遠雷

by もも

アッシュ・ブロンドじゃなかった。
覚えているのは、それだけ。

**

完全に迷ったな、と思いながら、闇の中にいた。夕方の雨にしとどに濡れ、山の夜気に晒
されて、体はすっかり冷え切っていた。高原の冷気は夏でも非情だ。
このまま、彷徨っていれば、いずれは行き倒れるか、獣の餌になるか…。
それもいいかと思った。この体が何者かの飢えを満たすなら、それはそれで慈悲深い。

けれど、唐突に、人家の明かりに出くわした。気が付いたら、広いバック・ヤードに踏み
込んでいた。十数メートル先に人影を認めた。ライフルの銃口が、まっすぐこちらを向い
ていた。容赦の無い殺気を感じて立ち竦んだ。
長身痩躯。少し癖のある柔らかい髪。ご自慢のM16。

ああ、お前、俺を殺しにきてくれたのか。お前を、置き去りにした俺を…。

次に気が付いたら、ベッドにいた。乾いた白いシーツと、暖かい部屋。落ち着いた、もの
やさしげな声が耳元に静かに響いた。
お気が付かれましたか。
40、50がらみの、紳士だった。
主が、失礼を詫びております。犬が騒ぎましたので、狼かと勘違いをしたと。
頭がぼうっと霞んでいた。
しばらく天候が乱れるようです。田舎なので何もございませんが、どうか、ゆっくりご滞在
下さい。

食事の席にも、その主とやらは不在だった。主が、とその執事は言った。
取り込み中で、ちゃんとしたご挨拶もせず申し訳無いと、申しております。
夢うつつに、せわしなく人の動く気配があったのを覚えていた。
ご家族に、ご病人でも?
執事は少し間を置いて、答えた。
家族以上、と申したほうがよろしいでしょうか。

居間の写真が目を惹いた。少年から青年へと。その人物は、どの写真でも真っ黒な大きな
馬と一緒にいた。障害を鮮やかに越える瞬間の一枚は、ことに大きく引き伸ばされていた。
これが、と執事は痛ましそうに写真を見上げた。もう、いけないのです。

その夜もいつまでも、厩舎はひときわ明るかった。豪雨の中を、車の出入りが幾度もあっ
た。夜半すぎ、それがすとんと静かになった。明かりは燈ったままだった。ひかれるよう
に、足を運んだ。
そのひとは、もう二度と動かぬのであろう、その大きな黒い亡骸に、取り縋ったまま身動
ぎもしないでいた。ただ、黙って硬く硬く首を抱きしめて、名を呼ぶでなく、嗚咽するで
なく。喪失感だけが、波動となって打ち寄せて来た。

お騒がせいたしまして、申し訳ございません。
執事がちいさく声を掛けてきた。振り返ると、いつもは穏やかな表情に、少しく翳りがあ
るように思えた。お部屋にお戻りください、と何故か有無を言わせぬ口調で言い、厩舎の
中に声を掛けた。
xxさまがお見えです。

一度は部屋に戻ったものの、五感は研ぎ澄まされ切っていた。闇に、ガラスの割れるよう
な音が混じった。過失ではなく、思い切りぶつけたような音だった。
条件反射で部屋を飛び出た。

ドアが大きく開け放たれ、煌々と明りが漏れていた。
最期を看取ってやりたいと言うから、待ってやったんだろうが。お前なんかがこんなに優
雅にやれているのは、誰のお陰だと思っている…。
呂律の回らない声が耳に入ってきた。そのままつかつかと室内に入り込んだ。
ベッドで揉み合う二人の、いかつい背中の男に、鋭く当身を食らわせた。
一瞬だった。

男がベッドからずり落ちるのを見送ってから、健を見上げて、彼は言った。
「…誰…」
「このあいだ、あんたに拾われた。恩人の災難かと思ったんだけど、余計なことだった?」
「ああ…」
長く額に落ちた髪を掻き揚げながら、シャツの前を軽く合わせ、ちいさく息をひとつつい
た。伏せられた睫毛が、頬に色濃い影を落とした。それだけだった。
「このまま転がしておく?表に放り出す?山の中に捨てちまって、獣の餌にするとか、
迷ってお陀仏してもらうってのもアリかも。どうしたい?」
言いながら、頬から首筋、そして肩へのラインから目を離せなくなっていた。
俺はずっとあいつを見ていた。
あいつを妙な目で見るヤツは、みんな手酷い目に合わせてやった。
ずっとずっとあいつが欲しかった、欲しくて欲しくて。
今でも。

年齢は同じくらいだったかもしれない。顔や体つきが似ていたのかもしれない。記憶は無
い。

「このまま置いといても、半日は寝てるさ。それはそうとさ、あんた」
まともに顔あわせて数分。それでいい、と思った。
「俺とじゃ、いや?」
何も言わせずに強引に接吻けした。シャツを、残っている釦ごと引き裂いた。引き締まっ
た四肢。張り詰めた筋肉。その体からは、稚い樹々の香りが漂った。
あいつは、顔を寄せると陽の香りがした。夏の灼熱が人の形をとった男だった。ああ、あ
いつはもっときれいだった。もっともっときれいだった。

あんた、ここに囲われてるの?
まあ…似たようなもの。
ふふ、じゃあ、熨したのは拙かった?
いい。…何も変わらない…。
嫌ってるんだろう。なんで逃げない。
さあ…。逃げられない…から…きっと…。
会話は途切れて、甘い吐息が折り重なった。

逃げられない?日陰者ってことでは同じだな、と健は思った。でも、俺は…。

健は、逃げ出した。過労で倒れた入院先から。
探しに行きたくて。あいつを。そして、あいつが連れ去った健自身の半身を。

あいつが、別人になっていようが、骨の切れ端になっていようが、俺にはそれを抱きしめ
て惜しむ権利くらいあるはずだ。だって、かれこれ十年だ。十年、ずっとずっと見つめて
来たんだ。あいつを見つけるまでは、俺も半分持って行かれたまんまなんだ。生きもせず、
かといって決して死んでいるわけでもなく。

強かに精を放った。切れ切れの息の下で、若い欲望はさらに首を擡げていた。
汗が滲み始めた胸に、歯が立てられる。健の最も熱いそこを、玩ばれる。
唇が、求めて丸く開き、唇で塞がれる。

…あ…
巧みな愛撫に、体を捩る。髪を鷲掴みにする。耳朶を噛む。喘ぐ。呻く。戦く。
そう、健は気付いていた。あいつも俺を欲しがっていた。一緒にシャワーを浴びながら、
泳ぎながら、部屋でふざけながら、時々異様に強い力で手首を握り締める。肩を掴む。妙
に真剣に瞳を覗き込む。
一瞬後には、冗談にしていたけれど。

「今度は、あんたが…抱いてくれよ…」

**

夜明けとともに、虹が出た。
そのまま健は、旅立った。

それがどこだったか、思い出す縁(よすが)は無い。

かなしくて、さみしくて、狂って死にそうだった。
アッシュ・ブロンドじゃなかった。

覚えているのは、それだけ。


END < 遠雷
Art by Sayuri
Art by Sayuri



Top  Library List