ON A RAINY DAY

by 廖化




「さあ今夜はパアーッと飲もうぜ。」
 まだ夕方というには早い初夏の日の午後、ユートランドシティ・サーキットのクルー達
はその日の仕事を要領良く切り上げると街へと繰り出していった。明日から三日間、サー
キット場はコースの補修工事が入るため全面休業となる。滅多に無い連休を前にいつも以
上に羽目をはずして楽しもう、とクルーたちの表情は明るく足取りも軽かった。
「ジョーも来いよ、いつもの店だ。」 
 駐車場で 皆の表情とは反対に今にも泣き出しそうな鉛色の空を見上げていたジョーに
メカニックの連中が声を掛けてきた。どうしたものかとジョーが思案していると
「ま、無理には誘わんがな。若い奴は油臭いおっさん達よりきれいな姉さんの方がいいだ
ろう?」
「お、デートかぁ、そいつは気がつかんですまんかった。」
「うらやましいこった。じゃ楽しんで来いよ。」
 ポン、と一つジョーの肩を叩いて去ってゆくクルー達の背中を ジョーは苦笑で見送っ
た。
 今夜は誰との約束も無い。ただここしばらく立て続けの任務とその後始末で「J]へ
顔を出さずにいたので 行ってみようかと思っていたところだった。
 と、ポツリポツリ、何とか持ちこたえていた空から ついに雨が落ちて来た。
 ジョーが愛車に駆け込みシートに身をおさめると雨は急に勢いを増し フロントガラス
に幾つもの筋を描き始めた。雨粒が溜まっては目の前を流れて行く様子にジョーは
‘あの時のあいつの涙のようだな。’
 と 11になる年の出来事を思い出していた。

 その日、学校を終えて帰宅したジョーはいつもならばまだ戻るはずの無い南部の車の存
在に 胸騒ぎを覚えて家へと飛び込んだ。疲れた顔でジョーを迎えた南部の言葉がジョー
の不安が事実であることを告げた。
「・・健のお母さんが亡くなった。先ほど健とお母さんを自宅へ送って来たところだ。」
 健と母親が暮らしていた家はユートランドの市街地にあり海辺に建つこの南部の別荘と
は車で30分程離れていた。
「今は近所の方が健に付いていてくれるが私もまたすぐに行くつもりだ。・・君も行くか
ね?」
 南部の顔を凝視していたジョーは小さくうなずいた。
「では式服に着替えてきたまえ。30分後に出ることにしよう。」

 これまでにも何回か入退院を繰り返していた健の母親だったが 今回容態が思わしくな
いことは南部や健の様子からジョーにも察することができた。特に二日前からは母親の入
院後 この別荘で生活していた健が病院に呼ばれたままであることから ジョーも最悪の
事態が起こるのではないかと落ち着かない時を過ごしていたのだった。
 自室でジョーは白いワイシャツに袖を通し 鏡に向かってタイを結び始めた。タイを結
ぶのはこの街に来て初めてだったが手が覚えていた。結び方を教えてくれたのは父だっ
た。
『もう少し大きくなったら今度はヒゲの剃り方を教えてやろう。それから酒の飲み方と御
婦人方の説き方もな。』
 陽気に話していた父も傍らで笑っていた母も 今は もう亡い。
 ジョーの手が止まった。
‘あいつも一人ぼっちになっちまったんだな。’
 今どうしているのだろう。
 母親の死を目の当たりにして動揺しているのではないだろうか。たった一人の肉親を
失って心細くしているのではないだろうか。だがそうやって健の身を案じると同時に 彼
が母親と最後の時を持てたことに羨望に近い感情があることも否めなかった。それを振り
払うようにジョーは再び手を進めて身支度を整えた。

 南部とジョーが健の自宅に着くと初老の婦人が出て来た。
「坊や、悲しくて辛いでしょうに私にいろいろ気を使ってくれるのですよ。私がいては
かえって泣けないし心も体も休まらないようなので失礼するところでした。」
 隣人だという婦人はそう健の様子を伝えて帰っていった。
 入室すると健は棺の隣の椅子に座っていた。やはり黒い式服に身を包んだ健は 表情の
無い顔でじっと棺に視線を落としていた。
「待たせたね。すっかり昼食を忘れていたが何か食べるかね?」
 南部の声に健は顔を上げた。
「お隣のおばさんがサンドイッチを作って来てくれて、少し食べました。」
 机の上に食べかけの皿があった。
「では横になって休んでは? 君も疲れただろう。」
 ううん、と健は首を振った。
「ここに・・、お母さんの側にいます。」
「では私はまた少し席をはずすよ。葬儀の手配をして来るからね。」
 南部は戸口に立ったままのジョーに軽くうなずくと出て行った。
 ぼんやりと南部の背中を追っていた健の瞳が訝しげにジョーを見つめた。そして はっ
と目を見開いた。
「ジョー?!」
 健はぴょんと椅子から立ち上がりジョーのもとへやってくるとジョーの頭からつま先ま
でをまじまじと眺めた。
「わからなかった。ジョー、スーツを着るとすごく大人っぽいんだね。誰かと思った
よ。」
 健の顔がいつもの快活さを取り戻した。
「俺なんか服を着ているというより、服に着られているみたいだろう?」
 健は両手を広げて自分の姿を示したが ふっと真顔になると 自分より頭半分背の高い
ジョーを見上げた。
「ジョー、お母さん、死んでしまった。」
 健の空色の瞳は動揺も落胆も表わしてはいなかったが 澄みきった色がかえって深い悲
しみを感じさせた。
「健のお母さんに会わせてもらっても、いいか?」
「うん。」
 ふたりは棺へと歩み寄った。
 棺に白い花々と共に納められた健の母親は やや面やつれはしていたが生前の印象のま
まだった。ジョーは彼女と会う機会は少なかったが 間接的に世話になっていた。(南部
がジョーを養育するにあたり 同年の子を持つ彼女にいろいろと相談していたことを後々
知ったのだ)
 ジョーは跪いて十字を切り黙とうした。
 その隣で健は胸の上で組まれた母親の手に自分の手を重ねた。
「お母さん、『また帰って一緒に暮らしましょう。』って言っていたんだ。」
 独り言のように話し出した健の声がかすかに震えている。
「辛そうにしていても俺には『大丈夫、すぐに治るわ。』って笑ってくれていたのに。」
 ジョーが健を見ると 健の両眼に玉のような涙が浮かび丸い頬の上を転がっていくとこ
ろだった。
「俺、すごく不安だった。歩いて入院したお母さんがベットから出られなくなって、起き
上がれなくなってさ。だからお母さんはもしかしたらこのまま・・って思うこともあっ
た。でも お母さんが『大丈夫。』って言うんだから大丈夫なんだ、って思い込むように
していたんだ。」
 健は式服の袖でぐいと涙を払った。
「それなのに、最後に『ごめんなさい、さようなら。』って。『あなにしかできない生き
方をしなさい。』そう言ってお母さん・・。」
 涙が次々と頬を伝った。健は必死に唇を動かそうとしたが それ以上は言葉にならな
かった。健は額をジョーの胸につけて顔を伏せると堰を切ったように泣き出した。
「・・お母さん、・・おかあ・さん、・・・おかぁ・・さぁん・・。」
 嗚咽の間に母親を呼ぶ健の口調が幼くて胸が詰まった。こういうときにかける言葉は無
い。ただ相手の想いを受け止めてやるだけだ。
 ジョーは健の肩を抱き寄せようと手を伸ばしたが、ふとためらった。
 ‘健はお母さんを見取る事が出来たんだ。でも、俺は・・’
 あの日。
 自分の名を呼ぶ両親の緊迫した声と銃声に駆け戻った砂浜で父母は既に息絶えていた。
力なくテーブルの上に伸べられた母親の手を取ろうとして 背後の女暗殺者の存在に気付
いたジョーは即座に彼女に向かって行った。直後、故郷の島から連れ出されたジョーは両
親の葬儀に参列することも出来ず 墓参さえかなわない身だ。
 目の前で健が髪を揺らして泣いている。自分はこうして母親一人のために泣いたことは
あっただろうか。当時、自分が流した涙は突然亡くした両親への思慕と、離れざるを得な
かった故郷への愛惜、そして暗殺者とその背後にある組織への憎しみが ない交ぜになっ
たものであっただろう。それ故、 こうして母親のためだけに泣ける健が羨ましかった。
『いいなぁ、健は・・』
 思わず口にしそうになった言葉をジョーは飲み込んだ。棺を前に『いいなぁ』とはあま
りに不謹慎だ。羨ましく思うのは自分の事情であって 親を亡くした悲しみは誰でも同じ
だ。
 ジョーは改めて健の肩に両腕を回すと包み込むように抱き寄せた。
 一度、南部が顔を出したが二人の様子に無言で退室していった。

 葬儀後、参列者に礼を述べて来る、という健を待つ間 ジョーは目の前に並ぶ墓石に故
郷の墓地を重ねていた。遥か遠くの地にある両親と‘ジョージ’の墓に足を運び 花の一
輪でも供えてくれる人はいるのだろうか。思わず滲んでしまった視界に瞬きをしていた
ジョーの肩に大きな手が添えられた。振り向くと南部が立っていた。南部は何も言わな
かったが手のぬくもりがいたわりと慈愛の心を伝えてくれた。ジョーは改めて南部を仰ぎ
見た。
 あの夏の終わりの日に全てを失ったと思った。しかし「自分」という存在は残った。そ
して自分をこの世につなぎとめてくれたこの背の高い紳士が新しい‘家族’となった。そ
れと向こうから駆けて来る健。 負けず嫌いで向っ気の強いあいつも俺たちの‘家族’に
なるだろう。
 更にいつか果たすべき人生の目的が出来た。今はまだ胸の奥底に秘めている埋み火だが
いずれ大きな炎として顕す日が来るはずだ。
「さぁ、我が家に帰ろう。」
 南部は左右の腕にそれぞれスカイブルーとマリンブルーの瞳を持つ少年達の肩を抱いて
そう言った。

 ジョーは愛車のハンドルの上に組んだ腕に顎をのせて目の前を流れる雨筋をずっとなが
めていた。そういえばあの時なぜ健は母親の胸で泣かなかったのだろう。おそらく物心着
いてから母親の体調を案じて甘える事も自制してきた健だ。最後の最後くらい思いっきり
母親にすがっても良かったのに。
『それとも・・』
 ジョーは前髪をかき上げた手を額で止めた。
『俺がいたから?』
 あいつは甘える姿を見られたくなかったのか?更に深読みすればあいつをうらやましく
思っていた俺の心を察しての行動だったのだろうか?だが健に当時の事を問いただしてみ
たところで「そんな昔の事、覚えているもんか!」と突っぱねられるだろう。あの時とて
あれだけ大泣きしておきながら しばらくして顔を上げると「ごめん、でもありがと。う
ん、なんだかすっきりした。」と無理に強がってみせたヤツのことだ。本心は決して明か
しはしまい。
・・さて 今夜はこれからどうしようか?・・
「J」へ行って健と顔を合わせるのはあの時の自分に自己嫌悪を覚えてどうも気まずい。自
宅に帰るにもまだ早い時間であったし  といってサーキットクルー達と合流して飲む気
にもならなかった。
『そうだ。』
 ジョーは車のエンジンをかけると食料品店へと向かわせた。
『論文を書き上げてしまいたいのでしばらく別荘に滞在する』と言っていたよな。
(『新種バクテリア その生態と発火に至るメカニズム』だったっけか?)
 今から調理を始めれば夕食に丁度いいだろう。突然訪ねたら驚くだろうか?
「今日は何か特別な日だったかね?」とでも言われそうだ。

 買い込んだ食材といくらかのアルコールを乗せたストックカーが別荘への一本道を入っ
て行く。
 ヘッドライトの中、雨はまだ降り続いていた。



     終


 


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