KEN cried−It was ages ago (2)

by さゆり


「ジョー!」
 俺は小さな入江へと続く小径からジョーを呼んだ。
「おーい、もう戻って来いよ、ジョー」
 風に乗って笑い声が聞こえるから、ジョーは間違い無く其処にいるのだと分かるのだが、
俺は妙に不安になってもう一度そう声を掛けた。駆け出せるものならばこんな距離は・・
いや、駆け出せるくらいならジョーを呼ぶ事も、不安を募らせる事も無いか、と俺は小さ
く笑った。
 海風に捻くれた潅木がシャツを掴む。行くな、と言わんばかりに。
(邪魔するな)
 手荒く細い枝を払うと、刺に仕返しをされた。
(チッ)
 舌打ちして血が滲んだ手の甲に唇を当てると、思いもかけぬほど鮮烈な海の香に目眩を
覚え、それを振り払うために俺は・・・ジョー、おまえのせいだ・・・と独り言ちた。

「上手いもンだね、ジョー」
「沢山、釣れたなあ!すごいや」
「ははは、俺はガキの頃から釣りの名人だったんだぜ」
 小さな入江の岩場で、あいつは数人の子供達とチープな色のポリバケツを覗き込みなが
ら、屈託なく笑っていた。穏やかな波に昼前の陽がキラキラと反射して、周囲のもの全て
が優しい明るさに包まれている。
「ジョー、おい、聞こえないのか?」
 いや、今度は聴こえたさ。うん?と、振り仰いだあいつの髪も陽に染まってキラキラと
黄金色に輝いているようだ。ああ、綺麗だろうな、と俺は目を細めたまま、それが近づい
て来るのを見ていた。
「ケン!どうしたんだ、目が醒めたのか?」
 傍らに来て、ジョーは「見ろよ」と言うようにバケツを揺すった。
「・・・アジか?」
「ああ、そこの岩場で釣ったんだ。小アジだが、冷凍の魚よりゃ百倍美味いぜ」
「魚はあまり−」
「好きじゃねえのは知ってるさ。だが、俺がその認識を変てやる。こいつをよく揚げて、
それから−」
「ジョー・・・」
 ん?と、あいつは午前の海に似た色の目で俺を見て、それから、ああ!と頷いた。
「そうか、町へ行くんだったな!ケン、すまねえ。あんまり釣れるから、つい・・・」
 いや、いいんだ。俺が勝手に早く起きただけなんだから・・・だが、俺はそれを口に出
せず、不機嫌な顔で・・・ジョー、俺を一人にするな・・・と、あいつに文句を言った。
「ああ」
 ともう一度頷いて、ジョーは俺を抱きしめる。こうした時には、いつもそっと俺を抱き
しめて、「何処にも行きやしねえよ」と、独り言のようにボソリと言うあいつに俺はホッ
とした顔を見せるのだ。

「ジョー、行っちゃうの?もっと釣ろうよ」
 子供達が不満げな声であいつを引き留める。俺は子供が苦手だが、ジョーは意外なくら
い子供好きで、それ故か子供からもよく慕われる。
「昼になっちゃ、もう釣れねえさ。またな」
 片手を上げて、あいつは笑いながらそう言った。
 子供とか動物というのは、本能的に相手が作為的に微笑んでいるのかどうかを見抜く能
力を有しているのだろう。平たく言えば「嘘」が通用しない相手と言える。だから俺は、
子供だとか動物が苦手なのだが、彼らに好かれるジョーを見るのはとても嬉しい。もしか
したらジョーを−特に「現在」のジョーを−正当に評価し得るのは、彼らだけ−真に無辜
なる彼らだけ、なのかも知れないな、と思う。

 午後、俺達は小さなこの町に似つかわしい小さなダウンタウンへ出掛けた。数日前に誂
えた俺の眼鏡が出来上がる日だったからだ。
「いかがです?よく見えますか?」
 もう老人と言っても差し障りの無い白髪の店主が曇りひとつ無く拭き上げた眼鏡を俺に
掛けて訊いた。
「ええ、はっきり見えます」
 俺はずっと目が良かったから、見たいと思う物は何でも見えるのが当たり前だ、と思い
込んでいたので、またその視力を取り戻せた事がとても嬉しかった。思わず笑みを漏らし
たらしい。店主もニコリと微笑み返して、
「よくお似合いですよ」
 と言ってくれた。だが、ジョーは店を出るや否や、
「ヘンだぜ、ケン。似合わねえよ」
 と眉を寄せた。
「もっと大きな町へ行って、ちゃんとした眼鏡を買えばいいじゃないか。こんな田舎じゃ
碌なデザインの物が無えや」
 見えればいいのさ、と俺は取り合わなかったが、それは何も俺がデザインだとか見た目
だとかに頓着しないと言う理由ばかりでは無いのだ。それをジョーにも念を押しておかね
ば、と思った。忘れさせておけるものならばそうしたいが・・・そうも行くまい。

「ジョー、聞いてくれ」
 町で買い込んで来た好物の豆で煎れたコーヒーを美味そうに啜るあいつに俺は言った。
「俺達は目立っちゃいけないんだ。それを忘れないでくれ」
 俺達は " あそこ " から逃げ出して来たんだ。それに " あいつら " の力は侮れるもん
じゃない。いつ何時、また " 自由 " を奪われるか分からん。そうなったら、俺達はどう
なる?・・・ジョーはふいに、
「なあ、一つ聞きたいんだが、どうして " あそこ " じゃ駄目だったんだ?」
 と訊ねた。そりゃ、自由は嬉しい。おまえと二人きりも嬉しいが、と言葉を続け、それ
からあいつはブルーグレイのちょっと哀しげな目を上げて、言った。
「俺には分からないんだ。だってよ、" あそこ " にはリアクターもあるし、医者もスタッ
フも大勢いるし、おまえの身体の事を考えたら−」
 そして・・・それから先は言わなかった。
 ジョー、気付いたのか?おまえ・・・
 何もかも・・・分かった上でそう言うのか?ジョー・・・
「俺の身体は、もうどうにもならんさ」
 だから俺は開き直ったように、肩をすくめて明るく言った。
「ケン、馬鹿野郎っ!どうにもならん、ってどう言う事だ?」
 掴まれた肩が痛かった。傷はもう痛みはしなかったが、俺には別の痛みが生じていた。
 ここへ来てからと言うもの、当然の事ながらリアクターの治療は受けられずにいるのだ
から、これもまた当然の帰結なのだ。
「ふふ、ユーリが改良したと言うあのリアクターの効果は大したものだったぜ」
 俺は低く笑った。実際、あれのお陰で今まで何とか " 持ち堪えて " 来られたのだと思
う。サクラのリアクターは優しいが、あれは容赦が無いほど強力だった。生き物の限界を
超えて更新される " 生 " に悲鳴を上げさせられる事さえあったが、とにかく例え一時で
も細胞破壊を抑え込んでくれた。だが・・・限界が来たらしい。
 俺の細胞は再び死に始めた。


 いや、生き物の細胞は日々、刻々、死んで当たり前なのだ。
 だが、通常は生命活動を営むための精緻なメカニズムに従って、細胞は再生し続ける。
だから生き物は " 生きて " 行けるのだが、HSの反作用に破壊された細胞は再生をやめ
てしまう。それを人為的に活性化し、再生を促すのがリアクターだ。
 勿論ジョーもそれを知っている。だから、
「やっぱり " あそこ " にいれば良かったんだ!ケン、戻ろう。今ならまだ間に合う」
 と言い出した。だが、
「いやだ。絶対に戻らん」
 と、俺は頑固に首を横に振った。
「何故だっ?ケン、おまえ、死にたいのか?俺を置いて一人でとっとと逝っちまうつもり
なのか?」
 ずっと一緒だと言ったじゃねえか!とジョーは俺の肩を力任せに引き寄せた。
「痛ッ−」
 激痛に顔を歪ませても、ジョーは力を弛めようとしない。すぐ目の前に、俺が何よりも
好きな春、花が咲く頃の空のようなあいつの瞳があった。厳しさの中に優しさを、冷たさ
の中に限り無い温もりを併せ持った無二の " もの " があった。
 ・・・いつだったか、「思い出さないのなら、その方が幸せだ」と言ったのは俺だった
よな。「忘れちまえよ」と笑ったのも・・・なのに、また俺はおまえに " それ " を強要
せねばならん。
 失うだろうか?永久に、おまえを・・・今度こそ。
 おまえを失いたくはない。だが、おまえは気付いているんだろう?
 だから・・・
「ならば話してやろう。何故、俺が " あそこ " から逃げたのかを。ジョー、憶えている
だろ?俺がいた、あの白い部屋を・・・」
 見開いて、そして怯えたように花霞みの空が曇るのを俺は見逃さなかった。

 そうだ、ジョーは憶えている。だから思い出せ。何もかも・・・
 俺とおまえが " 何者 " であったのかを、
 俺とおまえが " 何を " され、" 何を " して来たのかを・・・

「嘘だっ!」
 初め目を逸らし、やがて外方を向き、徐々に距離を取ったあいつに俺が委細構わず全て
をぶち撒けると、ジョーはそう鋭く叫んで荒々しく椅子を蹴った。
「嘘などついて何になる。それにどう誤魔化したところで、おまえ自身がすべて記憶して
いる筈だ」
「俺は−」
 あいつは唇を、いや身体中を震わせてギリッと俺を睨み据えた。
「それで、おまえは咄嗟に飛び込んだ俺をあの長剣で斬ったんだ」
 負けずに睨み返して、俺はバサリとトレーナーを脱ぎ捨てると左の肩を突き出した。
 見ろ、この傷痕だ、と。
「それは・・・憶えている。はっきりと・・・な」
 春の嵐のように激しく波立ったあいつのブルーグレイの瞳が、シンと凪いだ気がした。
「仕損じる筈の無い攻撃だった。おまえが飛び込んでさえ、俺は瞬時に攻撃目標を変えて
その息の根を止め得る一撃を見舞った筈だった。だけど・・・おまえの身体にフェンサー
が触れ、皮膚を、肉を切り裂いた瞬間、俺の中に眠っていた " 俺 " がそれを止めた・・
だが、間に合わなかったんだ・・・俺はこの手でおまえを−」
「いや、違う!」
 俺は語気荒くジョーの言わんとする言葉を遮った。怯えを孕んだ不安げな目が俺を見る
・・・ジョー、やはりずっと悩んでいたのか?俺に傷を負わせた事を。では、やはりもっ
と悩んでいるな?俺と " 此処 " にいる事を。
「違うぞ、ジョー。間に合わなかったんじゃない。 " おまえ " だからこそ間に合って、
俺を殺さずにあの攻撃を抑える事が出来たんだ」
 苦労して俺は左腕を伸べ、あいつの逞しい肩に手を置いた。それは我ながら擬古ちない
動作で、だが意地を張ろうにも今の俺にはこれが精一杯なのだ。
「ケン・・・」
 溜め息を吐くように名を呼んで、ジョーは俺をゆっくりと抱きしめた。
 いつもそうするように、そっと優しく。
 だから俺はジョーの口元を凝視めた。
 しかし、ジョーは何も言わずに俺の眼鏡を外し・・・
 どちらからともなく触れた唇は乾き、そして微かに苦かった。


 いつもは気にならない波音に眠りを破られて、俺はハッとして上半身を起こした。
「ジョー!」
 思った通り、返事は無かった。
「ジョー」
 分かっていたが、俺は呼ばずにはいられなかった。
「ジョー、ジョー、ジョー・・・」
 そう、もういくら呼んでもあいつは応えやしないんだ。
 そう、あいつは行ってしまったんだから。
「ジョー・・・」
 そう、あいつには俺を置いて行く権利があるのだ。あの時、俺は、同じように死の縁に
あったおまえを置いて来ちまったんだから。あんな山の中に、たった独りで。
 そう、だからこれで " フェア " なのさ・・・と小さく嘲笑って、俺は白いシーツの上
で膝を抱えた。外は朝の霧が出ているのか、妙に部屋の中も仄白かった。
(イヤだな。こうしていると " あそこ " を思い出す)
 俺は泣く事も忘れて、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 " あそこ " で目醒め、親しかった人達の安否を問い、その答えに哭き、反抗し、脱出を
試み、打ちのめされ、絶望し、だが死ぬ事は許されず・・・
(医師を相手にハンガーストライキは無駄だよ、G1。同じ食事なら口から美味しく摂っ
たらどうかね?経鼻カテーテルで流し込まれるのは辛かろう?)
 ふふふ、ドクター・カイン、あなたの言う通りだ。
 あのチューブや点滴は、今、思い出してもゾッとするぜ。
 それから・・・" あそこ " におまえが、いや、G2がいると知り、奴らの目的を知り、
何としても生き延びようと心に決め・・・
(こらっ、暴れるからトレーをひっくり返しちまったじゃないか)
(あ〜あ、せっかくの夕食が台無しだ。おまえが悪いんだから、床を舐めろ。さも無きゃ
夕食は抜きだぞ。明日まで我慢するんだな)
(おい、見ろよ!こいつ−)
(うわ、犬みたいだな。本当に床に落ちたものを這いつくばって舐めてやがる)
(ははは、やっぱりこいつは頭がイカれてるんだ。まともな人間なら、プライドってもん
があるだろう?)
 ふん、プライドなんかとっくに捨てたさ。
 生き延びる為ならば、あいつの為ならば、俺は何だってするぜ。
 そう思いながら・・・床に落ちた物を食い、いたぶられても嬲りものにされても、ただ
じっと耐え、そんな事は辛いとも思わずに・・・
 そう、辛くなど無かったさ。むしろ幸せさえ感じて居れた。
 何故ならば、心の無いあいつは俺のものだったからだ。完璧に・・・
 だが、やがて−
(ケ・・・ン)
 G2が低く俺の名を呼んだ時、俺は慄然として悟ったのだ。

 やはり、ジョーは憶えている。やがて思い出す。何もかも・・・
 俺とおまえが " 何者 " であったのかを、
 俺とおまえが " 何を " され、" 何を " して来たのかを・・・

 ならば、俺とおまえは還らねばならない。
 あの日へ、あの霧の中へ。


 あの白い部屋で、俺は一人、こうして膝を抱えておまえの事を考え続けた。
 コマンドして不完全なおまえを呼び覚ます事は出来ない。
 だが、そうせずともおまえはやがて " 全て " を思い出すだろう。
 その時まで、俺は正気を保っていられるのだろうか?
 軋む身体が情けなかった。
 新しいリアクターに疑いを持つ事は出来ても、それによる治療を拒む事は出来なかった。
生きる為に徐々に自分の身体が " 作り替えられて " 行くのをじっと凝視めながら、それ
でも精一杯の反抗に、俺はあのベッドから離れた壁際にばかり踞っていた。追い詰められ
た獣のように・・・
 彼処で、
 俺はあの白い壁に息を吹き掛け、わずかに曇る滑らかな壁面に指先でおまえの名を書い
た。繰り返し、繰り返し、息を吹き掛けては阿呆のように " Joe " と綴り続けた。どんな
事をしても、俺はおまえを、そして自分を見失いたくなかったのだ。声に出して名を呼ぶ
事は叶わなかったが、もしそれが出来たなら、俺は喉が張り裂けるまでおまえの名を呼び
続けたかも知れない。
「ジョー!」「ジョー!」「ジョー!」
 と・・・


「ジョー!」「ジョォー」
 えっ?と俺は顔を上げた。
 沈澱する思考を破ったその声は、外からあいつを呼ぶ子供達の声だった。
「ねえ、ジョー、ちょっと来てよ」
 遠慮の無い明るい声に、チェッと舌打ちして俺はベッドから降り、チェストの上に投げ
出したままのシャツを羽織った。これだから子供は・・・と苦笑しながら、冷たい木の床
を素足のまま、ゆっくりとドアに向かう。急に動いて、また昨日の朝のような酷い目眩に
襲われるのは真っ平だったからだ。
「どうしたんだい?」
 いきなり現れた " ジョーではない男 " に子供達は驚いたようだった。ええとこの子達
は昨日の−、と目を細めてから、俺は眼鏡の存在を思い出した。何処に置いたんだっけ?
「あの・・・ジョーは?」
「ジョーはいないよ。釣りに誘いに来たのかい?」
 うん、と戸惑ったように頷いた少年は手にしていた釣り竿を示して、
「昨日、作って貰った仕掛けがこんがらがっちゃったんだ。それでジョーに−」
「直して貰おうと思ったんだね?どれ、見せてごらん」
「お兄ちゃん、直せるの?」
 ああ、たぶんね、と俺は、この少年くらいの頃にあいつから教わった釣り糸と重りと釣
り針の秘密のバランスとやらの記憶を手繰った。
(あのな、実際の水深なンかは関係無いんだぜ)
 確か、あいつはそんな事を言っていたっけ・・・と、それくらいしか思い出せなかった
が、驚いた事に俺の指は昨日も釣りをしていたような滑らかさで、まるでセオリーを無視
したあいつの仕掛けを作って行った。おや?と意外に思う事がもう一つあったが−。
「−ほら、出来た」
「やったぁ!」
 歓声を上げる子供達の笑顔につり込まれて俺も破顔ったらしい。ふいに袖を引かれた。
「ねえ、お兄ちゃんも一緒に行こうよ」
「えっ?」
 思いも掛けぬ誘いに戸惑い、どうしたら良いものか−と、一瞬、真剣に考え・・・それ
から俺は愛想よく微笑んで、
「うん、じゃあ後から行くよ。まだ起きたばかりでご飯も食べてないんだ」
 と、適当な嘘をついた。子供を追い払うにはこの手に限るのだ。

「ふぅ・・・」
 案の定、行ってくれた子供達を見送った俺は溜め息を吐いてドアを閉めようとし、そこ
で改めてずいぶんと深い霧を眺めた。朦朧と、だが何処かに朝日があるのか、一面に仄か
な明るさを孕んだ霧が少し先にある筈の海も、一面に茂っている筈の潅木も、きっとあい
つが乗って行ってしまっただろう車も隠していた。ぼんやりしてよく見えないのは眼鏡を
掛けていないせいもある。眼鏡を探さなければ・・・と、俺は部屋の中を見回した。
(夕べ、眼鏡を外したのはジョーだ。あいつ、何処に置いたんだ?)
 一度、はっきりとした視界を取り戻してしまったからか、よく見えない事が妙に恐ろし
かった。特に " 独り " になった今は・・・だが、恐ろしいのは " よく見えない " から
なのだろうか?いや、 " 独り " の今、俺は " 何を " 見たいと言うのだろうか?・・・
そう考えると辛かったが、これからは独りで生きて行かなければならないのだ。
(あと、どれくらいだろう?)
 それを考えるのは不思議と辛くは無かった。
(ここにある冷凍食品が無くなる頃かな・・・)
 俺は冷蔵庫を開け、昨日買って来て、補充したばかりの食い物を眺めながら他人事のよ
うに予測を立てた。さっき仕掛けを作っている時にも驚いたのだが、昨日、茨の刺で作っ
たキズが、まるで当たり前のように治りかけている。思ったよりも時間が掛かるかも知れ
ないが、俺とて死にたい訳では無かったし、まだまだ生きていたいとも思うのだが、もは
や " 生 " を " 自己 " で存続出来ないとあらば諦めるしか無い。こうなると全くの他人
事だった。
 が、ふと、
(あの時、あいつも案外と辛くは無かったのかも知れないな)
 そんな思いが胸を過った。
 辛いのは " 心残り " だとか、" 執着 " だとかに縛られているからで、それが無くなれ
ばどうって事は無い筈だ。ジョーの心残りや執念は決して " 戦い " を存続させる事や、
" 復讐 " を果たす事にあったのでは無い・・・だからあいつもあの時、もしかしたら笑っ
て逝く事が出来たのかも知れないな、と考えると少し心が楽になった気がした。


 コーヒーとシリアルを・・・
 生きている事の証に俺は腹に収めて、またベッドに戻った。情けない話しだが、" 最後 "
まで何とか独りでやって行くには、なるべく安静にしている他ない。だがこうして・・・
目を瞑っていれば、やがて二度と目醒める事も無くなるだろう。
(やはり、ジョーは憶えていた。だから思い出したのだ。何もかも・・・)
(俺とおまえが " 何者 " であったのかを、)
(俺とおまえが " 何を " され、" 何を " して来たのかを・・・)
 そう、全てを取り戻せて良かった。もう思い残す事は何も無い。
 あの日、あの霧の中でおまえに永遠の別れを告げて以来、俺はずっと自分自身が許せず
にいた。それはおまえが還って来てからも変わりはしなかったし、許せぬままに、俺達は
また戦わなければならなくなり・・・
 俺が何よりも怖れたのは、あのまま " あそこ " で、おまえがすべてを取り戻す事無く
" 兵器 " にされてしまう事だった。ジョーの心残りや執念が " 戦い " を存続させる事や、
" 復讐 " を果たす事にあったのでは無いのならば、忌わしい連鎖を断ち切るしか無い。
 だが、俺が生きている限り・・・俺は " 奴ら " の俘虜であり、同時におまえまでもが
" そう " だと言うことだ。俺の為に・・・だから、俺は逃げたのだ。
 だが、願わくば・・・
「おまえの腕の中で死にたかったぜ、ジョー」
 しかし、おまえにそうしてやる事も出来なかった俺には、それも過ぎた望みだったらし
い。だが、願わくば、と俺は今になってさえそれを夢見る。
 最後の一息を終える時、おまえが傍にいてくれたなら・・・
 何よりも愛した花霞の瞳で、俺を看取ってくれたなら・・・
「は・・・ははは・・・」
 乾いた笑い声を立てて、俺は次から次へと溢れる涙を拭うことさえ出来なかった。


 その時、俺の聴覚が−、いや実際耳が捉えたのでは無いのかも知れないのだが、習い性
のように " そうしたもの " に備えて今だ張り巡らせていたらしい特殊な感覚がアラート
を発した。驚いて顔を上げ、
「・・・何だ?」
 分からぬまま立ち上がってドアを開けた。
 外はまだ深い霧・・・すぐそこに横たわっている筈の海が見えないほどの・・・
 アラートは海から感じる・・・だがこんな霧の中、岩場に行くのは危険だ・・・
 あっ−
「しまった!」
 叫ぶなり、俺は飛び出した。
「くそっ、何で止めなかったんだ」
 小さな入江へと続く小径を駈けながら俺は舌打ちした。
 海風に捻くれた潅木がシャツを掴む。もう遅いよ、と言わんばかりに。
「うるさい、邪魔するなっ!」
 手荒く細い枝を薙ぎ払って俺は駈けた。と、ぼんやりと昨日の岩場辺りに子供達が見え
たが・・・やはり様子がおかしい。
「あっ、お兄ちゃん!」
「どうした?」
「サムが落ちた。バケツに水を汲もうとして−」
(チッ)
 やはり、だ。俺は自分の迂闊さを呪いながら年嵩の少年に、
「君、俺の家へ行って199してくれ。シーサイドヴィラNo.12だ。急いで!」
 そう言いつけて、岩場から身を踊らせた。

 泳ぎには自信があったが、いやに手足が動かない。身体にガタが来ているからか、水温
が低いからか、その両方なのか?
 息苦しい・・・視界が利かない・・・眼鏡があったらなぁ・・・
 ふいにチープなオレンジ色が目に飛び込んで来た。あのバケツだ!
 泳ぎ寄ると上手い事にサムはまだバケツを握ったままだった。
「サム!しっかりしろ、もう大丈夫だぞ」
 小さな手が思いがけないほどの力で俺の首に抱きついて来た。
 よし、いいぞ・・・離すなよ!
 生きようとする力はこんなにも強いものなのか、抱きつかれて呼吸もままならなかった
が、その力強さが、生への執着が嬉しかった。だから俺は足掻きながら、何としてもサム
だけは助けようと泳ぎ続け・・・
「サム、岸だ!さあ、岩に掴まれ!上がるんだ!」
 そう叫んでサムの身体を押しやった・・・のだと思う。そして次の瞬間、打ち寄せた波
に身体を叩きつけられて俺は・・・

 ゴボリ、と鼻からも口からも容赦なく入って来た海水は血の味に似ていた。
 潮の香は、幾度となく嗅いだ噎せ返るほどのあの血の匂いに似ていた。
 瞬いても、ただただ白く冷たい世界・・・
 ああ、ここは " 彼処 " なのか?
 ああ、あいつを探さなければ!・・・
 霞む意識の中で俺はそんな事を考えていた。


「−と言う訳でここへ搬送されて来ました。幸いあまり水も飲んでいませんでしたので、
所定の措置を施しましたが、バイタルは戻りませんし、意識も・・・」
 気がつくとそこは病室のようで、そんな話声が衝立代わりの旧式な白いカーテンの向こ
うから聞こえた。点滴と酸素チューブと清潔な白いシーツ・・・俺のバイタルサインをモ
ニターする単調な機械音と心地よい暖かさに、生きている事を実感した。
(そうだ、サムはどうしただろう?)
 そう思った時だった。
「で、少年の方は?」
 聞き憶えのある声がそれを訊ねた。
「はい、彼のお陰で無事でしたよ。とりあえず昨日は様子を見る為に入院させたんですが、
退屈して大騒ぎされましてね、早々にお引き取り願ったくらいで」
「ははは、そいつは良かった」
 そうか、サム、良かったな・・・とホッとしたが、だがこの声は・・・
「で、スヴェルドロフ先生、先程の続きですが−」
 えっ?・・・と俺は声を上げてしまいそうになった。
(まさかそんな・・・嘘だろう?)
「ええ、彼はちょっと特殊な症例でしてね。私の担当患者ですので、出来ればクランケを
引き継ぎたいのですが・・・」
「もちろんですとも。さ、こちらです・・・あ、気がついたようですよ」
 カーテンが引かれるとそこには二人の白衣の男が立っていた。もう大丈夫ですよ、あな
たの主治医の先生が来てくれましたからね、と微笑みながら脈を取ったのはここの医師だ
ろう。そして彼の肩越しに、やあ、と頷いた眼鏡の男は・・・

「ケン、無茶をしたな。だけど、おまえらしいや」
 この町に相応しい小さな病院で、恐らく医師も少ないのだろう。ナースに呼ばれて慌た
だしく医師が行ってしまうと、俺の " 主治医 " だと言うダークブロンドのそいつはそう
言いながら、俺の前髪をそっと掻き上げた。綺麗に澄んだ花霞みの空のような、幼かった
日、共に歓声を上げて遊んだ穏やかな海のような、その瞳を見上げて、俺は " 願わくば "
と祈りにも似た気持ちで繰り返した事がもしかしたら叶うのかも知れない、と思った。
 ふいに・・・涙が溢れた。
「おい、どうした?どこか痛えのか?おい、ケン−」
 グイ、と腕でそれを拭って俺は言った。
「ジョー、俺の眼鏡をどこにやった?見たいのに・・・よく見えないじゃないか」
 ああ!と、ジョーは掛けていた眼鏡を外すとそれを俺に掛けた。
 あ・・・見える。じゃあ、この眼鏡は俺の?
「うん、やっぱりこれのが似合うぜ、ケン。おまえの趣味と来たら最悪だからな。だいた
い、ちゃんと鏡を見た事あんのか?おまえ」
 うるさい!と言い返して、俺は " よく見たかったもの " をジッと見つめた。
「で、何を見たかったんだ?」
「似合いもしない白衣を着込んだニセ医者のツラさ」


 シヌマデ、コウシテ・・・いや、
 シンデモ、オマエヲ、ミツメテ、イタイ・・・、
 ズット、ズット・・・。


 −午後の記憶 /とある海辺の小さな別荘に住んで二ケ月半、
                   再び " あいつ " を取り戻した日−


- to be continued -

 



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