BITTER AGE

by さゆり

「何ぃ?ケンが家出したぁ?」
 そう聞き返したジョーは「やれやれ」とばかりに溜め息をついてしまった。久しぶりに
帰国し、旧友を訪ねてみればまったく何てこった!
「いや、俺が悪かったんだよ」
 トラブルの元凶であるそのクソガキの父親は溜め息とともに頷き、母親−ジュンだ。
そう、件のケンはあの " 健 " ではなく、ケイスケとジュンの一人息子なのだ−は、
「いいえ、ケイスケのせいじゃないわ。" 本当の事を知りたい " って言ったのはケンじゃな
いの!それなのに何よ、男のくせに!」
 キリリと柳眉を上げたたまま、あんまりうだうだ言うから、引っ叩いてやったのよ。そ
うしたらプイッと出て行っちゃって−と、家出の経緯を説明した。
「おいおい、ジュン」
 変わらねえなあ、ジュン・・・と、ジョーは思わず失笑してしまったが、
「いや、やはり相当ショックだったんだよ。無理も無いが・・・ケンの奴、可哀想に」
 と、ケイスケは肩を落としている。
 実のところ、彼は息子であるケンと血の繋がりが無いかも知れない。と、言うのはケン
は体外受精児だからだ。それを特に秘匿して来た訳ではないが−「産みの親より育ての親」
と言うように、事実、子というものは家において「お父さん」と呼ばれる者を父親と認識
して慕う。それは「お母さん」に対しても同様である−敢えてケンに「事実」を告げた事
は無かった。だが、
(もし、ケンに問われれば、正直に「事実」を伝えよう)
 と、そうケイスケもジュンも心に決めていた。
 16年間、その機会は訪れなかった。が、ついにその時がやって来た。
(ねえ、この写真の人は誰なの?)
 多感な年頃の息子は少し青褪めた顔で、あまりにも自分に似ている見知らぬ青年の結婚
写真を差し出して、そう訊ねた。  
 
「ちぇ、選りに選ってややこしい写真を見つけやがって!」
 ジョーは心当たりと聞き込んだ繁華街を歩きながら独り言ち、軽く舌を打った。
(大体、おまえが悪いんだぜ、健。不器用な癖にあんな芝居を打つから−)
 だが仕方が無かった事はジョーも充分に理解している。だからこそ、ジュンは健以外の
男を夫にする決心が着いたのだし、彼女自身、今はそれに感謝しているではないか。

   確かにケンは驚くほど健に似ている。だから、つい「もしかしたら」と思って、
(なあ、ジュン、健の子かどうかDNA鑑定を受ける気は無いのか?)
 そう訊ねてみた事もある。だが、ジュンは、
(ふふふ、ケイスケにも同じ事を言われたわ。でも、そんな必要がどこにあるの?ケンは
私達の子、ケイスケの息子よ。遺伝学上の父親なんか関係無いわ)
 と、笑って取り合わなかった。そして " ケン " と名付けたのもケイスケなのだ、とジュ
ンは告げた。ケイスケね、けっこう健と親しかったんですって。ほら、健、ツケの支払い
代わりに私達のバンドの器材運びなんかを手伝ってた事あったでしょ?健って人当たりが
いいから、ケイスケやアルとも仲が良かったのは知ってたけど、一緒に飲みに行ったりし
てたなんて知らなかったわ・・・
(ああ、俺も一緒だった事もあったかな)
 懐かしさがジョーの瞳を和ませた。いつも屯ろしていたスナックJのマンデリンブレン
ドの香りが、ビートの効いた彼らの音が今も " そこ " にあるような気さえした。
(で、ケイスケったら健に憧れてたんですって。健みたいにカッコイイ、正義感の強い男
に育ってくれるように、って言ってあの子に " ケン " と名付けたのよ)
 あたし、とっても嬉しかったわ、と、ジュンはジョーに微笑んだ。
 良かったな、ジュン。ジュンはジュンに相応しい幸せを−健が心の底から望んだジュン
の幸せを掴んだんだな・・・それがジョーにもとても嬉しかった。なのに・・・
「あのクソガキめっ!」
 と、ジョーは眉根を寄せて、ジュンに教えられた一軒の店のドアを押した。

 
   何と言う類いの店なのか?あの頃だったらJと同様、スナックとかゴーゴーバーとか称
するのだろうが、今はどんな名称で呼ばれるのかジョーは知らない。だが、大方こう言っ
た若者が屯ろする店と言うのは普遍的なのだろう。薄暗い店内は喧しい音楽が−こう感じ
る事自体、俺も年を取ったもんだ、とジョーは苦笑した−響き、埃っぽくて煙たい空気に
満ちており・・・だが、それでいてしっとりと生暖かく、ちょっと刺激的な香りまでが 、
" 同じ " だった。
 だからジョーは、勝手知ったるとばかりの堂々とした足取りで迷う事なく奥まったボッ
クス席へと歩を進めた。
「よぉ、ケンはいるかい?」
 そこにいた数人のガキども−ケンと同年輩か少し上の−に、ジョーは口調こそフレンド
リーだが、低い声で前置き無しにそう訊ねる。ギョッ、としたようにガキどもが場違いと
も見える " 大人の男 " を見上げて狼狽えた。
「ケン?し、知らねえよ!」
 ふん、そうかい、とジョーは否定したその答えに片頬を歪めた。こいつらくらいの年齢
だった頃から、ジョーは凄みがある事で知られていたが、今は日に焼けてすっかり褐色に
なった顔に生きて来た年月分の皺が刻まれ、その容貌きや態度には渋みが加わっている。
ガキが狼狽えて当然と言ったところか?
「惚けるんじゃねえよ」
 さらに低く唸って、その特徴的なブルーグレイの双眸を細めると、早くもビビったガキ
どもが一斉に立ち上がった。待ちな、と手近な一人を捉まえて有無を言わせぬ迫力で−ガ
キ相手に大人げ無いとは思ったがこの際だ。仕方がない−ケンの居所を聞き出したジョー
はもう一度、
「ったく!クソガキめっ!」
 と、忌々しげに舌打ちして、" PRIVATE / Do not Enter " と書かれたドアに突進した。

 
  (ったく!世間知らずのクソガキめっ!)
 もう一度、舌打ちして飛び込んだその部屋には、クサと酒と・・・それから " あれ " の
匂いと、複数の忙しげな吐息が充満していた。
「おい、何だってんだ!誰だよ、あんた?」
「もう手付けは払ったんだぜ。邪魔すんなよ!」
 突然の侵入者に慌てながらも懸命に不平を申し立てる男達−二人だったか三人だったか−
をギロリと睨みつけて、
「ああ、そうかよ」
 と、力づくで追い出すと、ジョーはベッドに伸びているケンを抱き起こした。
「おい、ケン、起きろ!こら」
 手荒く揺さぶって、ピシッと冷たい頬を叩く。と、乱れた前髪の間からドキッとするほ
ど懐かしいスカイブルーの瞳が眩しげにジョーを見上げた。
「ふん、いいざまだな。気分はどうだ?」
「う・・・ン」
 ゆっくりと瞬いたその瞳は、だが、ジョーが " 誰だか " 認識出来ずにいるらしい。無理
も無いか、5年かそこらは会って無かった筈だ。大人の5年は大した変わりも無いが、ガ
キの5年は長い。俺だっておまえが " あいつ " にこんなに似ていなかったら、たぶん一目
では判るまいよ・・・とジョーは苦笑した。
「この馬鹿野郎!おまえ、自分が何をしてるのか分かってるのか?」
「分かっ・・・分かってるよ」
 その部屋は従業員の仮眠用と、 " こうした " 用途兼用なのだろう。案外とまともなその
ベッドから、腕を掴んで無理矢理引き起こすと、生意気な事にケンはジョーの手を振り払
おうとした・・・ふふ、負けん気が強いとこまであいつにそっくりだな・・・と、ジョー
がもう一度、苦笑した時、
「なぁ、約束だぜ。俺、ちゃんと大人しくしてるから、金を−」
 と、ほっそりとした腕がジョーの首に絡み付いた。クサと酒がまだたっぷりと効いてい
るらしい。
「おい!」
 自分でも驚くくらいドキッとし、勘違いするな、と言おうとしたジョーの唇は疑古ちな
い接吻けに塞がれ・・・
 そして、
 縺れたままドサリと転がると、ベッドのスプリングがキィと、か細い悲鳴を上げた。


「やぁ、ジュン、俺だ。ケンは無事に保護したぜ」
 夜明け前だというのにジュンは起きていた。相変わらずの宵っ張りなのか、母親だから
なのか・・・ジョーは薄い闇の中でそっと微笑んで、そんなジュンに用件を伝えた。
「ああ、心配無えよ。な、学校はもう休みなんだろ?うん、そうか。じゃ、このままケン
は俺が暫く預かるぜ。あはは、分かった。言う事を聞かなかったらブン殴ってやるさ。そ
れじゃ、ケイスケにも心配するなと伝えてくれよ。頼んだぜ、ジュン」
 セルを切ると同時に、
「ジョー・・・おじさん?」
 眠っているとばかり思っていたケンが掠れた小声で訊ねた。電話の声で目を醒ましたら
しい。覗きこむとスカイブルーの瞳はまだぼんやりとしているが、どうやらジョーが
" 誰だか " 分かったようだ。
「ああ、そうだ。だが、 " おじさん " は要らない、" ジョー " でいいぞ」
「うん。あのさ、ジョーおじさん、母さん、怒ってた?」
 この野郎・・・だが、まあいい。まだこいつの脳ミソはきちんと覚醒しちゃいないんだ、
とジョーは思う事にし、ああ、当たり前だ。すっげえ怒ってたぞ、と、とりあえず脅して
おいて、それから、
「ケン、おまえ、どうしてこんな事をした?」
 と、改めて訊き、金が欲しいのならトシ相応にタコベルかイン&アウトで真面目にバイ
トしろ、と柄にも無くトシ相応の説教を垂れると、
「手ッ取り早く金を作るためだよっ!」
 慣れぬクサと酒にまだ酔っているのか、ピローに片頬をつけたままでケンはそう言い返
すと、片目だけでジョーを睨んだ。いいぞ、今ならケンは本当の事を言うだろう・・・
ジョーは長年の経験で尋問のコツを知っている。だから、
「その理由は?」
 と、冷たい声で容赦無く問うと、ケンは吐き捨てるように答えた。
「ユートランドへ行って、親父に会いたいんだッ!」
「おまえの親父は、ケイスケじゃないのか?」
 違うよ、とケンは首を横に振って、
「俺の本当の親父は父さんじゃなくて、昔、母さん達の友達だった鷲尾健って奴なんだ。
そいつは別の女の人と結婚してるのに、母さんに俺を・・・。だから、俺・・・」
「あのなぁ、ケン、ジュンから聞いたと思うが・・・」
 ジョーはジュンとケイスケがケンに告げた " 真実 " をもう一度繰り返したが、思った通
り、それも無駄だった。
「ハッ!そんな子供騙しが通用するほど、俺はガキじゃないぜ。第一、そんな都合のいい
偶然がある訳、無いだろ?」
「ま、確かにな」
 オファードと言うのが本当なら、それはそれで構わないんだ。俺は父さんを本当の父さ
んだと思ってるし、父さんを尊敬してる。だけど、そんなのはウソっぱちだろ?俺はその
薄汚い嘘が許せないんだ!と、ケンは唇を噛んだ。
 だが、それが事実なんだよ・・・と、言ったところでケンは信じやしないだろう。
 神の配剤・・・などと言うロマンティックな想像も当事者には迷惑なだけなのか。
(やっぱりおまえが悪いんだぜ、健。後先、考えずにあんな芝居を打つから−)
 ちぇっ・・・と、ジョーは何時か来るかも知れないと密かに怖れていた成り行きに、少
し眉を寄せた。だが、他に誰がケンに本当の事を教えてやれると言うのか?
 仕方が無えや!
「よし、それじゃ俺がユートランドへ連れて行ってやるぜ、ケン」


「本当に?」
「ああ、男に二言は無い」
 だからもう下らない真似はするんじゃねえぞ、とジョーは額に垂れたケンの髪をちょっ
と乱暴に掻き上げてやった。−ん、と頷きかけて、それでもケンは素直になれない年頃の
ガキの面目躍如といった小生意気な顔つきで、
「でも、いつさ?そのうち、なんてのは御免だからね」
 と、やり返す。さすがにガキだな、大人の常套手段を熟知してやがるぜ・・・だから、
フン、と鼻で笑い返して、
「そのうちなんて汚え手は使やしねえさ。今から空港に行って、朝、一番の便に乗るぞ。
さあ、来い!」
 え−っ?と驚くケンの腕を引っ張って、ジョーはもう一度笑った。
「知らなかったのか?俺は気が短いんで有名なんだ」


 空港のロビーで仮眠を取っただけだったので、大陸の反対側への5時間はあっと言う間
だった。到着を告げる機内放送に起されると、もうだいぶ高度の下がった窓いっぱいに懐
かしいユートランドの街が広がっていた。
 ジョーにとって、ユートランドはやはり特別な街だ。
 いや、ジョーだけで無く、ジュンや竜や甚平−年少だった彼の感慨は多少異なるものか
も知れないが−にとっても、ここはやはり特別な街に違い無い。そして、彼らにとって、
ジョーにとって、ここは健と共に生きた憶い出の街だった。青春の街だった。
 だから、あの後・・・
 ジョーはユートランドを離れた。
 もちろん、それだけが理由と言う訳では無く、他に理由もあったのだが、やはり一番の
理由はそれだったろう、とジョーは思う。あの頃、他の仲間達は既に他の土地で−甚平は
北東部の大学へ、竜は海辺の故郷へ、ジュンはケイスケの元へ、と、それぞれに新しい人
生をスタートさせていたが、ジョーだけはこの街を去る事が出来ずにいた。
 あの日までは・・・
 あいつに別れを告げるまでは・・・


 空港でレンタカーを借りてフリーウェイに入ると、冬とは思えない陽射しが抜けるよう
な青空から降り注いでいた。
「ここはずいぶん暖かいんだね」
 やはりあんな事があったからか、それとも " いよいよ " となってやはり緊張が高まった
のか、青褪めた顔でずっと黙りこくっていたケンが、ここの空と同じ色の瞳を眩しげに細
めてやっと笑顔を見せた。
「ああ、ユートランドは一年中こんなもんさ。だから俺達もここにいた時には冬でも半袖
のTシャツで通したもんだぜ」
 シープスキンのジャケットをバックシートに投げながら、ま、若かったからな、と付け
加えてジョーも笑った。それから、さて、そろそろ心の準備ってやつは出来たか?・・・
と、おもむろに切り出してみた。
「ケン、いいか?物には順序というものがある。まず最初に確認しなきゃならないのは−」
「その健って男が俺の本当の親父かどうか、確認する事だろ?」
 よし、いいぞ・・・と、ジョーは頷いた。
「その通りだ。そいつをはっきりさせない事には先に進めねえからな」
「それには、まずその健って奴の居所を突き止めないと−」
「いや、健のいる所は分かってるさ」
 え?と目を丸くするケンに、まあ、任せておけよ、と片目をつぶって見せると、ジョー
はそろそろ通勤のトラフィックが始まったダウンタウンを−さすがにユートランドの街並
もすっかり様変わりしているようだったが、驚くほど昔のまま、という一画もあった−抜
け、港から海岸線を真直ぐ北へと向かって行った。

 それから2、30分も走っただろうか?曲がりくねった海岸沿いの道の先に赤い屋根の
大きな建物が見えて来た。
(懐かしいな)
 と、ジョーは思った。何年ぶりだろう?
 紺碧の大海原に向かって建つこの別荘は少しも変わっていなかった。
「さあ、着いたぜ。健はここにいる」
 車を降り、表情を引き締めて別荘の入り口へと向かおうとするケンを、そっちじゃねえ
よ、こっちだ、と差し招いて、ジョーは岸壁の上の細い小道を先に立って歩いた。
「どこさ?そっちには何も無いじゃないか・・・」
「もうちょっと向こうだ。早く来い!」
 その小さな岬は芝草と可憐な花々に覆われ、遥かに開けた大海原とどこまでも見渡せる
大きな空との雄大な眺望が素晴らしい。訪れる者があったなら、きっと誰でも足を止めて
飽かずにそれらを眺める事だろう。だが、そこを訪れる者はジョーの知る限り、自分とそ
れからごく限られた者だけ、だった。そして、そこを訪れる目的も、また・・・だが、そ
んな事を知る由も無いケンは焦れて怒鳴った。
「ねえ、どこに俺の親父がいるって言うのさ?」
「ここさ、健はここにいるぜ」
 そう言ってジョーが指差したのは、空と海に向かって立つ二基の白い石碑だった。
「そっちは健の親父さんので、こっちが健のだ」
 まさか、と言わんばかりに大きく見開いたスカイブルーの瞳がジョー指を追って行きつ
戻りつし、それから震える声が問うた。
「こ、これは?」
「健の墓さ」
「!」

 暫し、ケンは言葉も無く、ただ呆然とその石碑の前に佇んでいた。
 その隣に並んで、ジョーもそれを見つめる。幾度となく訪れ、花を手向け・・・そして
声を上げて泣いたそこに立って・・・
「碑銘があるだろ、読んでみろよ」
 石碑の上部にはぴんと翼を張って誇らしげに大空を飛ぶ大鷲のシルエット、そしてその
下に彫られた文字はごく簡単なものだった・・・

 KEN WASHIO
 Furthermore, Eagle is also continuing flying today.
 198X - 200X

「200×年?・・・俺が生まれる2年前だ」
「そうだ。計算が合わないって事は分かるな?」
「だけど−」
「だけど、どうした?そンな顔したって事実は事実だぞ。健はおまえが生まれる2年前に
死んだ。って、事はジュンとどうこうってのは有り得ない話しだよな。違うか?」
 動かぬ証拠を目にしたのだ、同意せざるを得ない。それからケンは " そっくり " と言え
るほど健に似たその顔に、何処かホッとしたような表情が浮かべて、
「何だ・・・じゃあ、母さんが話してくれた通りだったのか・・・」
 と、言い、小さく「ごめんなさい」と呟いた。誰に謝ったのか?−恐らくケンはジュン
に、ケイスケに、ジョーに、そして健に詫びたのだろう。
 その素直さが愛おしかった。
「あのさ、ジョーおじさん・・・」
 と、ケンはその白い墓碑を真直ぐに凝視めながら訊いた。
「この健という人は本当に、その、俺の本当の父さんなのかな?」
 健がそうだったように、ケンもまた " 実の父親 " に一目会いたい、と思ったことだろう。
どんなに否定的な理屈をつけて反撥したり拗ねたりしたところで、心の片隅ではきっと−
そう思うとジョーは、気紛れにこんな " 偶然 " を−奇跡のような偶然を−もたらした神に
恨み言の一つも言ってやりたい気持ちだったが・・・ややあって、
「ああ、そうだ」
 と、ジョーは頷いた。


「実は俺もおまえが本当に健の子かどうか、夕べまで知らなかったさ。だがな・・・」
 だが、夕べ、俺は南部博士に連絡を取って・・・と、ジョーは芝草に腰を下ろしてその
時のやりとりを話して聞かせた。

(じゃ、やっぱりケンは−)
(うむ、間違いあるまい。あんまり似ていたからね、ジュンが初めてケンを連れて私を訪
ねてくれた時にDNAの照合を、と勧めたのだが断られてしまったのだ。しかしもし健の
サンプルが使用されたのだとしたら、その理由を突き止めなければならない。健や君達の
みならず、こうした個人のサンプルやデータは厳重な管理下にある筈だし、また本人の承
諾無しに使用されて良い筈の無いものだからね)
 連絡を取ったのも何年ぶりだったのか・・・「元気なのかね?ジョー、戻って来て、私
の仕事を手伝わんか」と穏やかな笑顔を見せたモニターの中の南部は、頭髪こそすっかり
白くなっていたが、少しも変わらずに理知的で端正で、そして優しい父親のままの南部だっ
た。論理的な、だが少し回りくどいその口調もひどく懐かしかった。
(ええ、そうですね。で、博士がジュンを説得したんですか?)
(いや、ジュンには悪いと思ったが、私は密かにケンのサンプルを−幸いな事に乳幼児は
よく涎を垂らしてくれるからね−採取して、健のDNAパターンと照合したのだよ)
(なるほど。で、それが一致したと言う訳ですね?)
(そうだ。99.9%の確率で親子であると判明した。むろんまったくの他人でも非常に似た
DNAパターンを示す場合もあるが、こうした一致は9兆分の1という極めて低い可能性
でしか発現しないのだ。従って、ケンは健の冷凍精子の一つから生まれたと判断するのが
妥当であり、と言う事は " 何故 " こうした事が起こり得たのか、という事の追跡が必要に
なる。これに関して、私は当時の全権限を行使して徹底的に調査したのだが・・・)
  「だけど、あの頃ISOの長官だった南部博士が徹底的に調査しても、それは何故だか分
からなかったんだそうだ。やっぱり、" 偶然 " と言うほか無い、ってさ」
 ジョーは遥かな水平線に視線を置いたまま、淡々と話し続けた。ケンがそれを聞きどう
思っているのか、どんな顔をしているのか・・・を、敢えて無視して−。
「だけど、ケン、世の中なんてのは殆どが偶然の積み重ねなんだ。だから、あまり深く考
えない方がいいと思うぜ。確かにおまえは−」
「あのさ、ジョーおじさん・・・」
 ジョーの言葉を遮って、唐突にケンが訊いた。
「ん、何だ?」
「健という人はどうして死んだの?まだこんなに若かったのに」
 ああ、とジョーは少し眉根を寄せて、偶然の一つが巡り合わせてくれた健の分身が、自
分の傍らに腰を下ろすのを、眩しいものでも見るように見ていた。
「それを知りたいのか?」
「うん、知りたい」  
 頷いて、きっぱりと言ったその顔が、かつて偶然に出会い、共に生き、そして別れた懐
かしいあいつに重なる・・・俺はあの時の事を話せるのだろうか?何とか忘れようとして
来たあいつとの別れを・・・ジョーは瞬きを繰り返しながら、それでもゆっくりと話し出
した。

「健は病気で死んじまったんだ」
「何の病気だったの?」
「さあ、何て病気なのかな?もともと健は滅多に風邪も引かない元気な奴だったんだが、
急に重い病気に罹っちまってな。これがひどい病気で、後にも先にもあいつ一例だけって
言う特殊なやつだったんだ。だから、治療しようにも手立てが無いし、健は健で無理ばか
りしやがるし・・・ま、仕事が仕事だったんで仕方が無かった部分もあるんだが、落ち着
いてベッドにって時には、もう殆ど手遅れって状態だった・・・」
 .................................................................................

 手立てが無い、為す術が無い・・・そんな辛い日々がずいぶん続いた後、それでも健は
奇跡のようにいくらかの小康を取り戻したのか・・・

「よぉ、健、気分はどうだ?」
「やあ、ジョー。うん、今日はだいぶ良いな」
 その日、いつものように健は穏やかに微笑んでジョーを迎えた。いや、例え目蓋を上げ
る事さえ辛い時にでも、健はいつだって笑顔を見せようとするのだが−。
「そりゃ良かったな」
「ジョー、レースに行くのか?」
 長いつきあいの2人だ、ジョーの服装や上機嫌でそうと分かったのだろう。健はそう言
うと、いいな、俺も行きたいな、と懐かしそうに目を細めた。話す事さえままならなかっ
た一時の病状を思うと、どこかへ行きたいと言い出すほど回復したのか、とジョーは嬉し
かった。
「ははは、じゃあ早くベッドから離れて、この金魚鉢から出て来いよ。そうしたらまた一
緒にサーキットを飛ばそうぜ、健」
 健も、ああ、と頷いて、
「そうしよう。寝ているのにも飽きちまったし、夢も見飽きちまったからな」
 と、言った。へぇ、飽きたって、いったいどんな夢を見てたんだ?とジョーが問う。
 いや、他愛ない夢ばかりさ・・・親父が模型飛行機を土産に帰って来たとか、お袋が美
味いアップルパイを焼いてくれたとか、失くしたとばかり思っていた大事な本が出て来た
とか・・・
「それから、おまえが・・・」
 と、言いかけたが、
「え、俺が?」
 思わず訊ねたジョーには答えず、いや、そんな夢ばかりさ、そんなのを繰り返し、繰り
返し何度も・・・と、健は可笑しそうに笑った。
「言いかけて途中で、ってのは気になるぞ。健、俺がどうしたって?」
 深い息を一つ吐いて、健は澄んだスカイブルーの眼差しをジョーに真直ぐ向けたまま、
だがその答えとは思えぬ事を言い出した。
「ジョー、レースは明日か?」
「えっ?ああ、そうだ。明日は日曜だからな」
「じゃあ、明日の朝、行けば間に合うんだろ?」
「いや、ラグナ・サーキットだからな、そろそろ行かないと−」
 健がこんな事を言い出した事はついぞ無かった。いったいどういう風の吹き回しだ?と、
ジョーは些か訝しく思いながらも、
「元気そうで安心したぜ、健。また帰りには寄るからな」
 と、片手を上げた。
 と、
「ジョー・・・」
 そう呟くようにジョーを呼んだ健の顔に、一瞬、確かに言い様の無い寂しげな表情が過っ
たような気がして・・・しかし、ハッとして見直した時には、もういつもの穏やかな微笑
みがあり、
「ああ、待ってるぜ、ジョー。トロフィーを持って来てくれよな」
 そう言って、健はジョーの手の平をパシンと叩いた。
 .................................................................................

「それが、健との別れになるとは、その時は思いもしなかったんだ」


「えっ?」
 どうして、と問うあいつと同じ色の瞳が心底辛い。
(ジョー、俺はおまえを待っていたんだぞ)
 そう哀しげな声に攻められている気がして、ジョーは思わず目を閉じ・・・
 いや、駄目だ!ここで止めたら・・・
「俺は・・・」
 ジョーはブルーグレイの双眸を細く開けると、再びポツリポツリと話し出した。
「・・・間に合わなかったのさ」

 夜半、通過した低気圧がラグナにもたらした雨はけっこうな量で、翌朝には晴れたもの
の路面はなかなか乾かなかった。イラつきながらペースカーが引っ込むのを待ち、しばし
ば振られるイエローフラッグに罵声を浴びせていたドライバー達もやがて解き放たれはし
たが、レースは荒れに荒れ、勝敗は判定にもつれ込んだ。
(チッ!)
 ジョーは爪を噛んで、ドラム缶を蹴飛ばした。
−トロフィーを・・・
 健が待ってるんだ!
−待ってるぜ、ジョー・・・
 ああ、待ってろよ、健。今、あのでっかいトロフィーを持って帰るからな。
 だが、判定の結果は確信していた勝利ではなく−
(チェッ!)
 舌打ちするジョーに、残念だったな、と声を掛けたのはあるチームの監督だった。
「納得の行かない結果になったが、まあ、勝ち負けは時の運だ。ジョー、どうだい?私の
チームに来る気はないかい?」
 握手を求められ、考えてみてくれよ、と連絡先を告げられた。実際、ジョーはこんなと
ころに燻っているのが不思議なほどのレーサーだったから、こうしたオファーは毎度の事
で別段珍しくも無い。だからいつものように、どうも、と曖昧に頷いて、半ば儀礼的に連
絡先をセルに入れようとし・・・
「おや?」
 着信記録がこんなに・・・
「し、しまった!健がっ!」
 ジョーは今まではっきりと見えていた筈のすべてが、唐突に真っ暗な闇に飲み込まれて
しまったような錯覚に囚われ、思わず両手で顔を覆っていた。


「ジョー!」
「博士、遅くなりました」
 どうやって帰ったのかさっぱり憶えていなかったが、時計が示す時刻から推してとにか
く飛ばせるだけ飛ばして戻ったらしい。憔悴した南部の顔を見て、初めて少しだけ " 夢で
はないんだ " という実感が湧いた・・・夢なら良かったのに、畜生!

 健はただ眠っているように見えた。
 今にも目を開けて、
(やぁ、ジョー。レースはどうだった?)
 と、笑いそうで−、いや、むしろそうしないのが何とも不自然に思えるほど、健は穏や
かな表情のまま静かに目を瞑っていた。
「あんなに調子が良さそうだったのに、どうして・・・?」
 哀しみよりも " 信じられない " と言った思いと驚きの方が大きかったからか、ジョーは
泣く事も忘れて独り言ちた。と、うん?と南部が首を捻った。
「調子が良さそうだった?健が、かね?」
「ええ。昨日、ここへ寄った時、健は気分が良いと・・・それから「俺も行きたい」と言
い出して・・・だから俺、ずいぶん元気になったな、と思って−」
「そうか。健、おまえと言う奴は・・・」
 微かに微笑み、それから急に、う、と声を詰まらせた南部の様子にジョーはハッとした。
まさか健の奴・・・
「博士、健は・・・健の奴、本当は具合が−」
 うむ、と頷いた南部はそれ以上は何も言わなかったが、それで充分だった。
「馬鹿野郎、健・・・おまえ・・・」
(明日の朝、行けば間に合うんだろ?)
 何故、「行くな」と言ってくれなかったんだ?
(ジョー・・・)
 どうして、おまえは最後の最後までそんなに−
(待ってるぜ、ジョー。トロフィーを・・・)
 それでも、俺を待っていてくれたのか?それなのに、俺はおまえを看取ってやる事も、
トロフィーを持って来てやる事も出来なかったな。
 許せ、許せよ、健・・・
「ああっ、健・・・!健、健、健っ・・・!」
 もう決して応える事の無い身体に縋って、ジョーは幾度も幾度もその名を呼び・・・
そして、ジョーは無二の親友を、唯一の兄弟を、いや自らの半身を、永遠に失った事をよ
うやく実感したのだった。次から次へと・・・涙があふれて止まらなかった。


 思い出すと、今も涙が頬を伝う。だからジョーは踞るように背を丸め、立てた片膝を抱
いて頑に俯いていた。ガキに見られてたまるか・・・と、言わんばかりに。
 と、白いコットンシャツのその逞しい肩にあたたかい物が触れた。
「ジョー・・・」
(健か?)
 そんな訳は無え・・・有る訳が無えさ・・・
 だが、ジョーは目を開ける事が出来なかった。
(ジョー、おまえは帰って来てくれたじゃないか?)
(それはサーキットからか?それとも、クロスカラコルムからか?)
(ありがとう。嬉しかったぜ、ジョー)
(おい、健・・・)
(だから、俺も・・・)
「けんっ!」
 ジョーが叫んで固く閉ざしていた両の目を見開くと、目の前には、今、目蓋の奥で優し
く微笑んだのと同じスカイブルーが瞬き・・・それから、それはゆっくりと少しはにかむ
ように笑って、耳の奥に残っているのとは少し違う声で、
「ありがとう、ジョー。健の事を聞かせてくれて」
 と、言った。
「いや、俺も話せて良かったぜ、ケン。健の事を、よ」
 そう笑い返しながら、ジョーは偶然の積み重ねが、偶然の一つが巡り会わせてくれた、
かけがえのない " 甥っ子 " の手の平をパシンと叩いてやった。

「ジョー、また健の事を・・・もう一人の父さんの事を聞かせてくれる?」
「ああ、いいとも。だがな、ケン、俺の事はちゃんと " ジョーおじさん " と呼べ。ガキ
の分際で生意気だぞ、おまえ」
 あれ?と言う顔をするケンの額を人差し指で小突いて、ジョーはもう一度笑った。

(健、もう半端なレーサー稼業は終わりだ。" 苦い年頃 " は卒業して、俺の、俺だけの夢
を追って生きるぜ。おまえの分もな・・・)



The End 



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