Spiral

by yu-jin




(1)

 天井まで届く大きな窓からは、暖かい日差しが差し込み、木枯らしが吹く季節とは思え
ぬほどに、家の中はポカポカと暖かい。エレーヌはお気に入りのソファーに座って、ゆっ
たりと編み物をしていた。その彼女の向かい側で、ケンは絨毯の上に座り込んで本を読ん
でいる。
 私が二人をこの家へ連れてきて、半年になる。
 ケンは昨日私が買ってやった本に夢中になっていた。
 「ケン」
 本にすっかり熱中しているらしいケンは、母親の呼びかけに気がつかぬようだった。
 自分の呼びかけに応えない息子に、彼女は編み物の手を止めて顔をあげる。
 ケンは絨毯の上に座り込み、低いテーブルの上に両手をついて、興奮に目を輝かせ一心
に文字を追っていた。見ている者が思わず微笑んでしまいそうな、愛らしい姿に、彼女も
また母親としての穏やかな笑みを浮かべ、編み物に視線を戻した。
 私はその穏やかな光景に満足し、そのままダイニングに向かった。用意されている新聞
を手にとり、差し出されたコーヒーに口をつける。今日は夕方の会合までは何の予定も
入っていない。私は久しぶりにとれたゆっくりとした時間をどう使おうかと考えていた。
 さっきの様子ではエレーヌも落ち着いているようだと、そう思った矢先だった。
 「奥さま!。誰か。誰か来てぇ!」
 悲鳴のような助けを求める声に、私は手に持っていたコーヒーカップを叩きつけるよう
にして置き、立ち上がっていた。その声がエレーヌのために雇い入れた看護婦のケイトの
ものであることが、私をより一層せき立てていた。
 広い屋敷を恨めしく思いながら、私はリビングへと向かう。
 飛びこんだその部屋では、さっきまでの穏やかな光景はどこにもなかった。
 息子に掴みかかり手を振り上げる鬼女の姿に私は一瞬茫然とする。彼女の足元にはほど
かれた毛糸がとぐろを巻くように散らばっている。その彼女を取り押さえようと、背後か
ら抱きついたケイトが振り払われてしまう。
 「あぁ。その目。その反抗的な目。何が言いたいっていうの!。どうせ私のことなど無
視していればいいと思ってるんでしょう。どうでもいいと思ってるんでしょう。だから呼
んでいるのに応えもしないに決まってるわ」
 彼女はヒステリックに叫びながら、なおも息子の頬を打つ。
 「エレーヌ。止めるんだ」
 私の声にビクリと彼女の体が震える。その隙に、背後からケイトがエレーヌの手を抑え
た。服を掴まれていた手が離れ、ケンの身体はそのまま絨毯の上に崩れる。
 「エレーヌ。落ち着くんだ」
 私は彼女の正面に回り、顔を覗き込むようにして両肩を押さえ込む。
 「あっ」
 目の前の私の姿に、エレーヌは息を飲み、抵抗を止めた。
 「あぁ。ケンがいけないのよ。あの人みたいに私を無視するから。ケンが…」
 混乱が残るエレーヌからは息子をなじる言葉しか出てこない。彼女は私の胸に顔を埋め
泣き崩れた。私は縋り付く彼女に胸を貸したまま、絨毯の上に倒れているケンを振り返っ
た。よほど強く叩かれたのか、脳震盪を起こしたように、青白い顔に頬だけ赤く染めて
ぐったりとしている。
 「君は疲れているんだ。少し休みなさい」
 そう言いながら、彼女を出来るだけ刺激しないようにそっと引き離し、後に立っている
ケイトに軽く頷く。彼女は私のその合図を読み取って、エレーヌをそっと促した。
 「さあぁ。奥様。お部屋で少し休みましょう」
 「あぁ。そうね。頭が痛いわ」
 ケイトに支えられるようにして部屋を出て行くエレーヌの目には、倒れている息子の姿
は入っていなかった。
 私は部屋を後にするエレーヌの後姿を見ながらふと吐息をつく。
 彼女は彼女で哀れではある。
 あの聡明だった女性が、夫の行方不明という事実に耐えられずに、これほどまでに心を
病んでしまうなど、あの当時の自分には想像もできなかった。ましてや息子に手を上げる
など。
 私は倒れているケンをそっと抱き起こす。
 「ケン。ケン」
 私の呼びかけに、ケンはうっすらと目を開けた。
 「ケン…」
 「…ごめん…な…さ…い。マ…マ」
 ケンの口から謝罪の言葉が漏れる。
 彼女が混乱して手を上げるたびに、何故叩かれるのかも判らないままにいつもケンは
謝っていた。それが、彼女を鎮める魔法の呪文であるかのように。
 「ケン。ケンは何も悪いことはしていないよ。さぁ部屋へ行って少し休もう」
 抱き上げようとした私は、ケンが前かがみになって胸を押えていることに気付いた。
 「ケン。苦しいのか?」
 「…だい…じょ…ぶ」
 ケンの息が上がっている。
 「ゆっくり息をしてごらん。ゆっくり。そう。大丈夫だ。落ち着いて。そう」
 ケンの胸をゆっくり摩ってやる。ケンは私のその声に合わせるように、少しずつ息を整
えようと努力している。
 私が、ケンに先天性の心臓疾患があることを知ったのはつい最近のことだ。ここへ引き
取る前は無論のこと、引き取ってからも始めはそのことに気づかなかった。皮肉なことに
混乱した母親がケンを階段から突き落とすという事態が起きて、私は初めてそのことを
知った。幸いにしてその時の怪我は大したことはなかったが、代わりに知らされた病状は
かなり深刻なものだった。
 母親を心配させたくない一心で具合の悪いことを隠し続けていたことが発見を遅らせ、
悪化に拍車をかけていた。
 そして、その母親は今なお息子の病状をそれとは知らずに悪化させている。
 ケンの呼吸が多少落ち着いたのを見てそっと抱き上げる。ケンは不安そうな視線を私に
向ける。
 「大丈夫だ。すぐに楽にしてあげるよ」
 ケンの手がおずおずと私の腕を掴む。その仕種に私の胸が痛んだ。
 もっと早く気づいてやれば。
 もっと早く探し出していれば。
 後悔の念が日毎に強くなる。
 まるで私から逃げるように身を隠したエレーヌを私は探さなかった。私はエレーヌのそ
の行動を、私とは関わりたくないのだと受け取っていた。所在が判らなくても、彼女が一
生食べることには困らないだけの金は渡してある。私はそれで彼との約束を果たしたつも
りでいた。
 突然警察から電話がかかってくるその日まで、まさか彼女が息子を手にかけるほどに心
を病んでいるとは思ってもみなかった。
 身柄を拘束され途方に暮れた彼女が身元引き取り人として私を指名したのだという。私
はその時始めて彼女の行方を知った。
 ケンを部屋に運び、ベッドに横にしてやるとやっと安心したように彼は小さく吐息をつ
いた。
 「…もう…。だい…じょ…ぶ…です」
 言葉が繋がらない。だいぶ落ち着いているとはいえ、一時的な動悸が治まっているだけ
で、まだ呼吸は乱れていた。
 「何も心配はいらないよ」
 怖がらせないように言葉に気をつけながら私はケンの身体を診る。あまりいい状態でな
いことはすぐに判った。
 「すぐに楽になるからね」
 そう言いながらケンの服の袖を捲くり上げ上腕を圧迫する。じっと自分の腕を見ていた
ケンは、針が刺さる直前、顔を背けて唇を噛みしめる。
 まだほんの子供なのだと、その様子に思い知らされる。
 その子供が、突然いなくなった父親の替わりをしようとするかのように、母親を庇い続
けている。
 警察からの知らせに私が出向いた時も、ケンは頑として自分で間違って首を絞めたと言
い張っていた。いくら目撃者がいると言っても聞き入れず、絶対に違うと頑張っていた。
 それは、階段から落ちた時も同じだった。
 自分で誤って落ちた。お母さんはただ驚いて見ていただけだと。
 「ケン。君の体はすごく弱ってるんだ。ゆっくり休まないといけないし、手術が必要な
んだよ」
 私が彼の病状を知るところとなっても、ケンは頑に手術を拒否している。
 「ダメ…。ママが…しんぱい…するから」
 「君の具合が悪いと、お母さんはもっと心配するんだよ」
 私は極力刺激しないよう気を配っていたつもりだった。だが、ケンはその言葉にひどく
傷ついたように、うなだれてしまう。
 「具合悪くならないようにします。だから…おじさま…。ここに…いさせてください」
 「ケン。それは無理なんだ。このままにしておくと、君がどんなに頑張っても、頑張れ
ば頑張るほど、どんどん悪くなってしまうんだよ。だからお母さんのためにも、早く手術
を受けて元気な体になろう」
 「僕が…僕が…悪い子だから…ちゃんとママを守れないんだ…」
 必死に堪えていた涙が大きな瞳から溢れて落ちる。
 「君はいい子だよ」
 そっとその涙を拭いながら、私は困惑していた。
 ケンは『母親が心配する』という言葉に異常に反応する。
 母親を心配させる自分はいけないことをしていると、強迫観念にも近い思い込みをして
いる。何故そう思うのだとさりげなく訊ねた私に、ケンはお父さんと約束したのだと応え
た。


(2)

 『お父さんの代わりに僕がお母さんを守らなくちゃいけないって』
 ケンが本当に彼の言葉を覚えているのかは私には判らない。母親がそう吹き込んだのか
も定かではない。だが、その思い込みは容易には解けなかった。
 「君はいい子だ。私が保証する。だからお母さんのためにも早く良くなろう」
 「早く…良く…なるには…ぼく…どうしたら…いいの?」
 ケンの声が涙声になっている。
 「それは後で考えよう。今はともかく少しお休み。疲れただろう」
 私はそっとケンの目を手で覆う。
 「…はい」
 ケンが大人しく私の言葉に従ったことは、掌に伝わる感覚で判った。
 自覚症状は学校へ行くようになった頃からあったのだと言う。一番最初は、母親に叩か
れた時だったらしい。だからこそ苦しいとは言えなくなってしまったようだ。母親のこと
を恐れて胸が苦しくなるなど、彼にとっては認められなかったかもしれない。その内に走
ると苦しくなるようになり、回りの子供達とは遊べなくなった。自然と母親の側にいつも
いるようになり、それが却って緊張状態を持続させる結果になったらしい。
 その話を訊いた時、私は、俯いたまま、まるでひどく悪いことをしたように話をするケ
ンの体を抱きしめていた。
 何年もの間、頼る者もなく、不安定な母親と暮らしていたことは、ケンの体ばかりでは
なく心まで蝕んでいる。
 『母親から無理矢理引き離すと、今度はあの子の心の方が参っちまう。あの子が納得し
ないまま手術をしても更に悪化する可能性もある』
 それが、私の学友でもある神崎の診断だった。それが正しいものだということは私にも
判っていた。だが、ケンの体はもうあまり猶予がない。何とか薬で抑えようとしたが、そ
れも今のままではもう難しい。このまま悪化させてしまえば、手術もできない状態になっ
てしまう。私は身を焦がされるような焦燥感を覚えていた。
 その日ケンは熱を出した。
 母親に叩かれた頬は腫れ上がり口を開くこともできない。自分がしたことを忘れてし
まっている彼女は、ケンの容体を心配しておろおろしていた。
 「熱は高いの?。頬が腫れてしまっているのでしょう?。おたふく風邪かしら」
 ケンの看病をすると言う母親を、何とかケンの側に近づけないようにと、ケイトに宥め
させる。
 「ママが…しん…ぱい…するから…いか…なく…ちゃ」
 廊下から聞こえてくる母親の声に、熱に潤んだ瞳を向け、ケンは起き上がろうとする。
 「駄目だ。君は熱が高いんだ」
 私はそっとケンの体を抑えてベッドに横にする。簡単にベッド押さえつけられてしまっ
たケンは、哀しそうな表情を浮かべた。
 「ママ…に…ぼく…だい…じょ…ぶ…だか…ら…って」
 「判っているよ。ちゃんとお母さんには伝えるから。だから安心してお休み」
 額に当てたタオルを取り替えるとケンは小さく吐息をついて目を閉じた。
 熱が弱っているケンの体からまた体力を奪い取る。
 「まずいな」
 呼びつけた神崎はそう呟いた。
 「うむ」
 私とて今の状態がよくないことは充分判っている。
 「入院させよう。熱が下がったらそのまま手術だ」
 「エレーヌの方はどうするんだ?」
 「一緒に入院させる。その方が安全だ。母親の方が先に入院すれば納得するだろ。治療
のために面会できないと言えば諦める」
 「なるほどな」
 「しばらくは母親に会わせない方がいい。彼女の方も気がかりだが、この際致し方ない
だろ」
 咄嗟の機転だったが、神崎の発案はうまく行った。こんなことならばもっと早くそうす
ればよかったと思うほどだった。
 エレーヌの方も予想していたよりも落ち着いている。ただ、妄想は息子が側にいる時以
上に脈絡がなくなっていた。
 看護婦を夫の女と思い込み、私が死ねばいいと思っているのだと口走る。ケンの姿が見
えないことに、夫が自分を見捨てて連れて行ってしまったのだ言い張っていた。
 混乱の捌け口が無くなった分だけ、一貫性がなくなっている。いや、一貫性はあるのか
もしれない。
 混乱した彼女の口にする言葉は、自分を捨てた夫に対する憎しみのようだった。
 私は、その確固たる思い込みの深さに茫然とした。普段、彼女がケンに対して、父親が
どんなにすばらしく、やさしい人間だったのかを繰り返し語っているのを見慣れていた私
には、想像もできないものだった。
 それは、女と母親の間を振り子のように揺れるいるかのようだった。
 そんな母親であっても、ケンにとっては守らなければならない唯一絶対の存在だった。
術後の回復も順調で、ホッと胸をなで下ろした頃、ケンは母親に会いたいといい始めた。
 せっかくここまで回復している時に、母親の具合が悪いのではないかと余計な心配を与
えるよりはと考え、一日一回だけケンに母親の病室へ行くことを許可した。当然勝手に行
くことも、一人で会うこともさせなかった。
 始めの数回は穏やかな時間を過ごし、母親もケンも安心したようで、このまま全てがう
まくいくと、私はそう思っていた。


(3)

 その日私は学会で国外へ出ていた。
 数年前に偶然助けた少年を預けている学校へ寄り、久しぶりに彼との時間を過ごした。
それもケンの容体が安定しているからこそだった。しばらく見ないうちに彼は、ケンと同
じ歳だとは思えない精悍な顔立ちに成長していた。まるで自らが成長を急いでいるかのよ
うな彼と、あまりにも早く成長を急かされたようなケンはひどく対照的だった。
 学校のこと、日常生活のこと、あまり多くは語らない彼は、それでも早い声変わりの始
まった声で、近況を私に伝える。
 私はその時、私が彼との時間を楽しんでいる間にまさかの事態が起きていようとは思っ
てもみなかった。
 「いったい…いったいどういうことだ」
 私がケンの急変の知らせに、神崎の元へ辿り着いたのは、夜遅い時間だった。
 「早かったな。ヨーロッパじゃなかったのか?」
 神崎はひどく疲れた顔を私に向けた。
 彼の言葉は、ケンのことを人任せにして、ジョーとの時間を過ごしていた私を詰るもの
に聞こえる。
 「そんなことはどうでもいい。説明してくれたまえ」
 私は取り乱していたのかもしれない。
 「ほんの一瞬目を離した隙に、母親があの子の胸に花瓶を投げつけた。何が何だか俺に
も判らなかった」
 私は茫然としていた。立っていることができずに側の椅子にドサリと座り込む。
 「あぁ。何ということを」
 「ショックと衝撃で心停止だ。何とか蘇生させたが…」
 神崎はそれだけ言うと、部屋の照明を落して検査結果を壁に映す。
 私は映し出されたその映像に息もできないほどの衝撃を覚えた。
 「…見ての通り状態が悪すぎる。再手術も出来ない」
 「何とかならんのか!」
 私は思わずそう口走っり、そんなことが言える立場ではないと思い直し謝る。
 「いや。詫びるのは俺の方だ。母親の容体は聞いていたんだが、担当医もあそこまでの
凶行をするような状態ではなかったと言っていた」
 「だったら何で…」
 「あの子の胸の包帯に気が付いたらしい。それで自分が誰からも相手にされないと思い
込んだらしい。その捌け口を全てケンに向けてしまった…」
 神崎の説明に私は頭を抱える。確かに母親の担当医からも、混乱はあるが凶暴性はない
と報告を受けていた。
 まさかそんなことを、と思う気持ちは私も同じだ。
 「それで…ケンは…」
 「まだ意識が戻らない」
 「危ないのか?」
 「今は落ち着いている」
 「…そうか…」
 私は俯いたまま、やっとの思いで言葉を押し出していた。『今は落ち着いている』とい
う言葉には、『何時どうなってもおかしくない』という意味があることを感じる。
 「回復の見込みはあるのか?」
 「このままどうこうはさせない。ただ…」
 神崎は言葉を濁す。
 「治してやることはできない…ということだな。どんなに頑張ってもよくて現状維持、
いや、いずれ身体の成長に心機能が追いつけなくなる。じわじわと悪化していくのを見て
いることしか出来ないということか」
 自分に医学知識があることが疎ましい。知らなければ微かであっても希望を見いだすこ
とができるのかもしれない。
 「移植を考えよう。手配はしておく」
 「…それしか方法がないということか。心臓のドナーなど見つかる保証もない。あの子
に残された時間は後どのくらいだ?」
 「南部。希望は捨てるな。おまえらしくない」
 神崎の言葉に私は何も応えられなかった。
 ケンの意識はその日の明け方に戻った。傍らに座る私の顔を、少し驚いたように見つめ
て、それから安心したようにまた眠りに落ちた。
 容体は一進一退であまり芳しくはなかったが、それでも外の気温が上がるに従って少し
ずつ落ち着き、すっかり暖かくなった頃にようやくベッドを下りれるようになった。
 「いいかい。無理は絶対に駄目だ。ゆっくり歩くこと。階段の上り下りは禁止。苦しく
なったらすぐに座って、ゆっくり息をするんだ。それから必ず側にいる人に助けを求める
んだ。いいね。ちょっとあったかいと思っても薄着は駄目だよ。風邪をひくといけないか
らね」
 神崎の注意事項をケンはまっすぐな瞳を向けながら聞いていた。
 「それから、薬はちゃんと飲むこと。いいね。これは先生とケンとの約束だ。約束、守
れるね」
 「はい」
 ケンは素直に頷く。
 本当ならば退院はまだ難しい状態だった。だが、自分のことはそっちのけで母親の心配
ばかりするケンを、これ以上母親から引き離しておくことができなくなっていた。残され
た時間が少ないのであれば、好きにさせてやりたいという気持ちもあった。それに手術も
できない以上、どこにいてもできることは同じだった。
 目を離せない病人を二人抱えても、自宅で過ごさせてやりたいと言う私を無下にするわ
けにもいかず、神崎は退院を許可した。
 夏まではまだ普通に朝起きて夜寝る生活ができた。エレーヌの方もケンが側にいること
で落ち着いたのか、さほど混乱をみせることもなく落ち着いていた。
 だが、夏の暑さが弱っている身体に影を落し、秋口になって日中と夜との寒暖の差が激
しくなった頃からケンは軽い発作を頻発するようになった。
 そして秋が深まる前に大きな発作を起こして倒れた。更に二度発作が続き、12月に入っ
てから起こした発作は、もうケンを病院のベッドから起き上がらせることもできなくして
しまった。
 この冬を越すことは難しい。
 神崎は苦しそうにそう私に告げた。
 覚悟していたとはいえ、その言葉は私を打ちのめした。
 「…おじさま」
 「ん?。何かね」
 私は可能な限り時間を裂いてケンの病室を訪れていた。
 「…はやく…よくなって…クリスマスの準備…しないと…。ママ…まってるから…」
 「そうだな。もうじきクリスマスだな。何かプレゼントの希望があるかな?」
 最後のクリスマスになる。
 何を望まれても叶えてやりたいと思っている私を、ケンはしばらく考えるように、じっ
と見つめていた。プレゼントを考えているのだとばかり思っていた私は、ケンの言葉に
ハッとした。
 「…お…さんに…、お…とう…さんに…あいたい」
 目の奥が熱くなった。涙が溢れてしまいそうだった。私はぐっと奥歯を噛みしめてそれ
を耐えた。
 彼にケンの容体は伝えてはいない。伝えたところで彼の決心が固いことは判っている。
もし全てがこのまま終わったとしても、私は彼に詰られる覚悟をしていた。だが、『会い
たい』というケンの言葉を私は無視することができなかった。
 「判った。会いに来てくれるように私も神様にお願いしてみよう」
 そう答えた私に、ケンはうれしそうに微笑んだ。
 私はケンのその顔を見ながら、彼に伝える言葉を探していた。
 クリスマスまでの数日、ケンは指折り数えるように、楽しそうにその日のことを語って
いた。クリスマスツリーのオーナメントのこと、母親へのプレゼントのこと、私や神崎へ
もプレゼントを準備していたらしいこと、そして、もし会えたらと父親にも用意してある
らしい。
 息が上がって喋ることもままならない状態であっても、ケンは喋ることをやめない。熱
のせいで潤んだ瞳で、楽しそうにその日のことを語り続けていた。
 クリスマスイブの朝も、ケンの熱は下がらなかった。壊れた心臓は時々勝手に拍動して
ケンを苦しめている。
 「今日も…帰れない…のかな」
 何とか家に返してやりたいと思ったが、状態はかなり悪い。
 「夜までに熱が下がったら、一日だけ外泊させてもえうように私が先生に頼んであげよ
う」
 私の言葉に神崎はギョッとしたような顔を向けた。
 「ほんと?」
 「ああ。その替わり先生も一緒にご招待しよう」
 「うん」
 ケンの顔が明るくなる。それを望むのであれば、そうしてやりたい。それがわずか11歳
で生涯を閉じようとしている幼いいとし子への私の想いだった。
 「じゃぁ。ぼく…がんばる…」
 まるでそれが自分の最後の仕事だと思っているかのように、ケンの熱は夕方から落ち着
いた。
 「これじゃ、約束を守らないといけないなぁ」
 平熱とはいかないまでも微熱程度に治まった熱を計りながら、神崎は呆れたような顔を
向ける。
 「ホント?。お家に帰ってもいい?」
 神崎は私に『いいのか?』と目で訊ねていた。私の覚悟は決まっている。黙って頷いた
私に、彼も覚悟を決めたようだ。
 今夜家へ連れて帰ったら、ケンには明日の朝は訪れないかもしれない。だが、それは訪
れない明日がほんの少し早くなるだけのことだ。
 あまりに無力な自分を呪いこそすれ、あれほど楽しみにしていたものを、私は奪うこと
ができなかった。おそらくそれは神崎も同じだったように、無茶なことをしようとしてい
る私を止めはしなかった。
 「約束だからな。準備をしてくるよ」
  連れて帰る準備のために病室を出ようとした神崎が立ち止まる。いきなり開いた扉から
入ってきたエレーヌの姿に、目を奪われた。
  真っ白い服に身を包んだ彼女は、この世のものとは思えないほど美しく、神々しくさ
えある。
 「ママ」
 ケンのうれしそうな声が上がる。
 「迎えに来たのよ」
 彼女の声は心地よい音楽のように響いた。
 「その前にケンにプレゼントを渡そうと思って」
 まるで歌うようにそう言った彼女が、手にしているものを見た時、その部屋の中は一瞬
にして凍りついた。
 止める暇は無かった。
 真っ赤な血が彼女の服を染める。
 ケンの急変を伝えるアラームが鳴り響く。
 ケンがあれほど待ち望んでいたクリスマスは来なかった。
 
 あの日から幾度もクリスマスは巡って来た。
 成長していくケンの姿を見ながら、私は今でもあの晩の彼女のことを考えることがあ
る。
 あの晩、彼女は正気だったのだろうか。
 健康を取り戻したケンは、それが定めであるかのように、父親と同じ道を歩んでいる。
それは、果たして彼女が望んだことだったのだろうか。

 そして今、ケンの身体は全身の細胞破壊に侵されている。
 それでも。
 それでも心細胞だけが破壊されていないのは、母親の執念なのか、愛情なのか。
 私の耳に彼女の最後の言葉がよみがえる。
 “ケン。ママの心臓上げる”      



  -oshimai-


 


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