It is only a word
・・・ただ一言の・・・

by トールハンマー

「あ・・・!」
 よせ!・・・と、訴えようとした唇の形が定まらぬままに、きつく歯を食いしばる。途端に駆け上った衝撃に身を仰け反らせると、白いシーツがまるであの時の濃霧のように視界を塞いだ。

『ジョー!』
 俺はその名を呼んだ、何度も何度も、声が枯れるほど。俺はその名を叫んだ、何度も何度も胸が張り裂けんばかりに。
 けれど、応えはない。
 何処にいるんだ!返事をしろよ!・・・、
 次第に上がっていく呼吸を整えながら、敵の気配の中で神経を尖らせる。ブレスレットは使えない、迂闊に発信すれば電波を拾われ逆探知される。だが、そんな心配も無駄ではないかと思うほど、行く手行く手に群がるように湧いて出る敵は後を立たない。
 こいつらはいったい何処から出て来るんだ?本部の入り口は何処にあるんだ?
 こんな所でぐずぐずしてはいられない・・・、逸る気持ちと比例するように、時間は残り僅かな計りの砂となって終局へと滑り落ちてゆく。
『ジョー・・・』
 俺はジョーを呼ぶ。焦燥に駆られる中、あいつの身を案じて?
『ジョー!』
 俺はジョーを呼ぶ。傷ついたあいつを死の淵から救うために?
 それとも・・・・、
(我・・・ギャラクター本部・・・発見ス・・・)簡単なモールス信号の、僅かなそのメッセージだけが、俺を走らせた。

「・・・どうした、悦いのか」
 鼓膜に伝わった低い振動に、不意に現実に引き戻される。不気味な人面像が点々と黒い影を滲ませる乳白色の霧は元の白いシーツに戻り、目の前には自分を見下ろす見知らぬ青銅色の瞳があった。いや、知らぬはずはない、酒場で声を掛けて来たこの男とベッドを共にするのはこれが初めてではなかった。
「クッ・・・」
 ケンは突き上げた顎を小さく震わせた。硬く合わさった睫が読書灯の柔い光に影を落とす。
「返事をしろよ・・・・」
 そう問う声に湿った睫の僅かな隙間から空色の瞳が覗く。それを無言の相槌と見たのか男は満足げに唇を綻ばせると、更にその先を求めようと身体を押し進めた。
「ケン・・・・」
 男が呼ぶ。
「ケン・・・・」
 込み上げる感覚に溺れ囈語の様に。
身体が熱い、男のものから伝道される熱が焔となって身を焼く。だが、その熱に呼び覚まされる欲情は、決して男に向かって解放されることはない。

『ケン・・・』
 あいつが俺を呼ぶ。
『ケン・・・・!』
 込み上げる感覚に溺れ、囈語の様に・・・・、
 ピローの端を握り締め、俺はその次に来る陶酔と衝撃を覚悟した。
『うっ・・・・!』
 小さく呻いてあいつが眉根を寄せる。その内に滾らせた熱量は放出を繰り返していても尚、衰えることを知らない。
 身体が軋んで悲鳴を上げる。何度も抵抗した腕はとっくに力を失い、覆い被さった荒々しい動きに凶器と化した身体に屈服を強いられる。
『ケン・・・・』
 呼ぶ声に、せめてもの抗いにと、きつく唇を閉ざす。
 ケン・・・・、最初は何かを問いかけるように囁かれていたそれが、終ぞ応えがないことを知ると、次第に声音を強め、唯々己を陶酔の淵へと駆り立てるための自慰の言葉となった。
『ケン! ケン、ケン・・・・』
 そして、狂ったように貪り続ける唇と舌と指に、否応なしに踊らされ、全身が跳ねては仰け反り、汗を滴らせる。
 そして又、今度も唐突に訪れたが官能の練りが、俺を狂わせた。
 
声を殺していても喉は枯れるものだとは、その時に知った。
 冷えたシーツの上に静寂が水を張ったように満ちていた。あいつの前髪を額に貼り付けていた汗も乾き、呼吸さえも感じられないほどに、その身体は白み始めた朝の曖昧な光と影の中で、青みがかった滑らかな彫刻のように横たわっていた。
 その傍らで腕を立てて身体を起こす。不注意に動いたために全身が酷い痛みに襲われた。ぐっと歯を食いしばって俯むくと、露な肌に無数に残った赤い内出血の跡を見つけて思わず目を逸らす。その先であいつの瞳に捕まった。眠っているとばかり思っていたあいつは、湖の底に深く沈んだ宝玉のような水色の瞳を俺に向けて言った。
『すまねぇ・・・』
 誤らねばならないのなら、何故あんな抱き方をした。俺は、だが言葉にしなかった。
身体の奥に残る燻った理不尽な疼き・・・、それを悟られまいと身を背ける。
 気不味さが静寂の水面下に波を立たせる。
 その夜を最後に、あいつは俺を抱かなくなった。

「何を考えてる?」
「何も・・・」
「そうかな?」
 男の手が顎を掴んで唇が重なった。
「誰のことを考えてる?」
 今度は質問が変わった・・・・、お喋りな奴め。
「決まってるじゃないか、あんたのことさ・・・・」
 白々しさを通り越して笑えもしない。相手も同じ思いだったのか、あからさまに頬を歪めた。
「嘘をつけ、おまえがそんな可愛い奴なものか」
 それでも、
「本当さ・・・」
「なら、名前を呼んでみろよ」
 その要望に、ケンは喉の奥で声を潰した。
「・・・・誰の?」
「ロイ・・・だ」
「ふふ・・・、呼ばせてみろよ」
 言ったな!・・・・と、ばかりに片眉を吊り上げた男の口端が意識的に動いて、首筋に下りてきた。
 既に研ぎ澄まされてしまった感覚は諸にその触感を受け入れる。ケンは吐息を詰め身を捩ることで堪えた。 

・・・・、
俺はあいつを呼んだ。
 単身、クロスカラコルムに向かったあいつの身を案じて?
・・・・、
俺はあいつを呼んだ。
傷ついたあいつを死の淵から救うために?
 それとも・・・・、

ジョー・・・・、俺はあいつを呼んでやらなかった。
あの夜、あいつを狂気に駆り立てたものの正体を知るのが怖かった。身体の芯に熾のように燃え残るあいつの熱を感じるのが恐ろしかった。だから、
俺は、あいつに恨み言の一つも言って遣ることすら出来ずに身を背けた。
ジョー・・・・、
おまえは俺に何を求めた、融合し合えない二つ身に焦れて、何度も何度も激しく俺を奪いながら、おまえは何を求めた・・・・、

「おい・・・・」
 男の動きが不意に止まって指が頬に触れた。その指が思いの他丁寧にそこに零れたものを掬った。
「泣くことはないだろう・・・、酷いことはしてないぞ」
 困ったような顔をした男は、溜息をつき愛撫を中断した。ナイトテーブルに飲み残したウイスキーのグラスへと腕を伸ばす。
 それを横から奪い取ってケンは一息に飲み干した。カッと胃の中に染み入る熱さと舌に残る苦さに顔を顰める。それを見て男は肩を竦めて笑った。
「ヤル気があるのか、無いのかはっきりしろ」
 上の空の自分に男は悪態をついた。だが、瞳は決して険しくはない。
 ケンは男の首に腕を回した。テーブルに戻したグラスがカランと小さく角氷を鳴らす。
「俺に、呼ばせてみせろよ・・・・あんたの名を・・・」
 男は形のいい唇でニヤリと笑った。乱れた前髪は青銅色の瞳を隠している。俯いて近づいてくる唇は、もしかして、少しあいつに似ているのか?
「ああ・・・っ!」
 と、今度は堪え難たかった。男はもう何も喋らなかった。
喘ぎがちに洩れる声を、ケンはもう噛み殺すことはしなかった。辿り着く先を求めて感じるままに声を立てた。
 そうだ、もっと俺を追い詰めろ、追い詰めて追い詰めて、もっと激しく何も解らなくなるほど俺を狂わせろ、そして、悦かせて、呼ばせてみせろ・・・・
俺にその名を・・・・、
二度と呼ぶことの叶わぬ、その名を、俺に呼ばせてみせろ・・・・、

『ケン・・・本部の入り口はここだ』
 時間は、残り僅かな計りの砂となって終局へと滑り落ちてゆく、
 それでも俺たちは、諦めはしなかった。
 あいつは俺を呼んだ、深い霧の中で、最後の力を振り絞って・・・・、
 
 ジョー・・・、
ケンは決して解くことはないと思っていた自らの枷を解いた。法悦の果てで唯一言、その名を口にするために。



                  END


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