Guessing Game(2)

by トールハンマー


「ジョー」
 俺を呼ぶケンの声、
「ジョー」
「ここだ、ケン」
 そう答える俺は、これが繰り返される“悪夢”だとは気づかない。
「ケン!」
 腕を伸ばし、必死でその手を掴もうとする、
「ジョー・・・・」
 だが、微かに触れ合った指先から、ひんやりと伝わる恐怖が背筋を這い上がる、
 ゾクリと震えた途端、ケンの姿は消え、凍りついた心臓だけが取り残される、
 ・・・・・・ケン、
 声が出ない、
 目の前には白い小さな墓標、
 俺はその墓碑を剥ぎ、冷たい土を死に物狂いで掘り返す、
 やっと、指先に触れた、
 今度こそケンだ、
 だが、俺の身体は動かない、
 どんなに力を込めてもピクリともしない、
 ケン、ケン・・・・・、
 舌の上で乾いた言葉が繰り返す、
 嘘だ、冗談じゃない!
 ケン!・・・・・、

「・・・・ケン」
 呻くように絞り出した声に目が覚める、夢はいつも同じようにして終わる。


2−失われたもの


 真上に昇った太陽に曝されて、遠く水平線の彼方でさざめき立つ波が幾つもの流線を描
いていた。
 その消えては立つ漣をジョーは見ていた。
 静かな海だった。一片の雲もない青空が海原と溶け合う狭間を、白い海鳥が長く美しい
翼を広げて戯れ合う。
「ケン・・・・」
 枯れてしまった呟きがまた一つ、唇から漏れた。
 その頭上で、太陽を遮った海鳥の両翼が光の輪郭に描かれた。
 黄金の、それはいつか見た翼。
 忘れもしない鮮やかな、目も眩むような・・・・・、遠い記憶、

 あれは・・・、まだここに博士の研究室が移る前、海辺に建った別荘が珍しくて、ケン
と2人してよくこの海岸までやって来た。まだほんの子供で、博士の目を盗んで外出する
スリルを楽しむような悪戯盛りだった。いつも一通り別荘の探索を終えると(・・・もっ
とも鍵が掛かっていて中には入れなかったが、庭の周りの垣根に巻いた蔦の花が咲いたと
か、塗装中だった壁にペンキが塗り終わったとか、運び込まれた積石が門柱に添えられた
とか、新しい発見が2人を喜ばせた)服を脱ぎ捨てて海に向かう。
 キラキラ光る真夏の海、ケンの白い肌が海鳥と一緒に真っ青な空に映える。
「ジョー!」
 砂浜を走りながらスニーカーを脱ぎ捨て、真っ先に波に塗れるのはいつもケンだ。
 そして俺を呼ぶ。
 負けじと同じようにスニーカーを脱ぎ捨て、Tシャツを放り投げ、ズボンも何もかも身
体から剥がして海に駆け寄る。熱い砂に足の裏がひりひりと痛い。思いっきりジャンプし
て波間に沈む。ひんやりと冷たい感触がたまらない。すぐ側でケンが笑っている。その鼻
先に海面をパシンと叩いて飛沫を跳ねかける。「やったな!」と反撃に出たケンの腕が身
体に絡みつく。
「やめろよ!やめろったら!」
「先にやったのはおまえだ!」
「ちょっと、待て!ケン!」
 波間に戯れる声。止めるのも聞かずに、はしゃぐケンの笑顔の中で、空よりも尚青い瞳
が輝いていた。
「ケン!!」
 子犬のようにじゃれ合うことに夢中になっていて、襲って来た高波に気づかず2人なが
らに被って、危うく引き摺られる身体を必死で波から這い出そうともがく。
「ジョー!」
 先に逃れたケンの呼ぶ声が聞こえる。「ジョー?」・・・続いてもう一度、そしてそれ
が3度目の泣き声に変わるのを待って、海面に顔を出す。
「泣いてんじゃないよ」
「このぉ!」
 青い瞳に涙を溜めた心配顔が、忽ち怒って赤く染まる。
 逃げて沖へ泳ぎ出した自分の後を追って、ケンが付いて来る。どこまでも、どこまでも、
そして、遊泳禁止のロープまで泳ぎ着いてケンは俺を捕まえる。
「降参だ、降参!」
「許すものか!」
「なにぃ、生意気だぞ!」
 暴れるケンの腕を取ってロープに背中を押し付ける。不安定な状態で束縛されて動きを
封じられたケンが首を仰け反らせる。その頭上に白い大きな海鳥が悠然と翼を泳がせた。
 一瞬、その姿がケンの背に重なって金色の翼を生んだ。
 美しい光景だった。うっとりと目を奪われている自分に気づいた時、俺は夢中でその身
体を抱きしめていた。
 逃げぬように、飛び立たぬように、この腕の中に。
 ・・・・・・行くな、
 その呟きが聞こえるはずはなかった。それなのにケンは言った。
「ジョー、俺はどこにもいかない」

 嘘つきめ・・・・・・、
 砂浜を歩き出すと足元に長くなった影が一つ、漫ろいながら付いて来た。
 夏は過ぎた。
 ケンがYONOで過ごしている間に夏は過ぎた。
 そして、もう二度と夏は来ない。
 「海が見たい」と言っていた。あれは、いつだったか? 具合が悪くて長い間ベッドに
臥せっている時だった。初めて見る儚いケンの表情に胸が痛んだ。
「良くなったら、連れて行ってやる」
 口約束だけだった。
 ケンの体調が良くなるのを待っていたかのように、仕事が急に忙しくなった。ベッドの
上での参戦を強いられたケンも、それに紛らわせてか陰鬱な影も消え、戦況が落ち着くに
つれて徐々に身体の方も回復を見せた。と言っても体調の変化はいつも急に現れ、良いと
悪いの繰り返しだった。それでも病状の進行は幸いにも食い止められている様子で、気長
に治療をしていこうという医師の言葉に苛立たしさを感じながらも、「今直ぐ、どうこうっ
て訳でもないさ」と言うケンの言葉が、状況を曖昧にしていたのは確かだったが、それを
鵜呑みにした自分が、ジョーは腹立たしかった。

 連れて来ればよかった。せめて一度だけでも・・・・・。
 耳元に寄せては返す波のさざめきのように後悔だけが残る。
 あの日、この砂浜を走ったケン、追いかけた俺。
 繰り返される光塗れる風景。
 何度も、いつの日も、それはここに存在すると思っていた。
 最後の海・・・・、
「こうしておまえと泳ぐのも、暫くはお預けだな」
 ケンが言った。
 訓練所での最終過程を終えた夏の休暇、これが終われば正式にチームを組んで実践に赴
かなければならない。
 黙って頷く俺に、ケンの顔が妙に大人びて見えた。
 夕日が沈む、泳ぎ疲れて浜辺に佇み最後の夢を見る。
 その美しい夢の中で、覚えたての接吻けを交わす。初めての、そして一度きりの。
 朱色に溶けた太陽が水平線に一条の光の帯を伸ばしている束の間に、そして、少年の日
の夢は終わった。

 「畜生!」
  堪え続けていたものが一気に押し寄せ、ジョーは崩折れて砂浜に拳を打ちつけた。
「ケーン!」
 大声で叫ぶ。途切れることなく何度も、その名を呼ぶ。
 涙が溢れた。とめどなく頬を伝った。
 それを拭うことも忘れて、ジョーは激情のままに何度も何度も白い砂を打った。
 やがて陽が落ち、最後の夢が閉じた後の寒々とした夕暮れの景色が訪れるまで。

「ジョー」
 膝を付いて蹲る背後で、低い聞き慣れた声がした。
 握り締めた指の隙間からさらさらと零れ落ちていく砂を、また掴んでは何度も同じこと
を繰り返していた手が瞬間強張り、砂を握ったまま絶望を湛えた瞳が、縋るものを見つけ
て細く歪められた。ジョーはそこにある姿をゆっくりと確認するように振り返った。
 長い間本部の研究室に篭っていたという南部の顔は、灰色に彩度を落とした薄暮の中で
酷く痩せこけて見えた。それはISOの最高権威者の顔でもなく、比類ない頭脳を持つ稀
なる科学者の顔でもなく、また世界の命運を左右すると言われる戦略家の顔でもなかった。
 そこに立つのは自分と同じ大切な者を失った悲しみを共有する、最早初老を迎えた1人
の寂しい男の姿だった。
 だが、その線の細い頼りないシルエットに、ジョーはまるで襲いかかるようにして掴み
かかった。
「なぜ、助けてくれなかった! なぜ、ケンを死なせた!」
 怒りをぶつける場所を漸く見つけたかのように、ジョーは南部の胸に砂に塗れた両の拳
を打ちつけた。それがどんなに彼を傷つけるとも、どんなに自分を混沌とした悲しみと苦
しみと自己嫌悪の泥沼に追い込むとも知りながら、ジョーはその衝動を抑えることが出来
なかった。
 南部は無言だった。ただ黙ってジョーが打ちつける弱々しい拳を受けていた。
 それが、彼へ課せられた罪への報いででもあるかのように、そうすることがその罪が免
罪とされる唯一の罰であると信じるかのように、彼は黙ってジョーの悲しみの拳に堪えた。
 しかし、夕闇の空に一つ星が瞬き始めた頃、胸の上で静止した手を見て取って「戻ろう
夜風はまだ傷に障る」と、やっと自由に動くようになったジョーの身体を労わりながら肩
に手を掛け導いて、短い潅木で両脇を飾った別荘に続く石段を登り始めた。


 ぴっちりと引かれたカーテンが開かれると、いつの間にか夕暮れの薄墨色から漆黒の闇
に塗り潰された空に、幾つもの星が貼り付いていた。
 まだ晩夏とはいえ、海辺の家は夜ともなればかなり冷え込む。暖房を利かせる間、南部
は薄いカッターシャツだけのジョーに、自分の上着を掛けてやった。
「すみません。バカなことを言って」
 ぽつりとジョーが言った。
「いいんだ、私の力が及ばなかった」
 ソファに掛けて見上げた南部の顔は、情けない程年老いてジョーの目に映った。
 ふと、リュウの言葉を思い出す。
『ジョー、博士な。ケンが危ないって時に、おまえを呼び戻そうとしたんじゃ。あの博士
がじゃ、信じられんじゃろ』
 勿論、信じ難いことだったが、今の南部の姿から想像するには容易いことのようにも思
えた。
「なぜ、ここに?」
 ジョーは尋ねた。自分はここにケンの面影を探すためにやって来た。きっと博士もそう
だろうと解っていながら答えが欲しかった。南部は静かに笑った。
「ケンがここに、まだいるような気がしてな」
 思惑どおりの答えにジョーも微笑んだ。だが、同時に得も言われぬ不安が込み上げた。
 これがISOに君臨し自分達を動かして、幾度となく大戦の危機を救ってきた人間だっ
たろうか? この肩を落とした、眼鏡の下に深い皴を刻んだ虚ろにさえ見える目をした彼
が、世界を動かすとまで言われた、その南部考三郎なのだろうか?
 目の前に現れた不安が大きな輪を描いて、それがそのまま今の世界の情勢を危ういもの
へと導いて行くような気がして、ジョーは身を竦ませた。それ程に彼の存在というものは
強大であり、失われることの許されないものだった。
「ジョー、ちょうどいい機会だ。実は君に話があるのだ」
 掠れたような声が言った。
「君にプロジェクトを手伝って欲しいのだ」
「プロジェクト? マントル計画をですか?」
 突然の申し出にジョーは耳を疑った。
 幼い頃から自分はソルジャーとして育てられた。両親をギャラクターに殺され南部に引
き取られた直後から、厳しい訓練が始まった。復讐のため?平和のため? 問う間もなく
戦うことを覚えた。それが生き長らえる術であることを覚えた。そんな自分が銃を捨て、
今更どう間違ったら戦いから身を引けるというのだろう。
「俺に戦場を離れろと仰るんですか」
「私は君までも失いたくはない」
 南部の目には遠い日の記憶が甦っていた。

 共に迎えた2人の息子、慈しみ、愛し、託した息子。
 1人は親友の忘れ形見、母親譲りのブルネットに青い瞳、夕暮れ時になるといつも門柱
の鉄柵によじ登って自分の帰りを待っていた。そしてもう1人の傷ついた息子を連れて帰っ
た時、大人でさえも臆するようなきつい目をしたその少年に、物怖じすることなく手を差
し伸べた幼い笑顔を南部は今でも覚えている。つっけんどんにその手を振り払って庭の奥
に走って行った少年に呆気に取られた表情も、訝しげに自分を見上げた瞳も、「追いかけ
て行ってごらん」と言った言葉に、にっこり頷いて駆け出した小さな背中も、何もかも覚
えていた。そして、やがて心開かなかった手負いの少年が少しずつ殻を破るようにして、
彼に近づき、その青い瞳を誰よりも慈しむようになったことも。
 共に戦場に送り出した時、ただ復讐のためと誓った少年の戦いが、いつしかかけがいの
ない者達を守るための戦いへと変化していったことも、その過程で共有したであろう苦悩
と悲しみと挫折、そして喜びの中で培われた信頼と絆。その成長の全てを。
「どうかね、君に見合うポストも用意させる。考えてみてはくれないか」
 南部の目は真剣だった。
「私の頼みだ」
 項垂れるように僅かに頭を下げた南部に、だがジョーは静かに首を振った。
「俺を身代わりにしたって、失ったものが補える訳じゃない。博士、あなたが望んだのは
愛する子供ではなかったはずです。あなたが求めたのは優秀なソルジャーだった、お忘れ
なく。それに俺にコンピューターの相手は出来ませんよ」
 微かに笑った唇が直ぐに閉じられ、ジョーはソファを立った。向かい側に座った南部の
肩に上着を返して部屋を出ようとすると、俯いたままの南部が消え入りそうな声で言った。
「私に償えることは何一つないのか」
 膝の上で組んだ指が震えていた。そんな敗北者のような彼の姿は見ていたくなかった。
「戦闘員でいることに、俺もケンも後悔したことはありませんよ」
 言い残してドアを閉める。
「俺はあなたの部下です。それだけではいけませんか」
 泣いているつもりはないのに涙が滲み出る。後ろ手でノブを握ったままで背中を付けた
ドアから伝わってくる南部の思いが、ジョーを引き止める。
「俺は・・・・、畜生・・・・っ」
 その嘆きが自分を責めるためのものなのか、南部を責めるためのものなのか、それとも
他の何かに向けられたものなのか、ジョーには解らなかった。

 真っ暗な部屋に手探りで灯りを燈すと、直ぐ目に入ったのが白い壁に貼られた大きなポ
スターだった。
 大空をバックに見事なドッグファイトを繰り広げるジェットファイターの雄姿。ダネル・
ダグF−31レッド・フェンサー。全軍のFXの最終候補機種として選ばれていながらラ
イセンス生産で主契約者となった製造会社とメーカー側との折り合いが付かず、ついに日
の目を見ることが叶わなかった幻の戦闘機だ。
 近づいてジョーはじっと眺めた。ケンもきっと同じようにこうして眺めたのだろう。フ
ァーストルック・ファーストショット・ファーストキル・・・と、そのステルス性の分析
などしながら。
 ふとデスクの上を見るとフォトスタンドにもレッド・フェンサーが飾ってあった。
 青い空、一直線に伸びるジェットクラウド。その先端に煌めく銀白色の機体が、今は亡
きこの部屋の主を待つように、綺麗に片付けられたデスクの片隅に、ひっそりとあった。
 YUNOからケンがこの部屋に帰ることはなかった。だが、ここにはケンの思い出が残っ
ている。
 壁のポスターに、デスクのフォトスタンドに、床に積まれた航空雑誌に、ベッドのヘッ
ドラックで今も止まらず時を刻んでいるリストウォッチに、ケンの思いが残っている。
 その欠片を一つでも多く見つけようと抽斗に手を伸ばす。半分開けたそこに封を切った
煙草と使い捨てのライターが見えた。その奥にはレターパッドと走り書きをしたメモ、横
滑りの見慣れた筆跡で、何のためだか知れない時刻だけが記されていた。その下からジョ
ーは1枚の写真を見つけた。スーツにネクタイを結んだ、余所行きの顔をしたケンが写っ
ていた。おそらくIDカード用に撮られたものだろう。とき梳かした髪が大人しく耳に掛
かって背中に流れている。
 ・・・・・似合わないぜ、鼻先で笑ってやる。
 ここにケンがいればきっと「大きなお世話だ」と口を尖らせるだろう。しかし、写真の
中のケンは何も言わない。すました顔でこちらを見ているだけだ。
「笑ってみせろよ」
 もの言わぬ写真に話しかける。ケンの笑顔が欲しかった。
 真っ直ぐに自分を見つめた瞳が恋しかった。自分を呼ぶ声が恋しかった。初めて触れた
唇が恋しかった。
「ケン」
 誘われるようにテラスに寄ってカーテンを引き開けガラス戸を開く。海が見たくて。
 しかし、真っ暗な海は不気味なだけでジョーを慰めてはくれない。そればかりか遠くで
吠える海鳴りが、まるで深い水底から何本もの腕を伸ばし、魂を集める魔物の叫びのよう
で思わず戸を閉めてテラスを離れる。吹き込んだ風に一遍に身体が冷たくなった。凍るよ
うな魔物の吐息が吹きかけられたような肌寒さにジョーは震えた。
「どこにいる? ケン」
 返事がないのを知りながら、それでもたまらずに呼びかける。
 よろよろとベッドまでたどり着いて腰を下ろすと、さほど広くない部屋がやけに大きく
感じられて、ぐるりと辺りを見回した。
 だが、どこにもケンはいなかった。
「神様・・・・」
 口にした自分が信じられなかったが、ジョーはその先を続けずにはいられなかった。
「ケンを・・・・、ケンを返してくれ」
 嗚咽が伏せた枕に涙と一緒に吸い込まれる。
 情けない程女々しい姿を、だがジョーは明るい部屋の中で、例え誰に見られようと憚る
ことも出来ずに曝け出した。
 ケン、ケン・・・・、
 ただそれだけを祈りの言葉ででもあるかのように繰り返す。冷たくなった身体を両手で
掻き抱き枕に頬を擦りつけて、他の全ての言葉を忘れたように、ただその名だけを繰り返す。
 ケン、もう一度笑ってくれ、俺を見てくれ、俺に触れてくれ。
 ケン!・・・・、
 胸を締め付ける喪失感に、気が狂いそうになる。掻き毟った髪が指に絡みつき、焼けつ
くような喉が呼吸を妨げる。
 いっそこのまま俺を連れて行け!
 ケン! 俺を連れて行け!
 ・・・・・姿を見せろ!!
 声に出して叫んだのか、自分でも解らない。枕から上げた視界が涙でぼやけて何も見え
なかった。
 ゆっくりと呼吸を取り戻す。鼓動が確かに聞こえる。俺の鼓動だ。
 他には何も聞こえない。
 波の音も、そして、俺を呼ぶ声も、
 ケンは・・・・・、もういないのだ。



 夏が行き、ジョーがその知らせを聞いたのは秋も終わりに近い頃だった。
 だだっ広いリハビリテーションセンターのグリーンフィールドに、ジュンの姿を見つけ
て手を振った。久し振りに見る彼女の顔は少し痩せたように見えたが、それは長い髪を切っ
てショートヘアに髪型を変えたせいかもしれない。
「ここは広いわね、貴方を見つけるのに随分かかったわ」
 ナチュラルピンクの口紅と同じ色のイヤリングが短い髪に良く似合っている。幾らか大
人っぽく見える反面、自然に下ろした前髪が少女のように愛らしい。
「どうしたんだ、急に、こんな所へ訪ねて来たりして」
 ジョーは短くなった髪の訳を敢えて聞かなかった。
「・・・・実はね」
 ジュンは僅かに言葉を遅らせた。そして訝しげに見る目をやんわり避けて俯くと、仕事
を辞めたのだと打ち明けた。
 何故?と聞くまでもなかった。それが、彼女が髪を切った理由だ。
「辞めて、どうする?」
「アクラに行く医療チームが人手を欲しがってるの」
「行くのか」
 コクリとジュンは頷いた。アクラは前の大戦で長い間戦場となり、未だ各国からの救済
を必要とする戦跡地だ。
「大変だぞ」
「解ってる」
 キュッと唇を引き締めて、しっかりとジュンは答えた。
「賛成してくれるでしょ」
 迷いのないどこまでも澄んだ翠玉の瞳がジョーを見た。
 ああ・・・、人は悲しみをこうして乗り越えていかねばならないのだ。ジョーの心の中
に抑えようのない遣る瀬無さが込み上げた。だが、それを無理に隠して頷くと、ジュンは
安心したようにホゥと小さく吐息を漏らした。
「ジョー、あなたの方もそろそろ復帰でしょ」
「ああ、おかげさまで明日からは支局のトレーニングルームの方に移る」
「そう、良かった」
 ジュンは笑った。その口許はまだ悲しみを引き摺ってはいたが、ジョーには眩しいくら
い良い笑顔だった。そして又、
「私って、強い女かしら」
 そう問う彼女がいじらしく思えた。
「いい女だぜ」
 秋風に短い髪が額でそよいだ。グッと堪えるように一瞬歪められたジュンの瞳。
「辛くなったら、いつでも帰って来い」
 他にどんな言葉があっただろう。
 泣くまいと、決して泣くまいと思っていたジュンの瞳に、堪えきれずに涙が溢れた。
  俺達はいつも一緒だった。だが、別れはこうしてやって来る。
 ケンは何も言わなかった、何も残さなかった。俺は何も言ってやれなかった。俺は何も
してやれなかった。ケンにも、ジュン、おまえにも。だから・・・・、
「出発はいつ?」
「明日の朝、ごめんなさい。なかなか言い出せなかったの」
「見送りに行くよ」
 胸に縋って肩を震わすジュンの温もりを、ジョーは愛しむように掌に感じて、二度と帰
らぬものの追想に浸った。

 翌朝、ジュンはアクラに発った。
 小雨混じりの滑走路でささやかに交わした別れの言葉は「じゃあな」とたった一言。
 新しい門出に手向けると言葉にしてはそっけなかったが、それでもジュンはニッコリ
笑って「行ってきます」と手を振った。
 時が流れて行く。ゆっくりと、確かに。
 ジュンは悲しみを忘れるために新しい場所へと旅立った。それは勇気がいることだった
ろう。しかし、ここに止まっていても失った者は帰っては来ない。どんなに待ったところ
で戻りはしない。時間に取り残されていくだけだと彼女は知っているのだ。
 俺達はいつも一緒だった・・・・、それはもう過去のことなのだろう。
 ジョーはジュンが発った空を見上げた。灰色の低く垂れ込めた雨雲が続くその向こうを
昇ったばかりの太陽が薔薇色に染めていた。

 数日後、そしてまたジョーの手元に1通の別れの手紙が届いた。
 大戦以後、計画が中断されていたISOの海洋研究課の深海資源調査グループの一員と
してジンペイが正式に採用され、近くアメリスの研究所に移ることとなった旨を知らすも
のだった。



2−失われたもの END



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