Kissまで5センチ

by yu-jin



 俺は何をしているのだろう。
 ケンを尾行し、あいつの居所を突き止めた時、ふとその思いが俺の頭の中をよぎった。
 最初はほんの些細な事だった。
 たまたま通りかかった目の前をあいつが横切っていった。ただそれだけのことだった。
 普段とは違う格好、目深にかぶったキャップ、視線を落として足早に歩くケンの顔はひ
どく思い詰めているような、切羽詰まっているようなそんな風に見えた。
 俺はそのケンの顔に、呼び止めようとした声を飲み込んだ。何か触れてはいけないよう
な、そんな雰囲気があいつを覆っていた。

 次の任務で会った時、俺は何気にやつの表情が気になっていた。普段と変わらない態
度、普段と同じ表情。あいつからはあの日街で見かけたような雰囲気はない。その代わ
り、触れれば切れるのではないかという緊迫感を感じる。ビンっと張りつめた糸のような
緊張感が常にあいつの周りにある。
 俺は気になって任務が終わった後、あいつに何気なくあの日のことを尋ねてみた。
 「この間の任務の後、街で見かけたぜ。今夜も行くなら俺も付き合ってもいいぜ」
 一応未成年である以上は言葉に出して「飮みにいく」とはいえず、俺は手で飲む仕草を
してみせた。
 「いや。帰るよ」
 ケンの答えは別に俺の琴線に触れる言い方ではなかった。ただ、俺の中で鳴りやまない
警告が続いている。
 その晩、わざわざケンの気に入っているワインを買ってまであいつの家に出向いたのも
そのためだった。
 ヤツの家に明かりはついていなかった。
 寝ているのかとも思ったが、まだ宵の口にもなっていない。
 「おい。いないのか?」
 俺は一応の礼儀でドアの外から声をかける。中には人の気配は感じない。ドアノブに手
をかけると案の定カギのかかっていない扉は何の抵抗もなく開いた。
 相変わらず不用心なヤツだ。
 まぁ、持っていかれて困るようなシロモノは何もこの家にはない。
 俺はそれでも一応「入るぜ」と声をかけて中に入った。
 ケンはいなかった。
 いや、もう何日も帰っていないように見える。テーブルの上にはうっすらと埃が積もっ
てさえいる。
 あいつ。ここに帰ってないのか?
 俺の頭の中にあの時のあいつの姿が浮かぶ。それは今まで以上に大きな警告音を伴って
いた。
 どこにいるんだ?。あいつは。

 「来てたのか?」
 俺は玄関を開けた瞬間に感じた気配にそう声をかけながら部屋に入った。
 「ああ」
 ダイニングテーブルの椅子の上で両足を抱え込むようにして座り込んでいる彼は、けだ
るそうに顔を上げてそう答えた。
 ジャケットを脱いで空いているイスの背にかけ、ネクタイをゆるめた俺はテーブルの上
に置いてあるワインボトルを見る。買ったまま冷蔵庫で冷やしておいたやつだ。半分以上
減っているそのビンを取って、俺はそのまま口を付けた。ぬるくなっている。それは彼が
かなり長い時間今のままの格好でいたことを物語っているようだった。
 「何かあったのか?」
 「何も」
 髪をかき上げ、その腕の隙間から彼は俺を見上げる。その顔は「何もない」というもの
ではなかった。
 俺は無言のまま彼の座るイスのすぐ横でテーブルに浅く腰掛けて、もう一度彼を見る。
 彼は自分の苛立ちを隠すように立ち上がるとそのままベッドに向かった。
 「何でもない。何もない。いつもと同じだ」
 自分の身体を投げ出すようにうつ伏せに横になった彼が呟くように言った言葉は、彼の
心の悲鳴のように聴こえた。
 「メシは?」
 「…いらない。…眠りたい」
 俺は彼の言葉に小さく苦笑していた。
 ”眠りたい”
 自分のことを何も語らない彼が口にする唯一の欲求がその言葉だった。
 ”寝に来てるのか?。ここに”
 そう尋ねた時、意外なほど真面目な顔で、”そうかもしれない”と彼は答えた。
 俺は彼が飲んでいた生ぬるいワインをラッパ飮みしながら、ベッドの中で小さな寝息を
立てはじめた彼を見ていた。
 不思議なヤツだった。
 最初に出会ったのはもう一カ月以上前のことだ。俺のアパートの脇の路地にしゃがみ込
んでいた。
 「どうかしましたか?」
 俺は職業柄、そのまま見逃すことができずに彼に声をかけた。風体は家が無いようには
見えなかった。怪我をしているのか、あるいは具合が悪くなって動けないといったところ
かと思った。
 折しも冷たい雨が降り注いで、彼はびしょ濡れになっている。
 俺の声に彼がのろのろと顔を上げたのは、俺が声をかけてから優に1分以上経ってから
だった。
 それが雨の滴だったのか、涙だったのかは判らない。
 顔を上げた彼の思いの外大きなブルーの瞳が、俺には泣いているように見えた。
 「大丈夫だ。何でもない」
 はねつけるようにそう言った彼の唇は寒さで色が変わっていた。ずいぶん長い時間そこ
にいたのか、立ち上がろうとしてよろけた身体を支えようと掴んだ彼の腕は冷えきってい
た。具合が悪いわけでも、酔っているわけでもなさそうだとは見当がついた。ただ、冷え
きった身体がうまく動かせないというだけのように見える。
 「放っておいてくれ」
 彼は俺の手を払い呟くようにそう言ってまたよろける。

 このまま放っておけば行き倒れ確実というその様子に、俺は「放っておけるか!」と怒
鳴って自分のアパートに連れて来た。
 ずぶ濡れの彼をバスルームに放り込み、あったまるまで出てくるなと言ったことを、俺
は30分後に後悔する。
 いつまでも出て来ない彼を心配してバスルームを覗くと、今度はのぼせて座り込んでい
た。
 「何やってんだいったい」
 全裸の彼の腕を掴んで引き上げた瞬間、俺は彼の身体に残る傷痕にギョッとした。背中
と言わず胸と言わずに這うその傷は、明らかに鞭の類で打たれたものだった。
 傷の理由を尋ねようとしてやめた。
 手当てはされている。詮索は無用だ。
 俺はバスタオルを頭からかぶぜ、さっさと出て来いとだけ告げて先にバスルームを出
た。
 彼はすぐ後からバスローブを羽織って出てきた。
 彼のために用意していた熱いコーヒーの代わりに冷えたミネラルウォータのペットボト
ルをテーブルの上に置く。
 彼は少し躊躇ってから、そのボトルを手にとると一気に飲み干した。
 「やりたきゃやれよ」
 彼は彼を見ていた俺の視線にそう言葉を投げつけた。
 「男とやる趣味はない」
 「じゃ、何をジロジロ見てるんだ」
 「ん?。コレが気になってるみたいだと思ったからな」
 俺は自分の左脇に吊っているモノを差し示す。
 「俺は警官だ。ここの市警の刑事」
 ついでに身分証も見せてやると、彼は不思議そうな表情でそれを見ていた。
 「刑事だとは思わなかったって顔だな」
 「…ああ。…そうは見えない」
 「よく言われる」 
 その日彼は帰らなかった。

 彼は不思議な男だった。
 刑事だと言われなければ、まったくその類の職業を想像さえできない。よくも悪くも深
い闇の世界の住人に見える。いやもっとストレートに言えば、彼から死臭を感じる。人殺
しの匂いだ。
 だから俺は安心したのかもしれない。
 彼が如何にも善良な何も知らない気のいいオヤジだったら、俺はあの日彼の家に泊まっ
たりはしなかった。
 俺はただ眠りたかった。眠りたくとも夜毎繰り返される悪夢に疲れていた。そのことを
事情を知っている人間には悟られたくなかった。彼らの心配も同情も煩わしいだけだ。
 ”大丈夫か?”と問われたら”大丈夫だ”と答えるしかない。例え言葉に出して問われ
なかったとしてもそれは同じだ。
 ”大丈夫なんかじゃない!。何とかしてくれ”と叫んでみたところで、何もどうにもす
ることができない。
 だから俺は”大丈夫か?”とは問わない彼の元で眠り続けた。
 「帰りたくないなら泊まっていってもいいぞ。ただし、ベッドは一つだ」
 「何だよ。宿泊代に身体をよこせとでも言うのか?」

 「男とやる趣味は無いと言っただろ。遠慮して寝ろと言ってるだけだ」
 俺はベッドにうずくまって眠り、彼はうつ伏せになって眠っていた。
 人の寝息が聴こえることに俺は安堵し、何時の間にか深い眠りに落ちていた。
 目を覚ました時には、当然彼はいなかった。テーブルの上に合鍵とメモが乗っている。
見るまでもなく、帰る時はカギを締めて行けという内容だ。俺はそのメモを横目に眺めて
冷蔵庫から勝手にミネラルウォータを拝借すると、またベッドに戻った。
 二口飲んで、サイドテーブルの上に乗せると俺はまたベッドの中に潜り込んだ。
 シーツのぬくもりが気持ちいい。
 この場所を手放す気にはなれない。
 俺は怠惰な感情のまま、身体が求める欲求に従ってまた眠り込んでしまった。
 「おい。生きてるのか?」

 玄関が開いた音は聴こえていた。足音で彼だということも判っていた。
 声をかけられて、目を擦りながらふり仰いだ先に彼の呆れ顔があった。
 「まだ寝てるとは思わなかったよ」
 壁の時計は昼少し前の時間を差している。もちろん天窓から入る月の光を見るまでもな
く真夜中のお昼だ。
 彼は濡れたコートを中のジャケットごと脱いで、クローゼットから出したハンガーにか
けている。俺はその彼の後ろ姿を見ながらまだ微睡んだ世界の中にいた。
 「腹減ってないのか?」
 返事をするのも面倒で俺はそのまま引き込まれるように目を閉じていた。
 彼は何か言っていたような気がしたが、意味は判らなかった。

 彼は丸一日半俺の部屋で眠り続け、翌々日の朝、俺が寝ている間に帰って行った。
 ベッドから彼のぬくもりが消えたことは判っていた。だが、俺は声はかけなかった。縁
があればまた会うこともあるだろうし、無ければそれだけのことだ。
 俺はこの時、職権を乱用すれば彼の素性はすぐに判ると思っていたような気がする。
もっともそうまでして調べようとも思っていなかったことも事実だ。
 そのまま一週間、俺は自分が追っている事件のことですっかり彼のことなど忘れてし
まっていた。
 巨大な組織が世界中の闇組織の中に食い込み始めている。そのためにいろいろなものの
均衡が崩れ、表面で起きる事件の背景が読めなくなっている。何日も地道に追い続けてい
たものを、あっさり軍の特殊部隊に持っていかれることも多い。軍が介入しないまでも、
特捜に持っていかれることは日常になりつつある。持っていかれようがどうしようが、ケ
リさえ付けてくれるのならば構わないが、どうやら特捜がしくったらしいと風の噂で聞く
と気が滅入る。
 その日の俺はそんな気分だった。
 アパートの俺の部屋の入口の横にヤツは座り込んでいた。
 ヤツの目の前に立った俺を、長い髪の隙間から見上げると、ヤツはそのまま黙って立ち
上がって「帰る」と言った。
 「おい」
 俺は咄嗟にヤツの腕を掴んでいた。
 「側に人がいるのが嫌だって顔してる。勝手に来て悪かった」
 あまりにもストレートに感情を読まれて、正直俺は驚いた。ヤツを掴んでいた手から力
が抜け、ヤツは俺の手からスルリと身をかわすと、言葉通りに俺に背を向ける。
 「いいよ。入れよ」
 俺は自分の部屋のキーロックを解除して、扉を開く。
 「今夜は帰る」
 俺は余程他人を拒絶する雰囲気を纏っていたらしい。
 「おい。これ持っていけ。来るなら中に入ってろ」
 俺は今使ったばかりのカギをヤツに投げていた。咄嗟に受け取った彼は、手の中に落ち
たそれを見て、それから不思議そうに俺を見る。
 「俺はいつ帰るか判らないからな。来たければ勝手に来い」
 俺は何故そんなことを彼に言ったのか、自分でも判らなかった。彼に会ったのはまだ二
度目だ。それもろくな会話をしていない。その証拠に俺は彼の名前も知らない。
 「判った」
 彼は無愛想にそう言うと、俺が渡したカギをジーンズのポケットに入れて帰っていっ
た。
 負の可能性を想像すればいくらでも思いつく。
 俺が属する組織は訳あって俺を叩き出したいと画策している。俺が相手にしている輩の
中にも、俺を消したいと思っている奴らがゴロゴロしている。ヤツがそのどちらの手先で
もない保証は何もない。
 だが、俺はヤツからそのどちらでもない匂いを感じていた。
 俺という人間を何も知らないヤツと、ヤツという人間を何も知らない俺。
 知らないまま関係と呼ぶこともできない接点を持つ心地よさを感じていたのかもしれな
い。
 俺はその距離を縮めたいとも思っていなかった。

 俺は自分の名前も告げていなかったことに、カギをもらってから気がついた。
 何故名前も知らない俺に自宅のカギを渡すのか、彼の行動の意味は判らなかったが、カ
ギと共に暖かい感情をもらった気がした。人間の感情が目に見える形をしていたら、その
時俺は、彼からオレンジ色の柔らかい球体を貰ったような気がした。
 ジーンズのポケットの中でそのカギを握り締める時、俺は穏やかな眠りを保証された安
心感を得ることができた。
 それでも任務が完了した直後は、俺はまるで薬を求める中毒患者のように彼のアパート
へ足を向けた。任務に就いている時の、おろし金で全身の神経を削られているような感覚
は、あの時以来日増しに強くなっている。あの人が一方的に俺に託したモノは、俺にとっ
ては背負っていくことがやっとだった。
 そんな俺の事情も、感情も、素性さえも問わない彼との時間は、俺が俺でいられる唯一
の時間だったのかもしれない。
 「ああ。そうか。名前聞いてなかった」
 彼がそう言ったのは、半ば強引に彼のアパートに居すわるようになって半月程経ってか
らだった。
 「え?」
 一度も自分の名前を告げていなかったことにも、そのことに今更気付く彼にも驚いた。
 「何でもいいなら適当に呼ぶぞ」
 彼の言い方は、呼ぶのに困ったから気がついたというもので、俺の本当の名前を知りた
いわけではないと聴こえる。
 「タマでも、ポチでも」
 「ケンだよ」
 本気でイヌネコの名前にされそうな勢いに俺は自分の名前を始めて彼に告げる。
 「OK。じゃあケン。今日は俺は非番だ。嫌じゃないなら、どこかに出掛けないか?」
 「それとも、まだ寝るか?」
 返事をしない俺に、彼は苦笑まじりにそう続けた。実際俺は彼のアパートにいる間中、
いや正しくは彼が一緒にいる間中、ひたすら眠り続けている。一応、勝手に人の家に来て
いる時は出来るだけ彼が帰るまで起きていることにしているが、それもワインの酔いが回
るまでだ。
 「いいよ」
 「リクエストは?」
 「別に…。ああ。海と空が見たい」
 「海と空ね」
 彼は少し考えるようにしてから、クローゼットを開けると、俺にアーミージャケットを
放ってよこした。
 「その格好じゃ寒い。着てけ」
 俺には間違いなく2サイズは上のそれに袖を通すと、彼の吸う煙草の匂いがした。
 彼の運転は、乱暴なところも強引なところもない。俺は安心して助手席に座っていられ
る。それは彼のあの部屋の居心地と同じだ。
 「あんた女とかいないのか?」
 「いたらおまえにカギは渡さないよ」
 「じゃ、女が出来たら言えよ。カギ返すから」
 「ああ」
 彼はそんなことにはならないと言うように小さく笑う。男の俺にとって居心地のいい男
というのは、女にとっては居心地が悪いのだろうかと思う。そんなくだらないことを考え
ていられるほど、俺にとって彼といる時間はのんびりとしていられた。
 隣の市まで走り、俺がリクエストした海と空を眺められる丘の上に着いたのは夕方だっ
た。チャイナタウンで食事をして、そのまま埠頭をぶらつく。彼からあの街にいる時の研
ぎ澄まされた緊張感が消えている。それは俺も同じだったのかもしれない。ささくれ立っ
てチリチリとしていた神経が、柔らかいものにくるまれていく気がする。俺は夕食の時に
飲んだ中国酒の酔いも手伝って、彼の首に両手をまわしていた。
 「おい」
 彼はポケットに両手を突っ込んだまま、俺を振り払うわけでもなく、サングラスの奥の
瞳を俺に向ける。
 俺は彼の肩口に顔を埋める。
 「どうした?」
 「どうも…。どうもしない」
 俺は彼に何を求めているのだろう。
 「男とやる趣味はないって言ったろ?」
 彼の口調はひどく穏やかだった。その言葉の裏に”おまえが望むなら抱いてやる”と言
われているような気がして、俺は我に返る。
 俺より頭半分は上背のある彼に、俺はあの人を求めているのだろうか。
 「悪い」
 そう思った時、俺は一気に酔いが冷めていくのを感じ、彼の首から手を離した。
 彼の大きな手が俺の手を握る。
 「冷たいな。冷えたか?」
 そのまま彼は自分のジャケットのポケットに手を入れた。
 暖かい彼の気持ちが繋いでいる手から伝わってくる。今はそれだけでいい。いや、未来
もいらない。そんなに長く続く関係ではないことも判っている。でも、今だけは、俺が正
面を向いて立っていられるようになるまではこの手に繋がっていたい。
 それが俺の我が儘だと判っていても、それでも俺はそれを望んでいた。

 正直、彼に抱きつかれた時、俺は一線を超えてしまいそうな自分に戸惑っていた。
 たいがいのことには動じない自信が、その瞬間に崩れそうになった。もし、両手をポ
ケットに入れていなければ、彼の背中を抱いてしまっていたかもしれない。抱き締める代
わりに握った彼の手は微かに震えていた。
 何かが彼を追い詰めている。
 それは最初にあった時から気付いていた。日毎に目立たなくなっているあの身体の傷と
関係があるのかもしれないと思っても、俺はそのことを彼に尋ねることはしなかった。
 始めは知らなくても構わないと思った。今は知りたくないと思っている自分に驚いてい
る。
 俺は彼を知りたくなかった。
 それは彼の全身から発せられる危機感を嗅ぎ取ってしまったからかもしれない。夜中に
鳴り出したアラーム音に、彼は”行く”と一言言い残してアパートを出ていった。彼が時
間を問わず呼び出される何かをしていることに、俺はあの瞬間まで気付かなかった。嫌、
気付いている自分を無視していたと言った方が正しいのかもしれない。
 いつからか俺は彼に自分と同じ匂いを感じていた。
 人殺しの匂いだ。
 深い闇を覗き見ているような、そんな世界の住人だと判っていたからカギを渡したのか
もしれない。
 それが俺と同種の闇なのか、あるいは違う闇なのかは判らなかった。もし、同種の闇な
らば、おそらく俺と彼は決して交わることのない立場にいるような気がしていた。
 関われば関わるほど別れが近付く。
 それが俺と彼との関係なのだと、ある種確信に近い思いでいた。
 その晩、緊急で呼び出されなければ俺は彼を抱いてしまったのだろうか。間違いなく抱
いたとも思えない代わりに、絶対に抱かなかったという自信もなかった。
 ただ無粋な呼び出しに安堵していたことだけは事実だった。
 まだ早い。
 まだ別れの時ではない。
 もうしばらく俺は彼と共にいたいと願っていた。

 街中で男を追う彼を見た。
 獲物を追い詰めるその瞳は、一瞬だったがゾッとするほどに冷たく鋭い。残忍さと冷酷
さをマントにして纏っているような彼の姿に俺は目をそむけていた。
 見たくなかった。
 まるで自分の姿を鏡で見せられているような気がした。
 その場に背を向けた俺は、一瞬その殺気に気付くのが遅れた。
 背後から首に腕をまかれ、顔の横に鋭い刃がつきつけられていた。
 「悪い」
 「何やってるんだ?」
 彼は男に羽交い締めにされている俺の姿に一瞬戸惑った表情を浮かべ、それから意外そ
うにそう呟いた。
 俺の後ろではナイフをつきつけている男がありきたりの言葉を喚いている。
 「この男何?」
 「あ?。麻薬取締法違反ってやつだ。ようするに売人」
 だったらたいしたものでもなさそうだ。俺は彼に気をとられている男の腕をねじ上げ
る。男は呆気なくナイフを手放した。
 彼は俺がいともたやすく男を取り押さえたことを気にするでもなく、落ちたナイフを拾
い、それから俺が押さえている男の手を掴み手錠をかける。その慣れた動作に、俺は彼が
刑事なのだと実感する。
 「ケガは無いか?」
 「ああ」
 「で、何やってるんだこんなところで」
 「ただ通りかかっただけだ」
 「そうか。気をつけて帰れよ」
 彼はそう言うと、俺の耳元に口を寄せた。
 「柱の影にいるヤツはおまえのお友達か?。俺の友人じゃなさそうだぞ」
 彼に言われるまで俺は自分が誰かにつけられているとは思ってもみなかった。その表情
を読まれたのか、彼は俺にもう一度「気をつけて帰れよ」と囁いて、逮捕した男を引っ張
りながら背中を向けたままひらひらと手を振った。
 俺はその彼を見送って、次の曲がり角でヤツを待ち伏せた。

 道の真ん中でいきなり立ち尽くしたケンは男に羽交い締めにされてナイフを突き付けら
れていた。
 咄嗟に加勢しようかと思ったが、始めからそう段取りされていたかのように、男を追っ
ていたヤツは動じていなかった。まるで赤子の手をひねるような動きで、ケンは男を取り
押さえる。ヤツが手錠を出す姿に俺は始めてその男が刑事なのだと悟った。
 ケンは黙ってその男を見送り、路地の先へ進む。俺はまたそのケンの後を追った。
 「何の用だ」
 曲がり角で、ケンは俺を待っていた。
 「別に。ただおまえを見かけただけだ」
 正直驚いた。
 今まで一度も俺がヤツをつけていることに気付かれている素振りはなかった。
 「見かけると後をつけるのか?」
 感情のない声がヤツの不機嫌さを物語っている。
 「うるせぇな。家に帰ってねぇみたいだから気になったんだよ」
 俺は自分で自分の言い方にうんざりしていた。まるで子供みたいだ。相手にされない自
分の歯がゆさをそのまま相手にぶつけているような言いぐさに自己嫌悪を感じる。
 ここ数回ケンを尾行して、ヤツがあの男の所に出入りしているのは知っていた。あの男
が何者なのかは判らなかったが、仕事がらみではないことは、あの男の家のカギをケンが
持っていることで判った。
 「言いたいことはそれだけか?」
 目の前で扉が閉ざされる感覚だ。
 「ああ」
 「暫く放っておいてくれ」
 それがケンの本心なのだということは、始めから判っていた。にも関わらず俺はその言
葉を言わせてしまった。
 俺は自分がどうしようもないほどにガキだと自覚する。
 と同時に、何故ケンが俺達を避けているのか、何故自分の家に帰ろうとしないのか、そ
の理由が判ったような気がした。
 「帰って…来るんだな?」
 「ああ」
 答えを聞くまでもない。
 そんなことは判っていることだ。
 俺達が住む世界に帰るためにケンが足掻いていることも、問いただすまでもなく判って
いることだ。
 「悪かった」
 俺の呟きは、俺に背を向けたケンには届かなかったかもしれない。

 「お友達は帰ったのか?」
 家に戻るといつになく早いペースで飲んだらしく、ワインが1本空いていた。
 「いつから気付いてたんだ?」
 「2日前に家の前にいるのを見かけた。俺のお友達かと思ったんだが、今日おまえと一
緒に現れたからな。お迎えか?」
 「多分」
 「そうか」
 俺はいつもと同じように上着を脱いで、彼が座る隣のイスの背にかける。その俺の背中
に彼はいきなり抱きついてきた。
 「おい」
 「自信がないんだ。俺はまだガキで、戸惑ったり、迷ったりばかりだ。なのに俺には」
 俺は咄嗟に彼の腕を掴み、そのまま彼の口を手で封じた。女だったら問答無用で唇を封
じたかもしれない。
 見開いた瞳で俺の見上げる彼に俺は笑いかける。
 「駄目だよ。それは言っちゃいけない」
 この時俺は何を知っていたわけではなかった。ただ、その先の言葉を聞いたら俺と彼と
の全てが終わると、ただそう本能で思った。
 「誰でもそうだ。俺だって自信があるわけじゃない。この歳になっても、戸惑ったり、
迷ったりばかりだ」
 俺はそっと彼の頭を抱く。
 俺には彼が何を背負っているのかは判らなかった。ただ、何かを背負い、その重圧に耐
えていることだけは判っていた。それが時として彼を眠れぬほどに追い詰めていること
も。
 「大丈夫だ。おまえならやれる」
 俺は彼の頭を抱き寄せたまま、耳元で囁く。
 「何でそんなことが判るんだ?」
 俺の肩口に顔を埋めている彼の声はくぐもり泣き声に聴こえた。
 「匂いだよ。俺と同じ匂いがする」
 俺は彼の頭に鼻先を埋める。俺と同じシャンプーの匂いだけではない俺と同種の人間の
匂いを感じる。
 「あぁ。ああ。そうかもな」
 肩先で彼は小さく笑った。
 俺はゆっくりと彼の身体を引き剥がす。彼の身体を抱き締めてやることは簡単だった。
彼もそれを望んでいるのかもしれない。だがそこからは何も生まれない。彼が背負ってい
るものを俺が肩代わりできる訳ではない。
 「さあ、そろそろおまえの世界に帰れ」
 「そうだな。たっぷり寝かせてもらったからな」
 そう言った彼の顔は、笑いながら泣いているように見えた。

 俺が彼が背負っていたものを知ったのは、あの日から一年後だった。
 全世界を襲う未曽有の危機に立ち向かった者達の中に彼はいた。そして、あの日彼を迎
えに来た男が、この今の平和と引き換えになったことも。
 あの日彼がそっとテーブルの上に置いていったこの部屋の合鍵を、俺は掌の上で転がし
ながら、二度と会うこともない彼を思う。
 彼は眠れているのだろうか。



-oshimai- 


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