Breathe a sigh ....... 2

by さゆり

 潮騒、砂浜、青い海。
「此処は変わらんな。」
 やっと時間を作って、濃緑の蔦葉に覆われた白壁の古い館にケンを訪ねた私は思わず独
り言ち、その柄にも無い呟きに自分を嘲笑った。だが、忘れ去られたようにひっそりと佇
むこの館に似て、此処の時はゆっくりと行くのか、本当に久しぶりだと言うのにちっとも
変わっていない。そして、ケンもほとんど変わらずにいるのには、やはり少なからず驚い
た。いや、彼が変わらぬのには理由があるらしい。
「恐らくリアクターが細胞を活性化させているせいでしょう。」
 軍医は淡々とそう言ったが、それ以上の事は彼の職務権限外という事らしく興味が無い
ようだ。もしかしたら不老不死に繋がる大発見かも知れないが、軍医も私もそれにも興味
が無いので敢えて報告もしない。軍医にとって大事なのは、医学的な発見でも金儲けでも
無く、非人道的な生体兵器によって不治の難病に冒されたワシオ中佐であり、私にとって
大事なのも、また同様にケンだけ、だからだ。
 
「ケン。」
 私の声に窓辺で本を読んでいたケンが顔を上げた。
「このところ、具合が良いそうだな。」
 歩み寄って見下ろす私を、ケンが見上げる。長く伸びた焦茶色の髪が、白いシャツの肩
から背へと緩やかに流れ、ケンは小首を傾げて、少しも変わらぬ美しい空色の瞳でじっと
私を凝視める。
「何の本を読んでいる?」
 そう問うと、乾いた唇が動いて、
「フローベル、ギュスターブ・フローベルの・・・」
 と、抑揚の無い小声が応えた。
「・・・の『感情教育』・・・尊敬を源とする愛情は、しばしば・・・」
 ケンの脳細胞は身体機能、及びそれらをコントロールする部分と記憶中枢、そして情緒
を司る箇所に部分的な欠損が認められるとの事だが、知性は失われていない。だから、ケ
ンは非常に難解な書物も理解するし、また高度な数学問題も以前と変わらずに解いて見せ
たりもする。それでいて、ケンは私が誰か?・・・いや、自分が何故、此処にこうして囚
われているのか?・・・さえ認識出来ぬ時があるのだった。
「・・・しばしば、同情より発した愛情より・・・」
 それから?と頷いて、私は手袋を外し、フローベルの言葉を伝えるその唇にそっと指先
を宛てがった。と、
「・・・。」
 言葉が途切れ、ケンは瞳に少し不安気な色を浮かべて唇を微かに震わせた。
「尊敬を源とする愛情は、同情より発した愛情より、何だと書いてある?」
「・・・よりも、長き生命を保つ。」
「ははは。」
 笑って、私は少し乱暴に顎を掴んで仰向かせた。ケンは眉を寄せるがあまり抵抗はしな
い。ゾクリとするその長い睫毛を静かに伏せて、唇を軽く緊張させる。柔らかい唇が緊張
する様はとても扇情的だが、私からケンの唇に触れる事は出来ない。ケンはジョーにしか
唇を許さないからだ。しかし、時折、ケンは私の接吻けを受け入れるし、また自ら私の唇
を求める事もある。つまり私をジョーと認識している時だ。


「あんたに頼みがある。」
 ジョーはあの朝、私にそう言った。前置きも遠慮も無い単刀直入な物言いだったが、
ジョーの真摯な思いがまっすぐに伝わる言い方だった。だから、
「承知した。」
 と、私は内容を訊かずに承諾した。
「いい漢だぜ、あんた。」
 青灰色の目がニッと笑って、ジョーは愛おし気に、まるで子供のように無邪気な顔で眠っ
ているケンの身体をシーツに埋め直してから、優しく接吻けた。
「ん・・・」
 微睡んだままのケンの唇が、物憂げに、だがこれも至極優しくそれに応える。唇と唇が、
恋人同士の抱擁のように暫し無言のまま、求め合い、確かめ合うように軽く触れ合った。
それはひどく艶かしいようで、それでいて何処か切ない光景だった。
 やがて、ケンの首がコトンと傾いだかと思うと、よほど疲れているのか、再びすやすや
と眠ってしまった。それを見届けたジョーは微笑いながら言った。
「な、ケンにこうしてキスしてやってくれよ。」
「承知した。」
「いいか?抱いて、イかせてやった後に、必ず、だぜ。」
「・・・私がケンを抱いても構わないのか?」
 ああ、とジョーは頷いた。
「あんた以外の誰にこんな事を頼めって言うんだよ?」
 無造作に掴んだジーンズに脚を突っ込むジョーに、シャワーを浴びる時間くらいはまだ
ある、と言ってやったが、ジョーは頭を振って身仕舞いしながら言葉を続けた。
「知っての通り、いつだってケンは大人しく抱かれやしねえが、なぁに押さえつけてでも
抱いちまえばいいのさ。そうでもしなきゃ、こいつは自分を解き放つ事も赦す事も、人の
温もりを求める事さえも出来ない不器用な奴なんだ。」
 と、ジョーはひどく真面目な顔で言い、だから、俺はこいつを抱くんだ・・・と呟いた
がすぐにハッとしたように、ケンはいいぞ、ケンは最高だ。俺は星の数ほど女を抱いたが、
こいつの為なら死んでもいい、と思うくらい愛したのはケンだけさ・・・と、些か戯けた
ようにまた笑った。そして、
「ケン、俺よりも大佐の方がいい男だぞ。いいか?優しくしてもらえよ。」
 と、ケンの耳の中に囁くと、
「さ、行こうぜ。この馬鹿が目を醒まさないうちに、な。」
 もう迷う事も思い残す事も無い足取りで、歩き出した。

 ジョーは今日、完璧なメカニズムになる。
 戦いに勝つ為だが、そうなれば、諸刃の剣を振うに躊躇いは要らない。
 そして・・・ジョーは必ず地球を救い得るだろう。
 私はそれを見届ける介添え人であり、同時に執行人だった。
 
「大佐、もう時間が無い。あの計画を実行に移してくれ。」
「ケンはどうする?」
「もう俺はあいつなんか知らねえ!」
「長官が亡くなった今、実行は簡単だ。だが、後戻りは出来んぞ。」
「構わねえさ、とにかく勝つ事の方が大事だ。」
 ジョー、君は正しい。
 私は敗軍の将にだけはならん。
 
 車の中で、ジョーは自分の肩を抱くようにして、くん、と鼻を鳴らし、
「ふふ、ケンの匂いがする。」
 と、一度だけ、小さく笑った。
 夕べ、ジョーは一晩中、ケンを愛していたのだろう。
 ヒトだった思い出に、とケンを愛し続けたのだろう。
 苦い思いが私の胸を過り、極めて人間的な感情が私に顔を背けさせた。
 だが、私は冷静にそれを執行した。そして・・・。
 
 
「い・・・やだ、嫌・・・」
 固く瞑った目蓋から頬を伝って落ちる涙を指で拭ってやりながら、その優しさとは裏腹
に私はケンを陵辱し、苛み続ける。
「ケン、おまえを愛している。」
 欺かれて、ケンは今日も私に熱く囁いてくれるだろうか?
 ジョーしか耳にした事の無い甘い声で、もっともっと、と私に強請り、ジョーにしか見
せた事の無いあの顔を、私にもまた見せてくれるだろうか?
 どんなに優しく愛しても、結局、ケンはジョーが望んだようには私を愛するようになら
なかった。だが、力づくの行為に、欺瞞に満ちた愛撫に、それでもケンは抗えずにしなや
かな身体を震わせて、受け入れた私を、ジョー、と呼んで接吻けを許す。だから、私はジョ
ーに成り代わる事はやめて、ジョーに成り済ます事にした。
 それで構わない・・・。
 それでケンが満足するのなら、ジョーとの約束を違えた事にはならないだろう。
「いや・・・だ、ジョー、もう、やめ・・・」
 弾んでいく息の合間にケンの意識が霞み出す。
「ケン、俺を忘れたか?」
 ぼんやりと見つめ返す空色の瞳に、私は魔法の言葉を唱える。
「・・・ジョー?」
 そうだ、だから私の愛に応えろ、ケン。
 一際、強くかき抱いて、仰け反るほどに、もっと激しく・・・。
 
「ケン・・・」
 優しく名を呼んで唇を重ねると、ケンは啄むように私の唇に柔らかく接吻けを返して来
た。抱擁と接吻けを繰り返し、やがてまた抱き締めて、乱れた焦茶色の髪に指を絡めなが
ら、私はケンに暫しの別れを告げた。
 と、空色の瞳が真直ぐに私を凝視め、何かを問うようにケンは唇を動かしたが、言葉は
発しなかった。
「そんな顔をするな。必ず戻って来る。」
 だが、ケンはまるで私を行かせまいとするように両腕を私の背に回すと、胸に額を押し
当てて、無言のままいやいやをするように頭を振った。
「大丈夫、おまえを独りにはしない。俺はきっと帰って来る。」
 私は更にケンを欺く事になるかも知れない。
 平和になればなったで、私には別の闘いが待っていた。純粋に空を飛んでおれば見ずに
済んだ世界だったかも知れない。だが、私もジョーと同じくもはや後戻りの利かぬ選択を
して勝利し、そしてここまで昇りつめたのだ。易々と墜ちる気は毛頭無い・・・
 が、しかし、状況はかなり厳しいものである事もまた事実だった。

 だが、それを告げたところで、ケンを無駄に哀しませるだけだ。
 訪れなくなれば・・・やがてケンは私を忘れるだろう。
 私を忘れて、純粋にジョーとの思い出の中に生きて行ってくれるだろう。
 そして、これは一つの可能性だが・・・ケンがリアクターの効果で、長い時を生き続け
たならば、或いはジョーと・・・いや、ジョーの記憶を保存するAIと再び巡り会う事が
叶うかも知れぬ。

「ケン、俺を忘れないでくれ。」
 成り済まし続けたジョーが言わせたのか、思わず口にしたそんな言葉に私は自分を嘲笑っ
た。だが、ケンはじっとその美しい瞳で私を見つめたまま、ゆっくりと頷き、
「忘れやしない。だから、きっと帰って来てくれよ、アーサー。」
 と、静かに答えて、そっと私の唇に唇を重ねた。


- The End -



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