Miso-soup Rhapsody

by yu-jin



 この屋敷の中にある聖地。
 それは、リビングの奥の扉のその更に奥にある。博士の書斎からも入れるようになって
いるものの、やはり厳めしい扉に阻まれて容易には入り込めない。
 忙しくしている博士が、この屋敷に戻ってくると、その奥まった部屋へいそいそと出向
いていることは、この屋敷に暮らす者なら誰でも知っていることだった。
 入るための手続きのやたらと面倒なその部屋に、好んで近づく者は少ない。
 
 「失礼します」
 「うむ。入りたまえ」
 扉の前で声をかけ、それからドアを開ける。
 行為自体は普通のドアと何ら変わることはないのだが−実際博士にもそう教えられた−
この紙でできたドアは、押しても引いても開かず、扉の端にある丸い窪みに手を添えて横
に動かさなければ開かない。
 扉の前に座って声をかけ、扉を開けてから立ち上がり、中に入ってまた座る。それもわ
ざわざ靴を脱いで入らなければならない。
 面倒以外何物でもない。
 「お呼びですか」
 背の低いテーブルの前に座っている博士はこの部屋にいる時のユニフォームであるとこ
ろの、布の端をあちこち縫っただけの服を紐で縛って着ている。『キモノ』と言うのだそ
うだが、物を見ただけではそれが服だとは判らない。そればかりか、着た状態とあまりに
かけ離れ、いったいそれが何なのかさえ判らないものだ。
 「今夜の出来はまずまずだったぞ」
 博士は両手をその布の端に交互に差し入れたまま、満足そうに頷く。
 「そりゃぁな」
 苦心したんだ。
 そう言った途端に、博士は一つ咳払いをして俺の言葉を遮る。
 「あ。苦心しましたんで」
 俺は言葉使いを改めて、先を続けた。
 普段はあまり言葉使いにうるさく言わない博士が、どういうわけかこの部屋にいる時だ
けは、こだわる。
 「ほう」
 博士は満足げに目を細めて俺を見ている。
 「白の配合の度合いと、ベースを変えてみたんです」
 「なるほど、それで微妙に引き立っているというわけだな。で、白はどれを?」
 途中まで得意気に聞いていた俺は、博士の問いに一瞬詰まる。
 「3番です」
 俺の応えは、予想通り博士の眉間に皺を刻んだ。
 「ジョー。いつも言っているが、名前を覚えられないようだと容器が変わった時に対応
できんぞ」
 「ええ。まぁ」
 それはそうなのだが、あの長ったらしい舌を噛みそうな名前は何度聞いても頭の中に
入ってこない。
 メイゲツだのタクミだのと単語だけならまだしも、アシヤクラゾウチョウジュクに至っ
ては何のことやらさっぱり判らない。
 「まあ。いずれにしても、なかなか腕を上げたな」
 俺が唯一博士に誉められるこの瞬間を、俺はいつの頃からか心待ちにするようになって
いた。
 『いま一つだな』
 そう言われる度に落胆し、今度こそはと己を奮起させ、何とか博士を唸らせてみたいと
躍起になったのは、事このことに関してだけは、博士も匙を投げるほどに、奴が壊滅的
だったからかもしれない。
 『俺にはどれも同じにしか思えません』
 奴がそう毅然と言い放つに至り、博士はことのほか落胆し、俺は初めて奴に対して優越
感を抱いた。
 この微妙な違いが判らないと言い切る奴を最初俺は信じらず、俺に華を持たせるために
言っているのかと疑ったこともある。だが、奴は本気で言っているらしい。俺が配合を繰
り返す横で、奴は俺の行為を呆れて見ている。
 曰く、
 信じられない。
 わけがわからない。
 何が違うんだ。
 今日も俺の試作品に、露骨に眉を潜めていた。
 「ジョー。君が私を越える日も近いな」
 博士はひどく満足げに、俺を見る。
 俺もいやな気分はしない。
 いや、正直照れる。
 「ありがとうございます」
 俺はやっとその言葉を押し出して、その部屋を辞した。
 この高揚感があればこそ、この面倒な部屋に来ることさえ、楽しみというものだ。
 
 ダイニングに戻った俺に、片肘を付いたまま俺の試作品をこともあろうにスプーンでか
き回していた奴が顔を上げる。
 「ジョー。やっぱりしょっぱいばっかりだぜ。どこに甘味なんてあるんだ?」
 おまえに味見させた俺がバカだったということだ。
 まあ、こいつに判らなくても博士が判ってくれさえすれば、これはよしとするか。
 今度は少し赤ミソも加えてみるか。
 俺は奴の言葉を聞き流して、次の配合へ夢を膨らませた。


 -cyan-cyan-


 


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