Breathe Episode 2 < Icarus >

by もも

Episode 2-1


 ドクター、俺はあとどのくらい生きられるんです?
 その質問には答えられない。君の病気には前例が無いのだから。
 では。質問を少し変えます。このまま症状が進んだら、どのくらい生きられるんです?
 どうしても、答えが欲しいのかい?
 俺の体の中で、今一番ガタが来ているのは肺ですね?
 ...
 このまま、肺の石化が進んだら、どれくらい生きられるんですか?
 君の肺は、突然変異で遺伝子異常を起こして石化が始まった。決め手になる薬品は
現在のところ確かに無い。しかし、そう覚悟を決めすぎるものではない。
 どういう意味です?
 医療分野は日進月歩だ。少しでも長く生きていれば、何が出てくるか分からない。
 夢物語は、止めにしませんか。ドクター。
 では、具体的な話しをしよう。例えば、遺伝子異常を起こしていない健康な肺を移植す
るという選択がある。そうすれば、現在の致命傷は克服できる。肺の次に、どこがどうな
るか、それは今は誰にも分からない。しかし、何とかして生き延びて行ければ、医療技術
の進歩や、…なにかが、君を救うことがあるだろう。
 " なにか "が?何なんです?そのなにか、って。そんなものあるんですか。
 だから、そう答えを焦るものではない。大体、人の生き死に対して、人が答えを出すな
ど、烏滸がましいことだとは思わないか?
 お医者の先生の言うことではありませんよ、ドクター。
 かもしれないね。でも、こんな医者だから、南部さんが目を付けたのだと思うが。
 そうかも、しれません。
 君は生きなければ。少なくとも努力はしなければね。君に生きて欲しいと願っている人
がいる限りは。

**

健が帰営したのは、休暇初日の朝だった。

その日の黎明時、健は、飛行司令部の屋上で手摺りに寄り掛かっていた。
藤色からブルーグレー、そして薄蒼へのグラデーションの中を、整然と編隊を組んだ戦闘
機の一群が、水鳥が舞い降りるように滑り込んできた。尾翼に、勝利の女神の横顔をあし
らった、通称ニケ。統合情報部とは縁の深い航空部隊のひとつである。戦闘力は軍随一と
の噂が高い。ただ、新勢力であるリサの部隊とは折り合いは悪いと聞いていた。

健は飛行機を見るのも好きだ。訓練された極上のパイロットの腕によるものなら尚のこ
と、女神達がそろって滑走路をおでましになるのを、溜息混じりに眺めていた。統率され
た組織として編隊を組んで飛ぶことは、健には無い。
個々の技量で負ける気はしないが、恒常的なチームは、それ自体が個として美しくて強
い。かつて父の率いたチームがそうであったように。

隣では、オダが黙ってほうっと編隊の動きを凝視つめていた。初めて会ったときに、パイ
ロット云々とあったのはあながち外交辞令でもなかったらしい。
健は、女神達が行儀良く並んで停止するのを見守りながら言った。
「小型機のライセンスくらいすぐ取れるぜ」
「そうしたいんだけど、あんまり横道に逸れていると中佐が五月蝿い」
「お前は、少しくらい横道に逸れたほうがいい」
半ば本気で健は言った。世間知らずを可愛いと言ってもらえるのは、ほんの僅かな時間
だけだ。
「試験のヤマは掛けてやるよ。技能も時間があったら見てやるし。それならそう時間裂か
なくても大丈夫だろう」
「…じゃあ。やってみようかな」
「リサにはギリギリまで内緒にしておいてやるよ」
さて、と健は腰を伸ばした。俺もそろそろ行くかな。風も日差しも満点だ。今日のフライト
は気分がいいぞ…。

滑走路に向かう階段を下りていくと、丁度、ニケから下りてきたパイロット達とかち合っ
た。軍の超エリート集団。健は階段を下りきらず、立ち止まって彼らをやり過ごそうとし
た。と、先頭を歩いていたひとりが、健たちに気付いて立ち止まり、他のメンバーに何や
ら言い置くとそのまま向かってきた。歩きながらヘルメットを外す。プラチナ・ブロンド
が朝風に一戦ぎするのが見えた。
「統合情報部のオダ少尉か?」
リーダ機を駆っていたのはこの男かも、と健はその所作を何となく観察する形になった。
年齢は健よりは少し上だろうがそう変わるまい。笑うと損をするくらいに思っているクチ
らしく、オダあたりを相手ににこりともしない。
「そうです。あなたは?」
「…xx基地第7航空隊のライズ少佐だ」
名前は知っていた。ニケのトップパイロットで隊長である。
案の定、オダは知らない。健を振り返って見上げた。
「ニケのエースだ」
健の言葉に、オダは幾分緊張した面持ちでその男に向き直った。
「シーン中佐からはまだ何も聞いていないようだな」
シーン中佐とはリサのこと。ライズは、健の存在をたった今知ったとでもいうように、初
めて目を向けた。
「ところで君は」
「G1、と呼ばれています」
ああ、と男の薄グレーの瞳が細められた。
「噂は聞いている。個人技能ではトップ級とか」
「あなたにそう言って頂けるとは、光栄ですね」
「噂で聞いているだけだ。飛んでみないことには、真偽のほどは分からない」
ふ、と男の唇が緩んだ。もしかしたら、これがこいつの笑った顔か。
「もっとも」
手強い奴とも、嫌な奴とも、この時思った。
「我々は撃墜などされないが」

**

健は滑走路脇の自宅で、ひとりで休暇を過ごした。
三連休二日目のまだ早朝、だったように思う。
先ず、体が揺すぶられて意識だけが半分覚めた。目は開かず、無闇と理不尽さを感じ、
低く呻いて上掛けを引っ張り上げベッドに潜り込もうとした。顔をシーツに埋める前に、手
を握られ、何かが覆いかぶさって来た。唇が塞がれ、やや性急に歯を割って舌が入って
来る。シーツが剥ぎ取られ、裸の肩が未明の冷気に晒される。胸と腹が圧迫されて苦し
い。
眉を顰めながら薄く目を凝らせると、ジョーの顔がすぐ真正面にあった。
欲求不満だ、と思った。このところ、あまりに品行方正な生活が続いている。ジョーはあ
の報告会の後の作戦会議のメンバーとして召集されている、こんなところに居る筈が無
い。あまりのリアルさが、健の自己嫌悪を誘った。
「相変わらずの寝起きだな」
ジョーの幻影が口まで効いた。重傷だな、声まで聞こえる…。
「夢じゃ無え。しっかりしろ」
くつくつと笑う。首筋に唇が触れた。
舌が肩先に這い下り、かり、と軽く歯が立てられる。幽かな痛みが健を覚醒させた。
「…え…?」
「黙ってな」

**

確かに、ジョーだった。
健は今更ながらに、傍らのジョーを凝視つめた。
「何で、こんなところにいる?」
「お前に逢いに来たのに決まってるじゃねえか」
「いくらお前でも、あの距離を仕事の真っ最中に抜け出して来たりはしない。何があった
んだ?」
「嫌なヤツだね。色気の無い」
ジョーは薄く微笑したまま言った。
「馘になったのさ」
クビ、って。と健は半身を起こした。
「また何かやらかしたのか。長官は知っているのか」
健は、長官との折衝の段取りから、始末書の提出タイミングまで、この時点で既に考え始
めている。
健の頭の中がジョーには見えたようだ。健の心配顔を余所に高く笑い飛ばした。
「悪い悪い。クビになったのは俺じゃ無え。天然スパコンだ」
「ユ…オダが?どういうことだ」
頭の中の始末書はまだ引っ込められていない。
「旧勢力の煩さ方と大喧嘩した。リサとしては、旧勢力とはややこしくされるのも、あん
まり仲良くされるのも、美味しくない。だから降ろされた」
「メイン・コンピュータの暴走か」
溜息。大人しいと、思っていたのに。
「何、他人事って顔してやがる。強いて言えば元凶はお前だぜ。」
健にも、心当たりが無いではなかった。−我々は撃墜などされない
「まさかニケの?彼らはあの作戦のために?新旧は仲直りしたってわけか?」
「俺も驚いた。軍が本腰入れたってことだな。仲直りというよりは、新勢力だけで手柄を
立てられたらヤバイってことじゃねえのか。だから、出遅れた分、エースが出てきた。そ
のエースと、…やってくれたぜ。みんなの居る前で」
「まったく」
健がそれとなく制してあのまま別れて終わったものを、混ぜ返されて余計に面倒な事に
なってしまったらしい。あの時、止めなければ良かったのか。
「ヤツがやってなきゃ、俺がやってたさ。俺は気持ち良かったぜ」
ジョーが始末書騒ぎを起こすよりは、良かったかもしれないが。
「それで、肝心の作戦から降ろされたんじゃ、元も子も無いだろう」
「まあ、それなりに応えてるみたいだぜ…今は宿舎に居る、様子見てやんな」
「え?」
「ISOに強制緊急出張さ。軍のサーバの設置だ。どこが緊急なんだか、やつにしてみ
りゃ怠いシゴトだろうぜ。俺は、オダを送って来たんだ」
長官がリサに入れ知恵したらしい。あちらに万が一でも気に入られて引っこ抜かれでも
したら、それこそ元も子も無いからな。

「やつを宿舎に放り込んで、お前の部屋覗いたら留守だったからよ。こっちかと思って
さ」
ジョーは健にまた口づけた。
「ここんとこ、さ。欲求不満みたいで…」
手が健の下肢に伸びる。
「お前も、じゃねえの?」
悪戯な含み笑い。
「すぐ帰らないと拙いんじゃないのか?」
取り敢えずの語尾は掠れていた。
「帰ってもいいのか?いいなら、帰るぜ」
言葉の代わりに、首に腕を回して抱き寄せた。

ゆるゆると、陽が差し込んで来た。


Episode 2-2


次第に力を増す朝の光を背にして、ジョーはやけに白っぽかった。
鋭利な光線がカーテンの隙間から容赦無く注ぎ込み、ジョーの動きに合わせて時折鋭く煌
めいて、健の目を射た。ジョーの顔が見たい。顔を見たいのに、逆光のシルエットばかり
が白光の中に浮かび上がった。
お前には俺が見えているのか。俺を見ているのか。
「…ジョ…」
答える声は無く顎を掴まれた。唇を塞がれる。息苦しさと、眩しさとで視界が滲む。光を
遮ろうとカーテンに伸ばした手は、果たせず捕まえられ、頭の上に捻じ上げられた。何も
見えない。こんなのは、いやだ。
「カー…、テ…、…閉め…」
言葉は途切れて沙に散り、声に成らない悲鳴に溶けた。

どうした、健。
赤子をあやす声がする。
お前らしくないぜ。そんな顔するなよ。悪い事したような気になるじゃねえか。

懐に潜り込んで小さくなり長く息を吐いた。

なんだ?おかしなやつだな…

汗と埃と少しの油。嗅ぎ慣れた匂い。
ああ、これは、
ジョーだ。

**

次に目覚めたときには、ジョーは居なかった。
行ってくる、と額にキスされたような曖昧な記憶が残っているばかりで、ただ明るくて、
ただ静かで、あれはやはり夢だったかと、半ば勘ぐりながら寝返りを打った。と同時に
下肢に鈍い痛みが走り、唇を噛み締めて息を殺さねばならなかった。夢でも幻でもない、
アレは現世のこと。
けれど、と健は用心深く体を起こしながら思った。痛みで現実をようやっと手繰り寄せる
…いつからこんなふうになってしまったのだろう。
いつから、こんなに疑い深く、臆病になってしまったのだろう。

いつから。そして、なぜ。

熱いシャワーを殊更にゆっくりと浴び、いつものジーンズに洗い晒しのシャツを身につけ
た。心地良いはずのしゃりとした綿の感触。それがその日に限っては、寒々しさをいや増
した。慌ててセーターを被り、その勢いで家を出た。

で、来るところといえば、飛行司令部の屋上。どこの基地でも、それは等しく健の一番の
お気に入りの場所だった。ジョーなら訪ねていける女友達が用途別にいくらでもいるのだ
ろうが、こういうはっきりしない気分のときには、健にはすべての人間関係が鬱陶しい。
自分は案外根暗なやつなのだと、ひとりで決めつけて納得していた。
手摺りにだらりと凭れかかって、滑走路から宙に視線を泳がせる。数日前までは山々に
囲まれていた眺望が、海に拡がる見慣れたホームグラウンドに戻っていた。家のベッドで
体を伸ばすのに似た、開放感と安心感。帰ってきたな、という実感が胸の深奥で湧いた。

誰かの気配がした。振り返って見回す。来たときには死角になっていたらしい。
軍服姿でない彼を、健は初めて見た。綿パンツにタートルネックのセーター、ジャケッ
ト。膝の上に何やら広げて囓り付いている。時々咳き込む。
ヒトを相手にするのは煩わしいと思っていた。だからここに来た。知らん顔して立ち去っ
てしまえば、無かったことになる。おかしなことではない。
しかし、風邪でも引いたかという、ごく一般的な気懸かりのほうが先に立った。
不思議だった。
「ユーリ」

え、というような顔が健を見上げた。
「あ、G1」
つかつかと歩み寄り、腕を組んで見下ろす。
「オフのときは?」
微笑みかけると、照れ笑いが返ってきた。
「…健。どうしたの?今、休暇中でしょう?」
声がおかしい。やはり風邪だ。
「風邪引いたな」
「喉痛いだけなんだけど。風邪なのかな」
「こんなとこで何やってんだ。風が強いから寒いだろう」
前にしゃがんで膝の上の本を捲る。小型機ライセンス取得の教本。
何となく、笑みが浮かんだ。
「へえ、始めたのか」
「うん…。時間できたから。筆記試験だけでも見てみようと思って、ちょっと」
また、咳き込む。ひどく乾いた、痛そうな咳。気管支が弱いな、こいつ。
「勉強だったら部屋ん中でできるだろう?行こう」
健が延べた手に縋って、よっと立ち上がった。咳が止まらない。
「お前も風邪なんか引くんだな」
「昨日、寒いなあって思いながら寝て、咳で目が覚めちゃって」
「気持ちが緩んだんだろうさ。…せっかくだから体休めろよ」
健が前に立つと、咳が付いてきた。
「ところで、派手にやったって?」
「G2から聞いたの?」
「大喧嘩、って言ってたぜ」
「喧嘩、じゃないな。俺が一方的に捲し上げただけだから」
「威勢がいいじゃないか」
「だって。今後は一切、ニケに乗れって言うんだよ」
「撃墜されないから?」
くすくすと思い出し笑いが漏れた。オダはその問いには答えなかったが、一瞬、ぐっと詰
まってしまい、肯ったのも同然だった。
「G2も南部長官も居るところで、だよ。失礼千万じゃん。キレちゃったよ」
長官まで居たか、と健の笑いはパワーアップする。
「俺なんか乗せてなかったら、健は絶対あんなことにならなかったんだ。それに、あの
ミッションで中佐が健を呼んだのは、航空技能だけでなくて、陸上の特殊任務にも強かっ
たからだし」
それから、お前とトシが近いのと、一見もの優しげで子守可に思えたからだ、と内心付け
足す。後半はリサの勘違いだが。
「それをだーっと言っちまったのか」
「慇懃無礼に言っちゃったよ」
「少佐って少尉より偉いんだぜ」
「知ってる」
「軍隊は階級が全てなんだぜ」
「…分かってる、…つもり」
「しかも、あの少佐は軍の名流の出だって知ってたか?」
「今は知ってる。けど、みんな前もって教えてくれないんだもの。でも、知ってても、
きっとやっちゃったな。同じ事か」
「おいおい」
同時に脱力した苦笑い。
「何があっても態度や表情に出さないって難しい。俺、やっぱり向いてないのかな、軍
隊」
「豪く簡単に気弱になるじゃないか。その程度なら、辞めちまえ」
「嫌だ」
「お前のキャリアはこれで完璧な傷物だ。ハンディは重い。挽回できるのか?」
「する」
激しく咳き込む。
「分かったよ。まあ、先ず、その咳を止めることだな」
海からの風がビル壁に当たって吹き下ろして来る。健はオダの背を軽く叩き、風上に
立った。

「ところでISOにはどのくらい居るんだ?」
「はっきりとは聞いていない。あさって、長官がブツと一緒に帰庁する。中佐には暫く長
官の指示で動くように言われている」
南部がスパコンを呼びつけて、仕事がサーバ設置だけの筈が無い、とは思った。
「長官からは何か?」
「さらっとだけ」
「どんな」
「ごめん。任務の話しは健にもできない」
成程、と健は南部の姿を思い浮かべながら、少しく緊張した。これはテストだ。
ジョーが妙に気にしていたわけだ。で、第一段階は合格だ。
「気を付けろよ。長官は、甘くない」
「中佐にも同じこと言われた。俺、そういうのよく分からないから、出来ることをやるだ
け。でも、今度は気をつける」
キレないように、ということか。健はオダの熱っぽい顔をまじまじと見直した。そういう
事だけではないのだが。第一、気を付けるって言っても、天然だし…。
「何か書くもの、ある?」
オダはジャケットの内ポケットから、手帳とボールペンを差し出した。
「俺のデスクの直通電話と、携帯と、メルアド…と。お前の連絡先は?」
オダは返ってきた手帳から名刺を一枚抜き出し、宿舎の部屋番号と、携帯電話の番号
を書いて健に示した。メルアドは名刺のでOKだから…。
「OK。ISOとは付き合い長いから、相談には乗れる。とにかく、ちゃんと連絡してこ
いよ。どんな些細なことでもいいから、な。機密条項に触れることを言えってんじゃない
んだぜ?」
オダは小首を傾げて健を見上げた。どうして健がここまで言い募るのか、全く理解の外
らしい。いいな、と駄目を押してやっと、おずおずと頷き返してきた。

海風に煽られて、上着や髪が激しく舞い上がった。痛そうな咳。
医者に行くぞ、と言いかけて止めた。首や腕を出すのは、まだ嫌がるに違い無い。
薬と点滴、南部経由でドクターに準備してもらおう。
「お前、薬物アレルギーある?」
「特に無いよ」
「注射してやる。そうすりゃ明日いっぱいで楽になるだろう」
「健、医師免許持ってるの?」
「まさか。仕事柄色々できるってだけだ。お縄になるから内緒だぜ。お前、医者行きたく
ないだろう?」
はっと健を見上げ、頷いた。俯いたのか。
健のセーターの裾がぎゅっと握り締められた。

額を洗う風が、健には心地良かった。

不思議だった。


Episode 2-3


これが、ジョーならずとも甚平やジュンなら点滴の2本も打てば少々の風邪など問題無く
吹っ飛ぶだろう。いや、点滴2本必要になるまで体力が落ち込むことがそもそも考えられ
ない。竜など体調不良のときを見たこともない。南部でさえ、あの多忙さを鉄面皮で乗り
越えるタフさを持っている。
健の周りの人間達は、生傷こそ絶えないが、皆、心身ともに強かで強靱な者ばかりなの
だった。

だから、オダが服用した薬をことごとく吐き戻し、胸を庇うように堅く丸くなって咳込み
始めたとき、健は可成り当惑していた。点滴の針がずれないよう、腕を掴んで押さえつけ
る。これって相当やばいのか、しっかりしてくれよ、頼むから…
無理にでも医者に連れて行ったほうがよかったか、今から往診して貰おうか、様子を見て
いれば落ち着くのか。悠長に様子なんか見てて、もしも…。もしもって、いくらなんでも
これくらいで大の男がどうこうなるものか。でもまだ大の男じゃなかったか。けど、子供
じゃないんだから。…そういや、子供の頃体弱かったって言ってたっけ?何か重い既往症
でもあったのか。お袋さんと連絡取ったほうがいいか。全く、栄養全部、脳細胞だけに
行ってるだろう、こいつ。
脈絡の無い思考だけがとりとめもなくぐるぐる回る。
「…み」
何か言った。
「何だってえ?」
「…つい。喉…いた…」
「あつい?いたい?」
だからどうしろって言うんだ。今度はこっちがキレそうだ。
「水…」
そうか、水分か。とミネラルウォーターのペットボトルをひっつかんだ。
その間にも、噎せて寝返りを打とうとする。その腕を押さえたまま、健はボトルのキャッ
プを歯で開け、ひとくち、ふたくち、水を含んだ。
開いている方の手で、顎を掴んで仰のけさせる。咳の切れ目を待って、唇を重ねた。噎せ
返らないように、零さないように、ゆっくりとすこしずつ…。喉が僅かに動いて嚥下さ
れ、睫が震えた。意識が戻るかと目を凝らしたが、また浅い眠りに戻ってしまった。
点滴の針を抜いて、針痕を圧迫する。ふうっと吐息。一睡もしていない筈なのに、目も頭
も冴え渡っていた。この分では1日やそこらじゃ回復しないな、と上掛けを引っ張り上げ
てやりながら思う。リサに言って、家に連絡してもらおう。今日中なら送って行ける。
時計を見上げると、午前6時すぎ。先ず、ジョーを捕まえて…。と部屋の電話を取り上げ
たら、うわ、という声が耳に突き刺さった。呼び出し音が鳴り始める寸前に受話器を上げ
てしまったらしい。
「もしもし?」
−あーん…間違えたか?
ジョーの声。
−そこ天然スパコンとこじゃねえの?お前の部屋にかかっちまってる?
「間違ってないぜ。何だこんな朝早くから」
−お前こそ何だ。こんな朝早く。あ、そうか、昨日の夜から居たんだな?
「当たり」
−早速夜這いかよ。さすがG1、先手必勝か。すげえなあ。
やけに楽しそうなジョーだった。いつもの言葉遊び。いつもより悪巫山戯。
「一睡もしてない」
−おおおお。それはそれは…、で、どうだった?
「すっげー大変だったぜ。気疲れした」
気疲れしているのは本当だ。
−気疲れねえ。そら、気ィ使うわなあ。で、その敵娼は?電話出られるか?
「寝てるが、起こすか?」
−起きられそうにないか?お前案外しつっこいからな。起きられるわけないか。
「冗談抜きで、肺炎に片足突っ込んで寝込んでる。緊急か?」
ジョーが誰かにそれを伝えている。おいおい、周りに人が居たのかよ、と苦笑。
−南部長官の予定が変わって、これからこっちを立つ。午後ISOに来られるかどうか
確認したかったんだが。待ってろ。…長官、健です。
側にいたのは長官かよ。勘弁してくれよ。
−健。わたしだ。
南部の、いつもの、感情を押し殺した声。
「長官。昨日は薬の手配をありがとうございました。少尉に、今日の午後ということです
が…」
事情を伝えて丁重にお断りしようと思っていた、その受話器を横から奪われた。
「大丈夫です。お伺いします」
「この馬鹿。いくらなんでも無理だ」
−この馬鹿?
「いえ、それはその、こら…!」
「ISOのどちらにお伺いしたら宜しいですか?長官室ですね?…はい。必ず」
ここで受話器をやっと取り戻した。
「長官」
−本人は来ると言っているが、大丈夫そうかね。
「大丈夫だから。ね、絶対、大丈夫だから」
その本人は、健に縋り付かんばかりの表情だ。分かるような気もする。無為に寝ている
より、仕事をしていたほうが休まるような気がしているのだろう。
「午前中様子を見て、ご連絡します」
−そうしてくれ給え。
「はい」
−それから、健。私は君を信じているし、仕事を離れたプライベートで何をやっているか
など干渉する積もりは毛頭無いが。…軽挙妄動は厳に慎み給えよ。
「は」
どっと青ざめてから、かっと赤くなった。眩暈がする。畜生、ジョーのせいだ。
呼吸を整え、受話器を戻しながら、軽挙妄動を振り返った。
「まったく、お前は…。いいか、家に帰って療養しろ。俺が送っていく」
「もう大丈夫だよ」
「大丈夫なわけないだろう。絶対倒れる。今度は知らない。お前みたいな虚弱体質、あっ
という間なんだからな。お袋さん居るんだろう?連絡先は?」
半分は八つ当たりだった。
「健、聞いてよ」
「親御さんは、お前が思うよりもずっと心配している。少しは考えろよ」
「考えてるよ。ちゃんと一仕事仕上げたら、連絡しようって思ってる。だから」
お願いだから、もうそのことは言わないで。さっと天井を見上げて、一回だけ鼻を啜っ
た。健はといえば、毒気を抜かれて黙らざるを得なかった。
「今、うちに帰ったら、きっと辞めてしまう。俺、家でも大学でも過保護だったから。情
け無いけど、居心地の良い処に戻ったら最後だと思うんだ」
「辞めちまえばいいじゃないか。辞める、っていう選択肢があるっていうのは、大切な
ことだぜ」
健には無い" 辞める "選択。
「俺なんか見てると、苛々するんでしょう?」
すると言ったら、泣いて家に帰ってくれるだろうか。
額にかかった黒髪を、指で一房一房掻き揚げた。
「時々な。最初の頃に比べたら、減ってきてるが」
つい本音が出た。
「よし。じゃあ、約束だ。一仕事仕上げたら必ず親に連絡をとること。俺ももうしばらく
は黙っている。もたもたしてたら、どやし上げるからな」
「うん。もたもたなんてしない。…ありがとう」
まだ少し熱っぽい額が頬に凭れ掛かってきた。
上掛けを被せながら、揺すり上げ、抱き寄せた。
自分は、一体、何をやっているのだろう、と思った。

**

結局、オダと一緒にISOに出庁した。今日まで休暇のはずだったのだが、予定は未定。
よくあることだった。
長官室の手前で秘書に呼び止められ、オダは長官の執務室に案内されたが、健は別
の応接室に通された。
「俺にお客?長官じゃなくて?」
心当たりは全く無かった。
「ええ。あなたへのお客様です。それから、これは長官からあなたに」
秘書から封書が渡される。封を切り、中を一瞥すると、命令書だった。それなら客とは
仕事相手だ。何者か。長官が同席しないなら既知の人物の筈だが。
秘書にドアを開けられ、通される。余りの意外さに、佇立した。

長身、痩躯、オリーブグリーンの軍服。
大窓に向かって佇んでいた人影が振り返り、健を認めると、ゆっくりと歩み寄って来た。
まっすぐ伸びた背筋、広い歩幅。規則正しい靴音。
プラチナ・ブロンド。
色があるか無いかの薄グレーの瞳。

「ライズ少佐」
「G1。お互い名乗る必要は無いだろう。命令書は読んだか?」

一分の隙も無い軍服姿と、トレーナーとジーンズ姿の、一種異様な取り合わせではあっ
た。


Episode 2-4


下りエレベーターにはライズと二人切りだった。封筒から命令書を引き抜き広げる。A4
サイズのビジネス箋がたった一枚きり、末尾に南部のサインが踊っていた。
「1時間で用意できるか」
ライズの声が背後で響く。語尾は下り質問ではない。即ち、命令。
「30分あれば十分です」
「車を君の宿舎に回す。それから30分後に飛行司令室に来い」
「分かりました」
庁舎を出て階段を数段下りるうちに、シルバーメタリックの高級車が横付けされた。助手
席と運転席から、若い将校が揃って降り立って、計ったように同時に後部座席のドアを開
けた。
健は、運転席の後部に、ライズと並んで座を占めた。
「知っての通り、ニケの機と君の機は同種だ。君の愛機をちらりと見せてもらったが、ハー
ド的には全く遜色無いと思われる」
「はい」
健の乗機はISOの粋を集めた最新鋭の戦闘攻撃機である。遜色のあろう筈が無い。一
方、ニケは軍の粋を集めた戦闘攻撃機で構成されている。軍きっての名流出身のエースを
擁し、軍で最も金の掛かった航空隊との呼び声が高い。軍で最新最強の戦闘機に乗るなら
ニケ、とパイロットの憧憬の的になっていた。
今、自分の隣に座っているのが、そのエースだ。健は正面を向いたまま、ライズの気配を
伺う。元は出自の良さでエリートコースに乗った者だろう。しかし毛並みだけで、一癖も二
癖もある飛行機乗り達を長期間率いることは不可能だ。
どこまでやる、このサラブレッド。

「君の経歴は不思議だ」
健はライズに顔を向けた。ライズは正面を向いたまま。
「18才でデビューするまでに、どこの航空学校にも大学にも、軍関係の訓練校にも籍を
置いた気配が無い。長官の秘蔵っ子とは聞き及んでいるが、長官ご自身は飛行技術に関
しては素人だ」
「どこの馬の骨とも知れぬ輩、と?」
健は前方に向き直った。軍は階級と、実際には出自が全てだ。こういう言われようは慣れ
ている。そして、一度飛んでしまえば、階級と出自しか無い者は黙る、ということも身に沁
みていた。
「君がどこの馬の骨かなど何うでもいい。出身校も師匠も分からんのでは、君がどういう
飛び様をするのか、見当が付かないというだけだ。俺の下にそんな訳の分からない兵隊に
居られては困る」
南部から下った短い命令書にはこうあった。
−あのミッションに参加すること、当面はライズ少佐の指揮下に入ること。
宿舎群が見えてきた。案内を請うことも無く、車は迷わず健の宿舎の前に付けられた。運
転席から下士官が降り、健のドアを開ける。
「では、30分後にお伺いします」
健の言葉に、ライズは軽く片手を挙げて応えた。
車を見送らずに、踵を返した。俺を見に来たな、と健の戦闘機乗りの血が告げる。願って
もない。ニケのエースが軍一番のパイロットというのなら、尚のこと面白い。噂がどこま
で本当か、直接見せて貰おうじゃないか。
健の口元に我知らず、笑みが滲んだ。

**

強風で有名なホーム基地は、この日は珍しく風も優しい晴天で、絶好の飛行日よりだっ
た。
フライトスーツを着込んだ健が、飛行司令室に駆け込もうとすると、丁度ライズと鉢合わ
せした。健が来るのを見ていて、タイミングを合わせて出てきたに違いなかった。
「これから、統合情報部に飛ぶ。途中までは俺と君と二人だ。俺の機に貼り付いて追いて
来い。向こうの空域に入ったら、他のメンバーと合流して演習に入る」
「了解」

愛機は既に待機していた。勝利の女神と大鷲の横顔が重なっている。弾みを付けてコック
ピットに乗り込んだ。
整備員の合図でエンジンを始動する。巨大エンジンが出力を上げ咆哮する。インティクは
近づくモノ全てを吸い込もうと唸りを上げる。ラストチャンスの最終点検終了が合図され
た。ライズが整備員に敬礼してタキシードアウトして行く。健もその動きをぴたりとなぞった。
健の機はライズの機の僅か斜め後方。殆ど並列した状態で女神と大鷲が轟然と離陸滑走
する。アフターバーナーの煌めきと爆音と共に、四千メートル級のランウェイを滑り抜け、
むしろゆっくりと機首が上げられた。
徐々に高度を上げ、目的地に向け、上空で大きく旋回した。
ライズの横顔が、すぐそこにあった。ヘルメットと酸素マスクで表情など見えない。何を
考えているのか。何を仕掛けてくるのか。ただ、この空域では演習はできない。やはり先
方の基地の演習空域に入るまで何も起こらないのだろう。健はライズ機の翼の先端だけを
見ることにした。対手は傭兵ではない、生え抜きのサラブレッドだ、軽挙妄動に出ること
はそれこそ考えられまい。
移動速度は異常というほど速かった。この速度で一定時間以上を、僅か数フィートの間隔
で編隊を組んで飛ぶこと自体、容易いことではない。さらに、その速度が次第に上がって
行く。健は何の乱れもなく、ライズ機に続いた。
海から山に景色が変わる。
健のレーダーが、正面からの機影を捉えた。4機。
−2対2の戦闘シミュレーション演習を行う。君のパートナーは先日の…
あのミッションを健とともに飛んだ、あのお馴染みの手練れの傭兵だった。
−相手はニケの5番機、6番機だ。
「少佐、数が合いませんよ」
−俺とG2が見届け役だ。不足あるまい。…全機、聞いた通りだ。実弾を撃つ以外は何を
やっても構わん。遠慮は要らん。存分にやれ。
4機が目視できた。
−G1、追いて来い。いつも通りでいいな?
「OK」
それならば健は僚機だ。隊長機を追って旋回する。
−お言葉に甘えて遠慮無く落っことしてやれ。格好いいとこ見ててやるぜ。
いつもの茶化すようなジョーの声。
「ああ、カメラは持ってきたか?」
同じ調子で返したが、力が余分に入っているのは分かった。
−発射ボタンを全てロックしろ、分かれたな。よし。
ライズ機とG2機が、すうっと視界から遠離った。
−演習開始。

その声と同時に、激しい後ろの取り合いが始まった。

**

女神達の動きは噂に違わぬものだった。機の性能もさりながら、飛行テクニックもひと味
違う。その上、チームワークが絶品だった。
しかし、実戦経験からいっても、飛行時間からしても、そして、飛行機乗りの血からして
も、健は遅れを取るわけには行かなかった。
経験を積めば積むほどどこが違って来たのか。健は自分に関しては、逃げるのが巧くな
ったと思っている。任務を完遂して、かつ必ず生きて帰る。自分だけに対することではな
い、チームメイトに対しても然り。
それは何があってもギリギリの状態にならないということを意味していた。
G1が何故トップパイロットと呼ばれているのか。それは、兎に角しぶとい生命力に由来
していた。健は、戦争が百年続いてずっと闘い続けても、絶対墜ちないパイロットだっ
た。

**

−演習終了。これより帰投する。
ライズの、始まったときと同じ調子の声で、演習は終わった。
健は隊長機と並び、一緒に握りこぶしを挙げガッツポーズをとった。G2機からは何も
聞こえないが、きっとへらへらしているに違いない。
ジョーのやつ、見物だけしていい気分になりやがって、何かご馳走してもらっても罰は当
たらないな。
緑のグラデーションに囲まれて、基地の滑走路が見えてきた。アウェイの筈なのに、どこ
かしら安堵するものがあった。

6機が綺麗に編隊を組んで着陸し、ゆっくりと滑走路脇の列線にタキシングする。健の
緊張が解けていく。なんか腹減ったな。
ヘルメットをとって、コックピットから降りた途端に、今度は眠気まで襲ってきた。昨夜
は一睡もしていないのだった。
ジョーと隊長機が降りてきて、笑いながら健を小突く。健も若い、こんなに楽しいことは
滅多に無い。やはり笑いながら突き返した。
ニケからも乗員が降りてきた。ライズと、二人のパイロット。何かライズに言われている
ようだ。叱られているのか、と思った。あの男、気位の高さは尋常ではない。
二人が敬礼をしてライズを見送る。そのライズは健達のほうにやってきた。

「噂に嘘は無かったようだ。よろしく頼む」
ライズが右手を延べたのに、一番面食らったのは健だった。慌てて手袋を外し、右手を
差し出した。堅く握ってくる。少々驚きながら、こちらも負けじと握り返した。
「今日、君たちの相手をした連中はうちの若手だ。G1と同い年の者をアサインした。軍
では若いのなんのと言ってもらって悠長にしているが、これで少しは負けん気も出るだろ
う」
口調の抑揚の無さ、無表情さは変わらない。
ただ、印象が少し変化した。この男ただのエリートじゃない、本物の、プロだ。
「ところで、G1にはもう少々確認しておきたいことがある。来い」
それにしても有無を言わせない男ではあった。健はジョーと隊長機に目配せし、ライズを
追った。

ライズは健の前を歩きながら、振り向きもせず言った。
「今日の飛行を見る限り、君の危機回避能力と退避能力は俺の知る最高クラスだ。なぜ
撃墜された」
「それは」
酷い偏頭痛のため、とは言えなかった。
「君は墜とされるパイロットではない。撃墜の原因を知りたい」
「乗機が自分のもので無かったから…」
「俺は与太話しをしているのではない。オダ少尉は自分を乗せていたからだと言い張って
いたが、そうではないだろう」
語尾は下がる。疑問形でも質問形でも無い、言い切りの口調だった。
「運が悪かった、からです」
「君の経歴には随分な荒事が列挙されている。あれを生き残ってきた男に運が無いとは、
得心がいかない」
ライズは振り返って、その表情の無い瞳で健を視た。
「撃墜されたときのシチュエーションに今後再び陥ることはあるのか?」
初めての質問形だった。
「ありません」
反射的に答えた。
「それならば構わん。しかし、今更言うまでもないが、俺の配下にいる間は報告に嘘や隠
し事は許さん。それだけだ。解散していい」
はい、とも、分かりました、とも答えず、健は一礼してライズの許を走り去った。
一刻も早く、ジョーたちと合流したかった。

つい数分前まで、あれだけ高揚していた気分が、嘘のように冷えていた。


Episode 2-5


狙うのは敵最前線の航空基地。国境を隔てること僅か数百キロに位置しており、健を撃墜
した戦闘機群もそこから飛来したのだった。
先ず、被害を最小限に抑止するため、敵レーダーをジャミングによってあらかじめ攪乱す
る。その後、レーザーを使用したピンポイント攻撃を行う。敵の防空レーダー網、地対空
ミサイル官制レーダー等を破壊し、敵の防空能力を無力化することが主目的だった。
敵地での制空権が無い状態での強襲ミッションのため、任務を遂行する戦闘攻撃機にとっ
ては危険が大きい。
攻撃対象はハードのみ。最低限のリソースで、最効率でミッションを完遂するにはどの動
きが最適か。ライズ指揮下、繰り返し繰り返し、あらゆる攻撃シミュレーションが検討さ
れ、徹底した訓練が行われた。
男達の怒号とざわめきと、耳を劈くエンジンの轟音とだけの、残酷なほど単調だった数日
間。健は、ただパイロットとしてのみ存在していた。

となると、楽しみは食べることだけ。
いつもの倍は食ってるよな、と山盛りのトレイを捧げ、健は窓際のテーブルに着席した。
この日も、基地のレストランは飢えたパイロット達で大盛況。陸上特殊任務部隊は出遅れ
たようだ。早く来ないと枯れ草一本残っていないぞ、と健はジョーを想った。想いながら
も、ひたすら食う。
「G1、ここ、いいか?」
ニケの副隊長と6番機が、これもてんこ盛りのトレイを持って立っていた。
健は、咀嚼しながら大きく頷いた。
「くったびれた、腹減った〜。あーー。ビールが美味い…」
ニケでは最年少の6番機。陽気な赤毛。ライズの発破が余程効いたか、健を躍起になって
追う余り、敢え無く健方の隊長機に撃墜されてしまった。
副隊長は本来ならば、ライズの僚機だ。竜の幅を三分の一にしたような、とにかく柔和な
人柄が、隊長のライズとは好対照だった。
「G1、少佐の僚機の気分はどうだ?」
このミッションでライズのパートナーを努めているのは健だった。健のイメージでは軍な
どけっこう陰々滅々としているのだが、この男、一等席を取られたからといって、健をい
じこじしようという気は全くないらしい。
「もう、最高。思いっきりやらせてもらってる」
「へえ。少佐相手に思いっきりかあ」
赤毛が感心したように首を捻る。
「少佐も楽しそうだ。G1、うちに転籍したどうだ?」
おっとり言われると、響きが本当ぽくていけない。いや、
「援護射撃は俺たちがいくらでもする。一緒にやりたい、って少佐に言えよ。G1なら、少
佐は必ず動く。彼が動けば黒が白にだってなる」
冗談を言っている顔ではなかった。いじこじどころか引き抜きだ。
「ISOって住み心地悪いだろう?ニケほど遣り易いところは他には無いぞ」
その柔和な副隊長が、“住み心地悪い”と言い切るのに、健の興味が向いた。
「俺は他を知らないから。ISOって住み心地悪いのかな」
「ニケ誕生秘話、G1は聞いたことないのか?わりと有名な話しだぞ」
「いや知らない。教えて呉れよ」
副隊長はにっと笑うと、マカロニを頬張りながら話し始めた。
「南部長官直下に、対敵首領グループ選任の覆面部隊があるだろう?」
俺たちのことだな、と健は思った。
「面が割れるとまずいからって、表に一切出てきやしない。まあ、正体不明の連中なわけ
だが、これが強くて。俺たちは、美味しいところを持っていかれっ放しだった。何年前だ
か、空軍の主力部隊とそいつらが鉢合わせしたときに、あっさりやられた。危ないから下
がっていてください、って」
それは俺だ、と健は穏やかでなくなってきた。
「俺は新兵だったんだが、かちーんと来た。そいつガキだった。絶対俺より若かったね。
幕僚達はもっと来ていた、似たようなことがしばしばだったから…で、軍の威信を賭けた
強力な航空部隊を結成することにした。それが今のニケだ」
顔で笑って、心で冷や汗。正体が知れたらフクロだ。
「ニケって、じゃあ、新しいんだ」
へらへら。
「そう。軍の航空隊では一番若い。ライズ一族が旗を振ったもんだから、凄い勢いで育っ
たんだ。少佐は機の選定から参画している」
「少佐って、飛行機乗りだけじゃないのか」
「もとは設計畑なんだ。それが行き掛かり上、テストパイロットまでするようになってどっ
と芽が出た。だから、飛行時間も戦闘年数も、G1の半分も無い」
それで、あそこまでやるか、と鼻が鳴る。
「あったまいいからなあ。少佐」
赤毛が口の周りのソースを拭う。
「頭良いだけじゃない。少佐は努力している。トップで、エースで当たり前、なんだから
な」
お前もちっとは見習え、とお説教。赤毛青年にはただの藪蛇だったらしい。
「道理で老けて見えるわけだ」
健とは2つ違うだけ、しかしとてもそうとは思えない。名流の悲哀か。
「まあ色々と苦労の多い人なんだ。で、話しが逸れちまったけど、あんなタカビーなガキ
どもの下で、援護仕事ばっかさせられてるんだろう?やるなら主人公、うちに来いよ。言
い出しづらいんだったら、俺が…」
援護仕事ばかりの普通のパイロットだったら…、健には想像すら及ばない。
健の生きられる場所は、一つだけ。そしてそれは絶対なのだった。

**

夜、部屋に戻ると、物を言う気力も残っていない。熱ボケしたような頭のまま、シャワー
を浴びる。バスローブを纏い、タオルを頭に被せた状態で、機械的にノートPCを起動
し、メールの確認を行う。
根っから律儀な性格なのか、オダは健に言われた通り、毎日メールを送信してきていた。
天候と気温と、何を食べたかとか、小型機ライセンスの教本が何処まで進んだかとか、本
当に些細なことばかりが短かく淡々と綴られていた。
何やら新しいデータ管理システムの設計・開発を、一人きりでやっているらしいのが伺え
た。ISOの情報システム室にも、システム開発の業者にも任せられない仕事ということ
になる。一人でやっているというのも合わせて、健の気懸かりになっていた。仕事が速い
から、ひとりで間に合っているのだ、と自分に言い聞かせ、それでも仕事の内容がどうし
ても気になった。口の堅いオダを相手に、何とか気配でも漏らさせようと、一見当たり触
りの無いレスを四苦八苦してこねくり回した。

「おい」
ぎょっとして振り返ると、ジョーが立っていた。
「ちゃんとノックしたぜ。鍵も掛けねえで…一生懸命何やってんだ?」
送信ボタンを押して、メーラーを閉じ、PCをシャットダウンした。
椅子をジョーに回転させ、見上げる。
「内緒のメールか?お安くないね。女かよ」
「お前じゃあるまいし」
「ふうん。女じゃないのか。そら余計に聞き捨てならねえなあ」
「やけに絡むじゃないか」
ジョーの不機嫌は珍しい。
「久々に同じ仕事にアサインされたのに、声一つ掛けて来ねえ」
「おまえは陸上特殊任務で、俺は航空攻撃任務だ。上役も違えば、活動エリアも違う。別
ミッションも同然だろう」
「五月蝿い。このお前の部屋から、俺の部屋まで20歩って、知ってたか?」
「演習がキツくて…」
「そんな話しを聞きたいんじゃねえ」
ジョーが健の両腕を掴んで引き立たせた。タオルが肩を撫でて、床に落ちた。
唇が触れるか触れないかのとき、健が低く言った。
「焼き餅か?」
「まあ、そうだな」
「それなら、ライバルは大鷲だ」
「大鷲なら構わねえ。金輪際、勝てねえと分かってる」
「それなら、何で絡む?」
「勝利の女神じゃなかろうか、とな」
ジョーは健から顔を離して、少し投げ槍に唇を曲げた。
健は、鳩が豆鉄砲…。
「そりゃあよ…あの少佐にはそんな気配は微塵も無え。ただ、並んでると実に絵になるん
だよな。こら、瞳孔開いて固まってんじゃねえ」
ジョーのこの言い草に、今度は高笑が迸り出た。
「その様子じゃあ、お前から誘いに行く心配もなさそうだな」
「俺があ????お前ねえ。言うにこと欠いて」
「はいはい、分かってますって。だから余計に苛々するんだけどよ」
お前が一番お前らしい世界には、俺は門外漢だからな…、とジョーの照れ笑いが妙に哀し
そうに映った。
「つい、愚痴の一つでも言ってやろうかと。あー、俺としたことが格好悪いったらねえ
な。お互い、明日もきっつい演習だ。お休みっ」
ジョーは健の頬に軽くキスすると、踵を返そうとした。
「あ、ジョー」
呼び止める健の声と、電話の音が重なった。条件反射で取った。
−G1。ライズだ。G2もいるか。
「はい」
ジョーを見る。ジョーは自分を指さして、おれ?と唇だけ動かした。
−二人とも作戦本部に来い。大至急だ。

**

作戦本部となっている会議室のドアを開けると、リサを始め、ライズ他、ジョーの上官と
なる陸上ミッションの担当将校と、主立った幹部だけが揃っていた。
「来たわね。作戦の変更よ」
決行は数日後。何故今頃。
「決行予定日にあの基地に敵の首領が来訪しているという情報が入ったの。ハードの殲滅
より、親玉退治のほうがメインになった」
「確かな情報なんですか?」
健。
「一応、アテになる消息筋ではあるわ。特殊部隊を編成し、敵の首領を倒す。航空攻撃
ミッションは予定通り行うけど、そっちと要再調整。…それで」
リサが唇を湿らせる。
「南部長官が対首領ミッションの総責任者。知ってるでしょ?長官麾下の覆面部隊、彼ら
が出てくることになったの」
健はジョーと顔を見合わせた。" 俺達 "だ。
「その援護のため、あなた達に南部長官から帰還要請が来たわけ。慌ただしくて申し訳無
いんだけど、二人とも、明朝、朝一にISOに帰投して頂戴」
ジョーの緊張が伝わってきた。健は、といえば緊張と、説明不能の寂しさと。
「二人が欠ける部隊は編成の見直しを大至急行って。質問は無いわね。解散」
ジョーが上役に目配せされ、退室していった。これから調整に入るのだろう。
ライズは一言も無い。リサに黙礼すると、そのまま部屋を出て行ってしまう。

「少佐」
止むに止まれず、後を追った。
「あの」
健が前に回り込むと、いつもと変わらない無表情のまま、立ち止まった。
「何だ」
「…いえ。短い間でしたが、色々勉強になりました。有り難うございました」
遣り遂げたかった。本物の戦闘機乗りと、本物の戦闘機乗りの仕事を。
「君もご苦労だった。後のことは良い。早く寝んで、最上のコンディションで帰投しろ」

ライズは真っ正面に突っ立っている健を半身で躱し、足を踏み出した。

規則正しい靴音が、健の背中で、遠離って行った。


Episode 2-6


Gスパルタンが発進した。

「健、そろそろ空軍とのランデブーポイントよ」
ジュンの声が、健を思索の淵から引き上げた。
「少佐が来てるな。健」
ジョーの声を背に聞き、健は微笑して振り返った。
「来てるさ。手ぐすね引いて待ってるぜ」
「そいつ、腕は立つんかい?軍だの警察だの、アテにならんのが多いからの」
「健が付いて行きたそ〜うにしてたくらいの腕だぜ」
ジョー。まだ拘っているのか。
「兄貴が?へえ。そりゃ楽しみだ」
「健、戦闘機よ」
先ず両側面、それから前方に、散開した編隊が滑りこみ、Gスパルタンを盾のように覆っ
た。その数16。全機の尾翼に勝利の女神の横顔。
「ま〜た派手なお出迎えだわ」
女神は傭兵を交えていなかった。ニケのターゲットは敵基地では無い、俺達だ、と健は整
然と編隊飛行を行うニケを見つめた。
「ジュン、編隊長と通信してくれ」
「ラジャ。あ、健、その編隊長からよ」
−お早う。科学忍者隊の諸君。xx空軍ライズ少佐だ。これよりエックス・ポイントへの誘
導を行う。当面、雑魚は当方で引き受ける。
エックス・ポイントとは、敵首領の所在ポイントである。
「こちらは、科学忍者隊ガッチャマン。ご協力感謝する」
健の応答を合図に、ニケ全機がスピードをアップした。
「おお、まあまあ早いわ」
「このままいけたら勝負が早えな」

南部を新たに交えた作戦本部で、敵首領が基地のどこにいるのか検討に検討が重ねられ
た。情報リソースはISOの諜報部だが、所在の詳細は不明だったのだ。基地は広い。5人
で無闇に乗り込んでも取り逃がす可能性が高かった。
軍とISO、その他の機関から齎された新データによる再シミュレーションが必要になった。
それを一晩でシステムに反映させたのが、オダだ。
結局、このミッションで使用しているシミュレーション・システムはあのティーン・エイジャー
が一人で作ったことになる。

「健、敵戦闘機群がレーダーに」
地対空ミサイルが襲って来ない。地上特殊部隊によるレーダー撹乱は成功だ。
前方の女神達から、長距離ミサイルが発射される。全弾命中。ジョーが笑う。
「一発必中だねえ。ま、そうでなきゃな」
長距離ミサイルの次は中距離ミサイル。そして接近戦。
女神たちの打つ手のほうがことごとく早い。更に、両翼を飛行していた一群がスピードを
アップして上昇した。レーザーによるポイント攻撃に入る。高空より衛星レーダー補足、
降下しながら照準を合わせ、ミサイル発射施設に誘導弾発射、上昇。
「ひゃあ〜。おいらたち、することないじゃん」
「たまにはこういうのもええじゃろ」
「そうだよな。滅多に無いもんな」
泡を食って飛び出して来た敵戦闘機は、チーム戦もへったくれも無い。こうなると敵では
ない。深追いをせず、飛行能力乃至は攻撃能力を奪うだけに留める。
と、格納庫のひとつが不気味に揺いで崩れ落ち、巨大なメカが立ち上がった。
鞭状の触手が無数に蠢いている。
「ライズ少佐。鉄獣メカはこちらに任せてくれ」
−了解。総員、待避。
この辺りがライズの割り切りなんだな。と健は思った。迎撃機を迎え討つ、基地攻撃施設
を破壊する、そこまで。
「空軍航空隊の被害は?」
「無傷よ」
我々は撃墜などされない、の一言が健の脳裏を過ぎり、G1号ガッチャマンの自尊心を
擽った。
「よし、今度はこっちの番だ。竜、開けてくれ」
「いきなりか?健」
ジョー。
「空軍が編隊を組みなおして、軍事施設の壊滅に戻ってくるまであと僅かだ。それまでに
敵の首領を探し出さなければならない。時間が無い」
健はGフェンサーをすらりと抜き、ジョーに笑いかけた。
「竜、メカの頭頂部を掠めて通過してくれ。ジョー、ジュン、甚平は長官から指示があっ
た基地内ポイントに先に急行。竜は3人の降下を確認したら基地反対側に抜けて待機。
俺はメカ破壊後、3人を追う」
「ラジャ」

ノーズに立つと、強風を受けて白い翼が大きく拡がり靡いた。前髪が額を弄る。健は切っ
先をだらりと下げたまま、メカを見下ろした。メカが健に照準を合わせ、触手を一斉に伸
ばして来る。翔ぶ。Gスパルタンは触手を避け、急上昇した。Gフェンサーの刀身が蒼く
光を帯びる。目の高さに構えると、健の顔が青白く炎を啜った。降下速度と全身のバネ
と、ありったけを籠めて貫く。

ハイパー・シュート…!!!!!

全身が焦熱に包まれる。全てが白く輝き渡る。目も開けられないほどの目映さと体が砕け
散らんばかりの衝撃。眩暈を堪えながら、健は貫き通した。
メカを貫通して、健は再び空へ踊り出した。翼に風を孕ませて飛行速度を落としながら、
位置を再確認する。他のメンバーが到着しているはずのポイントには、健の地点からはま
だ相当に距離があった。Gスパルタンを呼び戻すには遠い、銃弾を避けてバード・フライ
で…と考える内に、超低空から一機の戦闘機が舞い上がって来た。ニケの一番機。ライズ
少佐だ。人差し指で健を招いている。健は微笑してコックピット近くに着地し、身を伏せ
た。ブレスレットの通信周波数を調節する。
−い…聞こえるか?
「聞こえる。敵基地の上空に差し掛かったら飛び降りる。退避してくれ」
−君たちをエックス・ポイントに誘導するのが俺の任務だ。
「危険すぎる」
−確かに危ない。振り落とされないように、しっかり貼り付いていろ。
健の体がGを受け、がくっと後ろに引っ張られた。翼を目一杯広げて、ニケの機体に貼り
付く。高度を上げると銃器に目視で狙われる。巨大な機体が90度の角度を保ったまま、
狭い施設間を突っ切っていく。敵兵の顔が識別できる。機を水平にできる空間があれば、
ライズは90度を逆に立て直した。一定方向だと、健が銃に狙われやすいからだ。上空で
は2機が、援護していた。副隊長機と3番機に違い無い。健に向けられる銃口を次々に破
壊していく。かちーんと来たガキを、今、守る側に立っている。少しは溜飲が下がっただ
ろうか。
前方に一際巨大な建造物を認め、機が垂直上昇した。
少佐、俺だって一応は生身の人間なんですってば…。心で叫んで歯を食い縛る。この建物
の最上階がエックス・ポイントだ。
「ありがとう、少佐」
少し顔を上げ、コックピットのガラスを叩いた。
−成功を祈る。
両手を広げて翼を翻し、風を吸って宙に浮いた。上昇旋回するコックピットに、ライズの
敬礼する姿が見えた。

**

最上階の窓ガラスを銃で破壊し、躍り込んだ。
「ジョーどこにいる?ジュン、甚平、応答しろ。どうだ?!」
作戦本部らしいその部屋は、がらんと広いばかりだった。
−駄目だ。健。雑魚ばかりだ。親玉なんて影も形も無え。
−現在捜索中よ。脱出した気配も無いの…
「陸も空も、軍の目がある。脱出すれば気付かないわけが無い」
−情報がガセだったんじゃねえのお?ちょおかーん。
「隠し部屋がどこかにあるんじゃないのか?探せ」
いくら走っても、探しても、ターゲットは、気配も無かった。

**

タイム・オーバー。
健たちは空しく帰途についた。途中、基地軍事施設の完全破壊に向かう、軍と傭兵の混成
飛行隊と擦れ違った。
健はいつも、今度こそ終わらせる、との気概で闘いに臨む。しかし、この日も、その強い
思いはフイにされてしまった。自己嫌悪と言い様の無い脱力感が湧き上がってきては、健
を苛む。
−諸君
フロント・パネルに南部の上半身が浮かび上がった。
−敵首領は別の基地に潜んでいた。XX国に鉄鋼資源を明け渡す様、要求を突き付けて来
た。4時間以内に呑まなければ前面攻撃すると声明を出している。
諜報部も我々も、今回は彼らの時間稼ぎに付き合わされたようだ。
「やっぱガセだったんだ。畜生〜」
甚平がこぶしを振り上げる。
−急ぎXX国に飛んでくれ…
「ラジャ」

いいさ。今度こそ、終わらせる…!

ジュンがルートを弾き出す。
竜がGスパルタンを大きく旋回させた。


Episode 2-6


軍の統合参謀本部及び統合情報部の名で、祝勝会の案内状が届いたのは初夏の頃だった。
表向きの名目は例の国境付近の最前線基地を攻略したことだが、その実はISOに対する
牽制だったようだ。即ち、軍は強くなった、という…。

有名大型シティ・ホテルのメイン・バンケットが、軍関係者のみならず政財界の要人にプレス、
果ては映画スターや歌手、スポーツマンで埋められていた。健とジョーは、途中まで作戦に
参加していたということと、南部の護衛ということで、会場の人混みに紛れていた。
「明るい内からここまでねえ。気の毒になるぜ。よっぽど嬉しかったんだなあ」
「俺たち、俺たちが思っている以上に、軍には粗相が続いてたんだなあ」
「けど、連中がちゃんと仕事できたの、初めてじゃねえの?しかも働いてたのは陸上特殊
部隊と、混成航空隊じゃねえか。どっち混ざりもんだぜ」
「ニケ、なかでも少じゃなくて中佐のパフォーマンスが効いたんだろう」
健を誘導した一部始終が、衛星カメラに納められていたらしい。超高感度で。
「お偉いさん、お家のビデオで繰り返しご覧になってんのかねえ。寂しいねえ」
「もしかしてもうDVDに焼いてあって、配ってるんじゃないか?」
だったら俺たちも貰って帰ろうぜ、とジョーは嗤った。危ないから下がっていて下さい、
から幾星霜、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ってやってるぜ。
「でも良かった。文句無しの二人が揃って昇格。俺、あの二人だけは良くやったと思う」
健の言葉にジョーは頷き、ウィスキー・グラスを掲げて、乾杯、と笑んだ。
二人の前方で、ライズとオダがまたカメラに囲まれていた。
「絵的にも良い選択だ。今の軍じゃ最高の被写体だろうぜ。…それにしてもろくな女がい
ねえなあ。やつの一統が集まってんなら、銀色の髪と瞳の美女がどっかに居る筈じゃねえ
のか」
「ジョー、お前何しに来た」
毎度お馴染みの会話になる。いつものことだが、能天気に笑える。
「そら本能と使命感を果たしにさ。やつに妹いるか聞いてねえの?お前」
「末っ子らしいな、確か、姉さんが片づいてたような…」
「おお。年上の美しき人妻、大いにめちゃめちゃOK、だぜ」
ライズの長兄は統合参謀本部の幕僚、次兄は統合情報部の幕僚…と健はニケで聞いてい
た。姉婿だおじだイトコだまで並べられ、その上、祖父と父親は政財界の超大物でトカナン
トカ…。頭が拒否して覚えていない。
被写体が動いた。ライズとオダを囲んで、派手な軍服や厳めしい黒服が並び立つ。軍関係
者か。中央の二人だけが写真映えしている。健もジョーも、相当怪訝な表情をしていたの
だろう。ニケの副隊長が微笑みながら寄ってきた。
「あれは全員中佐の家に繋がる人達だ。二人を一番内側で囲んでるのが、中佐の両親と長
兄、次兄、お姉さん」
「うそ」
健は一応黙っていたのに、ジョーの口が滑った。
「銀色の髪、銀色の瞳の美女が居ねえぞ」
「生憎、あの一族は容姿的には余り恵まれていない。中佐が特別なんだ」
「余り、なんて生易しいもんか。金持ちってのは、いい毛並みのいい女を捕まえるもんだ
ろ。なんであんな事態に陥っちまったんだ」
あの温厚な副隊長でも吹き出す悪口雑言の数々。こうなるとジョーの独壇場。
「ジョー、失礼だぞ」
「だって本当のことじゃねえか。…じゃあ何か。やつは突然変異か」
撮影が終わったらしい。人垣がどっとオダの方に崩れた。ライズが一人、そっぽを向いて
踵を返す。副隊長がさっと寄って、ライズを呼び止める。ニケの隊員達が会場のあちこち
から涌いて出て、それを取り囲んだ。
何か不自然なものを感じた。オダもそうなのだろう。軍きっての名流に囲まれて、一応愛
想笑いはしているものの、目はライズの背中を追っていた。

「け…G1、G2」
礼服姿のオダが、やっと、といった表情で人混みをかき分けて駈けてきた。
「久しぶりだな。オダちゅうい」
「星いっこ増えたってか。おめでとう」
「いいのかな、って思ってたんだけど、みんなにそう言われてるとおめでたい気分になっ
てくるから不思議だよね」
オダから届く3行メールの末尾にぽろっとあった。何故昇格対象になるのか分からない、
最後は偽情報に踊らされて終わったのに。
健は猛然とレスを返した。撃墜されて怪我までし、僅か数日間でシミュレーション・システ
ムを仕上げた。今回の作戦成功は効率の良いシステムを使用した事前準備に因る。し
かもシステムは今後、他作戦でも使用されることになった。昇格くらいで騙されるな、イン
センティブもたっぷり貰って奢ってくれ、と。

今度はいつまで居るの?とオダは健を見詰めた。
「明日まで。長官と帰んなきゃ」
ジョーが上の空になって、エントランスを眺めているのに気が付いた。
「何だ。あ、でも、いいか、俺、来週またISOなの」
「しょっちゅうだな。半分くらいISOか?」
「半分以上あるかも知れない。ISOに居るときのほうが忙しいし…」
健、健、とジョーが健の上着を引っ張った。
「ろくな女が来やがったぜ。男連れだけどよ」
「へえ。どれどれ」
「ふわーっとした金髪の、ありゃ碧眼だぜ。ほら、リサがエスコートしてる」
健はリサに手を挙げて、小首を傾げて見せた。リサのウィンクが返って来る。
「ユーリ」
微笑して、オダの肩ごしに顎をしゃくった。
「え?何?」
オダが振り返る。途端にフリーズした。
「約束したろう?一仕事仕上げたらちゃんと話しするって。リサと仕組ませてもらった
ぜ」
片腕を掴み上げる。
「逃げるな。ジョー、そっち、よろしく」
「お、おう。ってもしかして、あの震い付きたくなっちゃう美女は…?」
「どうやら、こいつのお袋さんだ」
「二人とも離せよ。狡いよ。中佐までぐるなんて…」
この中佐とはリサのこと。
「おい天然、ありゃ姉さんだよな?姉さんだって言ってくれ」
目鼻立ちは母親譲り、髪と瞳の色は父親譲り。
「いらして下さったわよ。中尉」
リサがオダの腕を軽く叩いた。健とジョーがオダの腕から手を離す。
「ユーリ、お招きありがとう」
父親は、まさしく一流企業のトップといった風情の紳士だった。
「昇格したのですってね。おめでとう。どんなお仕事でお役に立っているの。私に分かる
ように話してくれる?」
母親は、…
リサは健に目配せし、父親に一礼すると去った。健も逃げようとした。こういう場面での
涙腺の弱さには自信があるから。が、今度は逆に捕まえられた。
「駄目だよ、G1、逃げちゃ。これから基地に戻るんだから」
「主賓が何言ってるんだ」
「ライズ中佐にエイト・ポイント・ロール見せてもらうんだ」
「そうじゃなくて、考えてみろ。主賓が二人して消えたら拙いだろう?」
「だって、中佐が構わないって言ったもの。一晩でシステムのカスタマイズができるか賭
けたんだ。俺が勝ったら、やってくれるって約束したんだから」
作戦直前のどさくさに、各機関からの諜報データを洗い浚い、一晩でシステムに反映させ
たとは聞いていた。

天然パワーを炸裂させた張本人が、ニケのメンバーに押されて現れた。
「中佐、約束のエイト・ポイント・ロール」
この天然スパコン、峻厳で聞こえた航空隊隊長が恐くないのか。
「男に二言は無い。行くぞ」
とライズ。車回せ、とメンバーを振り返った。数人が頷いて去った。
「すごいんだよ。父さんも母さんも見たいでしょ」
「素晴らしい。是非」
「あの…ユーリ、その、なんとかロール、ってなんなの?」
「えっとね、猛スピードで戦闘機が突っ込んで来て45度刻みに回転するんだ」
「まああ…、恐い」
力がかくっと抜ける。天然は母親譲りらしい。さすがのライズがくすっと唇を綻ばせた。
こんな笑顔もあるんだな、と思う。出し惜しみしなければいいのに。
「一度にフケると目立つ。時間差で出ろ。午後5時に基地、ニケの列線に集合」
ライズの言葉に、残りの隊員が、ばらばらと散った。
「母さん、大急ぎで着替えて」
オダが母親の手を引いて半ば駈けていく。ロングドレスが翻る。
「申し訳ありません。自己紹介が遅れました」
父親が、苦笑しながら健やジョー、ライズに向き直った。
「オダの父です。あれが母です。本当によくして頂いているようで…」
有り難うございます。の語尾が掠れた。
「…どうか今後も、よろしくお願いします」
駄目だ、涙腺に来る、と、健は、だから殊更に元気に切り出した。
「彼は大丈夫です。さ、行きましょう」

ホテルのロビーで再集合になった。
「奥さん、たまには若い男の車に乗ってみませんか。ご主人、いいですよね?」
ジョー。ご主人は、行ってお出で、と大鷹に頷いた。
「あ、じゃあ基地まで競争」
「一発免許取り消しになるぞ」
父親が釘を刺す。
「大丈夫。ライズ中佐が乗ってれば、顔パス。警察になんて止められない」
ね、とライズに微笑みかける。乗っていけ、と強要しているわけ。
当の" 顔 "は、もう諦めているらしく、軽く片手を挙げた。
「了解。助手席を担当させてもらおう」
さっさと助手席に乗り込み、シートベルトを着装する。
父親は後部座席で、これも確りシートベルト。かなり乱暴な運転をすると見た。
「ジョー。俺、そっち」
それにしても、可笑しくて、楽しくて仕方が無い。忍び笑いが止まらない。
「何だよ、健。邪魔すんなよ」
「3対3にしないと、不公平だろう?」
「ちぇ」

軍用ジープが2台。不似合いな高級ホテルから、場違いな勢いで飛び出した。
天下御免の顔パス乗車のアドバンテージが効いたか、スタートはオダが取った。

畜生、天然め、生意気な。けっこうやるじゃねえか。
てんねん??ですの??
いや、べつに…あう。
え…。あー。やっばーい!やばい、ヤバイ!!おい、ジョー。
真後ろで、急に大声出すな、バカ。びっくりするだろうが。
長官、忘れてた。
っちゃー。ええい、今更、後に引けるか!思い出さなかったことにしろ。
そうだな。そうするか。

レースは、ジョーが大人気無く制した。ブロンド美人と3人でガッツ・ポーズ。
そして…、
カリプソ、エイト・ポイント・ロール、ナイフ・エッジ・パス、バーチャル・クライム
アンド ロール…。遣るなライズと唇を引き結び、血は騒ぐ。うずうずそわそわしていた
ら、G1行け行け、の歓声をどっと喰らった。張り切って離陸し、垂直上昇を追いかけ
た。左右対称に反転降下。ぴったり並んで超低空飛行、左右にブレイク。反転して互
いに突っ込み、擦れ違う瞬間に90度回転、腹部を合わせる。再び並行飛行し、同タイ
ミングで機体を撚り乍ら交差。
忙しなく通信を交わしての即興パフォーマンス。後で考えれば正気の沙汰ではなかった。
何故、あんなことができたのだろう。

飛行機乗りなら誰でも希う。
空よりも高く、光よりも速く、そして風よりも自由に、と。

大鷲と女神と、夕陽を弾いて金色に煌いた。


END < Icarus



Top  Library List