Breathe a sigh ....... 3

by さゆり


1) PROLOGUE

 潮騒、砂浜、青い海。
 濃緑の蔦葉に覆われたその白壁の古い館が私の新しい任地だった。いや、新しいと言う
よりも私はまだ成りたての軍医で、そこが最初の任地だったのだが−。

「我々のクランケの病状は一応安定している。ここに収容された頃が嘘のようだよ。精神
状態もだいぶ落ち着いてきていたんだが・・・」
 先任の、そして先輩の軍医は言葉を切り、遣り切れん、と言わんばかりに深く嘆息した。
白髪が混じり始めた前髪を乱暴に掻き上げると、
「無理矢理ここへ連れて来られた頃のワシオ中佐は、近寄る事さえ憚れるほど身体と心を
病んでいた。あれだけ切迫していた戦況ではそれも無理からぬ事だったかも知れないが、
なあ、ス、スヴェ・・・」
「スヴェルドロフ、です。トオル・ニコライビッチ・スヴェルドロフです、先生。」
「ああ、すまん。ええと、スヴェルドロフ君。」
「私の苗字は憶え難いですから、どうぞトオルとお呼びください。」
 私は毎度繰り返している台詞を今度も繰り返して、決してあなたのせいではありません
よ、とすっかり慣れてしまった笑みを浮かべて見せた。実際、私の姓名を正しく一回で記
憶した人はいない。比較的呼び易いファーストネームがあって良かったな、とこれも毎度
思う事をぼんやりと頭に浮かべていた私は、
「うむ、ではそう呼ばせてもらう事にしよう。なあ、トオル君、ワシオ中佐は一体何を知っ
ていると言うのだろうか?彼は一体、何者なのかね?」
 この答えようも無い質問に絶句してしまった。

 つい先日まで、研究者として心療内科を専攻していた私の診たてに拠ると、先任の軍医
は確かに些かノイローゼ気味のようだった。まあ無理も無い。そんな訳も、正体も分から
ぬクランケにつきあって、こんな辺鄙な処に詰めっきりだったのだから・・・。

「ワシオ中佐、今度、着任しました軍医のトオル・ニコライビッチ・スヴェルドロフです。
お加減はいかがですか?」
 下士官に教えられた書斎の戸口で、憶えたての軍隊式の直立不動でそう挨拶したものの、
そこに居たのは、気ままに跳ねている焦茶色の長い髪を肩に垂らしたずいぶんと若い男だっ
た。ワシオ中佐のデータやカルテには既に目を通していたから、彼が私よりも年下ながら
異例の若さで中佐に成ったー中佐だぞ!信じられるか?ーと言う事は知っていたが、今時
それらのファイルには彼の写真が添付されていなかったので、私は自分が面倒をみるクラ
ンケの顔さえ知らなかったのだ。本から顔を上げたその男はどう見ても二十歳そこそこ、
と言った感じの、いやまだ幼ささえ残る面立ちをしており、美しい空色の瞳が印象的だっ
た。
(彼がワシオ中佐なのか?)
 と、一瞬戸惑った私は、しかし何の表情もリアクションも無いまま、少し首を傾げてま
た本のページに視線を戻してしまった彼の様子を見、間違い無い、と確信した。
 彼は聞いていた通りのクランケだった。
 同時に、ヒトの心を診る事を専門とする私が此処へ呼ばれた理由がよく解った。
 何があったのかは知らないが、彼は空軍中佐という身分とこの館(一応、此処は気象観
測基地になっている)での生活と治療(軍による新型兵器開発中の事故に拠る特殊な後遺
症、とデータには記されている)を得、それ以外の全てを(人生の全てを、だ)失ったと
言うのはどうやら真実らしい。
 しかし、彼にそれらを与え、保護する人物であった将官は今、軍事法廷に居り、そして、
恐らく私はその将官を追い落とす側のオーダーで此処へ派遣されたのだと思う。いや、既
に先任の軍医にも同じオーダーが下っていたのだろうが、彼は専門外と自らのノイローゼ
を理由に休暇を願い出て、此処を去ってしまった。
(ワシオ中佐は一体何を知っていると言うのだろうか?彼は一体、何者なのか?)
 だから私は、クランケと共にこの疑問を引き継ぐ事になったのだった。
 とは言っても、私は情報部の人間では無いし、詳細を知ろうとは思わない。彼らが私を
寄越した最大の理由は、私が駆け出しで、しかも研究室にいた世間知らずの軍医だからだ
ろう。だが、この若き中佐殿から何か重大な情報を引き出そうと言う事自体が、土台無理
と言うものだろう・・・何故なら、彼は正常ではない・・・と、高を括っていた。少なく
とも、情報部の奴らの手口を実際に見るまでは。

 着任して、一週間ほど経っただろうか?通常の私の軍医としての仕事はごく楽なもので、
毎日、彼をバイオリアクターと呼ばれている特殊な治療装置のベッドに、その端末が表示
した時間だけ、寝かせておくだけで、後はごくごく当たり前の診察をするだけだった。カ
ルテに拠れば、彼は肺機能に異常が認められており、だから私も胸部の聴診だけはかなり
慎重にやった。だが、やはり経験不足の為か、その日はどうにも上手く音が聞き取れなかっ
た。仕方が無いので、
「信頼を裏切りたくは無いんですが、ざっくばらんに白状してしまうと、私はずっと研究
室勤務だったので臨床経験が殆ど無いんです。申し訳ないけど、もう一度深呼吸してもら
えませんか?」
 と、正直に頼んだ。クスッと彼が微かに笑った気配がして、左手の掌を当てた胸も僅か
に膨らんだ気がしたが、それ以上の深い呼吸は無い。おや?と、その滑らかな白い肌から
目を上げて彼の顔を見ると、相変わらずの無表情がそこにあった。
「もう一度、ゆっくりと深呼吸して。分かりますか?息をこう深く−」
 と、私が深呼吸して見せると、彼もやっとそれに応じてくれたが、私には彼の反応がど
うにも納得行かなかった。
(妙だな。さっきは、反射的にちゃんと息を吸い込もうとしたじゃないか?)
 結構です、などと言いながら聴診器を耳から外して、デスクに広げた彼のカルテに向か
うと、彼の身の回りの世話をしている下士官が素早くシャツのボタンを止め、いや、これ
はいつもの事なのだが、その日は私が此処へ来てから初めて、白いシャツの上に淡いオリ
ーブグリーンの軍服を着せ掛けた。
 一瞬、カッチリとした仕立ての軍服に包まれた彼の身体に緊張が走ったように感じた。
何故?と、改めて見直したが、彼はもういつも通りの無表情な顔で、何処か遠くを見るよ
うな目つきをしてそこに座っていた。彼はいつもこうだった。人の言う事は聞き分けてい
るし、理解力も普通と変わらないようなのに、自ら何かに反応しようと言う気配が無い。
だからと言って、反抗する事も暴れ出す事も無く、ひたすらジッと・・・そう、まるで心
を失くしてしまったかのように、与えられる全てを唯々諾々とただ受け入れて、何の感情
もリアクションも示さなかった。
 一見、扱い易いように思えるかも知れないが、これは精神医学上、非常に難しい症例と
言わざるを得ない。そう、怒りでも哀しみでもいい。何か反応があれば糸口は掴めるのも
のなのだ。しかし、彼の場合は・・・?
 いや、いずれにしても難しいな、と私はカルテを閉じて訊いた。
「ところで何故、今日は軍服を?」
 単純な疑問からの質問だったが、下士官はあからさまに眉を寄せた。
「これから情報部の方々がお見えになると、さきほど、連絡がありましたので−」
「ふうん?」
 私はまだ何も知らなかったのだ。

「軍医殿、トオル軍医殿、起きて下さい。中佐が大変です!」
 夜半過ぎ、側付きの下士官に起された私は白衣に袖を通しながら、慌てて彼の部屋へと
急いだ。
「呼吸困難を起したのかね?」
 立派な彫刻を施した手摺に掴まって、階段を二段飛ばしで駆け上がりながら訊ねる。は
い、と振り返って頷く下士官を見、やはり、と先任の軍医が残したカルテにあった発作を
思い浮かべていた私はドアを開け、立ち竦んだ。
 彼はその大きなベッドの上に不自然な姿勢で転がっていた。
 何が不自然なのかと言うと、まず彼が何も身に付けてはいないと言う事と、後ろ手に縛
られていると言う事・・・ちょっと、ちょっと待てよ!これは不自然なんて生易しい状況
では無い。これは異常だ!これは一体どうした事だ?


2)

「一体、何をしてるんです?ワシオ中佐は病人なんですよ!」
 私は慣れないながらもCPRの手順を憶えていた事を神に感謝しつつ、思わずそう怒鳴っ
てしまった。情報部だか何だか知らないが、人をこんな目に会わせてそれが通るとでも思っ
ているのか?・・・怒りなのか、恐怖なのか、手が震えた。目蓋を固く閉ざした蒼白なそ
の顔には心底怯んだが、くったりとした頭を抱き起こして喉を開いてやると、彼は空気を
吸い込もうと−生きようとして盛んに喘いだ。しかし、呼吸は戻らない。何かが気管に入っ
てひどく咽せてしまったらしい。私は彼の頭を膝に乗せ、吐瀉物を肺に誤飲させぬよう顔
を横に向けると、冷たく濡れた口唇を割って、無理矢理、喉奥に指を突っ込んだ。
 くっ、と苦しげに背を丸めて、それでも彼は喉を塞いでいるものを吐き出し、ようやく
肺に吸い込む事が出来た空気に咽せながら、はぁはぁと浅い呼吸を再開してくれた。
−ああ、もう大丈夫だ・・・そう、ホッとしながらも、私は彼を窒息させかけていた大量
の白い粘液を見、胸が悪くなった・・・ディープスロートもいいさ。だが、窒息するほど
奥に出すんじゃないっ!・・・しかもこれ、一人分じゃないんじゃないのか?
 つまり、こいつらは彼を後ろ手に縛り上げて打ち据え、さらに性的暴行を加えているの
だ。このゴロツキめ!と、腸が煮えくり返るとはこの事か、と思う激しい憤りが私の全身
を貫いたが、哀しい事に私には屈強なこいつらを叩きのめす力(腕力も権力も、だ)は無
い。震えが収まらぬ指で、とりあえずの応急処置として強心剤と気管支拡張剤をポンプに
引いて、私は彼の上拍部に打ちながら、ゴロツキどもを横目で睨むのが精一杯だった。

「ほお、君は新しい軍医かね?」
 情報部のくせに何を知れた事を−と、むかつきながらも私に出来る事は、
「そうです。一週間ほど前に着任しました。」
 などと、大人しく答えるだけだ。
「先任のドクターは物の判ったお人だったが、君はまだ若いせいか、こう言った事には慣
れていないようだね。」
「こう言った・・・事って?」
 ゴロツキどもが楽し気に含み笑いを漏らすのにゾッとしながら、私はせめてもの反抗に
敢えて聞き返してやった。研究畑の私だって、おまえらの残虐で非人道的な任務とやらは
知ってるさ。おまえらは「情報を得る」ために、人を騙し、打ち、そしてそれを、
「我々の任務さ。」
 と、ほら、そう公言して憚らない輩なのだ。
「任務ならば何をしても良い、と言うんですか?」
 私の精一杯の抗議も、案の定、ふん、と鼻で嘲笑われた。
「我々は国益の為に、この従順にして頑固極まりない中佐から事実を聞き出さねばならん
のだ。だから、せいぜい協力してくれたまえよ、軍医殿。」
 そうか・・・先任の老軍医の神経が参ってしまったのは、こういう経緯があったからな
のか・・・と、私は初めて納得した。と、同時に協力せざるを得ない立場にいる事を改め
て認識し、背筋が寒くなった。ゴロツキどもとのやりとりの間にざっと診ただけでも、彼
が相当、酷い目に会わされた事は歴然としていたし、処置と薬の効果で呼吸が落ち着いた
彼に対して奴らがした事も、この目で見届けさせられたからだった。

 再び乱暴に顎を掴まれても、彼はじっとしていた。その顔には恐怖も怒りも無い。
「強情もいい加減にしたらどうかね、中佐?」
 潤んだ大きな瞳が遣る瀬なさそうにゆっくりと瞬く。彼は「何か」を理解しようと努力
はしているらしい。
「いや、中佐は状況を認識も把握も出来ていないんだ。だから、ただあるがままに全て受
け入れるだけで、何の反応も−」
 そうだろうともさ、とそいつは冷酷な笑みを浮かべて、軽く閉じている彼の唇を苦もな
く開かせた。
「だが、喋らせるのが我々の任務だ・・・いいか?歯を立てたら承知しないぞ。なぁに、
また息が詰まったら、そこのお優しい軍医殿が診てくれるさ。」

 それから数時間、私は部屋の隅の椅子に畏まったまま、それをただ見ているしか無かっ
た。下士官は出されたのに、私が医務室での待機を許されなかったのは、恐らくルールを
知らぬ私に対する脅しだろう。いや、奴らとて彼に死なれては困る訳だから、或いは本当
に医師が必要だったのかも知れないが、まったく・・・私までノイローゼになりそうだ!
・・・そして、彼はいつものように、その綺麗に澄んだ空色の瞳で遠くを凝視めたまま、
明らかにその行為自体を愉しんでいるゴロツキどもに、何をされてもー打たれても、性行
為を強要されても、逆らおうとしなかった。時折、彼が示す反応はと言えば、耐え切れぬ
苦痛に呻き、眉を寄せる、と言った反射や肉体的なものだけだった。
(やはり彼の心は何処かに行ってしまったらしいな。)
 そうでなければ、とても耐えられまい、と私は暗澹たる思いでそれを見ているしか無かっ
たのだ。折につけ、私が感じたきらめきのような彼の心や感情はやはり気のせいだったの
だろう。だが、その方がいい・・・心が無ければ、人としての尊厳を冒涜されても、それ
に傷つく事は無いのだから。

 下士官に言わせると「毎度の事」なのだそうだが、とにかく私にとって、いや勿論、一
番の被害者である彼にとっても悪夢としか言い様の無い「尋問」が終った。これも言うま
でも無い事かも知れないが、情報部のゴロツキどもー軍服を着込んだ姿を見て驚いたのだ
が、案外と高い階級のろくでなしどもだったーは、何も得られぬまま引き上げて行った。
・・・当たり前だ、ざまあみろ!
 だが、彼は、ワシオ中佐は一体何を知っていると言うのだろうか?
 彼は一体、何者なのだろうか?


 初夏だと言うのに肌寒い陽気を気遣ってか、側付きの下士官が今朝はきれいなインディ
ゴ・ブルーのサマーセーターを着せたらしく、それが彼によく似合っていた。私にはホモ
セクシャルな趣味は無いが、男同士の目から見ても彼はとても美しい。東洋人の血が濃い
のだろうが、肌の色は淡く、目は見事なブルーアイズで、しかし、キリリと目尻が上がっ
ているせいか、髪色も眉や睫毛もダークなせいか、欧米人の印象ではない。表情がほとん
ど動かぬ今は特にそう感じるのだろうが、非常に整った顔立ちをしている彼の笑顔はさぞ
や気分が良いだろうと思う・・・たった一日でげっそりとやつれた横顔を見、リアクター
の表示時間がいつもの倍ほどになるだろうな、などと溜息を吐きながら、私は彼の笑顔を
見たいものだ、と切実に思った。
「呼吸は苦しくありませんか?」
 と、訊ねると、いつものように彼はゆっくりと瞬き、しかし私の問いに自ら答える事は
無い。だが、では−、とサマーセーターを捲り上げて、出来るだけソッと(彼の肩や胸は
幾筋も傷を負っていたし、例えそうは感じないのかも知れないが、私は彼を怯えさせたく
なかったからだ)聴診器を当てる。と、彼は大きく、深い呼吸を繰り返してくれる。以前
の診察の時に、私が臨床経験の無さを自供して、深呼吸を求めた事を彼は確実に記憶して
いるのだ。あの日以来、私が聴き取り易いように彼は必ず深い呼吸をしてくれていた。
 呼吸器は大丈夫・・・心音も安定している。
 もともと痩せていた上に、更に療養生活で筋肉が落ちてしまったのだろうが、彼は元来、
ずいぶんと鍛え上げられた頑健な身体を持ち主だったようだ。
「どこか痛むところは?」
 いずれにしても打たれた傷痕は要治療だな、とカルテに書き込みながら訊く。返事は無
かったが、彼はやや小首を傾げるようにして自分の左の手を見ていた。
「左手が痛みますか?どれ、診せて−」
 持ち上げて見ると、左手首をちょうど腕時計くらいの皮下出血斑がぐるりと取り巻いて
おり、外側はけっこう酷い擦過傷になっていた。恐らく、後ろ手に拘束された時、左手が
上になっていたのだろう。そして、彼が苦痛から逃れようともがいたか、或いはあいつら
が手荒く引いたかして、傷めてしまったのだろう。抗生剤と消炎剤を皮下注射し、左手首
の傷には外傷用軟膏を塗って包帯を巻いた。
 と、理由は全く分からないのだが、彼はその左手首を目の高さに上げて、懐かしい友人
にでもふいに出会ったような・・・ほんの一瞬だったが、確かにそんな不思議な表情を浮
かべた。やはり、彼は本当は・・・?


 予想通り、その日、リアクターが指示した治療時間はいつもの倍近くあった。
「そうしてると退屈でしょう?つきあいますよ。」
 私はそう言って、いつものように彼の横に座ると自分の端末を開いた。軍の慣例に従っ
てカルテを手書きしているが、私達の世代ならばデータで入力、そのまま保存、必要に応
じてはネットを使って検索や確認というのが当たり前だから、私はまずさっき書いたばか
りのカルテを打ち込んでいった。個人的なデータファイルを活用する事はもちろん許可さ
れているし、誰でもやっている事だ。
「うーん、我ながら汚い字だな、何て書いてあるのか判読に苦しむとは。」
 頭を掻いて笑って見せたが、彼はただジッとこちらを見ているだけで目立った反応は、
いや、彼が笑った気がした翌日から、私はリアクターに乗っている彼の横に座り、独り言
を繰り返して来たが、彼は最初、こちらを見ようとしなかったのだ。構わずに私は毎日、
それを続けた。と、彼は徐々にこちらを見るようになって来たのだ。リアクションこそま
だ引き出せないが−彼は私に反応し始めてくれたのだ。
「ねえ、またサクラの話を聞いてくれますか?」
 彼は頷きも微笑みもしないが、ジッと私の顔を凝視め続けている。
(いい傾向だ・・・)
 だから、私は努めて明るい声と表情のまま、ここ数日、一方的に彼に聞かせている話題
をまた喋り出した。


3)

 ハミングバードの羽音にも似たリアクターの作動音が、静寂と白っぽい午前の陽明りに
満ちた部屋に低く響いて、彼はともすれば疲労からか、或いは痛みからか、円やかな頬に
影を落とすほど長い睫毛を下ろしそうだった。
(眠くなったのかな?ふふ、だけど、本当に天使様みたいに可愛いんだね。)
 それなら私の話が彼の子守唄になれば、と、私は少し声を落として、また喋り続けた。
と、こくり、と彼は一瞬、微睡みの淵に沈み、しかし、ハッとしては律儀にまたしっかり
と目蓋を上げて、真直ぐに私を凝視めるのだ・・・何だか無性に意地らしくて、私は思わ
ず彼を抱き締めたい衝動に駆られたが、無論、それを実行に移す事は無かろう。
(眠ってしまっては失礼だと思っているのか?それとも好奇心なのか?)
 私はあまり表情を変化させないように注意しながら、話の続きを聞こうとする彼をじっ
と観察し続けた。

「・・・と言う訳でサクラは「正常ではない」と診断されて、私のいた研究室に回されて
来たんですが、私達はそりゃあ困ったもんです。何しろ珍しい症例で、いや、恐らくこれ
まで誰も診た事が無いと言うくらい、これが変わったクランケだったからです。」
 ね、面白いでしょう?いったい、サクラはどんな患者だったと思います?と、私は彼に
軽く片目を瞑って見せると、夏の空に似た青い青い瞳を子供っぽい感じに丸く見開いて、
彼は少しだけ首を傾げた。
(やはり理解力、好奇心といったものは全く正常なんだな。)
 最初に彼を見た時、私は彼を「正常ではない」と思った。
 しかし、人の心と言うものは明確に定義出来るものでも、また決まった形があるもので
も無い。それは極めて曖昧なものだし、ましてそれが「正常か否か」を判断するのは極め
て難しいものだ。だから、それを診る私達の実際の仕事は、殆どがクランケとの「対話」
と言う事になる。研究室にいた私でもインターン時代は、ほとほと泣きたくなるようなク
ランケ(軍という処はその職務の過酷さ故、実に多くの心を病む患者を抱えているもので、
だからこそ私のような医者や研究が必要なのだ)の相手もさせられたし、特に私は薬物に
頼る事が嫌いな方なので、余計に観察と対話を重要視している。
 私は一方的に喋った。だが、これは彼との「対話」なのだ。彼は彼なりに私の存在を認
識し、彼なりに私に反応してくれているのだ・・・と、信じて−。

「サクラは実に気難しくてね。それでいて、妙に寂しがり屋なんですよ。ね、そういう奴っ
て、いるじゃないですか?中佐の周りにもいませんでしたか?」
 一瞬、彼が懐かしげに唇を綻ばせた気がした。誰かが・・・気難しくて、そのくせ寂し
がり屋な、そんな誰かがきっと彼の傍に居たのだろう。そして、彼は今、その誰かを−明
確にでは無いかも知れないが−脳裏に思い浮かべたに違い無い。それは「嫌な」奴では無
い。何故なら、彼は微笑みに近い表情を閃かせた。その誰かは、きっと彼にとって「好ま
しい」存在だった筈だ。
(頼む、頷いてくれ・・・笑ってくれ・・・)
 夕べの事があった直後だけに、実は私は今朝、彼を診るのが怖かった。
 夕べの彼はまるで抜け殻のようで、ただ肉体的な刺激と苦痛にだけ反応する、哀れな人
形のようにさえ思えたし、実際、その傷痕は彼の身体に刻印されいる。前任の軍医が残し
た記録には、ああした事があった後には強い精神安定剤や鎮静剤を使わなければならなかっ
たらしい・・・まあ、無理も無いが。
 私は最初の診たてを誤ったのではないだろうか?
 彼は確かに事故か何かの理由により、心の中の、外部刺激に対し正常に反応する−こう
言うと難しく聞こえるかも知れないが、極々当たり前の、例えば、話し掛けられたら応え
る、攻撃に対して防御する、といったものの事だ−という部分を欠いたか閉じたかしてし
まっているが、彼の心の殆どは「正常」なのではないだろうか?それを見抜いていたから
こそ、前任の軍医は彼の心を「楽」にする為にその類いの薬を与え、更に「苦痛」を強い
られる彼を・・・その「時」でさえ、澄んだ瞳でいる彼を、見ていられなくなったのでは
ないだろうか?
(あれが繰り返されるのなら、私もノイローゼになっちまうだろうな。)
 ぼんやりとそう考え、内心、苦々しい思いに舌打ちをした。まったく辛い事だが、一介
の軍医である私にはどうする事も出来ない。私に出来る事は、私に与えられた職務を誠実
に果たすことだけなのだ。だから、私は話の内容自体はどうでもいいサクラの話を・・・
少なくとも、今は彼に全てを忘れさせ、彼が取り戻すべき「正常」な人格に近づける為の、
私の観察には役に立っているヨタ話を・・・続けた。

「ね、何かおかしいな、と思ったでしょう?・・・ははは、そろそろタネ明かしをしましょ
うか?実はね、サクラは人間じゃないんです。サクラって言うのは、精巧に作られた人工
知能の愛称なんですよ。」
 最初は全く判別不可能だった、彼の表情−それは実際、在ると言うのはあまりにも頼り
ないものなのだが−が、私にもいくらかは分かるようになっていたから、誰もが笑うこの
部分で当然、彼も彼特有の「笑顔」を見せてくれるものと思っていた。しかし、楽しい話
を聞かせよう、と言う私の目論見はどうやら失敗したらしい。
「あの、ワシオ中佐、どうされました?どこか痛むんですか?」
 彼はいつの間にかリアクターの狭いベッドから起き上がっており、小刻みに震える唇を
噛みしめているではないか。そして、彼の眼差し・・・あまりにも真剣なその眼差しに、
私は思わず怯み、先のようなおよそ間抜けな事を訊いてしまったのだが・・・。
 暫時、私は言葉を失って、ただただ彼の今までとはまったく違う光を宿した、印象的な
青い瞳を凝視め返すだけだった。
 ややあって、彼は極めて明瞭な発音で、はっきりとこう質問した。
「スヴェルドロフ先生、そのサクラにはここの端末からもアクセス出来るのですか?」
「えっ?あの、中佐、あなた・・・あなたは私の名前を−」
「トオル・ニコライビッチ・スヴェルドロフ・・・ですよね?最初に先生はそう名乗られ
ましたが・・・。」
 たった一度、その背に向かって名乗っただけの、誰も一度では憶えない私のフルネーム
を、彼は正確に呼んだ。

 −え?待てよ・・・彼はひょっとしたら・・・?
 では、彼は全てを分かった上で耐えている、のだろうか?
 稲妻に打たれたように、私はそれに気付き、そして愕然とした。


4)

 彼は一体何を知っていると言うのだろうか?彼は一体、何者なのか?

「ええ、そう。このリアクターはISOのメインコンピュータールームに繋がっています
から、ここからもサクラにアクセス出来ます。それにここへ赴任後も、私はまだサクラの
担当を外れたわけではないので・・・」
「では、先生はサクラへのアクセス権をお持ちなのですね?」
 私は彼に気押されたまま頷いて、通常はリアクターを操作するための、或いは彼の診療
データをやり取りするための端末からサクラを呼び出して見せた。
・・・見慣れたパターンが表示され、アクセス権を要求して来る・・・。
『UGA/ISO Internal Identification/Reference Designation : ? 』
 ブランクの?にIDナンバーを入れ、それがアクセス権を持つ識別番号ならば認証され
る、という仕組みで・・・と説明しながら私は自分のIDを打ち込んで見せた。当然の事
ながら『認証』と表示されて、
『こんにちは、トオル。ご用は?』
 と、サクラが応えた。
「これでサクラと話が出来ますが・・・中佐、何かサクラと話したい事でも?」
 彼は頷くと、
「先程、話して下さった " Guessing Game " 、あれの答えが分かった、と言ってみて下
さい。」
 ああ、サクラがノイローゼと診断された原因になったあれか?と、私は笑って彼が言う
通りにキーを叩いた。何度となく繰り返した問答の、見慣れた質問が表示される。
『なぞなぞの答えをどうぞ。』
「さて、答えは何と打てばいいんですか?」
「George、ブランク、それから、Aの大文字。」
「ジョージ、エー・・・ジョージア?でもジョージアのスペルは、Georgia ですよ?」
「いいんです。それで・・・。」
 私はふぅ、と息を吐いて、訳が分からぬままにそれを打った。
・・・George A・・・
 と、
 綺麗なペールピンクだったサクラのパターンが端から崩れ、モニターが黒く塗り潰され
たかと思った、次の瞬間、白い文字がゆっくりと浮いた。

『 I'm George Asakura , Who are you ? ・・・』
 サクラでは無い、別の誰かが目を醒ました事を私は悟った。

 サクラはずっと「Who am I ? 」と問い続けていたのだが、私達にはその答えが分かる
筈も無かったし、サクラをプログラムした筈の天才プログラマーは何故か所在が突き止め
られず、私達にはどうする事も出来なかったのだ。サクラは単なる人工知能ではなく、IS
Oと軍にとって画期的な役割を果たすものだそうで(一介の軍医である私に詳細など分か
りはしないが、既に一部導入された医療管理システムだけを例にとって見るなら、確かに
サクラは−心を持ったコンピューターは−実に有用な存在だった)、それぞれのコンピュ
ーター関係のお歴々も何とかして「答え」を宛てがって、サクラを完璧な人工知能にしよ
うと努力したのだが、何せ雲を掴むようなこの「なぞなぞ」に−どんなに論理的な説明を
しても、サクラを納得させる事が出来なかったので、いつしかこの質問は「なぞなぞ」と
呼ばれるようになり、そしてサクラは「一部運用」のまま、「心療内科」へ回された、と
いう訳なのだ。
(彼はその「答え」を知っていた!彼は一体、何者なんだ?)
 ジッ、とその文字を凝視める彼の横顔は、もう最前までの彼のものではない。サクラが
彼の答えによって別の人格を覚醒させたように、彼もまたそれによって覚醒したのだろう
か?いや、彼の中の「何か」が目を醒ました事だけは確かなようだった。それが「正常」
なものか否かは、私には分からなかったが・・・。

『あんたは誰だ?』
 黙ってモニターを凝視めたまま、やがて彼の手がキーボードに伸びたので、私はそれを
彼に譲った。答えられるのは、彼だけ、なのだから−。
『ケン・ワシオ、識別番号 : GF-0001-A-1、コールサイン : G-1/イーグル 』
 チカ、とグリーンの光が瞬いた。
『俺の識別番号とコールサインは?』
『識別番号 : GF-0002-A-2、コールサイン : G-2/コンドル』
『俺は大人になったら、何になりたかったか?』
 ああ、またこの訳の分からない「なぞなぞ」だ、と私ははらはらしたが、彼の指は淀み
なくキーを叩く。
『サーカスのナイフ投げ。』
『理由は?』
『世界中を旅したいから。』
『おまえは何になりたい?』
『サーカスの猛獣使い。』
『なぜ?』
 一瞬、彼の指が止まった。私はついに彼も答えに詰まってしまったのかと、その横顔を
そっと窺った。と、彼は震える唇をぐっと噛み、必死に何かを堪えているような思いつめ
た表情で、眉を寄せ・・・だが、堪え切れず・・・一筋、涙が彼の頬を伝った。
『ずっと、おまえと一緒にいたいから。』
 チカ、とグリーンの光がまた瞬き、サクラは、いや、今はもうサクラではないが・・・
ゆっくりとこう応えた。
『ケン!会いたかったぜ、ケン!』

 彼はうん、と頷いて、それから私がぜひ見たいものだと願った笑顔を・・・輝くように
美しい笑顔を見せて、もう一度、確と頷いた。


5)

『ケン、ケン、元気なのか?おまえの顔が見たい、声が聞きたい。そこにはもっと気の利
いたインターフェイスは無いのか?』
『無い。文字でしかおまえとは話せないが、俺は元気だ。心配するな。そんな事よりも、
ジョー、任務だ。』
 任務?いったい、彼は何を−?
 それはサクラも同じ思いだったらしい。
『任務だと?いまさら俺達に何の任務があると言うんだ?』
 端末のモニタの前に並んでいる彼の横顔をちらっと盗み見たが、彼はもう笑ってもおら
ず、だからと言って何かを思い詰めた風でもなく、恐らくはかつてこうし続けて来たのだ
ろうと思われる、少し厳しい、だがどちらかと言うとむしろ淡々とした表情で、次々に私
には分からない何かのコマンドを打ち込んで行った。
 ややあって、彼の手が止まった。
「ジョー・・・」
 無意識に発したのだろう。吐息のように微かな声で、彼はそう呼び、一瞬、瞑目した。
しかし、すぐに決然として目を上げると、再びキーに指を滑らせた。
『コマンドを実行せよ。』
 チ、と疑るような光が明滅し、
『ケン、おまえ、幸せか?』
 と、奇妙な質問を発した。サクラはジョーに成っても相変わらず訳が分からないな、と
私は首を捻ったが、それも何かの暗号なのだろうか?彼は躊躇う事無く、答えた。
『ああ、幸せだ。ジョー、リーダーとして命令する。コマンドを実行せよ!』
 チカ、とグリーンの光が瞬き、サクラ、いや、ジョーも今度はそれに応じた。
『・・・ラジャー、コマンドを・・・実行する。』
 ほぅ、とひとつ息を吐いて、彼は微かな笑みを浮かべると、頼んだぞ、ジョー・・・と
呟いて、手早くモニタをオフにした。

「スヴェルドロフ先生−」
「トオルでいいですよ。大丈夫ですか?」
 リアクターは特殊な医療装置で、治療作動中にリアクターから離れる事は禁物だと知っ
ていたのにも関わらず、私は彼を止める事が出来なかった。いや、それさえもすっかり忘
れて、サクラ=ジョーとのやりとりの後、滑り落ちるように倒れてしまった彼に驚き、慌
ててベッドに戻すという最低の主治医ぶりだったのだ。
「トオル先生、勝手な事をしてすみませんでした。もう大丈夫ですから−」
 苦しいだろうに、彼は微笑みまで浮かべてそう言ってくれたが、容態は最悪と言う状態
で、私は彼が眠った後も傍を離れる気にはならなかった。リアクターによる深い睡眠状態
に在る彼は見慣れている筈だったが、今の彼は昨日までとはまったく違う。そう、何と言
うのか・・・穏やかな、本当に何の翳りも迷いも無い、満ち足りた美しい顔で静かに目を
閉じている。
 心の平穏を取り戻してくれたからだろうか?
 これからは毎日、あの笑顔を見せてくれるのだろうか?
 ・・・ぼんやりとそんな事を考えていた私を、
『トオル−』
 と、呼ぶ声がした。
「え?」
 誰が、と振り返ると、先程、彼がオフにした端末にグリーンの光が明滅していた。
『トオル、俺だ。こっちへ来てくれ。』

「サクラ?いや、ジョーなのか?ワシオ中佐は治療のために眠ってしまったが−」
『ああ、催眠モードを深くしたからケンは暫く目を醒まさないさ。通信を切ったつもりだ
ろうが、リアクターが作動している限りはこちらから操作出来る仕組みらしい。だから音
声スイッチを入れて、あんたを呼んだんだ。』
 そうか、と頷いて私がモニタの前に座ると、パッと病理検査データが表示された。
「これは中佐の・・・」
『そうだ、それからこれも−』
「これはさっき入力した私のカルテじゃないか。」
『なあ、ケンのこの怪我はいったいどうした事だ?奴は何をされているんだ?』
 それはつまり・・・と、口籠りながらも、全てをスキャンし、またデータを読んでいる
コンピューターを相手に隠し事が出来る筈も無く、私は昨夜見せつけられた、あの酷い有
り様を洗い晒い話した。
 チカ、とグリーンの光が涙ぐんだ気がした。
『あいつ、ケンの奴・・・「幸せだ」なんて言いやがって・・・』
 私にも彼が「幸せ」だとは到底思えないが、それは何かのテクニカル・タームなんじゃ
ないのか?そうじゃないとすると、君はいったいどういうプログラムなんだい?−私がそ
う訊ねると、ジョーは低く笑った・・・そう、笑ったのだ!
『トオル、俺はただのプログラムじゃないんだ。専門家じゃないからよくは分からんが、
俺はジョーって男の頭脳をそっくりそのままコピーしたAIなのさ。』
「驚いたな・・・でも、サクラが妙に人間臭かったのもこれで納得がいったよ。サクラは
君の一部分なんだね?でも何故、最初から君じゃなかったんだろう?」
『このAIに俺をコピーする際、「ジョー」全体が覚醒しないよう意識的に隠したんだと
思う。そしてジョーを、俺を目覚めさせる事が出来るのはケンだけ、と言う訳なのさ。』
「そうか!あいつらが中佐から聞き出そうとしていたのは、その情報だったのか。」
『ああ。だけど、それにはまずケンの封印を解かなければならなかったのさ。俺達はあの
時・・・』
 それからジョーは私に彼と、ケンと別れた朝の事を語った。
...............................................................................................................................................................
  「鎮静剤が効いてきました。この状態でかけた催眠暗示は深層意識下に記憶され、封印を
解くまで保存されるでしょう。」
 ドクターの声は沈鬱だが、冷静だった。だから俺は、きっと巧く行くさ、と自分に言い
聞かせて、ケンの左手首からもうすっかり身体の一部になっているシルバーブルーのブレ
スレットを剥ぎ取った。
「・・・めだっ、ジョー、返せ・・・」
 朦朧とした意識に抗うようにケンは微かな抵抗を見せたが、俺はその手首を押さえつけ
て、奴の耳の中に繰り返した。
「ケン、手枷が再びおまえのここに戻るまで、全てを忘れろ。何もかも忘れて、何も考え
ずに幸せに生きるんだ。」
 そう、過ぎ去った戦いも、哀しみも、何もかも忘れて・・・と、俺はあいつに言い聞か
せ続けた。−何もかも?−そうだ、辛い事は全部忘れるんだ。俺はおまえさえ・・・
「・・・ジョー、俺を置いて行くな。」
 ゆっくりと瞬いて、澄んだ青空のような瞳がいつまでも俺を追った。
「行かねえよ、俺はおまえと一緒にいるさ。だから、ケン、もう何も考えるな。」
 やがて深い眠りに落ち、封印されたおまえに俺は接吻けて、そして別れを告げた。
 嘘をついた訳じゃない。
 おまえに接吻けるあいつを俺よりも愛して幸せに生きろ。
 俺はおまえさえ・・・
..........................................................................................................................................................

「そうか、彼の心は深層催眠で封印されていたのか・・・。」
 私には納得がいった。彼の知性や記憶、そして心はやはり「正常」だったのだ。だが、
与えられた暗示によってそれらが巧くリレーしなかったのだ。つまり、彼は日常の生活で
も昨夜のような場合でも、「何を質され」、「何をされているか」を理解しても、「どう
応えるか」に結び付ける事が出来なかったのだ。−何て事だ、と呟く私にジョーは言葉を
続けた。
『あんたがケンの封印を解いたんだぜ、トオル。』
「私が?」
『ケンの左手首さ。確かに俺達はいつもあれを包帯で隠したが、まさかそれで封印が解け
るとは思わなかったぜ。ブレスレットを持っているのは、あいつの筈だからな。』

 あいつ、と言うのは誰の事なのだろう?
 そして、彼は、ケンは一体何を知っていると言うのだろうか?
 ケンは一体、何者なのだろうか?


6)

「ジョー、聞かせてくれないか?一体、何があったと言うんだい?」
 私はそう訊ねると、眠っている彼に視線を移した。
 ケンは晴れやかな、そう、そんな表現が相応しいと思われる表情で静かに目蓋を閉ざし
ている。眠りの中で、彼はどんな夢を見ているのだろうか?そこにはいつもジョーがいる
のだろうか?・・・願わくばそうであって欲しい−と、私は祈らずにはいられなかった。
何があったのかは知らないが、そうでなければ寂し過ぎるではないか。だが、一体、何故
「ジョー」の頭脳はAIにそっくりコピーされ、そして、何故「ジョー」は隠されていた
のだろう?・・・二人の人格を無視して、そして、ケンの心を封印してまで隠し通さなけ
ればならなかったものとは、何なのだ?
「私には知る権利など無いのかも知れないが、しかし、君が話している内容がもし事実な
らば、それは人として許される事ではないよ・・・」
 胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。
『ありがとうよ、トオル・・・俺達の為に泣いてくれる奴がいたとは、な。』
 チカチカとグリーンの光がゆっくり明滅していた。
 もしかしたら、ジョーも泣いていたのかも知れない。

 暫時の沈黙の後、ジョーが言った。
『トオル、あんたに頼みがある。』
「え、何だい?」
『もうすぐケンの治療が終る。そうしたらあいつを、力づくでリアクターから引き離して
くれ。』
「力づく、って、でも何故?」
 治療が終って覚醒すれば、彼はいつだってベッドからすぐに降りて−、と私がぶつぶつ
と呟いていると、ジョーは苛立たしげに言葉を続けた。
『さっきケンが入力したコマンドを教えよう。あいつが俺に実行を命じたのは、Gプロジェ
クト及びオペレーションHSに関する全データの完全消去だ。いいか、トオル、よく聞い
てくれ。俺とケンはこの2つの最高機密の中心に存在しているんだ。だからつまり、この
2つの全データを完全消去すれば、俺とケンの「存在」も消える事になる。』
 最高機密のGプロジェクトとオペレーションHS?何だい、そりゃ?一介の軍医である
私などは、確かに聞いた事も無い計画と作戦だけど・・・、
「ジョー、「存在」が消えるってどう言う事だ?ただ単に記録を抹消するだけ、じゃない
のか?ま、まさか・・・」
 嫌な胸騒ぎがした。
 その時、きっと私は青褪め、震えていたに違いない。
『その、まさか、さ。俺はケンのスリープモードを更に深くし、あいつの生命反応が完全
に消えたのを確認した後、最後に俺自身のプログラムを全て破壊する。それがあいつが俺
に「実行」をコマンドしたタスクだ。』
 ジョーが低い声で答えた。
「ジョー、やめろ!やめるんだ!深催眠って、それは安楽死の手順じゃないか?ケンは、
ケンはそれじゃあ・・・」
 私は絶句した。
 それじゃあ、ケンは覚悟の上であんなにも晴れやかな顔を?
 自分の生命を奪えとコマンドして、彼は安心したように微笑んだと言うのか?
 何故・・・?

『ふふっ、昔からケンは任務の為なら笑って死ねる奴なのさ。』
「任務だと?そんなものよりも命の方が大事だっ!やめろ、記録とプログラムを消せば、
それで済む事じゃないか?」
 機密なんか、任務なんか、クソ食らえだ!と、私は叫んだ。
『トオル、もう遅い。言った通り、これらはケンのコマンドで、AIの俺にとってあいつ
の命令は絶対なんだ。だから俺はケンの命令通り、既にこれらを実行中だ。ただ、随分と
でかくて複雑なデータの上に、あっちこっちにバックアップやら何やらが沢山あるんで、
幸いな事に時間がかかっている。だから、トオル、ケンを助けてくれ。俺はあいつの命令
には逆らえないようプログラムされている・・・だが、俺はやっぱりあいつを・・・ケン
を殺す事は出来ねえ!」
「そうだ!人の生命を奪うなんて絶対にしちゃ駄目だ。ジョー、任せてくれ。ケンをリア
クターから引き離せばいいんだな?」
『ありがとう、トオル。タイミングは俺が知らせる。すまないが、手を貸してくれ。』
「いいとも。それにケンが生きていれば、「ジョー」というAIは消えても、いつかは君
本人がケンに会えるさ。そうだろ?」
 チ−ッ、とグリーンの光が流星のように流れて、消えた。

『そうだな・・・いつか、俺はあいつに、ケンに会えるのかも知れないな・・・』
 一瞬、ジョーと言う男は、もしかしたらもうこの世に存在しないのではないだろうか?
−と、私の脳裏をそんな思いが過ったが、いや、そんな事があるものか・・・きっといつ
か、ジョーとケンは巡り会えるさ!と、頭を振った。そうでなければ、いや、少なくとも
そう信じなければ、哀し過ぎる。
『トオル、ケンを頼んだぞ。オペレーションHSの全データを消去すれば、リアクターも
作動しなくなる。ケンの治療をよろしく−』
 ジョーの言葉に私が、ああ、と頷いたその時だった。
 リアクターが、PPP−と、小鳥の囀りに似た音を発し、モニターにはケンをスキャン
したデータが次々と表示され始めた。
 最後の治療が終了したのだ。
 ALB , ALP , ALT , AST , GLOB , TBIL , BUN , Ca , Na , K , CO2 , RBC , WBC ,
 Ht ,Hb , PLT ・・・ - NORMAL - ・・・
 毎日毎日、殆ど見慣れてしまったデータの中の彼の数値を確認し、ホッ、と胸を撫で下
ろしながらも、私はジョーの合図に備えてケンの肩を抱いた。
「ん−」
 ケンの長い睫毛が微かに揺らいだ。
 彼は目覚めようとしている。
『トオル、今だっ!』
 ハッ!として、私はそれでも出来るだけ素早く、ケンをベッドから抱き起こした。
『急いでくれ!リアクターが俺からのコマンドを実行し始めたぞ!』
 チラッ、とモニターに目を遣ると、そこには二度と目にしたくないファイルが表示され
ていた。それは、目覚めようとする彼を再び眠りの深淵へと誘い込むための手順だ。生き
物は睡眠下では活動時と全く異なる脳波を示し、代謝や呼吸数を抑制する。それは睡眠の
本来的な作用が、再び覚醒して活動する為の休息だからだ。しかし、例えば薬物で、また
他の人為的な方法で、睡眠をどんどん深くして行くと・・・それらは生存に必要なレベル
以下に下がり、やがて呼吸は止まり、心臓は動く事を止め、二度と目覚める事の無い眠り
へと・・・
 駄目だ!そんな事を実行させるものか、と私は彼の身体を遮二無二、ベッドから引き摺
り降ろした。と、瞬時にして状況を悟ったのか、ケンはカッと目を開くと、
「ジョー、俺を置いて行くなっ!」
 血を吐くような声でそう叫んで、私の腕から逃れようと盛んにもがいた。
「ケン、いけない!駄目だよっ!」
 私も必死だった。
「放して下さい!あいつは、ジョーは俺をまた−死ぬ時は一緒だと誓ってきたのに!」
 自分のどこにこんな力があったのか、と思うほどの力で、しっかりと抱き締めた彼の痩
せた身体が、私の胸でがくがくと震えていた。
「ジョー、ジョー、ジョーッ!」
 空色の瞳から溢れて頬を伝う涙が、彼が叫ぶたびにまるで光の切片のように、きらきら
と私の目の前で踊った。
 チカッ、とグリーンの光が微かに瞬き、何処か遠くから聞こえるようなジョーの声が、
小さく呟いた。
『あばよ、ケン・・・愛してるぜ・・・』
 そして、それまで目が回るほど、忙しく次々と何かを−恐らく、ケンが実行を命じたと
いう最高機密だかの膨大なデータの消去記録だったのだろう−表示していたモニターが急
に真っ暗になった。
 ジョーが自らを完全に消去し終えたのだろう。
「ジョーッッ!」
 ケンの慟哭だけが、止む事無く、響いていた。
 いつまでも・・・いつまでも・・・。


7)

 潮騒、砂浜、青い海。
 濃緑の蔦葉に覆われたその白壁の古い館に、先般の戦争の英雄であるその将官が訪れた
のは、夏の終り、空が日毎に高さと青さを増す頃だった。

 ついぞTVニュースでしか見た事の無いその将官の仮面のような無表情さと、生まれた
時から着ていたんじゃないか、と思うほどしっくりと無駄の無い長身に馴染んだオリーブ
グリーンの軍服に私は些か怯んだが、彼は、
「変わらんな、ここは。」
 などと言いながら、慣れた足取りで歩を進めた。
「初めてお目にかかります。現担当軍医のトオル・ニコライビッチ・スヴェ−」
「ここの事は把握している、挨拶はよい。で、ワシオ中佐は?」
 失礼な奴だな、と思ったが、所詮、天下国家を動かしている雲の上の住人だ。腹を立て
ても勝ち目はあるまい−と、私は大人しく引き下がった。代わって、
「こちらです。」
 と、ケンの側付きの下士官が控え目に答えてくれた。

 落ち着いた声と断固たる物言いが、如何にも切れ者の将官らしい。私は彼がケンの後ろ
楯だ、という以外に詳しい事など何も知らないし、またそれが何故か、という理由も二人
の関係も知らない。ニュース等から得たごく一般的な情報では、彼は戦時を利用してIS
Oが開発した新型兵器を極秘裏に私物化しただの、その為に前ISO長官を見殺しにした
だの、それを使って軍事政権を樹立しようと企てただのの疑いで、軍事法廷に引っ張り出
されていたのだが・・・一体、どれが真実なんだか?いや、どれも真実では無かったのだ
ろうか?噂されている通り、よくある上層部の権力争い、派閥間の揉め事だったのかも知
れない・・・結局、事件は空騒ぎのまま収束し、彼はその輝かしい経歴に染みひとつ付け
る事無く、異例の早さで復帰したのだ。
 私には真相も、またいずれの派閥が台頭しようとも興味も関係も無いが、彼がまた殆ど
意のままにその権力を揮える、というのは大いに注目すべき点だった。何故ならば−
「病状が思わしくないそうだな、軍医?」
「ええ、リアクターが作動しなくなりましたので−」
 あれ以来、リアクターによって、日々、修復されていたケンの細胞は壊れて行くばかり
で、進行を防ぐ手段はありません。ですから、引き起こされる様々な症状を対処療法で抑
えて行くのが精一杯の手当て、というのが現状でして・・・と、廊下をケンが寝ている部
屋へと歩きながら、容態とどんな治療をしているか、などと言った事を報告すると、彼は
きっぱりとした声で、
「案ずるな、すでにリアクターの復元はほぼ完了している。ここの端末を再設定すれば、
今日からでもまた治療出来るだろう。」
「では、私の報告書をお読み下さったのですね?」
 把握していると言っただろう、とうるさそうに顔を背けられてしまったが、私は内心、
やった!とガッツポーズを取ると、現金なもので笑顔まで浮かべて会釈をした・・・あな
たの力と人員と予算を持ってすれば、きっとリアクターは直る。そして、リアクターが直
れば、ケンは条件付きではあるが、健康を取り戻せるのだ・・・
 いいぞ!さすがですなぁ、閣下。

「ケン、閣下がお見えだよ。気分はどう?話が出来るかい?」
 大きなベッドの白いシーツの上に、上半身を起こしていたケンは彼を認めると、
「やぁ、ご無事でしたか。」
 と、まるで窓から見える晴れた青空のように綺麗に澄んだ瞳を真直ぐに向けて、微かに
その可愛らしい口許を綻ばせた。
「具合はどうだ?」
「別に大した事はありませんよ。動くと苦しくなるから、こうしているだけで−」
 ふふっ、と自嘲って、彼は視線を落とすと・・・

  ..................................................................................................................................................................

 あの日、死んでしまうのではないかと思うほど泣き喚いて・・・それでもケンは全てを
冷静に受け止める事が出来たのだろう。白々と夜が明ける頃、付き添っていた私を、
(トオル先生・・・)
 と、呼んだ。知らぬ間に舟を漕いでいた私はハッとして目覚めると、薄い黎明の光の中、
職業的な条件反射で、まず彼の脈を取った。
(トオルでいいですよ、中佐。ああ、良かった、脈拍が落ち着きましたね。)
(俺もケンでいいです。トオルさん。ずっと付いていて下さったんですね?ありがとうご
ざいました。)
 ひどく掠れてはいたが、静かな、そして落ち着いた声だった。
 辛かっただろうに・・・何と言う精神力の持ち主なんだろう!−と、私は改めて彼を凝
視めた。彼の眼差しは・・・そう、やはり声同様、穏やかで・・・だがそれは、大きな失
望を味わった者に特有の、諦観から来る穏やかさかも知れないな、と感じた。それが何と
も可哀想で、私は手を伸べるとケンの額に垂れた焦茶色の前髪を掻き上げて、そのまま手
を滑らせ、青褪めた冷たい頬を撫でてやった。
(・・・暖かい・・・)
 彼は私の手に自分の手を重ねると、そのまま、じっと私の掌に頬を押し当てて、そう呟
いた。
(ジョーの手も、いつも暖かかったんです。)
(ケン、私の手で良かったら、いつでもこうして−)
 ええ、と少し微笑んで、彼は掌にさらに頬を埋めるようにしながらぽつりと−
(また・・・置いて行かれちまった。)
 もうすぐ陽が昇るのだろう。海の上で鴎が盛んに鳴いていた。
(親父も、お袋も、それからせっかく会えたのに親父は、俺の為に。そしてあいつ・・・
ジョーも俺に黙って、ひとりで・・・でも、ジョーは帰って来たんだ。思わずブン殴っち
まったけど、嬉しかったなぁ、あいつにまた会えた時は・・・)
 瞳を閉じて、彼は思い出を辿るように小さな声で話し続けた。忘れる事の出来ぬ哀しみ
を、断ち切る事の出来ぬ思いを、彼はひとつひとつ言葉にして、それらを乗り越えようと
しているのだろう。黙ったまま、私は頬に当てた手に軽く力を込めた。
(・・・博士、もうひとりのお父さんだった博士。助けたかったのに・・・助けられなかっ
た。俺の目の前で撃たれて・・・それで、それで−)
 彼は口籠ったが、やはり話してしまいたいらしい。無音の言葉を造型して、唇が微かに
動き続けた。いや、特に「私に」というのでは無く、「誰かに」聞いて貰いたい、そんな
思いというのは誰にでもあるのではないのか?
(うん、それで?ケン、良かったら、私に話して。医者には守秘義務があるから、何も心
配は要りませんよ。)
 再び涙に濡れた睫毛を上げて、彼は真直ぐに私を見、やがて迸る感情を抑え切れぬかの
ように、それからの事を・・・特殊な任務に就いており、ずっと戦って来た事、ジョーに
諸刃の剣を渡したくは無かったが、それを止められなかった事、その為にここへ隔離され
て、封印された事、何もかも解っていたのに、どうにも出来なかった事、その封印が解け、
そして果たさねばならぬ任務の為に、ジョーを消去し、自分だけ残ってしまった事、等を
・・・断片的だったが、私に訴えてくれた。
(分かりましたよ、ケン。何故だろう?と疑問に思っていた事が、だいたい解りました。
あなたはその諸刃の剣の実験の被害者なんですね。で、ジョーはそんなあなたを心配して、
身替わりに・・・)
 ケンは急に私の手を頬から離すと、スッ、と身体を引いた。
 おや?と奇異に感じたが、こうした時にはこちらから追いかけてはいけない事も知って
いるので、私は笑顔で、もう終ったんですよ、ケン、もう大丈夫、と頷いて見せた。戦争、
親しい者との決別、と言った極めて過酷な状況に置かれて来た彼にとって、こんな言葉は
慰めにもならないかも知れないが、だが案外と無駄でもないのだ。

 少しの間、ケンは黙ったまま、明るさを増して行く窓を眺めていた。
 そして、私を振り返り、
(トオルさん、聞いてくれてありがとうございました。)
 と、しっかりした口調で礼を言った。
(とにかく身体を治しましょう。きっとまたいつか、ジョーに会えますよ。)
(・・・ええ、そうですね。)
 ちょうど、差し込んで来た朝の光の中で、ケンは美しい笑顔を見せて・・・

  ..........................................................................................................................................................

 言葉の通り、同行した担当官がテキパキとリアクターを甦らせ、再設定して行くのを、
私はうっとりと見ていた。もうこれでケンは苦しまなくて済む・・・呼吸が出来なくなっ
て倒れた彼の唇を割って、マウストゥマウスで息を吹き込むなんて、もう真っ平だった。
どうせ接吻けるのなら、もっとロマンティックな方がいいに決まってる・・・そんな馬鹿
げた妄想にニヤけるほど、私は幸せだったのだが−

「いやです!」
 ケンの激しい怒声に、私は驚いて振り返った。
 え?一体、どうしたと言うんだ?
「ケン、君はジョーに会いたくないのか?」
 相変わらずの無表情な横顔が、冷たい声で訊いた。
「設定が終りました。サクラを呼び出します。」
 担当官がサクラへとアクセスしている・・・ああ、それじゃサクラも復元出来たのか!
素晴らしいぞ、と私は端末に近づいて覗き込んだ・・・懐かしいペールピンクのパターン
が現れ、
『こんにちは、ゲール担当官。ご用は?』
 と、これまた懐かしいサクラの声と(ケンはサクラの音声を聞くのは初めてだろうが)
いつもの文字が表示された。
「ケン、Guessing Game の答えを。「ジョー」を目覚めさせるんだ。」
「そんなもんは・・・忘れちまったよ!」
 どうしたって言うんだ?ケン・・・ジョーに会えるって言うのに−
 私にはさっぱり訳が分からなかった。
「押さえろ。」
 控えていた兵士達が飛び出そうとしたケンをシーツに押さえ込み、パジャマの左袖を捲
り上げた。ケンは歯を食いしばって、抗っているが、屈強な兵士達に適う訳も無い。ケン
の痩せた左手首にスチールブルーのブレスレットを嵌めながら、
「これで封印は解ける筈だ。さぁ、「ジョー」を起こせ。」
 と、彼はあまり表情を変えぬまま、再度命じ、更に言葉を続けた。
「首尾良くデータを消去したつもりだろうが、サクラは既に運用されていたプログラムだ。
張り巡らされた膨大なネット上から、あらゆるサーバー・アーカイブから、全てを消す事
は不可能だったようだな。時間はかかったが、我々はサクラの断片をサルベージし、再構
築した。」
「ジョーはもういない!」
「いる。サクラのAIが生きている限り、ジョーを、そして「ジョーのボディ」を部分的
に覚醒させる事は可能だ。全てで無くてよい。我々に必要なのは−」
「諸刃の剣を振いさえすればいいのか?俺達はただの兵器なのかっ?」
 ケンの怒号に、さすがに件の将官も一瞬、くっ、と唇の端を噛んだが、それよりも驚い
たのは私の方だった・・・彼らが「兵器」だって?それじゃ、ケンとジョーは・・・

「トオルさん、あなたには知られたくなかったけれど・・・俺の手は血塗れなんだ。俺は
ね、この手で沢山の命を・・・任務だから、と、俺は大勢の人を・・・トオルさん、俺は
兵器開発の犠牲者なんかじゃなくて、新型生化学兵器そのものなのさ!」
 ケンはそう言い放って、俯くと、ふっ、と笑った。
 私は人があんなにも哀しそうに笑う顔を見た事が無い・・・後にも、先にも。
「ケン・・・うわっ!」
 唐突に後ろから拘束されて、私は情けない声をあげてしまった。
「スヴェルドロフ軍医、君は見ていた筈だな?報告書にはそう書いてあったが−」
「!?」
「ケンが非協力的なので君に教えて貰う事にしよう。なに忘れていても構わん。君は我々
の尋問の様子もよくご存知だったな。君が答えられなければ、きっとケンが答えてくれる
だろう。」
 薄い唇の端が微かに上がったのは、きっと彼の笑顔なのだろうが・・・恐怖に身体中が
竦んでしまって、私は声も出せずにただ瞬きを繰り返すばかりだった。
「汚いぞっ!軍医を放せ!あんたを尊敬していたのに・・・だから何もかも失くしても、
あんただけは助けたかったのに・・・こんな事を・・・」
「ケン、Gプロジェクトが消えてくれたのは確かに私にとって大助かりだったが、勝手に
オペレーションHSと「ジョー」まで消去されては困る。だが、安心しろ。「ジョー」は
あくまで抑止力であって、積極的な軍事作戦には使わん。」
「どっちでも同じ事だっ!・・・あんたは「誇り」の為に飛ぶ男だった筈だ。いつから
「欲望」の為に戦うようになったんだ?」
 色の無い瞳がスッと細められ、彼は確かに一瞬、苦渋の表情を浮かべたが、すぐに背筋
を伸ばすと乾いた声で言った。
「一介の戦闘機乗りだったなら、な。だが、もう後戻りは出来ん。」
 そして、やれ、と屈強な兵士達に命じた。

 端末の前に無理矢理、座らされたケンは震える指で自らのIDを入力した。
『認証。こんにちは、ケン・ワシオ。ご用は?』
 - Guessing Game ・・・と、打ちかけた時、サクラは突然、アラートを発した。
「どうした?」
『ケン・ワシオは呼吸不全の徴候を示しています。リアクターによる治療を優先してくだ
さい。』
「サクラを独立させられないのか?」
「駄目です。サクラの中に保存されていたデータからリアクターを復元しましたから、現
段階ではサクラを切り離す事は出来ません。」
 相変わらず優しいな、サクラ・・・と、私はそれが妙に嬉しかった。AIでありながら、
サクラが「相手」と「感情」を最優先して「判断」するという、「人間」さながらのプロ
パティを持っているのも、サクラは「ジョー」だったからなのだろう。ならば、今度のリ
アクターも・・・と、考えていた私にそのベッドの上からケンが、
「今までありがとう、トオルさん。」
 と、小声で言ってそっと微笑み、それから静かに目を閉じた。
 え、いきなり何を?・・・ケンはどうして、あんな事を?・・・と、胸騒ぎを覚えた私
が慌ててモニターに目を遣ると、そこにはあの表示が−!
「いけない!」
 私はケンに飛びついて抱き起こそうとしたが、たちまち阻止されてしまった。
「馬鹿、あの表示が読めないのか?ケンが死ぬぞっ!」
「リアクターを停めろ!」
 と、さすがに切れ者に相応しい察しの良さで、将官が素早く命じてくれた。
「解除出来ません。」
「どけっ!」
 逞しい腕がケンの身体をリアクターの狭いベッドから抱き上げる。
 間に合ったか?
「ケン!」
 だが、ケンは既に深い眠りの底へと誘われてしまっていた・・・。


★Which epilogue do you like? > EPILOGUE - 1 - or EPILOGUE - 2 -



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