家ニ還ル -- Birthday − 2

by もも

いつから帰っていなかったのだろう。
小さな家は人待ち顔で、変わらぬ佇まいを見せていた。
鍵を突っ込んで捻る。ノブを回す。ドアを押す。奥に進む。バッグを置く。
窓を開ける。空気が流れ込む。
春は盛り。仄かに甘い、花の香りがした。

ジョーが呼んでいる。コンロには薬缶がかかっていた。窓辺から離れ、健はあたりを見回
しながら、キッチンに立った。
埃ひとつ見あたらなかった。ドアは軋むことなく、窓もすんなり開いた。
みんなが、手を入れてくれたのだろう。健が戻ってくるからと。
健は人差し指の背で鼻の下を掻いた。ジョーが食器棚からマグカップを取り出している。
食器も光っていた。何年もほったらかしだったのだ。手間、かかったろうな、と思う。目
に入るものは、見覚えのある懐かしい品々ばかりだった。新しいものに入れ替えるのでは
なく、ひとつひとつ、磨いて、直して、元の通りにしてくれた。健は椅子に座ると、ほう
っと息をついた。
文字通り、やっと、ひといき、ついたのだった。

「シャンパンでも空けたいんだが、ま、病み上がりだしよ、しばらく禁酒な」
置かれたマグには、草っぽい香りの薄黄色い液体が、湯気をたてていた。
「これ、何だ?」
「カモマイルとかいったっけか。ジュンが、これがいいからって」
健はくすりと目を細めた。二人の間には子供がいる。女の子で、マリアという。だからと
いって、二人は一緒に住んでもいない。二人揃って子供連れで、見舞いに来たこともあっ
たが、パパとママという雰囲気が不思議と無いのだった。ジョーとジュンは、ジョーとジ
ュンそして甚平に竜と、4人の仲間だった頃と変わらず、健の前に立つのだった。ジュン
ですらが、母親という顔をしていない。
それがいいことなのかそうでないのか、健には分からない。健の抱いている、母親とか両
親のイメージが、ジョーとジュンにそぐわないだけなのかもしれない。
「ジュンは元気なのか?」
ジュンは、赤ん坊が託児コーナーに預けられる齢に達した途端に、職場復帰していた。バ
リバリのシングルマザー街道疾走中と、当の本人から聞いていた。
「元気、元気、元気すぎ」
ジョーは笑う。健は、ジョーが自分に時間を割きすぎていると気にしていた。
「マリアは?」
「同じく元気」
連絡はとっているようだ。少し、安心した。
マリアの、目鼻立ちはジュン譲り、髪と瞳の色はジョー譲りだった。今は気配も無いが、
ジョーもいつか娘自慢を始めるのだろうか。門限を言い渡すようになるのだろうか。ボー
イフレンドを連れて来たら、どんな顔をするのだろう。
健はくすっとジョーを見る。ジョーは怪訝そうに眉根を寄せる。
飛行機の操縦を教えてやろう。二人の子だ。センスはあるに違いない。
ジョーがジュンがと言いながら、健自身がけっこうなおじバカ予備軍なのだった。

一人でやる、と健はジョーにぴしゃりと言った。牢獄だろうが、病院だろうが、三食昼寝
付きだったことには間違い無い。ひとりの生活など本当に久々だった。不安が無いと言え
ば嘘になる。しかし、早く慣れなければ、と焦りがあった。
「じゃ、週末はみんなでメシな」
とジョーは立った。ジョーは、健の遣りたいようにさせてくれる。有り難かった。
「こんなチンケな家、泥棒も狙わねえだろうし」
頬笑んで、けれど名残惜しそうにドアを潜る。が、おやすみ、と健が扉を閉ざそうとした
とき、ジョーが、待った、とドアを掴んだ。
「忘れるとこだった。ジュンからもういっこ言付かりがあったんだ」
ジーンズのポケットから、二つ折りにされた封筒が出てきた。
「皺になっちまったなぁ…。拙いかなぁ…。まぁ、ラブレターなら読めりゃいいだろ」
「ラブレターかよ」
「ジュンは今だって大本命はお前さ」
じゃな、とジョーは今度こそ踵を返した。エンジンの掛かる音。ヘッドライトが点いて、
それが何度か明滅した。
テールランプが見えなくなるまで、健は戸口で見送った。

後ろ手にドアを締め、封を切る。
何の愛想も無い、ISOの社用箋に、ジュンの筆跡が躍っていた。
−よくよく言われています。怒られるのは私。絶対に連絡とって下さい。Jun
これがラブレターね、と苦笑する。用件のみ。これがまた、余りにもジュンらしかった。
封筒の底に指を突っ込み、一枚の名刺を取り出した。
何の気もなく手にして、固まった。

Joint Chiefs of Staff ‥ Colonel of the Air Force ‥ Arthur Rise

健にとってのその名は、史上最強の航空隊ニケの隊長、あの戦いを共に乗り越えたひとり
の男を思い起こさせる。
懐かしかった。しかし、見なければ良かったと思った。
そのニケへの誘いを断ったばかりだ。タイミングが悪すぎる。けれど…。
−怒られるのは私−、…確かにそれは申し訳無いが、それよりも。
−飛ばなきゃ、いつまでも飛べないまま、飛びたい、飛べたかも知れないって…。
赤毛のパイロットの言葉が思い起こされる。大きなお世話だ。…でも…。

電話機に向かった。受話器を上げ、手書きされた数字を、辿った。
階級は、現在の“准将”ではなく健の馴染んだそれだった。ジュンがこの名刺を預かった
のは、大分前のことなのだ。番号は変わっているだろう。きっと、話しなんかできないだ
ろう。第一、彼自身が変わっただろう。国を動かすエリートなのだ。もう、戦士ではない。

呼び出し音が、1回。後悔先に立たず、思わず受話器を放り出しそうになった。
2回、本当に切ろうと思って、耳から話した。その時、
−はい。
それは、間違いなく、あの声だった。−俺を忘れるな。
切ろう切ろう切ろう切ろう、切るんだ、と脳が警鐘を発し続けていた。しかし、指が貼り
付いたまま、受話器を握り込んだまま、脳の指令を聞けなかった。
−…はい…。???
健の唇が、音は無く、“た”と開いた。数秒、間があった。
−…G1、だな。家か。
「はい。ご無沙汰でした」
なぜ分かったのだろう、と思う。思いながら、あっさり対話している自分がいた。
−よく戻ってきた。待っていた。
「…は…」
−酒は、余り呑まないのだったな。なら食事にしよう。週末、うちでどうだ?
「今週末は、仲間と集まるので」
−では、明日。
「明日ですか?」
−先約か。
「いいえ。約束なんか無いです。でも…」
ちょっと急すぎないか。
−自宅にいるのか。
「はい」
−では昼前に拾いに行く。顔くらい洗っておけ。
「…え?あの…ウィークデーですよ。忙しいんじゃ…」
切れていた。ひとり電話をやっていても仕方無い。健はすっかり脱力して、受話器を置い
た。何だかどっと草臥れて、受話器を握った拳をじっと眺めて突っ立っていた。しばらく
すると、堪えきれない笑いが込み上げてきた。

全然、変わっていない…。

健は笑った。ただ、ただ、笑った。突っ立ったまま、笑った。


END - 家ニ還ル



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