Never say never again・・・・

by トールハンマー


「冷たい・・のね・・・」
 女は、よく手入れされた細く白い指を男の両頬に添えて言った。
 それは、夜を待たずに降り始めた冷たい雨に濡れた唇に触れたためか、それとも、その
凍る雨の中をここまでやって来たくせに素っ気ない男の態度を責めたものか?
 女はもう一度唇を寄せると、伸ばされたしなやかな腕が抱き寄せるに任せてその身を投
じた。肩に顔を埋め、力を込められて小さく身じろぎ、吐息をつくと、頬に触れる男の長
い髪からは、煙草と湿ったコンクリートの匂いがした。そして男の腕の中は、唇と同じく
らい冷たかった。

「ブラック?それともバーボン?」
 尋ねながらも女は、ウイスキーグラスにローズピンクの爪を掛け、猫足の豪華なキャビ
ネットの棚から下ろしていた。
「また酒が増えたな」
 氷を取りに女がリビングを離れた隙に、男はキャビネットの中を物色する。
 コニャック、バーボン、スコッチ、そして新しく肩を並べるシングルモルト。ボウモア
の22年物、バルウェニーの25年、グレンドロナックの15年、マッカランの30年
・・・・さすがに50年物はないが、それでも燦然と輝く豪華なラベルを見るだけで値の
張る酒ばかりだと解かる。この棚に増えていく酒を見れば女のパトロンが今度はどこに飛
んだのか見当がつくのだろうが、しかし、生憎そんな知識はない。有るのはそれがフラン
スのブランディーなのか、アメリカのウイスキーなのか、その程度の一般常識だ。
「いいわよ、好きなのを開けなさいよ。どうせ、ビィはここでは滅多に飲まないんだから」
 女は銀のアイスペールとキューブチョコの乗ったトレイをガラスのテーブルに置くと、
グラスに氷を入れて「どれ?」と男の傍らに身を寄せた。
「いや、いい、いつもので」
 「そう」と頷いて、だが、女はいつもの位置にあるいつもの酒には手を伸ばさずに、男
のまだ少し少年のか細さを残す首に回した。
「目を閉じなさいよ、坊や」
 言われるままに男が目を閉じる、長くて濃い睫が神経質にピクリと震え、差し入れられ
た感触に眉を寄せた。気取られないよう一瞬だけ。そのウブな反応を女は見逃さない。唇
の端を悪戯っぽく吊り上げたまま首筋に這わせ、若い男を誘導しようとする。
「せっかちだな、まだ一滴も飲ませてもらってないんだぜ」
 首に巻きついた腕を解き、女の手からグラスを取って、男は勝手にボトルを選ぶとソファ
を目指した。だが、女は男の強がりを見破るのは得意だ。
「いい加減、女の扱い方を覚えなさいよ。あなた何のためにここへ来るの?」
 何のため・・・って、
 男の口元がそうは言わずに、ちょっと引き締められた。
 そりゃ、情報が欲しいからさ。だが、訓練所の教官は女の扱い方なんて教えてはくれな
かったんだからしょうがないだろ。
「坊やじゃ物足りないんだったら、そう言えよ。俺は別にいいんだぜ」
「何がいいってのよ!」
 女の言葉があばずれた。
 まったくだ・・・・。良いわけはない、目的の物はまだ手に入れちゃいないのだから。
 男はグラスに酒を満たして立て続けに二杯飲み干した。ストレート同然の酒に舌が痺れ
て喉が焼けてひりついたが、噎せて込み上げてくる咳に必死で堪えた。そして、こんなこ
とをしていて本当に欲しいものが得られるのだろうかと?と訝かりながらも、ソファを立っ
て女のところに戻り、その細い腰を抱いた。




「健の奴はどこに行ったか知らねぇか?」
「兄貴ならあの女のところだよ。あ、雨、まだ降ってるんだ」
 この時間にはきっと健はここにいるだろうと目論んでJUNにやって来たジョーに、
カウンターの中でグラスを洗っていたジンペイが意味ありげに笑った。
「あの女?」
 タオルが飛んでくる。パーキングからここまでは雨の中を歩くには結構距離がある。
「なんだ、ジョー、聞いてないのかい? 例の黒幕(ギャラクターの資金源)の情婦。
すっげーイイ女だぜ、兄貴ったら役得だよな」
 中性洗剤の泡を流水で丁寧にグラスから洗い流しながら、ジンペイが生意気な口を利く
のに鼻先で笑って、ジョーはスツールに腰を下ろした。
「その台詞はおまえにゃ、10年ほど早いな」
「なんでさ」
 口を尖らせたジンペイには答えずにジョーは煙草を摘んだ。どうやら健は情報収集の真っ
最中のようだ。今頃はその“すっげーイイ女”と、どんなふうに宜しくやっているんだか?
「おい、コーヒーぐらい淹れてくれよ」
 煙草に火を点けながら、カウンターの向こうにある洗ったばかりの灰皿に手を伸ばす。
「ちゃんとキャッシュで払って行ってくれるならね」
 コーヒーデキャンタには目もくれずにジンペイが言う。
「ツケは先週精算したぜ。なに拗ねてるんだ」
「何も」
「フン、ガキが・・・」
 頬杖で言葉を零す。
「ガキ、ガキってね、いつもそう仰いますがね、オイラこれでも!」
「ああ、解った、解った。だがな、ジンペイ。女と宜しくやってその上情報まで取ろうっ
てのは虫が良すぎる話だぜ」
 シンクから身を乗り出したジンペイの額を人差し指で押し返して、スモークリングを
一つ。
「そうなの?」
 鼻の頭に泡をつけて、いやに素直にジンペイが納得する。
 ま、それなりの行為に及ぶことは致し方ないが、それを楽しめるのはジェームズ・ボン
ドぐらいのものだ。だから尚更、
 ・・・・たく、あいつ・・・、
「大丈夫かよ・・・・」
「どうかした?」
「いや、人選を間違ったんじゃねぇかって思っただけだ」
 博士も解っちゃいない、俺に任せてくれれば手っ取り早かったろうによ・・・・と、小
さな舌打ちの意味をジンペイは気づかない。洗い終えたグラスの表面で雫が乾かぬうちに
タオルで奇麗に拭き取ってグラスラックに並べていく。ジョーはこのままでは出てきそう
にないコーヒーのために、ジーンズのポケットを探って小銭をカウンターの上に置いた。
「前払いだ」
 先週、せっかく前月分までを綺麗さっぱり精算したんだ。出来れば暫くは顧客名簿の売
掛欄を汚したくはない。
「ついでに昨日の分も頼むよ」
 えっ?昨日・・・・既に遅しか。
 ちゃっかりと言われて仕方なくもう一度ポケットを探って、くしゃくしゃになった紙幣
を取り出す。
「ほらよ!健の分までは払わねぇからな!」
「解ってるって、釣りはいるかい?」
「当たり前だ!」
 笑ったジンペイはチットを切って清算を済ませると、鼻歌まじりでカップにコーヒーを
注ぐと気前よくビスケットを3枚も付けてくれた。

「なぁ、ジョー。一口乗らないか?」
 そう尋ねてきたのは、昨日、夕食がてらに飲みに出かけた先で一緒になったレース仲間
のエドだった。
「今度は誰をエサに儲けようってんだ?」
「新婚のニックとアンだ。果たしてハネムーンから戻って何日もつか・・・どうだ?」
「呆れた奴だな、人の不幸を指折り数えるようなゲームには参加できねぇな」
「不幸?・・・・不幸ってのは人生の墓場に足を突っ込んだ状態をいうんだ、これまさに
結婚。だから俺たちは二人がいかに早く再び幸せを取り戻せるかってことに・・・、」
「あー、解った。だが、今回はパスだ」
 何だよ、つまらん!と尖らせた口をグラスにつけたエドに、半年貯まったガキの所のツ
ケを払っちまったんでオケラだ、とはジョーは言わなかった。それを言えばカウンターの
中で暇そうに煙草を吹かしているここのマスターにも同じことを催促されそうなので。
「なら、ジョー、こういうのはどうだ?」
 グラスの淵に溜めたきつい酒を舐めながら、エドが上目使いにジョーを見た。
「おまえ、健を抱けるか?」


「・・・・? 何なんだ!いきなり」
 一瞬の間を置いて盛大に咽たジョーに、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
「あっちこっちでツケが貯まってるんだろ?」
「だったらどうしたって?・・・俺に、健を・・・なんで!俺が・・・」
 言われた意味をストレートに理解できないジョーは、(いや、ストレートに理解してし
まったからこそか?)疑問符と感嘆符とが頭の中を交差する。呂律が回っていないのは、
しかし、決して酔っているわけではない。
「あの、お高くとまった坊やをおまえが抱けたなら、ここのツケは俺が全額綺麗に精算し
てやる。どうだ? 乗ってみないか?」
 ジョーは眉間を寄せる。“乗ってみないか”・・・は意味深である。自分は賭ける側か
ら賭けの対象になったのだ。
「冗談じゃねぇ、エサなら他で探しな!」
「戦わずして敗北を認めるとは、おまえらしくないじゃないか。それとも、あの坊やは余
程、手強いということか?」
「あいつは男だ」
「何か、不都合でも?」
「俺は、ゲイでもなきゃ、バイでもないぜ」
「でも、惚れた相手は別だ」
 そうだろう・・・と、楽しそうにエドは笑った。そして、
「まあな、切っ掛けは必要だろ。丸腰でとは言わない」
 そう言うと上着のポケットを探った手をジョーの前に差し出した。銀色のシートにメロ
ングリーンのカプセルが2錠納まっていた。それを、一つ外してエドはジョーのグラスの
前に置いた。
「睡眠導入剤、さほど強い薬じゃないから心配しないでいい。でも・・・・」
「睡眠導入剤?」
「ああ、聞いたことはあるだろう? これがな、アルコールと一緒に服用する
と、強い催眠作用が現れるらしいんだ。つまり、滅茶苦茶暗示に掛かりやすくなる
・・・・」
 うまく誘導すれば極上の媚薬の役目を発揮する・・・と、エドが経験上から付け足した。
「乗ってみる気になったか?」
 チャンスは有効に使えと唆す声が聞こえる。その声にジョーはドキリとする。これはチャ
ンスなのか? 何のチャンスなんだ? 俺は健を抱きたいのか? 第一、男をどうやっ
たら誘惑出来るんだ? 俺のテリトリーを逸する、だいたい男相手に欲情するってのは・
・・・、
 だが・・・・、
 惚れた相手は別だ・・・・、エドの言葉に、思わぬ心が舌なめずりする。
「健は、いいぞ」
 追い討ちをかけるように耳元に囁かれて、思わずその顔を凝視する。
「エド、おまえまさか!」
 知らずに手が彼の胸倉を掴んでいた。
「おっと、誤解だ」
 怖いな・・・・と、言うように肩を竦めるエドは、脈あり・・・と、読んだようだ。
白状すると、健相手にそういう気分になったことがないとは言い切れない。子供の頃から
一緒にいて、あいつは俺のものだ・・・・と、ずっと思っていたにも係らず、手の早いジ
ョーが手を出さなかったのは、同性という紛れもない事実によって、自ずと封印した感情
故だったかもしれない。
「判定は誰が下すんだ。まさかギャラリーの前でなんてごめんだぞ」
 そんなに飲んだわけじゃない。まだ二杯目のロックを空けたばかりだ。しかし、アルコ
ールは十分に回ってしまっているようだ。
「自己申告でかまわないさ。おまえが、こういうことに嘘はつけないって知ってるからね。
バッチリ顔に出ちまうってヤツ」
 クックッと肩を震わせてエドは笑った。ジョーは早、鼓動が怪しくなってきた。そして、
はたと気づく。自分は本当にこの賭けに乗る気なのだろうかと・・・・・。

「ジョー、ピッツァでも食べる? それともスパゲッティ? ミートソースしかないけど」
 ・・・・えっ?
「何、ぼんやりしてんだよ。腹減ってないの?」
 突然、声が耳に届いた。
「ああ・・・」 
 腹が減っては、戦は出来ぬ・・・と、いう言葉を思い出したが、
「いや、いい。どこか他所で食うから」
 それが嘘だとは、勿論、ジンペイが気づくはずもない。
「何だよ!うちのは不味くって食えないわけ!」
「これ以上、ツケを増やしたくないだけだ」
「他所でツケるんなら同じじゃん。なら、うちの売り上げに協力しろよ」
 なるほど、それは一理あると思いながらも、実のところ、今は食べ物が喉を通るかどう
かは怪しい。この後のことを考えると・・・・、
 何てことだ・・・、この俺が。
 言い寄る相手に事欠かくことなく散々浮名を流しているジョーではあったが、相手が相
手だけに肩に力も入ろうというもの。こうしていても頭の中では何度も繰り返したシナリ
オが展開する。その度に有らぬほどに心臓は高鳴り、体温は上昇する。
 掌に載せたメロングリーンのカプセルの入った銀のシート。
「会えないなら、それまでだ」
 我ながらその企みの後ろめたさに、言葉は消極的になる。だが心は決して諦めてはいな
いことにジョーは気づいていた。




 雨は止んでいたが外気は吐く息が白く見えるほど冷え切っていた。足元を見るとアスフ
ァルトの上にも吐息が固まったような白いものが凍結している。雨は雪に変わっていたら
しい。健は上着のジッパーを首まで上げてバイクに跨ると慎重にスロットルを入れた。
『今度はいつ?』
 女がドアの前で尋ねたのに、『気が向けば』と言葉を濁した健の気分は最悪だった。情
報は一向に取れない。こんなことしていちゃ減俸ものだ・・・・。首筋に甘ったるい女の
吐息がこの寒風の最中にじんわりと熱く、生々しく甦る。
 俺は、ボンドにゃなれないな。
 何処かの誰かの噂話が風に乗って届いたのか、健は立て続けに三度嚏をした。

 セスナと一緒に雨に濡れている見慣れた車体を見つけると、滑走路を隔てて立つ小さな
門灯の点いたドアの前に人影あった。
「どうしたんだ、ジョー。こんな時間に」
 足元には吸殻の山。いや、火は一本も点いてはいなかった。滑走路の近くでは火気は厳
禁だ。といってもここじゃ支障はないのだが
「あ、ああ、おまえが帰って来るのを待ってたんだ」
「車の中ででも待ってりゃいいのに、寒かったろ」
 急いで鍵を開ける健も、グラブのない手をかじかませた。
「雪が降ったようだな」
 言われてジョーは「ああ・・・」と曖昧な返事を返す。雨が雪に変わってそいつがアス
ファルトに凍りつく様を見ているのは確かに寒かった。だが、ジョーがヒーターの利いた
車の中にいなかったのには理由があった。
 酒に酔ったはずでもない身体が、燃えるように熱かったからだ。
 バカなことに乗せられちまった・・・・と、後悔してももう遅い。
 この待ち時間が悪かった。
「会えなければ、それまでだ」・・・と、実はその言葉を頼りにここまでやって来た。ジ
ンペイの話では健がまだ戻っていないことは明らかだったので、10分、いや、5分待っ
て、やっぱりダメだった・・・・と、そそくさと帰るつもりだったのだ。
 それが、10分経っても20分経ってもジョーは車をUターンさせることが出来ず、そ
ればかりか火照った身体を冷やすために車を降りなければならなかった。
 時間が経つに従って、欲しくなった。欲しくてたまらなくなった。これは暗示だ。俺は
エドの言葉に乗せられちまった・・・・、そう繰り返す破目に陥った。

 家に入るなり健は上着を脱ぎ捨てると、Tシャツの袖や襟を引っ張ってくんくんと匂い
を嗅いでいる。そして「ヒーターを付けてくれ、悪いが先にバスを使わせてもらうよ」と
言ってバスルームに向かった。
 一人取り残された部屋で、ジョーはソファに脱ぎ捨てられたケンの衣服の横に腰掛けた。
微かに、女ものの香水が香った。
 煙草に火を点ける、一服するのは気を落ち着かせるためか? だが、直ぐに灰皿を探し
て捩じり消した。俺はいったい何をやってるんだ? と何だか情けない気がしてきた。
 深呼吸をした。思い出した。酒を車に忘れて来た。
 取りに行かねばと玄関に向かう。ふと、思う。酒盛りをしてそれで終わりにすればいい。
ツケは焦って精算することもない。あそこのマスターはしつこく催促などしないから、店
は道楽でやっているのかもしれない。案外、金には困っていないのかも・・・・と、そん
なことを思いながらも、これは自分の往生際の悪さか・・・・などとも考える。

 そして、
「ジョー、いいぜ。バス使えよ。今日は熱い湯が出るから」
 いつもは温度調節が上手くいかないシャワーが今日は調子がいいらしい。その代わりヒ
ーターの方がいまいちだ。部屋の温度はこれ以上は上がらないだろう。健はダンガリーの
シャツの上にしっかりセーターを着込んでいた。
「あれ、レミーじゃないか、えらく奮発したんだな」
 ソファの前のガラステーブルに置かれた酒を見て健が言った。
「なに、店仕舞いのディスカウントで買ったんだ。それでも値切ってやったけどな。おっ
と、俺が出て来るまで開けるなよ」
 レザーの上着とTシャツをソファの健の衣服の上に重ねてジョーは部屋を出る。「ツマ
ミは買って来なかったのか?」と尋ねる健に、「そんな金がどこにある?」と答えてやる。
 バスルームのタイルは早すっかり冷えて冷たかった。シャワーのコックを捻ると勢い良
く噴き出た湯はちょうど良いくらいに熱かった。だが、直ぐに熱すぎると感じた。温度調
節が不完全なのかどうかは疑わしい。自分の身体が火照っているというのが正解だろう。
 この寒い夜に。タイルの壁に背中をつける、背筋がその冷たさにピンと張った。

 テーブルの上には上品にコースターに乗った二客のグラスと、クラッカーの箱が乗って
いた。レミーは健の手の中にあった。
「まるでお預けを食らった犬だな」
 笑ってやると健の口が尖った。
「氷はないのか? まさか冷蔵庫がぶっ壊れてるとか?」
 用意されていたタオルは洗い曝しだが清潔だ。ゴシゴシと髪を拭きながら隣に掛けると
「要るか?」と、尋ねて健がソファを立った。どうやら冷蔵庫は無事らしい。
 さて・・・・、ジーンズだけを身に付けた格好でTシャツも被らずに、そこに脱ぎ捨て
た上着のポケットを探る。指に触れた銀色のシートを被ったメロングリーンのカプセルを
取り出す。
 ふと、なんの躊躇もしていない自分に気づく。健はキッチンに氷を取りに行った。チャ
ンスは今しかない・・・と、思う気持ちがそうさせるのかもしれない。
 製品名:××××、 成分名:トリアゾラム、 作用時間:超短、
 服用量:就寝前0.125〜0.5mg 薬価:0.25mg1錠・・・・、
 確かに睡眠導入剤だが、はたしてエドの言うとおりの状況になるのだろうか? 寝入っ
てしまわれたらそれこそお仕舞いじゃないか。
『欲を出すなよ、一錠で効き目は十分だ。後はおまえがどう誘導するかだ。優しく誘って、
あやして、騙した隙に強引に・・・だ』
 ニヤリと笑ったエドの言葉を反芻する。が、
 んなことは重々心得てるさ。女では・・・・、
 レミーのキャップを抜く、小さくポンとコルクが鳴った。グラスを一つコースターから
摘んで膝の前まで持ってくる。琥珀の蒸留酒が3分の1を満たしたところでボトルを置く。
 効き目は一錠で十分だと言いながら『これはスペアだ』と、ご丁寧にもカプセルは二個
渡された。その内の一つをシートから押し出し、グラスの上で慎重に左右に捻った。琥珀
の海に落ちた白い粉末は直ぐに溶けて透明になった。それを隣のコースターに戻して、も
う一つのグラスにレミーをまた3分の1満たす。
 それをゆっくりと口にする。上等なコニャックの香りはあっさりとライトではなく濃厚
に舌に残った。


「何だ。やっぱり、ストレートでやってるんじゃないか」
 アイスペールを手に戻って来た健は、咎めるでもなくそう言って隣に掛けるとクラッカ
ーの箱に手を掛けた。
 ソファは一つ、だが大の大人が足を伸ばして寝られるほどに大きいこのレザーシートは
健のお気に入りで、家で唯一の高級家具だ。だから並んで座っても肩が触れたりはしない。
だが、サクッとクラッカーを噛む乾いた音は耳の直ぐ側で聞こえた。
「飲まないのか」
「ん? 昼も夜も食ってないから腹が減った」
「昼も夜も・・・って、いったい飯も食わないで何やってたんだ」
「昼間は読書」
「読書?」
「“007”さ」
 内心、思わずぷっと吹き出しながら、ボンドか?と尋ねると、健はソファの下で新聞に
埋もれていたハードカバーを差し出した。タイトルは“ Never say never again ”、
ショーン・コネリーの復活編だ。
 だが、受け取って「役に立ったか?」とウィンク付きで聞いてやると案の定「現実は厳
しいな」と肩を竦めて苦笑した。
「でも、なら、“ご馳走”には有り付けたわけだな。ジンペイから聞いたぜ」
 ジョーは例の“イイ女とのこと”を言ったのだが、しかし、健はきょとんと目を据えた。
「彼女は料理が出来ない。バーボンとチョコを食っただけだ、レストランのディナーには
誘われなかったし・・・」
 不服そうに健は、またクラッカーに手を伸ばす。
 レストラン・・・って、だから、そういうことを言ってるんじゃない。まったく、こい
つは! しかし・・・・、
「そういう消極的なとこがいけねぇんだ。いいか、健。女から“その手”で情報を取ろうっ
てんなら、もっと図太くないとダメだ。晩飯ぐらいせしめてくる余裕ってもんがな」
 どういう余裕なんだ?・・・と、健は眉を顰めながらもククッと肩を震わせた。
「なら、教えてくれよ」
 真面目な顔をして、だが、これはきわどい台詞だ。氷を落とした冷たい酒の感触で気持
ちを落ち着ける。
 いいのか・・・?と、内心、伺いを立てると心拍数が跳ね上がった。Tシャツも着てい
ない胸が熱い。やはりヒーターの調子がおかしいのだ。今度はいやに室温が高いように感
じられる。
「おい、健、食ってばかりいないで飲めよ」
 テーブルの上に一品増えたフライドポテトと、クラッカーばかりに動く手にジョーは焦
れた。
 しかし、健はなかなか琥珀のグラスを掴もうとしない。
「そんなに食って大丈夫か?」
 女のことには呆れるほど鈍いが、天性の勘の良さが今の仕事を適職とさせる健に、こと
の企みが悟られないように、慎重に伺うと、
「毒を食らわば皿まで、ってな・・・」
 プラスチックトレイのポテトを一気に半分以上平らげたところで、健は漸く手を止めた。
そして、下心発動一秒前のジョーは何気ないその言葉にドキリとしながら、健の手が次に
何処に動くのかを期待と不安とで見守った。
「高い酒はやっぱり旨いな」
「人の金で買ったものは尚更だろ」
「ははは、そうかもな」
 会話は他愛の無いものに変わって、グラスを持つ健の形のいい長い指に見惚れる。何度
も口元に運ばれるレミーが、そろそろ青い双眸を微睡ませる頃、
 暑いな・・・・、
 やはりヒーターの温度調節が変だ。健の指もセーターの襟許に伸びる。裾をたくし上げ
て袖を抜く、頭から脱ぎ捨てると長い髪が額と頬と首筋を撫でた。目が離せない。
「“いつものバーボン”じゃなく、あの豪華な猫足のキャビネットに並んだ酒を堪能でき
るだけの余裕を持てということか・・・・」
 少し頬の染まった健の問いに「そうだ」と答える。
 どうすればいい・・・?と、接近した距離。ブルネットが肩に触れる。コトンと頭を預
ける。
「教えてやろうか・・・」
 実地で・・・・・、(*^o^*)
 スモークグリーンのボトルは既に3分の2が空だ。
 鼓動が、煩い。早く次の手順を踏めと命令する。
「健・・・」
「うん・・・?」
 切実に思った。呆れるほど余裕がなかった。これはエドの戯言を真に受けたせいだ、
だが、そう自分を戒める術など今はない。
「ジョー?」
 訝しげに見上げる瞳がこうも無防備でなければ・・・、
「健・・・・」
 抱かせてくれ・・・、
 それを声に出して口にしたのかどうか、ジョーには解からなかった。唐突に発せられた
危険信号に咄嗟に身を引いた健の身体が憎らしい、腕を伸ばして引き寄せる。
「よせ・・・!」
「何故?」
「おい、ジョー・・・」
「いやだ」
 いやだ、放すものか!
 抱きしめたままソファに崩れる。体重をかけ、胸を押し返す腕を両の手首を掴んで押さ
えつける。抵抗する健の力は薬とアルコールで難なく封じ込められた。
「教えてやるよ、こうやるんだ」
 唇を首筋に落とす。仰け反った隙に一気に滑らせ、鎖骨を啄ばみ胸に到達する。
 そうして気を削いだ身体を力に任せて貪った。
 ダンガリーを剥ぎ取り、露になった肌と肌を密着させる。痛いほど鼓動が絡まった。
「あ・・・っ」と小さな喘ぎが漏れ、「ジョー・・・」と掠れた声が訴えた。
『優しく誘って、あやして、騙した隙に強引に・・・だ』
 エドの助言など頭の端にもなかった。健が感じているのか、感じていないのか、ジョー
にはわからなかった。
 一瞬、不安に駆られて「健・・・・」と、その名を呼ぶ。固く閉じた瞳は頑ななままで、
愛撫に顎を突き上げたが、下肢に伸ばす手を、だが、健は拒まなかった。

 燃焼は性急に起こった。
「あっ・・・、あぁぁ・・っ、や、ジョ・・・、もう・・・」
「まだだ」
「焦ら、すな・・・」
 動こうとする手に指を絡めて阻止し、抗議の視線を無視する。その代わり交換条件をつ
けて誘う。
「いいぜ、達かせてやるよ。言ってみな」
 ・・・・ってな、
 耳元で囁く。
 キッと冷たい青がジョーを睨み上げた。
「どうした、言えないのか」
 言えるものか!
 唇を噛む。その顔がたまらない。
「さぁ」
「い・・・やだ」
「なら、いつまでも、そうしてるんだな」
 薄く唇を開けたジョーの微笑は、健にとってこれ以上はないというほど酷薄だった。
「ジョ・・・ゥ・・」
「聞きたいんだ、健、おまえがそれを言うのを」
「誰・・・が!」
 ダレ・・・ガ、イウモノカ・・・・、
「言えよ・・・・」
 顔を背けた健の唇は固く閉ざされ、だが、噛み締めるほどに震えは大きくなった。
 後がねぇ・・・・、感じたのはジョーの方だった。このままではヤバイ。大きく息を吸
い込む、だが、効果はこれっぽっちもなかった。
 畜生! 貼り付いた額の髪をかき上げる。
 その時、
 ジョウ・・・・ッ!
 背にあった健の手に思い切り力が込められた。
 そして、耳朶に触れた唇が、まるで呪術者によって封印されていた禁断の呪文を恐る恐
る唱えるかのように、その言葉をジョーの鼓膜に注ぎ込んだ。
 跳ね上がる背を押さえ込んだのは、欲望を昇華させるため。どちらの声ともつかぬ切迫
した喘ぎが、境界線を越え、甘く尾を引いて溶けていった。




「・・・って、おまえ、マジで健を落としたのか?」
 それが、エドの第一声だった。
「自己申告だって言ってたよな。マジだぜ。俺の顔見りゃわかるんだよな」
 思いっきり口の端を上げて笑ってやると、エドは、ちぇ・・・と、だが、何だか嬉しそ
うに肩を竦めた。
「よかったな」と一言そえて。
 それがどういう意味なのか、深く考えることもなく、ツケは綺麗さっぱり清算され、ジ
ョーは青空晴天いい気分だった。
 ここ数日、会う度に眉間に皺を増やしていた博士も、今日は頗る上機嫌だった。どうや
ら、事が一歩進展したのだろう。健がやっと思うような情報を入手したらしいことは既に
ジンペイから聞いていたので、ジョーは次の厄介な指令を聞きながらも、やれやれと胸を
撫で下ろしたのだった。
 何しろ、坊やだからな。
   今回の成果は十二分に自分の“尽力”によるものだと自負し、クスッと笑うと、だが、
途端に激しくなる動悸に苦笑する。
 しかし、なんだ・・・、何とも信じがたい。
 あの夜のことは思い出しても赤面ものだ。俺が健を抱いたなんて、いや、俺が健を抱け
たなんて・・・? いや、それ以前に俺が男を・・・・、
 意外に広い自分の許容範囲に呆れながらも、惚れた相手は別だろ・・・、エドの言葉を
思い出して慌てて否定する。
 俺は健に惚れているのか? いや、あれはほんの気の迷いだ・・・、あの時は、酒に火
照った健が、あんまり色っぽくって、い、いや、そんなことを言うと健の奴にひっぱたか
れるな。
 しかし、実際、ブランディーと薬に犯された健は実に艶っぽかった。しっとりと憂いだ
潤んだ瞳を見ているだけで、ジン・・・と、湧き上がるものを我慢できなくなった。
 言葉を発する度に、息を呑む度に上下する首筋も、色を帯びた唇も、グラスにかかる指
先も、囁く吐息も、組んだジーンズの足も、何もかもが自分を挑発しているように思えた。
そのうち何が何だかわからなくなったのだ。
 ただ、もう、健が欲しくて欲しくて欲しくてたまらなくなって、無理矢理・・・・、
 目が覚めた時には、とっくに陽は昇りきっていて、ソファには勿論、健の姿はなく、剥
ぎ取ったダンガリーも、ジーンズもなかった。部屋は丁度いいくらいに暖房が効いていて、
昨夜の暑さはヒーターの調子が悪かったのではなく、自分の上気した体温のせいだと理解
した。
 暫し、その状況をしっかり頭に把握させると、今度は脳天から冷水のシャワーが降り注
いだ。だが、慌てて脱ぎ散らかした服を身に着ける間にも、触れ合った肌が再びその余韻
に熱を帯びる。
 健に伸ばした指、健に触れた唇、健をあやした身体、甘く切なく酔ったのは誰だ?
 胸を押し返した健の腕、縋るように絡んだ健の視線、細く発せられた健の声・・・・、
そこまで辿り、今更のように気づく、
 ヤバイ、どう考えてもこれは相当ヤバイ。
 と、とにかく、健にはしっかり謝っておいた方がよさそうだ・・・と、いうのがジョー
の出した結論だった。




 いくから何でもJUNのカウンターで、とはいかず場所を選ぶ。結局、健を捕まえたの
はそれから二日後で、エドと連る店でグラスを傾けた。
「睡眠導入剤?・・・、たぶん、そんなとこだろうと思ったよ」
 ことの経緯に健はさして驚いた様子もなく、さらっと受け流した。それが、返って不気
味だった。こういう時の健は特に用心が必要だ。
 何か企んでいる、腹に一物ある・・・・と、いうことだ。この場合は手酷い報復か?
「悪かった」
 カウンターに両手を付いて頭を下げる。潔さが肝心だ。だが、
「いいさ。おかげで、情報が取れたんだ。博士も上機嫌だし、今日は奢るよ」
「へ?」
 100%予想に反した健の態度に、状況が飲み込めないジョーは、マジマジと相手を見
据えるしかなかった。すると健は、クスッと肩を竦めて、「これで、もうあの面倒な女の
所へ行かなくて済む・・・・」と、晴れ晴れとした実に健康的な笑顔を向けた。だが、次
に悪戯っぽく変わった表情には要注意だった。
「あの薬、よく効いたぜ」
 言われた意味が掴めず、考えること暫し・・・・、はた、と我に返る。
「おまえ、女にアレを使ったのか」
 まさか!と、上着のポケット探る。スペアがない。
「ったく、手癖の悪い奴だな」
 言いながら、胸騒ぎがした。悪い予感だ。健の唇の端が形よくニヤリと上がった。
「健、おまえ、知ってて?」
「ああ、俺、行き詰っててさ、女相手に」
 それは知ってる。
「薬はおまえで実験済みだったし、それに、しっかり教えてもらったしな、“実地”で」
 ちょっとまて!!!!
 悪い予感というものは、えてして当たる。
「おい、健! もしかして、もしかして、アレを飲んだのは俺か?」
「そうだ」
 きっぱりと言い切った健に、ジョーはしっかり30秒、眩暈を覚えた。
「い・・・いつ?」
 グラスにつけた健の唇が極上の微笑を浮かべる。
 畜生・・・! 
 記憶を引っ張り出す。あの時か? いや、・・・違う、では、

 ・・・・彼女は料理が出来ない。バーボンとチョコを食っただけだ、レストランのディ
ナーには誘われなかったし・・・、
 あの時、
 レストラン・・・って、だから、そういうことを言ってるんじゃないと、呆れた俺を知
る由もなさそうに、健は不服そうに空腹を訴えながら何度もクラッカーに手を伸ばした。
 が・・・、
『あ・・・、そうか、これを食っちまうと明日の朝食がなかったんだ』
『ひもじい奴だな、他に何かないのか』
『冷蔵庫に・・・・何かあったかな・・・?』
『仕方ねぇな、見て来てやる』
 そうだ! しまった。なんてこったぁ、あの時だ。
『ほらよ、健、これ。フリーザーにフライドポテトがあったぜ』
『えっ? それって賞味期限切れてなかったか?』
『ええっ! そうだったのか』
 慌ててキッチンのゴミ箱に捨てた外袋を見に走ると、それは健の言ったとおり1週間も
前に賞味期限が切れていた。
『でも、フローズンだから少しぐらいなら大丈夫だ』
 そして、そう言って俺が止めるのも聞かず、レンジでホクホクになったポテトを旨そう
に口にした。そうだ、それから、
『毒を食らわば皿まで・・・ってな、ジョー』
 そう言ったんだ。あの意味深な台詞が気になったのは確かだ。じゃあ、氷を取りに行っ
た時に既にお見通しだったってか?
 そうだ、健は、こいつは任務のためなら手段を選ばないってことを失念していた。畜生!
俺は、エドだけでなく、健にも乗せられちまったのか!

 そう思うと謝ったことが急に後悔された。
 思えばこの健がいくら薬に酔っていたとはいえ、ああもあっさり手中に落ちたこと自体
おかしいと思わなければならなかったのだ。だが、素直に反省?するのは癪に障る。
「ふん、じゃ、精々感謝してもらうとするか」
 不貞腐れて煙草を摘むと、健康的な笑顔がジョーに言った。
「愛してるよ、ジョー」
 バクッ・・・・と、心臓が鳴った。だが、まんざら悪い気分じゃなかった。
 ま、まぁ、情報は取れたんだし・・・、ツケも綺麗さっぱりなくなった。その上健を抱
けたし・・・と、この点においては自分は正直なのか、それとも後悔しているのか疑問の
残るところだが、ともかくジョーはそう丸く(無理矢理)片付けることにした。
 健が奢るなんていうことは滅多にないことで、それでチャラにしても、何だかお釣りが
くるような気がしたからだ。
 だから、ジョーは博士同様、頗る気分は最高だった。

 エドのやつ、わざわざ俺のところに確認に来たんだぜ・・・・、
「ジョー、おまえ、ツケのために俺を抱いたのか」
 健のこの一言を聞くまでは・・・・、


 優しく誘って、あやして、触れて、
 騙した隙に強引に・・・・、だけど、焦っちゃいけない慎重に、
 落とす手管は最後まで、
 揺れて、酔わせて、
 焦らして、溶かす・・・・、
 フッ・・・と、バーボンの芳香に思考が緩む。

 Never say never again・・・・・、

『もう、来ないなんて言わないで・・・・』
 女の言葉が、チラリと健の唇に、その感触と共にささやかに甦った。


    END



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