Accident of the morning of midsummer

by トールハンマー


月曜の朝はダージリン、
杏のジャムを落としたトーストに、ほうれん草を添えたスクランブルエッグ、
デザートには剥きたての林檎、
小さなピックを立てて差し出す彼女の白い指・・・・・、

「朝食は食べない習慣なんだ」
 向かい合ったテーブルで新聞を広げ、ドッリパーで落としたコーヒーを啜っていると、
トースターから跳ね上がったパンに、たっぷりとバターを塗って頬張った、11歳の誕生
日を迎えたにしては、まだまだ幼く見える少年が「なぜ?」と小首を傾げる。
 別に理由はない、ただ単に朝は食欲が湧かないのだ。そう答えると、
「朝食を抜くと睡眠時に消費したエネルギーが脳や身体に補給されないまま、仕事に出る
ことになるから、良くないよ」
 と、解ったふうな生意気な口をきいた。
 あの頃は細胞学を専攻していたITTから、ヘッドハンティングされたISOに移った
ばかりで、ユートランドでの塒もままならなかった私は、勤務先のプライベートルーフに
空きが出るまでと、ドクター・ナンブの好意に甘えて、彼の屋敷に居候を決め込んでいた。

 そこは快活な街の中心から一線の引かれた、高台にあるこの別荘と違って、美しい海の
風景こそ望めなかったが、もとより緑豊かな郊外の高級住宅街のそのまた一等地にありな
がら、その敷地面積も建築様式も他の比べ物にならなかった。執事や庭師やメイドやらが
いて、中流階級で育ちワンルームマンションを住処としていた私には、毎日が五つ星ホテ
ルでの生活のように思えた。部屋の掃除は勿論のこと、リネン類も毎日取り替えられ、食
事をするにも自らキッチンに立つことはなかった。
 そんな中で暮らしているのは奇妙な家族だった。滅多にここには帰って来ない主と2人
の息子。どちらも独身の主の子息ではなかった。引き取ったのは1人で、もう1人は行方
不明になっている親友の子供を預かっていると聞いた。どちらも悪戯盛りの悪ガキで、青
い目の方がケンで、ヘイゼルグレーがジョーだ。
「誰に教わったんだい?」
 新聞を閉じて生意気な青い目に聞くと「博士だよ」と答えた。ここの主は子供と話すに
も講義の時のように学術書の一文を用いるのだと思うと、あの頃はますますこの家族の関
係が理解しがたいものに思えた。
「朝食は1日の活力源なんだよ、脳や筋肉を活発に動かすためのブドウ糖を供給するんだ。
だから食べないと、記憶力や思考力や判断力なんかが低下するんだ。勿論、運動神経も」
 大きなモーニングカップに並々と注いだミルクを飲みながら、上目遣いで青い目が見る。
 ドクター・ナンブの受け売りにしても、よく覚えたものだと感心していると、視線があ
ってケンがにっこり笑った。
 タンパク質、カルシウム、ビタミン・・・・たとえシリアルでも朝食は取るべきなのだ。
 そして、それは、だからこそ起こった最悪の事態だったかもしれない。



「君はそれでも人の命を預かる医師か!」
「最低だ、助ける人間を金で選ぶなんて!」
 口々に発せられる罵りの言葉も耳には入らなかった。ただその時はこの血の付いた手術
着を一刻も早く脱いで熱いシャワーを頭からぶっ被りたかった。
 逃げるように医療棟を後にして、移って来たばかりのプライベートルーフのエレベータ
ーに乗る、背中を壁に押し付けると、やっとさっきの声が聞こえてきた。
「バーグマン大佐は生命維持システムでまだ時間が稼げたはずだ。なぜ、重症の怪我人の
方を優先しなかった」
「金に目が眩んだのさ、こんなのが医者をやってるなんて、前代未聞だぜ」
「タチバナ、少女は死んだぞ」
 ・・・・・少女は死んだぞ・・・・、
 うっ!・・・、床を押し上げる浮遊感に一瞬吐き気が込み上がる。
 畜生!と壁に拳を打ち付けると干上がった喉の奥で、認めたくない言葉がひりついた。
 『助けられる命が優先だった』
 
 部屋に戻り服を脱ぐのももどかしく、真っ先にシャワーのコックを捻った。土砂降りの
雨のように身体を叩く湯の中で、何度も大きく息をつく。己の未熟さと繰り返した苦い思
い、自己嫌悪に流した悔し涙が排水口に流されていった。
 あれは、今から2年前の冬だった。暖冬続きの日本に数十年振りで降った雪がイリュミ
ネーションの街を白一色に塗り替えていた。
 道行く人はコートの襟を立て皆俯いたままで行き過ぎ、一面の銀世界に足を止める者は
いない。普段は賑うその通りも沈黙し家路を急ぐだけの道筋となっていたが、道路では慣
れないアイスバーンに事故が続出していた。ハイウェイではバスの横っ腹に乗用車が突っ
込み、クラッシュしたバイクは歩道で炎上した。死者7名、重軽傷4名・・・・、そんな
ニュースが報道される最中、ITTの緊急医療センターから連絡が入った。繁華街で玉突
き衝突を起こしたホテルの送迎用のバンが、仕事帰りの買い物客で溢れたデリに突っ込ん
だらしい。ついてない・・・・と、遂に呼び出しがかかり駆り出される破目になった週末
の夜を恨めしく思いながらも、その時はまだ、今夜の約束を違えたことばかりが気がかり
だった。
 医療センターの廊下は事故で運び込まれた怪我人でごった返していた。だが、その数に
対応するには余りにもドクターの数もナースの数も少なすぎた。積雪の交通マヒが緊急コ
ールを受けたメンバーたちの足をも止めてしまっていたのだ。センターから車で10分の
マンションにいた自分でさえ、渋滞に巻き込まれ到着まで1時間を要してしまっていた。
そして、慌しく手術室を出入りする血みどろのクランケと対面した人々の叫びと涙と怒
罵は当然のこと、手当たり次第にセンターの不備に向けられた。
「なぜ、もっと敏速な対応ができないのか!」
 その悲痛な抗議の中で大勢の人間が命を落としていった。そして、激情のままに吐き出
される怒りと号泣は、ポリスに報告するための死亡者リストの中に、あってはならない名
前を見つけて茫然と立ち尽くす自分にも平等にぶつけられた。

『昂、話がある。私の部屋まで来たまえ』
 ベッドサイドの電話が鳴ったのは煽った酒で無理やり眠入った矢先だった。相手を察し
て受話器を取るのを躊躇った自分に気づいたのか、ドクター・ナンブは10分の猶予をく
れた。心の準備をして来い・・・ということだ。
 クローゼットから新しいシャツとズボンを出して身につける。ネクタイを締め、髪を束
ねてから冷蔵庫のナチュラルウォーターを一気に飲み干した。

 ノックをしたドアの前で中からの返事を待つ間が酷く長いように感じられた。部屋に入
るとデスクに書類を残してドクター・ナンブが立ち上がった。
「話は聞いた、で、君の言い分を聞かせてもらおうか」
 前置きなど勿論なく話は直接的だった。いつもの落ちつた物腰でソファに移り、座りた
まえと促す彼の、だが、眼鏡の奥を推測することは出来ない。
「言い分などありません、お聞きになったことは事実です」
「金を受け取ったと?」
 頷く他はない。
 ふぅ・・・と、小さく息をつき彼の目がチラとデスクの上に残してきた書類を見た。
 書類はきっとバーグマン大佐と少女・・・名も知らない・・・のカルテと死亡診断書だ。
「当直医は君一人だったんだね、他のドクターが来るまで大佐を維持装置で持たせようと
しなかったのは何故だね」
 ガラスのテーブルの上で指を組むと、心持ち身を乗り出した格好になる彼の眼鏡のレン
ズに自分が映っている。咄嗟に目を背けるために下を向く。
「昂・・・?」
 それは・・・、少女は自分の手には負えなかったからだ。執刀すればこの手で死なせる
ことになったからだ・・・だが、それをドクター・ナンブには言えない。
 大理石のサイドボードの上から時計の秒針が文字盤を刻む音が聞こえた。この部屋にそ
んなアナログな代物があったとは今まで知らなかった。規則正しい針音にいつの間にかツ
ーンという耳鳴りが混ざっていた。
 やがて、押し黙ったままの自分に言い渡すべき結論を言葉にするために、ドクター・ナ
ンブは小さく溜息を漏らした。
「私は君に私の教えられる全てのことを教えようとした、細胞学を学ぶに必要な知識、専
門医としてのそれと技術、だが、肝心なことを習得してはくれなかったようだ」
 肝心なこと・・・?
「処分は追って決定する、それまでは謹慎だ。部屋からは一歩も出ることは許さない、い
いな」
 辛らつな言葉にも決して声の調子は変わらないが、眼鏡を外し、目頭を押えた彼の眉間
には深い皺が刻まれていた。

 バーグマン大佐と少女の件は、既に尾鰭や背鰭の付いた噂となって医療棟に充満してい
た。係った医療チームの面々は皆慎重に口を閉ざしたが、好奇心な中傷はフロントドアを
出るまで容赦なく付いて回った。
 再び部屋に戻るとベッドに倒れこんだ、前日からの緊急事態も重なって丸2日一睡もし
ていなかったことに気が付いた。ネクタイを引き抜き、ナイトテーブルに腕を伸ばして、
グラスに残っていたバーボンを喉に流し入れる。
 午前11時、眠ってしまう前に電話を入れる。バーグマン大佐の術後の経過を知ってお
くために。ナースセンターへのコールは2度で繋がった。タチバナだと名乗ると事務的な
ナースの報告は「良好」だと伝えてくれた。

 目が覚めたのはドアチャイムが鳴ったせいだ。
 カーテンを引いたままだった部屋は目を開けても真っ暗で、ベッドヘッドの目覚まし時
計の蛍光文字で時間の経過を確認する。
 午後9時12分、優に10時間近く寝たにしては身体中が重いのは、浅い睡眠しか得ら
れなかったせいだろう。薬を使えばよかったと思いながら、ベッドを降りると急かすよう
にチャイムが鳴り響いた。
「何方?」
 ドアホンに問いかけると、『俺だ』と返答があった。
 そんな返事をする奴は、自称親友を決め込んでいる薬学部のシュワルツ・セームに違い
なかった。
 今は誰に会う気もなかったが、門前払いには出来ないのでロックを解除する。と、こち
らが顔を出す間もなくドアは向こう側から乱暴に押し開けられた。
「眠ってたのか?」
ナイトシフトで出て来たばかりなのか、上品な英国製のスーツには似合わぬハンバーガ
ーショップの紙袋を持って、ずかずかとリビングまで入って来たセームは「食ってないん
だろ」と、それをガラスのテーブルに置いた。
「ああ」
朝食どころか昼も夜も食べてはいない、だが、食べる気はしない。
「何の用だ?」
勝手にソファに腰を下ろしてしまったセームの向かい側に仕方なく座ると、彼は懐から
煙草を取り出して、きょろきょろと回りを見回した。
「悪いな、部屋では吸わないんだ」
「そうか」
 灰皿がないのが解ると渋々煙草を懐にしまい、セームは紙袋の中からコーラの缶を選ん
でプルトップに指をかけた。
「大佐の経過は順調だそうだ」
「ああ、聞いた」
 話をどう切り出そうか迷っている様子のセームは、手持ち無沙汰にコーラの缶に口をつ
けては弄んだ。
「すまない、今は何も話す気がしない。差し入れの夕食は有り難く頂く、悪いが帰ってく
れないか」
 俯いたままでそう言った自分に、セームはコーラの缶からゆっくりと視線を移した。
「なあ、なぜ、金なんか受け取った?」
 これが本題だ。
「皆の想像のとおりさ」
 何と思ってくれてもいい、てっとり早く事を済ませたかった。『助けてくれ』と大佐が小
切手を取り出したのは、自分には好都合だった。
 セームは懐に手を入れもう一度煙草を探った。ボックスから1本抜いて今度は火をつけ
ると最初の一息を深く吸い込んだ。
「正直になぜ言わない、プライドが許さないのか?」
 その言葉は的確だった。
 自分には少女を助けられない、そのことを言えずに助けられる命を優先した。バーグマ
ン大佐を一刻も早く手術室に運び込む理由が必要だった。それがあの小切手だ。
「何とでも思えばいいさ」
 何を言ったところで言い訳にさえならない・・・・。投げやりな言葉に唇が震えるのを
悟られぬよう顔を背ける。セームは煙と一緒に大きな溜息を吐き出すと、火をつけたばか
りの煙草をコーラの缶に捩じ込んだ。
「ITTなんてな、そういうエリート集団から引き抜かれて来た者に皆が向ける信望や羨
望は、当人が考えているよりはるかに大きいものなんだ。そして容易く妬みや嫉妬の対象
にもなる。おまえがそれを疎ましく思ったり、重荷に感じたりするのは仕方のないことだ。
 実際、能力以上に過大評価されている自分とのギャップに悩みもするだろう、今回のこ
とも外科が専門ではないおまえに、周囲は多大な技量を要求する。ドクター・ナンブの期
待も然り、おまえにとっちゃプレシャーなんだろう。」
 違うか? と、問いかけたセームの目がまるで肉親のそれのように、母親か或いは父親
が我子を愛しむような眼差しを宿した。
「なあ、タチバナ、おまえは誰にでも人当たりはいいが、その実、誰にも心を開いちゃい
ない。それじゃダメだ。いいか、クランケとドクターは1対1の関係じゃない。医療チー
ムの全員がクランケを支えているんだ。信頼とか絆とか協力とかってものが必要なんだ。
そりゃ、高等な知識や技術は勿論要求される、だが、それだけじゃ人の命は救えない」
「偉そうなことを言うなよ、薬学医に何がわかる。執刀するのは外科医だ、腕と判断力が
手術台の人間を救うんだ」
 信頼とか絆とか言ったところで、一皮剥けば陰で相手の足を引っ張り合う、狡賢く保身
のために行動する人間ばかりじゃないか。今度のことで自分が頑なになるのもドクター・
ナンブに能無しだと認めさせたくないためだ。
「タチバナ・・・」
 おまえ本当にそう思っているのか? セームの目が問いかけていた。だが、口にしたこ
とを覆す気はなかった。
「ソノコさんが悲しむぞ」
 ・・・・・!
 不意に告げられたその名に膝の上で組んだ指がビクッを震えた。
 苑子は日本においてきた恋人だ、白く冷たい墓標の下に。
「苑子はもういない、帰ってくれ・・・・」
 露に浮き上がった指の関節を睨んだまま告げると、セームがコーラの缶を持ってソファ
から立ち上がった。
「食えよ、腹が膨れれば、もう少しマシな考え方が出来るだろうから」
 言葉を残し、足音がドアの外に消えた。
 
・・・・朝はダージリン、
杏のジャムを落としたトーストと
剥きたての林檎に小さなピックを立てて差し出す、
苑子の白い指・・・・・、

込み上げるものは何だ、悲しみか、身の内をどす黒く塗り込める嫌悪感か、己の無力さ
に象られた後悔か。
堪えた涙が不甲斐なさに胸を喘がせる。嗚咽を飲み込むたびに喉が焼けた。歯を食いし
ばるほどに唇の震えは酷くる、それを抑えるために硬く噛み締める。顎を伝った冷たい
感触が床に落ちて赤い染みになった。



Accident of the morning of midsummer 2


二度目のチャイムが鳴ったのに気づいた時は朝だった。今度は薬を使ったので熟睡する
ことが出来たが、おかげドアの外の訪問者は大きな荷物を手に締め出しを食らわされる破
目になった。
「早く開けてくれないから腕が痺れちゃったじゃないか!」
 両手に抱えた赤と緑の刷り文字の入ったデリの紙袋からは、バケットとナチュラルウォ
ーターのビンの頭が覗いている。
 どうしたんだ?と問うより先にキッチンに駆け込み、どさりとテーブルに荷物を下ろし
たケンが「これで当分餓死しないで済むだろ」と言って笑った。そしてバケットとナチュ
ラルウォーターのビンを引き抜くと、腕を突っ込みグリーンサラダやらフライドポテトや
ら生卵やらを取り出してから、紙袋の中身をテーブルの上にひっくり返した。
「おい、ケン」
「手伝ってくれよ、冷蔵庫に入れなきゃ」
 プロシュートにオイルサーデン、スイートコーンの缶詰に冷凍ピザ、マーマレードとア
ーモンドディップ、カマンベールチーズにナッツと缶ビールまである。
「これ全部買ってきたのか?」
「うん! ジョーと一緒にね、結構面白かったよ。デリって色んなものが売ってるんだな。
最初は何を買っていいか迷ったけど、あれもこれもって思ってるうちにワゴンがいっぱい
になっちゃってさ、あ、そのチーズと缶ビールはジョーのお勧めなんだ。バドワイザーよ
りスパードライってのがイけるんだって」
 ・・・・って、未成年の飲酒は! いったいどうやって買ったんだ。
 屈託ない子供の笑顔につられて、つい自分の立場を忘れそうになる。
「ケン、有り難いんだが・・・」
「ドク」
 言いかけた言葉に耳を貸す暇もないようにケンは冷蔵庫に食料を詰め終わると、テーブ
ルの上に残したライスのレトルトパックを手に取った。
「朝食、作っていくから食べてよね」
「作る・・・って、ケン」
 そこまで言いかけて、はたと気づいた。
「学校はどうしたんだ、まさかマーサの目を盗んで来たんじゃないだろうな」
 マーサというのはナンブの家の家政婦でケンとジョーのお目付け役だ。
「今日の授業は午後からだから平気さ」
「そんなスケジュールはないはずだ、それに、どうやってここまで来た?」
 ナンブの家からここまでは普通、車でも20分はかかる。まさか・・・・、
「ん? 博士の車でだよ。ちょうど島田さんと家を出るところだったから、だって、モー
ターサイクルだとちょっと距離がありすぎるもの」
 島田というのはドクター・ナンブ専属のボディガードだが、では、彼は番犬との散歩・・
もとい、ISOの公務の為のドライバー付の公用車にケンを同乗させたわけだ。
 やっぱり・・・、ドクター・ナンブはこの子には甘いのだ。
「ケン、朝食は・・・その、自分で作るから学校へ行きなさい」
「ダメだよ、そんなこと言ってドクは食べないつもりなんだ。食べないで餓死するつもり
なんだ」
「ケン・・・?」
 いったいどうしてそういう発想になるんだ。
「私は死ぬつもりはないぞ」
「なら、食べろよ」
 急に口調が変わってギロッと大きな目が睨みつける。ほぼ強制的に言いながら、レンジ
にケトルを掛け電子レンジにレトルトパックを入れてタイマーを合わせる。箱の説明書き
を確認してから慎重にスタートボタンを押して、ケンはこちらに向き直った。
「俺、ドクのことが好きだよ、だから、ドクにはいつも元気でいて欲しいし、辛い顔は見
たくない。一緒にまたキャッチボールもして欲しいし、ベスの散歩も付き合って欲しい、
勉強も見て欲しいし、ゲームの相手もして欲しい・・・・」
 ケン・・・・、
 この子は感じ取ってしまったのだろうか? 子供というのはこうも敏感なものなのだろ
うか? 出会いと別れを本能的に嗅ぎつける。
「キャッチボールも犬の散歩も勉強も、それからゲームも、君には一緒に出来る友達が沢
山いるだろ、ジョーだって」
 酷な言い方だと自分でも解っている。大人気ないのも十分承知だ。それでも、いい加減
なことを言って期待を持たせるよりは遥かに思いやりがあるだろう。
「それは・・・・別れの言葉なのか?」
「そうだ」
 上からの処分を待つまでもない。辞表は出来上がってデスクの引き出しにある。後はド
クター・ナンブの許に提出するだけだ。
「ドク・・・なんで・・・どうして?」
「大人の世界のことだ」
「ドクが決めたのか?」
「そうだ」
「ドクがそれでいいと思ったからなのか? ドクがそうしたいと思ったから?・・・」
「そうだ」
 私がそうしたいと思ったから・・・・だ。
 唇を噛んで大きな青い目が見据えた。澄んだ美しい、疑うことの欠片もないそれが、そ
して溢れそうになるものを堪えて潤んだ。
ケン・・・、差し伸べようかと迷った手を、留めた。偽善者になるつもりはない。
「・・・解った・・・」
 小さな肩が大きく息をついて、感情を飲み込んだ。これがこの子のやり方だ。決して相
手を困らせるようなことはしない。いつも自分を抑えてしまう。時には大の大人でさえ困
難なことをこんな小さな子供がやってのけるには、余ほどの精神力が必要だろう。それに
伴うストレスも相当なものだ。しかし、狡いようだが今は彼のこの自制心が有難い。
 チン!と電子レンジのタイマーが切れた。
 ハッとしたように項垂れていたケンが顔を上げた。
「あっち!」
 慌ててターンテーブルのパックを掴んで悲鳴を上げる
「大丈夫か」
「何ともない」
 とは言ったものの指が赤くなっている。
「こっちにおいで」
 シンクのコックを捻って流水の中に手を突っ込み十分に冷やしてから、腕を引っ張って
リビングに連れて行く。救急箱を取り出し、薬を塗って絆創膏を巻いたところでケンが口
を尖らせた。
「大げさだな、ちょっと赤くなっただけなのに」
「ああ、痛まないようだったら、夜には外してもかまわないよ」
「痛くなんかないさ」
 立ち上がるとまたキッチンに戻って行った。
「ドク、フライパンはどこにある?」
 心なしかぶっきらぼうに聞こえるのは、さっきの会話のせいだ。感情を抑えようとして
いるのが手に取るように解る。
「おい、ケン、もういいから、また火傷するぞ」
 心配になって見に行くと生卵をマグカップで溶いている。フライパンなどないと言うと
食器棚からパン皿を二枚出してきて、一方にパックの封を切ってライスを盛り付け、もう
一方には溶き卵を流すと電子レンジに入れた。
「スクランブルエッグの簡単な作り方なんだ」
 腕時計で1分測ると取り出してスプーンでかき混ぜる、もう一度入れて今度は30秒。
「よく知ってるな」
 あんな家で育っていながら、それも10歳や其処らの少年にこんなことが出来るなんて
知らなかった。
「博士の家に来るまでは、母さんと二人きりだったんだ。俺の母さんはさ、俺が小さい時
から身体が弱くて、だから朝食は俺の当番って決めてたんだ」
「へぇ、そうだったのか」
 そういえば母親はずっと闘病生活をしていると聞いた。ケンがあの家に来たのもドクタ
ー・ナンブの処置で彼女がナトリウムに入院することになったためだ。
「出来た!」
 今度は慎重にターンテーブルから取り出し、「ほら!」と自慢げにテーブルに置いたス
クランブルエッグは確かに上出来だった。それに冷蔵庫から探し出してきたバターを一欠
片乗せたところで、ケトルの湯が沸いた。
「グリーンティを探したんだけど見つからなかったんで、これで我慢してくれよ。砂糖を
入れずに飲むといいから」
 我慢・・・? ティパックを開けるとセイロン・・・、確かにグリーンティの代わりな
ら砂糖は遠慮したい。
「ライスはさ、体内での消化性に優れているから直ぐにブドウ糖になって吸収されるんだ。
だからパンなんかより朝食に向いてるんだ」
「それも博士から聞いたのか?」
「これはマーサさ」
 なるほど、実践的なことは彼女の方が上手のようだ。
「ドクは日本人だろ、だからライスの朝食なら食べると思ったんだ」
「いい子だな、君は」
 いつまでもそんな優しい心を忘れないでいて欲しい。素直でそして疑うことのない、純
真で真っ直ぐな心を・・・、
人間は生きていくために、いったいどれだけのものを捨てるのだろう・・・・、ふと、
そんなことを思う。
「ケン、ジョーと仲良くやるんだぞ。あいつはあれでなかなかいい奴だから」
 缶ビールに懐柔されたわけでは決してないが、あのヘイゼルグレーは不特定多数との人
付き合いは得意じゃなさそうだが、気に入った人間には深入りするタイプだ。決して裏切
らないと忠誠をたてる。たとえそれで自分が傷ついても心に誓ったことは貫き通す。決し
て自分は間違ってはいないのだと。
「解ってる、俺とジョーは親友だから」
「そうか」
「ヤバイ!1時間って約束だったんだ。車に戻らないと」
 慌てたケンが腕時計を見る、額に被った前髪と少女のような唇があどけない。
「今からならまだ午前中の授業に間に合うぞ」と戒めると「ちぇ、バレてたのか」と小さ
く肩を竦めた。
「俺、じゃ・・・、行くから」
 ドク・・・、繋げようとした言葉を硬く結んだ唇が遮った。
「気をつけて行っておいで」
 頷くとケンの背中は振り向くことなくドアを出て行った。

セイロンは土曜日の朝・・・・、
アールグレイがエキゾチックに香り立つ、
『ねぇ、昂、愛してる?』
お気に入りのカップを選びながら、彼女が尋ねる。
ソーサーに乗った銀のスプーンに弾ける光、テーブルの白いクロスに真っ赤な林檎・・・・

 答えの代わりの甘い接吻け、
それが最後の朝食だった・・・・、

 ジョー、ケンを頼んだぞ・・・・ガラにもなく感傷に浸った自分に苦笑しながらも、そ
の時はまだ、この決心が揺らぐことになろうとは思ってもみなかった。そして、遮られた
ケンの言葉に隠された思惑に気づく余裕もなかった。



更衣室のロッカーを開けると白衣のポケットにくしゃげた小切手が入っていた。バーグ
マン大佐の命の値段は、贅沢をしなければ自分がこの先不自由なく暮らしていけるほどの
ものだったらしい。それを破ってゴミ箱に入れると、ここを出て行くための後片付けは終
わった。後はネームプレートを外して世話になった白衣をクリーニングボックスに入れる
だけだ。
「後悔はしないのか」・・・、辞表を受け取ったドクター・ナンブは一言、そう添えた。
そして「はい」と頷く自分を見て心なしか眉を寄せたものの、それ以上の追求もなくまっ
さらな封筒に入ったまま辞表は受理された。
 これでISOでの自分の地位は完全に絶たれることになる、ITTに帰ることも叶わな
い。そればかりか明日の生活費の心配もしなければならない。だが、あれもそれも、考え
ることにもう疲れてしまった。正直言って、どうとでもなれと思っていた。

 ランドリーボックスの回収は週2回、土曜と水曜だ。予定通りに回収車が着けばいいが、
悪くすると次の回まですっとばすこともある。立つ鳥跡を濁さず・・・・願わくは今日は
予定通りに回収作業を行ってくれと、そんなことを考えながら更衣室を出ると、背後から
待ち構えていたかのように声がした。
「ドク!」
 振り向かずともその声が誰のものなのかは解った。
「行くなよ、ドク」
「ケン、もう決めたんだ」
「なんで! ドクは悪くないよ、ドクはりっぱな医師だよ!博士だってきっと解ってるは
ずだ」
 叫ぶようなケンの声が、交代勤務の入れ替え時間を過ぎて閑散とした更衣室の廊下に響
いた。
「私は君が思っていてくれるほど優れた人間じゃない」
 金を受け取り、バーグマン大佐を助けた。そして・・・・、
「君は聞き分けのいい子じゃなかったのか」
 解った・・・と、言ってくれたんじゃなかったのか。
「俺はいい子なんかじゃない、ケンカだってするし、授業もサボる、勝手に思い込まない
でくれよ! ねぇ・・・、ソノコさんのこと聞いたよ、彼女が亡くなったのはドクのせい
じゃないよ! 今回のことだってドクに責任はないんだ」
「彼女のことを誰に聞いた?」
「ドクター・セームだよ、彼はとても心配していて、ドクのこと・・・」
あの御喋りが!・・・・・、
 こんな子供にいったい何をどうやって説明したというんだ。どう繕ったところで自分を
正当化する理由になどなりはしない。いい加減なことを言ってこの子を惑わせるようなこ
とはしないでくれ、そう思うことが急速に自虐的感情を呼び起こす。半分ヤケというやつ
だ。
「ね、ドク、俺もジョーも・・・、ドクのことが心配だよ」
「誰も心配してくれなどと言ってない」
「ドク・・・!」
「子供に何が解かる?」
 自分にかかわっても碌な事はないぞ。傷つけまいとする気持ちが返って酷薄な言葉を選
んでしまう。だが、冷たく言い放ったその言葉に、先を閉ざすかと思ったケンの瞳がキッ
と睨みつけた。
「なら!なら解るように説明しろよ!」
 目いっぱい爪先立って上着の襟を掴んだ手が怒りに震えていた。食ってかかったその瞳
に、たかが子供に動揺している自分に驚きながらも、振り払うことが出来ない。
「2年前の冬、雪の降る日に交通事故で苑子は死んだ。運び込まれた緊急医療センターの
冷たいベッドの上で・・・私は間に合わなかった、私は苑子を助けられなかった! 苦し
くて、辛くて、だから日本から逃げ出した。それなのに今度は少女を死なせた。私は少女
を救えなかった。私に守れるものは何もない!」
 私に守れるものは何一つ・・・・、
「だから、また逃げるのか?」
「生意気な口を聞くな!」
 感情的になっている自分が信じられなかった。これ以上惨めにさせないでくれ。
「辛くなったり悲しくなったりすると逃げ出すのか、それが大人のやり方か」
「では、大人の言い方をしよう・・・、逃げるんじゃない、出直すんだ」
 まったく笑うしかない・・・、これが大人の狡さだ、ケン。よく覚えておくといい。
「待てよ!」
 振り払ったつもりの腕がしかと上着の裾を掴んだ。
「なら、俺を守ってみせろよ、ここで俺を守ってみせろよ! ドクはGプロジェクトの俺
の担当なんだ、だから俺を守らなくちゃいけないんだ。これはドクの使命なんだぞ!」
「Gプロジェクト?」
 ドクター・ナンブが進めているというシークレットプロジェクトのことか?それにケン
も関係しているというのか? セームがチームに加わったことは聞いていた、が、自分が
メンバーに選ばれたなどと聞いた覚えはない。
「ドク・・・、それでも行くのか? 俺を置いて行くっていうのか!」
 背中に温かい体温を感じた。飛びついて来た身体が離すまいと腕を絡めて引き止める。
「ケン、」
 イヤだ・・・、と首を振る仕草がそう訴える。
「俺を守ってくれよ・・・」
 今まで威勢の良かった声がしゃくり上げるものに語尾を途切れさせた。その代わり華奢
な腕が信じられないほどに力を込めた。
 守る・・・? 君を? この身体に触れる、手を伸ばせば腕の中に収まるこの温もりを?
 私に守れというのか? ケン、君を・・・・、
「ドク、YESって言えよ」
 応えれば私は何を取り戻せる? 皆の羨望か?ドクター・ナンブの期待か?ISOでの
ポストか? そんなものは、いらない。それなのに胸が熱いのは何故だ。泣いているのは
ケン、君か? それとも私だろうか・・・、思いのままにぶつけられる感情がこんなにも
激しいものだとは知らなかった。こんなにも優しいものだとは知らなかった。
 今ならまだ間に合うのか・・・そんな気を起こさせる。今ならまだ取り戻せるのか・・・

 苑子、もう一度君の笑顔を見ることが出来るのか?
「ケン・・・」
 降参だ・・・・。まったく、なんて様だ・・・・、こんな子供に言いくるめられるなん
て、こんな子供に・・・、
「解った、どこにも行かない」
呟くと、腰に回っていた腕が胸に上りシャツを掴んでギュッと握り締めた。



Accident of the morning of midsummer 3


 そしてネームプレートを外した白衣をランドリーボックスに入れ、私は新しい白衣の袖
を通すことになった。しかし、一旦受理された辞表を撤回することはもとより、上層部が
下した処分には逆らえはしない。
 が、後日、辞表の取り下げを同意したドクター・ナンブは、まじまじと私の顔を見て言
った。

「君には大切なことが身についていないと言った私の見解は、間違っていたようだな」
 えっ?
「子供の感覚というものは実に敏感だ。人間の良し悪しを本能で察知する」
「どういう意味ですか?」
 子供の感覚が本能的で物事を察知する能力に長けているということは知っているが・・・
「子供に好かれる人間に悪人はいないということだよ、君は小切手をどうしたね?」
「捨てました」
「そう、それが答えだよ」
 気のせいか彼の口許が綻んだように見えた。
「実はGプロジェクトのケンの担当は、ドクター・カインに決まっていたのだ」
「何ですって?」
 これには耳を疑った。話が飲み込めないと身を乗り出すと、ドクター・ナンブは眼鏡の
奥の瞳を細めて苦笑した。
「ケンがどうしても君を自分の担当にして欲しいと言い出してね。寝ずのストライキをし
て・・・、まっ、あれの思惑は直ぐに解ったが・・・、なにしろ頑固でな」
 それで私の方が折れたというわけだよ・・・・と、大きな溜息をついた。
「ケンが・・・?」
「おかげでカインのために新しいポストを用意しなければならん。今更プロジェクトから
外すわけにはいかないのでな。ケンはおそらく君がGプロジェクトメンバー選出の最終段
階まで残っていたことを、知っていたんだろう。どこから聞いたのかは解らないが・・・
共犯者なら、君にも心当たりがあるんじゃないかね」
 共犯者だって? 心当たりなら十二分にある。ではあの二人はグルだったというのか?
どうりで揃って差し入れだの、朝食だのとやって来たわけだ。
「昴、最終決定で我々が君ではなくカインを選んだのは、彼のキャリアを重んじたからだ。
解るか」
 余程驚いて間の抜けた顔をしていたのだろうか? 嵌められたと真相を知った自分を見
て奥歯で笑いを噛み締めたものの、ドクター・ナンブの次の言葉は真剣だった。
「ええ」
 此方も表情を改める。
「医学、細胞学の知識や技術面において、君が彼に劣るとは思わない。しかし、積み重ね
てきたものは彼の方が年齢からいっても遥かに多いだろう。それは前者では補えない貴重
なものだ。信望、人脈といったものも然りだ。そしてそれがイコール実力として評価され
る。我々の責務はマンツーマンじゃ果たせない。今度のことで君にもそれが解っただろう
と思う」
 信頼と絆と・・・そして強さ、
ケン・・・、
あの怒りにも似た、燃え立った青い瞳を思い浮かべる。
 言葉を留めて硬く結んだ唇は諦めではなかった、キッと睨みつけた瞳は強さ以外の何も
のでもなかった。そうだ、私はまだまだ多くを学ばなければならない。
「やり直しますもう一度」
 ケン、今度は本気だ。そう決心する心を汲み取ったかのようにドクター・ナンブの口元
が緩んだ。
「それを聞けばケンも安心するだろう。しかし、見かけによらず、あれの一途で強情なと
ころはまったく手に負えない。こうと思ったら梃でも譲らない、卑怯なのは黙って君を出
て行かせる私たちだと指摘されたよ」
 眼鏡を外して目頭を抑える、厄介なことが片付いた安堵感からか、そえとも疲れのせい
なのか、その時始めて、家族や親しい友人に気を許すような、穏やかで優しげな彼の素顔
を見たような気がした。そして同時に、ケンに対する愛情と思い入れの深さをまざまざと
見せ付けられたかのようで、思わぬ嫉妬を抱いてしまった。
「昂、ケンを頼むぞ」
 そう告げる彼の声の重さが、何よりの証拠だ。が、それは勿論、彼の愛情がケン一人に
執着されているという証では決してなかった。もう一人のヘイゼルグレー、ジョーに対し
ても彼は隔てることなく愛情を注いでいたし、その証拠にケンとジョーはお互いを良き半
身として認め合い、彼の許で両親の揃う家庭で育つごく普通の子供とちと何ら変わらぬ、
・・・多少その過程にある種の問題はあろうが・・・成長を遂げているのだから。
 改めて2人の姿を思い浮かべる。どちらも悪戯盛りの悪ガキだ。彼らはこの先どう成長
してゆくのだろう?
 辛くなったり悲しくなったりすると逃げ出すのか、それが大人のやり方か・・・ケンの
瞳が孤高ともいえる輝きをもってこの身を干渉する。
 清廉潔白さを我が身に誇示するのは少年の特権だ。だが、その特権を持ち続けることの
出来る者が稀にいる。しかし、それは同時に危うさという少年の弱さをも共に持ち続けな
ければならない。時にはいっそ潔いまでに孤独を貫き通す・・・・、それはとても残酷な
ことかもしれない。が、それでも・・・、ケンの中にそれを見届けたい衝動に駆られる自
分がいた。そして、
 ケンを頼むぞ・・・今はその期待が快い。深く頷いて了解する。それを見て取ったドク
ター・ナンブは思い出したように腕時計に目を遣った。次の会議の時間が迫っているのだ
ろう。
「もう下がっていいぞ」
 言って、デスクの書類を整えてファイルに挟み込み、受話器を取ってデータをペーパー
にコピーさせるために秘書を呼ぶ。ふと顔を上げて、まだそこを動かない自分を見つけて
「どうしたのだ?」と眉をよせた。
「まだ、迷うことがあるのかね?」
「いえ」
「では、何か言いたいことでも?」
「いえ、仕事に戻ります」
「うむ・・・」
「私には、まだ守るべきものがありますから」
 ゆっくりと背を向けて部屋を後にする。ドクター・ナンブの眼差しがドアを出るまで、
まるで見守るかのように自分を包み込んでいるのを感じた。



 こうして私はGプロジェクトの正式メンバーとして、又、ケン・ワシオの担当として再
びISOに身を置くこととなったのだが、あの時、最後にドクター・ナンブに残した言葉
は、今にして思えば彼への宣戦布告だったのかもしれない。
 そして、実はこれにはまだ後日談がある。と、言っても既に本格的にGプロジェクトが
動き出して2年半ほど経った出来事だったが・・・、

「俺に触るな!」
 廊下をそのドアまで駆けつける間に声は聞こえた。
 いったいどうしたんだ?
 焦る気持ちを抑えて半分開いたままのドアに飛び込む。
「いい加減にしないか! 自分が今どんな状態なのか解ってるのか、貧血でぶっ倒れてる
んだぞ!」
 ナースを3人従えた診察室で、大声を張り上げているのはセームだった。どうして薬学
部の彼が怪我人の治療に当たっているんだ・・・との疑問は後回しにして、処置台に真っ
青な顔をして腰を下ろしているケンに駆け寄った。
「遅いぞ!タチバナ」
 すかさず背中にセームの声、と目の前のケンの身体がぐらりと傾いだ。
「しっかりしろ」
 見れば肩に掛けただけの上着の下で、白いシャツが右の胸から脇腹へとぐっしょりと血
に染まっている。
「何バカをやってるんだ、さっさと・・・」
「ドクが来るのを待ってたんだ・・・俺の担当はドクだ。誰・・・にも、触れさせ・・・
ない」
 血色を欠いた唇が一生懸命に言葉を紡ごうとする。だが、もう後が続かない。
「ドクター・ナンブの部屋に届いた郵便物が爆発したんだ」
 セームの言葉に処置台に横たわったケンが苦しげに眉を顰める。
「何だって!で、博士は?」
「無事だ、いや、吹き飛んだ窓ガラスの破片で軽症を負った。既に治療が終わって3階の
病室に収容さている」
 なんてことだ、このISO内でそんな失態が?警備はいったい何をしていたんだ!が、
毒づいたところで遅い。では、この傷はガラスが刺さったための創傷か。ケンの身体から
上着を取ってシャツを引き千切る。幸い傷は胸を外れ鎖骨の下から腋へと血をしたためて
いた。
 即刻止血し、ナースに麻酔を施させ縫合に当たる。この時になって初めてこの部屋の担
当医の姿に気が付いた。
「ドクター・タチバナ、助かりました。あなたが外出しておられるということなので、ド
クター・セームに来てもらったのですが、あ、彼もGプロジェクトのメンバーだと聞いて
いたので・・・、ですが、この患者、どう言っても治療を受けてくれなくて」
 ほとほと困り果てたというように担当医は言った。
「彼が強情なのは博士も承知の上です。あなたを責めはしないでしょう」
 傷の具合を確認しながら、半ば上の空で出たその言葉に安心したのか、担当医はナース
の手から消毒液やらコットンやらを受け取ると自らアシスタントを務めた。
「ドク・・・」
 ケンの指が、咎めるように、消毒薬を垂らした傷をコットンで洗浄する手を掴んだ。
「ドク・・・、俺は・・・、俺は、博士を守れなかった・・・」
 震える唇が発したのを最後にケンは意識を失った。

「今度は君が落ち込む番かな?」
「・・・・」
 意識が戻ったケンは長い髪をピローに散らせたまま、此方を見た。が、直ぐに顔を反対
側に向けた。出血の割には傷が浅かったので然程ダメージを受けている様子はない。が、
「博士は無事だ、左腕と背中にガラスの破片を受けたが幸い軽症で済んだ。君のことを心
配して、ついさっきまでここにいらしたんだよ」
 言っても反応がない。
「ケン?」
 優等生が落ち込むと底がないのは自ら経験済みなので、同情はしない。そんなものは何
のフォローにもなりはしない。かといって追い討ちをかけるつもりはなかったが、
「この程度のことでめげているようじゃとてもGプロジェクトのメンバーは務まらない。
降りるのなら今のうちだ。どうする?博士には口添えするが・・・・」
 あの日、ケンによってGプロジェクトのメンバーに収まりここに留まった自分が、今度
は、そのケンをプロジェクトから外す手助けをする。
 些かきついかと思ったが、慰めや励ましの言葉は昔から苦手だ。上手い台詞が思いつか
ない。
 ビクッとケンの肩が震えた。と、いきなり身体を返したかと思うと、毛布を跳ね除けて
怒鳴りたてる。
「俺は、臆病者じゃないぞ!」
 当然走った痛みに顔を顰めた。
「怖かったのか?」
 図星を指されたのか、ケンはグッと唇を噛み締めた。膝の上で握った拳が震えている。
「あたりまえだ、人間、自己の常識圏を越えた危機に対して、恐れを抱かない者はいない」
 言い聞かせ、乱れた髪を整えてやりながら両手で頬を掬うと、ケンは、しかし、手の中
で顔を背けた。
「もし・・・、島田さんなら・・・」
「えっ?」
 ああ、なるほど・・・、そういうことか。もしあの場にいたのがボディガードの島田な
らドクター・ナンブに怪我はなかっただろうと、ケンは落ち込んでいるのだ。だが、いく
ら彼でも非常時以外はドーベルマンを部屋の中までは入れない。番犬は主人の散歩にこそ
付き合うが、主人の部屋でドッグフードを、もとい、コーヒーを啜ったりはしない。しか
し、いけ好かない奴だが、島田の日頃からの完璧な仕事振りを見ているケンにとっては、
これは十分自責の種になる。
「彼は訓練を積んだ超一流のボディガードだ、比べても仕方がない、君はまだまだ未熟だ。
自覚が足りないな」
「なんだって!」
 怒って胸倉を掴んだケンがまた顔を歪ませた。15針は縫った痛まぬはずはない。
 我ながらけっこうサディストだなと思いつつも、甘やかすことはしない。
「腕を磨くことだな、それが今の君の役目だ。泣き言は聞かない」
 平然と言ってのけてやると、鼻の先であの青い目がギラッと光った。
「島田を乗り越えたければ死に物狂いで腕を磨け」
 触れんばかりの唇で言い聞かす。それに応えるかのように、硬く引き結ばれた唇が僅か
に触れて直ぐに離れた。そして
「ちぇ、人が落ち込んでるんだ、少しは優しくしてくれたっていいだろ」と俯いたままで
今度はその唇を尖らせた。
それならばと「よしよし」と、頭を撫でてやると尚更尖った。
「私はあの時、強くなると誓った。だから君も私に誓え」
「ドク・・・」
「最後まで見ててやる」
「最後まで?」
「ああ・・・」
「俺を守って?」
「ああ、そうだ」
「死なば諸共ってやつかい?」
 ククッと笑ってケンが瞳を輝かせた。
 いい言葉だ・・・・、
「それを私に言ってくれるか?」
 ケンは唇を引き結んだ。だが瞳は外さない。
「ま、いいさ。愛の告白は先に取っておく。君が大人になるまでね」
 その冗談にケンの瞳は丸くなる。いや、冗談だったろうか?・・・疑う余地はなかった
が、まだ当分は本気だったと気づかない振りをすることにした。
「ドク、誓うよ」
 真っ直ぐな瞳が見据えた。
ああ、この瞳だ、この瞳がこの先どう変化を遂げるのか、それを自分は見届けたいのだ。
 戦いの場に挑み、その凄惨さに脅え、多くの屍と対峙しながら乗り越えていく瞳は、血
に染まり、紅蓮の炎に焼かれるだろう、非情さと冷酷さを身に付けた戦士のそれは、凍る
ような冷たさだろう、しかし・・・、
「いい子だ、ケン」
しかし、どんなに変化しても、『この青は決して私を裏切りはしない』
それは今でも疑うことのない確信にも似た思いだった。




Accident of the morning of midsummer 4




「立花昂くん」
 聞き覚えのある、だが、何度聞いても背筋にゾッと悪寒の走るような声が、本国を離れ
ては滅多に聞かれない正確な発音で私を呼んだ。
「驚かすなよ、島田」
 振り向いて声の主を見る。真夏だというのにダークカラーのスーツを隙なく着こなし、
見るからに懐にマグナムなどを潜ませているといった(実際そのとおりなのだが・・・)
風貌の怪しい男だ。
「何で君が今頃こんなところに居るんだ?」
 それは多分お互い様の質問だろうが、ケンの部屋から出て来たところを目撃されては確
認せずにはいられない。
「夕べはここに泊ったものでね」
「なんで? 博士はこの別荘には帰って来ないはずだが・・・」
「マンションの部屋のエアコンが壊れたんだ」
 ムスッとして島田が答えた。
「ああ、そういう訳か。大方中古マンションを買ったんだろ、それとも管理費を滞納して
いるのか」
「言っておくが、俺のサラリーはあんたの2倍はあるはずだが? あんたの方こそ、確か
ISOのフラット居住者だったな」
「大きなお世話だ!私があそこにいるのは緊急時に即対応するためだ。金に困っているわ
けではない」
「俺も管理費を滞納しているわけではない」
「・・・・・」
 お互い不毛な言い争いをしていることに気づいて押し黙る。そしてお互いその場を去る
タイミングを逃してしまったことを後悔した。
「ケンが戻って来ているようだな」
 先に口を開いたのは島田だった。
「ああ、体調を崩したらしい。私は彼を診に来たんだ」
「ふぅん・・・で?・・・」
で?・・・・、
「あ・・・、ああ、その、唯の夏バテだったよ」
 人を威圧するような眼光に、知らずと言葉が後退る。こいつの目つきの悪さはきっと職
業病だろうと診断する。
「ビタミン剤を与えて、少し休養させることにした。明日には回復するだろう」
「そうか・・・、あんたはなかなか腕のいい医者だな」
「な・・・なんだ、突然、気持ちの悪い!」
悪寒を走らせると、褒めてやったつもりだが、とシラッと答える島田の唇が、『知ってい
るぞ』と薄笑いを浮かべたように見えたのは錯覚だろうか?
「さて・・・と、朝食でも食って帰るかな」
 きっと気のせいだと自分に言い聞かせてダイニングルームに向かう。
「朝飯は食わないんじゃないのか?」
「ああ、いつもはそうだが、今朝は空腹でね」
 何でそんなことを知ってるんだ?と思わず足を止める。こいつは興信所の回し者か?私
は素行調査されるような覚えはないぞ、と思いながらも、はっと気づいて口を押さえる。
しまった!!!墓穴を掘ってしまった。
「そうか、それは健康的だ」
 フフン・・・と、今度はあからさまに島田が笑った。
「私が朝食を取ろうが取るまいが、君には関係ないだろう」
「そうだが・・・、仕事柄、博士の周りの人間のことは、熟知するように心がけているん
でね」
「フン、熟知・・・ね」
 なるほど、それでジョーの身体も熟知しているというわけか。島田はジョーを抱く。だ
から今朝の自分の行為を彼にとやかく言われる筋合いはなかろう。こじつけもいいところ
だが・・・・、今度はこちらが鼻で笑ってやる。が、島田はポーカーフェイスを崩さない。
可愛げのない奴だと思っていると、
「気をつけろ、博士はああ見えてなかなか敏感だ」
 捨て台詞のように残して背を向けた。廊下を突き当たり階下に降りる。玄関のドアを開
ける音がした。
 な・・・、どういう意味だ? それじゃ、もしかしてドクター・ナンブは島田とジョー
の関係に気づいているのか? それは不味いんじゃないのか・・・、あいつ、よくもあん
な平気な顔をして空恐ろしいことをぬけぬけと・・・、
言うものだと思いながらも、ジン・・・と、我が身に熱く疼くものが甦る。
 ドクター・ナンブ、彼はどういうふうにケンを愛してきたのだろう、そしてこれから先、
どういうふうに愛してゆくのだろう。ふと、そんなことを思う。
 彼は偉大だ、私にとっても。尊敬する師であり、良き理解者であり、厳格で心優しい父
でもある。彼はこの大地を・・・地球を・・・愛するが如くに、ケンを、ジョーを、そし
て私を愛するだろう、しかし、たった一人の誰かのために愛したことはあるのだろうか?
 私は彼を崇拝しているが、彼のようになりたいとは思わない。いや、到底なれないとい
う諦めかもしれないが、
「たった一人を守るのが精一杯だ」
 言葉にしながら、唇が緩むのを止められない。
そしてドクター・ナンブでは決して近づけない聖域のようなケンの欲望(エクスタシー)
に触れられたことに満足する。
求めよ、さらば与えられん・・・・。
 舌の上で転がす、自らに手向けた言葉のなんと心地の良いことか。
「さ、邪魔者はいなくなった、ゆっくりと朝食に有りつくとするか」
 階下のダイニングルームへ向かうべく階段を下りると、いつの間に聞き覚えてしまった
のか、島田の車のエンジン音と、タイヤが前庭の砂利を踏んで遠ざかって行く音が聞こえ
た。
 今日は月曜、週末から休暇を貰ったマーサは水曜までは戻らない。その間ここは自給自
足だ。食料は豊富に蓄えがあるが必要なものは買出しに行き、たとえフリージングとはい
え自ら冷蔵庫から出して、マイクロウェーブやレンジの火に掛けなければならない。
 湯を沸かし、カップスープはチーズの溶けたジャガイモのポタージュ、トーストとティ
ーは常備品だが、野菜室に林檎はあっただろうか・・・・?
真っ赤な果実を思い浮かべると、不意に浮かぶ風景、

月曜の朝はダージリン・・・・、
杏のジャムを落としたトーストに、ほうれん草を添えたスクランブルエッグ、
 デザートには剥きたての林檎・・・・、

彼女が笑っていると思うのは、私の都合のいい自己満足だろうか、喩えそうであっても、
戻らぬ時の果てで私は朽ちてゆきたくはない。
 だから、
 あの日の苑子の唇に、永遠の別れを・・・・、それを苑子は許してくれるだろう。
私が取り戻したものは、だが、まだこの手の中にあるわけではない、この先、掴むこと
が出来るのかどうかも儘ならない。しかし、それは決して不確かなものではない。
二度と見失ったりはしない。
 互いに交わした接吻けにも似た誓いが、この先、私をどう苛もうとも、潔いまでに清ん
だ美しい、あの孤高の青を、私は生涯守り続けるだろう。



END




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