憎しみの果て

by yu-jin


 婚約者だったエレーヌが私を裏切っていたことを知った時、すでに彼女の腹にはケンが
宿っていた。健太郎と結婚すると告げた彼女を、私は冷やかな瞳で見下ろしていたような
気がする。私は彼女と、親友の裏切りを許せなかった。おそらく彼女はそのことを感じて
いたのではないかと思う。鈍かったのは、10年来の親友の方だった。健太郎は私の暗い憎
悪の炎には気付いていなかった。国際科学技術庁の職員でありながら国連軍との統合調査
部に身を置く立場となった彼は、私の差し金とも気付かずに、妻と息子を私に託し、戸籍
を抹消するために太平洋に散った。

 彼女はすぐに気付いたようだった。健太郎の捜索が早々に打ち切られたことを知った彼
女は、まるで身を隠すように私の前から消えてしまった。私はどうせ実家にでも帰ったの
だろうと思っていた。探せばすぐに見つかるとも思っていた。だが、彼女は私の手が逃れ
ようとするかのように消息を絶ち、私はますます彼女に裏切られた気分に陥った。と同時
に何不自由なく生きてきた女がいったいどうやって生きているのか興味が沸いた。彼女を
探し出すのに5年かかった。

 私が彼女を見つけた時、彼女は国立の養護施設のような病院で、満足な治療を受けるこ
ともできずに、痩せ衰えた体を横にしていた。私の姿を見ても彼女は何も反応を示さな
かった。体と共に心まで壊れてしまっているようで、私のことも健太郎のことも、そして
息子のことさえもよく判らない状態になっていた。
 何があったのかは判らなかった。だが、半年前にその病院に収容された時にはもう彼女
はそういう状態だったと言う。そして何よりも私の興味を引いたのは、二人の息子である
ケンだった。ケンも施設に引き取られてはいたが、そんな母親の元に毎日訪れ、自分を見
ようともしない母親に一生懸命に語りかけているという。

「かわいそうな子ですよ」
 彼女の担当医は、ケンをそう評した。
「どういう生活をしていたのかは判りませんが、あの子はあの母親に殺されかけたんで
 すよ」
 私は驚いてその医者の顔を見る。
「刺されて首を絞められたようです。母親が発作を起こしさえしなければ間違いなく殺さ
 れていました。ここに母親と一緒に運ばれて来た時は出血が酷くて一時は危なかったん
 ですが、意識が回復した時にはそのことを覚えていませんでした。まぁその方があの子
 にはいいんでしょうねぇ」
「刺されたというと?」
「胸です。心臓の真横でした。後数センチずれていたら心臓に突き刺さっていました」
「まだ記憶は戻らないんですか?」
「ええ。どこかで聞いた話とすり替えが起きているようで、家に強盗が入って自分は殺さ
 れそうになり、母親もそのせいで入院していると思い込んでいるようです。一種の防衛
 本能なんでしょう。そう思っている方が幸せなのかもしれませんね」
 医者の言葉を聞きながら、私はぞくぞくするほど暗い快感を覚えていた。私を裏切った
女が、私を裏切った親友との子供を殺そうとした。それは私が考えていた以上の贖罪だっ
た。

 私はそれからすぐに、彼女と彼女の息子を引き取った。彼女は私の実家の系列の病院に
入院させた。もともと丈夫ではなかった彼女の体は、過労による全身衰弱状態で、心臓に
重い障害を抱えてしまっていた。精神状態も悪く、ほとんど現実を認識できなくなってい
た。私は彼女の両親に彼女を見つけだしたことを連絡した。

「何という恥曝しな真似を」
 彼女の父親は、彼女の姿に怒りに近い言葉を呟いた。彼女の両親からしてみれば、私と
の縁談を蹴って、どこの馬の骨とも判らない男と結婚した娘は、恥曝し以外の何者でもな
かったようだ。そのあげくに体も心も病んで何もできなくなった娘の姿は、恥の上塗りと
いう言葉以外何も思い浮かばなかったらしい。彼女のベッドの横に座っていたケンに向け
られる彼らの瞳には、憎しみ以外の感情は何も読み取れなかった。特に母親の瞳は、まる
でケンが娘を奪った憎い男であるような敵意を剥き出しにしている。
  そう思った瞬間のことだった。母親はツカツカと歩みよると、いきなりケンの頬を叩い
た。かなり強く叩かれたらしく、ケンの体はよろめいて後ろのワゴンにぶつかる。
「おまえさえいなければ…。おまえさえいなければ、こんなことにはならなかった」
「止めなさい。人さまの前で」
 ケンに掴みかかろうとする母親の手を父親が取り押さえたが、その言葉からはケンを庇
う気持ちはくみ取れなかった。驚いたように瞳を見開いて叩かれた頬を抑えているケンの
肩に私はそっと手を乗せる。私を仰ぎ見たケンは、今にも零れそうな涙を浮かべていた。
私の中に、この家族にケンを引き取らせてみたい欲求が沸き上がる。この家族はケンをど
うするのだろうか。どこかに閉じ込めてしまうか、あるいは日常的に暴力に晒すか、いず
れにしても『虐待』することだけは間違いなさそうだと確信する。それはエレーヌと健太
郎の息子であるケンを目茶苦茶にしてやりたいという、私の暗い欲望を満たすには十分
だった。
「健太郎は私の親友でもありましたから、私が引き取ってもいいのですが、差し出がまし
 いかとも思ってご連絡しました」
 私は沈痛な表情を崩さないようにしながらそう言葉を押し出す。
 さぁ。どうする?。
 私は心の中でそう呟きながら、気取られぬようにして彼らの表情を盗み見た。
 母親はまだ憎々しげな色を浮かべた瞳でケンを睨み付けている。父親は一瞬困惑を浮か
べたが、すぐに表情は消えた。
「しばらく時間を頂きたい。息子とも相談して返答させていただく」
 その口調は高飛車で、彼が今の時代には何の効力もないかつての「貴族」という階級と
栄光にしがみつきたがっているくだらない人種である証のようだった。
「判りました。ただ、もし施設にお預けになるという結論でしたら、私の方で引き取らせ
 ていただきますので」
 私はさりげなく彼の自尊心をくすぐる。これで彼の中から『ケンを施設に預ける』とい
う選択肢は消えたはずだ。自分の家に引き取るか、頭を下げて私に預けるか、いずれかし
かない。どちらを選択したとしても、彼にとっては苦渋の選択だろう。まして彼が言った
『息子』は、エレーヌの兄であり、現在の彼女の実家の当主だ。私は彼女の兄が嫌いだっ
た。昔から何かにつけては家の格式にこだわり、そのこと以外では自分というものを何も
持っていないような男だった。あの男が、いわば成り上がりの私に頭を下げるはずもな
い。いやもしそうするのであれば、それはそれで楽しみだった。いずれにしろ、当分楽し
めそうだと私は内心ほくそ笑む。

 挨拶もそこそこに帰っていく彼らの後ろ姿をみながら私はそう思っていた。
「僕…。お母さんと一緒にはいられないの?」
 じっと涙を堪えていたケンが、ドアが閉まると同時にか細い声で尋ねる。溢れそうに
なっている涙を腕を押し当てて拭うと、大きな瞳を私に向ける。叩かれて赤くなっている
頬が痛々しかった。
「大丈夫だ。私が何とかする」
 そう言って頭に手を乗せると、彼はまた左手で涙を拭って、小さく頷いた。
 ケンは健太郎の息子とは思えないほど愛らしい顔だちをした子供だった。色白の肌に、
大きなライトブルーの瞳、長い睫毛、ほんのりと赤い唇、それに母親の趣味なのか、ある
いは構って貰えなかったためなのかは判らないが、肩に届くほど真っ直ぐに伸ばした髪と
相まって、女の子と見間違うほどだ。栄養状態がよくなかったせいか、あまり血色はよく
ないこともあって、その肌は透き通るほど白い。最初半年前の怪我で貧血状態が続いてい
るのかと思ったが、その所見はなかった。
 どちらかと言うまでもなく、エレーヌの顔だちに似ていた。おそらく彼女の両親は金髪
ではない髪に自分達とは違う異国の血を感じ、嫌悪感を持っているのであろうが、私から
見れば髪の色以外はエレーヌの血しか感じられない。おそらくその容姿でさえもが、ケン
にとっては生まれの不幸なのかもしれない。もし彼が健太郎に似た風貌の金髪だったら、
彼女の両親はそれほど極端に嫌悪を表さなかったかもしれない。そして私もケンの中にエ
レーヌを見ることはなかったのかもしれない。

 私の『帰ろう』という言葉におとなしく従って、コートを着ているケンの姿を見ながら
私はどうしようもなく沸き上がってくるどす黒い欲求を感じていた。
 白いダッフルコートがよく似合っている。小さく首を傾げて私を見上げるしぐさは、ま
るで無垢な天使のように見える。私の脳裏にその体が真っ赤な血で染まる光景が浮かぶ。
ズタズタにしてしまいたい。地獄にたたき落としてやりたい。それでもこの子は、こんな
顔をしていられるのだろうか。
『おまえは母親に殺されかけたんだ』
 そう教えたら、この子はどんな顔をするだろう。それを考えただけでゾクゾクする。
 その欲求に負けて口走りそうになり、私は思わず喉を鳴らしてその言葉を飲み込む。私
の中には、この時から地獄の底で血まみれになってのたうち回るケンの姿が焼きついて離
れなくなった。

 何年かの後、ケンが本当に白い翼をつけ、その身を地獄の炎に焼かれながら、血の海を
這い回ることになった時、長年の夢が実現したことに私がどれほど満足していたかなど誰
も知ることはなかった。

oshimai

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