Keep your distance !
- 近寄るな! -

by さゆり



1.

 その日はいつにも増して忙しく、俺は昼飯抜きで―いや、朝飯も食ってなかったか?ク
ソッ!―空腹を訴え続ける胃を2箱ほどのマルボロの煙りで誤魔化して、ホシと思しき男
を追い続けていた。
「どうも。コーヒーブレイクですか?」
「ああ、まあね」
 とっぷりと陽も落ちた頃、水分の補給と眠気覚ましに立ち寄ったコーヒースタンドで新
入りに出会った。
「進展がありませんね」
「そうだな」
「サイコ野郎め、どこへ行きやがったんでしょう?」
「ったく危ないのが増えたぜ。お陰でこっちは飯を食う暇もありゃしない。ウチへ配属さ
れるなんて君もツイてないなあ」
 と奴が何と言ったか細長いドーナツのような菓子をラテで流し込むのを横目で見なが
ら、俺はドライエスプレッソをダブルで、とそれだけを注文した。奴が頬張っている菓子
にたっぷりとまぶされたシナモンシュガーとラテの甘いミルクの香りには大いに心惹かれ
たが、まだ何があるか分からない状況下では腹に物を入れる気にはなれないし、実際そう
しない方が良い場合が多いという事は身に沁みている。俺は新米ではないのだ。
「とりあえず血糖値を上げとこうと思いましてね。腹ペコのままホシを発見したらブッ殺
しちまいそうだから―」
「ははは、言えてるな」
 視線に気づいたのか奴はそんな言い訳をし、俺は笑った。
 しかしそのほんの半時間後、俺達が追い詰めたホシを射殺したのは、決して腹ペコだっ
たからでも1日中街をくまなく引き回された腹イセからでもなかった。
 - 近寄るな! -
 必死の形相でそう怒鳴ったそいつはすっかり正気を失くしており、しかも悪い事にサブ
マシンガンを持っていたのだ。市民の安全を守るために発射された5発の銃弾を喰らって
冷たい舗道に伸びたそいつを見下ろして俺達は溜め息を吐いた。不謹慎な話しだが、ホッ
とした、さあ飯にするか、やっと帰れるぞ――以外の感想を持つ同僚はいないだろう。む
ろん俺とて例外ではないが‥‥。
「サブマシンガンとは物騒だな。おい、この火器の出所を調べといてくれ」
「はい」
「チーフ、もう運んでもいいですか?」
「ああ、いいぞ。ちぇ、今度からは頭じゃなくて心臓を狙え。こんなに散らかしちまった
ら身元の確認が面倒だろうが―」
「うっぷ‥‥」
「おっと、大丈夫か?」
 俺は青褪めて口を押さえている例の新入りにウインクして、
「こういう時、甘い物は胃に来るもんだ。ま、お大事にな」
 と手を振ってやった。さあて帰るとするか、と歩き出すと、朝から健康を害する恐れが
ある気体しか与えられていないぞ、と俺の胃が抗議の声を上げた。
 - 何か美味い物でも食って行くかな? -
 どうせ家にはロクなものがないし‥‥と冷蔵庫やキッチンを思い浮かべた俺は急に彼の
存在を思い出した。
 - 近寄るな! -
 何故か常にそんなよそよそしい雰囲気を強く漂わせ、そのクセ俺のベッドに潜り込んで
は安心しきったように眠る不思議な彼は今夜も俺の家にいるのだろうか?とそれが無性に
気になって、俺は盛んに苦情を申し立てる胃をなだめすかしてとにかく帰る事にした。な
あにこの時間だ。彼も腹を空かせているに違いない。だから彼を誘って美味い物を食いに
行けばいいさ、と‥‥
 
 案の定、彼は家にいた。だが俺の思惑は見事に外れ、
「行きたくない」
 と彼は俺の提案を無愛想に却下してそっぽを向いた。テーブルの上には1/3ほど残っ
たワインのボトルとマグカップが1個。なぜだか知らないが彼はワインもバーボンもコー
ヒーもマグカップ1個で済ます。俺がグラスを出してやればそれを使うから何かを警戒し
ているという訳ではなく、強いて理由を考えるならば遠慮、または面倒だから、といった
ところだろう。とにかく彼もワイン以外を口にした形跡がない事を確認した俺は、
「でも腹は空いてるんだろう?少なくともおまえは陽があるうちにここへ来て、俺のベッ
ドで一眠りした後、そうたぶん2時間くらい前に起き出して冷蔵庫にあったワインを開け
た‥‥違うか?」
「何でそんな事が?」
 振り返った大きなブルーの瞳が可愛かった。
「俺はこれでも現職の刑事だぜ、そんな事も分からんでどうする?表の灯りが点いていな
いイコールおまえは鍵穴が見える時間にドアを開けた。明け方の緊急コールで起き出した
まま出掛けたベッドにカバーが掛かっているイコールおまえはベッドを使った。そしてお
まえがワインを2/3飲むのに要する時間は――」
 俺が種明かしをしながらボトルを取り上げようと腕を伸ばすと、
「食事に行くんなら上着を換えた方がいいぜ」
 唐突に彼がそう言い出した。確かにいつもなら真っ先に上着を脱ぐのだが、今夜はまた
すぐに出掛けるつもりだったので着たままだった。しかしなぜ彼がそんな事を言い出した
のか、その真意を計りかねて、
「うん?」
 と首を傾げた俺を膝を抱えて座っている椅子の上から斜めに見上げて、彼はクンッと少
しわざとらしく鼻を鳴らした。
「硝石、硫黄、カーボン‥‥イコールあんたは脇に吊ってるS&W  M5904を撃った。まだ
そんなに時間は経っていない。1時間くらい前かな?」
「へえ、こりゃ驚いたな」
「そんな物騒な匂い付きの上着で食事に誘う方が驚くぜ」
 ちぇ、と苦笑しながら俺はそいつを脱いでクローゼットから別の上着を出した。
「クリーニングタグ付きの上着ならいいだろう?さ、行こう。とにかく腹ペコなんだから
これ以上ゴネると承知しないぞ」
 彼は少しの間、何だかひどく怒ったような顔で俺を見ていたが、やがてフッとその表情
を和ませると、
「分かったよ」
 と頷いた。


2.

 安手のチャイニーズレストランでのささやかなディナーだったが、ほぼ1日ぶりの飯は
美味かった。「行きたくない」などと言ったものの、やはり彼も腹を空かせていたのだろ
う。皿に取り分けてやった菜を職業柄かなりの早食いである俺とほぼ同じ速度で平らげた
健啖ぶりに、俺は奇妙な話だが始めて彼に歳相応の若さと健康さを感じ、そして何故だか
ホッとした。いや、彼がそれらを感じさせないという訳ではない。出逢った晩から幾度と
なく目にしているその肌や肢体が充分に若々しい事も、また他人を拒絶していながらそれ
でいて放っておけぬほどの人恋しさを滲ませるなんてアンバランスさは彼くらいの年齢の
者にしか許されない特権だと言う事も。

「こんな店だがなかなか美味かったろ?」
「ああ」
「こンな店で悪かったネ」
「ははは、聞かれちまったか?」
「しっかり聞こえたヨ」
 顔馴染みの老店主は顔をしかめて俺を睨んだが、それでも「新しいお客さんに」とデ
ザートをサービスしてくれた。
「あ、謝謝」
「歓迎光臨、こンな店へ」 
 その温かくて甘くて、まるで老店主の優しさを煮溶かしたようなアズキビーンスープに
彼の口元が少しだけ笑ったような気がした。
「良かったな」
 微笑んで、香りは良いが53度とやたらと強いマオタイ酒を飲りながらマルボロに火を
点けると勝手な安堵感はさらに広がり、俺はいつになく饒舌になった。
「なあ、おまえらが遊ぶクラブだとか仲間内で新しいドラッグが流行ってないか?」
「さあね?そんな話は聞かないけどさ、でも新しいドラッグなんていつだってあるぜ。俺
達は飽きっぽいし、売人もそこんとこは心得てるからね」
「まあな」
 確かにその通りで俺は苦笑せざるを得なかった。半世紀も昔に獣医科用に格下げされた
PCPや現在も合法的な麻酔薬であるケタミンなどがエンジェル・ダストとかスーパーKと
言った名前で若者を中心に出回り続けているし、似たような作用を持つフェンサイクリジ
ン系の薬の多くもまた同様に如何にも効きそうな、そして売れそうな愛称を貰って流通し
ている。
「イタチごっこがあんたの仕事って訳かい?」
 ご苦労なこった、と彼は皮肉っぽく口唇を歪めたが不思議とその目には親しみに似たも
のが浮かんでいた。そう言えば彼も常に呼び出しを受ける何かに拘束されているんだった
な、といつぞやの真夜中のアラーム音を思い出す。心地よい眠りと暖かいブランケットを
蹴って駆け付けなければならない彼のその何かも、もしかしたら俺と御同様の‥‥いや、
よそう。問い詰めたところで彼は何も言うまい。
「ま、幸い俺は取締官じゃないんでね、あまり不毛な鬼ごっこに駈けずり回る事は無いん
だが、ここンとこの一連のケースにはどうも妙なドラッグが絡んでいるらしくてな」
「ふ〜ん、どんな?」
 満腹にいつもの不機嫌とよそよそしさが薄らいだのか、いやただの相槌だったのかも知
れない。本当に興味があったのかも知れない。とにかく彼はそう訊いて先を促した。ただ
一つ言える事は彼がそう訊かなかったら俺はそれ以上仕事の愚痴などこぼさなかっただろ
うし、彼を巻き込む事も無かったろう。だがその時はそんな事は解りゃしなかった。
「今日、俺達が追っていた奴だが、見た目はただの大人しい学生ってとこなのにこいつが
まったくイカれちまっててね。明け方に叩き起こされた時の連絡では駐車中の車のフロン
トガラスを割りまくってるって話だったんだが、パトカーが駆けつけると‥‥」
 と俺はその後の乱行ぶりを話し、彼は中国茶のカップを両掌に挟んだまま時折小さく頷
いていた。
「‥‥で、まあ最終的な分析結果が出るまでは何とも言えんが、奴のあの目は――」
「さっき言ってた妙なドラッグでキマッてた、と?」
「だと思う」
「1つ訊くけど、何がどう " 妙 " なんだ?」
 すごいな、と思った。やはり彼は " 普通 " の若造ではない。だが俺の上着に付着してい
た微量の火薬を嗅ぎ取り、家ではホルスターから抜いた事もないS&Wの型番までを言い当
てた事もやはり俺は問い詰める気はない。問い詰めたところで‥‥という気持ちは彼が " 
何 " をしているのか?と同じく決してそれを言うまいと思うからだ。だがもし無理に問い
詰めたならば、或いは職権を行使して調べ上げようとしたならば、恐らく彼が俺の傍に近
づく事は2度と無いだろう。彼が身に纏っている、
 - 近寄るな! -
 そのよそよそしい雰囲気が " プロ " のものだということに俺は気づいていた。
 
 だが、彼が家に来なくなる――それが俺にとって何かマイナスになるか?と言えばそん
な事はない。しかし俺はこの不思議な彼ともう少しこの奇妙な関係を続けたかった。そし
て勝手な話だがこの時は、何者かは知らないがこの頭脳明晰な坊やならば何かヒントくら
いは出してくれるんじゃないか?――と、俺は狡い笑顔を見せたのかも知れない。
「一連の、と言ったろう?ここ1ケ月くらい、こうしたケースが相次いでいる。加害者達
はいずれも成分を特定出来ないドラッグで狂躁状態に陥った末、犯行に及んだとまでは
解ったんだが、しかしどの加害者のいずれにも共通点はまったく無いんだ」
「年齢や性別、またはそれぞれの関係には?」
「無い。年齢も性別も関係もバラバラだし、起こした事件もこれまたマチマチだ。おまけ
にどこかの阿呆が物騒な火器を流してやがる。それなのに解っているのはクソッたれな売
人どもがけっこうな稼ぎを上げてるって事と、このままじゃ加害者と被害者でシティ・モ
ルグがいっぱいになっちまうって事だけだ。」
「それと、あんたがなかなか家に帰れないって事もね」
「違いない」
 と俺は肩をすくめた。
「だがおまえにとってはその方がいいかもな。俺のベッドを占領してゆっくりと眠れるだ
ろう?」
「さあ、それはどうかな?」
 目を伏せてそう呟いた彼は照れ隠しのように、手を伸ばして俺のグラスを取るとその芳
しい香りに惹かれたのかクイッと飲み干してしまった。
「あ、バカ‥‥」
 とんでもなく強いその蒸留酒にケホケホと咽せながら、
「いったい何なんだよ、これは?」
 と彼が大袈裟に顔をしかめたので、俺と老店主は噴き出してしまった。
「知らない物をいきなり一気に飲む奴があるか」
「でもマオタイは乾杯して飲み干すものヨ。あンたみたいにケチくさい飲み方は正しくな
いネ。それにマオタイは風邪に効くの銘酒ヨ」
「風邪なんか引いてないよ」
 でも、と老店主は澄まし顔で続けた。
「ここンとこ、悪い風邪が流行ってるでショ?イイ予防になったネ」
 その言葉にハッとして俺は彼と目を見交わしていた。


3.

「寒くなれば風邪が流行る。ウイルスは人を選り好みしないから罹患者に共通点が無いの
は当たり前だし、風邪を引けば学生も主婦も会社員も、つまりこれまた共通点が無い不特
定多数の市民が風邪薬を飲む‥‥なるほど風邪薬とは気づかなかったな」
「時期も一致してるし可能性としては、ってとこかな?でもさ―」
「うん?」
「みんなが気軽に飲む風邪薬なんてほとんどがOTCだろ?ドラッグストアに溢れ返ってる
風邪薬を全部調べる気かい?」
「確かにそりゃ不可能に近いな」
「それにもしそのドラッグイコール風邪薬だとしたら‥‥」
「分かってるさ、事件の件数が少な過ぎると言いたいんだろ?」
「ああ」
「しかし唯一の可能性だ。とりあえず今までの加害者達の所持品とリストをもう一度洗っ
てみるしか手は無いが、ま、上手くすりゃどこかの病院だかドラッグストアだかを特定出
来るかも知れんからな」
「うん」
 家へ戻ってからも俺と彼はまるで同僚のようにそんな話を続けた。実際よりも老けて見
える俺とたぶん年齢よりも幼い顔立ちをしている彼とを第三者が見たら何と思うだろう?
父子だろうか?いやちっとも似てやしないからまさかそうは思わないだろうが、彼には自
分と似通った " 匂い " と言うか " 色 " と言うか――感覚的にどこか " 同類 " だと思わせる
ものを強く感じる。だから父子ほども歳の離れた坊やと " こんな話 " をしようなんて気に
もなったのだろう。しかしそれが何の違和感も無く通常の会話よりも弾むことと、そして
こうした話の方がお互いに " 距離 " を感じずにいられることが不思議であり些か哀しくも
あった。何せ通常の会話は疎か、俺は彼の名前さえ知らなかった‥‥

「考えたんだけど、風邪を引いたからって風邪薬を飲むとは限らないんじゃないかな。頭
が痛けりゃ頭痛薬、熱が出れば解熱剤、咳には咳止めシロップとかも色々あるし―」
 髪に残るシャワーの雫をバスタオルで拭いながら名前さえ知らないその彼が言った。
「症状別の薬か、なるほどな。鎮痛解熱剤に咳止めのシロップと。他には何がある?」
 俺がラップトップに表示させていた様々な風邪薬のカラフルな広告に加えてそれらを
サーチするのを上体を折って肩越しに覗き込むと、
「へえ、このOTCを全部洗うつもりかい?」
 彼は首を横に向けてまじまじと俺を凝視めているようだった。
「ああ、そうだ」
「あんた一人で?」
「まさか、俺一人じゃどうにもならん。だがリストアップくらいなら、な。それに俺は少
しでも早く本当のヤマを追いたいんだ。さあ他には?何か思いついたら言ってくれ」
「ふ〜ん、仕事熱心なんだな、あんた」
「ま、それだけが俺の取り柄かも知れん」
 苦笑してそちらへと首を曲げると、モニタの色彩を反射して様々な色に煌めく彼の瞳が
すぐ目の前にあった。そしてふと気づくと彼は、
 - 近寄るな! -
 というあのよそよそしい雰囲気を感じさせなくなっていた。
「正義感ってやつかい?」
 素のままの、裸の彼がそう訊ねた。
「ああ、そうかも知れん。だがこれが俺の仕事なんだ」
 " 馬鹿言うなよ " と笑ってしまうか正直に答えるか?‥‥と一瞬迷った。彼がただの青臭
い若造だったらきっと俺は笑っただろう。しかし彼は違う。名前さえ知らないが少なくと
も " ただの若造 " ではない事は確信している。だから俺は正直にそう答えた。
「人を撃ち殺す事も?」
「ああ。やむを得ない場合には、な」
「それでもあんたは平気な顔で飯を食ったり、眠ったり出来るんだろ?」
「ああ。そういう事にはもう慣れた」
 そう言えばあの新米は夕飯を食えただろうか?と俺は思った。「胃を空にしておけ」と
忠告してやるのは簡単だが現場で実際に辛い目に合い、そしてそれを乗り越えられなけれ
ば俺達の仕事は務まらないのだ。
「慣れた?」
「そうだ。イヤな言い方かも知れないが、慣れるしかないのさ。仕事ってのはそんなもン
だ」
「俺もタフになりたい。あんたみたいに‥‥」
 静かに呟いて瞬いた彼の瞳の中で様々な色が揺れ動く。
 彼も俺の瞳の中にこの様々な色を見ているのだろうか?

 俺と彼の間にあった筈の距離が無くなってしまった‥‥
 はっきりとそう気づいた時、俺は、
「馬鹿言うなよ」
 と今度は笑って肩をすくめた。そしてマルボロを咥えると、
「フン、俺はちっともタフじゃないぜ。今日みたいな事があった日にゃ強い酒でも飲まな
きゃいられないし、平気でぐうすか眠れないからこうして面白くもない仕事の続きをして
るんだ。何年経っても、な」
 そう捲し立てて背を伸ばした。
「だけど、慣れたって言ったじゃないか?」
「ああ、慣れたさ。そうした事に直面しちまった時の対処法ってやつにな」
 - 近寄るな! -
 そう言って距離を取ったのは俺の方だった。
 急に開いたその " 距離 " を戸惑ったように凝視める彼の青い瞳に微笑みながら、俺は手
を伸ばしてまだ濡れているチョコレート色の髪をくしゃりと掻き回した。
「さあ風邪を引くぞ。この髪をちゃんと乾かしてもう寝ろよ」
「ふふ、狡いや」
 さすがに彼は敏感だった。だからそれだけしか言わずに笑ってくれたが、初めて見せた
その笑顔は突き放した事を思わず後悔してしまうほど淋しげだった。だが優しく抱きしめ
てやったり、無責任に「強くなれ」と励ましたりする事で彼が癒されるとは思えない。だ
から俺は些か無愛想に、
「まあな」
 としか答えなかったし、彼も「分かったよ」と傍を離れてくれた。
 が‥‥
「ねえ、もう1台PCは無いのかい?」
「そんな物は無い」
「じゃセルは?」
「セルはあるが‥‥おい、寝ないのか?」
 いつもの向かい側ではなく俺の横の椅子に掛けた彼は「ああ」と頷いて、
「手伝ってやるよ。一人よりゃ二人のが早く済むぜ」
 などと言い出した。そして少し照れたように、
「風邪なんか引かない。心配要らないよ、俺はタフだからね。それにあんたが寝ないと俺
も眠れないし‥‥」
 と笑った。それがさっきよりは数段マシな笑顔だった事にホッとして、
「じゃ手伝え。済んだら抱いて寝てやるから」
 と俺も笑い返した。


4.

「抱いて寝てやる?ふん、御免だね」
 俺への距離を無意識の内に縮めてしまった事などどこ吹く風といった生意気な口はもう
いつもの彼で、これならば無理にベッドへ追い払う事もあるまい。俺は彼にセルを渡して
エアコンを強くした。 " 心配要らない " などと強がられても、俺のアパートの脇の路地で
ずぶ濡れのまま凍えていた彼だけにやはり心配だった。
 あの夜―
(放っておいてくれ!)
 - 近寄るな! -
 彼が発した警告よりも、俺は俺自身の職業意識を優先させた。
 そして半ば強引に部屋へ引きずり込んで熱いバスを使わせ、
(犯りたきゃ犯れよ)
 そんな投げ遺りな言葉を投げつけた彼にバッジまで見せて‥‥
 そう、俺はただ彼に " 安心しろ " と言ってやりたかったのだ。
 何があったのか?何を泣いていたのか?大丈夫か?―と問う事はしなかった。
 例え告げられたところで俺では解決出来ない事だろうという気がしたからだ。
 しかし " 安心しろ " 、俺は敵じゃない、とそれだけは解らせてやりたかった。
 - 近寄るな! -
 その距離を保ちつつも彼は鮮やかに、そして正しく俺の心を察知したらしい。
(帰りたくないなら泊まっていってもいいぞ。ただし、ベッドは一つだ)
 そう言ってやると、彼はベッドにうつ伏せた俺の傍らに遠慮がちに潜り込み、
 やがて俺の寝息が聴こえる事に安堵でも覚えたのか、ぐっすりと眠り込んだ。
 そして、それから1ヶ月以上の間、彼は " 眠りたい " とここへやって来ては、
 職業柄、帰宅時間が不規則な俺を待たずに先に眠るようになっていたのだが‥‥
(う、ううっ‥‥)
(おい、どうした?)
 ついそう揺り起こしてしまいたくなるほど、ひどく魘されている事もあった。
 だが " 大丈夫か? " と問えばきっと彼は " 大丈夫だ " としか答えないだろう。
 だからそんな時は起こさぬようにそっと眠ったままの彼の背を叩いてやった。
(安心しろ。ここにいるからな)
 うっすらと開いた彼のブルーの瞳にそう言って頷いて見せると、
(―――ん!)
 何かを、誰かを必死に掴まえようとするようにしがみついて来た事さえある。
(分かった、分かった)
 と抱きしめてやったのを彼が憶えていないとも思えなかったが、
「ま、女ならともかくおまえじゃ抱いて寝てもしょうがないか‥‥」
 とただ俺も苦笑しただけだった。
「冷蔵庫にまだワインがあっただろ?」
 うん、と頷いて彼はワインとグラス、そしていつも使っているマグカップを取って来る
とあまり慣れているとは言い難い手つきでコルクを抜いた。
「そう言えばかれこれ1ケ月以上になるけど女ッ気が無いね、あんたんトコって」
「ちぇ、放っとけよ。だいたい女なんてのは―」
「あんた、ひょっとして本当はゲイ?それならあんたはソファで寝てくれよな」
「殴るぞ、こら!それになんで俺がソファで寝なきゃなんないんだよ?ありゃ俺のベッド
だぞ」
「カバーを掛け直したのは俺だぜ」
「ベッドもカバーも買ったのは俺だ!」

 確かに彼が言うように倍の人数と他愛無い軽口の応酬と、そして新しく開けたワインが
仕事を捗らせてくれたので、1時間ほどで必要と思われる風邪関連のOTC薬のサーチとリ
ストアップはほぼ終った。
「ふう、こんなものかな?」
「だろうね」
「他に何か気づいた点があったら言ってくれ」
「薬じゃないけど、トローチとかコフドロップはどうだろう?」
「ちぇ、これで終りって時にまた範囲を広げてくれたな。だが可能性はある‥‥トローチ
にコフドロップ、と。で、他には?」
「あんたの本当のヤマってのは何だい?」
 え?と俺はマジで2、3度瞬いてしまった。
「何でおまえがそんな事を知ってるんだよ?」
 何言ってんだ、という呆れ顔で彼が言った。
「自分で言ったんだぜ。" 早く本当のヤマを追いたい " ってさ」
 ああ、そうだったな、と俺は頭を掻いたが彼に何か関係や思惑があるとは思えない。同
類の " プロ " としての単純な好奇心だろう。だから俺はまあいいか、と彼の問いに答える
事にした。
「2ケ月近く前になるが国際会議場でアタリー国の代表が殺されたって事件を知ってるだ
ろ?」
「えっ?」
 彼は意外なほど驚いたようだったが、いったい何に驚いたのかは判らなかった。
「何だ、ニュースも見ないのか?」
「い、いや、知ってる。そう言えばその代表は殺されて誰かに摺り変わられてたんだっ
け。じゃああんたはその犯人を追ってるって訳なのか?」
 いいや、と俺は首を横に振った。
「それは殺人課の仕事さ。俺が追ってるのはその犯人を追跡したって奴の方だ」
「だけどそいつは―」
「そう、ニュースでも報じられてたから知ってるだろうが、そいつはISO要人直属のシーク
レットサービスだそうで、一応ウチにもISOから正式な報告は来たよ」
「それじゃ問題は無いじゃないか」
 いいや、と俺はもう一度首を横に振った。
「要人直属のシークレットサービスなら街中であんな馬鹿げたカーチェイスをやらかして
もいいってのか?大勢の市民とそれから犯人の生命を危険に晒してもいいってのか?」
「それはそうだけど‥‥」
 語気の強さに戸惑ったのか、困ったように眉を寄せて俯いた彼に俺は笑った。
「ははは、すまん。おまえに当たっても仕方無いよな。でもな、あのカーチェイスで俺の
親父さんは―」
 えっ?と彼は顔を上げた。
「ま、まさか?‥‥いや、確か負傷者は出たけど死者は出なかったって‥‥」
「ああ、そうだ。ショッピングモールの中を走り抜けるなんて無茶をやった割りには負傷
者だけで済んだのは不幸中の幸いだったさ。だが俺の親父さん、と言っても本当の親父
じゃなくて市警のベテランの巡査部長でな、ペイペイだった俺に警官のイロハを教えてく
れた人なんだが‥‥」
 たまたま、もうじき無事定年ってその巡査部長が欠員の穴埋めに交通整理に当たってい
た時にあの映画張りのカーチェイスに遭ってな。親父さんは軽傷を負っただけだったけれ
ど、暴走する2台を停める事が出来ず何台もの車に事故を起こさせ、多くの怪我人を出し
てしまった。それを悔やんだ親父さんは定年を待たずに辞職してしまったんだよ。むろん
親父さんには厳密に問われるような落ち度なんかありゃしないし、例え真ん前に立ちはだ
かったところで暴走する車2台を停められる訳も無い。だが何しろ責任感と言ったらピカ
イチで、30年もの間、ただ市民の安全の為だけに生きて来たような人だったから‥‥
「だから親父さんはきっと自分で自分が許せなかったんだろうさ」
「‥‥ああ。そうだね、きっと」
 と彼はひどく真面目な顔で頷いた。


5.

「そうか、じゃあ親父さんの仇討ちなんだね」
「いや、違うな」
「だってあんたはそいつが憎いんだろ?」
 彼の口ぶりは質問にしては些か断定的過ぎる気がした。そしてその瞳は蒼い翳りを宿し
て本来の色合いよりも深く、哀しげに見えた。
 そうだった、この翳りが気になって俺は彼を‥‥と初めて出逢ったあの夜を思い出す。
「まあな。しかし警官というものはすべての犯罪を憎むが、犯罪者個人を憎むこともまた
捜査に個人的な感情を持ち込むことも無いんだ。言っただろ?これは俺の仕事なんだ、っ
て」
 そうだった、それを俺に教えてくれたのも親父さんだったな、とそんな事が懐かしい。
「それに―」
 ワインはあと2杯分ほど残っている。何が彼の瞳を翳らせているのか、彼を哀しませて
いるのかは分からなかったがどうせここまで話したのだ。もう少しいいだろう‥‥と俺は
彼のカップと自分のグラスに等分にそれを注いで言葉を続けた。
「ISO要人のシークレットサービスじゃどうしようもないさ。殺人課にさえ " 犯人の身柄は
一時確保した " って事でISOからストップがかかってるくらいだ。まして " そいつ " を―、
なんてのは正式なヤマには出来んよ。縦んば出来たとして、そしてそいつを拘束して立件
まで漕ぎ着けたとしても、せいぜい道路交通法違反に公務執行妨害くらいが関の山だ」
「だったらどうして‥‥?」
「引っ掛かるんだよ、刑事の勘ってやつにな」
「何が?」
「ISOが犯人を " 一時確保 " としか言って来ないのは " その後逃げられました " ってこと
じゃないのか?そしてその直後から今回の一連の事件だ。なあ、何か引っ掛かるだろ
う?」
 ハッとしたように彼は目を見開き、
「‥‥」
「もしおまえが逃げ遂せた犯人だったらどうする?」
 その瞳で一瞬いやに鋭く俺を睨み据え、
「そうだ。おまえは仕返しを試みるだろう。おまえを捕まえた憎い " そいつ " に―」
 それからツッと視線を逸らして低く呟いた。
「じゃあ何の罪もない市民が無差別に巻き込まれている一連の事件も " そいつ " のせいっ
てワケか‥‥」
「いや、 " そいつ " のせいじゃないさ」
「だけど―」
「違う。悪いのは " 犯人 " であり、あの組織だ。だが直接奴らを追う事が叶わない今、俺
に出来る事は一刻も早く " そいつ " を確保し、保護する事だけだ」
「保護する?」
「そうだ。警護する要人がこの街にいる以上 " そいつ " もこの街にいる筈だ。と言う事は
そのうち " そいつ " は何の罪も無い市民の手に掛かっちまうだろう。だから誘き出される
前に身柄を拘束しちまいたいんだ」
「 " そいつ " を護るために?」
「ああ。彼もまた俺達が護るべき市民だからな」
 驚いたように訊き返して、真直ぐに俺を見た彼の瞳はまるで子供のように素直で、俺は
目の前にいて翳りに飲み込まれまいと必死に足掻いている彼が " そいつ " なのでは?とい
う錯覚さえ覚えた。その錯覚のままに、俺は彼に力強く頷いて見せながら言った。
「 " 安心しろ " 、もう大丈夫だぞ」
 と‥‥
 彼の頬を涙が伝った。

「どうした?」
 何を泣くことが?―と訊ねた俺に彼は、泣いてなんかいない、と言い、
「エアコンの風が強くて‥‥」
 と乱暴に頬と目蓋を擦った。ワインの酔いもあるのだろうが確かに部屋はいやに暑く乾
燥していて、俺は急に冷たいシャワーとベッドが恋しくなった。
「すまん、すっかりつきあわせてしまったな」
 さあ、もう寝ろよ、と言ってテーブルの上のグラスをキッチンへ運んだ。マメなわけで
は無い。山と溜まった洗い物にうんざりしないで済む最善の方法は、1個使ったら1個
洗っておくことだと学習しただけだ。
「‥‥」
「貸せよ、ついでだ」
 背後の彼の気配に片手を伸ばすとマグカップが指に触れた。置きっ放しにしないように
なったとは感心だな、と笑った俺の背の、そうちょうど肩甲骨の辺りに遠慮がちに何かが
触れた。
「ん?」
 それが彼の指だと分かった次の瞬間、俺の背中に彼がいきなり抱きついてきた。
「おい」
「ごめん‥‥俺はまだガキで、何も分かっちゃいないんだ。なのに俺には‥‥」
 俺の背中に顔を埋めて " ごめん " と彼はくぐもった声でただ繰り返した。
「いいさ」
 と俺もただそう答えただけで振り返りはしなかった。彼が何を泣いているのか、何に対
して詫びているのか?―それは相変わらず判らなかったし、また知りたく無かった。だが
恐らくは必死の思いで俺への距離を縮めてまで何かを振り切ろうとしていた彼を、
 - 近寄るな! -
 と突き放しておきながら、俺は彼のどこか踏み込んではいけない部分へと踏み込んでし
まったのだろうという事だけははっきりと分かった。そして、何があったのか?何を泣い
ているのか?大丈夫か?―と問うたところで、やはり俺では解決出来ない事なのだと―。
 しかし、俺にも出来る事はある。
「さあもういいだろ?シャワーを浴びて寝たいんだ」
 俺がそう言って背を伸ばすと、
「ああ、ごめん」
 と意外なほど素直に彼の体温は俺の背中から遠離った。
「あのクソみたいに大量のリストと所持品を洗って、上手いこと何か見つかればいいんだ
が、まあ明日もまた忙しくなる、って事だけは確実だ」
 ちぇ、と舌打ちして振り返ったものの、再び突き放してしまった彼を見るのは辛かっ
た。無駄かも知れないが、抱きしめて " 大丈夫か?" と訊ねてやるべきだったのかも知れな
い‥‥そうだ。もし彼にそうしてくれる先輩や親友がいたとしたら、彼は俺のところへな
ど来る必要は無かった筈だ、と今さらのように気づいた俺は、椅子の上でいつものように
両膝を抱え込んで、何かそれがえらく大切な物でもあるかのようにテーブルの上にポツン
と置き去りにされたボトルをジッと凝視めている彼に、
「おい、大丈夫か?」
 と訊いた。ああ、と頷いた彼は案の定、
「大丈夫さ」
 と答えた。
「そうか。ならもう寝ろよ」
「ああ」
 彼はもう一度頷いたが、俺がバスルームから出るとその姿はどこにも無かった。


6.

(行っちまったか‥‥)
 ひとりぽつねんと置き去りに去れているワインボトルを指で弾いて俺はそう思った。
 意外な事では無かった。いやむしろもしまだ彼が居たら俺はどうしただろう?と思うほ
ど、はっきりしていた事だった。だからこれまで " 大丈夫か? " と問わずに来た。問えば
彼が " 大丈夫だ " としか答えないだろうということも、そしてもうここで眠ることもない
だろうということも‥‥。
 だが、俺にやるべき俺の仕事があるように彼にはやるべき彼の仕事がある筈だ。彼の瞳
を暗くしていた蒼い翳りがその " 仕事 " に関するものなのか、それとも何かプライベート
な事なのかは分からないが、彼が俺と同じ " 匂い " を持つ " プロ " だということは分か
る。だから彼の翳りも或いは俺達の心に積もる澱と同質のものなのでは?と思った。なら
ば、それがきれいさっぱり失くなることは有り得ない。誰がどうしたって、何をどうし
たってそれを消し去ってやる事は出来ない。
 だから――
(たっぷりと寝ただろう?さあ、そろそろおまえの世界へ帰れ)
 と、彼の背中を押した。俺に出来る事と言えばこれくらいだからだ。
 それに、
 - 近寄るな! -
 と言ったのはおまえだぞ、と俺は俺自身に言い訳して彼に別れを告げた。


 翌日から俺達は例のOTCリストと所持品の洗い出しに掛かり、加害者の二人がドロップ
の包装用と思われるセロファンの小袋とその欠片を所持していた事実から、まったく関連
の無かった加害者の間に接点を見い出す事に成功した。そのセロファンに極微量付着して
いた遺留物の分析もISOの協力で幻覚作用と狂躁性を持つ特殊な化合物である事が判明し、
そしてその化合物が加害者達の血液中に残留していた物質と一致した事で捜査は急速に進
展した。
 つまり俺と彼の " 勘 " が当たったってわけだ。
「ちきしょう!偽のコフドロップとは気がつかなかったな。ヤクの売人を追っていても埒
が開かなかったわけだ」
「ああ。しかも製品じゃなくて試供品として街頭でランダムに配られたって代物じゃ追求
も回収も難しいが、当分の間TV、新聞、ネットなどのメディアで警告し続けて、届けら
れて来た分から追っかけるしかない。他の風邪薬等についてもOTCはすべて一時販売中止
の措置を取ったし、何とかこれで食い止められるだろう」
「でも各製薬会社がよく承諾しましたね、風邪の季節、つまり稼ぎ時だって言うのに―」
「人命が第一だ!ま、製薬会社もISO上層部からの緊急通達には逆らえんさ」
「何にしてもお手柄でしたね、警部補」
「いや、" 彼 " のお陰さ」
「彼?」
「いや、こっちのことだよ。ところでチーフ、犯人の目的は判ったのですか?」
「相変わらずさっぱりだ。悪質な悪戯なのか、テロ行為なのか、何かもっと明確な目的や
要求があるのか―」
「ならば俺に例の一件を追わせてください」
「ISO要人のシークレットサービスへの怨恨って線か?」
「そうです」
「うーむ、確かに可能性はあるしそう考えると辻褄も合うが、しかし難しいぞ。あの組織
相手じゃ市警レベルではどうにもならん。それにあのISOが落ち度を認めるとも思えんしな
あ」
「専任でなくとも結構です。今のヤマの合間に調査だけでも―」
「相変わらず仕事熱心だな、警部補」
「ま、それだけが俺の取り柄ですからね」
「ははは。よし、もう一度殺人課を通してISOに確認してみよう。こっちは一般市民にまで
被害が出てるんだ、犯人も目的も判らんでは済まされんからな。だがもしそれが事実だと
したら一番辛い思いをするのは‥‥」
「そのシークレットサービス自身でしょうね」
「言わば " お仲間 " だが、それでも追うか?」
「追います」
 分かったよ、とチーフは肩をすくめてあの新入りを付けてくれた。

「あの、警部補‥‥」
「ん、何だ?」
「ISO要人のシークレットサービスなんて " 追える " もんなんですか?」
「追っても無駄だろうな」
 じゃあ何で?と怪訝そうな顔をする新入りに俺は、
「ははは、これが俺の仕事だから、な」
 と笑ってマルボロに火を点けた。

 コフドロップと突き止めて以降、新しい事件は起こらなかった。チーフが言った通り、
ISOは相変わらず木で鼻をくくったような回答しか寄越さなかったが、ドロップに仕込まれ
ていた化合物と出所不明の火器については " あの組織絡みである " とした俺達の読みを全
面的に支持し、専任の対組織チームを投入したと言って来た。
 それが功を奏したのか、俺達の読みが正しかったのか、いや犯人や目的さえ確とは判ら
なかったが、暫くしてこの一連のヤマはともかく終結した。だが事件や騒ぎは引きも切ら
ない。大統領暗殺を謀っただの、野球場に爆弾を仕掛けただの、16歳の少女5人が誘拐
されただの、どこぞの特殊部隊が潜入しただの、大富豪の令嬢が営利誘拐されただの、大
停電が起こっただの‥‥ " あの組織絡み " と目される事件だけでも数え上げたらいやにな
るほどだ。俺も新しいヤマを追ってやたらと吸い殻を増やす日々を送り、やがて " あの組
織絡み " 最大の事件が文字通り世界中を揺るがし‥‥


 その世界規模の騒動が終結してから二月ほど経ったある夜、三日ぶりに戻ったアパート
のドアを開けた瞬間に俺は " あの " 気配を感じた。
「来てたのか?」
 懐かしい気配にそう声をかけながら部屋に入ると、
「ああ」
 ダイニングテーブルの椅子の上で両足を抱え込むようにして座り込んでいた彼が、こち
らを見ぬままそう答えた。
 ジャケットを脱いで空いているイスの背にかけ、ネクタイをゆるめた俺はテーブルの上
に置いてあるボトルを見た。ワインではなくグラッパのようだ。だがぽつんと1本だけ置
かれたそのボトルはあの夜、彼がジッと凝視めていたそれのようにも見えた。
「そいつ、何かえらく大切な物のようだな」
 哀しいほどに透き通ったそれを凝視めたまま彼は頷き、
「 " もしそうだったらいいのにな " って酒だよ」
 と答えてからゆっくりと俺を見上げると少し含羞んだように微笑んだ。その大きなブ
ルーの瞳に気掛かりだったあの翳りは無く、ボトルの中の蒸留酒のように澄み切ってはい
たが、俺には笑顔の彼が泣いているように見えた。そう、初めて出逢ったあの夜のよう
に――。
 しかし、
「どうした?何があった?」
 俺の問いを彼はもう " 何でもない " と撥ね付けはしなかった。
「眠りたい‥‥んだ」
 その言葉に、ふふっ、と俺は笑った。
「また寝に来たのか?ここに」
 もう一度そう訊ねると、彼はあの時と同じように生真面目な顔で、
「ああ、そうかもしれない」
 と答えた。
「そうか――」
 何があったのか?何を泣いているのか?―と今度も俺は問う事はしない。
 告げられたところでやはり解決出来ない事だろうという気がしたからだ。
 だから俺はただ " そうか " としか言わずに、キャビネットからグラスと彼がいつも使っ
ていたマグカップを出してテーブルに置いた。
「強くていい酒だ。これならぐっすり眠れる。そして " もしそうだったらいいのにな " っ
て夢を見させてくれるだろうぜ」
「‥‥うん」
 あの頃には見せたことの無い穏やかな表情を浮かべて彼は素直に頷いた。
 何かは解らないが、俺には彼の中で何かが確実に変化したように思えた。
 だから、訊いた。
「大丈夫か?」
 彼は " ああ " と答え掛け、それからフッと肩をすくめて、
「いや、大丈夫じゃないな、あんまり」
 と寂しげに微笑んだ。

 - 近寄るな! -
 依然としてその距離はある。そしてそれは互いに永遠に縮まらぬ距離だろう。
 しかし、それを感じさせぬ彼はあの頃よりも少し " 大人 " になったのだろう。
「そうか」
 だから俺は再びただ " そうか " と頷いて、黙ったまま彼のマグカップにMagari―
 " もしそうだったらいいのにな " という名の酒を注いだ。



 THE END



 


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