キセキのはじまり
-Lonely 4-

by yu-jin



(1)

 ”普通”
 ケンは博士に渡された箱を開いて思わず吐息を付いていた。
 ”タキシードを着るような食事は、食事会とは言わんだろう”
 箱の中にはホワイトグレーのタキシードが一式。それと一緒にシャツとタイピン、カフ
スボタンとまでが用意されている。当然靴もだ。
 ケンはベビーピンクのタイをつまみ上げ、自分の目の前にぶら下げ、しげしげとそれを
見つめる。何やら愛らしい色のそれに気分が滅入る。
 ”護衛ね”
 ケンは摘み上げたものを箱の中に放り投げそのままソファの背に凭れかかるように沈み
込んでいた。
 博士に依頼された『護衛』という言葉からはほど遠い物体に、ケンはソファの背に両手
を伸ばし、天井を見上げて前髪ごと息を吹き上げていた。
 まっとうなセキュリティが付いている博士が、わざわざ自分に護衛を依頼した上、寄越
した服がこれでは、いったい何を依頼されているのか判らない。
 『プライベートな食事会でね。あまり物騒な人間をうろつかせたくはないのだ』
 博士は確かにそう言っていた。
 ”物騒ねぇ”
 博士が言うところの『物騒』という単語とは確かにほど遠い、いかにもパーティという
装いだ。
 ウィングカラーのシャツに、ベビーピンクのベスト、長めの丈のホワイトグレーのジャ
ケット、どれもケンの身体に合わせて仕立てられている。
 ”計画的犯行…って言うよな。これって”
 鏡の中に写る自分の姿に、ケンは自分が完全にはめられたことを自覚する。わざわざ今
日この日のためにあつらえましたという程、自分の身体に合っているタキシードに、ケン
は三度目の大きな吐息をついていた。

 『食事会』とやらは、博士の友人だという財界に大きな影響力を持つ男の娘の帰国パー
ティだった。何でも文化交流とかで留学していたのだそうで、留学先ではモデルとしても
活躍していたといういわゆる才色兼備のお嬢様だ。
 テラスに面した広いホールで繰り広げられるパーティは、そのお嬢様のお父上なる男に
親しい人間だけが招待されているようだったが、充分華やかなものだった。
 そのホールでひときわ華やかな存在が今晩の主役である彼女だ。
 ”そういえば”
 ケンはその彼女を見ながら思い出す。
 ”確かジュンが何やら言っていた”
 週刊誌に載ったインタビュー記事に、ジュンがうっとりとした表情を浮かべていたこと
を思い出す。
 『いいわねぇ。財閥のご令嬢で、その上世界的に注目されているデザイナーの専属モデ
  ルだなんて』
 ケンは、いったい何が『いい』のかさっぱり理解できなかったこともついでに思い出し
て、その彼女から視線を移す。
 彼女をエスコートしている男。
 ケンの視線が彼を捕らえた瞬間、ケンは自分の目を疑い、そして思わず博士の顔を見て
いた。
 「君でも見間違うかね」
 博士は微妙に表情を歪めてその男を見ていた。
 「見間違う?」
 「あれはジョーではない」
 「まさか」
 彼女の横に立っているその男はどこから見てもジョー本人に見える。
 「最近ヨーロッパの方で進出してきた男だ」
 博士の言葉に、ケンはいっそう目を凝らして男を見つめた。確かに『違う』と言われて
見ればジョーよりも歳は若干上なのかもしれないとは思うものの、そもそもジョー本人が
実年齢よりも年上に見えるのだから、大差はない。それを思えば違うところを探す方が難
しいと思う程に似ている。
 「何者ですか?」
 「IT関連の会社を幾つも持つやり手の実業家という表向きの顔はあるがね。乗っ取り
  屋だ」
 「乗っ取り屋?。そういう人物が彼女のエスコートですか?」
 「うむ。私の友人もそれを気にしている。友人はジョーを彼だと思ったようで、私の所
  に身元の確認に来た」
 「それにしてもよく似ていますね」
 「内々に調べさせたのだがジョーとの血縁関係は見つけられなかった。そのかわり面白
  いことが判った」
 「面白いこと?」
 ケンがそう問い返した時、話題の人物が今日の主役を伴って近付いて来た。
 「おじさま。お久しぶりです」
 優雅な動作と、愛らしい笑顔。その彼女のキスは例え挨拶のキスであったとしても、相
手を幸せな気分にさせるようだ。
 「やあクリス。すっかりレディになって、見違えるようだ」
 博士はまるで自分の娘を見るように目を細め彼女の挨拶に応えている。
 「こちらの方は?」
 「ん?。息子だよ」
 博士の紹介の言葉にケンは内心驚きながらも、極上の笑みを浮かべ、彼女に手を差し出
した。
 「ケンです」
 「おじさまにこんな素敵な息子さんがいらっしゃるなんて知らなかったわ。もう少し早
  く出会えていたら、虜だったかも私」
 彼女はそう言って微笑むと眩しそうに傍らの男を見上げた。
 「クリス。君の意中の人かね?」
 彼女のその様子に博士は些か落胆した表情を浮かべた。
 クリスはそんな博士の表情にはまったく気付かぬまま、僅かに頬を上気させて話題の彼
を紹介する。
 「やだわおじさま。彼は私の友人のジョージです。ジョージ、いつもお話してる南部の
  おじさまよ」
 「はじめましてジョージ・サクラといいます。博士のご高名はかねがね」
 そう言って博士に手を差し出す男の顔をケンは穴があきそうなほどに見つめてしまいそ
うになり、慌てて視線を逃がす。
 「やあ、はじめまして」
 博士は彼の名前を知っていたのか、動揺も見せずに差し出された手を握り返している。
 ”いったい何の冗談だ?”
 顔も似ていれば、名前まで似ている。あげくの果てに声まで似ている。
 『別人だ』と聞いていなければ『何やってんだ?おまえ』と間違いなく言ってしまいそ
うだ。
 「はじめまして。ケン君」
 『ジョー』そっくりの声でそう言われた瞬間、ケンは背筋に粟が立つのを感じていた。
 「はじめまして。ミスターサクラ」
 ケンは最大限の努力を払って、にこやかに握手に応じる。
 「ジョージで結構ですよ」
 ”目眩がしそうだ”
 ケンは自分がいったい誰と話しているのか判らなくなってくる感覚と戦いながら、更に
努力を振り絞って『ええ』と微笑みを浮かべて答えた。
 「ジョージ君は学生かね?」
 「いえ、学生の時に仲間と始めた仕事が運よく時代の波に乗れまして、小さいながらな
  んとか経営しています」
 「ほお、それはすごいね。その若さで。クリスが夢中になるのも当然かな」
 博士の表情は普段とは違い、まるで親戚の叔父さん状態だ。
 「やだぁ。おじさまったら」
 「クリス。他の方々が君をお待ちかねだよ。私はいいから行っておいで」
 些か名残惜しげに見えるものの、博士はさりげなく二人を遠ざけるように促すと、クリ
スは素直に彼を伴って次の客の相手へ向かった。
 「どういうことなんですか博士」
 二人が自分達から離れるのを確認してケンが口を開く。
 「驚いたかね。だが正真正銘本名のようだ」
 知っていたなら先に言ってくれとは思ったが、取りあえずケンは黙って博士に先を促し
た。
 「どうやら裏で例の組織と繋がっているらしい」
 ”例の組織”
 ケンのこめかみが僅かに動く。
 ”ギャラクター!”
 ゴクリと咽を鳴らし、きつい視線で男を振り返ったケンの腕を博士がやんわりと掴む。
 「誤解してはいけない。奴らのことではない。例の組織というのは技術売買組織の方
  だ」
 「ああ」
 例の科学技術売買の組織の方を言っているのだと気付いたケンの瞳から炎が消える。
 「乗っ取り屋もそうなのだが、いろいろと闇ルートに関わっているようなのだが」
 博士の口ぶりからするとどうやら確証は掴めないでいるらしい。よほど深い関わりを
持っているか、あるいはザコか。いずれにしても確証は無いとはいえ、そこまで判ってい
てそんな人物をこのパーティに出席させているということは、よほどあの娘が彼にご執心
ということなのだろうかと、ケンはクリスから目を離さない博士の横顔を見つめる。
 「君に引き合わせれば彼女の気が動くかと思ったんだが、どうやらジョーに惹かれる女
  性は君には心が動かないようだな。ふむ」
 「博士!」
 まるで実験考察でも述べるかの口調の博士の言葉に、いったいどこまで本気で言われて
いるのかケンには判断できなかった。
 「まあ落ち着きたまえ」
 平然と言い放つ博士をケンは見開いた瞳を閉じることもできずに見つめる。
 「私はあの愛らしいクリスを何とか傷つけずにあの男と別れさせてやりたいのだよ。あ
  の男にはいろいろと他の女との噂もあった。まったく容易ならん」
 かなりの確率で『本気』らしい博士の言葉に、ケンはがっくりと視線を足許に落とし、
いったい何度目かも判らなくなった吐息をついていた。


(2)

 「何か飲み物か食べ物でも持ってきましょうか?」
 そう声をかけられたのは、『博士の息子』として紹介されることに疲れ切っていた頃
だった。
 何を馬鹿丁寧な口調で言っているんだと思ってから、『ジョー』ではないことを思い出
す。
 「あ、いや。いいです」
 「ケン君だったね。君は何をしてるんだ?。学生?」
 ”面倒な質問はやめてくれ”
 とは思ってもそうは言えず、ケンはさっき博士が誰かに言っていたことをそのまま答え
る。
 「いえ。父の私設研究所の方で手伝いをしています」
 「そうか。若いのにすごいんだな。南部博士のご子息だったら優秀なんだろうな」
 ”きっと次は『何の研究を?』だな”
 この男が例の組織と繋がっているのなら、博士の私設研究所には興味があるだろうと思
いながらケンは相手の表情を盗み見る。
 「何の研究をしてるんだい?」
 思った通りの問いにケンはもう一度相手の顔を見つめた。顔が似ると思考回路も似るの
だろうか。『ジョー』だと思えば意外に簡単に思考は読めるかもしれない。
 「手伝いと言ってもようするに使いっ走りですから。僕は息子と言っても養子なんで」
 「どうりで」
 ”バカそうだとでも言いたいのか?”
 「博士には失礼だが、似ていないわけだ。君があんまり美しいんで驚いていたんだ」
 ”歯が浮きそうだ”
 ジョーが女を口説いているようなセリフにケンはげんなりしていた。
 「君ともっと親しくなりたいな」
 ”男口説いてどうするんだ!”
 とは思ったものの、この男は意外と仕事熱心なのではないかと思い直す。博士とのパイ
プを繋ごうという魂胆ならば、頭の悪そうな息子を口説くというのも効果的だ。
 「研究所じゃおじさんばっかりで飽き飽きしてたんですよ。何か面白い遊びを教えてく
  れますか?」
 どうせだったら乗ってみるかと、ケンは誘い水を投げる。
 「おやおや。いいのかい?。そんなことを言って」
 彼はそう言うといきなりケンの耳に顔を近付けると、ジョーそっくりの声で囁いた。
 「博士に可愛がってもらってるんじゃないのかい?」
 ”言うにことかいてそれかよ”
 一瞬冷気を含んだ視線を投げそうになり、慌てて力を抜く。相手が『ジョー』ならば、
間違いなくそのまま投げつけているところだ。いや、まかり間違って『ジョー』がそんな
ことを言おうものなら、視線どころか手よりも先に足が出るであろう自分をケンは自覚し
た。
 ”いったい俺を誰だと思ってるんだ!”
 とは言えない言葉を飲み込み、取り敢えず息を詰めて頬を紅潮させてみせた。
 「へぇ」
 ”何が『へぇ』なんだ!”
 「クリスもお嬢様だが、君もなかなか可愛いよ」
 ケンは彼の言葉にチラリとクリスを見る。
 「ヤキモチかい?」
 ケンの肩口に顎を寄せて、まるで耳に息を吹き込むように囁く彼の声に、ケンの全身は
鳥肌が立っていた。
 もし『ジョー』と初対面で出会ったら、彼とまったく同じ行動を取るのではないかとさ
え思えてくる。
 「…そんなんじゃ、ない」
 ケンは、彼の手をやんわりとかわし、側を通りかかったボーイからデザートシャンパン
のグラスを受け取る。それから、ゆっくりと男を振り返った。
 少し恥じらうように。
 だが、この男の魅力に惹かれたかのように。
 ケンは男の顔を下から見上げる目線を向けた。
 「でも、そうだって言ったら…どうします?」
 『ジョー』そっくりの顔をした男は、『ジョー』そっくりに小さく苦笑を浮かべた。
 「君を見ていると本気になりそうだ」
 この手の顔の男は、呼吸をするかのように自然に、目の前にいる相手を口説く術を生ま
れながら備えているのではないかと疑いたくなる。
 たいしたものだと感心しながら、ケンは彼の肩に片手を回す。
 「じゃあ、本気になって欲しいな」
 いっそのこと彼女の前でこの男とキスでもしてやろうかと思ったが、ここぞとばかりに
脳細胞をフル回転させ、ありとあらゆる言葉を動員して、よどみなくいい訳を口にするで
あろうことは、普段『ジョー』を見ているケンには容易に想像できた。
 「本気にさせてくれ」
 彼は自分の肩にかけられているケンの手を掴み、その手に紙片を握らせて身体を引く
と、ケンのもう片側の手からデザートシャンパンのグラスをさりげなく取り上げる。
 「お酒は今度ゆっくり教えて上げるよ。連絡を待ってるよ」
 彼女の元に戻っていく男がケンの手の中に残したものは、肩書の書いていないプライ
ベート用らしい名刺だった。
 ”手慣れたもんだ”
 ケンが呆れて男の背中を見つめた瞬間だった。
 爆発音かと思う音が響く。
 咄嗟に腰を落して振り返ったケンの視界は、舞い散る赤いものに遮られる。
 ”何!?”
 降り注いだのは真っ赤なバラの花びらだ。
 悲鳴が上がる。
 ホールが騒然とする。
 ケンは立ち尽くす博士の肩に手をかけて、テーブルの陰にしゃがませる。
 「どうしたというのだ?」
 博士の混乱した声の答えを探し、油断なく視線を走らせていたケンは、テラス越しの上
空に目を止める。
 「おそらく、あれです」
 「まさか」
 ケンの視線を追った博士が絶句する。
 ケンが見ているのは、遥か遠方の海上の上空を飛ぶヘリだった。
 「きゃぁぁぁ」
 一段とけたたましい悲鳴がすぐ後で上がった。振り返ったケンと南部の視界の中に、男
の腕の中に崩れたクリスの姿があった。
 「撃たれたのか?」
 「いえ。ショックで失神したんでしょう。撃たれたのなら反動で身体が吹っ飛びます
  よ。この距離を狙ってくるんですから、かなり大型のライフルです」
 「ライフル?。爆弾ではないのかね?」
 「ええ。対物ライフルのたぐいです」
 戻した視線の先のヘリは、方向を換えて海上奥へと向かっている。
 撃ち抜かれたのは、ホール中央に飾られていた大きな花瓶だけだ。
 要人の多い食事会だけあって、見るからにセキュリティと判る男達が配備を固めてい
く。
 この混乱を利用して何かをしようと思っていたのなら、おそらくは無駄だろう。
 第二波が始まる様子もない。
 「この中の誰かに対する警告のようですね」
 ケンは博士に手を貸して立ち上がり、あたりを観察するとそう結論づけた。
 「やはりそうなのか」
 心当たりのありそうな言葉に、ケンは博士を振り返る。だが博士の姿は、既に倒れたク
リスの元へ向かっていた。
 ”いったい何がどうなってるんだ?”


(3)

 「で、どこまで行くんだ?」
  運転するジョーにケンは不機嫌そうに言葉を投げつけた。
 「サイドベイフロント」
 ジョーは自分の横で不機嫌の固まりと化しているケンを見ずに行き先を告げる。
 「サイドベイフロントぉ?。何だってそんなところに行くんだ?。そもそも何で俺がお
  まえに付き合わなきゃならないんだ」
 ”そのセリフはいつもの俺のセリフだ”
 自分は有無を言わさず人を巻き込む癖に、巻き込まれるのはごめんだといわんばかりの
ケンの言い方に、ジョーは内心ムカつきながらも、ここ数日『寄るな触るなオーラ』を発
散しているケンをどうやってなだめすかそうかと思考を巡らせる。
 「おまえのその、ところによっては切れる脳味噌が必要なんだよ」
 「人の脳味噌を当てにならない天気予報みたいに言うな。褒めてるんだか貶してるんだ
  か知らんが、どっちにしてもおまえに言われたくない」
 ケンは完全に臍を曲げている。
 「わぁったよ。晩飯奢る。頼むから付き合ってくれ」
 ジョーを見るケンの視線は、突き刺さるかと思うほどに鋭い。
 「ジュンの店のパスタだなんてごめんだからな。だいたい飯で釣られるなんて美意識に
  欠ける」
 ”美・意識ぃ?”
 と叫びそうになるのをジョーは必死に堪えた。借金を踏み倒して平然としている男に言
われたくはないが、これ以上臍を曲げられたら横からブレーキを踏まれそうだ。
 「そう言うなって。何でもおまえの好きなものを奢ってやる」
 充分飯で釣られているクセによくもまあ言ってくれるものだとは思うが、そんなことも
当然言えない。
 「チャイナタウンでフルコースだな。フレンチは喰い飽きた」
 「へいへい」
 博士にたかるからフレンチになるんだと思ったが、それもとりあえず飲み込む。だいた
い美意識とやらはどこに行ったんだとも思ったが、それも言わぬが華だ。何だってせっせ
とこいつのご機嫌取りをしなきゃならないんだと思うものの、ともかくこいつを連れてい
かないことにはどうにもならない。
 ”まったく”
 ジョーはそっと吐息をつく。
 ”とんでもないのに関わっちまったぜ”
 いったい何でこうなったのか、事此処に至ってもさっぱり判らないが、こうなってし
まった以上は仕方がない。ジョーは前方を見据えてアクセルを踏み込んだ。

 ケンは、あの日以来ジョーの顔を見るとむやみやたらと不愉快な気分になっていた。自
分でも歯止めが利かぬ程に、無性に殴り飛ばしたい欲求にかられる。それもこれも、全て
あの『ジョージ』とやらのせいだ。
 何を血迷ったのか、−いやただただ商売熱心なだけかもしれないが−彼は、あの翌日博
士を通してケンを食事に誘って来た。
 『君を食事に誘いたいと言ってきているが、君は彼に何をしたのかね?』
 博士の言葉を聞いた瞬間、ケンは腰から力が抜けそうになった。
 『まあ君のことだ。何か考えがあってのことだろう。あの男の本性に近付くにはなかな
  かいい手だ』
 一人で勝手に納得した博士は、『さっそく今夜にでも食事の誘いを受けたまえ』と早々
にレストランの予約を取ってしまった。
 それ以来毎晩あの男に会っている。
 こういう時に限って約束を反故に出来る任務が無いことも気に入らない。
 食事をして、深夜近くまで引き回される。おかげで腹は満たされているが、いいかげん
『頭の悪いお坊ちゃん』役に疲れて来た。
 収穫といえば、この間の狙撃事件のターゲットが彼では無さそうだということだけだ。
 毎晩遊び歩いている彼は、自分が誰かに狙われているなど微塵も思っていないようだ。
実際、かなり怪しい店にも連れていかれたが、そういう意味での身の危険は感じることは
なかった。
 そう。
 別の意味ではずいぶんと身の危険を感じさせてくれる男ではある。
 高級会員制の如何わしい店にも連れていかれた。
 『刺激的だろ?』
 怪しげなショーを見せられながらそう耳元で囁かれる声に、ケンは目眩を感じるほどの
疲労感と戦っていた。
 ”ジョー!おまえって奴は!”
 『違う』と判っていてもそう言いたくなる。
 掌で顔を覆ったケンに、彼は更に誤解の追い打ちをかける。
 『君には刺激が強すぎたかな?。博士とはこういうことはしないのかい?』
 ”バカも休み休み言え!”
 そう怒鳴って蹴りの一つも入れてやりたい。
 それを耐えるストレスはケンには想像以上だった。
 それほどの苦痛に耐えて男に付き合っているにも関わらず、肝心な核心に触れることが
できない。ひょっとしたら本当にこの男は自分を口説こうとしてるだけなのではないか
と、『ジョー』そっくりの顔を見るにつけ、消すことのできない疑問が沸き上がって来る
のを感じていた。

 「おい」
 「あ?」
 さっきから押し黙ったまま突き刺すような視線で自分を見ているケンに耐えかねて
ジョーが呼びかける。
 「俺の顔に何かついてるのか?」
 「いや。人をドライブに誘っておいて、いつまでだんまりを決め込んでるつもりなのか
  と思ってな」
 「ドライブっておまえ」
 「サイドベイフロントまで何しに行くのかぐらい喋ったらどうだ」
 「何って」
 ジョーはケンの問いに口ごもる。ジョー自身何が目的なのかよく判っていないのだから
答えようがない。判っていることといえば後に積んでいるものを持って来いと言われたこ
とだけだ。
 「これを運ぶのが目的か?」
 ケンはバンの後に積まれている『荷物』を指さしている。
 「らしいな」
 「中身は何なんだ。これの」
 「さあな。知らねぇ方がいいかと思ってな」
 開けてみるのもゾッとしない積み荷にジョーはそう答えた。
 「まさに入ってますっていうんじゃないだろうな」
 「多分違うな」
 「何で判るんだ?」
 「やけに軽いからな。持ってみたわけじゃねぇが、運転してりゃ判るさ」
 「やけに軽い。ね」
 ケンは身体ごと振り返って、その黒い縦長の箱を見つめている。
 そうまじまじと見つめるまでもなく、その箱は間違いなく棺桶だった。
 「これに何を入れてるんだか知らないが、かなり趣味が悪いぜ。いったい誰に頼まれた
  んだ?」
 「話すと長くなる。ようするに知り合いだ」
 「端折り過ぎだ。どういう知り合いに頼まれると俺を口説き落としまでこんなものの運
  搬を請け負うんだ?」
 「そりゃぁおまえ」
 またしてもジョーは口ごもる。
 「女か」
 そのジョーを横目にケンは事も無げにそう切り込む。
 「女っていやぁ女だが」
 この場合の依頼主は誰なのだろうかということさえジョーには自信がない。
 「こう要領を得ないと何だかさっぱり判らないだろ」
 「俺もわからねぇからおまえに頼んでるんだろ」
 「あのな。ジョー。情報がなけりゃ分析はできないんだ。いくらところによっては晴れ
  みたいな脳味噌でもな」
 相変わらずケンの臍はそっぽを向いているらしい。ジョーはケンのその厭味のような言
葉を無視して仕方なくその『話せば長い話』を始めた。


(4)

 『やっと見つけたわ』
 そう言ってジョーに歩み寄って来た女はジョーの知らない女だった。
 『あなたに伝言よ。もう。すっごい怖かったんだからね』
 女はそう言ってジョーを睨み付けると、伝言とやらの入っているらしい封筒をカウン
ターに叩き付けた。
 『金輪際あなたと関わるのはごめんよ。ちょっと遊んでやったぐらいで冗談じゃない
  わ』
 気の強そうなその女は、何を言われているのかさえ判らないジョーの頬を平手で叩くと
颯爽とコートを翻して去っていった。
 女が現れてから去っていくまでの間にジョーが発した言葉は”え?”と”へ?”と
”あ?”だけだ。
 何が何だかさっぱり判らぬまま、伝言と言われた封筒からカードを引き出す。そこには
ますます意味不明の言葉が並んでいた。
 ”おまえが預かっているものを持って来い。青い目の坊やも一緒にだ。約束が守られな
  い時は女を奪う”
 後は場所と時間が指定されているだけだった。
 『預かってるものだぁ?』
 ジョーの呟きに、その店のマスターがカウンターに車のキーを置いた。
 『どうやらこれが必要なようですね』
 当然ジョーの答えは”あ?”だったのだが、彼は平然と『やはり危ないものだったんで
すか』と言いながら、とがめるような視線をジョーに向ける。
 『あぶないもあぶなくないも…』
 ”俺には何のことかさっぱり判らない”
 『まあどちらでも結構です。お持ち頂ければ』
 丁寧な口調の裏に二度と来るなと言う響きを感じながら、ジョーは仕方なく車のキーら
しいその鍵を受け取る。
 『一つ、いや二つ聞きたいんだが、このキーの車はどこにある?』
 受け取ってみたところで肝心の車がどこにあるのか判らない。
 『店のガレージにそのままにしてあります』
 『あ、あっそ』
 ”どうでもいいから早く出て行け”と言わんばかりの視線にジョーは首をすくめてい
た。
 『もう一つ。俺がその車をここに預けたのか?』
 その問いに返ってきたのは、冷やかな視線だけだった。
 結局ジョーは何だか訳も判らないままその店のガレージから車を持って帰り、指定日で
ある今日、指定の場所に向かっている。
 「それはいつの話だ?」
 黙って話を聞いていたケンは、いやに真面目な顔で問い返した。
 「夕べだ」
 「おまえ。その店に行ったことないのか?」
 「無い」
 「何でその店に行ったんだ?」
 ケンの問いにジョーは三たび口ごもる。
 「あ?。あ、いや、女に声かけられたんだ。その店で待っててくれって。結構いい女
  だったんだこれが」
 ジョーの言葉にケンは呆れる。
 「それも知らない女か?」
 「いや。知ってる女だ。知ってるっていっても顔見知りって程度だけどな。おまえがバ
  イトしていたジェリーフィッシュに来てた女だ」
 「なんて名前だ?」
 ケンはかつてのバイト先の店内を思い浮かべながら問い返した。
 「名前?。名前ね。名前。何だったかな…」
 女の名前さえも思い出せない様子のジョーの横顔に、あの男の姿が重る。そう思った瞬
間、ここ数日鬱積された憤りがケンの口から迸っていた。
 「いったいそれのどこが知り合いなんだ?。そもそも店に現れた女は知り合いとは言わ
  んだろう!。おまえは初めて会った女を知り合いと言うのか!」
 「何怒ってるんだ?。相手は俺を知ってるみたいだったしな。俺が忘れてるだけかもし
  れないじゃないか」
 ”それでいったらこの街の女は全部おまえの知り合いか?”
 と、ケンは怒鳴ろうかと思ったが、『そうなるのか?』と問われそうでやめた。フェミ
ニストもここまで来れば立派なものだ。そんなことを追求するよりも、この状況の方が
よっぽど興味深い。どうやらジョーはあの男に間違えられたらしいことだけは確実のよう
だ。うまくすれば、『頭の悪いお坊ちゃん』役から解放されそうだ。
 「その女、おまえの名前を呼ばなかったか?」
 「俺の名前?。ああ呼んでたかもしれねぇが覚えてねぇ」
 ”この役立たず!”
 咄嗟に頭に浮かんだ言葉をとりあえずケンは飲み込む。誰に言われるまでもなく、ただ
の八つ当たりだという自覚ぐらいはある。
 「で、何か判ったか?」
 「一つだけな」
 「何だ?」
 「おまえが他の人間に間違えられているってことだ」
 「あぁん?。それぐらい俺にも判るぜ。行ったこともない店に、俺が預けたっていう車
  があるんだからな」
 やけに自信たっぷりに答えたジョーの顔をケンはサイドウインドに肘を当てたまま振り
返る。
 ”それ以前に二人の女はおまえの知り合いなのか!”
 と言ってみたところで『街中の女は俺の知り合い』という結論以外なさそうなジョーに
は無駄なことだと、ケンはとりあえず声に出す前に飲み込んだ。
 「おまえの結論にはいささか疑問は残るが、その点はおまえの言う通りだろう。で、何
  でおまえ宛じゃないメッセージを読んで、おまえのものじゃないものをわざわざ運ぶ
  んだ?」
 「拾いましたって交番に持ってく訳にはいかねぇだろ、あれを。それに”女を奪う”な
  んて物騒なこと言ってやがるしな。持って来いっていうならとりあえず持って行った
  方が何か判るかと思ってな」
 ジョーの言っていることにも一理あるものの、どうも発想が短絡的すぎる。だいたい、
 「一つ聞きたいんだがなジョー」
 「何だ?」
 「そのカードには『青い目の坊や』って書いてあったんだよな」
 「ああ」
 「それで俺を連れて行こうと考えたのか?」
 「ああ。青い目の男の知り合いはおまえだけだからな」
 どうやら街中の男は知り合いではないらしい。
 「で、そのカードはおまえ宛のメッセージじゃないって判ってて、何で『青い目の坊
  や』が俺なんだ?」
 「え”?」
 「えっじゃないだろ。借り物競争やってるんじゃないんだ。カードにそう書いてあった
  からって、青い目の男だったら誰でもいいから連れて来いっていう意味じゃないだろ
  う」
 「あ。ははっ。はははは。そりゃそうだな」
 今の今まで考えてもみませんでしたというジョーの様子にケンは呆れ果てる。
 まあ、その短絡的思考も時には役に立っているのかもしれない。少なくとも、今回に
限って言えばおそらくジョーは正解を引いている。
 そのカードに書かれた『青い目の坊や』は自分のことだとケンは確信していた。
 「ってことは何だ?。おまえに飯奢ってまで付き合わせる必要はなかったってことか。
  んなろぉ!。早く言えよ!」
 「誰に言ってるんだ?」
 「あぁん?。誰だか知らねぇが、そのカード書いた奴だよ」
 「晩飯は奢りだからな」
 「わぁってるよ!」
 ジョーはいささか不機嫌そうに怒鳴ると、まるで目の前にその『誰だか判らない奴』が
いるかのように、前方を睨みつけていた。

 「毎度おなじみのお出迎えはなさそうだな」
 不気味な物体を乗せた車は目的地に辿り着こうとしている。
 「そのようだな」
 指定された倉庫は目の前だ。
 「何が出てくるかお楽しみってことか」
 「なあジョー」
 「あん?」
 「俺が何をしても驚くなよ」
 「あ?」
 今更何を言ってるんだ?と振り返ったジョーの目の前に、意外なほどに真剣なケンの顔
があった。
 「いいな」
 「いいなって、まあ、別に今更おまえが何やったって驚きゃしねぇけどな。何か判った
  のか?」
 「いや。多分おまえが間違えられた相手を知っているだけだ」
 「おい。誰だよ」
 「それは後だ。いいから行け」
 「へいへい」
 ジョーは開け放たれている倉庫の入り口に向かってアクセルを踏みかけて止める。
 「ちょい待ち。中入った瞬間にいきなり蜂の巣ってのはないだろうな」
 「そのつもりなら、とっくに襲ってくるだろ」
 「そりゃまぁそうだな」
 ジョーはフロントパネルの時計を確認する。指定された時間には若干早いが、相手が遅
刻してくることもなかろうと、車を倉庫の中へと進めた。


(5)
 『そこで車を止めて降りて来い!』
 やたらとただっ広い倉庫の奥へ入ると、いきなり声が降って来た。
 「おでましだな」
 二人は注意深くフロントウインド越しに辺りを伺う。人影は見えないが、気配から相手
は複数だと感じる。
 「さぁて、何が登場するかだな」
 「ああそうだ。ジョー」
 ドアフックに手を伸ばしたジョーをケンが呼び止めた。
 「あん?」
 「奴ら相当強力なライフル持ってるから気をつけろよ」
 「ああん?。何だ相当強力なライフルって?」
 「対戦車ライフル」
 「対戦車ライフルぅ!?」
 いともあっさりと言われた言葉にジョーは呆然とケンを振り返る。
 「何者なのかは判らんが、武装してるはずだ。気をつけろよ」
 「ちょっと待て!」
 車を降りようとするケンのシャツを掴む。
 「武装してるって、襲撃されたらどうするんだ?。相手が誰だか判らないんじゃ、また
  逃げるのかよ」
 「そうなるな」
 「そうなるっておまえ」
 「まあ、出たとこ勝負だ」
 いとも軽く言い放つと、ケンはあっさりとドアを開けて外に出た。
 「ったく」
 文句の一つも言いたいところだが、そもそも今回は自分が発端なのだからジョーには何
もいえない。
 仕方なくジョーも車を降りた。
 『例のものは持って来たんだろうな』
 やたらと反響する声が響く。だが、相手の姿は見えない。
 「ああ。持って来たぜ。車に積んである」
 『モノを見せろ』
 どうやらいきなりドンパチを始めるつもりはなさそうだ。
 ジョーはバンの後の扉を開け、ゾッとしない物体を見せた。
 『モノはどこだ?』
 頭上から降って来る声に、思わずジョーはケンと顔を見合わせていた。
 まさかとは思うが、これじゃない?。
 何しろ何を要求されて、何を運んでいるのかも判っていないのだから、『違う』と言わ
れても、返答のしようもない。
 「中に、中に入ってるんだ」
 ジョーは苦し紛れにそう叫んでいた。
 『開けてみせろ!』
 「なあ、いきなりドカンってことはねぇよな」
 ジョーは自分の真横に寄って来たケンに囁く。
 「木製だからな。起爆装置にはならないだろ」
 やたらと側に寄っているケンは、耳元で囁くようにそう答えながら、ジョーの腕を掴ん
だ。
 「おい。何やってるんだ?」
 「いいから開けろ。俺が何をやっても気にするなと言っただろ」
 「腕掴まれたら邪魔だろうが」
 「いいから黙ってやれ」
 ケンの不可解な行動に疑問を感じながら、ジョーはその物体の蓋を開けた。
 一瞬空箱なのかと思った。
 何だこれ?
 だが、棺桶の足許の部分に固定されているその物体に気付いても、それが何なのかが判
らない。
 『いいだろう』
 どうやって見ているのか、いや、やたらと高性能のライフルを持っているのだからス
コープ越しなのか、相手はその物体の存在に満足したらしい。
 『それでは、約束通りその坊やを置いていってもらおうか』
 思った通り”青い目の坊や”は自分のことだったらしいと確信すると、ケンはジョーの
腕にしがみついて叫んだ。
 「い、いやだ!」
 きつく自分の腕を掴んだケンが叫ぶ声に、ギョッとして振り返ろうとしたジョーはケン
に足を踏まれて、踏みとどまる。
 「相手と俺に合わせろ」
 耳元でケンの低い声が飛ぶ。
 「ああ。置いてけばいいんだろ。さぁ、手を離せよ」
 混乱の極みに陥った頭で、ジョーはケンの手を振り解きながら答える。
 「どうなってるんだ?」
 「いいから」
 顔を近付けた瞬間、ジョーは自分の首にしがみつくケンに目を白黒させていた。
 「手を離せよ」
 「嫌だっ!」
 本気でしがみついて来るケンに、ジョーの苛立ちはこの訳の判らない事態と相まって
ピークに達しつつあった。
 「手を離せ!」
 ジョーはしがみつくケンの手を乱暴に掴む。
 「俺を騙してたのか!」
 「そうだよ。決まってるだろ」
 ギャラクター以外にケンを人質にしょうなど、いったいどこの酔狂なバカだとは思う
が、本人が「合わせろ」と言っている以上、何か考えがあるのだろう。
 ジョーは満身の力で、ケンの手を振りほどいた。
 「諦めろよ」
 「いったいどういう事なんだ!」
 引き離されたケンが叫ぶ。
 ”俺が聞きたい”
 そんなことを問われても、ジョーに答えがあるはずもない。
 「さっさと行けよ」
 ジョーは苛立ち紛れにケンの背中を押していた。
 『その核爆弾をその坊やに持たせて、こっちへこさせろ』
 「核!」
 「爆弾?」
 瞬間、二人は全ての状況を忘れた。
 お互い顔を見合せ、例の物体へ視線を向ける。
 この携帯ポットのような物体が核爆弾?。
 どうりで途中で襲撃して来なかったわけだ。
 「こいつで何をするつもりだ!」
 『それはその男に聞いてみるんだな。あの女から聞いて知ってるはずだろ。ミスターサ
  クラ』
 「サク…」
 聞いたことの無い名前を問い返そうとしたジョーは、思いっきりケンに足を踏まれた。
 「痛ってぇだろ!」
 思わず叫んだジョーは、ケンに腕を引かれてバンの陰にしゃがみ込む。
 「やるぞ」
 「やるって、殺るのか?」
 「いや、気絶させとけ。10人はいないだろう」
 うず高く積まれた木箱の裏側に感じる人の気配と殺気はその程度の人数だ。
 「右側と左側にそれぞれ4、5人ってとこだな」
 「あれが核爆弾っていうんなら、奴らに渡す訳にはいかないからな」
 「それはいいんだが、サクラって何だ?」
 確かにケンの言うように核爆弾などを持ち歩かれては堪らない。とは思うものの、
ジョーにはどうにも『サクラ』が気になる。
 「それは後だ。おまえは右側をやれ。俺は左側を始末する。行け」
 こうなったらまったく聞く耳を持たないケンに、これ以上は何を言っても無駄だと、
ジョーは吐息を付いて、承諾を答えていた。

 事は哀しい男の純情物語だった。
 惚れた女は世界的に有名なデザイナーの専属モデルだった。
 そのデザイナーのショーが某国で行われるのを期に、モデル仲間がクーデターの首謀者
を手引きする手筈を聞いてしまった彼女は、それが何なのかも判らぬまま、咄嗟にその場
にあった、どこからみても携帯ポットの小型核爆弾を抱えて男の元へ逃げた。
 男はそれが小型核爆弾だと知っていた。
 だが、まさかそんなものを警察に届ける訳にもいかず、苦肉の策で棺桶に隠し、彼女
共々この国に持ち帰ってきたものの、処分に困る物体と、命を脅かされる彼女のために、
奴らに取引を持ちかけた。
 彼女にはクーデターの件は口外させない。 引き換えに南部の養子を引き渡す。
 人質にでも何にでも使ってくれ。
 あのパーティで彼が南部の養子の存在を知ったのも偶然ならば、奴らからの伝言が
ジョーの手に渡ったのも、ジョーがその物体を運んだのも、全てが偶然の産物。僅かにズ
レながら掛け合わされた歯車が幸運を呼んだ。
 男は全てを投げ出す覚悟だった。
 本気で彼女を−クリスを−愛していた。
 そう、彼女が忘れられぬと写真を持ち歩く初恋の男と同じ顔に整形してしまうほどに。


 「ようするにあの時の狙撃は、クリスに対する警告だったということですか?」
 事の次第を説明する博士にケンが尋ねる。
 「君たちが奴らを捕まえてくれたお蔭で、彼女からようやく話を聞き出すことができた
  よ。可哀相にひどく怯えていた」
 「博士はあの時から何か御存知だったのではないですか?」
 「うむ。急な帰国だったからな。何かあるとは思っていた。それにあのミスターサクラ
  がどうも気になってね」
 「だからそのサクラって何なんですか?!」
 未だに答えを貰えない謎の『サクラ』に、ジョーは声を荒らげる。
 「うん?。あ。いや。それは気にしなくていい」
 気にするなと言われるといっそう気になるのは世の常だ。
 「博士!」
 「そうだジョー。君にクリスからだ」
 博士はまるではぐらかすかのように、ジョーに花束を差し出す。
 「何ですか?。これは?」
 手渡されたものは、淡い紫のバラの花束だった。
 「クリスの君への想いだそうだ。まったく君という男は」
 唐突に”まったく”と言われても、ジョーにはそれこそまったく身に覚えがない。
 「あの愛らしいクリスが君のものになるなど、まったく容易ならん」
 「博士。彼女の心を掴んだのはジョーじゃなくて、サクラですよ。元の顔に戻るんです
  から」
 「だからサクラって誰なんだ!」
 「そうだったな。そうだった」
 博士は自分自身を納得させようとするかのようにそう言うと、ジョーの手にあるその花
束をじっと見つめる。
 「私の想いもクリスと同じかもしれんな」
 花束の中に時間を超えた想いを見つめるかのような瞳で、博士はそう小さく呟いてい
た。
 ジョーの手の中にある淡い紫のバラ、ブルームーンの花言葉。
 あり得ない事、不可能、そして希望。
 叶わぬ恋の果てに彼女が掴んだものは、キセキのはじまり。



 -End-

 
薔薇


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