KEY

by もも


 夢に見たのは怒りに上気した頬と、揺るぎのない青い眼差し。
 振り返らない背中と、遠ざかる跫音。


 いつからそうやっていたのか、健は腕を組んで壁に凭れていた。
「何だ、急ぎの用なら連絡して来りゃいいのに」
 部屋のドアの前だった。ジョーは、強い酒と安物の女の匂い振りまいていた。
「仕事じゃない。急ぎでもない」
 いままでどこで何をやっていたのか。いくら朴念仁でもはたち過ぎ、ケンも察しはつい
ていた。
「じゃぁ、明日にしてくれりゃぁ助かるんだが?‥寝不足でな」
 へっ、と鼻先で笑った。こんな体になっても、と心のどこかが嘯く。
 性欲・食欲・排泄欲は健在さ。と、ジョーはポケットの鍵を探りながら、吐息した。

 酒に酔うことも、忘れない。手元がふらついて、鍵をドアノブにぶつけてしまった。甲
高い音が点々と転がり、健の足下で停まった。
 ケンが腰を屈めて鍵を拾い、ドアを開けた。
 ジョーは、ご親切にどうも、と大仰に頭を下げドアを潜った。背中で、ドアの閉まる気
配がした。おっと、とおどけ、ぐるんと振り返った。
「サンキュな。‥忘れねえうちに返してもらっとくぜ」
 ケンの鼻先で掌を広げてひらつかせる。ケンは鍵を握ったまま、ジョーを視た。
「なんだよ。なんかしらねえが、そのマスターいっこしかねえんだよ。女にやっちまった
 のか、落としちまったのか‥」
「不用心すぎるぜ、サブ・リーダーともあろうものが」
「泥棒に入られようが、女に待たれようが、困るようなモンは置いてねえよ。‥お説教な
 らしっかり目が覚めてからゆっくり聞いてやる。出てってくれ」
 ケンは不機嫌そうだった。ほろ酔いの心地よさは、寝不足の苛々にとって替わられた。
ジョーは鍵を取り戻そうと腕を伸ばした。ケンは軽く後ずさって、その指を紙一重のとこ
ろでかわす。その軽やかな動きに、なぜか酷く神経を逆撫でられた。
「‥この野郎‥っ」
 人間離れしたスピードと力。我を見失ったのは瞬きするほどの間。金属音に我に返ると、
鍵が床を滑るのが見えた。
 ジョーの左手に右手を吊されて、ケンがつま先立ちしていた。みしり、とイヤな響きが
伝わってきた。ジョーは反射的に手を放した。
 崩れ落ちたケンの傍らに、慌てて跪いた。

「す、済まねえ。捻ったか?折れてねえか?」
「だいじょうぶだ」
「ほんとうか?見せてみろ」
「平気だって言ってるだろ。気にするな」
「いや、ちゃんと見せてみろ。‥本当に済まない‥‥手、こっちに」
「うるさい」
 気遣う指を、ケンは手ひどい剣幕で弾いた。
「煩い。俺が大丈夫だって言ってるんだ‥謝るな」
 打っておいて、その指を握りしめてくる。
「謝るなよ‥」
 なんで謝るんだよ‥。
「でも、お前、それ利き手じゃねえか‥」
「‥!」

 何が起こったのかを認識するより前に、遠い記憶が浮かび上がってきた。
 女みたいな顔の、女より白い肌の。
 言い出したのはジョー。
 煩い、今度言ったら‥!!!乗ってきたのはケンだった。
 少年のケンは、女顔だの色白だのと言われることを酷く嫌がった。
 だから、必ず食いついてきた。
 茶化したかったわけではない。ましてや、喧嘩をしたかったわけではない。
 けれど、殴り合いに摩り替えるほかなかった。
 だって、それは。

 ジョーの喉笛をケンが抑えていた。
 ケンが体ごとのしかかってくる。容易く押しのけられるはずが、ジョーはケンに圧倒さ
れて後ろ手をついた。指先に、敷物の長い毛足が触れた。
 −俺から逃げるなよ。俺に謝るなよ。
 不機嫌なのではない。怒っているのでもない。
 −俺を避けるなよ。どうして前みたいに俺を見ない?

「俺がお前に絶対に敵わないからか。弱いリーダーは目障りか」

 ジョーの上に馬乗りになって、ケンはジョーを見下ろしていた。

 ああ、これは。

 ケンがその手に力を込めたなら、それで縊られて死ぬのだろうか。
 復讐をやり遂げることもできずに?
 でも、それでもいいかと、薄く思った。
「殺れよ」
 そうさ、それができるのは、きっと、お前だけだ。
「お前こそ木偶は目障りなんだろ?」

 刹那、頬に鋭い痛みが走った。
 ケンが拳を振り上げていた。引き結んだ唇の端から、苦しげに吐息が漏れ、青い瞳が歪
められた。
 ケンの涙がジョーの頬に零れ落ちる。赤く腫れて熱を帯びたそれにすら、その滴は熱かっ
た。

「木偶なんかじゃない…お前は…お前は…俺の…」

 ケンの睫毛が降りてくる。


 夢に見たのは怒りに上気した頬と、揺るぎのない青い眼差し。
 白いうなじと、柔らかな…。


END −KEY


Top  Library List