悲哀

by yu-jin

しまった。
 そう思った時には遅かった。
 この事態になる前に、何故気が付かなかったのだろうと、ケンは己の迂闊さを呪った。
 気配はあったはずだ。
 疲れていたとはいえ、空気の流れに気づかぬほど気が緩んでいたのだろうか。
 仰け反って見上げた逆さまの視界に映る時計は、最後に見た時から既に2時間が経過し
ている。
 よりにもよってこんな時に。
 ソファの背に手をかけて体を起こすと、ケンは軽く頭を振って室内を見回した。
 当然といえば当然のごとく、人の気配はまったく感じない。
 まいったなぁ。
 このままでは、どう短く見積もっても後3時間はこの状態が続く。何とか今のこの状況
を打破する手段を考えようとして、ケンは起き上がったソファにそのまま倒れ込んだ。
 めんどくさいなぁ。
 可及的速やかに解決しなければならない程切迫した状況ではないことが、ケンの思考を
鈍らせる。
 取り敢えず身体の欲するがままに、惰眠を貪ることも、この状況の解決策の一つではな
いかと、重力に逆らうことができなくなっている瞼のいい訳を考える。
 ケンはうつらうつらとしている夢心地の気分を楽しみながら、ソファに身体が沈み込ん
でいく感覚に身を任せていた。
 眠ってしまえばとりあえず腹は減らない。いや、腹が減っていることに気がつかない。
それは日常的に培った教訓だ。
 だが、この教訓には一つ欠点がある。眠れる程度に腹が減っている場合に限る。
 空腹感が強過ぎては、せっかくのこの教訓も何の役にも立たない。
 そして運悪く、今が正にその時だった。
 くそっ。
 耳障りな程に空腹を訴える自分の腹の声に、ケンは一度閉じた目を開いて天井を見上げ
た。
 ついさっきまで寝込んでしまっていたことも手伝って、眠気よりも食い気の方が勝って
いることを自覚してしまう。
 腹減ったなぁ。
 そう思ってしまったのが運の尽きだった。
 メシいつ食ったっけ?。
 ここに連れてこられる前は、終わったばかりの任務の報告書を作っていてメシを食うの
を忘れていた。どうせ後で食えると思っていたのが失敗だった。そもそも、その前はと言
えば、任務の真っ最中でメシどころの騒ぎじゃなかった。
 あれ?。
 ケンは寝そべったまま伸ばした身体の動きを止める。
 何時メシ食ったんだ?。
 思い出すのは、任務中に立ったまま食べていたパック飲料タイプの補給食だけだ。
 その前は。
 10日近く今回の任務に掛かっていたせいで、咄嗟にそれ以前のことを思い出せない。
 俺、シェーカー振ってたんだ。
 そもそも今回のスクランブルに呼ばれた時、自分がバイトの最中だったことをようやく
思い出し、と同時に、「またクビかな?」という思考がもれなくおまけで付いて来た。
 ま、いっか。
 ジョーに聞かれたら「おまえなぁ」という言葉が飛んできそうだが、この際それは忘れ
ることにする。
 バイトで夜食食ったっけ?
 食事だけに限って記憶を手繰ると、その晩はおろか、その日は何かを食べた記憶が無
い。
 夜のバイトの前は、宅配のバイトで離島に飛んでいた。配達先がやたらと遠くて、戻っ
て来たのは夜のバイト時間ギリギリ。「メシ食ってる暇もないじゃないか」と思ったこと
を思い出したら、ますます自分の空腹さ加減に気付いてしまう。
 そうだ。その前の晩は、しつこい客に絡まれて、マスターと相談の結果、酔い潰してし
まえという算段になったものの、その客がまたヘベレケのクセに潰れないという一番質の
悪い奴で、何とか放り出して店を締めたのが明け方。やっとベッドに潜り込んだと思った
ら、すぐ朝だった。
 ってことは、更に前の日?。
 あの日は。
 寝てたら博士に起こされて、今回の任務の下調べを手伝っていた。
 何かをしながら物を食べることを嫌う博士の目の前では食べられずに、ひたすらコー
ヒーで腹を膨らしていた気がする。
 やばいなぁ。
 本当に自分がいつ食事を口にしたのか判らない。
 確かに栄養補給という観点では問題がないだけのパック飲料を口にしてはいるが、まと
もな食事にありついていない。
 普段まったく頓着しないのだが、一度気になり出すと止まらなくなる。
 そうだ。ジュンのところでトーストを食ったな。
 ようやく物を食べた記憶に辿り着いてはみたものの、いったいそれが何時のことなのか
が判らない。

 何時ジュンの店に行ったんだっけ?。
 と思いを巡らせ、それから必死に思い出した食事が「トースト」という情けない事態に
愕然とする。
 何もジュンの店に「トースト」しか無いわけじゃない。せめてサンドイッチとか、いや
いや、ジンペイの作るクリーム和えスパゲティを最近食べた記憶がない自分が無性に悔し
い。
 待て。
 肉はいつ食ったんだ?
 ケンの頭の中に湯気の立つ分厚いステーキ肉を乗せジュウジュウと音を立てる鉄板が浮
かぶ。
 極上の肉を軽く塩、胡椒で焼き上げたステーキの味が舌に蘇る。と同時に無粋な悲鳴が
腹の奥から聴こえてきた。
 本当なら今頃。
 くそっ。
 ケンは拳を思い切りソファに叩きつけた。だが、まるであざ笑うかのように、やんわり
とはね除けられただけだった。
 フォアグラ、キャビア、トリュフ。
 間違いなく今夜ありつけたであろう食い物は、既に幻だった。
 そんなものじゃなくてもいい。
 コロッケ、ハンバーグ、オムライス。
 そんな在り来りのものでさえ、食べた記憶は遥か彼方だ。
 ビーフシチュー、カレーライス、ポトフ。
 そもそもこの手のものにありつけるのは、博士の別荘の食堂か、基地の食堂。
 あの日だって、結局は博士の資料整理を手伝い、そのまま不足している調査に飛び出し
てしまった。
 あの日の食堂のSランチは、エビチリ、春雨サラダ、コーンスープ、ライスに杏仁豆腐
だった。
 「また、メシ抜きかぁ」
 そう呟いて、ランチメニューを横目に、パック飲料片手に飛び出したあの日の記憶が蘇
る。
 杏仁豆腐かぁ。そういや、甘いモンも食ってないなぁ。
 アップルパイ、シナモンロール、ザッハトルテ。
 ケンの頭の中には見境なく食べ物が並んでいく。その量に比例して空腹を訴える腹の音
は音量を増していく。
 ともかく後3時間、何とかこの場が凌げれば後は何とでもなる。なるはずだ。
 今頃ジョーのやつ。
 そう思った途端、ケンの頭の中には、更にカクテルサラダ、生牡蠣、オマールエビの香
草焼きが加わる。
 それをチョイスしながら、カクテルを片手にタキシードに身を固めたジョーの姿が浮か
ぶ。
 博士の護衛を兼ねているジョーは、アルコールを口にできないはずだが、ジョーが手に
するであろうグラスの中身がノンアルコールかどうかはどうでもいい。問題は食い物の方
だ。
 奴はきっと「こんなものは食べ飽きた」とでも言うような口ぶりで、フィレステーキの
焼き方を注文するに違いない。
 そこまで想像を巡らせたケンは、どうにもたまらずソファから起き上がった。
 この際何でも構わない。
 ケンは隣の部屋に向かいカウンターバーに設置されている冷蔵庫を開けた。
 想像通り食べ物はない。
 背に腹は換えられない。飲んで腹を満たすかと、ビールに手を伸ばしかけて、思い止り
隣のオレンジジュースの缶を手にとった。
 プルトップを開けて一気に飲み干す。
 冷えた液体が身体の中を流れ、空腹を主張する胃に染み渡るような感触が広がる。
 空になった缶をダストボックスに投げ入れケンは更に冷蔵庫からアップルジュースを取
り出してソファに戻る。
 ソファの背には自分が着るはずだったタキシードがハンガーバッグに入ったままかけら
れている。
 確かに気乗りはしていなかった。
 護衛なぞジョー一人で充分だと思っていた。博士の親族として紹介されるパーティは苦
手だ。
 腹さえ減ってなければ、出席せずに済んだ今の状況は歓迎すべき事態だ。
 だが、頭の中が食い物で埋めつくされる程の今の状態では、眠り込んでしまったことが
悔やまれる。
 いやいや、そもそもこんなところに来なければ、文句を言われながらでもジュンの所で
何かにありつけたかもしれない。
 ケンは「腹が減った」以外に何も考えられなくなっていた。
 やっぱり肉だ。
 一番最初に浮かんだ熱々の鉄板が、頭の中で一回り大きくなる。
 何としてでも肉を食うぞ。
 そう心に決めた時、それはいつも通り、いきなり鳴り出した。
 「はい。こちらG−1号」
 返事を返しながら嫌な予感が背筋を駆け登る。
 「ケン。私だ」
 博士の声に、ケンはごくりと咽を鳴らした。そして博士の次の言葉に、ケンは心底打ち
のめされた。
 「ギャザー。ゴットフェニックス発進せよ」
 咄嗟に口走りそうになった「勘弁してくれよ」という言葉を飲み込み、「ラジャー」と
答える。
 「これで取り敢えずパック飲料で腹は膨れるか。この任務が終わったら今度こそ肉だ」
 そう呟くケンの頭の中から、幻の肉が消えていく。
 ケンは覚えていない。
 前回もそう固く心に秘めて任務に付いたはずの自分を。



−oshimai-


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