Guessing Game(5)

by トールハンマー


Guessing Game 5−1


「俺を許してくれるのか・・・・」
「おまえを置き去りにした俺を・・・・」
 生きて帰っちまった俺に、おまえはたった一度だけ聞いた。
 思いつめた青い瞳、
 とても見てはいられなくて、身体の向きを変えたままで俺は言った。
「仕方なかったのさ」
 俺はおまえを救ってやれる言葉が見つけられないのが悔しくて、
 そんなものは、何処を探したってありはしなかったが、
「それが俺達の仕事だったんだ」と苦い思いで付け加えた。
 おまえは、黙ったままで唇を噛んで頷いた。
 いや、俺には頭を下げたように見えた。
 頬を伝った涙が、ポトリ、ポトリと床に落ちるのを、
 おまえは拭うこともしないで、いつまでも俺の前で頭(こうべ)を垂れていた。
 俺に出来たのは、その場を離れてやることだけだった。

 「よかったな」
 たった一言、それだけで良かったんだ。
それで御破算に出来たはずだ。
『ジョー・・・・』
 その目が時々、俺を辛くした。
 人には散々説教しておきながら、おまえが一番だらしなかったじゃないか、
 冷酷無比、戦場では氷の仮面を被っておきながら、
 おまえが一番、弱かったじゃないか、

 ケン、
 おまえが、一番・・・・・、

 それでも俺は、おまえの弱さが愛おしかった。


5−想い馳せるもの


 サイド6の居住施設は司令部から徒歩10分以内の支局の敷地内に位置している。緊急
時やちょっとした急ぎの用には庭内用に乗り捨てられたエレカを使うが、普段は緑をふん
だんに配した遊歩道を歩いて行く。
 深夜2時・・・・、水銀灯のぼんやりと灯る光が、黒いアスファルトの上にとまった緑
色の美しいモースを虹色に輝かせている。
 ジョーは歩道の脇にある灰皿の設えられたベンチを選んで腰かけると、ズボンのポケッ
トから煙草を取り出した。目の前を金粉を撒き散らすようにしてモースがふわふわと舞い
上がっていく。それを追って視線を移した先に気配を感じて目を凝らすと、水銀灯の向こ
うの暗闇からリュウが現れた。
「どうしたんじゃ、眠れんのか?」
「いや、煙草を切らしちまってな」
 と言い繕ったが、こんな真夜中にわざわざベッドを降りて煙草を買いに出て来たと言い
訳するには少々無理があった。ジョーはベンチに腰を下ろしたリュウの横で、既に封の切
られたボックスから、まだ半分ほど残っている煙草を摘んだ。
「なんじゃ、やっぱり」
「おまえこそ」
 火を点けながらジョーは苦笑した。
「久し振りの実戦で、ちょっと興奮しちまっての」
「これからは毎日楽しめるさ」
「ああ、身体が鈍らんですむな」
 リュウはその大きな身体をベンチの背に押しつけて伸びをした。丸太作りのどっしりと
したベンチの前足が僅かに地面から持ち上がった。
「ところで、大佐はいつになったら帰って来るんじゃ?」
「タカザキの話だと、明日の朝になるそうだ」
 吸い込んだ煙を一気に吐き出して答えると、先刻の彼との会話が甦ってくる。不眠の原
因だった。
「タカザキか・・・・、なかなかやり手じゃの」
 頭の後ろで腕を組んでリュウは頭上を眺めた。薄くかかった叢雲の中に月が青白く透け
て見えた。
 ホークの名はフェニックスのメンバー達の間でも高名だった。共に任務に就いたことは
なかったが、数有る戦闘チームの中で銀鷹(エル・アルコン)の率いるソルジャー達は皆
超一流だったし、当時、表に出なかったフェニックスを除けば、常に戦場での君臨を果た
していたと言っても過言ではなかった。そしてまたフェニックスと並んでも、その戦力は
決して劣るものではないということを自分達は知っていた。
 しかし、ジョーにはタカザキが掴みきれない、掴みきれない故に反発する。
「どうした、相性悪いのか?」
 会話を途切れさせたジョーにリュウは意地悪く尋ねる。ぼんやりしている風に見えるが
こういうところは聡い。
「アルのことか」
 言われて、ジョーの煙草を持つ指がピクリと僅かに震えた。
「そうじゃな、あれはオラもびっくりしたが、命令を下す人間ってのは時には、ああいう
判断を下すことも必要なんじゃないかのう」
「命令を出すのは奴じゃない」
 少なくとも今はまだ奴は参謀役で、いくら大佐が不在でも代行を命じられた訳ではない。
「おまえ、タカザキが気にいらんのか、それとも命令が気にいらんのか?」
 問われてジョーは黙り込んだ。
「ジョー、おまえ、変わらんのう。昔、ほら、ケンに食ってかかったことがあったじゃろ。
『きれい事じゃ平和は守れない』って言ったあいつの言葉におまえが怒って、あいつを殴っ
た」
「ああ、覚えてるよ」
 短くなった煙草を灰皿に投げると、ジョーは膝の上に肘を乗せて頬杖をついた。
 あの時、危機に曝された多くの人命を守るために仲間を1人犠牲にした。方法がない訳
ではなかったが、たった数パーセントの成功率に賭けるには、託されたものは大きすぎた。
俺達は安全かつ完全な方法を選ばねばならなかった。
「非情な命令もケンは下さなければならんかった。それがリーダーの役目だ。そしてオラ
達はケンに従った。切羽詰まったところでどうにもならないと解っていながら、オラ達は
使命感よりも罪悪感に押し潰されそうになった。だが、ケンの命令がオラ達を救ってくれ
た。『これは命令だ』そう思い込むことで、オラ達は罪の意識からの逃げ道を与えられた
んじゃ。あのクロスカラコルムで、おまえをギャラクターの中に置き去りにした時でさえ
もな・・・・」
 リュウの言葉に、ジョーは頷くことも否定することもなく、唯じっと水銀灯が落とす灯
りの中に集まったモースの乱舞に見入っていた。
「タカザキも幾つもの修羅場を潜り抜けて来た男じゃ、そういう英断を下すことには長け
ていると言っていい、そう思わんか」
「・・・・ああ」
 やっと答えたジョーの返事は至極曖昧だったが、リュウはそれ以上は言わずベンチを立っ
た。
「オラ、もう寝るわ」
 昼間は身軽に立ち回っていたが、普段は大きな身体を持て余している。リュウは重そう
に腰を上げるとベンチを離れた。が、少し行って振り返るとジョーを呼んだ。
「奴をどう思おうとおまえの勝手じゃが、チームワークを乱すような真似はするなよ」
 顔を上げたジョーにリュウは眠そうに丸い目を擦りながら言った。そして欠伸を一つ残
してフラットに続く闇の中に消えてしまった。

 きれい事じゃ平和は守れない・・・・・、
 あの時、拉致された仲間諸共敵陣を爆破する許可を得るために、博士との通信を開こう
としたケンを俺は殴り倒した。
「仲間を犠牲にするのか!」
 だが、俺の怒声も耳には入らないのか、血の滲んだ唇を拭って立ち上がったケンは再び
通信装置のモニターに向き直った。そして、その中に現れた博士が無言で頷くのを見て取
ると、俺達に背を向けたままでミサイルの発射ボタンを押した。
 ケンは一度も俺達を見なかった。
 爆音と共に木端微塵に破壊された建物が、やがて黒く焼け爛れた鉄骨だけを残して、立
ち上った塵埃を沈めるまで、一度も俺達を見なかった。
 俺達はメインモニターを擬視したまま振り返らないケンの背中を見ていた。だが、その
背が眼前の惨状に微動だに震えるとこはなかった。
 自分が崩れれば皆はもっと脆くなる。そう思ったケンの、それが精一杯の擬態だったと
今なら解かる。
 俺がケンを殴ったのは甘えだ。他にぶつけようのない怒りを、命令を下したケンにぶつ
けたのだ。しかし、『きれい事じゃ平和は守れない』・・・・・おまえの口からその言葉
は聞きたくなかった。そして今は、おまえにそう言わせてしまった自分の無力さに腹を立
てた行動だったと思い知る。
 おまえは全ての罪を身体一つに受け入れようとした。そして、その身深く杭を打ち決し
て自分から離れぬよう、自らの心臓を生贄とした。
 ・・・・・俺を許してくれるのか、
 それは自分に向けられた言葉だったろうか? 生きて帰った俺はおまえの罪の代弁者に
なってしまったのではあるまいか?
 ケン・・・・、
 低く呟いた声が闇の中に吸い込まれていった。立ち上がり、ジョーは灯りの中を潜って
歩き出した。
 ・・・・・ケン、俺はおまえを恨んだことなんて一度たりとなかった。俺はいつだって
おまえを守ってやりたかった。
 俺は、いつだって、おまえだけを・・・、
 誰もいなくなったベンチを照らす水銀灯の下に、ジョーの想いだけが残った。


Guessing Game 5−2



「坊や、よくやってくれたな」
 アニックが漸く本部のアンダーソンから解放され、室に戻ったのは翌日の昼近くだった。
 ジョーは黙って頷くと「出番がなくて残念でしたね」とからかった。ムスッと眉を引き
寄せて仏頂面になったアニックを見て、皆が一頻り笑った。
「大佐、ジョーのビッグショット、見せてあげたかったですよ。本当にカッコよかったん
だから!」
 自分が見た訳でもないのにそう言って、腕にまとわり付いたアルが子犬のようにじゃれ
て、よく動く目でジョーを見上げた。
「いつまでも浮かれてる場合じゃないだろ」
「だって・・・・、俺、感動しちまったんだから」
 まだ興奮が冷めきらない様子のアルの額を指でつつきながら、ジョーは釈然としない思
いに駆られる。
 アニックを囲み、再び俄かに沸き上がったメンバー達の様子を、遠巻きに眺めているタ
カザキの姿があった。
「何だよ、ジョー、ムスッとして、白けるな」
 そんなつもりはなかったが、アルは敏感に感じ取ってジョーをたじろがせた。そして必
要以上にタカザキの存在を意識している自分に、ジョーは改めて気づいた。
「何、怒ってんだよ」
 アルはぶつぶつと口籠った。
「怒ってやしない、こういう顔なんだ」
 彼には苦虫を噛み潰したような(・・・たぶんそんな顔をしているのだろう)自分の顔
が不満のようで、暫く恨みたらしく「俺が何したってんだよ、少しは嬉しそうな顔をしろ
よ、協調性に欠けるよなぁ」と独り言よろしく、それでも聞こえるように愚痴っていたが
不意に顔を上げると、はっきりとした声で言った。
「ジョー、俺、信じてたんだ。俺、絶対、ジョーがやってくれるって」
 アルは笑っていた。それは頑ななまでの信頼を自分に示しているように見えた。しかし、
応えて笑おうとした顔を、ジョーはアルから背けた。
「ジョー、俺、黙ってたホークって、正しかったと思うよ」
 背けた顔を追うようにしてアルが言った。瞬間、耳を疑いながらもジョーは反応していた。
「おまえ、知ってたのか!」
「ああ、聞いたよ。彼から。でもそれが何だって言うんだ。“作戦は常に考え得ることの
出来る最善であること”が鉄則だろ」
 アルはトビ色の大きな瞳を据えて真剣な眼差しを向けた。
 刹那、ジョーは突っ張っていた気が一遍に抜けたような気がした。脱力、しかし、その
虚脱感は決して疎ましいものではなく、俄かに唇が緩みだして胸の辺りからクックッと小
気味よい笑いさえ込み上げて来る。そして、どうしたのだ?と、気持ち悪そうに尋ねるア
ルに「そうだったな」と今度は、ちゃんと笑って見せることが出来た。
 タカザキは、きっとアルに打ち明けることで裏切りの責任を1人で負うことを考えつい
たに違いない。
・・・・・ちぇ、見掛け倒しのなんて不器用な野郎だ。
 そう思うとやおら可笑しくなって、フフンとばかりに笑ってやろうと、ジョーはチラッ
とタカザキを伺った。ところが、
「アル、いいのか? おまえの銀鷹(エル・アルコン)がルイザにちょっかい出してるぜ」
 いや、モーションをかけているのは、彼女の方か? ジョーの見遣った先で、すかさず
皆の輪から外れたタカザキを見つけたルイザが、隣に寄り添っていた。
 あの手の男が好みとは悪趣味な、とジョーはルイザの趣味を疑ったが、ン?と司令室の
ドア近くにいた2人に目を向けたアルは、何を血迷ったか大声で叫んだ。
「ルイザ! 純真なホークを猥雑な色気で惑わせるな!!」
 呆気にとられたのは本人達ばかりではない。
 室中に響き渡ったアルの声は、その場に数秒間の沈黙をもたらした後、寄り添った2人
を注目の的にした。
「猥雑ですって!」
 ルイザが憤慨するのも無理はない。真っ赤になってワナワナと身体を震わせた。だが、
さすがに皆の注目の中、その震えた拳を上げることは止まった。
「ルイザ、男を口説くのは勤務時間外に人目のない所でしろ。アルにはまだ目の毒のよう
だからな」
 その場を上手く取り繕ったアニックがルイザにウィンクを送る。此方を睨んでいるルイ
ザにアルはフイとソッポを向いた。タカザキは相変わらず無表情だったが、ちょうどハー
フオフに入った彼女を伴って(「では、人目のない所に行きましょうか」と言ったかどう
かは不明だが・・・・)室を出て行ったのは紳士的だと見るべきだろう。
「言葉に気をつけろよ、ガキが」
 頭をこつかれて、アルは「どうせ!」と口を尖らせたが、ジョーは“猥雑な”という件
より“純粋なホーク”というところが些か意表をつかれながらも、妙に共感出来ることに
驚いていた。
 ・・・・・本当にそのとおりかもな。
 北叟笑むと、記憶の中でツンと切ない痛みとなって甦るものがあった。

 ケン・・・・、
 「よかったな」って、俺にはそれだけで良かったんだ。
 おまえが忘れてくれれば、そうすれば、俺はおまえを抱くことも出来たんだ。
 律儀に悩むことなんてなかったのさ、それを、後生大事に思いつめて、
 挙句の果てに、先に逝っちまいやがった。
 勝手な奴だぜ、俺の気持ちなんてお構いなしだ。
 思い込みが激しいっていうか、不器用で・・・・・、
 ・・・・・あいつもまた、

「ジョー、何だよ、今度はニヤけちまって。どうなってんだ?」
 アルに言われて慌てて顔を引き締める。
「何でもねぇ」
「ふぅーん、に、しては何か嬉しそうだね」
 そんな風に見えてしまうのだろうか?
「ガキには関係ねぇ」
 凄みを利かせて言うと、やにわにアルの頬が膨らんだ。
「なーんで、そうなるんだよ! ガキ、ガキって」
 両手に拳を握ったアルの顔は、まだまだ幼い子供だった。それが気に入ってますます苛
めたくなる。
「ガキだから、ガキだと言ったまでだ。愛し合ったこと、まだないだろう」
 囁きかけた耳元が真っ赤になった。図星だったようだ。ジョーは満足だった。
「おまえ、幾つだっけ?」
 問うとはなしに問うと「16」と突慳貧な返事が返って来た。
 それじゃ、まだしょうがないな。
「心配するな、そのうち俺がいい娘(こ)を紹介して」
 そこまで言うと、ヌッと暗い影が現れた。
「ジョー! 健全な青少年に悪い遊びを教えるんじゃない」
 如何にも保護者面したアニックがアルの前に立ち、悪い輩を阻止しようと踏ん張った。
まったく・・・・、変なところで過保護なんだから。
「解りましたよ。じゃ、ガキの性教育は大佐にお任せします」
 言って軽快に踵を返したジョーに、アニックは頬を引きつらせた。
「何、性・・・教育だと? おい、ジョー、ちょっと待て! 俺は何も、おい!待ってく
れ。ジョー、坊や!」
 墓穴を掘った哀れなアニックの叫びを背中に聞きながら、勝利(・・・まだまだ一時の
勝利だが)に沸くメンバー達と、黙り込んでしまったアルを残して、ジョーは室を後にした。


Guessing Game 5−3


 廊下を突っ切ってフロントドアまで走ると、外は雨だった。
「エレカなら通用口の方にありますよ」
 両手に山とデータファイルを抱え、濡れた肩でドアを押し開け玄関を入って来たタカザ
キが教えてくれた。
「格納庫に行くんだろ」
 何故か自分の行き先を知っているタカザキに、ジョーは不審げな目を向けたが、その前
でバランスを崩した彼の手からバラバラとファイルが零れるのを見て、慌てて拾い上げた。
 入口から吹き込んだ雨と泥で床はかなり汚れている。濡れたファイルの表紙を軽く掌で
払ってから、元の山に崩れないように乗せてやると「ありがとう」と素っ気ないかと思っ
た言葉が素直な笑顔を添えて返って来た。だが、その後が悪かった。
「意外と親切なんだな」
「ぬかせ! 親切ついでに手伝ってやる」
 タカザキの腕から半分取って自分の腕に抱える。歩きながらジョーは尋ねた。
「ルイザに口説かれていたんじゃなかったのか?」
 チラッと黒い瞳がジョーを見た。が、直ぐに視線は元の場所に戻った。
「生憎とこっちは勤務中ですので、それに女は口説く方が得意なんです」
 真面目な顔で巫山戯たことを平気で言ってのける。『それは、それは』と内心茶化した
つもりだったが、その後の言葉は「でも、まだ本気で口説いたことはありませんが」と今
度は意外に控えめだった。
「へぇ、見かけによらず奥手って訳だ」
「好きな相手には誰だって臆病になります」
 アルから聞いた事実にタカザキの内心を知ったせいか、いやに親しげに接してしまう自
分を、単純な人間だな、と思いながらも、ジョーは彼を冷静に観察している自分に気づい
ていた。それがまた信じ難いことで、自分が他人に興味を示すのは至極珍しいことだった。
「フーン、そんな相手がいるのか?」
「君にも心当たりがあるだろう」
 タカザキは意味ありげに流し目で笑った。
「えっ?」
「女たらしのコンドルのジョーも、たった1人の想い人は落とせなかった・・・、という
ことだ」
 言われた意味を察して、ジョーは僅かに歩調を遅れさせた。
 雨は司令部のある別棟に続く渡り廊下を行く2人の両側で降りを弱め、しとしとと長い
雨糸を垂らしていた。

 そういえばこんな雨の日だった。
 作戦に失敗し、弾倉に最後の一発を残して追われる身となった俺は、敵を撒きながら必
死で逃亡を試みた。
 泥濘を走り、水を跳ね、銃弾の間を潜り抜けて、漸くケンと落ち合う場所までたどり着
いた時には、約束の時間をとうに過ぎていた。
「大丈夫か」
 冷たい雨の中を何時間も走った俺を、ケンは気遣ってくれたが、長い髪に銀滴を滴らせ
たあいつもびしょ濡れだった。
「ドジったな」
 血の気の失せた唇でそう言った俺に「まあいいさ、おまえが無事だったんだ」と、ケン
は笑って答えてくれた。
 行き交う人波、クラクションの音、霞むイルミネーションと高層ビル。街の雑踏に紛れ
て、俺達は次の指令を待つために、近くの安ホテルに身を潜めた。
 外観の割には中の部屋は小綺麗に整っていて、ナイトテーブルに飾られた不似合いな年
代物の置き時計が正確に時を刻んでいたのを覚えている。
「先にバスを使えよ」
 濡れて身体にぴったりと貼りついたTシャツを、乱暴に剥がしながらケンが言った。
 その時の、ケンの、その白い上半身が今でも妙に生々しく記憶に残っている。
「ああ・・・」
 同じように服を脱ぎながらバスルームへ向かう俺は、クローゼットを覗き、1枚しかな
いバスローブをケンに放った。
 指令は明日の朝になるかもしれない・・・・、コックをいっぱいに開いて熱いシャワー
を全身に浴びながら、そんなことを考える傍ら、俺は濛々と立つ湯気の中で、ケンの素裸
(すら)を思い描いている自分に驚愕を覚えた。

「冷蔵庫にビールがあるぜ」
 先に喉を潤したのか、ケンは飲み干したラガーの小瓶を足元の床に置いた。
 窓の外は降り止まぬ雨、雨、ガラスを這う幾千の雫・・・・・、
 僅かに開けたカーテンの隙間に立つケンの姿は、手を伸ばすだけで触れることの出来る
存在だった。
「ジョー?」
 不意に絡まった視線。俺はケンの腕を取って強く引き寄せていた。
 瞬間、交叉する見開かれたブルー、瞳の中に宿る、俺への畏怖と負い目と思慕が葛藤を
見せる。が、それは一瞬、或いは俺の錯覚だったかもしれない。
「どうしたんだ」
 胸にぶつかる寸前、身を引いたケンが訝しげに俺の顔を覗き込む。ラガーの茶色い小瓶
が床を転がった。
「何でも・・・」
 掴んでいた手を放して、俺は曖昧に首を横に振る。
「何を臆病になってる? おまえらしくもない。大丈夫さ、指令はきっと届く」
 そう言って笑ったケンに、俺の想いは閉ざされ、踏み止まる身体が熱く火照った。
 それを悟られぬよう、逃げるようにして俺は窓辺に寄り添いガラス戸を開けた。
 吹き込む風と冷たい雨が、その身体の熱い疼きを癒してくれることを願って・・・・。

 ・・・・・そうさ、俺は臆病者さ。
 ジョーは渡り廊下の外の雨を見つめた。幾筋も伸びる雨糸の向こう、中庭に立つ常緑樹
の緑がぼやけた見えた。

 ケン・・・・・、
 おまえを抱けばよかった、
 この手で、唇で、おまえを貪り食らえばよかった、
 たとえ、拒絶されようと、抗う腕を押さえ、唇を塞ぎ、
 おまえを奪えばよかった。

 ジョーは初めて素直に心の底からそう思った。
 この世でたった1人、触れたいと思った人間、他人とかかわることを嫌った自分が初め
て執着した人間、それが、ケンだった。
「ジョージ、どうかしましたか?」
 別棟の入口で後ろを振り返ったタカザキが怪訝そうな顔で呼んだ。いつの間にか立ち止
まってしまっている自分に気づいて、慌ててジョーは彼の側まで走った。
「・・・・雨の降る日は側にいて、久しくあなたを愛している」
「何だ?」
「古いシャンソンですよ。知りませんか?」
 尋ねてタカザキはククッと笑った。その皮肉っぽい微笑が何を意味するのか、敢えてジョ
ーは想像を控えた。きっと碌でもないことを考えているに違いない。
「聞いたことがねぇな」
 答えると彼はまた微笑した。
「では、今度ガリバーに聞かせてもらうといい。彼は物知りな上にロマンチストです」
「ガリバーに?」
 コンピューターがロマンチストだなどとは聞いたことがないが・・・・、では、
「俺のロマンチシズムはガリバー以下ってことか?」
「そうかも知れませんね」
「何だとぉ!」
 怒鳴った拍子に抱えていたファイルがバサバサと足元に落ちた。
「気をつけて下さい。ガリバーに見せる大切な資料なんです」
「これ全部か?!」
 いくら物知りで情緒的で優秀でも、ガリバーに手はない。ヒューマノイドでもない限り
コンピューターは未だインプットには人間の手を借りなければならない。
「暇だったら手伝って下さい」
「冗談! 俺はコンピューターが苦手なんだ」
「何故?」
「人間味のあるところが気にいらねぇ」
「アハハ」
 初めてタカザキが声を上げて笑った。それを見てジョーは更に「気にいらねぇ」と目を
細めた。
 雨の降る日は・・・・何だって?
 ガリバーが歌うシャンソンはどんなだろう?
 甘くて切ない電子頭脳の恋心・・・・・、

 雨の降る日は側にいて、
 久しくあなたを愛している、
 濡れた身体を抱きしめて、
 そっと私に囁いて、
 忘れ去られた恋人達の、
 忘れ去られた愛の言葉で・・・・・、


5−想い馳せるもの END



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