Breathe Episode 6 < LULL >

by もも

決戦前夜、健はやはり激しく咳き込んで幾度となく寝返りを打った。
その夜もまた、その渇いた唇を覆って、冷たい水を与えた。健は瞳を開き、安心したよう
に吐息する。ジョーは、何も言わず微笑んで、二人はまた眠りに堕ちる。
それは、夜ごとの習い。
しかし、そのときは違った。

−お前は、熟睡しないんだな。
突然、何を言い出すのかと思った。
−俺が見るときは必ず起きてる。
それは、健のことが心配だからだ。健の、ちょっとした身動ぎで目は覚める。
今更だが、ちゃんと言っておいてやるかな、と口を開きかけたときだった。
−俺たちは、ぐっすり眠ったりしないんだよな。
ジョーの思わぬほうへ話しが流れていった。
−気が付いたら、熟睡しなくなっていた。少しの物音でもすぐ目が覚めて、体が動く。
−そんなことねえさ。お前なんか寝坊助じゃねえか。
−そうなんだが、俺が言いたいのはそんなことじゃなくて…。そうだな。明日で戦いを終
われて、ブレスレットがいらない世の中になっても、俺たちは、電子音や、風が窓を叩く
音や、雨が屋根を伝う音で目が覚めるのかな、って思ったんだ。
ふっと小さく笑った。自嘲か諦めか。瞳が刹那、沈んで揺れた。
−人間、いいほうには直ぐ慣れるもんだぜ。雷が鳴っても目エ覚めなくなるさ。
健は、今度は目を細め白い歯列を覗かせて微笑んだ。
−そうかな。だったらいいな。
−そうなるさ。明日が終わればな。
健は頷くような仕草で、ジョーの胸元に額を埋めた。健にしては、すこし熱が高かった。
追いかけるように、規則正しい寝息がジョーの耳を擽った。

**

長くて辛い戦いだった。思い出したくなどない、しかし、忘れることもできない。
鉄壁の要塞は、数千メートル級の山脈を背負い、岩石砂漠を裾野に、不落の威容を呈して
いた。火力も、それまでの敵基地とは比較にならないほど強力だった。叩いても、叩いて
も、それらは変わらぬ威力で健たちを阻み続けた。

敵地の最奥近く、狭く急峻な崖に阻まれ、健たちはGスパルタンを諦めた。
「結局は我とわが身だけが頼りってことだな」
ジョーが嘯いて銃身を撫でた。健は即座にきっぱりと言い切った。
「違う。俺たち5人が頼りってことだ」
へへ、失礼したな、とジョーがにやりと笑む。他の3人にも微笑が浮かんだ。

天然の要害である谷間は、5人を容易く的とした。動くに動けず、岩陰に身を潜ませて歯
噛みした。
「こんなこっちゃ埒が明かねえ。俺が出る。その隙に突っ込め」
「馬鹿を言うな。人ひとり囮に立ったところで、この火力だ。じきに全滅させられる」
そこに、聞き慣れたエンジン音が響いた。
−出ろ。援護する。
ニケだ。すぐそこまで来ている。こんなところまで、どうやって。
「危ない。自殺する気か」
−俺たちに自殺させたくなかったら、さっさと突っ込め。
機影が見えた。腹を括った。
「行くぞ」
躍り出た。

−早く。
5人の傘にと、女神たちが両の腕を開いた。岩の欠片が、ジェットの破片が、健たちを襲
った。立ち止まることも、見上げることすらせず、ただ走った。
最後の扉を破壊したとき、ブレスレットが鈍い軋んだ嫌な音を受信した。
−…散開。…退避…。
それでも、振り返りもせず、扉の裂け目から躍り込んだ。
「周波数を変える。周波数、xxxだ。合わせろ」
4人が強張った表情で、健を見つめていた。健は、仲間を見回して、嫣然と微笑んだ。
「余所見をするな。俺たちの任務は敵首魁の確保だ」
一人っきりになっても諦めるな、俺たちは、ひとりが5人でもある。最後のひとりが終わ
るまで、俺たちは生きているんだ。いいな。
「ラジャ」

4人と顔を合わせたのは、あれが最後だった。

敵首魁を拿捕し、特殊部隊に委ねた。健の最後の仕事は、彼らを援護し、無事退避させる
ことだった。敵からの攻撃は既に無かったが、崩れ落ちる巨大基地に引きずられ、山脈そ
のものがのたうった。無数の亀裂が足を掬い、炎を吹き上げ、退路を寸断した。
世界そのものが揺らぎ、傾き、滑り落ちて、地獄に呑まれて行った。
黒煙と熱に巻かれ、息が詰まる。口内が乾き切り、喉が焼け付き、肺が悲鳴を上げていた。
走り続けられなくなることは、死を意味した。
思わず、空を仰いだ。
煙の切れ間から覗く氷雪の山の朝は、透明な光を湛えてうす青かった。
生き残りの女神たちが、未だ戦場を護り駆る姿を遥か彼方に仰いだ。健の姿は炎と煙に遮
られ、彼らからはおそらくは見えなかった。
健の唇に、場違いな微笑がふうわりと浮かんだ。天に向かい、僅かに手を伸べた。
と、踏み締めていた大地が、蟻地獄さながらの激流と化し、健の体を浚った。

同時に、イヤだ、と叫んだ。死にたくない、と痛切に思った。

健が傷つけて追い込んで、いまだ目覚めない命がる。
健が死ねば、その死の責めを、生涯負ってしまう命がある。

夢中で腕を伸ばし、体を引き上げようと渾身の力を入れた。健を嘲笑うかのように、砂だ
けが空しく指の間を零れて落ちた。

熱かった。寒かった。焼けそうだった。凍えそうだった。 死にたくない。
死ぬものか。
死んで、たまるか。


Episode 6-2


立ちこめる黒煙、切り取られた蒼い空、罌粟粒大の女神たち、雪崩落ちてくる砂。

錯綜する記憶と、混濁する意識の裡で、健は四肢を動かそうと藻掻いた。
それらは酷く痛く、重く、鉛の楔で地に縫い付けられたかのように不動だった。
誰かの声がする。聞き取れない。ここは何処なんだ、俺はどうなったんだ。
声ひとつ上げられない焦燥と悲憤が、澱となって沈んで凝った。

どのくらい経ったか。
−健。
ふと、呼び覚まされた。健、健、もう何もかも終わった、大丈夫だ。
「俺が分かるか?」
真っ冥だった視界が、靄った乳白色に変わった。
「ゆっくり目を開けろ、そうだ、いいぞ。俺が見えるか?」
最初に見えたのは、水色の瞳。
「見えたな」
健の瞳の表情を読み取って、その水色の瞳が細められた。
「…」
ジョー、とただそれだけを声にしたくて果たせなかった。
「ああ。俺だ。大丈夫そうだな、健」
ジョーには聞こえたのだ、健は何とかして頷こうとした。俺は大丈夫だ。
「よく聞け、健。最後の戦いに、俺たちは勝った。敵の首魁は確保され、拘留された。戦
争は終わった」
みんなは?と訊いたつもりだった。
「竜も、ジュンも、甚平も、帰還した。お前だけだぜ、まだ病院の厄介になっているのは」
良かった…。微笑した、つもりだった。
「あの日から、もう1ヶ月も経ったんだ、健。よかった。お前が戻ってきて…」
ジョーの声は変だった。よかった、よかった、と壊れたように繰り返した。
その温もりに触れたかった。腕を伸ばそうとしたが、指1本上がらなかった。
ジョーが泣き笑いしながら、健の頬を撫でた。ああ、あの手だ、指だ。
生きている、と実感した。

暫し、安寧のなかにたゆたった。
やがて、少なからず覚悟を決めて、唇を動かした。ニケは?…大佐は?
ライズは頭上にいた。そして、健が最後の扉を捉えたとき、被弾した。ブレスレットから
の、突然の雑音と通信の乱れ。散開、退避、の命令は切れ切れだった。
隊長機からの発信が二度と無い、という事態になれば、意識はしていなくてもこちらの士
気に関わる。だから、健は周波数を変えた。振り返りもしなかった。
「ニケには、犠牲が…」
ジョーは言葉を濁した。ジェットの破片が脳裏を過ぎった。
「でも、やつは生還したぜ。味方地に不時着して、陸上部隊に救出された。最後の最後で
撃墜されたな、とか何とか言ってたぜ」
本当に?健の瞳の色が読める。ジョーはややあってから、言葉を継いだ。
「…会いたいか?」
会いたい、気がした。しかし、健は首を横に振った。
戦争が終わったのなら、もう、終わったのだ。戦争に纏わる全てが、ヒトもモノも何もか
もが終わった。余りに禍々しい記憶は、追いやられなければならない。当たり前の、平和
で些細な日常生活に戻るために。

俺は、生々しすぎる。

ジョーは、怪訝そうに眉根を寄せた。
「ジ…」
掠れた声が、絞り出された。嗄れた醜い声だった。
「だれ…も、あ…た…ない…」
竜にも、ジュンにも、甚平にも。誰にも会いたくない。
「どうしてそんなこと言うんだ。みんな、お前に会いたがってるんだぜ?」
ジョーは、健が当然、皆に会いたがると思っていた。だから、聞きもしなかった。明日に
でも連れて来ようと思っていたのだ。そりゃあ会いたいさ、でも。
戦いの記憶すべてから、解放されて、自由に。健の、絶対のコマンド。
「リー…ダ…の、命…れ…だ」
健の、希い。
ジョーが唇をきゅっと噛み締めた。分かったよ、と頷いた。忙しく瞬いて、ひとつだけ息
を吐いた。掌が健の頬をすっぽりと覆った。本当に、それでいいのか?
こんなみっともない格好、見せられるか、と茶化そうとして言葉にはならず。
元気になったら、と微笑もうとして表情は強ばったまま。
「お前だって、治ればみんなに会いたくなるさ、このええ格好しいが」
無理にでも笑ってくれる、そんなジョーに触れたかった。この掌で、この指で。
「言っておくが、俺はお前の監視役だからな。これは、長官命令だぜ」
微笑んだつもりだった。表情筋は、肯定の笑みを、形作ってくれただろうか。

お前だけ居ればいい。
戦いの中でしか生きられないと、機械人形と、嗤って嘯く、お前さえ居れば。


Episode 6-3


のろのろと日は流れた。
声は嗄れたままで息苦しくもあったが、それでも健は回復傾向にあるようだった。
報告書を書きたいからと、OA器機を要求した。南部の計らいで、ネットワーク機能も搭
載済みのノートPCが健の枕辺にもたらされた。
「こんなところでまで仕事がしたいんだから、参るよなあ」
言葉とは裏腹に、健が何かしたがるのを、ジョーは明らかに喜んでいた。
「お前は終わってるのか?」
自分の声とは思えない掠れた声。疲れやすい体。リアクタ頼みの命。
「ま〜た説教かよ。いやんなるぜ、もちっと弱ってな」
それでも、他愛の無い言葉遊びに興じ、幸せだった。
夢にまで見た、ブレスレットの無い生活だった。平和が来たんだ、と痛感した。
「長官のサーバに繋がった」
自分がどんな声だったのかも、もう思い出せなかった。
「俺が設定したんだぜ。大したもんだろ。お前の部屋で報告書書いてるのと同じカンジで、
ここでもやれるだろ?」
泣きたくなった。この平穏が、どうか、いつまでも続きますように。
「ひととおり試してみろよ。みんな、報告書どころじゃなかったからよ、随分ほったらか
しにしてたんだが、ま、ちゃんと生きてるだろ?」
「何ヶ月か使わないからって…」
システムが腐ったりするもんか、と茶化そうとして、頭の奥がキンと鳴った。
イキテル、システム、生きてる、…。

" まだ、生きてる。ごめん… "

どうして気が付かなかったのか。健は背筋が冷える思いをしながら、コマンド入力画面を
起動した。記憶に焼き付けたコマンドをはじから叩き付けて行った。
ジョーがきょとんと、健の顔を覗き込む。
「何、躍起になってんだよ。ゆっくりやれよ…」
「ユ…、オダ大尉は?」
健にとっては困難な一言だった。ジョーは、気にも止めずさらりと答えた。
「ついこないだ、また大きい手術した。意識もだいぶ戻っちゃいるが、まだガラスの中だ」
あれはまだ、天然じゃねえな、と口籠もった。
「会ったのか?」
「たまに。…リサがお前のことをすげえ心配してるぜ。何て言っといてほしい?」
健は会話をしながらも、動かぬ指に歯噛みしながら、キーボードを叩き続けた。
「何も言わなくていい」
ぽつりと呟くように言った。母さんみたいな、姉さんみたいな、おっかなくて優しいコン
ピュータの先生。すこしつむじを曲げて、それでも察してくれるだろう。

あのシステムのコマンド入力画面が表示された。イカロスのデータベース群を参照した。
更新日付が今日のものまである。健の現状が反映されているのか。
「ジョー、ハイパー・シュート・プロジェクトはまだ動いているのか」
「お前の治療に必要な部分だけ、と長官が言ってたぜ」
「そうか」
イカロスには、まだ更新データがあるのだ、と健は思った。しかし。
ルシファーの、改良版のデータベース群にまで、" 今日 "の日付があることに、健は戦慄し
た。
慌てて、操作ログを消去し、接続を切った。あまり長く繋げていると、トレースされる恐
れがあると聞いていた。
「改良版の開発システムは、動いていないんだよな」
何故だ。
「改良版の開発は、お前がデータを破壊したときに凍結したろうが。現行版も、敵首魁確
保の段階で、治療に必要な箇所を残して凍結したって、長官が…」
そのはずだ。それなのに、何故だ。どうしてルシファーのシステムが動いている。
「過去の開発から現行版も改良版も、あれに関するもんは全部封印したと」
ジョーは言い切った。
長官の預かり知らぬところで、何か動いているのか、俺の取り越し苦労か。健は言葉を呑
み込んだ。どういうことなんだ。
「長官はどうしている?」
「殺人的に忙しくしてるぜ。…お前、昨日会ったばかりじゃねえの?」
「ああ、いや」
健は、軽く誤魔化して笑った。勘違いかもしれない。と思った。思いたかった。取り敢え
ず、自分で調べてみよう、と。
「健はまだ、あたしたちに会いたくならないの、ってジュンが嘆いてるぜ」
いつものよもやま話し。
「この声じゃかっこ悪いって」
「でもまあ、その調子じゃ、じきに会いたくなるさ。な」

健は答えずに、ただ微笑んだ。
会いたい、俺だって、みんなに会いたいさ。
本当に戦争が終わったのなら…。


Episode 6-4


重い体を引き起こして、ルシファーを追う。ルシファーは生き返り、動いていた。メイン
のバック・アップテープは健が処分したはずだった。どのような手順を踏んだかは不明だ
が、手作業で復元させたとしか思えなかった。
甦って、生きている、という意味だったんだな、と健は唇を噛み締める。
それを伝えるためだけに?思わず首を横に振った。重かった。

南部直下のスペシャル・フォースは解散した。
ジョーのみが南部直下に残り、竜とジュンはISOで職に就いた。甚平は大学進学を目指
すという。健は、微笑みながら、何度も頷きながら、その報告を聞いた。

オダから渡されたCD−ROMは、決戦直前に処分していた。途切れていく記憶を手繰り
寄せて継ぎ接ぎしては、キーボードを叩いた。

あるよく晴れた日。突然、ジョーが淡いピンクのバラの花束を抱えて現れた。健の誕生日
だという。当の健がすっかり失念していたので、二人で大笑いした。

ルシファーは少しずつ、変化していた。南部には問えないまま、日々は流れた。南部が嘘
をついているとは思いたくない。ならば、慎重に事を運ばなければ拙い。
今はまだ、俺ひとりの胸に。

風に乗って、健の枕辺にも若葉の香りが届く候だった。
−目出度い話しがあるんだぜ。
ジョーはポケットから、4つ折りされた紙を健に渡した。雑誌の切り抜きだった。
−" 空の帝王、着陸体勢に "、" 挙式は今秋 "…。大佐が…?
婚約。その切り抜きの端には、ジュンの字で『ちっくしょ〜、オメデトウ!』と踊るよう
にあった。その男は、知った顔の別人だった。統合参謀本部入り、権力者との縁組み、や
がては将官へ。国を動かす首脳となり、階段を登り詰めて行く。
健たちと最後まで戦った、あのパイロット。彼は、永久に消えたのだ。

この世の戦争は終わったのに、健の戦争はまだ終わらない。ルシファーのプロジェクトは、
疑いも無く生きて成長していた。

病室の窓からは、海と雲のみ。それでも季節の移ろいは感じられた。
入道雲の湧き上がったその日、健は妙に真面目な顔をしてジョーに対した。
−花束を、届けてほしいんだ。
−なんだ、女か。
−いや、ISO基地の海に…。俺、花の名前、分からないんだが、白い、ちょっと丸みの
ある…ふわっとしたカンジの。あるだろう?
喋ると喉が痛むので、この頃の健はすっかり口数が減ってきていた。それが、身振り手振
りしながら、一生懸命に訥々と言葉を継ぐ。
−分かった。分かったよ。無理すんなよ。花くらい任せろよ。見当付くって。
ジョーは笑って請け負った。腕時計を一瞥し、あさってだったよな?と呟く。
健は黙って頷き、青い空を振り仰いだ。あの女神が墜ちた、あの日も入道雲だった。白い
トルコキキョウ、花言葉は" 希望 "、健は知らない。

廊下を歩くだけで、息が上がる。リハビリを兼ねて、なるべく歩くように。医者は簡単に
言うけれど、健にとっては荒行だった。この俺が、と自嘲の嗤いが込み上げる。健の医療
スタッフの詰め所前を通りかかった。早朝なのに、やけにざわめいていた。
−イカロスの治療報告だけそつなくやっていれば、長官には発覚しない。我々は彼の信頼
をまだ得ているし、あの多忙さではコレどころじゃあない。
−どのみちイカロスには、それなりの状態で、それなりには存命してもらわねば拙い。彼
が居ないと、ルシファーが言うことを聞かんだろうからな。ま、長官に発覚しても、イカ
ロスが我々の手に在る裡は、我々をどうこうすることはできん。彼の治療が行えるのは、
他ならぬ我々だけなのだから。
息を呑んだ。詰め所の出入口のカーテンが揺れ、健の看護士が顔を出した。危うく暗がり
に身を潜ませた。
「どうした?」
「誰かいるような気がしたんですが」
「ピリピリしすぎだ。枯れ尾花だよ」
主任研究員、即ち健の主治医の笑い声が聞こえた。

自室に戻るだけで、肩で息をつく体たらくだった。ドア口に手を突き、体を支え、呼吸を整え
ようと立ち止まった。
−何やってんだ。
ジョーだった。
−リハビリか?まあ、ほんっとに生真面目なヤツだなあ、お前は。
微笑むジョーに、健はあっさりと横抱きされた。
−いい報せだぜ。オダが近々通常病室へ転室になる。年末あたり復帰だとさ。
いつもの優しさで、健をゆっくりベッドに下ろす。お前がルシファー…。
ジョーの首に縋り付いた。お前はルシファーなんかじゃない。
−嬉しいよな。あいつ、あんな状態から治ってきたんだぜ。お前も、じきに。
ジョーの手が、健の背中をさする。お前も、じきに治るよな。

スタッフたちが南部にも秘密裏に研究開発を進めているのは分かった。しかしそれには資
金も人員も必要なはずだ。それを提供しているのが、彼らの取引先のはず。なんとか探り
出そうと思った。自然と、病室を空ける頻度が高くなった。

−甚平が、入試パスしたぜ。
夏の終わり。ジョーが妙に浮かれてやってきて、ある有名大学の名前を告げた。
−天然ややつの後輩だぜ。生意気によ。まあ、デキは大分違うがな。卒業できんのかね。
ダメかもしんねえなあ。あいつそそっかしいしなあ。
こうまで貶しているのに、この上無く嬉しそうなのだった。普通に学校に行って、友達も作っ
て、とジョーも憧れたことがあったのかもしれない。

システム全容は抑えたが、依然としてスポンサーは掴めない。
深夜、スタッフの当直室の前だった。低く早口で、国名か、人名か。聞こえない。耳を峙
てる。焦れる余り、不用意に長く立ち止まっていた。
肩に手を乗せられ、ぎょっと振り返った。
健の主治医が、やんわりと笑みを湛えていた。
「どうしたね。こんな時間に、こんなところで」

病室に戻されるや否や、暗号化ツールを軍の統合情報部サーバから掠め取った。
健の知っていること全てを、とにかく文書化した。システム全容の設計書とマージする。
数種の暗号化手順を複合化して施し、三つに分断して、南部のサーバにある健のフォルダ
に送信した。
ジュンはオフィスレディ、竜は航空機関連の技術職、甚平は学生。南部が、誰かが、健た
ちがスペシャル・フォースだった頃のサーバを参照することなどあるのだろうか。
それでも良かった。それしか無かった。こればかりはジョーには託せなかった。ジョーは、
健と引き替えなら、黙ってルシファーになってしまい兼ねない。

お前を、悪魔(ルシファー)になんか、俺が、絶対にさせない。

終戦の年の終わり近く、針のような雨が降るその寒い朝、健はガラスの部屋の住人となっ
た。

−現在の環境では、彼の病状の進行を食い止めることは困難です。徘徊がひどい。自分の
していることが理解できているときと、できていないときがあり、その境界が曖昧で非常に
危険です。彼の健康状態を少しでも回復するには、外界から完全遮断された清浄な環境
と、厳重な管理が必須です。

永遠にひとりきりの、虜囚となった。


Episode 6-5 < LULL (JOE) >


「軍は、ハイパー・シュートを欲しがっている」

決戦が終わって、まだ間も無かった。ジョーは南部の執務室に呼び出されていた。
「彼らはあれを抑止力に使うという。しかし、過剰な力は傲りとなる。私は、生化学兵器
としてのあれの一切を封印し、金輪際外に出さぬ所存だ。あれは、どう考えても、平和利
用できるものではない」
ジョーは両の手の指を軽く組んだり解いたりしながら、ソファに俯き加減で掛けていた。
南部が何を言い出すのかは、見当が付いていた。

「ライズ大佐は、あれに関しては、一切ノータッチだが、軍がそれを諾々と受け入れはす
まい。現在、彼を取り巻いている情勢を鑑みると、何が起こるか分からない。ISOのエ
ージェントも彼には付けてあるが、ジョー、君にも彼の護衛を頼みたい。連携して動いて
くれ給え。彼に、何か異変があればただちに報告してもらいたい」
「監視および護衛、ですね?」
「そうだ。立ち居振る舞い、健康状態、どんな些細なことでも構わない」
ジョーは、はい、と頷き、南部はゆっくりと席を立って、大窓に向かった。
「…それと…、彼は、君たちの正体を知っている。分かるな、ジョー」
万が一の時には、撃て、と。確かに分かっていた。分かってはいたが、即答できなかった。
しばしの葛藤ののち、それでも、はい、と応えた。

−最後の最後で撃墜されたな。
−最初ッから、不時着か脱出を狙ってたんじゃねえの。
−あの状況でまさか。俺の腕はそれほど良く無い。
−それじゃ、カミカゼじゃねえか。
ライズは、君たちもそうだったのだろう、と目を細めた。ジョーは苦笑して肩を竦めた。
互いに笑って、片手を挙げて、別れた。
女神はISOを去って行った。南部と鴨の陰に隠れるようにして、手を振った。
ニケの大編隊は、ISO基地の上空で美しく弧を描き、海の彼方へと消えた。
南部はそっと目頭を押さえた。鴨はやたらと溜め息を付いていた。
あの瞬間を境に、ISOと軍との蜜月は終わった。

戦争は終わっていない。M16をさすりながら、ひとり、物思いに耽る。
昨日の友は今日の敵、などと、一体誰が最初に言ったのだろう。そんなことばがあるから、
そういうことが起こるのだ。ジョーはまだ春浅い冥い空を仰いだ。
心変わりも、裏切りも、痛いほど身に沁みている。人の心に保証書は貼れない。
たかだか半年ていどの付き合いだった。好きかと問われれば、嫌いだとしか答えられない。
ならば撃てるだろうと言われれば、撃てるものかと返さざるを得ない。
けれどジョーには分かっている。
撃つべきとき、まさにその時に、自分が撃てる人間であるということを。

季節は移ろう。春が行き、夏が来る。秋が巡り、冬が訪れる。
街は賑わいを取り戻し、人々の表情は晴れがましく、装いは華やかになる。
そのなかで、ジョーの周りは、まだあの決戦前の灰色の雪に閉ざされていた。
僻み。違い無い。白い部屋で、ままならぬ体を抱えて沈黙したきりの影を思う。時は健を
ガラスの檻に置き去りにし、ただの伝説にしようとしていた。憎かった。

戦争が終わって丸1年が過ぎた頃だった。
健がやけに切羽詰まった瞳で、ジョーを待っていた。待ちかねたように、縋り付いて来る
と、オダは、とだけ言って途切れた。
−晴れて現場復帰したってさ。リサから今日メールもらった。
健は、時折、思い出したようにその名前を口にした。決まって酷く悲しげな貌になった。
気付かぬふりをして、いつも軽くやり過ごしていた。二人に何があったのか、ジョーは知
らない。知らないままでいい、そう思っていた。
この日も、そのまま柳に風と流した。それなのに、健が掠れた声で言い募った。
−もういいと。俺は死んだと。何もかも忘れろと、伝えてくれ。
リサは健が生きていると知っているのに、と思った。そんな容易い矛盾に気付かぬ健では
ない。健がそうしろと言うのなら。そんな貌をしないで済むようになるのなら。ジョーは、
頷いた。ただ、頷いた。

車椅子のオダは、ジョーが何度呼んでも素知らぬふうで、そっぽを向いたままだった。業
を煮やして、少々乱暴に肩を叩いた。振り返った瞳は、人違いかと思うほど虚ろで底無し
だった。ジョーを認めて、口元だけで幽かに微笑みはした。
−ごめん。正面からじゃないと、見えないし、聞こえないんだ。
元気になって良かった、とはとても言えなかった。黙って、頭を引き寄せた。
−G1は?
声は震えていた。記憶よりも痩せてしまっているその肩に、やつは死んだ、ともどうして
も言えなかった。唇を噛み締めた。どうしてこんなことに。悲しみよりも、怒りが込み上
げ、言葉にできぬ分が、一筋の涙になった。
オダはジョーを仰ぎ、まだ不自由な指で、その涙を拭ってまた淡く微笑んだ。
−…ありがとう…。

夏を待たずに、健は声を喪った。度重なる呼吸困難の発作の挙げ句、呼吸装置に気道を確
保された。それで健は窒息しないで済む。当然の処置ではあった。
ジョーにできるのは、健の額に掛かる髪を静かに撫で上げるだけ、頬に触れるだけ。健は
ただ静かに微笑む。深い諦念だけが、確実に健を支配していた。

健と街の喧噪。健と誰か。ジョーの視点は行きつ戻りつするばかりで、あてど無かった。
馬鹿げていた。俺は何をしているのだろうと自問する。答えは無い

ガラスの部屋、声無き声。
抱き上げて、攫って行けるものならば。
自分のこの身と引き替えにして、取り戻せるものならば。

ジョーは腹に力を入れ、微笑みを作り、健を訪う。
寂しさが、悲しみが、入り込まないように。
痛みが、諦めが、紛れ込まないように。


END < LULL


END << Breathe



Top  Library List