THE SWEET AND BITTER OF KISS.....

by さゆり

「健・・・!」
 ジョーの呼びかけに、ベッドの向う側一面の大きな窓から自分の瞳と同じ色の空
を眺めていた健がゆっくりと振り返った。いや、実際に声が聴こえたわけではなく、
十重二十重に健を取り囲んでいる隔壁の、唯一、彼と世界を繋ぐ接合部分(素っ
気無い言い方をすれば、滅菌室だ)の分厚いガラスを叩いたのが辛うじて耳に届
いたからだろう。
 そこにジョーの姿を認めた健が、
(やぁ。)
 と、言うように痩せた片頬に微笑みを浮かべる。
『OK、ジョー。洗浄と滅菌が済んだ。入ってもいいよ。』
 チカ、と赤く点滅していた小さなランプが緑色のウインクを投げかけるのと同時
に、スピーカーから担当医が入室の許可を告げて、大仰なガラスの仕切りのロック
を外してくれた。
 
「よ、元気か?気分はどうだい?」
 良いわけが無かろう事はジョーの目にも明らかだが、他に言うべき言葉が見つ
からない。昨日のジュンと一緒だ。
(うん・・・。)
 と、曖昧に頷いて、健は少し目を伏せる。
「今日はいい天気だな。空を見てたのか?」
(ああ。)
 小さく頷く健には声が無い。当たり前の呼吸だけでは必要な酸素を自身の肺に
取り込む事が出来なくなって、人工呼吸器が健の喉を塞いでいるからだ。医師達
は呼吸器を外せば、また普通に話せるようになると言っていたが、ジョーにとって
は、健の凛とした声が聞けないのは無性に寂しい。だが、会話もあまり無い生活
が続いているからか、健自身はそう気にしてはいないようだった。
(こいつが無ければ・・・)
 健の唇がゆっくりと音の無い言葉をジョーに伝える。
「うん?」
(・・・もっと気分がいいけどな。)
「そうだな。だが、もう少しの辛抱だ。我慢しろよな、健。」
 俺はいつから医者になったのかな?と、ジョーはこうして健に会う度に幾度も
思った事をまた思う。それじゃ、もう少しってのはいつまでなんだ?・・・もしそう訊
ねられたら、俺は何と答えるつもりなのか?
 だが、健は、
(ああ。)
 と、静かに微笑むだけで、そんな事は訊きやしない。それでジョーは少しホッとす
る・・・いつものパターンだな、と苦々しく思いながら。
(みんな、元気か?)
 健の唇もいつもと同じ事を訊ねる。
「ああ、元気だぜ。甚平も竜も、それからジュンも・・・」
 言いかけて、ジョーはいつものパターンに反して(ここの規則にも反して)ある物
を持って来た事を思い出した。昨日、ジュンから無理矢理預かって来たあの・・・。
『ジョー、携帯した品物の検査と滅菌も終っているよ。そこのトレイにー』
 スピーカーから担当医の声が絶妙のタイミングで告げる。いや、彼は彼の担当
時間中、ずっとこの部屋と大事な患者である健を見張る義務を負っているのだか
ら、分かって当然、という事だ。気にしていたら始まらない。今はプライバシーよりも
健の容態の方が優先されて当然なのだから。
 
 どうも、と喉奥で言って、ジョーは一点の曇りも無いステンレスのトレイの上に
乗った小さな包みを取り上げた。ひどく場違いなその可愛らしい包みは、まるで荒
漠たる沙漠にたった一輪咲いた花のように、優しい色で周囲を照らす。
(なんだい?)
 当たり前の、健のその好奇心が嬉しかった。
「へへ、当ててみな。」
 そう言いながら、ジョーはきれいに包み直した包装紙を剥がし、案外としっかりし
た作りの紙の小箱を開けて見せる。と、
(あ・・・!)
 健の目が丸く驚いて、まるで子供のような表情が顔いっぱいに広がった。
(チョコレート・・・チョコレートだよな?)
「そうさ、健、こいつはジュンからのプレゼントなんだぜ。」
(ジュンから?)
「ああ、昨日な、偶然、預かったんだ。それで・・・」
 だが、ジョーは言い淀んだ。いくらなんでも、昨日のジュンの様子をそのまま健に
話すわけには行かなかったからだが、それならそれで、巧い言い訳でもとは全く
考えていなかった自分に戸惑ったからでもあった。
「その、持って行けと頼まれたわけじゃねぇんだけど、俺は・・・」
 分かってるさ、と言うように、空色の瞳が微笑んで、
(ありがとう。)
 乾いた白い唇がゆっくり言った。そして、健は痩せた腕を上掛けから伸べると、ト
レイの上のその丸いチョコレートにそっと指先を触れた。
(ジュンはまだ・・・)
 健の指がそっと丸いチョコレートの輪郭をたどって行く。健はこうしてその指先で
ジュンの頬に触れたのだろうか?優しく髪を撫でたのだろうか?
(・・・俺の事を?)
 音の無いその呟きには喜びと哀しみとが入り交じっていたので、ジョーは少し後
悔した。健、ジュンはシュミレーションしてみてるんだ、って言ってたぜ。おまえが元
気になって、それで・・・と、ジョーも声を出さずに呟いた。そのジュンの思いをおま
えに伝えたかったんだ、と続けたその時、健はスッとその箱を引き寄せると、包み
込むように腕の中に抱いた。そして、顔を近づけると、じっと瞬きもせずにチョコ
レートを見つめた。
 見ているのは、チョコレートなのか?
 そこにあるのは、チョコレートなのか?
 やがて、健の眉が内心の苦悩を物語るように寄せられ・・・
 
 と、
『健、固形物を摂取してはいけない!やめろっ!』
 担当医の声が響き、その語気の鋭さにジョーはハッと我に帰った。
(しまった、まさか健の奴・・・)
「おい、健!」
 思わず掴んだその痩せさらばえた肩にジョーは怯んだ。こんなに?と怯んだ心が
ジョーの指から力を失わせたのだろう。健は何の苦も無く、その手を振り払うと、
キッと目だけを向けてジョーを・・・いや、ジョーではない。自分を縛る全てのものを
(それはかつて敵と呼ばれたものだったかも知れない。そして今は病という名の友
人なのかも知れない)一瞬、激しく睨み、腹の底からの怒声を上げ・・・
 いや、それすらも叶わぬ事に気づいて、健は、ふ、と笑った。
 怒鳴ろうにも、今の健には声が無い。
「さあ、それを渡して。」
 小さな子供をなだめるような、冷静で優しいその声に虚ろな目を上げれば、いつ
の間に飛び込んで来たのか、そこには見慣れた担当医が立っていた。
「それは君には食べられないんだよ、健。」
 ええ、と健は素直に頷くと、ゆっくりと唇を動かした。
(分かっています。でも、これだけなら平気でしょう?)
 そして健は俯くと、そっとその丸いチョコレートに接吻けた。色の無い唇が、
愛おしげに健康そうな褐色の肌に触れ・・・


 それは甘くて、そして苦いチョコレート。
 健は唇を寄せたまま、心の中で小さく囁いていた。
(ありがとう、ジュン・・・さようなら。)
 と・・・。
 
- The End -


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