺らに手が出せねえもんだから、面の割れてるとこにきやがった。相変わらず汚え遣り口
だ。大佐の身辺にはまだまだ要注意だぜ。
健とジョーの会話が漏れ聞こえる。ライズは、窓から踵を返した。
「大佐!」
「俺を潰すのなど簡単だ。ニケを」
途切れた。口にしたくもない。ニケを潰しさえすればいい、などとは。
「病院からの脱走なら、任せてください」
にっと笑って、前に立った。


Episode 4-7


その日も冷たい秋雨だった。焦げた滑走路がしゅうしゅうと煙を上げていた。<健は飛行司
令室に詰め、南部と連絡を取りながら事後処理に当たった。航空防衛システムがなぜ敵の
来襲に感応しなかったのか、原因は杳として知れなかった。
ニケは機体の3分の1を失った。そしてパイロットとスタッフも。ニケはISOに駐屯した当初
の7割、増強後から言うと半分の戦力になっていた。曇った窓ガラスを指で擦る。
ぼんやりと、ジェットの死骸が沈んでいた。その多くは、飛び立つ猶予もなく、炎に巻かれ
て焼け落ちた。何人ものパイロットが、愛機を救おうと、敵に一矢報いようと、ランウェイ
に翔け出して、敵弾の的と散った。
機体はいい、退避しろ、と叫び続けた隊長の声が、彼らに届いていないわけはなかった。
その気持ちが健には分かる。不在の将に合わせる顔が無い、隊を守り抜かなければなら
ない、このままいいようにやられて堪るか。無敗ならなおのこと、負けるのも、逃げるのも、
恐怖以上だったはず。そして何より、自機は最愛の恋人も同然だったはずだ。
被害状況を査察してくると出掛けたきり、その隊長はまだ戻らない。
あの鉄面皮、今ごろ何を考えているのだろう。隊の立て直し、遺族への説明と謝罪、軍の
上に対する報告、今後の戦略。ああ、当人の怪我もあった、そんなこと覚えちゃいないか。

滲んだ健の視界に、小さく人影が浮かび上がった。ゆっくりと、まっすぐと、歩みを進め
ていく。出て行ったときは車だったのに。健は、ガラスを擦り直した。でも、ライズだ、
間違いない。
どこに視線を据えているのか、俄には分からなかった。ただ、一歩一歩を踏みしめる。飛
行司令室に向かって来ているのでも無い。何をしているんだ?
あ、と思った。同時に司令室を後にしていた。ライズは列戦を辿っていたのだ。
それは、タキシード・アウトを控えた戦闘攻撃機が待機していた場所だった。
最強だった女神たちが、飛べずに墜ちた場所だった。

健が司令室から駆け出したときには、あたりは濃い霧に閉ざされていた。人影は、司令室
に向かって方向を変えていた。
「大佐」
こんなときでも、軍服姿は完璧だった。しっとり濡れていることを除けば。
「何だ」
「長官から何度か電話が。大佐の携帯が繋がらないと」
「ああ」
苦笑しながら、携帯電話をポケットから取り出し、プッシュした。
「軍の上が五月蝿くて敵わない。切ったきり忘れていた。…長官」
直通だ。しかも一発だ。ライズが軽く顔を顰めて、携帯電話を耳から離す。南部の怒鳴り
声がわんわんと響いていた。
−どこをほっつき歩いているのかね。君は絶対安静患者なのだ。君の部下たちもどれだけ
心配していると思っているのだ。それが分からん君ではあるまい。さっさと病院に戻り給
え。残務は当面私が引き受ける。いいかね?!
健はぷっと吹き出して、笑いを堪えるのにのたうち回っていた。
−それから、そこに君の病院脱走を幇助した大戯けがいないかね?
げ。俺のことか?
「います」
電話を押しつけられてしまった。藪蛇か?冷や汗が浮いた。
「はい。おおたわけです」
−大佐を病院に監禁し、身辺をガードすること、いいかね。
「了解しました」
健は微笑して、電話を戻した。
「君たちが長官の許を離れずにいる理由が分かる気がするな」
ライズは携帯電話の電源を切って、ポケットに突っ込みながら言った。
「長官は俺たちの親代わりみたいなもんですから」
健は車のキーをつまみ上げて、ライズに目配せし、振って見せた。

車が破壊された道路を用心深くのろのろ走り始めると、ライズはすっかり黙りこくってし
まった。濃霧が惨状を覆い隠しているのが、せめてもの救いだった。

「傷、痛みますか?」
ああ、と呟くように言って、窓縁に肘をついて、額を抑えた。
最古参の前副隊長を喪っていくらも経っていない。それなのに、ここでまた。
神は底意地が悪い。そらに近い者から、順に奪っていってしまう。見上げて焦がれるのは
いいのだろう。手をのばすくらいなら、まだ優しい。高みに昇りつめようとした途端、翼
は容赦無く融かされ、ひとは墜ちるのか。
そっぽを向いているライズの、目尻から頬を伝った光は、霧でも雨でも無かった。健は、
意識的に真っ正面を向いた。
「だいぶ酷そうですね」
あなたは俺に無いものをすべて持っている、俺はそれを妬んで羨んでばかりいたけれど、
俺は、あなたには無い佳いものを、持っているのかもしれませんね。

「カリプソ…、エイト・ポイント・ロール…」
楽しかった。いつかまた、ああやって飛べたら、どんなにいいか。
「ナイフ・エッジ・パス…、バーチャル・クライム アンド ロール…」
健には今でも、コックピットごしの夕日が鮮やかに見える。
操縦桿の感触を、躰にかかるGの感覚を、はっきりと思い出すことができる。

「ハイ・ボム・バースト」
大佐、あなたが翔び続けている限り、俺はあの風景を忘れないで居られる。
忘れないで居れば、またあそこに帰れるような気がする。
「パラレル・ブレイク」
ライズが低く応えた。
「オポジング・カリプソ・ブレイク」
健。
「クロス・オーバー・ブレイク」
ライズ。

ランディング
ウォーク・バック
空よりも高く、光よりも速く、そして風よりも自由にと、本気で希えたあの場所に。

**

着替えくらい、取りに行ったほうがいいですね。
どのくらい閉じこめておくつもりだ。
長官の気が済むまでです。
…。


Episode 4-8


研究所のネットワークに侵入し、ハイパー・シュート・プロジェクトの管理用サーバを制御
する。健が余りに詳細に渡って食い下がるので、オダは実際に研究所のサーバに侵入
して、いくつかの操作を実演してみせた。その操作全てをOSのログから消し去って、ネッ
トワークを切断するところまで。
他には?何か手伝えることある?とあっけらかんとオダは言う。

南部からも軍からも、監視が入っているだろう。部屋は勿論、ことと次第によっては車も
危険だと健は判断した。命に関わるかもしれない情報の遣り取りが、街のカフェや公園の
ベンチ、晩秋の砂浜、雪の便りが聞かれてからはスキー場のレストランでまで行われた。
冬のはじめのある日、それがすべて、終わった。

あとは、お前をむこうに返すだけ。二度と、こちらに来れないように。

**

「本当にもう、俺が健にできることはないの?」
車を停めて、オダは言った。
「ああ。もう無い」
素っ気なく答えた。
このままいつもの" おやすみ "で済ませるわけにはいかない。

降車する健を追いかけてきて、袖口を引いた。
「あのさ。健、あのシステムを監視しようとしてるんでしょう?」
答えないでそっぽを向いた。もう、一切、手は出させない。
「やっぱり、そういうのは、直接、俺が…」
「余計なことをするな」
G1号大鷲の健の口調で言い切った。
「邪魔だ」
息を呑む、気配がした。
「俺が単独でやるわけじゃない。実際にはプロがやる。お前からはシステムの詳細が聞き
たかっただけだ」
姿を見ると、矛先が鈍る。顔を背けた。
「俺の役目は、ルシファーを抹殺することと、データの詳細設計とネットワークの侵入方法
をお前から探り出すこと、それだけだ」
ユーリ、家に帰れ。優しくて綺麗な、お袋さんの所に帰れ。
「お前のお陰で、なんの痕跡も残さず、主要プロジェクトをいっこぶっ潰せた」
「健…何を言ってるの?」
「お礼をしなくちゃいけないかな」
腕を掴んで力任せに引き寄せた。オダは躓いて蹌踉めき、健の胸に倒れ込んだ。
黒い瞳が縋るように、健を見上げた。ただ、驚愕していた。
「お前、俺と寝たいんだろう?」
両の肩を鷲掴みにし、薄く嗤って顔を寄せた。
「…健?」
当惑して俯こうとする顎を、強引に上向かせた。鼻先が触れた。
「ずっと俺と寝たかったんだろう?泊まって行けよ。何をして欲しい?何でもしてやるぜ」
捨てられる子犬は、置き去りにされるとき、こんな目をするのかもしれない。
「どうして…、だって、健はいつも優しくて」
「情報が欲しかったからな」
「色んなことを教えてくれて」
「お前は、世間知らずだから遣りやすかったぜ」
「嘘だ」
「俺の言ったことは、全部嘘だ。信じたお前が悪いんだ」
「うそ?ぜんぶ?」
「五月蝿いぜ。黙れよ」
今度はオダが目を逸らせた。

「じゃあ、丁度いいかも」
ふっと一人ごちた。何がだ、と表情を動かさぬよう、その瞳を覗き込んだ。
「健に、最終処理の説明がまだもうひとつ残ってるんだ」
最終処理?プロジェクトのか?オダは、健を押し戻し、足に力を入れて立った。
「コンピュータのシステムなんて、どんな最高機密でも造った人間にはバレバレだ。ルシ
ファーを本当に亡きモノにしたいのなら、あのシステムを本当に外に出したくないなら、
健は俺を消去しなきゃ」
それをしたくないから、痕跡を残さないようにした。南部とも話しを付けた。
「もし、敵があれを使いたいと思ったら、まず俺を狙うだろうね。実際にプログラムを組
んだ人間なんだから。拷問や自白剤の免疫も全然無いし」
「覚えていないと、言ったのは?」
声を押し殺す。
「世の中に流通している主要なOSのシステムマニュアルを全部記憶している人間だよ、
俺は。覚えてても不思議無いじゃん。健もそう思ってたでしょ」
「お前の命を今取るわけにはいかない。お前はまだ、戦略上、必要とされている」
「じゃあ。俺は戦争が終わったら逐われるんだね」
「それは俺の決めることじゃない」
「南部長官が、健に俺を追うように命令するんだね」
馬鹿を言うな。その長官本人がお前を必要だと言ってるんだ。
「健に、要らない、って言われたら、俺なんかもうなんの意味も無いんだ」
リサなんか、お前のために、長官と真っ向喧嘩も辞さない気なんだぞ。
「…全部嘘だって言ったけど、人ひとりの命が救えた、って、それも嘘?」
うそだと、言えばよかったのだろうか。
「そいつは、嘘じゃない…」
オダは、そう、とふんわり微笑んだ。
「それが本当ならいい。ねえ、健が、俺を殺すんだよ。他のひとじゃ、絶対に嫌だよ」
あの物怖じしない眼差しで、健をまっすぐに見詰めた。あの、クールで売っているジョー
の、峻厳無比で鳴るライズの、睨みが効かなかった眼差しだった。
「健にとっては全部うそでも、俺にとっては、やっぱり全部ほんとうなんだ。
あなたは最年少のエースで、凄腕のコマンドで、いつも優しくて、強くて…」
いいから。ユーリ。もう言うな。このまま、帰れ。頼むから。
「五月蝿いと、言ってるだろう?」
車のボディに抑え付けて、唇を塞いだ。

さあ、俺を嫌いになれ。
お前は健康で、帰る処もある。
出世をしろ、登り詰めて、分厚い壁の向こうに行け。
俺のような兵隊のことなど忘れてしまえ。

乱暴に踵を返し、宿舎に飛び込むと階段を駆け上がった。
ドアを開けると、部屋を走り抜け、灯りも点けないで窓辺に立った。
カーテンの隙間から車が見えた。
ルーフごしに、ボディに凭れたままのオダが見えた。
健の部屋を振り返り、少しの間見上げていた。そして、車に吸い込まれた。

早く行け。
お前は安全だ。
リサがお前を守ってくれる。きっと大佐も。或いは長官も。
そして、誰より、俺が。


Episode 4-9


健たちは確実に勝利を納めていき、間違い無く敵を追い詰めて行った。誘拐、暗殺がIS
Oと連合軍を脅かした。それは、明らかに統率を欠く、窮鼠の反撃だった。戦いの終焉は
遠くない、南部以下、最前線の戦士たちは顎を引き、唇を引き結んだ。

バイオリアクタに躰を埋め、伽藍堂の心を覗く。まだ、生きているのだろうか。
もう死んでいるのだろうか。健は、諸刃の剣を振るうためにだけ、立ち上がる。
それで終わらせることができるなら、それでいい。健は、落ちそうになる目蓋に力を入れ
た。
眠るのが恐かった。増殖する悪夢が健を苛んでいた。力を失う蒼い光、墜ちる女神、火柱
を上げる基地、驚愕ののち薄く嗤った黒い瞳。
メンバーが、必死で平静を装い、健を気遣っているのが痛いほどよく分かった。
それがこの上なく悲しく寂しく、そう思う自分の狭量さを、嫌悪した。
ジョーは、常に一歩引いて健の傍に寄り添っていた。任務のときだけは。
むかし、ジョーが居なくなって、何ヶ月も必死で探したことがある。気が狂いそうだった。
今、ジョーは近くに居る。なのに吐き気を催すくらい寂しかった。
一番失いたくなかったものを、失ってしまったのかもしれない。心が軋んだ。
もし、そうだとしても悔やむまい。俺はお前からこのまま逃げ切れるのだから。

施術終了のアラートが低く響いた。諦めたように、身を起こした。
治療室から出ると、甚平があたふたと駆けてくるのに出会せた。この時点では、研究所だ
けでなく、秘密基地にもリアクタが設置されていた。健の容態が、メンバーに秘密にでき
るレベルを超えたのだった。
「どうしたんだ」
「xx基地が襲撃されてるんだ」
緑に埋もれていた、あの山岳部の基地だった。
「どういうことだ。統合情報部の移転が終わって、次に入る部隊はまだだ。今あそこは空
っぽだろう?」
「メインのコンピュータの搬送が今日だか明日だかって…。主立った本部スタッフがまだ
少し残ってるんだってよ…。護衛で、竜とジョーも行ってんだ」
竜やジョーは心配無い。現地で助けになっているはずだ。しかし。主立った本部スタッフ。
「俺たちも出撃するのか」
次第に早足になりながら、甚平と並んで歩いた。
「鉄獣メカじゃないから、空軍に任せるってよ」
あそこには、ニケは居ない。
「馬鹿な。それじゃ蜂の巣にされるだけだ」
駆けだした。

司令室のドアをくぐる。正面の大モニタに、黒煙を噴き上げている基地が映し出されてお
り、健の目を釘付けた。火の粉が弾け、紅蓮の炎が立ち上がる。緑一色だった山々は、雪
を湛えており、その白さが、黒と紅を、残酷なほどに際だたせていた。
「…ジョー、生存者は?」
ジュン。
−竜があらかた担いで行ったぜ…!…しんがりの本部スタッフたちが、地下の…ンピュー
タ・ルームに閉じこめられてる…。これから…
甲高い破裂音が、会話を途切らせる。
「ジョー、俺だ。どういう状況なんだ」
−以前ISO基地がやられたのとおんなじだ。イキナリ来やがった。…!…詳しい話しは
あとだ。…!…ちょっくら天然を拾いに行ってくるからよ…。リサ、約束だぜ。何でもし
てくれるってのな…!
−分かってる。約束する。だから、お願い、連れ戻して…。

長官室のリサの声は、完全に裏返っていた。
ジョーの声を押しのけて、爆音が立て続けに健の耳を襲った。炎の勢いは増すばかりだっ
た。火蜥蜴の王が、灼熱の息を吐き、のたうっていた。
すべてが紛い物臭かった。あの基地が断末魔の喘ぎ声を上げているというのも、そこに、
オダが居るというのも、ジョーが、今現在、焦熱地獄に乗り込んで行
っているというのも。
そうだ、これは悪い夢だ…。悪い夢だ。誰か、夢だって言ってくれ。

**

ジョーはオダを救出した。ジョーでなければ、決して助け出せなかった。近辺の病院では
対応できず、ISO病院まで搬送され、オダは一命を取り留めた。
「酷えもんだったぜ…。ああいうのは、何度見ても、だめだ」
ジョーは長く息を吐き、どっかりとソファの背に凭れ、溜息を付いた。
「あなたと竜がいたってのが神の配剤よ。それで少しでも沢山のスタッフが助けられたわ」
ジュンがジョーの肩を揉む真似をしながら言った。健は、何も言葉にできないまま、仲間
たちの姿を遠くに感じていた。

「健」
健のほうは見ずに、ジョーがぽつんと言った。
「見舞ってやれよ。今行っとかねえと、一生後悔するかもしれねえぜ」
はっとジョーを見た。容態はどうなんだ、その一言が出なかった。
「来な。送ってやる」
ジュン、按摩ありがとよ。ジョーはウィンクして立ち上がった。


Episode 4-10


時は優しい恋人。
かなしいこともつらいことも、忘却の淵に沈めてくれる。
生きていくために。
少しでも幸せに、生きていくために。

**

ジョーは車を停めると、用心深く口を開いた。
「なんにも分からねえ状態だって話しだ。でも、ちゃんと声かけてやれよ。あいつ、お前
の大ファンだから、目え覚めるかも知れねえ」
どんな言葉を投げ掛けるというのだろう。とても肯うことはできず、黙って車を後にした。

訊けば、病室はすぐに分かった。南部配下の身分証明が無ければ、その手前のスタッフル
ームにも入れない部屋だった。
分厚いガラスの壁の向こうに、数々の医療器材に埋もれてベッドの断片が見えた。患者が
どこにいるのかも、ガラスごしでは見当も付かなかった。あいつが、こんなところに居る
わけがない。
健は、たまらなくなって、引き返そうとした。振り返ると、リサが居た。
「来てくれたの。ありがとう」
リサは、健と並んでガラスの壁に指を掛けた。
「あれがあの子なんですって」
信じられないのは、健だけではなかった。
「私のせい。私が下手な細工をして、あの子を本部に遣ったりしたから…」
「それを言うなら、俺が悪いんだ」
トリガーを引いたのは俺だ。ふふっとリサが嗤った。
「キリが無さそうね、止めましょ。アーサーまでブルーにしちゃったし」
「大佐が?どうして」
「あたしが、ご両親が連れに来たのかしら、なんて言ったからよ」
表情が強ばるのが分かった。
「あの子から聞いてない?シティが被爆したとき、家が直撃されたのよ」
なにも聞いていない、リサを凝視したまま、ふるふると首を横に振った。
「深追いするな、との指令が、あの惨事に繋がったと、アーサーは思ってる。あれから、
ニケも辛い戦いが続いてるしね。あの無表情を見てると、抱き締めてキスしてやりたくな
るわ」
自軍の十倍以上の敵機を相手に、深追いせず戦闘能力のみを奪い、数を当たる、との判
断だった。被弾した敵機は、脱出も不時着もせず、市街地に突っ込んだ。
「リサ、俺は何も聞いてない…」
上滑りな声だと、自分でも思った。
「情報部は本人だけでなく家族のプロフィールも機密なの。何がどこで変に利用されるか
分からないから。だから、お葬式のことも、軍の内輪だけで他には通達しなかったの。…
あなたには、心配掛けたくなかったんじゃない?きっと」
あのおっとりとした天然ぼうずが、あそこまでなりふり構わず捨て身だったの
は、本当にひとりっきりだったから。本当に、健しかいなかったから。
ガラスに触れた指に力が入る。きっと音を立てて、爪が引っかかった。
「私、また余計なお喋りしちゃったみたいね。あの子、ぼーっとしてるようでそれなりに
気を使ってるみたい。忘れてちょうだい」
違う、リサ。涙も出ないまま、また、首を横に振った。
リサは、健の指を軽く握り、ガラスから剥がして言った。
「送って行くわ。どこ?」
「いや。もう少し、ここにいる」
リサは無理に微笑んで、健の背中を優しく叩いた。
「誰も悪くなんかない。今が戦争だって、それだけよ」
靴音が低く、遠離って行った。

痛いのか、苦しいのか、お前の時は流れているのか。
夢見ることはできるのか、忘れることはできるのか。
ユーリ、なんでそんなところに居る。
そんなところに居られたら、俺はお前を守れない。
抱き締めても、殺してもやれない。

帰ってこい、ここに。今すぐに。今すぐに…。


Episode 4-11


立て続けに呷った安酒のせいか、それとも進退窮まった病状のせいか、手酷い吐き気を抱
えて街を彷徨った。露骨な物言いで声を掛けてくる男たちや、見え見えの視線を投げかけ
てくる女たちの間を、泳ぐようにすり抜けた。

こんな躰で、こんなに苦しくて、何故、自分だけここにこうして残される。
ジョーは部屋には戻らない。健の部屋にも訪れない。暗くて冷たい部屋は嫌だ。
目の前に現れたドアを、力一杯叩いた。誰の部屋だ。誰でもいい。
ドアが内側に開けられ、支えを失いつんのめった。
誰かの腕が、力の入らぬ躰を受け止め、担ぎ上げた。

**

「申し訳ありません」
気が付いたらベッドで丸くなっていた。水と薬で約1時間、やっと目が開いた。
「まったくだ。今何時だと思っている」
高級将校向けの宿舎に迷い込んでいたらしい。ここに来たのは、ライズの入院準備に一回
きり。よく辿り着けたものだと、自分でも感心した。
「起こしちゃいましたか?」
「いや」
健は、平服のライズを初めて見た。襟ぐりの広いゆったりとしたセーターと、これもゆっ
たりとしたズボン。腕を組んで立っているのが妙に絵になる。どこか、違う。金の掛かっ
た男だな、とつくづく思った。
「大丈夫そうだな」
ライズは、おやすみ、と踵を返した。
「あの」
半身を起こした。ひとりはいやだ。悪寒が戻ってくる。
ルームライトのスイッチに指を乗せた格好で、健を振り返った。
「何だ」
吐き気がする。震えがくる。
健は、両腕で胸を庇うように抱くと、躰を苦しげに折り曲げた。咳も出ない。
「ここに…」
顔を上げると、ライズが間近にいて、健を覗き込んでいた。
「ここにいてください」
その両手首を掴んだ。
「どこにも行かないでください」
「何を言っているのか分かっているのか」
「いいから、ここにいてください」
腰に腕を回す。取り付く島も無い無表情を、まっすぐに見上げた。
「G1」
ライズは、すとんとベッドに腰を落とし、目の高さを健に合わせた。
「かなり酔っているな。俺を誰だと思っている」
「…はい…」
「俺は、君の情人でも、そこいらの狒々爺でもない」
「部屋で寛いでいるところを、酔っ払いに乱入された、気の毒な空軍大佐です」
ふ、とライズが目を細めた。
「俺を援護するのが任務の、ニケの隊長でもありますよね」
「これも俺の任務だと言うのか」
「なんでもいいです。とにかく…ここに居てください」
首にしがみついて、力いっぱい引き寄せた。意外に長い睫毛が困惑したように瞬き、両腕
がベッドに突っ張った。健まであと1センチ。
「分かった。手を離せ」
色の無い瞳が、灯りを銀色に弾いた。なぜか、泣き出したい気分になった。
「どこにも行かないから、手を離せ」
腕を解き、両手をベッドに落とした。枕に倒れ込み、壁を背中に躰を縮めた。
ライズは健の横に寝転がって、両の腕を枕に仰向いた。
「あいにく、酒臭い病人と絡む趣味は無い」
「俺は…」
涙腺が緩んだような気がした。
「君自身の選択だ」
手の甲で、子供のように涙を拭った。思うほど、濡れていなかった。
「はい。でも、間に合うのか…。本当に、終わらせることができるのかって…」
「簡単なことだ。終わるまで、生きて戦いぬけばいい」
「馬鹿なことをしていると、いますぐにでも死ぬんじゃないかと…」
「戦争というもの自体が愚の骨頂だ。君は馬鹿だが、俺も馬鹿だ。あれだけ戦える体力が
残っているんだ。君が思っている以上に、君は保つ。病気のことは俺には分からないが、
戦場では、君を俺より先には絶対に逝かせない」
こう、一刀両断にされると、寧ろ痛快ですらあった。
「どんな馬鹿なことでも、最後まで遣り通せば本物になる。投げるな、G1」
どうして、こんなふうに言い切れるのだろう。眩しかった。
「君は相当にナイーブだな。俺たちはこんなナルシストに勝敗の鍵を握られているわけだ」
「俺が終わらせられるんですよね」
「そうでなければ、どうして俺が君の援護などしなければならない。余り卑下するな。こっ
ちの遣る気が失せる」
最強だったころの半分の戦力のまま、ニケは戦い続けていた。健たちと出撃するときには
必ず、隊長機が随行していた。他の戦闘もある。ライズの出撃頻度は一体どのくらいなの
か、ここで初めて健は蒼醒めた。
「すみません…早く休まないと…」
「いまさら何を」
ライズは笑った。やっと余裕が戻ったな。

「オダ中尉に、会ってきました」
健は、シーツを肩まで引っ張り上げて天井を向いた。
「今日付けで大尉に昇格し、中佐の部隊に異動になった」
「…彼は…」
どうしても、言葉に尽くせるものではない。瞳を閉じた。
「他人の宗旨と色恋沙汰には口を挟まん主義だ。しかし、同じことだろう。彼の目が覚め
るまで、君が生きていればいい」
ライズの根っこが見えた気がした。生きること、死なせないこと。だから厳しい。臆病さ
ゆえか。そんなことを言ったら怒鳴られるに違い無いが。
「大佐」
返事が無い。すうすうと規則正しい寝息が聞こえた。
疲れているのだ。健も目蓋を閉じた。健もまた、疲れていた。

**

気が付いたら、こうこうと明るかった。日はもう中天にあった。
ジョーがいた。ベッドに掛けてこっちを見ている。なんだ、夢か。哀しかった。
「ほんまもんだぜ」
延べられた手が、健の髪をくしゃりと握った。
「たちの悪い酔っぱらいに居座られて至極迷惑している、即刻引き取りに来い」
ジョーはライズの口調を巧みに真似た。
「やー。怒られた、怒られた」
ははは、と笑った。
健は、跳ね起きると、その首に齧り付いた。髪に顔を埋めた。煙草の匂いが鼻をついた。
涙が溢れ出た。欲も得も無く、泣きじゃくって、しゃくり上げた。
「済まねえ。お前を見てるのが辛くて…つまんねえ意地張っちまった」
答える代わりに腕に一層力を込めた。
「本当につらいのはお前なのによ…。今度こそ、もう何処にも行かねえ、な」

俺は戻ってきた。
お前のところに戻ってきた。
もう、どこにも行かない。ずっとそばにいる。ずっと。


END < FIGHT




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