The last fright

by もも

「付いて来給え」
背中を向けた南部の隙を衝いた。医者が南部に電話で病状の報告をしていたのは知ってい
る。数ヶ月、半年と時間があるならいざ知らず、この病状ならば、いかに南部といえども手出
しできる範囲は知れているだろう。
いたずらな延命、無意味だった。生きたいのではない。幕を引きたいのだ。

一瞬、眠りの淵に落ちかけたか、体が落とし込まれるような揺れで我に返った。
自分が何処にいるのか、現の意識が途切れていた。おかしなくらい慌てて、視線を辺りに
彷徨わせた。クロスカラコルム行きの航空機の機内。片道切符の旅が始まったのだった。

一週間、ないしは十日。
短いような気も、長いような気もした。それくらいあれば十分なような気がした。
住まいを処分してしまいたいと思った。痕跡になりそうなものは何もかも捨ててしまおうと、
家が見えるところまでは来た。
落日が、煤けた街をオレンジ色に染め上げていた。
そのシルエットを見上げるようにして佇む人陰があった。足が縫い止められた。

何してんだ、こんなところで。

と、微笑みを作る余裕は、生憎ともう無かった。しかし即座に踵を返すこともできずに、
物陰からその姿を見詰めた。夕闇迫る木陰にあって、その表情は確かでは無いが、きっと
まだあの殴り合いの痕の腫れが残っているだろう。
その拳を強かに喰らった頬を撫でる、口内炎になっていた。ふっと苦い笑みが湧いた。
濃い紅を啜りながら、白い横顔が落ち着かなさそうに辺りを見回す。
あの男なら、凝視されている気配を察知して追いかけて来かねない。長居は無用だ。口の
中で、あばよ、と呟いて、その場を立ち去ろうとした。

家の処分は諦めねばならなかった。今、誰かと、しかも寄りによってあの男と顔を合わせ
るのだけは避けねばならなかった。チームのリーダーという肩書きは伊達ではない。ここ
で手間取るのは、美味しくない。

あのリーダーは、とにかく何かと煩いのだ。自分も一本気でしばしば危険行動を取るくせ
に、ヒトのことはやたらと仕切りたがる。ミサイルひとつ撃つのも喧嘩ごし。無意味な殺
傷は止せ、とか言うこともあっただろうか。戦いは、相手が二度と起きあがれなくなるま
でやるものだ。結局、お前だってそうしてるじゃないか。最後の家の始末もお前のせいで。
何故、俺にばかり。邪魔臭え、と舌打ちしかけて、止めた。振り返った。中高な横顔が、
怒ったように唇を引き結んでいた。
妙に熱くて、懐かしくて、前に向き直るには相当の努力を要した。

気付いてなかったわけじゃねえんだ…。
青い瞳は、誰よりも早く体の異変を察知していて、無言で訴え続けていた。
お前自身で為すべきことを為せ、医者が必要なら医者に行け。戦列から離れろなんて、俺
はよりによってお前にだけは言いたく無い。だから…。

分かっていたのに、その期待、否、信頼に答えられなかった。
どうしても振り返ってしまう。闇に、既に誰かとは知れない人影がまだ佇んでいた。何故に
こうまで、後ろ髪を引かれるのか。溜め息して、また歩き始めた。

酷く、申し訳ない気がした。頼むから誰のせいにもしないで呉れよな。
ひとより射撃が多少得意で、車の運転がご自慢の野郎なんて、世の中には掃いて捨てるほ
ど居る。命令違反ばかりしている問題児が、ひとり居なくなる程度のことだ。その穴はすぐに
埋まるだろう。
父親のような、校長先生のような、あの面差しをぼんやりと思い浮かべる。
博士、新しいメンバーは、もっと真面目な、リーダーをやきもきさせないやつを選んでやって
呉れよな…。

ついまた振り返ってしまう。
自分が好きな、男らしい男というのは、こんなときに決して振り返ったりしない男のことだ。

情け無え。

人影は、夜陰に呑み込まれて、もう見えない。
顔を思い出そうとすると、決まって怒った表情で浮かんでくる。
いつになったら笑顔で出てきてくれるんだか。苦笑ばかりが漏れた。
俺はお前を忘れない。お前は俺のことなんか、忘れちまえ。

強く体が引っ張られた。最後のランニング。
エンジン音が急激にトーン・アップし、宙に吸い込まれるかのように加速していく。

ああ、いけねえ、俺としたことが。
キレイでかわいい、スッチーさんは居たっけかな。
ちょっと気の強そうな、青い瞳の、白い肌の。

なあ、お前、俺はお前のこと、けっこう好きだったぜ。


END < The last fright



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