NEVER AGAIN・・・・・

by トールハンマー


「いい酒が手に入ったんだ、飲みに来ないか?」
 私はそうやっていつも彼を家へ誘った。
 そして、私がそう言って誘う度に、
「下心が見え見えですよ、課長」
 と、彼はニッコリ笑って躱し続けるものだから、私は“目聡い”支局の連中に「今日も
惨敗ですか・・・」と、からかわれ続けたものだ。
 それを鼻で笑い、敗残の身を嘆くよりはいっそ玉砕を・・・と願えども、しかし、IS
O長官、南部考三郎の直属の部下[秘蔵っ子]で本部に籍を置くお高い彼が、たかがアン
ダーサイドの情報管理課如きの課長にそうそう簡単に靡くとは、いくら自信家の私でも本
気で考えていたわけではない。
 勿論、自他共に認める自信家故の驕りで、多少の期待はあったにしろ・・・


 だから、
「酒を、飲ませてくれませんか?」
 そう言って彼が家に訪ねて来た時は、マジでこの目を疑った。
「ダメですか・・・、ダメなら帰ります」
 呆けて返答が出来なかった私の態度を拒絶と見たのか、彼はソーラライトのぼんやりと
した門灯の中で濡れた背中を反転させた。
 週末の金曜の雨は明日の予定のある恋人たちには憂鬱だろうが、一人身のぐうたら族に
は関係ない。そしてこの展開は私を誘惑するに十分だった。
「待てよ!」
 腕を引いて慌てて引き止める。ゆっくりと振り返った彼は常にはない心細げな瞳を、そ
う、迷子になった子供が母親を見つけた時のように、一瞬、安堵に緩めて見せたが、彼が
本気で立ち去ろうとはしていなかったことを、私は知っている。
「早く入って、寒かったろ」
 そして、彼も私がきっと引き止めるだろうことを知っていた。
 夏の名残は日中こそ未だ白く際立たせるが、日が暮れれば結構気温は下がる、まして夜
間の雨にTシャツだけでは冷えるはずだ。それに、
「傘もささないで、いったいどうしたんだ」
 彼は強か濡れていた。
「店で飲んでいた時には降ってなかったんですよ」
 貼りついた前髪を額から擦り上げる。身体は冷えているはずなのに唇が妙に赤い。
 既に、結構な量を飲んでいる様子だ。

 何があったんだい?と、その理由を聞く必要は私にはなかった。聞けば、下心が見え見
えだと彼は言うだろう。それに、傷ついた心に付け込んで良いようにするのは私の主義に
反する。ま、過去にそういう手段を使ったことはないでもないが・・・

「ブランディーか、それともウイスキー、ワインがいいなら・・・」
 濡れた服を脱がせ(・・・私が脱がしたわけではないが)、ナッツとカナッペを用意し
ながら、そういえばフリージングのピッツァがあったと思い出す。
「腹は減ってないか?」
 尋ねると彼は「いや」とそっけなく答えた。
「酒は?」
「お勧めのものでいいですよ」
 肩の落ちた、体系に合わぬコットンシャツのボタンをラフに3つだけ掛けて、スエット
のボトムを身に付けた格好の彼は、タオルを首から垂らしたままでテーブルに頬杖を付い
ていた。
「いい格好だな」
「課長は見た目より、サイズ、大きいんですね。俺はこれでも標準体型はクリアしてるん
ですよ・・・」
 可笑しそうに彼の唇は少しだけ笑みを形取った。
 標準体型より大きいサイズのシャツの胸元がはだけて色っぽい。これじゃとても下心を
隠しきれない。
「明日は出なのか?」
 視線がそこに止まらぬうちに酒の肴を置き、テーブルを離れる。猫足の自慢のボトルラッ
クから出張先で買い付けたシングルモルトを選んでグラスを2客掴むと、「課長・・・」
と後ろから声を掛けられた。
「色気のない呼び方だな」
「今夜・・・泊めて欲しいんです・・・」
 彼の視線は私を避けてカナッペの上にある。長い髪から乾き切らない雫が一筋落ちた先
で組んだ指が震えていた。
「私の下心に付け込む気かい? いつもは見向きもしないくせに」
 虫が良すぎるんじゃないのか?・・・・
 内心、十分焦ったが、私にも自信家故の自尊心がある。それとちょっとした好奇心だっ
たかもしれない。
 突然、思いつめた瞳で面が上がった。次いで、フッ・・・と小さく吐息をついた唇は、
さっきの微笑とは似ても似つかぬ皮肉な形に歪められていた。
「意地悪な言い方だな、だけど、その気がないとは言わせないぜ、あんたゲイだろ、だっ
たら俺を抱けるはずだ」
「抱かれたいのか」
 刹那、一瞬見開かれた瞳が、脅えるように直ぐに硬く閉じた。顔を背けた彼は唇を噛ん
でいた。
 私はグラスを彼の前に置き、ボウモアのキャップに手を掛けた。シャッツという薄い金
属とガラスの触れ合う音がしてキャップが外れると、風格のある馨しいモルトの香りが鼻
腔に広がった。
「飲んでみろよ」
 私の声に、彼の頬に影を落としている睫が震えた。
「酒を飲みに来たんだろう?」
 彼はグラスに視線を落とし此方を見はしなかったが、劣勢に追い込まれた戦況に焦れて
いるのは手に取るように解かった。
 乱暴にグラスを取ると、一気にダブルのロックを飲み干した。大きく息を付く。
「どうだ、旨いだろう?」
 言ったものの、そんな飲み方じゃ折角の旨い酒が台無しだ・・・。
 私はアイラモルトの女王ともいうべき美酒を尊んで(・・・・いや、高価なウイスキー
をもったいぶって)ゆっくりストレートを舌に転がした。ピートに沁み込んだ潮の香りと
重圧で甘美なまったりとした芳香が鼻腔を抜けて、喉に流れる。
 カッと心臓が熱くなる。抱かれたいのなら・・・・
「私を誘ってみろよ」
 これは遊び心だ。
 キッと引き結ばれた唇が微かに震えた。彼の視線が私と絡まった。
「服を脱いで脚を広げて、抱いてくれと、誘ってみろ」
 いくら私でも、その気になれない相手は抱けない。
 その言葉はひょっとして彼のプライドを傷つけたかもしれない。だが、私の好奇心は止
まらない。追い詰めてみたかった。
 さて、どうするか・・・? まさか傘を借りて帰るとは言い出せまい。この雨の中をま
た濡れ鼠なるか・・・? それではあまりに芸がなさ過ぎる。
「どうした、出来ないなら泊めてやるから、さっさと寝ろ」
 出来るはずがない・・・そう高を括った。お遊びはここまで、高慢でプライドの高い優
等生[エリート]が娼婦に成り下がる術を身につけているとは思えない。寝室へと案内し
ようとサニタリールームから洗濯の上がったピロウケースを持って先に立つ。
 降りが酷くなったのか、リビングの窓を叩く雨音がいっそう大きくなった。そのせいで
彼が椅子から立ち上がった気配に気づかなかった。
「おい、もう、酒は止めておけ」
 振り返った私の前で、白いコットンシャツが彼の肩を滑って床に落ちた。
「・・・抱いて、くれよ」
 彼は私を見ない。
「ケン・・・」
「抱けよ! 抱いてくれよ!」
 私は持っていたピロウケースを投げ捨てると、長い髪を掴んでその首を仰け反らせた。
熱を持っていたと思った唇は、驚くほどひんやりと冷たかった。


 抵抗はなかった。だが、自虐的な彼の振舞いは至極痛々しかった。
「ケン・・・?」
 すっかり乾いた髪を、今度はうっすら滲んだ汗が額に貼り付けていた。
「眠ったのか?」
 返事はなかった。
 いつの間にか雨は上がっていた。
 規則正しく繰り返される寝息に、彼の眠りが一時、穏やかなのが解る。
 それを見て私は、きつく瞼を閉じ、唇を噛み締めた彼の表情[かお]を思い出すと大人
げなかったと反省する。
 酒は入っていなかった。ほんの一口だけだ。にもかかわらず節度を失った欲望に任せて
彼の身体を貪り乱暴に傷つけたのだ。それは見境のない行為だった。遊び心などという余
裕はとっくになくなっていた。箍が外れた。だが(・・・これは言い訳だが)、私を煽っ
たのは、彼の欲情だ。


 明日はオフか?と尋ねる私に、“無給、無期限の特別休暇”だと言った彼は昼近くになっ
ても目を覚まさなかった。私もベッドを出る気にはなれず、雨上がりのまだ水滴の乗った
梢の間で小鳥たちが囀るのを聞きながら、窓から射す光に任せて覚醒を待った。
「ケン、何か、昼食を・・・何か食べたいものはないか?」
 腕を伸べ、柔らかい髪を抱いて耳元に囁く。目覚めないと思っていた彼の瞳が睫の間か
ら私を見た。
「好き嫌いは?」
「トマト・・・」
「好きなのか?ダメなのか?」
 答えはなかった。

 だから、私はとりあえず出かけて行ったスーパーでピンとはちきれそうな完熟トマトを
買った。ダメならトマトジュースにでもすればいい。そして、ランチになりそうなものを
物色しながら、「夕食は・・・?」と、気持ちは早、ディナーへと向いていた。白いウイ
ングカラーにアスコットタイとはいかないまでも、ワインの銘柄を選ぶくらいの贅沢はし
たい。
 などと浮かれながらも、もしかして、いや、たぶんきっと部屋に帰った時には彼はもう
居なくなっているのだろう・・・・と、そんなことを考えていた。
 それでも、ドアの前で一呼吸。裏切られたらそれまでだ・・・所詮は高嶺の花・・・。
 ノブに手を掛けたところで内側からドアが開いた。
「居たのか・・・?」
 居ちゃいけなかったのか?・・・と、前髪に半分隠れた上目遣いが言う。
「よく解ったな、私が帰ってきたのが」
「窓から見えたからね」
 サイズの合わないシャツの肩先から髪を払って、彼は見下ろしていた窓辺へと戻ると、
きっと今までそうしていたであろう、物憂げな表情で窓枠にとまり、足を組んだ。
 空は高い。その蒼穹の中に白い鳩が飛ぶ。彼は何を見ていたのだろう・・・思い巡らせ
るまでもなかった。地上には地面に張り付いた人型の影、実体も高層階[ここ]からでは
それとさして変わらない。彼は決して私を見ていたわけではない。

「仕事に行かなくていいのか?」
 ランチを終えても出支度をしない私を見て彼は言った。彼はトマトを食べなかった。私
はジューサーで血のような(・・・悪趣味な言い方だ)果汁を絞ってグラスに注いだ。
「勘弁してくれよ」
 ソルトを振って差し出すと、彼は険しいほどに眉根を寄せた。
「二日酔いによく効くんだぞ」
 目を瞑って顔を背ける。余程嫌いなようだ。
「仕事は・・・?」
「有給休暇中だ。趣味は仕事だって長年やってきたが、役職が付くと、そうもいかなくなっ
た。たかが課長でも、最近は若い者から煙たがられる存在でね。人事からも休暇は規定数
を消化してくれと、お達しが来たのさ」
 お陰で、仕事以外の趣味を探さねばならない破目に陥った・・・と言うと、彼は気の毒
そうに私を見たが、いいカモが見つかったとでもいうような目で、唇に浮かぶか浮かばな
いかの微笑を湛えた。


 それからというもの、昼となく夜となく朝となく私たちはベッドで抱きあって過ごした。
「雨は嫌いだ、一人で居るのが辛くなる」
 いくらか虚ろになった目がシェードランプを見つめていた。タンジェリンにぼやけた闇
の中に垣間見る過去か、或いは現か、幻は、私に寄り添う彼の身体を酷く儚く愛おしいも
のにさせる。そうして求められるキスは甘くて優しくて、とても切ない。
「誰かを想っていたい、でも、俺は誰を想っているんだろう・・・・両親はいない、離れ
離れになった仲間か、博士か・・・、何かを想っていたい・・・、でも、俺は何を想って
いたんだろう・・・」
「俺は何を望んでいるんだろう・・・? 時々、ふと不安になる時がある。そして気づく
んだ、確かに手にしていたものが無くなってしまっていることに。だが、俺はそれを取り
戻す勇気がない」
 彼の言葉は比喩的で捉えどころがない。かと思えば酷く現実的だったりもする。
「退屈はしてないさ、今の仕事に不満があるわけじゃない」
「博士の片腕としてのポジションには満足している」
 そして、BH作戦後、復興し活動を始めた都市のこと、だが、立ち直れない深い戦争の
傷跡のこと、そして、時に、幼かった日の夏や冬の思い出、初めて交わした接吻けのこと、
今はもう無くなってしまった馴染みの酒場のこと・・・・彼はそういったとりとめのない
ことを私に喋った。
 それに対して私は相槌を打つだけで答えることはしなかった。何故なら彼は一度も私に
問い返しはしなかったから。
 そうして、一つ話が終わる毎に彼は私を求めた。求められるままに私は彼の背を抱き、
接吻けを繰り返し、彼の声を誘[いざな]った。
「仲間が死んだ、俺が見殺しにしたんだ。だが、誰もそれを罪だとは認めてくれない。俺
に償えとは言わない、誰も俺に罰を与えない」
「だが、罰せられれば罪は消えるのか、失ったものは、取り戻せやしない。それでも罰を
受ければ許されるのなら、俺に与えられるべき罰は、あいつを忘れることだ。あいつのあ
の瞳も、あの腕も、温もりと共に全てを。あいつと共に戦った日々を忘れることだ」
「そうして、何もなかったことにすればいい。少なくとも今は平和だ。その中に埋もれて
俺は俺を消してしまえばいい。そうすれば、安らかだ、きっと・・・」
 ・・・だが、罰は、その人間にとって一番不幸で、一番辛いことでなければならない。

 彼はもう声を上げることも、欲望のままに身体を突き動かすことも厭わなかった。そう
して、後悔や、自己嫌悪や、焦燥や、ジレンマを、一つずつ、一つずつ、まるで、その絶
頂の放出と共に体内から吐き出してしまうかのように・・・・涙だけを残して。
 それは見ていて壮絶に美しかった。傷つけば傷つくほど張り詰めた弦のような身体は琴
線を響かせ、今にも弦音を発して事切れてしまいそうなほどに、極限的で扇情的な蠱惑に
満ちていた。


 そうして、最後にまともな食事をしたのはいつだったろうと・・・・思い出せなくなっ
た頃、私は彼に一つ提案をした。
「ダイナーへ行かないか」・・・・いや、そうではなくて、もとい、ちゃんとテーブルで
まともな食事をしようと言ったのは間違いではないが・・・・
 長期休暇を利用して計画していたことがあった。しっかり仕事絡みではあったが、前々
から行きたいと思っていた旅情の地に彼を誘ってみた。だが、“水の都”と聞いて、
「コレラに罹るのはご免だ」
 あっさり却下された。意外にも文学?青年だったらしい。だが、彼を連れてベニスに行
けば、伝染病で死ぬ役を演じるのは私の方かもしれない。
「留守番なら、無料奉仕してやるよ」
「留守番が欲しいわけじゃない・・・一人で、その、大丈夫か?」
 聞けば不機嫌に眉を寄せた。
「人恋しければ、他へ行くさ」
 あ・・・いや、そういう意味じゃない。
「ちゃんと食事をしたり、風呂に入ったり出来るか?」
「歯を磨いたり・・・ってか? 何なんだ、それは?」
「いや・・・」
 君を見ているとつい過保護になるのは、何も私だけじゃないだろう。
「ドクター・南部には連絡を入れているのか?いくら無給、無期限の休暇中でも、秘蔵っ
子が連絡もなく行方不明じゃ彼も心配だろう」
「博士は俺を探してやしないさ、今の俺は用無しだからね」
 意外な言葉にインスタントコーヒーのボトルに突っ込んだスプーンを止める。ダイナー
へはモーニングコーヒー(陽はとっくに昇っているが・・・)を飲んでからと彼が言った
ので、まずはリビングに移った。ピーーとカウンターの向こうで、レンジの上のケトルが
笛を鳴らした。
「何を拗ねてるんだ? 今のポジションには満足しているんじゃなかったのか?」
 ミルクだけを加えて差し出す。一口つけて、
「待遇の良さに、ってことだ」
 彼は言った。
「好き放題出来るってことか?」
「ああ、仕事をサボったところで文句を言われるわけでもなし、命を落とすような危険な
任務を請け負うこともない。博士の護衛と称して豪華なパーティーにも出席出来る。煌び
やかなご婦人達を相手にするのも結構慣れたし、退屈はしていないと言ったろ」
「なら、なんで、逃げて来た?」
 口にしたいつものブラックがいやに苦かった。勿論、分量を間違ったわけではない、言
い出さなくてもいいことが口をついて出てしまったからだ。しまった・・・・と思ったが
もう遅い。案の定、
 俺は逃げてやしない!・・・・キッと睨みつけた瞳はそう言ったが、返事はない。
「なるほど、ドクター・南部の許で君には“G1”としてのポジションはあったが、“ケ
ン・ワシオ”としてのポジションはなかったというわけか」
 突然、彼のその双眸が凍てつくように見開かれたまま私に据えられた。それは思いもよ
らぬ私が“G1”というコードネームを口にしたためか、それともドクター・南部の片腕
としての自分の立場を否定されたためか、人は自分では十分自覚しているつもりでも他人
から宣言されることは酷く恐れるものだ。
 彼は肩を大きく上下させて震える拳と動揺を押し隠そうとした。
「自分を見失うなよ、君のポジションぐらい俺がなんとかしてやる」
 髪に触れ胸に抱き込むと、私のシャツに縋った指がギュッと力を込めた。が、次の瞬間
胸を押し返して腕から逃れた。
「たかが、支局の情報課長にそんな権限がどこにある」
 それもそうだ・・・だが、彼は私の言葉を取り違えている。私は彼に、健やかに過ごせ
る“居場所”を与えてやりたかったのだ。

                    *

 ドクター・南部から私が預かった仕事は、ギャラクターの消息を確認せよ・・・などと
いう大それた任務ではなかったはずだ。
 私は有給休暇を兼ねてここへ友人を訪ねて来ただけだ。そりゃ確かに仕事絡みだったが、
彼の専攻する“進化生物学”にはちょっと興味があったし、併合してある研究所から“遺
伝子治療”に関する研究データを持ち帰ることぐらいどうということもないはずだった。
・・・・が、そもそもこれもおかしな話で、友人との再会は兎も角、DNAもミトコンド
リアも私の管轄外だ。いくら“情報管理課”といえど情報違いだ。これも、肩書きを付け
た厄介者の使い道なのだろうか? 要するに電子メールか宅配便の代わりだ。
 ま、昨今では電子通信もその危険性においては儘ならないので、返って人力に頼る方が
安全なのかもしれないが・・・・今回私が持ち帰るデータなどごく一般的なもので「ヒト
ゲノムの解読」以後、遺伝子学界を揺るがすようなものでもない。早い話が、お忙しい医
学博士か誰かの代理なのだ。代理で済むような仕事なのだから大した任務じゃない。
 私は、その晩、久々に会えた友人と、40億年をかけた生命の壮大なロマンを肴に、ブ
イヤベースに舌鼓を打ち、シチリアワインを十分に楽しんで、最後の晩餐を締めくくるつ
もりだった。
 ところが、
「ブイヤベースに使う魚は何でもいいというわけではないんだ。アンコウ、大アナゴ、カ
ナガシラ、カサゴ、それから、伊勢エビを入れるのはかまわないが、欠かせないのはここ
の海岸で獲れる小さな磯ガニだ。あ・・・、そうだ、君、へインズ博士を知ってるか?」
 ブイヤベースの話から突然その学者の名前を出されて、どういう関係があるのかと尋ね
ると、脈絡はないと言われた。それでも、めまぐるしく尽きない会話の中で、その話は妙
に耳に引っ掛かった。
「遺伝子学の、ビル・ヘインズ博士か?」
「ああ、10年ほど前に行方不明になった・・・人間改造学の第一人者」
 彼の話をかいつまんで言うと、失踪宣告も済み事実上世間から抹消された彼が、ここ数
年、何度か開かれたその手の学会(人間改造学というのは風刺家の友人の皮肉だが・・・)
に必ず顔を出すというのだ。もっとも、これは噂の域を出ないということだが(何故噂か
というと、ビル・ヘインズという名は名簿には存在しないからだ。それに、他人の空似、
10年も経てば人の容姿は・・・特に男性なら、変わっていて当然だろう)その後、必ず
その学会に出席していた人間、高名な学者ではなく、どちらかと言えば将来有望な若い人
材が失踪、もしくは行方不明になっているというものだった。
 失踪宣言を受けた人間がゴーストの如く現れた代わりに、他の人間が行方不明になる
・・・まるで神隠しのようなこの事件は、しかし、不思議なことに刑事事件としても取り
上げられていない。
 嫌な予感がした。私はベニスを先行して旅の予定を立てたことを幸運に思った。(いや、
幸か不幸かは解かったものじゃないが・・・)こういう話を聞いたからには、悠長にバカ
ンスを楽しむ気にはなれなかっただろうし、早々にしかるべき部署への報告が必要だと判
断したからだ。


 13時22分、搭乗した301便は途中、急速に発達したスーパーセルの影響で一時は
管制塔との交信が途絶えるという非常事態に陥りながらも事無きを得(日頃の行いの良さ
というものだろうか・・・)約2時間遅れで無事帰港した。
 入国ゲートに立ち、待たされること十数分。バッゲージ・クレームを出、事故のせいも
あって同様の帰国組みがごった返す中、私はサービスカウンターの柱の影に彼の姿を見つ
けて我が目を疑った。(まさか、出迎えて貰えるとは思ってもいなかったので・・・・)
 彼も私に気づいたのか、ツカツカと、そして次第に足を速め走り寄って来た。
「ど・・・」
 どうしたんだ、いったい?・・・口を開く間もなく唇を塞がれた。ごった返ったフロア
に突如として出現した異次元空間に好奇の目。
「えらい歓迎のされようだな」
「もう会えないのかと思った」
「それはそれは」
「寂しかったんだ」
「嘘をつけ」
「本当だ」
 白々しいと言おうとした唇を、再び唇が塞いだ。
「わか・・・った、解かったから、ケン、人目がある」
「いいさ」
「“いい”って・・・・おい」
「カミングアウトしちまえよ」
 ちょっと待て!
 なんたる大胆かつ非常識。これが世界に名だたる科学者でありISOの長官、あのドク
ター・南部の秘蔵っ子かと思うと、人知れず長官のその苦労が知れるというもの。
「私がカミングアウトすると、君はゲイの情人ってことになるぞ」
「いいさ、それで俺のポジションが決まるなら」
「ケン・・・」
 触れた髪は柔らかかった。私の肩に顔を埋めたケンの背に腕を回すと、今更のように彼
の身体がピクリと震えた。
 そして感動に浸っていること約数分。突然、自分たちを中心に出来上がっている円形の
の結界に気づき、私は驚きのあまりに床に落としたままだったトランクを拾うと、彼の肩
を押して(常なら肩を抱いて・・・だが)一目散に駐車場へと急いだ。

 昼間から飲酒というのが気が引けるのは、始めのうちだけだ。慣れてしまえばどうとい
うこともない(もっとも口煩い妻とかという同居人がいない場合だが・・・・)それに、
折角買って来たベネチアングラスとワインを夜までお預けにしておくのは焦れったい。
 幸い冷蔵庫にはいくらか食料が入っていた。どうやら食事はしていたようだ。ホールコ
ーンの缶詰とソーセージとフリージングのフライドチキン。栄養バランスまでは追求しな
いことにする。要するに残りの空間はびっしりと缶ビールで埋まっていた。
「で、私が留守の間何をしていた?」
 彼が土産話には興味がなさそうなので、そう尋ねてみた。
「昼間はバイトで、夜は熟睡。至って健康的だったぜ」
「アルバイト? ハンバーガーショップか?」
「まさか!」
 トスカーナの赤ワインは彼の口にあったようだ。結構値が張ったので、フリージングの
フライドチキンという取り合わせが些か悲しいが・・・
「セスナで荷物を運ぶのさ、宅配便」
 なんだ、私と一緒じゃないか・・・・
「何を運ぶんだ?」
「色んな物があるけど、たいていは個人宛の宅配だ。たまに緊急で医療物資なんかも運ぶ
けど・・・」
「けど・・・?」
「けっこう怪しい物もあるんだ、赤十字マークなんか付いていても中身は何だか知れたも
んじゃない」
「物騒じゃないか、そりゃ」
「ああ、盗品や密輸品なんかザラだぜ、きっと。見りゃ解かる。入出国スタンプもいい加
減だ。この間なんか、動くんだぜ」
「動く?」
「そうさ、象牙や剥製ならまだしも生きた動物までさ、あれはきっとカメレオンか何かだ。
ワシントン条約も当てにはならないな」
「おいおい、いったい、何処の何ていう空輸サービスなんだ?」
「でも、バイト料は弾んでくれるぜ」
 そりゃ、そうだろうさ・・・その代わり秘密厳守だ。
 ほんのり頬を紅潮させた彼に何度目かの杯を満たすと、窓から見える景色も夕暮れに染
まっていた。
「ピッツァでも食うか」
 確かまだあったはずだ。
 ククッ・・・と彼が笑った。端正な横顔の輪郭が夕日と溶け合って、幻影と見紛うばか
りに妖しい。ワインに染まった唇と伏せた睫の間から覗くデジィー・ブルーが、私を誘惑
する。
「すまん、つい食い気に走ってしまって、せっかくのムードが台無しだな」
 まったくどうしたことだ、口説き文句など舌先三寸・・・いや、意中の相手を落とす手
段なら手に余るほど持っているはずの私が、こんな子供(・・・じゃないが)相手に何を
ドギマギしているんだ。しかし、どうも彼といるといつもと勝手が違う。
「いや、もともと色気の無い話だから・・・カメレオンじゃね」
 勝手は違うが、毎度、毎度惨敗じゃ、さすがに自尊心が傷つく。ここは玉砕を覚悟して
・・・・
「私が、好きか・・・・」
 先手必勝!
「あんたと、こうしているのは嫌じゃない」
「寂しかったと言ったのは?」
「本当だ、あんたが帰ってくるのを待ってた」
「抱いて欲しくてか」
「いけないか」
「・・・・・」
 いけなくは・・・ない。正直なところが実にいい。
「なぁ、ケン、空を飛ぶのは好きか」
「ああ、勿論だ」
「物騒な荷物相手でも」
「そんなものばかりじゃない。最近は孤島への定期便がいいフライトだな。青い空と青い
海、飛ぶのはやめられない。スティックを握れば水平線も地平線も越えられる。そして空
は果てしがない。どこまでも行ける」
 そう話す彼の目が、一瞬だけ自分の言葉に背いてグラスに落ちた。それは憂鬱・・・?
 これはポーカーフェイスだ。ならば、
「空と、私と、どっちが好きだ」
 今度は返事がない。こういうところはまだまだ子供だ、上手く躱せない。そこがまた可
愛い。
「私は君のために色んな事をしてやれるぞ。こうして食事も作ってやれる」
 レンジから出したピッツァはペパロニとオニオン、
「ダイナーのテイクアウトだろ」
 顔を上げて彼は笑った。
「旨い酒も飲ませてやれる」
「下心付きで?」
 バレたか・・・、
「酒の肴には40億年の生命の神秘を話してやろう」
「どうせ受け売りの癖に・・・・」
 おっと・・・・どうして解かったんだ?
「望めば何処へだって連れて行ってやる、懐が許す限りならな・・・・ISOは退職金を
弾むと言っているから」
 不意にデジィー・ブルーが揺らいだ。
「仕事を辞めるのか」
「ああ、よければポストを譲るぞ」
「なぜ?」
「さぁな・・・何かを想っていたいから・・・かな」
 私に言葉をなぞられた彼は薄く唇を綻ばせた。それが何とも物悲しくて、私は言葉を続
けずにはいられなかった。
「そうだ、暇になったら君をモデルに絵を描こう。いや、それよりも、私はピアノも弾け
るぞ、君のためにセレナーデを奏でてやれる! 昼も、夜も、朝も、こう見えても子供の
頃コンクールで・・・」
「ああ、解かった。解かったから・・・なら、俺はあんたのために何をすればいいんだ」
 夕日が沈む、鏤められた光の中で、私は彼の瞳を捕まえた。
「空を飛んでいればいい」
 口説き文句は絶品。
「地上に降りた時には、ここに帰って来ると約束してくれればいい」
 形勢は逆転、デジィー・ブルーが私を見つめたまま陥落する。
 さあ、後もう少し。

 電話が鳴ったのは、その時だった。
「どうだい? 考えてみる価値はあると思うが・・・・」
「そうだな・・・それも・・・」
 いいかもしれない・・・と、彼の唇が動く寸前で、あっさりと遮った。
 窓の外、何に驚いたのか一斉に鳩が飛び立った。それに気を取られて空を振り仰ぐ。
 電話のベル。
 遠くビルの地平線を、真っ赤に染まった鋭利な翼が一直線に翔けていく。ほんの一瞬、
小さく煌いて瞬く間に消えた。鳥ではない。ケンはそれを見たかもしれない。
『南部です』
 受話器を取った私に、「あの人が本気で俺を探す気なら、たとえ地球上の何処に逃げたっ
て無駄なのさ・・・」ケンは独り言のようにそう言った。そして、その唇が確かに、微か
に笑った。

「話が違うではありませんか」
『状況が変わった。直ぐにケンを帰してくれたまえ』
 頭の中で、たった今交わした会話がリピートする。

「すまない、約束は、守れなくなった」
 ドクター・南部の命令を受けるために受け取った受話器を、再び私の手に戻しながら彼
は言った。
 ケン・・・・
「いいさ、覚えていてくれるだけでいい」
 私のささやかな願望を。
 それが、私に言える精一杯だった。
 彼は笑った。ポーカーフェイスではない。今まで一度も見たことのない、そして今まで
見た中で一番爽やかな笑顔で。

                    *

 ・・・・・・話が違うではありませんか、
「まさか、ギャラクターが?」
 総裁Xは滅んだ、だが、世界中に散らばった彼ら全てが殲滅したわけではない。強力な
先導者が現れれば直ぐにでも集結を果たすのは目に見えていた。
 10数年前に行方不明になった遺伝子学者が、ギャラクターの許で良からぬ研究をして
いたというのは事実なのか?それこそ今頃になってゴーストの如く我々の前に現れて悪魔
の復活に手を貸そうというのか。
『君の報告を聞くまでもなかったのだよ』
 ギャラクターは目前に復活を果たそうとしていた。
「ククッ・・・絶妙のタイミングでしたよ。ドクター。ケンは貴方にお返しします」
 受話器に向かって発した声が自嘲的なのがよく解かった。
 そう、私が貴方から預かった仕事は、ギャラクターの消息を確認せよ・・・などという
大それた任務ではなかったはずだ。
 傷つき羽根をもがれた哀れな鳥を、束縛のない自由で美しい大空へ帰してやることだっ
た。そして、貴方もそれを望んでいたはずだ。
 だから貴方は、わざわざ私を呼び出してこう言ったのだ。
「ケンが私の手を離れていくとは思えないが、もし、彼がそれを望むなら力になってやっ
て欲しい」
「貴方はそれでいいのですか?」
「ケンが望むなら、私に異存はない」
 ケンが望むなら・・・・・
 違う、貴方には最初から解かっていたんだ。こうなることが、貴方は彼を手放すつもり
など毛頭なかった。
『時間を無駄にしたくない、今は彼が必要だ。我々には彼の力が必要なのだ』
 受話器の向こうの声は冷静だ。それが私の気持ちを逆立てる。
「我々? 彼を取り戻したがっているのは貴方でしょう? 彼を自由にしてやるつもりな
ど、始めからなかったんですね」
 貴方は彼が貴方の許を離れていくのが許せないんだ、貴方の身勝手な独占欲だ!
馬鹿なことを言っているのは百も承知だった。ギャラクターが復活したのであればISO
の最大の戦力は彼ら、そしてリーダーを務める彼[ケン]なのだ。それ以外にはない。
 解かっていながら、しかし、言わずにはおれなかった。
 だが、電話口の声は私の暴言に少しも臆することはなかった。
『私はケンを手放すわけにはいかない。たとえ、彼が何と言って抗おうとも私は彼を戦場
へ引きずり出す。どんな手段を使ってでも』
 どんな手段を使ってでも・・・・
「それが、貴方の宣戦布告ですか」
『そうだ、私のギャラクターへの宣戦布告だ』


 飛ぶのはやめられない。スティックを握れば水平線も地平線も越えられる。そして空は
果てしがない。どこまでも行ける・・・・その言葉はケンの本心だったろう。
 だが、既に叶わぬ夢なのだ。
 青い空と青い水平線、360度の地平線を越える、それは夢なのだ。
 彼は最早その空を飛ぶことは叶わない。彼はもうその夢では満足出来なくなってしまっ
たからだ。
 彼の憂鬱は、かつて見た夢と現実とのジレンマだった。彼は私の許で夢を取り戻しかけ
たが、最後の最後でワルキューレは彼を手放しはしなかった。

『ゾクゾクする・・・・』
 あの時、ドクター・南部との話を終え受話器を私の手に戻した彼の唇が、そう呟いた。
いや、実際に彼の唇がそう動くはずはなかったのだが、私には確かにそう聞こえた。
そして、今までの危うい、だが、私を魅了して止まなかったその面に、1枚氷層の仮面を
付け、あまつさえ笑みさえ浮かべた姿は、言葉に絶するほどに美しかった。私はそこに畏
怖という言葉を付け足さなければならなかった。
 もしかすると・・・仮面などではない、これが彼の正体なのだとしたら、私にはとても
手に負えない。私は悟らねばならなかった。今度こそ、本当に彼を諦めなければならない
ことを。
 彼が私の許に居たのは、ほんの気紛れ、夢を追っていたのは私だった。
 勝ち取った平和を欺き続ける自分を知りながら、彼はたった一言の命令だけを待ってい
たのだから。彼を待つあの戦場に引き返すために。

 誰かを想っていたい、彼はそう言った。彼は誰を想っていたのだろう、
 罰はあいつを忘れること・・・・だが、彼は忘れない。
 そして、戦い続けることでその想いを遂げるのか、なぜなら女神は誰よりも強い戦士を
ヴァルハラに連れ帰るという。
 そこで再び、彼はその想い人とめぐり合うのだと思うのは、私の安っぽいロマンチシズ
ムに他ならない。


 ・・・・いい酒が手に入ったんだ、飲みに来ないか?
 私は彼を誘った、そして、
「・・・抱いて、くれよ」
 夢を見たのは私だった。


 THE END
Art by  Sayuri
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