Kissまで5分

by yu-jin


 迂闊だった。
 当然のことながら彼を巻き込むつもりはなく、ただこの街に生息しているのであろう若
者の一人として情報が欲しいと思っただけだった。いや、そんなことも後から付け足した
理由だったのかもしれない。あの日いつもよりも早いピッチでグラスを空ける彼の気を紛
らわそうとしたのかもしれない。
 「スカイハイって知ってるか?」
 「…映画か何かか?」
 椅子に片足を乗せてワインを自分のグラスに注いでいた手も止めず、彼は興味もないと
いう声で俺に問い返した。
 「いや。錠剤だ」
 「錠剤?」
 彼は自分のグラスに注いだ残りを俺のグラスの中に注ぐ。グラスの1/3にも満たないま
まワインボトルは空になった。
 「もう無いぜ」
 最後の一滴を俺のグラスの中に注ぎ、彼はボトルを振ってみせる。
 「入ってるだろ」
 俺は自分のグラスに注がれたワインを飲みながら、顎で彼が座る後ろにある冷蔵庫を示
す。彼は椅子の上に片足を乗せたままの格好で身体をひねって冷蔵庫から新しいワインを
取り出し、俺の目の前にオープナーと共に置いた。
 「それってドラッグか?」
 自分で開けるつもりは微塵もないらしいその様子に、俺は苦笑する。ワインの封を剥が
し、オープナーをコルクに差し込む。俺の動作を見ながら、彼は自分のグラスのワインを
飲んでいる。
 「ドラッグかどうかは判ってないんだが、この街の若者達の間で、ここ数カ月の間に急
激に流行り始めたらしい。一応おまえもこの街の若者なんだろうから、何か知ってるかと
思ってな」
 コルク栓を引き抜いて、俺は自分のグラスに残っているワインを飲み干す。新しいワイ
ンを注ごうとした俺のグラスの横に、彼のグラスが置かれた。
 「飲み過ぎだろ?」
 「今日は酔いたい」
 彼は時々こうして酔うことを目的に飲んでいる様子の時がある。だが、そういう時に
限って酔いはなかなか回らないのは、別に彼に限ったことではない。
 俺はそれ以上は何も追求せずに、彼のグラスに封を切ったばかりのワインを注いだ。
 「判らないって、どういうことだ?」
 おそらく彼にとって話題は何でもよかったのだろう。酔いたいほどに頭の中を占拠して
いるものを追い払えるものでありさえすれば、それが酒であっても俺の話であっても同じ
だったようだ。
 「ん?。実物が手に入らないからな」
 彼は邪魔そうに自分の髪をかき上げると、何かを考えるように頬杖をついて横を向い
た。何も存在していない空間を見つめる瞳が妙に鋭い。俺が彼からビリビリとした緊張感
を感じるのはこうした瞬間かもしれない。何気ない話をしていても、ふとしたことで彼は
全てを拒絶するように黙り込み、思い詰めた表情を浮かべる。
 俺はこの時、彼のその顔をいつものものだと思ってしまっていた。

 やつらの作戦に連続性はない。一つの任務が完了すれば少なくともその晩は酔いつぶれ
てしまったとしても、呼び出されることはない。
 作戦の連続性の無さにやつらの傲慢さを感じる。俺なら連鎖的に全世界で活動を起こ
し、一気に片をつける。その方が確実だと何故やつらが考えないのかが不思議だった。
いっそそうしてくれれば、何も考えられないほどに忙殺され、寸暇を惜しんで眠ることが
できそうだ。
 苛立ちと焦りと開放することができない緊張感とかが俺をがんじがらめにする。酔い潰
れることさえできないほどに。
 「スカイハイって知ってるか?」
 その晩彼が俺に提供してくれたネタは、そんな俺の気を紛らわすにはもってこいのもの
だった。
 実物が手に入らずに、ドラッグかどうかも判らないモノを調べているらしい彼の言葉
に、俺は興味を持っていた。いや、何でもよかったのかもしれない。簡単に答えが出ない
クイズでさえあれば、俺は俺の世界のことを忘れていられる。
 実際俺は、彼のその言葉を考え始めた途端にあれほど回らなかった酔いに襲われた。
 「おい。寝るならベッド行って寝ろよ」
 頬杖をついたままウトウトとし始めた俺に彼の声は心地よい。
 「ああ」
 俺はふらふらと立ち上がってそのままベッドに直行した。
 何だっけ…そうだ…スカイハイだ…
 明日調べてみよう。
 そう思ったのを最後に俺は一気に眠りに落ちていた。
 
 「もしもし」
 電話だと言われて取った受話器から聞こえて来た声に、俺は一瞬相手が誰だか判らな
かった。
 「俺」
 「あぁ、どうしたんだ?。電話なんて」
 まさか彼から職場に電話が入ることなどまったく想定していなかった俺は、そのことに
驚き、何事かと焦っていた。

 「会いたいんだけど」
 言われた意味が咄嗟に判らなかった。別に家で待っていればいいだけのことではないの
かと不思議に思う。この3日家に来なかったのは彼の方だ。
 「会いたいっておまえ…外でか?」
 瞬時に巡った思考がようやく彼の意図することに繋がる。まだ宵の口という時間にわざ
わざ電話をしてきて「会いたい」という理由は判らなかったが、少なくとも家以外の場所
で会いたいと言っているとしか思えない。
 「ああ。場所は…」
 彼が告げた場所は、繁華街のど真ん中にあるカフェだった。
 「何時に来れる?」
 「急ぐのか?」
 「出来れば」
 「判った」
 理由を尋ねてもどうせ答えはしないだろうと思った俺は、それ以上は聞かずに電話を切
る。捜査は進展していない。今日はもう上がろうと思っていたのだから、問題はなかった
が、番号を教えもしていない電話をかけてくる彼に、俺は気が急いていた。
 指定されたカフェの窓際の席で、彼は目の前のコーヒーに手をつけるでもなく、4日前
の晩と同じように頬杖をついて窓の外を見ていた。
 「どうした?」
 彼の前の席にコートを着たまま座る。彼は余程ぼんやりしていたのか、ビクリとした顔
を俺に向けた。
 「あ。ああ。悪い」
 その言い方が呼び出したことを謝っているのか、ぼんやりしていたことを謝っているの
か判らずに俺は思わず苦笑してしまっていた。
 「いいよ別に。もう帰ろうと思ってたからな」
 「うん」
 彼は気のない返事をして相変わらず窓の外に視線を向ける。俺は注文を取りに来たウェ
イトレスにコーヒーを頼み、彼の視線の先を追った。
 「何見てるんだ?」
 若者達が何組か集団で歩いているかと思えば、道端に座り込んでいたり、バイクを止め
て言い争っていたりと、そこから見える光景は、眠らない街の喧騒そのものだ。
 「彼らだ」
 唐突に彼は、顎で街路樹脇に立っている三人組を示した。
 「え?」
 「スカイハイを売ってる」
 「おい!」
 いきなり言われた言葉に俺は身を乗り出していた。

 彼の視線が街路樹の脇に立つ男達を捕らえるのを、俺は少し冷めたコーヒーを口に運び
ながら待っていた。
 「おい!」
 スカイハイの売人だと教えた俺に、彼は凭れていたシートから身体を乗り出し、俺が持
つコーヒーカップを奪った。
 「誰がそんなこと聞き込んで来いって言った」
 押さえた低い声は俺が聞いたことのない彼の声だった。
 「俺の仕事に踏み込むな」
 決して怒鳴っているわけではないその声には、怒りとは違うものを感じる。
 彼は両手をコートのポケットにねじ込んで深い吐息と共にシートにもたれ掛かった。
 「宿代払えないからさ…」
 俺は自分が咄嗟に口にした言葉に自分で驚いていた。
 そうだ。
 俺は確かに簡単に答えの出ないクイズにのめり込んでいたつもりだった。だが、得体の
知れない俺を疎むこともなく、いつまでもいつでも居場所を提供してくれている彼に、俺
は何かしたかったのかもしれない。
 俺の言葉に彼は天井を見上げてもう一度吐息をつくと、テーブルの下で俺の足を蹴っ
た。
 「バカ。サンキューな」
 「ちょっとは感謝してくれるのか?」
 「ああ。感謝してる。ただ、俺に巻き込まれるな。俺はおまえを巻き込む気はない」
 「判ってる」

 それはお互い様だ。
 俺も彼を巻き込む気はない。お互い交わらない世界にいるからこそ、俺は彼の元にいら
れる。
 「でも3日もディスコとクラブに通っちまってすっからかんだ。で、感謝してくれてる
ならついでに金くれ」
 「おい。おまえ今宿代だっていったんじゃないのか?」
 「違うよ。買ってきてやるよ。すっからかんだって言ったろ。物が何だか判らないん
じゃ手が出せないだろ。おっさん相手じゃ警戒される」
 「おっさんで悪かったな」
 彼は笑いながら俺が差し出した手に多すぎる札を乗せた。
 「多いよ。1錠500って言ってたぜ」
 返そうとする俺の手を彼がやんわりと掴む。
 「捜査経費だよ。取っておけよ」
 「いいよ。宿代だから」
 「宿代は情報とおまえの気持ちで充分だよ」
 そう言いながら微笑む彼の顔に、俺はふいに泣きたいような気分に襲われた。彼の暖か
い微笑みが、俺の全身を包み込むように広がっていく。
 「この先の角で待っててくれ」
 俺はその感情を誤魔化すように立ち上がっていた。

 捜査は難航していた。
 彼から入手した薬を分析した結果、俺が推察した通りメタンフェタミンが含まれてい
た。ドラッグには間違いないが、含有量は微量だという。何か別の特殊な成分が含まれて
いそうだが、その分析には時間がかかりそうだ。とりあえず卸元を手繰るために、彼に教
えられた売人をとっ捕まえてはみたが、所詮はトカゲの尻尾だった。どうやらかなり大き
な組織が動いているらしいことまでは判っても、依然真相どころか全貌さえもが闇の中
だ。俺は毎日ヘトヘトになって家に帰り、彼が眠り込んでいる横で倒れるように眠った。
 その日も俺は新しく見つけた売人を尾行していた。取っかかりが掴めれば手繰ることは
簡単だったが、手繰っても手繰っても、途中で切れてしまう。こうしている間にも、この
新しいドラッグが蔓延していっていることを思うと苛立たずにはいられない。そんな思い
を抱えながら歩いていた俺は、いきなり腕を掴まれた。驚いて振り返った俺の目の前に彼
が立っていた。
 顎と視線で俺を促す。
 振りほどこうとする俺の腕を彼は両手で掴み、俺を導く。
 まるで引っ張られるように路地に入ると俺は改めて彼の手を振りほどいた。
 「おい。どういうつもりだ」
 「こっちだ」
 「おい!」
 今度は俺が彼の腕を掴む番だった。
 「売人をいくら追っても無駄だ。どうせ彼らは何も知らない」
 「俺の仕事に踏み込むなと言ったはずだ」
 「乗りかった船だ」
 「そういう問題じゃない」
 「いいから。こっちだ」
 彼はいつかのように俺の腕からスルリと身をかわすと、細い路地を先に立って歩いてい
く。いくつかの裏路地を抜けると、中心街から外れた場所にひっそりと建つバーの向かい
に出た。
 「あの店に出入りしてるヤツの一人がどうも最近様子がおかしいらしい。今夜あたり6
人目の死体になりそうだ」
 「おまえ」
 俺は彼の腕を思わず掴んでいた。
 「痛いよ。そんなに強く掴まないでくれ。それより、出て来たぜ。やつだ。やつを付け
れば本当の黒幕に近付けるかもしれないぜ」
 俺には彼が言っている意味の半分も理解できていなかった。ただ判ったことは、彼が俺
の追っている事件にさえなっていないヤマを正確に把握しているということだけだった。

 間に合わなかった。
 何の前兆もなく男はいきなり空に飛んだ。
 真っ直ぐに真横に両手を伸ばし、その男は自分が空を飛べるかのようにビルの屋上から
身を踊らせた。
 瞬間いつもの癖で顔を背けようとした俺の頭を彼の手がしっかりと押さえ、俺の両目が
大きな手で覆われた。
 「見るな」
 俺の視界からその状況を隠すように立ちはだかり、胸元に俺の顔を押しつけるようにし
て、彼は俺を庇う。
 それは俺にとって不思議な感覚だった。
 そんなことをされたことは一度もない。いつだったか墜落死の現場を目の当たりにして
以来、俺は咄嗟に顔を背ける癖がついた。そうして俺は自分で自分を守っていた。誰かに
守られることなどなかった。
 「大丈夫だ」
 彼が連絡を終えるのを待って、俺は彼の手を振りほどこうとした。だが、彼は「いいか
ら見るな」と言って俺の頭を離さない。
 「子供扱いするな」
 自分がまるで拗ねた子供のようだと思う。
 「違うよ。子供か大人かなんて関係ない。見なくて済むなら、見ない方がいいものもあ
る。だから見るな」
 彼の言葉は、俺の中にしみこんでいく。
 ああ。そうだ。
 彼はあるがままに全てを受け止めている。だから俺は彼の元で安心して眠っていられ
る。その包み込まれる安堵感を自分が求めていることに俺はようやく気付く。
 もう暫く、もう暫くだけこうしていたい。それは俺の我が儘なのだろうか。

 飛び下り現場から立ち去った黒いワゴンを追跡した結果と、ようやく出た薬の分析結果
から意外な事実が判明した。そしてその事実が判った時点で、捜査は打ち切りになった。
いや、今回は異例の事態として国際科学技術庁に持っていかれた。

 スカイハイの卸元がれっきとした製薬会社であったこと、その成分に右脳に対して強い
刺激を与えるものが含まれていたこと、それをある程度以上常用すると右耳からの情報に
従って、いかなる状態でさえも快楽として受け取ってしまう作用を持つことまでは判っ
た。そしてどうやらこの街で起きた6人の飛び下り自殺は、その効果の実験だったらし
い。
 まともな製薬会社が何故そんなものを製造し、実験を行っていたのかは、結局俺にとっ
ては謎のままだった。
 捜査報告資料の山を作り続け、ホシを追っている時とは違う疲労感を抱えて家に帰った
俺を、何日かぶりで彼が待っていた。いや、正しくは待ちくたびれたのか、いつも通り人
のベッドの中でブランケットを抱え込んで丸まって眠り込んでいた。
 あの日以来お互いすれ違いで姿を見なかった彼は、少し疲れた表情で眠っている。ここ
何日かは来ている気配もなかった。もうここへは来ないつもりなのかと思っていた俺は、
彼のその寝顔に少しホッとする。
 俺は上着を脱ぎながら彼のその寝顔を確認して、ネクタイを緩めながらキッチンに向か
う。
 テーブルの上に「先に寝る」とだけ書かれたメモが使ったワイングラスの底に挟まって
置かれていた。俺はそのメモを見ながら顔がほころぶのを感じていた。
 彼はまだここにいる。
 俺は冷蔵庫からワインを取り出すと自分のグラスに注ぎ、テーブル上にある彼のグラス
の淵に合わせた。
 チンと軽い音がする。
 俺にはそれが聞いたことのない彼の笑い声に聞こえた。



-Oshimai-


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